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「一図でわかる日本古代史」
はじめに
元 図 「一図でわかる日本古代史」 はじめに ( 2023.10) 本著は筆者第三著「千年の誤読」の第七章「一図でわかる日本古代史」を分離独立させて増強推敲したものです。
群盲像をなでるごとき茫漠たる日本古代史を、図による直感的理解と、リンクによる論理的理解を合わせることにより、一図でわかるように筆者が創意を重ねて提供するものです。
第一図の「元図」はその完成形ではありますが、細かすぎて最初は全体把握に適しません。第二図以降を先に確認することをお勧めします。
さっそく「一図」を示す。上端に「一世紀神話の時代」を、下端に「八世紀日本建国」までを配し、左に九州(黄色)、右に大和(緑色)を配して「古代史に登場する主要人物」を系図風に表わした。図中の小赤数字(01〜69)をクリックすると、「記紀+海外史書で検証済みの解説文」が「小窓風ウィンドウ」に表示される。はじめに左上端の「00」をクリックで開いて使い方をご理解いただきたい。
しかし、上述したように、70のボタンを全てお読み頂ければ全体の把握も検証も納得頂けると思うが「一図」とはいえ容易ではないので、次図〜八図までに流れを概説したので、それを先に眺めることをお勧めする。上記目次からどの図も開けるが、とりあえず第二図「三つの流れ」(概観図)はこちら(クリック)。
[ 一図の概要 ]
「一図の赤ボタンの解説70項は多すぎて解りにくい」という方は、以下のまとめを参考にされたい。それでも長いが「古代史の総括」であるのでご容赦いただきたい。
(1) ニニギの天降りまで
イザナギは高天原(対馬)から筑紫日向小戸(関門海峡小戸)に天降りした(海流下り)。子のスサノヲは葦原(あしはら)中つ国(小倉市足原(あしはら)中津口(なかつくち)か)の支配を命じられ、子のアマテラスは帰った高天原(良田無い対馬、魏志倭人伝)から良田あるべつの高天原(朝鮮半島南端高興(コフン)付近か)へ再移住。スサノヲが良田を得ると、うらやんだアマテラスは一族を繰り返し天の下(遠賀川域、先代旧事本紀)へ派遣し、天孫ホアカリと物部の祖はスサノヲ系と戦い「国譲り」を受けた(政事王)。天孫ニニギ(弟)と中臣の祖は高天原(半島南端)から笠沙の岬(対馬南端神崎(こうざき))を経て筑紫日向(ひむか、門司、海から日が昇る)へ天降りした(祭事王)。
今回海外史書などで記紀の「倭国不記載」を補い、誤読を正したから初めて「高天原」「天降り」「天孫ホアカリの天降り不記載の謎」などの「神代と人代のはざま」が解明されたと考える。伝承と夢と史実をないまぜて新たな伝承として公定した神代紀は、かなりの曖昧を許容し異種説を紹介する公平さを示している。しかし、古事記の「天皇家の祖は対馬・半島の海族」と読み取れる示唆を日本書紀も暗に支持している。公定時の読者は「ここまでの伝承記述なら伝承を共有した倭国王家子孫(ホアカリ系)も許容できるだろう。倭国不記載もホアカリ不記載も外交上い致し方ない。」と受け取っただろう。我々も今当時の読者と同じ理解、「振り仮名誤読の無い時代、忘却のまだない時代の理解」が共有できる立場に立てたと考える。
(2) ニニギの南征と神武東征まで
高天原(半島南)から笠沙岬(対馬)を経て日向(門司・小倉)に天降りしたニニギはそこの支配に留まれず、予定に反して南征に出た。卑弥呼の狗奴国戦(魏志倭人伝)の一環か、ホアカリは子のカグヤマ/物部支族をニニギに与えてニニギ南征(陸路、阿蘇・高千穂峡・宮崎)が始まった。ニニギは成果なく宮崎日向(門司日向の地名移植)で没した。曽孫の神武は東征に出る。その際、ニニギ系王族と中臣の一部を九州(ホアカリ倭国)に残した。ホアカリ倭国はその後100年かけて卑弥呼倭国を再統一して倭国王となった(倭の五王、宋書)。
(3) 応神〜継体まで
神武の大和東征後、欠史八代は四世代約九十年である。紀は「その後崇神〜景行が続いた」とするが、時代検証から神武系とそれら二系の三系は並立したと解釈される。そうであれば、「欠史八代の開化を継いだのは応神」の可能性が高い。なぜ継げたのか。応神は「神武が九州に残したニニギ系王族(ニニギ五世孫?)」だったからだと考えられる(倭国が後ろ盾か)。ニニギ系王統が絶えかけた大和王権を継いだ応神・仁徳は河内に大和王権を遷した。数代後応神系が武烈で絶えると、継体(応神五世孫、ニニギ十世孫?)が継いだ(倭国が後ろ盾か)。
(4) 九州遷都〜大和帰還遷都
継体は倭国の内乱「磐井の乱」を救援征伐し、九州に磐井遺領(豊国)を得た。任那回復軍を託された欽明(継体の子)は九州に宮を設けて倭国と戦略を議し、その子の安閑は九州の宮(勾金橋宮、福岡県香春町勾金か)に一時遷都した。継体子孫にとって九州は祖父の故地、文化文明の先進地で九州遷都は長引き、敏達・崇峻・推古と続いた(約70年間)。その間、大和王権は肥前に宮を置いたが、倭国内筆頭王族のような形で倭国王家と交流した(仏教論争・蘇我氏の台頭・蘇我物部覇権争いなど)。
(5) 上宮王家独立と大和王権との融合まで
倭国王の裁定で北朝仏教導入論争に敗した倭国内上宮王(応神・継体を輩出した王族の子孫、ニニギ十五世孫?か)と蘇我氏は九州物部宗家の守屋を倒し、倭国を飛び出し上宮王権創立・大王自称・年号創建を強行した。それもあって蘇我馬子を大臣とする大和王権と上宮王権は大和帰還遷都を指向した。上宮大王継嗣聖徳太子の斑鳩・推古の大和帰還遷都(推古紀603年)・蘇我氏の故地大和葛城回復の試みなどが続く。
推古を継いだのは田村皇子(敏達孫)だが、その頃田村は上宮大王孫の宝皇女の夫で三代上宮大王に就いていた。田村は大和王権舒明天皇として即位し、恐らく宝皇女が第四代上宮大王についたと推測される。舒明が歿すると宝大王が継ぎ皇極天皇となった。これらは蘇我蝦夷が二王権で専横して強行したもので、舒明・皇極の宮を大和(推古小墾田宮)から九州に戻し、蝦夷は空白の大和で斑鳩の聖徳太子継嗣山背(やましろ)大兄皇子一家を滅ぼし大王の振る舞いをした。これが「乙巳の変」を引き起こし、蘇我入鹿は肥前飛鳥板蓋宮で暗殺され蘇我宗家は滅亡した。
(6) 大和王権の主導権推移と倭国(つくし)主導からの離脱
田村(舒明)・宝(皇極/斉明)夫妻は「大和王権に上宮王権を統合」を「上宮王統主導」で完成させた(日本書紀は上宮王権不記載)。対立する倭国と唐の間で、大和王権は舒明(反倭国・親唐)・皇極(親倭国・親唐)・孝徳(反倭国・親唐)・斉明(親倭国・親唐)・天智(反倭国・親唐)と揺れつつも親唐派が続いた。唐は親唐派の大和以東諸国(日本)が団結して倭国から離脱するよう裏外交を重ねた。天武(親倭国・反唐)の時代に白村江敗戦と倭国滅亡があり、次の持統(親唐)以降は「倭国色を消した日本国として親唐朝貢外交を目指した。それが文武の「日本国建国と日本書紀(倭国不記載)」としてまとめられた。
以上を一図に表わしたのが上図である。
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