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四著「一図でわかる日本古代史」 第五図 _________
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「一図でわかる日本古代史」
第五図 「物部氏」のすべて
「一図(元図)」を使って「物部氏」の流れを解説する。
日本書紀は「倭国不記載」であるからその配下「九州物部氏」も不記載である。その結果「物部氏は大和物部氏が宗家」と解釈されてきた。
しかし、九州物部氏の伝承と思われる「先代旧事本紀」を解析すると物部氏四系統の全体が見えてくる。それを下図の赤ボタン解説で示す。
第五図 「物部氏」のすべて 解説文 (ボタン解説と重複)
●751 ❶ 物部氏の祖
物部氏の祖は天孫ホアカリに供奉して遠賀川域に天降りしたアマツマラである(先代旧事本紀)。
アマツマラは天孫ホアカリ系を支える五部神筆頭の軍事司で、物部軍を統率したとされる。葦原中つ国(小倉市足原中津口か)一帯を支配するスサノヲ一族に勝って国譲りを受けた。
●752 ❷❷’ ❷” 物部氏の祖はアマツマラ
物部氏の祖アマツマラはホアカリに供奉して遠賀川域を本拠にホアカリの建国を支え、ホアカリは卑弥呼を共立する倭諸国王の主要な一員となったようだ(先代旧事本紀、魏志倭人伝)。
その前後に天降りした同族のニギハヤヒは物部軍の一部❷’を分与されて河内・大和に定着した(先代旧事本紀)。のちに東征した神武に臣従して大和物部氏となった(神武紀)。
その後、天孫ニニギ(ホアカリの弟)が筑紫日向小戸(関門彦島小戸)に天降りしたが、故あって九州東岸沿いに南征し宮崎に定着した(卑弥呼狗奴国戦の一環か)。この時ホアカリはニニギに子のカグヤマと物部支族の一部❷”を与えたようで、のちに神武はカグヤマの子孫(タカクラジ)と物部支族を率いて東征した。タカクラジと物部支族は更に東進して尾張物部氏として落ち着いた。
●753 ❸ 九州物部氏
ホアカリが建国した国を支えた主力はアマツマラの子孫九州物部氏であった。その子孫に倭国王に仕えた物部尾輿・守屋がいる。下図は筆者の推測する九州物部氏の系図である。
参考にしたのは先代旧事本紀の示す物部氏系図である(詳細はこちら)。
九州物部氏はホアカリ系倭国軍とその協力景行軍〜仲哀軍の協力で衰退した台与倭国を再統一して倭国を継承したと考える。
●754 ❹❹’ 半島征戦の主力物部軍
倭国を再統一したホアカリ系倭国/応神は余勢を駆って半島征戦に。応神・仁徳は東方軍と九州物部支族軍❹’をと共に凱旋して河内に落ち着き、神武系・崇神系・景行系を再統一して拡大大和国を治めた。
●755 ❺ 河内物部氏
応神・仁徳(豊国ニニギ系)は大和物部氏を取り込もうと、その妃を迎えて皇子兔道稚郎子(うじのわきいらつこ)を太子に指名したが辞退し自死したので大和物部氏は衰退し、代わりに九州物部支族が主流となった。これが河内物部氏である。
応神系の武烈天皇に継嗣がなく、倭国は応神(豊国ニニギ系)の五世孫継体を大和天皇に押し込んだ。この継体の筆頭大連が河内物部氏の物部麁鹿火(あらかい)である。
倭国で筑紫の君磐井の乱が起きると、倭国に恩義を感じた継体が麁鹿火を成敗に差し向け、これに成功した。倭国は内政重視に転じて任那回復軍を麁鹿火に任せ、一方継体は磐井の遺領である豊前・肥前飛鳥一帯(鳥栖市)を得てそこを拠点に任那回復軍の指揮を執った。
●756 ❻ 倭国筆頭重臣物部氏
物部尾輿は倭国の内政立て直しに貢献し、筆頭重臣として活躍した。
●757 ❼ 物部氏は大和朝廷の大連にも
物部尾輿は任那問題を大和朝廷に引き継ぐために継体・欽明に(豊前遷都前の)大和朝廷大連に任じられた(兼務)。
●758 ❽ 尾輿・守屋の専横
倭国の内政立て直しに貢献した物部尾輿・守屋父子は倭国内で専横し始め、これを嫌った倭国王に焚きつけられた倭国王族ら(上宮王ら、主軍は蘇我馬子)に物部守屋は討伐された。
これにより、物部宗家は滅亡した。
第五図 了
第五図 「物部氏」のすべて
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