四著「一図でわかる日本古代史」 公開2021
三著 「千年の誤読(ごどく)」公開2020
次著「高天原と日本の源流」既刊2020・
寄稿文「倭国内ニニギ系王族」2017
初著「倭国通史」既刊2015・増補版 公開2025
 
日本書紀が正す「千年の誤読」 はじめに 第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」 第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」 第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」 第四章 「物部氏」のすべて 第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」 第六章 「法隆寺」の変遷 はじめに ( 更新 2021.1 2020.5) 日本書紀の原文は漢文で書かれている。だが、ほとんど和読されている(訓読・振り仮名(以下フリガナ)・返り点など)。公定(発行、720年)後の「日本紀講筵(にほんぎこうえん、貴族向け解説講座)」に始まる和読法が奈良~平安時代に確定した。 訓読では「同じ漢字だが違う内容で使われるときは違う訓読」は当然有る。しかし「同じ漢字だが違う内容と知らずに同じ訓読(誤訓)」では誤読となる。後世の「知識不足からくる誤訓」もあるが、「意図的・政治的なフリガナ(いわば偽訓)」も少なくない。いずれも原文の責任ではない。 「誤訓」か「偽訓」かの境は曖昧だがこれら「奈良時代からのフリガナ誤読=千年の誤読」の呪縛から解放されると、「日本書紀の原文は定説のフリガナ誤読を正している」ということに気づかされる。「目から鱗」である。それによって「日本書紀原文には不記載・不説明は多いが不実記載は少ない」と検証の視点が定まってくる。
検証の対象となる「誤訓」(以下「偽訓」を含む)は多くない。なぜなら、重大な過ちは当然奈良時代から繰り返し正されているからだ。ところが、日本書紀には一つ素直に正せない重大な不整合があった。「倭国不記載」という編集方針から生ずる不整合である。 親唐外交を目指す新日本国は「唐と戦った倭国とは別の国」を示す必要があった。「日本は倭国の継承国」は許されるはずもなく、「倭国など無かった」などが通用するはずもないから「倭国不記載」とするしかなかったのだ。それを知る年輩者は黙し、それを知らない若者(漢文が読めない)は辻褄合わせの振り仮名(偽訓)で納得するから、誰も偽訓を咎めず改めなかった。 そのようにして「偽訓・誤訓」は「正しい訓読」として平安時代までに公定流布された。それ以後誰も正すことなく千年続いたのである。 以下ではそのような教えに導かれた「誤訓の解明による真実」を単刀直入に示して、その根拠を跡づける。 ご意見・お問い合わせはこちらに
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第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」の振り仮名 (更新 2023.09 2020.2) 「大倭」の誤読を取り上げるのは、「日本書紀の誤読千年の原点」だからだ。紀は漢文で書かれているから、元来は振り仮名は無い。しかし奈良時代から振り仮名付きの写本が広まった。その振り仮名が仮に誤りで、それがそのまま定説化されれば、以後の読者は誤読する。「千年の振り仮名誤読」である。これを正す「鍵」は日本書紀の原文に示されているのだから、正しているのは日本書紀自身であって筆者ではない。 日本書紀には「大倭」が16回出てくる。紀の振り仮名付き写本や解説書はほぼすべての「大倭」に「やまと・おおやまと」と振り仮名している。16回の内8例は「大和」に関する内容だから妥当な振り仮名だ。しかし、他の8例は「九州倭国」に関する内容だから妥当な振り仮名ではない。奈良時代の関係者は知っていてそう振り仮名したと思われる。つまり「意図的・政治的な振り仮名」、つまり「誤読誘導」である。 この振り仮名による誤読によって、ほとんどすべての「倭」「大倭」が「やまと」と読まれ、元来の「倭国(わのくに、九州筑紫を宗主国とする列島総国)」「大倭国(たいのくに)、九州倭国の自称国号)」「大倭(たい、つくし、通称、筆者説)」の理解が失われてきた。その結果生じた不整合・不審を検証してゆくとこの「千年の誤読」を解く鍵「振り仮名誤読の呪縛」が解け、「筑紫を宗主国とする列島総国倭国」の実像が確認される。更に「大和王権は534年(安閑)~603年(推古初期)まで、70年間近畿大和から九州豊前に遷都した」という教科書にも歴史書にも無い驚くべき史実、定説も九州王朝説のほとんども解読してこなかった史実が論証できる。 更に、この解読が第二章以下の解読を可能にし、そして次著「一図で解る日本古代史」につながるのである。 ●501 「倭国」の初め 「倭国」は中国が朝鮮半島南部から列島に居住している倭人の国を指した他称である(後漢書)。漢語であるからその読みは「倭国(ゐこく)」である(漢音も呉音も同じ)。卑弥呼の国もそう呼ばれた。魏志倭人伝にも「(帯方)郡は(卑弥呼の)倭国に使いす」とある。その治所(本拠)は九州であった。その根拠は同書に「帯方郡から北九州沿岸まで一万里(海路距離、現在計測で800㎞)、女王卑弥呼の女王国(国都国、首都)に至るまでは更に二千余里(北九州沿岸から160㎞、陸路距離)」とあるから、「卑弥呼の女王国は九州内」である。大和(やまと)は北九州から500㎞(六千余里、海路距離)であるから卑弥呼の女王国は大和ではない。従って魏志倭人伝の「倭」字は漢語であるから「やまと」と読まないし、内容的にも九州であるから「倭(やまと)」と振り仮名すべきではない。魏志倭人伝に関する限りこれには異論はない。紀岩波版も「倭(わ)」と振り仮名している。 ●502 日本書紀の「倭」字 日本書紀でも魏志倭人伝の引用がありこれには「倭(わ)」(漢語の和読)と振り仮名されている(神功紀本文注 3か所、日本書紀岩波版など)。これはこれでよい。しかしこれら以外に「倭」字が200か所近く出てくる。写本ではほぼすべて「やまと」と振り仮名されている。確かにこれら大半の「倭」は「内容から大和に関連したこと」が確認され、振り仮名したのは妥当だと考えられてきた。 問題は二つある。表記上(表音表記、表意表記)の問題と読み方の問題だ。表記上では「やまと」(奈良地方を指す和語)は「夜麻登」「山常」などと当て字されてきた。いつ頃から、なぜ「倭」字を当てたのだろうか? また、「倭」字200か所の内の16か所に「大倭」とある。紀の訓読付き写本や解説書では、ほぼすべてこれも「大倭(やまと)」と振り仮名している。その半数(8か所)は内容が「やまと」に関するから妥当な振り仮名だ。 ここで疑問はなぜ「倭」に「やまと」と振り仮名するのだろうか。本来「倭」「倭国」の表記は「倭・倭国=九州倭国」を意味した、と前述した。その「倭」字が「やまと」の意味に変えられたのには訳がある。「倭国の滅亡」(680年頃)である。魏~宋など中国南朝に「朝貢外交」してきた九州倭国は「遣隋使を出した多利思北孤(たりしほこ)王」以降、北朝の隋・唐に対して「対等外交」を目指した。そのこだわりから、白村江戦(672年)で唐と戦い敗れ滅亡してしまった(680年頃)。その結果、残存単独王権となった大和王権の天武は、「大和王権による倭国の継承」を構想して「外交的には倭国を継承し、国内的には宗主国(国都国)筑紫に代わって「やまと」が事実上の宗主国となった。即ち、百済・新羅に対して漢語国号「大倭」を継続使用し、和語「やまと」に「倭」字を当てて、和語国号を「大倭(おおやまと)」、国都国名を「倭国(やまとのくに)」としたのだ(古事記)。倭国と敵対した唐は天武のこの「大倭国号の外交継承」を認めず、国交は断絶したままだった。 天武の独り天下は倭国滅亡(680年頃)から天武崩御(686年)までの数年間に過ぎない。しかし天武の構想した「倭(わ)国継承とやまと主導」思想は「倭(やまと)」の訓読創始として記紀に引き継がれた。 天武崩御後の持統・文武は天武の古事記(国号「大倭(おおやまと)」)を封印し、漢語国号を唐の受け入れる「日本」に改号し、「倭」字を国名から国都名「倭(やまと)」以下に矮小化して「九州倭国不記載」の「日本書紀」を公定したのである。唐はこれを「倭国と日本国は別」として受け入れ(旧唐書)、文武の遣唐使は対唐朝貢外交を実現した。 日本書紀はこれに沿って書名を「日本」とし、「倭国不記載」としながらも「天武の『やまと』に『倭』を当て字とする定め」を継承したから、ほぼ完全に「倭(やまと)」で統一されている。原義「やまと」(和語)に「倭」字を当てた「当て字」であるから誤まった振り仮名とは言えない。 ●503 日本書紀の「大倭」 例外は「大倭」である。「倭」字200か所の中に16か所の「大倭」「大倭国」が含まれている。その半分8か所の「大倭」は前項と同じ「『やまと』 →『倭(やまと)』(当て字) → 『大倭(やまと』(新当て字)」の流れであるから、誤読とはいえない。しかしそれは天武改変以降の話。それまでの3世紀から7世紀末までは「倭=大倭=九州倭国」であった。日本書紀は「倭国不記載」ながら、8か所でこの「九州倭国」の意味の「大倭」を使っている。これらは「大和王権と九州倭国が関係ある事績」に出てくるので、隠し忘れた訳ではない。ただ「大倭(やまと)」に混ぜて使っているから、誤読誘導の責めは免れない。しかし、これをはっきり「やまと」と振り仮名するのは「知りながらの虚偽の振り仮名」とされても致し方ない。指導した奈良時代の日本紀講筵(にほんぎこうえん、貴族向け解説講座)」に始まり「それに倣った後世の誤読」に続いたのである。 まず、「大倭」の由来を確認する。 (1) 倭国は卑弥呼の時代に中国から「倭国」と呼ばれていた(前述)。 (2) 倭国は東征(神武東征・崇神四道将軍)・西征(九州統一、景行が協力)・半島征戦(神功・応神が前線司令)によって拡大を続け、百済・新羅を征圧する大戦果を挙げた。「倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・新羅を破り、臣民となしてしまった」(広開土王碑)とある。 (3) このようにして倭国は「 倭の五王」(宋書)系によって再統一されたが、同じ「倭国」を自称した。中国からもそう呼ばれていた(宋書)。 (4) 半島の軍事権を認められた倭国は百済・新羅に対して「大倭」を使い始めた。神功紀六二年条(390年頃か)割注に「〈 百済記に云ふ、、、加羅の国王の妹既殿至(けでんち)、大倭に向かいて啓(まう)して云う(抗議す)云々〉」とある。百済記も神功紀も漢文だから、その読みは「大倭(たいゐ)」であろう。この「大倭」は「魏」の美称「大魏」に倣(なら)った「倭国」の自尊称名であろう。中国はこれを倭国の不遜として嫌ったようで、中国に対しては使わなかった。半島では征戦が長く続いたこともあって、この「大倭」は使われ続け、国内でも和語化されて使われた。神功紀から斉明紀までこの「大倭」が「九州倭国」の内容で出てくる(8か所)。倭国滅亡まで使われたようだ。 以上の分類は後述の「『大倭』16例の検証」の節で解析する(①~⑯)。 ●504 「大倭」の読み方 「大倭」の読み方は前節で漢語「たいゐ」に言及したが、この他に「和読み」「和語化」「通称」などさまざまな読み方があったようだ。末尾節に検証を示す。 (1)「大倭(たいゐ)」 漢語読み 漢語読みは頻度は高くないが、どの時代にも出てくる。前節の神功紀の他に、応神紀・雄略紀に百済書引用の漢語「大倭」がある。内容は「総国・宗主国=九州倭国」である。後述16例の③④⑥。 (2)「大倭(たいい)」「大倭(たい)」 和語読み 百済書引用の漢語が当時どのように和語よみされたか、日本書紀の後代振り仮名ですべて「やまと」とされているからわからなくなっている。だが、「大倭(たいゐ)」の佳字として「大委(たいい)」があることが正倉院御物「法華義疏写本」に「大委国上宮王」の署名があることから和読で「大倭(たいい)」があったことが推測される。また、隋書に「倭国が『俀(たい、イ妥)』と自称した」とあることから「大倭(たいい、漢語和読)」がしだいに「大倭(たい)」と和読とされたことが推測される。即ち、「大倭(たいゐ、漢語) → 大倭(たいい、和読) → 大倭(たい、和語・和読) → 俀(イ妥、たい、和語)」の流れがあったと考えられる。 (3)「大倭(つくし)」 通称(推測) 総国「大倭(たいゐ)」の和読として「大倭(たい)」があったと述べたが、これは外交用語・官庁用語であり常用には違和感があり、地方からみれば「大倭」も「筑紫」も同義語だろうから、通称として「大倭(つくし)」と訓読(同義和語読み)された可能性があると考える。その根拠の一つは後年の「大倭(やまと)」の振り仮名である。総国「大倭国」を国都国名「つくし」と読み習わした前例があったからこそ天武の総国「大倭国」を新国都国「やまと」と読ませる発想が生まれた、と推測される。 安閑元年「大倭国勾金橋に遷都す」、次代宣化紀四年「天皇を大倭国身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうえ)陵に葬る」とある。「勾金橋」は豊国(現福岡県香春町勾金)、陵も同一表記であるから豊国であろう。これら「大倭」も同様の理由から「大倭(つくし)」であろう。 (4) 「大倭(おおやまと)」 紀には無し 古事記のみ この読み方は日本書紀には出て来ない。古事記に総国名「大倭」として数回でてくる。天武は倭国滅亡後、倭国の自称総国名「大倭国」を継承したが、和語総国名として「大倭(おおやまと)」と読ませた。その根拠は古事記国生み譚の「大倭豊秋津島」と日本書紀国生み譚の「大日本豊秋津洲」及びこれの読み方注「日本、此れを耶麻騰(やまと)という」との比較からそのように解析される。古事記の「大倭」(13か所)はすべて「大倭(おおやまと)」と和読して良い(検証は →こちら )。 (5) 「大倭(やまと)」 日本書紀 後世振り仮名 天武の和語総国名としての「大倭(おおやまと)」(古事記)は外交用語であって、国内殆ど使われなかったので、天武は国都国名「倭(やまと)」に二字美称冠字した「「大倭(やまと)」への改字令を出した(683~685年、坂田説)。例えばこの頃「倭(やまと)直」から「大倭(やまと)直」への改姓がある。遡及表記にも 雄略二年に「大倭国造吾子籠宿禰」、孝徳紀645年の「欽明天皇十三年(552年)に百済王が仏法を我が大倭に伝えた」とある。いずれも内容的に「大和」に関する例で、計8例ある。これらは「やまと」に新当て字表記「大倭」を指定したのだから、「やまと」と振り仮名しても内容と一致し、誤読ではない。次節16例中8例、②⑤⑨⑫⑬⑭⑮⑯ が該当する。全て天武以降の用例である。内②⑤は天武以前の事績に遡及表記している。 結論を繰り返すと(1)(2) は「大倭=九州」で8例ある(①③④⑥⑦⑧⑩⑪)。(3) (4) は「大倭=大和」で8例ある。 ●505 日本書紀の「大倭」16例 検証 以下が16例の解析である。いささか詳論証であるので、上記結論を仮に了とするなら次節まで飛ばして読まれても良い。 ① 垂仁紀二五年条の「天照大神を祀り直そう」の文の割注(一に云う)に「大国主神」の意味で「倭大神」が、また「天照大神」の意味で「大倭大神」が出てくる。岩波版は両方共「やまとのおおかみ」と振り仮名しているが、注であるが別の神を「倭」「大倭」と書き分けているから、別の読み方がふさわしい。大和では「大国主神」の方が先在して「やまとの大神(おおかみ)」だった、と解釈すれば、この「倭(やまと)」は天武改字後の標準的な用字(読み方)として良い。この垂仁紀記事は「垂仁時代に大倭大神(天照大神)をやまとに祀り直そうとした」という内容だから、「神武がつくしから持ってきた天照大神」と解釈すれば、天武改字前の「大倭(たい)」(九州倭国の自称名、500年頃)か「大倭(つくし)」(通称)の用字(読み方)と解釈するのが妥当だが、神武の祖は「つくしのひむか」に天降った神祇系のニニギである(神代紀)。「大倭(つくし)」の用字例に入れる。 ② 垂仁紀二五年条に「大倭(やまと)直(あたひ)の祖長尾市宿禰」(振り仮名は岩波版)とある。これは「紀編纂時の大倭直の祖は垂仁時代の長尾某である」の意味であるから、これは「「倭(やまと)直」から「「大倭(やまと)」への天武改字に従った遡及表記である。「改姓」でなく「改字」であるから振り仮名が同じであることは妥当である。天武以降の「大倭(やまと)」の用字例に入れる(「大倭(おおやまと)直」ではない)。 ③ 神功紀六二年条に「百済記に云ふ、新羅が貴国(きこく)に奉らず、貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣り之(新羅)を討たしむ、、、(サチヒコは美女で釣られて新羅でなく加羅を討つ)、、、加羅国王の妹が大倭に向かい敬(もう)して云ふ(抗議した)、、、天皇大怒し、即ち木羅斤資を遣わし云々」とある。ここで「大倭」とあるのは百済記であるから漢語である。倭国はこの頃から百済・新羅に対して「大倭(たいゐ)」を自称し始めていた。加羅が「大倭(倭国)」に抗議しているから「貴国(きこく)」(日本貴国=北肥前の日本軍の兵站基地、紀国と同じ語源を持つ名称か、尊称ではない)に新羅を討つよう命じたのは倭国王」と解釈できる(倭国軍・日本軍(応神)の連合軍統括者は倭国王)。漢語だから「大倭(たいゐ)」の例であるが、内容は九州倭国である。「大倭(やまと)」ではない。 ④ 応神紀二五年条に「大倭木満致(もくまんち)が百済の国政を執る」とある。「大倭」は漢語であろう。しかし、「大倭」字を欠く写本があったり、整合性に問題があり、岩波版ではここの「大倭」を削除している。筆者は百済関連記事であるから漢語であり、読み方の節で示した(1)「「大倭(たいゐ)」の例に分類する。時代的に「大倭=九州倭国」である。 ⑤ 雄略二年に「大倭国造吾子籠宿禰」とある。元は「「大倭(やまと)直(あたひ)」と称したとあり(仁徳紀)、「やまと」→ 「倭(やまと)」(天武以降) → 「大倭(やまと)」の当て字変化、前節(4)の例と考えられる。遡及表記である。「大倭(やまと)」の例である。 ⑥ 雄略紀五年に「百済新撰に云ふ、、、大倭に向かい天王に侍し」とある。この漢語「大倭(たいゐ)」は前々節で検証した。百済新撰引用だから、漢語「大倭(たいゐ)」で九州倭国の自称名である。 ⑦ 安閑紀元年に「都を大倭国勾金橋に遷す」とある。福岡県香春町勾金か。継体は「筑紫君磐井の乱」を制圧して磐井遺領を得たので、次の安閑は豊国勾金橋に遷都したのである。和語読みするときは「大倭(たい)」だが、これは外交用語なので民間では通称「大倭(つくし)」(前節(2)の例)だった可能性がある。いずれにしてもこの「大倭国」は九州である ⑧ 安閑の次、宣化紀四年「天皇を大倭国身狭桃花鳥坂上陵に葬る」とある。前項の「安閑の大倭国」と異なる理由が無いから「大倭(つくし)」とする。 ⑨ 孝徳紀645年に「欽明天皇十三年(552年)に百済の明王(聖明王)が仏法を我が大倭に伝え奉る、、、而(しか)るを蘇我稲目宿禰独り其の法を信ず」とある。552年は「仏教大和初伝」である。欽明紀の引用風であるが、欽明紀に無い「大倭」を出している。欽明紀が使用した元興寺伽藍縁起の「大倭国仏法創めて百済より渡る(538年)」の「大倭」を孫使用したと思われる。こちらの「大倭国」は九州倭国である(⑦⑧)。引用に混乱がある。紀・縁起の「仏教伝来譚」には共に多資料の引用混在・作文・勘違い・時代の再編などあるようだが、源は「百済王の表(ふみ、漢文、欽明紀)」にあった可能性がある外交漢語「大倭(たいゐ)」に始まったと考える。背景はいろいろあるが、ここの「大倭」は538年の大倭(九州)でなく、「「大倭(やまと)」の遡及表記である。 ⑩ 斉明紀661年に「伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこのしょ)に云ふ、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い近し云々」とある。この文章の解析は複雑だが、倭国と日本が対で出てくる文章だから九州倭国のことで、大和人の噂話であるから「大倭(つくし)」と振り仮名するのが妥当である ⑪ 天武紀675年に「大倭国瑞鶏を貢(たてまつ)れり」とある。倭国滅亡前に当たり、「大倭(やまと)」(遡及使用)、「大倭(つくし)」どちらとも取れるが、実はどちらも「宗主国が貢する」という、あり得ない内容となる。「「大倭(つくし)」が大和王権に貢した」と誤読誘導する文章、と考え筆者は後者を取る(大倭(つくし)の個人が天武天皇に瑞鶏を奉った些事の針小棒大譚か)。 ⑫ 天武紀675年に「大倭、河内、、、(他十三国列挙)に勅す」とある。これは「やまと」へ「大倭」字を当てた683年以降の改字の遡及表記「大倭(やまと)」である。 ⑬ 天武紀685年「大倭(やまと)連(むらじ)」がある。「倭(やまと)連(むらじ)」の改字である。 ⑭ 持統紀686年「美濃の軍将等と大倭桀豪、共に大友皇子を誅し云々」とある。人名「大倭(やまと)桀豪(いさを)」か「大倭(やまと)の豪傑」の意か不明だが、「大倭(やまと)」の例である。 ⑮ 持統紀692年「四所、伊勢、大倭、住吉、紀伊」とあり「大倭(やまと)」の例である。 ⑯ 持統紀692年「五社、伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足」とあり「大倭(やまと)」の例である。 以上、まとめると「大倭=九州倭国・つくし」は8例(①③④⑥⑦⑧⑩⑪、この内漢語系は③④⑥)、他の8例は「大倭=やまと」である。即ち後世写本のように、16例すべてに「大倭(やまと)」と振り仮名するのは正しくない。この誤り(あるいは誤読誘導)の結果「大和王権の九州遷都」という正しい認識が失われ、日本書紀の後世解釈が史実から遊離し「不整合だらけ」となる結果を招いた。日本書紀の誤読が糺(ただ)されなければならない所以(ゆえん)である。「後世の、誤読誘導の振り仮名」から解放されれは、日本書紀の上述した検証により、「三種類の読み方」が正しいことが判る。正しているのは「振り仮名以前の日本書紀原文」である。 以下が16例の解析である。いささか詳論証であるので、上記結論を仮に了とするなら次節まで飛ばして読まれても良い。 ① 垂仁紀二五年条の「天照大神を祀り直そう」の文の割注(一に云う)に「大国主神」の意味で「倭大神」が、また「天照大神」の意味で「大倭大神」が出てくる。岩波版は両方共「やまとのおおかみ」と振り仮名しているが、注であるが別の神を「倭」「大倭」と書き分けているから、別の読み方がふさわしい。大和では「大国主神」の方が先在して「やまとの大神(おおかみ)」だった、と解釈すれば、この「倭(やまと)」は天武改字後の標準的な用字(読み方)として良い。この垂仁紀記事は「垂仁時代に大倭大神(天照大神)をやまとに祀り直そうとした」という内容だから、「神武がつくしから持ってきた天照大神」と解釈すれば、天武改字前の「大倭(たい)」(九州倭国の自称名、500年頃)か「大倭(つくし)」(通称)の用字(読み方)と解釈するのが妥当だが、神武の祖は「つくしのひむか」に天降った神祇系のニニギである(神代紀)。「大倭(つくし)」の用字例に入れる。 ② 垂仁紀二五年条に「大倭(やまと)直(あたひ)の祖長尾市宿禰」(振り仮名は岩波版)とある。これは「紀編纂時の大倭直の祖は垂仁時代の長尾某である」の意味であるから、これは「「倭(やまと)直」から「「大倭(やまと)」への天武改字に従った遡及表記である。「改姓」でなく「改字」であるから振り仮名が同じであることは妥当である。天武以降の「大倭(やまと)」の用字例に入れる(「大倭(おおやまと)直」ではない)。 ③ 神功紀六二年条に「百済記に云ふ、新羅が貴国(きこく)に奉らず、貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣り之(新羅)を討たしむ、、、(サチヒコは美女で釣られて新羅でなく加羅を討つ)、、、加羅国王の妹が大倭に向かい敬(もう)して云ふ(抗議した)、、、天皇大怒し、即ち木羅斤資を遣わし云々」とある。ここで「大倭」とあるのは百済記であるから漢語である。倭国はこの頃から百済・新羅に対して「大倭(たいゐ)」を自称し始めていた。加羅が「大倭(倭国)」に抗議しているから「貴国(きこく)」(日本貴国=北肥前の日本軍の兵站基地、紀国と同じ語源を持つ名称か、尊称ではない)に新羅を討つよう命じたのは倭国王」と解釈できる(倭国軍・日本軍(応神)の連合軍統括者は倭国王)。漢語だから「大倭(たいゐ)」の例であるが、内容は九州倭国である。「大倭(やまと)」ではない。 ④ 応神紀二五年条に「大倭木満致(もくまんち)が百済の国政を執る」とある。「大倭」は漢語であろう。しかし、「大倭」字を欠く写本があったり、整合性に問題があり、岩波版ではここの「大倭」を削除している。筆者は百済関連記事であるから漢語であり、読み方の節で示した(1)「「大倭(たいゐ)」の例に分類する。時代的に「大倭=九州倭国」である。 ⑤ 雄略二年に「大倭国造吾子籠宿禰」とある。元は「「大倭(やまと)直(あたひ)」と称したとあり(仁徳紀)、「やまと」→ 「倭(やまと)」(天武以降) → 「大倭(やまと)」の当て字変化、前節(4)の例と考えられる。遡及表記である。「大倭(やまと)」の例である。 ⑥ 雄略紀五年に「百済新撰に云ふ、、、大倭に向かい天王に侍し」とある。この漢語「大倭(たいゐ)」は前々節で検証した。百済新撰引用だから、漢語「大倭(たいゐ)」で九州倭国の自称名である。 ⑦ 安閑紀元年に「都を大倭国勾金橋に遷す」とある。福岡県香春町勾金か。継体は「筑紫君磐井の乱」を制圧して磐井遺領を得たので、次の安閑は豊国勾金橋に遷都したのである。和語読みするときは「大倭(たい)」だが、これは外交用語なので民間では通称「大倭(つくし)」(前節(2)の例)だった可能性がある。いずれにしてもこの「大倭国」は九州である ⑧ 安閑の次、宣化紀四年「天皇を大倭国身狭桃花鳥坂上陵に葬る」とある。前項の「安閑の大倭国」と異なる理由が無いから「大倭(つくし)」とする。 ⑨ 孝徳紀645年に「欽明天皇十三年(552年)に百済の明王(聖明王)が仏法を我が大倭に伝え奉る、、、而(しか)るを蘇我稲目宿禰独り其の法を信ず」とある。552年は「仏教大和初伝」である。欽明紀の引用風であるが、欽明紀に無い「大倭」を出している。欽明紀が使用した元興寺伽藍縁起の「大倭国仏法創めて百済より渡る(538年)」の「大倭」を孫使用したと思われる。こちらの「大倭国」は九州倭国である(⑦⑧)。引用に混乱がある。紀・縁起の「仏教伝来譚」には共に多資料の引用混在・作文・勘違い・時代の再編などあるようだが、源は「百済王の表(ふみ、漢文、欽明紀)」にあった可能性がある外交漢語「大倭(たいゐ)」に始まったと考える。背景はいろいろあるが、ここの「大倭」は538年の大倭(九州)でなく、「「大倭(やまと)」の遡及表記である。 ⑩ 斉明紀661年に「伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこのしょ)に云ふ、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い近し云々」とある。この文章の解析は複雑だが、倭国と日本が対で出てくる文章だから九州倭国のことで、大和人の噂話であるから「大倭(つくし)」と振り仮名するのが妥当である ⑪ 天武紀675年に「大倭国瑞鶏を貢(たてまつ)れり」とある。倭国滅亡前に当たり、「大倭(やまと)」(遡及使用)、「大倭(つくし)」どちらとも取れるが、実はどちらも「宗主国が貢する」という、あり得ない内容となる。「「大倭(つくし)」が大和王権に貢した」と誤読誘導する文章、と考え筆者は後者を取る(大倭(つくし)の個人が天武天皇に瑞鶏を奉った些事の針小棒大譚か)。 ⑫ 天武紀675年に「大倭、河内、、、(他十三国列挙)に勅す」とある。これは「やまと」へ「大倭」字を当てた683年以降の改字の遡及表記「大倭(やまと)」である。 ⑬ 天武紀685年「大倭(やまと)連(むらじ)」がある。「倭(やまと)連(むらじ)」の改字である。 ⑭ 持統紀686年「美濃の軍将等と大倭桀豪、共に大友皇子を誅し云々」とある。人名「大倭(やまと)桀豪(いさを)」か「大倭(やまと)の豪傑」の意か不明だが、「大倭(やまと)」の例である。 ⑮ 持統紀692年「四所、伊勢、大倭、住吉、紀伊」とあり「大倭(やまと)」の例である。 ⑯ 持統紀692年「五社、伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足」とあり「大倭(やまと)」の例である。 以上、まとめると「大倭=九州倭国・つくし」は8例(①③④⑥⑦⑧⑩⑪、この内漢語系は③④⑥)、他の8例は「大倭=やまと」である。即ち後世写本のように、16例すべてに「大倭(やまと)」と振り仮名するのは正しくない。この誤り(あるいは誤読誘導)の結果「大和王権の九州遷都」という正しい認識が失われ、日本書紀の後世解釈が史実から遊離し「不整合だらけ」となる結果を招いた。日本書紀の誤読が糺(ただ)されなければならない所以(ゆえん)である。「後世の、誤読誘導の振り仮名」から解放されれは、日本書紀の上述した検証により、「三種類の読み方」が正しいことが判る。正しているのは「振り仮名以前の日本書紀原文」である。 ●506 「大倭」が「九州倭国」である、と論証できる例 雄略紀に「大倭」がでてくる。 雄略紀五年条(461年) 「百済の加須利君、、、其の弟の軍君に告げて曰く、汝宜しく日本に往き、天皇に仕えよ」 「加須利君の婦が、、、児を産めり、仍ち児の名を嶋君と言う、、、是れ武寧王と為る」 「百済新撰に云う、、、蓋鹵王(がいろおう)、弟の昆攴君を遣わし、大倭に向かわせ天王に侍らし、以って先王の好を脩(おさ)むる也」 要約すると、「百済の君が弟を日本の天皇に仕えさせた。百済新撰には『百済王が弟を大倭の天王に仕えさせた』とある。」と二文が並記されている。その間に「加須利君の子嶋君は後に武寧王となる」という挿話が記されている。系図風には次のようにまとめられる。 雄略紀 ┏兄 加須利君(百済の君) ━ 嶋君(=武寧王) ┗弟 軍君 日本の天皇に仕える 百済新撰 ┏兄 蓋鹵王 (百済王) ┗弟 昆攴君 大倭の天王に仕える 従来、この「二文並記」は「日本側の記録を外国資料で確認するという丁寧な記述」と考えられてきた。その結果「二国の記録が同一内容だから事実が確認できた」と考えられた。以下ではこれを「二文同一」と称することにする。これにより、 「加須利君=蓋鹵王」 「弟の軍君=弟の昆攴君」 「日本=大倭」 「天皇=天王」 と見事に対応する、と認められ、「大倭=日本」「天王=天皇」が定説化されてきた。 しかし、この二文に次の文献を合わせ読むと、「二文同一」ではないこと、逆に「大倭≠日本」を証明している、と坂田隆が著書「日本の国号」(青弓社 1993 年) の中で論証している。 武烈紀四年条 「百済新撰に云う、、、武寧王立つ斯麻王と諱(い)う。是れ混攴王子の子なり」 即ち、先の二文にこれ(下線部)を加えて合わせ読むと、次のようにまとめられる。 雄略紀+雄略紀百済新撰+武烈紀百済新撰 ┏兄 蓋鹵王 ┣弟 加須利君(=昆之君)━ 斯麻王(=嶋王)=武寧王 ┃ 大倭の天王に仕える ┗末弟 軍君 日本の天皇に仕える 坂田の結論は「百済王は三兄弟だった。兄蓋鹵王は弟の昆支君を大倭の天王に仕えさせ、この昆支君(=加須利君)は末弟の軍君を日本の天皇に仕えさせた」と言う、極めて明快な記述、とする。すなわち、「二文同一」と全く逆の結論が導出される。 「加須利君≠蓋鹵王」 「弟の軍君≠弟の昆攴君」 「日本≠大倭」 「天皇≠天王」 すなわち、「大倭≠日本」であり、「天王≠天皇」だ。これは、日本書紀(引用の百済新撰を含む)だけで読み取れる論理であって「推測」ではない(詳論はこちら)。 これによって「大倭≠日本」が「史実」と確認できた。この論証を基点として、次々と確認できることがある。 (1)「百済の蓋鹵王が二人の弟を(人質のように)大倭と日本に送り込んだ」とあるから、大倭と日本は同格だったのだろうか。しかし「大倭の天王に仕えた昆之君が末弟軍君に日本の天皇に仕えさせた」とあるから、「大倭>日本」である。合わせると「ほぼ同格ながら、大倭が格上」、即ち「大倭≧日本」のような関係であろう。 (2) 「大倭」は「日本」の格上の国だから、遣宋使を送った列島宗主国「倭国」は「大倭」である。 (3) 「日本」はこの頃「国内で使われた形跡のない国名」であるが、「半島で倭国(軍)に従った近畿・東方諸国連合(軍)」を指した「見做し国名」であり、その連合軍が自称として半島で「日本」を使い、使わせたと考える。その代表が「日本の天皇=大和天皇」であるが「日本=大和」ではない。 (4) 「天皇」の称号は国内では推古期以降とされ、それまでは「大王」だったと考えられている。しかし、半島関連記事では神功紀にも「天皇」が出てくる。海外征戦地でのみ使われた「格上げ称号」として使われ、使わせたと考える。 (5) 雄略紀の天皇は雄略である。その時期の倭国王は宋書から「倭国王興」である。二人は別の王である。「大倭の天王」と「大和の天皇」は別の国、別の王である。 以上からこの雄略紀の「大倭」は「九州大倭国(=九州倭国)」である。 ●507 「大和王権が大倭に遷都した」 (検証) 安閑紀元年(531年、雄略紀から70年後)に「都を大倭国勾金橋(まがりのかなはし)に遷す」とある。この「大倭国勾金橋(まがりかなはし)」はどこか、をここで検証する。通説は「大倭(やまとのくに)」と振り仮名されているように、「奈良県橿原市曲川(元金橋村)か」とされている。しかし、上述したようにこの時代の「大倭」は「九州倭国」である。九州に地名「勾金」(福岡県香春(かわら)町勾金)がある。ここから「大和王権が九州に遷都した」という解釈が提起される。突拍子もない解釈と思われるが、実は長年の歴史的積み重ねでこの遷都が実行されたのである。 (1) 「大倭」で「筑紫君磐井(いわい)の乱」が起こった。磐井は大和孝元天皇(8代)の皇子大彦命の子孫で、前項に協力した大和の将軍として活躍し、九州に定着した「大和系九州豪族」であろう。大和から「筑紫君」と呼ばれたようだ。もちろん倭国王(筑前)ではない。本拠が筑後だからである(磐井の墓(岩戸山古墳)に類する石像分布から)。磐井は「(自分が大和系だから)大和王権の継体と連携して大和連合を組めば、倭国王家を倒せるかもしれない」と考えたかもしれない。しかし、倭国の支援で即位した継体/物部麁鹿火(大臣)は一転して磐井と戦い国運を賭してこれを征伐した。これが「大和王権が大倭に対して対等を取り戻した瞬間」である。 (2) 次の安閑は継体の長子として即位。安閑/物部麁鹿火は九州の筑紫君磐井の所領を着々収奪して大和王権の屯倉とした。安閑紀535年に「筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉、豊国の膜碕屯倉始め5屯倉、火国の春日部屯倉などの他、播磨・備後・阿波・紀・丹波・近江・尾張・上毛野・駿河に各1~2の屯倉を設けた」とある。大彦系七族から差し出させたのであろう。 (3) 安閑はこれら屯倉の最も多い豊国に遷都した。安閑紀534年「大倭国の勾金橋(まがりのかなはし)に遷都す」とある。「大倭国」は九州倭国であることは前節で論証した。勾金橋は現福岡県田川郡香春町勾金か、これを以下確認する。安閑天皇は遷都すると大和の皇后(仁賢天皇の女(むすめ))とは別に三妃を立て、それぞれに小墾田(おはりだ)屯倉(みやけ)・桜井屯倉・難波屯倉を与えたという(安閑紀)。小墾田(おはりだ)屯倉は「向原に近い小墾田」(欽明紀552年)とあるから、現鳥栖市向原(むかいばる)川付近であろう。桜井屯倉は「向原に近い桜井」(元興寺縁起)とあるから、これも近くであろう。難波屯倉は「媛嶋がある難波」(安閑紀二年条)とあるから、現大分姫島比売語曽(ひめごそ)社付近か。「比売碁曽(ひめごそ)社のある難波」(応神記)、「大隅嶋・媛嶋がある難波」(安閑紀二年条)、「大隅宮がある難波」(応神紀二二年条)などから豊前難波と考えられる。 以上から、「大和王権安閑が遷都した大倭国は九州豊国である」と結論される(詳論はこちら)。その後、敏達・用明・崇峻・推古は肥前に宮を置いた。推古の後半は大和小墾田宮に遷ったが(推古紀603年)、舒明・皇極は肥前に戻り、孝徳以降は大和に定着した。このような史実が「大倭」に「やまと」と振り仮名することで「すべてはやまと」と誤読されてきたのである。 別説に「豊前王朝説」がある。「神武から天武まで一貫して豊前に都した豊前王朝」とする説であるが、相当無理がある( 「豊前王朝説」批判 )。 以上、「大倭」16例中8例が「大倭(つくし)」の可能性があること、少なくも九州であることが論証された。日本書紀の後世版が16例とも「大倭(やまと)」と振り仮名していることは原文に忠実でない誤読・誤読誘導である。この解明により、「大和王権が大倭国(九州)豊前勾金橋に遷都した時期があった」とする根拠が得られた。それにより、第三章(蘇我氏も九州)、第四章(物部氏宗家も九州)など定説の「誤読」が次々と解明される。そのプロセスをお楽しみいただきたい。 はじめに 第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」 第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」 第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」 第四章 「物部氏」のすべて 第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」 第六章 「法隆寺」の変遷 第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」 ( 更新 2021.12 2020.2 ) 「飛鳥(あすか)」は日本人にとって、ロマンあふれる古代史に近づく原点である。万葉集の手引きによって、現地(大和明日香)で古代を体感できるからだ。「飛鳥」が輝いていた時代の重みを考えると、それは納得できる。 日本書紀に登場する「飛鳥」時代は前期(5世紀~)・中期(6世紀末~)・後期(7世紀後半~に分けられる。その前期と後期は大和の飛鳥であることが確認できる。「だから中期の飛鳥も大和だ」とするのが平安時代以来の定説だ。この「中期の飛鳥」が日本書紀の中で「最も輝いていた飛鳥」なのだ(飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)・乙巳の変(いっしのへん、蘇我入鹿暗殺)・皇極紀・斉明紀など)。 しかし、この定説には不審・不整合が多い。だから「飛鳥は謎」ともされる。ここではこの「中期飛鳥」を中心に検証する。その結果、この「飛鳥」は驚くなかれ「大和ではない、九州肥前飛鳥」である。そして、この中期「肥前飛鳥」の地名は古く、前期「大和飛鳥」も後期「大和飛鳥」もこの古い「肥前飛鳥」を源(みなもと)としていることが検証される。「なぜ中期だけ違うのか?」「なぜ九州なのか?」「なぜ肥前なのか?」「なぜ飛鳥と書くのか?」、その理由も含め検証する。これらを理解しないで「飛鳥」を語ることは「歴史の醍醐味」をみすみすのがすことになる。 これは「日本書紀の誤読」の一例である。そして、その誤読の一因は平安時代に定着した振り仮名「東漢(やまとのあや)」に由来することを検証する(正しくは「東漢(とうかん、漢語)」)。いわば「千年の誤読」の一例である。第一章では「この誤読の典型例『倭』字の振り仮名誤読」を検証した。この章ではその鍵で「飛鳥」を解明する。、第三章では「蘇我氏の誤読」・第四章では「物部氏の誤解」を解く。これらは次著「一図で解ける『千年の誤読』」への扉を開く。その中の「 一図で解ける『千年の誤読 飛鳥』」を参照されたい。 ●508 「飛鳥」の初出 記紀の「飛鳥」の初出は古事記では履中記の「飛鳥地名由来譚」である(履中天皇は仁徳の次)。 履中記(古事記) (要旨) 「難波宮に居た履中天皇を殺そうと、同母弟が反逆した、、、阿知直(あちのあたひ)が履中を馬に乗せて大坂山口(大阪と奈良の境の山道)を経て救い出した。履中の別の弟(のちの反正(はんぜい)天皇))は反逆者を殺させたあと、明日(あす)(大和に)上ろうと言った。そこでその地を『近つ飛鳥(あすか)』という。その翌日、倭(やまと)に上り『明日(あす)天皇の居る石上神宮に参ろう』と言った。そこで、その地を『遠(とほ)つ飛鳥』という。」 履中の弟が「明日(あす)行こう」と言った所を「近つ飛鳥(あすか)」、次の日「明日行こう」と言った所を「遠つ飛鳥」と名付けた、という「地名由来譚」である。ただ、この由来譚は「明日香(あすか)」の地名由来であって「なぜ飛鳥と書くか」の疑問を解く話にはなっていない。後述する(非枕詞説)。 日本書紀での初出は同じ事件を扱った履中紀にある(文中の番号①~は筆者、以下三節、中期の「飛鳥」例~⑪までつづく)。 履中前紀399年 「倭漢(やまとのあや)直(あたひ)・阿知使主(あちのおみ)ら三人が、、、太子(履中天皇)を扶(たす)け馬に乗せしめこれを(履中の弟の反逆から)逃がす、、、太子、河内国埴生坂に到り、、、難波を顧望せり、、、大坂より倭(やまと)に向かい、①飛鳥山に至る」 ここに出てくる「①飛鳥山」は二文の路程から「難波 → 河内 → 大坂山口 → 近つ飛鳥 → 飛鳥山 → 倭(やまと) → 遠つ飛鳥 → 石上神宮」と読み取れる。注目すべきは「飛鳥の地名は複数あった」という点である。 ●509 阿知と飛鳥 もう一つの注目点は記紀の「飛鳥」地名由来譚(上掲)に漢人「阿知」の名がでてくることである。「阿知」の紀初出は応神紀二十年条に「阿知、、、己の党類十七県率いて来帰す」とある。漢史書によれば、阿知王は後漢献帝の玄孫(孫の孫)の劉阿知と考えられ、その阿知であれば後漢末の混乱期に渡来したと考えらる(280年頃)。履中紀399年の阿知は阿知本人ではなく子孫であろう。それらをまとめると、卑弥呼の次代女王台与(260年頃)からしばらくして、混乱の帯方郡(魏の半島領)から阿知王は漢人二千余人を引き連れて渡来した。まずは九州に入植したであろうが(後述)、その一部が移り住んだのであろう、河内・大和で活躍している(履中紀)。その60余年のちにも漢人移住譚がある。 雄略紀463年 「天皇、、、東漢直掬(やまとのあやのあたひのつか)に命じて新漢(いまき(今来)のあや)の陶部、、、鞍部、、、画部、、、等を上桃原、下桃原、真神原の三所に遷し居らしむ」 雄略紀465年 「河内の国に言う、②飛鳥部郡の人田邉史が女(むすめ)は云々」 雄略紀470年 「漢織・呉織・及衣縫兄媛・弟媛等、住吉津(すみのえのつ)に泊まる、、、漢織・呉織・衣縫、是れ ③飛鳥衣縫部(きぬぬいべ)・伊勢衣縫の先(祖)也」 これら雄略紀は後述するように「漢人技工の招聘譚」である。東漢とは阿知の子孫と考えられている。有力漢人に招聘漢人(新漢)の居住地を任せたのである。取敢えず上桃原など(後述)に住まわせ、のちに住吉津(兵庫)を経て「③飛鳥」に定着している(雄略紀470年条)。それ以前から河内に「②飛鳥部(あすかべ)郡」があったからだ(465年条)。この③飛鳥は河内の「近つ飛鳥」だろう。今の大阪府羽曳野市飛鳥(太子町の隣)と考えられており、「新撰姓氏録」によると、中国系、新羅系、百済系(飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)などの渡来系氏族が居住していたという。今でも飛鳥戸(あすかべ)神社がある。 これに続いて「④飛鳥八釣宮で天皇即位す」(顕宗紀485年)があり、ここまでに紀に「飛鳥」は四例出てくるが、いずれも大和関係である。「前期飛鳥」としておく。 ●510 中期飛鳥の七例 雄略紀の「飛鳥」から140年経って紀に「飛鳥」が再頻出する(⑤~⑪、七例)。これを「中期飛鳥」としよう。まず三つの記事を検討する。 用明紀587年 「蘇我(馬子)大臣、本願(物部守屋討伐祈願)に依り⑤飛鳥の地に法興寺を起こす」 崇峻紀588年 「(蘇我馬子が)⑥飛鳥衣縫(きぬぬい)造(みやつこ)の祖樹葉の家を壊して始めて法興寺を作る、、此の地を⑦飛鳥の真神原と名づく、亦の名を⑧飛鳥苫田という」 推古紀626年 「大臣薨ず、乃ち桃原墓に葬す、大臣とは則ち稲目宿禰の子(蘇我馬子)也、、、家は ⑨飛鳥河の傍、、、」 三つの記事に「馬子と飛鳥」の関係が記され、内二つの記事に「馬子が飛鳥に法興寺を建てる」とある。「馬子の飛鳥法興寺」はどこか。前期飛鳥は大和であった。定説では「だから中期飛鳥も大和だ」とされる。だがそれは推測であって、根拠ではない。根拠がない限り「中期の飛鳥は大和ではない」とする以下の説を否定できない。 (1) これら用明紀・崇峻紀・推古紀にある「飛鳥」はどこか?。崇峻を継いだ推古は「豊浦(とゆら)宮」で即位したとあるが(崇峻紀593年)、その推古紀は「豊浦宮は九州」を示唆している。 推古紀603年 「二月、、、来目皇子、筑紫に薨す、よりて駅使(はいま)して奏上す、(豊浦(とゆら)宮に居た推古)天皇大いに驚き云々」 ここで「駅使(はいま)」とは「騨馬(はいま、欽明紀三二年条)・「駅馬(はいま、大化二年条)」・「馳駅(はいま、皇極紀二年条)」・「駅(はいま)に乗りて(斉明紀四年条)」などと表記され、いずれも「馳馬・早馬(はやうま)」の約である(紀岩波版頭注)。「駅馬(はいま)」は筑紫はじめ九州北半分に整備された倭国の制度であった。大和・畿内の駅馬制度は大化の改新(大化二年646年)以降に整備されたから、この時代に大和に駅馬制度は無い。 孝徳紀646年 ここの「駅」字が大和関連記事では紀初出である。陸路の駅馬・馳馬に対して海路では対馬海峡(200㎞強)の軍令などに使われた「馳船(ときふね)」の語があり(欽明紀十四年条)、対馬海峡より長距離の九州・大和間(500㎞)にも早船が使われたと考えられる。 そうであれば推古紀603年の「筑紫からの駅使」とは「駅馬による使い」であり、まさに「筑紫から馬で行ける範囲、九州内」を意味する。即ち「推古の豊浦(推古紀603年)は九州内」である。この解釈から崇峻紀の「飛鳥の法興寺は九州」が次のように導かれる。 推古の即位の宮「豊浦宮」が九州であれば、推古の祖父蘇我稲目が「使われなくなった推古皇女時代の宮を仏堂に転用した」とされる「向原(むくはら)の仏堂」(元興寺縁起)も九州であり、その「向原」は稲目の本拠である。なぜなら「稲目の小墾田の家は向原の近く」(欽明紀552年)とあるからだ。この仏堂をめぐり「稲目が祀った牟久原(むくはら)の仏堂を尾輿の子守屋が焼いて仏像を難波江に捨てた」と記された蘇我稲目と物部尾輿の「仏教論争」となり、のちの「物部守屋討伐譚」に結びつく。この討伐戦の戦勝祈願に馬子は「法興寺建立」を誓願し、戦勝して「飛鳥の地に法興寺を建立」につながるのである。「これらはすべて九州のできごと」と「駅使」の一語から解釈されるのである。即ち「用明紀587年・崇峻紀588年・推古紀626年の飛鳥は九州」と解釈される。 (2) 蘇我馬子の本拠は大和ではない。その根拠は、「 筑紫の将軍達に馬子が駅使(はいま)で指令を出している」(崇峻紀592年)とあるから、馬子の本拠は前項と同じ理由で「九州内」である。その馬子の将軍達の名は肥前の地名として残っている(崇峻紀591年)。従って「馬子の本拠は九州肥前」である。「馬子が建てた飛鳥の法興寺(⑤~⑧)は九州肥前」であろう。では「肥前の⑨飛鳥河」はどこか。やや時代は下るが「飛鳥」に「川原」がある。「飛鳥板蓋(いたぶき)宮災(ひつけ)り、飛鳥川原宮に遷居す」(斉明紀655年)とある。宮名に使うのだから「川原」はただの河川敷ではない、れっきとした地名である。明治期に「肥前三養基(みやき)郡川原地区」があったという。現寒水川(しょうずがわ)中流である。そこには現「川原橋」もある(筆者確認)。「馬子の飛鳥河」は「現佐賀県三養基郡寒水川中流川原地区」であろう。そこは稲目の本拠のあった「現鳥栖市向原川」(前出(1))の10㎞程西である。佃收(つくだおさむ)説を参考にした(「古代史の復元」⑥ 佃收 2004年 星雲社)。 (3) 「飛鳥河とは寒水川の支流の山ノ内川」と佃は比定するが、山ノ内川は矮小な川で、飛鳥板蓋宮・飛鳥川原宮・飛鳥岡本宮(次項)などを建てる地相ではない。「河」字の元義は「大河(黄河)及びその支流」を指す(講談社大字典)。ここでは「大河(筑後川)及びその支流(寒水川=飛鳥河)」であろう。「佐賀県みやき町寒水川が飛鳥河⑨」と筆者は考える。大和には筑後川に匹敵する大河は無い。その支流「飛鳥河」は大和ではない。「法興寺の飛鳥河とは大和飛鳥川」は誤説である。 (4) 推古の次、舒明紀630年に「天皇、⑩飛鳥岡の傍に遷る、是れを岡本宮と謂う」とある。その次の宮は「百済川を宮処となす」(舒明紀639年)とある。「宮処」は「肥前神崎郡宮処郷」(肥前風土記)であろう。「百済川宮処も飛鳥岡本宮も肥前」と考えられる。舒明が崩ずると「臣下が筑紫より馳騨(はいま、駅馬)で(舒明の)葬に駆けつけた」(皇極紀元年642年)とある。舒明の本拠「飛鳥岡本宮は九州肥前」を示唆している。 (5) 舒明の次、皇極紀643年に「四月、権(かり)宮より ⑪飛鳥板蓋新宮に移幸す、、、六月、筑紫大宰が馳騨(はいま、駅馬)で奏して曰く、高麗遣使来朝す云々」とある。同じ理由で「飛鳥板蓋宮⑪は九州内」である。 ここまで用明紀から舒明紀までの50年間に出てくる「飛鳥」を仮に中期飛鳥とすれば、「中期飛鳥は大和ではない、すべて九州内、特に肥前」と解釈される。 ●511 蘇我氏の飛鳥進出 では、なぜ蘇我氏が肥前に本拠を持ち、大和天皇の宮が九州内にあったのか。第二章で検証するが、大和王権の継体/物部麁鹿火(あらかい)は「筑紫の君磐井(いわい)の乱征伐」(継体紀527年)に成功し、豊前の磐井の遺領を収奪して筑紫に仮宮(難波祝津(はふりつ)宮)・豊前に宮を持つに至り一時的に「大倭国勾金橋に遷都した」(安閑紀534年)。この「大倭」に紀岩波版を含む写本は全て「やまと」と振り仮名しているが、これでは「大和朝廷の九州遷都」は読み取れない。正しくは「大倭(たいい、たい、またはつくし)」である(論証は第三章)。先んじて九州に定着していた蘇我氏がそれを支援し、大和王権大臣に取り立てられた(第三章)。乱で弱体化した倭国に代わり任那回復戦略を任され(任那日本府)、その責任者とされた大和王権の物部麁鹿火・蘇我稲目が倭国朝廷にも参画して半島戦略を論じ(欽明紀元年条)、倭国大連尾輿らと主導権争いをしたようだ(第三章で詳述)。 蘇我稲目は肥前向原(むくはら、現鳥栖市向原(むかいばる、現地現在呼称)川付近か)を本拠とし、子の馬子とその子蝦夷はその10㎞西の肥前飛鳥河傍(ほとり)(現佐賀県みやき町寒水(しょうず)川中流域川原地区か)を本拠とし、蝦夷はその10㎞西の肥前神崎郡宮処百済川付近(現佐賀県諸冨(もろどみ)町城原(じょうばる)川か)も領して、大和王権の用明~推古~舒明・皇極に(恐らく豪勢な)宮を提供した。大和王権の本領は大和であり豊前であり、各地に屯倉を領有したが、その管理は蘇我に任せ、蘇我系の妃は提供された蘇我領の豪勢な宮で皇子を育てたと思われる。皇子は次代の大和天皇となるが蘇我領に提供された宮を大和朝廷とし、蘇我大臣が専横した、と考えられる。このような外戚戦略は倭国の物部氏に学んで模倣したと思われる。そのような「大和王権の九州遷都」が一時的とはいえ、安閑~推古まで70年余り続いた。 この結論は日本書紀の「最も面白いドラマの舞台『飛鳥』が実は大和でなく九州だ」、という「これまでの常識では受け入れ難い認識変更が要求されている」ということを意味する。それは「常識」が誤読に基づいてきたからで、「新たな認識」は日本書紀の殆どの記述と整合する、即ち「新たな認識は日本書紀原文によって裏書きされている」のである。その背景を、第二章で「大和王権の一時的な九州遷都時代があった」こと、この第三章で蘇我氏の本拠が「大和(前期) → 九州(中期) → 大和(後期)」の流れに在ったことを論証する。第四章で蘇我氏と対抗した物部氏の本拠が九州であったことを論証する。 それはそれとして、ここでは「飛鳥」について更に検証を進める。 ●512 前期「大和飛鳥」と中期「肥前飛鳥」の関係 「馬子の法興寺は飛鳥真神原」(崇峻紀)・「飛鳥の馬子桃原墓」(推古紀)が「肥前飛鳥」であった、と検証したが、これらの地名が前述した雄略紀にもあった。再掲すると、 この「上桃原、下桃原、真神原」と崇峻紀・推古紀の「真神原」「桃原」と同一地だろうか。組み合わせの希少性から、同一地と考えられる。もしそうであるなら、ここの地名は肥前である。では、雄略はこの時代に肥前を支配していただろうか。否、この時代は倭国王興が宋に遣使して列島宗主国と認められた時代である。それは倭国/大和王権の連合軍が外征し、半島支配を強めたからに他ならない。倭国と大和は百済王の二兄弟を人質として分け取りしている(雄略紀五年条)。また、「漢人技工招聘事業」で協力している。上掲文はその記事である。九州は肥前も含めて倭国(筑紫国)の支配下にあった。大和はその倭国から兄弟国扱され、任那戦略を任された倭諸国筆頭だったのである。 そのような背景から、上掲雄略紀は「九州肥前を支配する倭国王は肥前飛鳥の東漢(阿知子孫)に招聘漢人の飛鳥桃原・真神原への入植を管理させた。その招聘漢人の一部を雄略が分け取りして住吉津(すみのえのつ)経由で大和飛鳥(恐らく近つ飛鳥)に入植させた」と解釈することができる。前掲崇峻紀588年から「新漢の内、樹葉(衣縫の祖)は肥前飛鳥に残り、一部は大和に移り衣縫部となった」と読み解ける。そう解ってみるとこの「東漢に新漢を三か所に遷し居らしむ」の主語は雄略ではなく、倭国王であること、「三か所」は大和でなく九州であること、「雄略は三か所の新漢の一部を貰い受けて大和飛鳥に移住させた」と解る。「東漢」は九州であるから従来の読解は誤読である。 ●513 誤読の原因は「振り仮名」 そうであれば、「東漢」に「やまとのあや」と振り仮名したのは「正しくない振り仮名」であり、誤読「中期飛鳥もやまと」の原因の一つである。これは「倭」に「やまと」と振り仮名したり、「日本、これをやまとと読め」と後代注した流れと同じ、結果的には「日本書紀を誤読誘導」した「振り仮名誤読」の一例である。 上掲雄略紀の振り仮名は日本書紀岩波版の例であるが、この書は「訓読・振り仮名」について冒頭の「訓読解説」で「奈良時代、1000年頃の確からしい最古の訓読文献に従う」としている。即ち、岩波版は「訓読」に関する限り「史実(600年頃)の検証よりも、また日本書紀(~750年頃)の編集意図よりも、後世(1000年頃)の文献の再現」を優先しているのである。してみれば、この「東漢(やまとのあや)」も史実や紀の意図ではなく「1000年の誤読」に由来するものである。 この解釈によって「阿知と飛鳥」の関係は次のように正される。「280年頃阿知一族が渡来して一部は肥前(佐賀県三養基郡みやき町付近)に定着して『飛鳥』と名付けられた。400年頃その一部は応神・仁徳(履中の父)に従って九州から河内・大和に移住定着し、肥前の地名『飛鳥』を大和に地名移植した(河内飛鳥)。460年頃新漢が大陸(中国または半島)から肥前飛鳥に招聘され、この一部は河内飛鳥に入植した。肥前飛鳥に残った新漢子孫の痕跡(樹葉の廃屋)は100年後にも肥前にあった(崇峻紀588年)」と解釈される。 そもそも「東漢」は後漢王族の流れをくむ「東方の漢」を意味する200年続いた漢一族の自意識・自称であり、漢語であろう。またそうであれば「飛鳥の東漢」の「飛鳥」も東漢の自称漢語地名の可能性がある。彼らは本国漢から東の半島へ移住して「東漢」を自称し、更に九州に移住して(その一部)は肥前に土地を与えられ、そこで本国から遠く海をこえた自分たちを渡り鳥になぞらえて地名を「飛鳥(ひちょう、漢語)」と自称した可能性がある。「東」字は「九州から見た東=やまと」の意味でなく「故郷漢の東=半島」の意味であろう。その根拠の一つは上掲推古紀に「飛鳥河」とある。「河」字は元来「黄河及びその支流」を指し(大字典、講談社)、「大河好みの中国人漢語」と考える。「飛鳥河」も漢語であろう。「飛鳥」は漢人入植地の漢語名と考えられる。 ●514 「飛鳥」 → 「明日香(あすか)」への経緯 (筆者推測) ではなぜ「飛鳥」は「あすか」と読まれるのか。「飛鳥」は渡来漢人の漢語自称、と推測した。渡来漢人は「飛鳥(ひちょう)」と読んだであろう。渡来人は(漢人も韓人も)一か所に集まる(集められる)傾向がある。渡来した「韓人」の場合、まず九州の漢人入植地(例えば肥前飛鳥)の一角に集められ、村を作り韓語の「安宿(あんすく)」と名付けた、としよう。「飛鳥の安宿」である。これが倭人には「あすか」と聞こえ「明日香」と書いた(和語表音漢字表記)。漢文では漢人の時代の名残でこの地域を「飛鳥」と書いたが、訓読が普及した推古期以降「飛鳥(あすか、漢語の和語読み・訓読)」が定着した、と考える。例えば、「河内の近つ飛鳥」(現飛鳥戸神社付近)には古来「飛鳥戸(あすかべ」一族」が住み着いたがこれは百済系の一族である(新撰姓氏録、渡来は雄略期か)。漢人系の百済人であろうか、漢人渡来が減って百済渡来人が増えたのであろうか。そうであれば、雄略期以後の「あすか地名由来譚」が「履中紀に遡及記述された」と考えられる。 まとめると「漢人の漢語地名『飛鳥(ひちょう)』の一角に韓人が韓語地名『安宿(あんすく)』村を作り、それを倭人が『あすか』と呼んだ。後世漢文の『飛鳥』の訓読(普及は推古期以降)として『飛鳥(あすか)』が定着した」と筆者は推測する。別説に「明日香の枕詞『飛ぶ鳥』に由来する」とする説もあるが、由来が忘れられたのちの「枕詞の普及後のあと知恵」ではないか。 ●515 後期の飛鳥 「乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)」で蘇我宗家が滅亡すると、皇極は孝徳に譲位した。孝徳は本拠を九州飛鳥から摂津難波に遷した。難波宮である。蘇我氏の反撃を恐れたのだ。推古の大和小墾田宮を依然として領有していたようだが、大和小墾田宮の周りは蘇我領(山田寺など)で蘇我大和支族が居たので距離を取ったのであろう。これに対して、中大兄皇子が難波から大和への遷都を主張した。 この「飛鳥」はわざわざ「倭(やまとの)飛鳥」と断っているから「大和飛鳥」である。「やまと」に「倭」字を当てたのは天武時代であるから、孝徳紀で使っているのは遡及表記である(次話で検証する)。「飛鳥河」ともあるが、肥前飛鳥・飛鳥河の地名移植であろう。蘇我蝦夷・入鹿が大和蘇我領の拡大を狙い、本拠肥前飛鳥の地名を大和蘇我領に地名移植したと考えられる。馬子が推古に提供した(大和)小墾田宮も肥前小墾田の地名を宮名に使っている。これら肥前飛鳥も大和飛鳥も乙巳の変後に中大兄皇子が蘇我氏から奪ったのであろう。「履中紀の大和遠つ飛鳥」とは別の場所である、と前述した。 孝徳天皇が崩御すると、皇極上皇は再び即位した(斉明天皇、重祚)。 この「飛鳥板蓋宮」は「倭」の注もないから前出の「肥前飛鳥板蓋宮」の再出である。斉明は大和飛鳥から生まれ育った肥前飛鳥に戻って即位している。大和飛鳥宮は「行宮(かりみや)」だからであろうか。自分の血統(九州上宮王家系)に拘ったのかも知れない。 以後の変遷は、 宮名に使うのだからこの「川原」は河川敷ではない、れっきとした地名である。肥前三養基(みやき)郡川原地区であろう(明治期地名)。現在も「川原橋」が近くにある(筆者確認)、と前述した。これら⑬⑭⑮は肥前であるが、即位に使っただけの過渡的な再出である。 この「飛鳥岡本」は肥前のように見えるが、⑫・⑯以降は「大和飛鳥」(肥前からの地名移植)である。九州倭国が唐と険悪になりつつあり、危険な九州から離れたいと大和に戻ったのであろう。「飛鳥岡本宮(舒明の宮、肥前)」と紛らわしいので「⑰後飛鳥岡本宮(やまと)」と命名したという。 後飛鳥岡本宮はのちには単に岡本宮と呼ばれ(672年)、その南に「飛鳥浄御原宮」が造られた。これが「大和飛鳥」であることは疑問の余地がない。 上述のように、斉明天皇は肥前飛鳥から大和飛鳥へ遷都した(656年)。火災も一因かもしれないが、両王権統合の進展(大和王権と上宮王権はニニギ系同族王統として融合しつつあった)、倭国の外交危機からの避難など、これも複雑な事情が推測される。この「後飛鳥岡本宮」は大和の「飛鳥浄御原宮」として続く。以後、飛鳥と言えば大和飛鳥を指すようになる。 付言すると、日本書紀は肥前と大和の飛鳥を一見区別していないように見える。このことが、「飛鳥は大和」とする通説と、「日本書紀はすべての飛鳥が大和であるように造作している、捏造している」とする九州王朝説の論争を呼んでいる。しかし、注意深く読むと日本書紀は二つの飛鳥が混同しそうな時は「後飛鳥岡本」としたり「倭飛鳥」として区別している。読者の混同・誤読の責めを負わないような布石を打っている、といえる。通説も九州王朝説も正しくない。日本書紀は「二つの飛鳥」を明言していないが否定もしていない。 以上、記紀の「飛鳥」について前期(大和)・中期(肥前)・後期(大和)を見てきた。 ●516 飛鳥寺 紀には後期の「大和飛鳥」は30回出てくる。その内「⑱飛鳥寺」(大和飛鳥)が斉明紀以降19回を占める。その大半が一行の祭祀記事である。ただ、この飛鳥寺記事は後世誤解が多い。 飛鳥寺は現在奈良明日香村にある。飛鳥大仏で有名である。元は「丈六仏」を安置する元興寺として推古紀に出てくる。 推古はこの時大和小墾田(おはりだ)宮に居る(603年豊浦宮(九州肥前または豊国(筆者説))から遷っている)。ここで「共同誓願」とある。従来「推古天皇と聖徳太子の共同誓願」と誤読されているが、「天皇が皇太子に詔して」いるのだから、これは命令であって「共同誓願」の相手は皇太子ではない。相手は対等の誰かであろう。推古は大王である。対等の相手も大王であろう。当時、推古天皇の他に大王が居た、とは定説に無い。ただ、九州王朝説では他に倭国王が居た、とする。「大王二人説」である。大王は元号を発令するが、当時元号は三つあり、大王は三人いた。三王権あったのだ。大和王権と倭国王家と上宮王権である。推古と対等なのは上宮王(大王、法隆寺釈迦三尊光背銘では上宮法皇)か倭国王(天王、雄略紀)である。推古と上宮大王は王権は異なるが共に北朝仏教派、共に蘇我が大臣を務めた。倭国王は南朝仏教だから共同で寺は造らない。推古の共同誓願の相手は上宮王である。 そうであれば、この計画は共同とは言え、仏教に熱心な上宮王の主導であろう。なぜなら、上宮王は大和に拠点寺を持ちたかった。皇太子は斑鳩に移っているし、北朝仏教は九州肥前には法興寺が既にあるが大和にはまだ無い(斑鳩寺の初出は一年後、推古紀606年)。上宮王は大和・大和王権(ニニギ/神武系)・その再興にも興味がある(上宮王は倭国内ニニギ系、次著「一図の応神天皇」参照)。そこで推古と共同誓願寺を計画した。即ち「二天皇」の共同誓願である。推古紀は「二天皇」とは書けない。だから、前掲文は「天皇(推古・上宮王の二天皇)は、(上宮王の)皇太子、(二王家の大臣を兼ねる蘇我馬子)大臣及び諸王諸臣に詔して(推古・上宮王の二天皇の)共同誓願を発す、、、」のように、括弧を加えた意味であろう。紀では括弧を伏せたから「共同誓願」は「推古天皇と皇太子の共同誓願」と誤読されている。紀の読者(昔から現代に至るまで)には「二天皇」の発想は全く無いから、誤読も止むを得ない。 後半に「日本国天皇」とあるのは「推古天皇」である。「日本国」は近畿を指し、大和王権を必ずしも意味しないが(見做し国名、前著)、近畿にいる「天皇・大王」は推古しか居ない。高麗国の関心は東方軍(近畿軍)であって、推古に「対隋戦に東方軍の支援」あるいは「争っている百済に援軍を出さないように」を期待して黄金で歓心を買おうとしたのであろう。 元興寺の場所は推古の大和小墾田宮の近く、現「飛鳥寺」のある明日香村である。大和蘇我領が近い(山田寺)。蝦夷・入鹿は明日香の甘樫丘に御所風の邸宅を造って大和本拠としようとした。「飛鳥」の地名は恐らく蘇我蝦夷・入鹿が大和蘇我領拡大に力を注いだ時期、肥前本拠の地名「飛鳥」を大和に地名移植したのであろう。元興寺はのちに飛鳥寺と呼ばれた(紀初出は斉明紀三年657年)。 ●517 法興寺と元興寺の混同 定説では「この元興寺は別名法興寺(元興寺=法興寺)」とされる。しかし、法興寺は「蘇我馬子が物部守屋討伐に戦勝祈願して建立を約した寺」で、肥前飛鳥に建てられた。 「法興寺は飛鳥に建てられた」とある。肥前飛鳥である、と検証した(上述)。建立は「物部守屋討伐戦勝祈願」が成就したからで、「反排仏派」「反物部」で結束した蘇我氏と上宮王の「法(北朝仏教)興(隆を願った)寺」である。一方、「元興寺は大和飛鳥(明日香)」である。推古と上宮王の共願寺であるが、推古にとっては「皇女時代の自分の宮を仏堂にしたが、その仏堂が守屋によって焼かれた」、その「(私の仏教の)元(となった宮の再)興(の)寺」である。二寺は場所も施主も異なるが、定説も諸研究も「法興寺=元興寺」と混同・迷走して誤解から抜け出せていない。混同の原因は後世(天智以降)にある。①大和飛鳥から平城京へ丈六仏を残して移転(元興寺)、②丈六仏を除いて焼失(本元興寺)、③九州飛鳥から大和飛鳥への移転(法興寺)、④寺名の変遷(飛鳥寺)、⑤それぞれの盛衰、など様々な変遷があったからであろう。だが、それは後世のこと、まだこの時代は「法興寺は肥前飛鳥真神原の蘇我氏私寺」であり、一方「元興寺は大和の大和王権・上宮王家共同誓願官寺」である。 丈六仏元興寺と法興寺が同一だとする誤解は次の文からも来ているようだ。 「法興寺丈六仏」とあるのはここだけだが、前項「丈六銅像は元興寺金堂に坐す」と合わせて「法興寺=元興寺」と昔から誤読されている。しかし、この文の前後には「猿」「茸」「胆駒山(生駒山)」などが出て、豊浦大臣(蘇我蝦夷、馬子の継嗣)の大和訪問時、即ち「丈六仏の元興寺」訪問時の描写と考えられる。即ち「丈六仏の元興寺は大和」に建てられたことの傍証となっている。これに対して大臣は、「献大法興寺丈六仏」と金墨で大書して元興寺丈六仏に献上したようだ。「元興寺は法興寺」と「妄推」しているのである。それには次の理由があると考えられる。蘇我氏は肥前だけでなく大和にも「私寺法興寺」を持ちたかったのだろう。大和推古王権の大臣であり、大和蘇我領が拡大しつつあったからだ。ところが、その前に「共同誓願寺元興寺」が実現してしまった。この計画に蘇我馬子が相当の寄進を出したに違いないが、それから40年も経って子の蝦夷の代から見ると、「第二の蘇我氏私寺、大和法興寺であったら良かったものを」の思いは日頃からあったのであろう。この年は蘇我氏の絶頂期で、蝦夷の子入鹿が山背(やましろ)大兄王一族を生駒山に追い、斑鳩で滅亡させた翌年である。ここで「妄推」という特殊な用語がでてくる意味を理解しなければならない。蘇我氏の専横ぶりを非難した言葉であるが、「花を見て蘇我氏が栄えるだろうと妄推する」などは専横とする程のことではない。「上宮王家と大和王権の共同誓願官寺元興寺(大和)」を「大和の蘇我私寺法興寺」と見做して憚らない、それが妄想・専横なのだ。この一年後、乙巳の変が起こり、肥前板蓋宮大極殿の皇極天皇の目前で入鹿は暗殺され、蝦夷も自害する。 「元興寺=法興寺」の誤認のもう一つの遠因は、紀の「倭国不記載」だ。「崇仏・排仏論争」「難波江に仏像を投棄」「九州飛鳥の法興寺建造」は全て九州での事績だが、「大和の事績」と記されていないにも関わらず「倭国不記載」と「後世の振り仮名」に依って「大和の事績」と誤認されているからだ。「法興寺は九州」「元興寺は大和」が史実であって、「法興寺=元興寺」は誰も肯定しなかったが、誰も(特に皇室が)否定しないが故に記紀の定説的解釈となっていった。後世の「法興寺が九州から大和へ移転」で否定の意味も薄くなったが。 ●518 まとめ 以上の検証で記紀の前期・中期・後期の「飛鳥」が以下の様にまとめられる。 原初の飛鳥は300年頃漢人阿知らが渡来し、肥前に入植して飛鳥(漢語地名)と命名した。記紀には出て来ない。 前期飛鳥(400年頃)は「阿知子孫らの一部が河内・大和に移住し、飛鳥の地名を移植した地」。文化的に見るべきものは特にない。 中期飛鳥(580~650年)は「肥前飛鳥に一時遷都した大和王権の宮地」。文化的には「仏教論争と北朝系仏教の興隆で飛鳥文化が花開いた」。政治的には「倭国と大和王権、物部氏と蘇我氏の競合で激しく多彩な事件があった」(物部守屋討伐譚)。 後期飛鳥(650年~)は「大和朝廷が大和南部に帰還遷都して新たに地名移植した大和飛鳥」。紀では「明日香村の飛鳥寺」記事が大半だが、この地には九州の古寺が多く移築されて肥前飛鳥文化の継承地となった。 以上により「飛鳥」の不思議はほとんど解明される、と考える。「解明」が時として「夢とロマン」を消し去ることもある。しかし、「解明」は「正しい理解、という安心感」と「更なる次の夢とロマン」を与えてくれるに違いない。 はじめに 第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」 第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」 第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」 第四章 「物部氏」のすべて 第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」 第六章 「法隆寺」の変遷 第三章 誤読されている「蘇我氏」 日本書紀は「倭国不記載」「二王権不記載」の方針で編纂されているから、蘇我氏の事件譚「仏教論争譚」「天皇継承指名譚」「物部守屋討伐譚」がすべて「大和王権内の事件譚」と誤読されている。それら「不記載」の裏を読み解けば「蘇我氏は三王権すべてに大臣として関わっている」という瞠目の解釈が日本書紀にから読み取れる。これを理解しないで「蘇我氏」を論ずることはできない。本話をもとにした新編「一図に見る蘇我氏」も参照されたい。 ●519 蘇我氏の出自は大和だが、九州に定着した (検証) 蘇我氏の祖は武内宿禰の三男蘇我石川宿禰(新撰姓氏録)、本拠は大和(葛城?)であった。記紀に登場するのは、石川から四代目の蘇我稲目→馬子→蝦夷(えみし)→入鹿(いるか)である。これら四代の本拠は大和とされている(定説)。しかし、これら四代の本拠は正しくは肥前である。四代の間大和に旧領を保持していたかは不詳だが、三代蝦夷・四代入鹿の代で(肥前に続く)第二の拠点を大和に再構築しようとしたことは後述する。ここでは石川~稲目までの本拠移動の経緯を推定する。 (1) 一族の祖石川宿禰(武内宿禰の子)は「仲哀/神功/武内宿禰の熊襲征伐~新羅征戦」に従ったと推測される。その根拠は、子孫の名前に子「満致(まち)」(百済系の名)・孫「韓子(からこ)」・曽孫「高麗(こま)」が居る。このことから「蘇我氏は渡来系」と推測する説もあるが、子孫に「いがみあっていた三韓に因む名」をつけているから、三韓のどれかから渡来したとは考えられない。逆に石川一族は「三韓征戦に携わった」と推測する方が妥当である。 (2) 石川の子満致(まち)は時代的に「三韓征戦後の応神・仁徳の大和帰還/東征」に従い河内に移った、と考えられる。九州倭国将軍の一部が仁徳に従った。その結果、河内大和王権には三系統の家臣が混在することになった。第一は「九州から河内に移った九州系将軍(物部麁鹿火(あらかい)など)」、第二は「元は大和だが、九州遠征から河内に戻った大和系将軍(石川二代目満致(まち)など)」、第三は「大和から河内に従った大和系物部氏(物部印葉(いにば)など)」などで、順位は上記の様に見える。 (3) 石川の孫蘇我韓子(からこ)の名が雄略紀465年の「新羅経略譚」にみえるから、「倭国(倭王興)・日本(雄略)連合軍の百済・新羅の経略」に従った、と考えられる。
(4) 石川の曾孫蘇我高麗(こま)は時代的には「継体の筑紫君磐井(いわい)の乱討伐」(物部麁鹿火(あらかひ)が主導)に従い、「麁鹿火を大将軍とする任那遠征」にも加わった可能性があり、この時代に蘇我高麗は九州に定着したと考えられる(次項)。 (5) 継体の次、安閑天皇/物部麁鹿火大連は磐井の九州遺領を収奪して屯倉(みやけ)とした(豊国が最も多い、安閑紀二年条)。その一つを本拠として、安閑は大倭国勾金橋(豊国、現福岡県香春町勾金)に遷都した、と安閑紀元年条にある(前話「大倭」参照)。屯倉を整備し、遷都を準備したのは蘇我高麗であろう。なぜなら、高麗の子蘇我稲目は大臣に抜擢され、再任大臣(大伴金村・物部麁鹿火、いずれも本拠は河内)に並んで屯倉の管理を任されている(宣化紀元年条536年)。 以上、蘇我稲目の父祖は「倭国/日本(大和+近畿東国)の半島経略」に従事しながら、「大和王権の九州拠点獲得」で成果を上げて大和朝廷に重用されるきっかけをつかんだと考えられる。情報が限られているから状況証拠に基づく推測に留まるが、「稲目の活動拠点は定説の大和でなく、九州である」の背景を推測した。 ●520 大和朝廷と倭国朝廷の接近 安閑天皇は九州豊前に遷都した、と前節で述べた。このような解釈はこれまで定説に無かった。その史的背景は長い。 (1) 「継体即位」から始める。「応神系の武烈に継嗣が無く、応神五世孫の継体が立てられた」とある(継体紀)。応神は九州系で、倭国・日本連合の半島征戦で大戦果を挙げている(広開土広開土王碑王碑)。それ故「応神の即位には九州倭国の後ろ盾があった」と推測される。それならば、「応神の同族である継体の即位にも倭国の支援があった。継体は倭国に恩義を感じていた」と推測される(次項)。 (2) 「倭国王に対する筑紫君磐井の乱」が起こった。磐井は「自分の先祖は大和系大彦だ。大和の継体と手を組めば倭国を倒せるはずだ」と考えたに違いない。しかし、継体は倭国側に立った(前項)。物部麁鹿火大連を大将として国運を賭して討伐に当たらせ、難攻の末征伐に成功した。これにより、継体/物部麁鹿火は磐井の豊国遺領を収奪して、「東方軍の任那攻略の為の中継基地」とし、一方倭国はより豊かな筑後の磐井遺領を収奪したようだ。継体には「倭国への譲歩と奉仕の姿勢」が見える。 (3) 倭国はこれを機に内政重視、半島経略は物部麁鹿火(継体の大連)を総大将とする東国軍(日本軍)が主体の倭国・日本連合軍に任せた。 これに伴い、継体の次安閑・宣化天皇は任那奪回軍を統括すべく、「東国と半島の中継地」の意味もある磐井遺領の一つ、豊国の勾金橋に遷都した。麁鹿火の半島経略は必ずしも成果を挙げられなかったが、磐井遺領の収奪により九州のみならず各地に多くの屯倉を得るなどの成果を挙げた。磐井の同族(大彦七族)に屯倉を差し出さたりしたのであろう。 (4) 磐井討伐の将軍物部麁鹿火の父祖は仁徳の河内東征に従った「九州物部氏の河内支族」であった。麁鹿火は討伐に成功し、更に九州に大軍を集めた任那回復軍の総大将として権勢は九州物部氏(宗家)を上回る程であった。例えば、九州物部氏の当主物部尾輿大連は九州の宮に遷った安閑皇后に土地を献上したりしている(安閑紀元年条)。大和が倭国を宗主国としながらも、実力では倭国を凌駕した一時期であった。 (5) 倭国は高い文化を持っていたが、権威が低下していたから、同族的な大和王権が支えてくれることを歓迎した可能性がある。一方、大和王権は同族倭国の権威に支えられてきたから、倭国朝廷に参画して存在感を高めたことに満足していた節がある。お互いに持ちつ持たれつであった。 以上、大和王権が九州に遷都した背景をまとめた(詳論)。その論証の詳細はこちら ●521 蘇我稲目の本拠は九州肥前小墾田である (論証) 記紀に登場する稲目の本拠を検証する。 (1) 稲目の本拠は九州である。なぜなら、安閑の遷都した「大倭国勾金橋宮」は九州であった(前話)。安閑(在位2年)の次宣化天皇も大倭国を本拠にしたことは「陵は大倭国にある」(宣化紀四年)から解る。安閑紀の「大倭国」と宣化紀の「大倭国」が異なる根拠は見出せないから、宣化の本拠は安閑と同じ九州である。その宣化は稲目を大臣にしている。即ち「物部麁鹿火大連が再任され、稲目は大臣に任ぜられた」(宣化紀元年条536年)とある。「稲目」の紀初出・初任である。稲目の本拠は宣化天皇と同じであろう。従って、蘇我稲目の本拠は九州である(論拠)。 (2) 稲目の本拠は九州「小墾田」である。その根拠は「稲目の小墾田の家は向原(むくはら)の近く」(欽明紀552年)とある。「小墾田屯倉」は安閑妃に与えられていた(安閑紀元年条534年)。安閑の本拠は九州だから、その妃も九州であろう。小墾田は九州、従って「稲目の小墾田の家」は九州であろう(論拠2)。 (3) 稲目の本拠「小墾田」は九州肥前である(前項)。小墾田が九州であるから、「九州の向原」は「現佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川」の近く(肥前)であろう。従って「稲目の小墾田の家」は「九州肥前」である(論拠3)。 (4) 安閑紀に「物部尾輿大連」が初出している。「物部尾輿大連(初出)が、ある盗難事件に関連して安閑皇后に筑紫国の土地などを献ずる事件」(安閑紀元年条)がある。安閑天皇・皇后が九州に遷都した時期である。任命記事が無いのに大連として初出しているから、これは「尾輿大連は他国の大連」を示唆している(考証)。大連を持つような九州の他国とは「筑紫の倭国」しかない。別の史料からも「物部尾輿は九州物部氏」が示唆されている(先代旧事本紀)。即ち、「物部尾輿は九州倭国の大連」であった。安閑(二年)・宣化(二年)の次、欽明天皇はしばしば九州の「難波祝津宮(はふりつのみや)」に来て任那回復軍を指揮した(欽明紀元年条)。「物部尾輿大連を大連と為す、故(もと)の如し」(欽明紀元年条554年?)とある。「初任」記事なのに「故の如し」とは「初任の前から大連であった」、即ち「尾輿は既に大連であったが、初めて大和大連と為す」を意味する。上述の「初任記事がないのに大連として初出」(安閑紀)と整合する。「難波祝津宮(はふりつのみや)は九州」の根拠は欽明がここに来て「新羅を伐つにはどれ程の軍が必要か」と聞いている。「新羅征戦に詳しい土地柄」は九州である。「そう簡単ではない」と率先して答えているのは物部尾輿である。尾輿は倭国大連である。これらから「難波祝津宮」は九州難波である(「「三つの難波」」参照)。 (5) 欽明天皇はしばしば九州に来た((4)) 。稲目は更に九州に留まるよう欽明天皇に娘(堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ))を妃として送り込んでいる。堅塩媛の皇子・皇女は用明天皇・推古天皇となっているから蘇我氏は大和王権の外戚となったのであるが、それはのちの話。 即ち、「物部尾輿は九州倭国の大連として、九州に遷都した大和王権(安閑・宣化・欽明)と接点を持ち、大和王権大連にもなっている。一方、蘇我稲目は宣化の大臣となっている。尾輿大連と稲目大臣は倭国の北朝仏教導入で論争している(後述)。また、大和王権の次代天皇(用明)氏名で争っている(詳論)。稲目の本拠は九州である(論拠4)。 以上、「蘇我稲目の本拠は九州肥前三根郡向原(現佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川)近く」が確認できた。 ●522 仏教初伝 稲目の最も注目される業績は「仏教初伝」である。これを示す重要文献は二つある。一つは戦前に定説の基とされた欽明紀552年の「仏教公伝」である(以下「欽明紀」)。もう一つは戦後に定説とされた「元興寺」(以下「縁起」)がある。 元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳 (要旨、番号は筆者)   「①大倭国仏法、創(はじ)めて、百済から度(わた)り(戊午538年)、②天皇が群臣に諮ったところ神道派が反対し、独り蘇我稲目が勧めたので、天皇は試みとして稲目にだけ崇仏を許した。③その後、排仏派と崇仏派蘇我稲目の論争が続く。④稻目大臣が死去(已丑年、569年)すると、⑤神道派等は天皇の許しを得て堂舎を燒き、仏像・経教を難波江に流した」
  注目部分は①である。「大倭国仏法、創(はじ)めて、度(わた)り来る(538年)」とある。この縁起は「仏教初伝は538年」とする教科書の根拠とされる文献である。信頼性に欠ける部分も指摘されるが、ここに挙げた部分は次の欽明紀と一致する内容があり、検証の価値がある。 戦前は記紀を至上とする時代背景から欽明紀の「仏教初伝は552年」が定説とされていた。 欽明紀552年 (要旨、番号は縁起の番号と類似内容に対応) 「①百済王から仏像・経典などの贈り物に天皇がこれほどの妙法は聞いたことが無い、と歓喜踊躍した、、、②しかれども朕自ら決めず、、、群臣に歴問す、、、蘇我稲目が受け入れを奏し、物部尾輿・中臣鎌子が反対した、、、天皇、稲目に試みに拝ましむべし、、、③後に、国に疫気おこりて、、、⑤物部尾輿ら奏す、、、天皇曰く奏すままに、、、仏像を以て難波の堀江に流し棄つ、、、」 これらの文献から、「仏教初伝」「仏教論争」が次のように読み解ける。 (1) 縁起①に「大倭国」とある。従来「大倭(やまと)国」と読まれてきた。しかし、縁起が「戊午538年」と明記するこの年には大和には仏教が伝わっていない(「欽明紀」)。従って、従来の読み方は問題がある。この読み方は第一章で検証した「大倭国(たいのくに)」または「大倭国(つくしのくに)」と読むべきだったのではないか。即ちここの「大倭国」は「九州倭国」の意味である。実は、この時代に九州倭国では既に仏教が伝わっていた。九州倭国の年号とされる「九州年号」に「僧聴」(536年-549年)があるから仏教初伝は536年以前である。倭国の前身は「宋書倭の五王の倭国」であることは既に検証している。宋は南朝であるから、その仏教は南朝仏教である。従って「倭国に南朝仏教が初伝したのは536年以前」と考える。 (2) 縁起①の次に「仏法創(はじ)めて百済から度(わた)り来る」とある。「仏教初伝」とされる所以(ゆえん)である。しかし前項からこれは正しくない。では、これをどう解釈すべきか。百済は471年以来、北朝系の北魏に朝貢しているから、その仏教は北朝仏教である。従って、ここの意味は「倭国に創(はじ)めて本当の仏教(北朝仏教)が度(わた)り来た」と元興寺が主張している、と解釈すれば整合する。 (3) 百済王が新興の北朝仏教を勧めた相手は倭国王である。百済自身、南朝仏教から北朝仏教に移った経緯があったと考えられる。まだ南朝仏教に留まる隣国(倭国)に勧めたかったのだろう。それを仲介したのは大和王権の物部麁鹿火や蘇我稲目であった。「磐井の乱」以後倭国に代わって百済との外交を担ったのは麁鹿火の日本軍だったからだ。縁起②では「天皇」と記されているが、元の記述は「大倭国の天王」だったと考えられる(雄略紀5年条の「大倭国の天王」と同じ)。 以上、「倭国に北朝仏教が初伝したのは538年」である。 (4) 欽明紀①に「天皇がこの妙法に歓喜踊躍した」とある。「大和へ仏教初伝」の表現としてふさわしく、この天皇は欽明天皇としてよい。 (2)項 と同じく「百済から」だから「北朝仏教」である。倭国の北朝仏教初伝より14年遅いが、「大和へ」の限定付きならば「大和への仏教初伝(公伝)は552年」が正しいと考える。 以上、仏教初伝は「倭国の(南朝)仏教初伝は536年より前」「倭国の北朝仏教初伝は538年」「大和の(北朝)仏教初伝は552年」の順で、「大和と倭国」「南朝仏教と北朝仏教」の違いを認識すれば、どれも「初伝」として正しい。 では、稲目の寄与はどこにあったのか、仏教論争からそれが解る。 ●523 仏教論争 前節で「仏教初伝譚」を検証したので、「蘇我氏と仏教論争譚」も以下の様に解釈される。蘇我稲目は倭国王に百済の北朝仏教を仲介した。その経緯を想像する。 (1) 「磐井の乱討伐」の為、北九州には大和軍が大挙した。数少ない九州在住大和系として、蘇我氏は大和朝廷(九州遷都)の大臣に任じられ、倭国との仲介や交渉で大活躍したと考えられる。 (2) 大和は任那回復戦略を任され、大規模な日本軍が九州に駐在した。代々半島経略に携わった蘇我家は、百済王家との交渉力もあったと考えられる。「百済王からの仏教仲介」を機に蘇我家は仏教のみならず先進文化の先導役として両朝廷で欠かせない存在となったであろう。倭国朝廷でも「大臣」と呼ばれた様だ(縁起)。大和王権大臣だからそう呼ばれただけか、倭国大臣にも任じられ兼務したか不明だが、その扱いを受けていたことが「仏教論争」から伺える。 (3) 蘇我稲目は自ら仏教に帰依することで「倭国と百済の懸け橋」となり、対抗する倭国物部尾輿大連、大和物部麁鹿火大連に競り勝とうとしたと考えられる。 (4) 倭国朝廷内では「南朝仏教派(倭国王)」「仏教排斥神道派(九州物部尾輿ら)」「北朝仏教派(蘇我稲目)」の三つ巴の論争となった、と解釈すると全て整合する。 以上、稲目の仏教導入は「倭国・大和への先進的北朝仏教導入を目指し、その先に北朝(北魏)の先進的律令制度を導入して国を富ませよう、その先導役で権力を握ろう」としたと考えられる。しかし、稲目が没すると「南朝仏教派(倭国王)」と「排仏派(物部尾輿)」の反撃によって、稲目の寺と仏像は破棄された(仏像の博多難波江投棄譚)。「稲目は仏教論争に敗退した」と考えられている。しかしそれは「倭国朝廷では」の条件が付く。蘇我氏としては「崇仏」を続けている。 ●524 稲目以後 稲目が没すると(569年)、天皇(倭国王)が北朝仏教排斥を許したので、排仏派物部守屋(物部尾輿の後継者)が仏教論争に勝利した。その結果、倭国朝廷内で物部守屋の専横が続き、それがひどくなったので倭国王家諸皇子(大委国上宮王の厩戸皇子)と諸王族皇子(倭国朝廷で王族扱いを受けた敏達天皇の竹田皇子など)、反守屋派豪族(蘇我稲目の子馬子ら)による「物部守屋討伐」(567年)が起こされ成功した(主導は馬子)。 倭国内で物部氏宗家は没落したが、蘇我馬子が主流となった訳ではない。倭国王が権力を掌握したのだ。それが隋書「阿毎多利思北孤の遣隋使」の記述に表れている。相変わらず南朝志向であり、北朝隋には対等外交を目指している。倭国では北朝仏教は許されなかった。 ●525 蘇我氏の本拠 大和 → 肥前 → 大和へ 蘇我氏の出自は大和であったこと、初代石川宿禰から蘇我稲目までに本拠は大和から九州肥前小墾田に移った、と前述した。この先を検証する。 (1) 馬子(稲目の子)の本拠は、結論を先に示すと「九州肥前飛鳥河の傍(ほとり)、現佐賀県三養基(みやき)町寒水(しょうず)川中流域」である。 まず、九州である根拠は「馬子は天皇(崇峻)を弑(しい)し、駅馬(はいま)を筑紫の将軍に遣わし、内乱により外事を怠るなかれ、という」(崇峻紀592年)、とある。この記述から「筑紫に駐留する将軍に陸路駅馬を派遣できる馬子の本拠は九州である」といえる。 では九州のどこか。直前の記事に「紀・巨勢・葛城を大将軍とし、二万餘の軍を領(ひき)いて筑紫に出て居す」(崇峻紀591年)とある。「将軍紀・巨勢・葛城」はそれぞれ「肥前基肄郡基肄(きい)・肥前佐嘉郡巨勢・肥前三根郡葛木」の将軍であろう(いずれも明治期肥前地名)。これら「肥前の将軍に指示をだしている馬子の本拠も肥前であろう。 では、九州肥前のどこか。「(馬子は)飛鳥河の傍(ほとり)に家せり」(推古紀626年)とある。九州肥前にも「飛鳥」の地名があったのだ(第一章)。 では「肥前の飛鳥河」はどこか。「飛鳥」の近くに「川原」がある。「飛鳥板蓋(いたぶき)宮災(ひつけ)り、飛鳥川原宮に遷居す」(斉明紀655年)とある。宮名に使うのだから「川原」は河川敷ではない、れっきとした地名である。筑後川に注ぐ現寒水川(しょうずがわ)の中流に明治期「肥前三養基(みやき)郡川原地区」があった。現在も「川原橋」が近くにある(筆者確認)。佃收は寒水川の支流の山ノ内川を飛鳥川に比定している(「古代史の復元」⑥ 2004年 星雲社)。参考になるが山ノ内川は矮小な川で、飛鳥岡本宮・飛鳥川原宮・飛鳥板蓋宮などを建てる地相ではない。筑後川の支流「寒水川が飛鳥河」と筆者は考える。「飛鳥」のそもそもは漢人入植者が開いた地で、漢人が漢語地名「飛鳥」と共に諸方に移動したようだ(第一章)。「飛鳥」地名も漢人伝承と共に諸方にある。有名なのは仁徳紀の「近つ飛鳥(河内)・遠つ飛鳥(石上神社近くか)」である。大和飛鳥(明日香村)とは異なる場所である。九州の飛鳥の一つ「飛鳥河」は「寒水川」であろう。馬子の本拠飛鳥河は肥前三養基(みやき)郡川原(寒水川)付近であろう。 馬子はどこからこの「飛鳥」に移ってきたのか。寒水(しょうず)川の西10㎞には鳥栖市向原(むかいばる)川がある。「稲目の小墾田の家は向原の近く」(欽明紀552年)とあるように、馬子の父蘇我稲目の本拠である。この「向原」の近くに「小墾田」があることは「稲目宿禰、、、(仏を)小墾田家に安置す、、、向原の家を浄めて寺と為す」(欽明紀十三年)とあることで解る。「小墾田宮に遷る(注に仮宮(かりみや)とも)」(皇極紀元年)とあるから、蝦夷(馬子の子)の時代にも「肥前小墾田」を領有していたことが判る。この小墾田宮は推古の「大和小墾田宮」ではない。馬子は大和領拡大を進めるべく、「推古の大和帰還遷都」を勧め、「大和葛城」の近くに本拠肥前小墾田に因んだ名の「大和小墾田宮」を造営して提供した。推古は603年これに遷った。 また、馬子は岡本宮を建て上宮王(大王、聖徳太子の父)に提供している(推古紀606年)。これも「飛鳥岡本」である。子の蝦夷の時代に「天皇、飛鳥岡の傍の岡本宮に遷る」(舒明紀630年)とある。馬子の子蝦夷は飛鳥に皇極の宮「飛鳥板蓋宮」を提供している(皇極紀二年四月)。その二か月後の記事「筑紫太宰、駅馬(はいま)して奏して曰く云々」とあるから、「飛鳥板蓋宮」も九州である。 以上九州飛鳥は、佐賀県寒水川中流付近、三養基町の旧川原地区であろう。寒水川の傍にかつて「馬子の家」があり舒明の「飛鳥岡本宮」、皇極の「飛鳥板蓋宮」があった。その東10㎞には佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川があり、かつて「稲目の家・小墾田の家」があり、皇極の「小墾田(仮)宮」があった。稲目・馬子・蝦夷はこの一帯を本拠にしていたのだ。 (2) 馬子のもう一つの拠点は豊浦である。これには奈良明日香村豊浦説、肥前説があるが、筆者は前述したように「豊前説」を提案する。この地は瀬戸内海に面した豊前推古領であったものを、馬子が肥前葛木(又は大和葛城)と交換して得、そこに自邸と港と豊浦宮を造り、推古に宮を提供したと推測する。蘇我氏は大和の蘇我領拡大を急いでいる時期であり、肥前本拠と大和自領を結ぶ拠点として、豊国に拠点と港が欲しかった。その数年後に馬子は大和蘇我領に「小墾田宮」と名付けた宮を造り、推古は大和に遷った(推古紀603年)。推古治世の大半はこの「大和小墾田宮」である(宮名であって大和に小墾田の地名は無い)。隋使文林郎裴世清(608年)を迎えたのもここである。馬子は倭国から独立した上宮王(大王)に仕える一方、推古の大臣として時々大和推古天皇を訪問している(二人の大君)。また、上宮王と推古は大和飛鳥に共同誓願寺「元興寺」を建て、二王権の大臣である馬子はそこを訪問している。子の蝦夷も大和の蘇我領拡大を急いでいる。肥前と大和を往復する際の経由港豊浦を拠点にして「豊浦大臣」と呼ばれている(推測、斉明紀)。 (3) 蝦夷の本拠は、西は肥前飛鳥((1)と同じ)。その更に西に舒明の宮を提供した。「大宮及び大寺を造作す、則ち百済川を以て宮処と為す」(舒明天皇639年)とある。宮処は地名として残っている。「肥前国神崎郡 蒲田、三根、神崎、宮所」(和名抄)、「神崎郡宮処郷、郡の西南にあり」(風土記)。場所は前出飛鳥の寒水川の西10㎞程に並行して筑後川に注ぐ現城原川(じょうばるがわ、現佐賀県諸冨町、恐らく前出の百済川であろう)。この辺りから「宮殿」とヘラ書きがある奈良時代の土師器が出土しているという。皇極もこの百済大寺造営に注力している。舒明・皇極は飛鳥の岡本宮・板蓋宮も使っているが、蘇我領の飛鳥であろう。 舒明紀 630年 「天皇飛鳥岡の傍に遷る、是れ岡本宮と謂う」 この舒明の飛鳥岡本宮が九州であることは、同年の皇極紀から解る。 皇極紀元年 「舒明崩御を聞き、阿曇(あずみの)比羅夫が筑紫から駅馬で駆け付けて葬に出た」 葬は本拠で行われる。筑紫から馬で駆け付けられるのは九州内だからである。従って、舒明の本拠である飛鳥岡本宮は九州肥前である。舒明を継いだ皇極が翌年に遷った「飛鳥板蓋新宮」も肥前飛鳥と考えられる。 皇極紀 643年 「四月二十一日、筑紫太宰の早馬が奏上して曰く、百済国王子が調使と共に来る、二十八日、権宮(かりみや)より飛鳥板蓋新宮に遷る」 大宰府から早馬が来る地だから、この飛鳥板蓋宮も肥前である。 蘇我氏は「筑紫君磐井討伐」で筑後の磐井領を奪ってそこを拠点にし、「物部守屋討伐」後に肥前に進出し、現鳥栖市から佐賀市方面へ、西へ西へと拡張していた。その度に本拠を西に移し、宮を提供して大和王権・上宮王家を引き寄せ、朝廷を取り仕切ったようだ。蝦夷の本拠も肥前飛鳥である。 (4) 蝦夷のもう一つの拠点は豊浦である。前述したように、この豊浦は豊前の海沿いと考えるが、東方支配にこの豊浦を多用したのだろう、豊浦大臣と呼ばれている(斉明紀)。 推古崩御で大和王権を継いだ舒明・皇極は本拠を大和小墾田宮から九州に戻した。では大和の大和王権領はどうなったか。大和王権領そのものは蘇我蝦夷が代官として治められるが、大和諸豪族を抑える権威は蘇我氏に無い。それを持っている人物の一人が斑鳩に居た聖徳太子の継嗣山背(やましろ)大兄皇子であった。皇子は大和王権天皇となった皇極のいとこに当たり、皇極の次の天皇候補の一人であるから、大和豪族を抑える資格はある。蝦夷・入鹿は皇極の次には山背を担げば良かったが、そうしなかった。入鹿は山背を生駒山に追い、斑鳩で山背一族を滅ぼした。 (5) 入鹿の本拠。 入鹿の本拠は肥前飛鳥である。飛鳥板蓋宮(肥前)で皇極の前で中大兄皇子に暗殺されている。宮の近くに本拠があったと考えられる。入鹿のもう一つの本拠は「大和飛鳥」(現明日香村)である(次節)。 まとめると、稲目・馬子・蝦夷・入鹿は「肥前飛鳥」と「豊前豊浦」と「大和飛鳥」に拠点を持っていた。その新設や重点の置き方は前述のように変化しているが、「九州から大和への進出(=里帰り)」の動機と流れがあったようだ。 以上、蘇我氏の本拠を見てきたが、大和王権天皇の宮の多くと重なる。それは蘇我氏が自領に宮を提供したからだ。しかし、乙巳の変で蘇我宗家が滅亡すると、宮は天皇領になったようで、そのまま使われている(肥前板蓋宮で斉明即位、など)。 ●526 蘇我氏の滅亡 推古崩御で大和王権を継いだ舒明・皇極は本拠を九州肥前に戻した(肥前岡本宮・肥前飛鳥板蓋宮)。では大和の大和王権領はどうなったか。大和諸豪族を抑える権威は蘇我氏に無い。それを持っている人物の一人山背(やましろ)大兄皇子一族を滅亡させたことは上述した。 入鹿は大和の拠点として大和小墾田宮近くに壮大な山田寺を建造しつつあった。蝦夷自身も大和飛鳥の元興寺を訪ねている(法興寺と元興寺の混同)。更に、王権権威の空白を埋めるべく自らが天皇を装った。「蝦夷・入鹿は甘檮岡(あまかしのおか)に家を起こし、大臣の家を称して曰く宮門、入鹿の家を谷宮門と曰ふ」(皇極紀644年)、とある。この甘檮岡は「大和飛鳥」と言われている。肥前の蘇我本拠「飛鳥」の地名移植であろう。これら専横の結果が「肥前飛鳥板蓋宮での乙巳の変」につながった。これにより、入鹿は暗殺され、蝦夷は自害した。 甘檮岡(あまかしのおか)の南隣にある小山田古墳跡(一辺70mの大王並の方墳、7世紀前半)の発掘がこの数年続いている。完成後にすぐ破壊された痕跡がある、とされている。筆者はこれを「蝦夷の寿墓(じゅぼ、生前造築墓、蘇我墓は方墳)」と考える。乙巳の変で(肥前で)自害したので、(大和で)完成していた墓に埋葬されずに墓は破壊されたのであろう。 近くの「石舞台古墳(方墳)」は馬子の墓の暴かれたもの、と言われている。しかし、馬子の本拠は肥前飛鳥であり、大和に埋葬される程の理由も墓を破壊される程の大和での悪行(あくぎょう)も見当たらない。筆者はこれを「入鹿の未完成寿墓」と考える。入鹿は大和に骨を埋める覚悟と権力誇示で生前墓を造り始め、斑鳩の山背(やましろ)大兄皇子一家殺害を決行したが、恨みを買い乙巳の変で暗殺された。この墓は未完成で放置されたと筆者は考える。 要すれば、蘇我氏四代の墓はすべて九州と考えられる。稲目の本拠は肥前小墾田である。欽明の崩御記事に「駅馬」の記事があり第一章から九州である。欽明は大和を本拠としながら、しばしば九州で任那回復軍を指揮した。欽明の大臣でありその前年に没した稲目の墓も九州であろう。「馬子の墓は肥前飛鳥」と第一章で論証した。蝦夷は「乙巳の変」で肥前で自害し、大和の寿墓は使われないまま破壊されたと考えられる、と上述した。入鹿は飛鳥板蓋宮(肥前)で暗殺され墓は不明であるが肥前であろう。大和の寿墓は未完成で放置された「石舞台古墳」と考える。 ●527 蘇我氏 まとめ 以上、蘇我氏の活躍時期を四期に分けると、 (1) 大和出身ながら九州に定着し、蘇我稲目の代で「九州に一時遷都した大和王権」を援けて大和王権大臣に任じられた時期。 (2) 大和王権を代表する立場で倭国朝廷で活躍し、倭国王から「大臣」と呼ばれ(あるいは任じられ)、倭国大連物部尾輿と覇を競う時代。 (3) 尾輿の子「物部守屋討伐」を果たした蘇我馬子は、しかし倭国で覇権を握れず(王政復活)、倭国王族の上宮王を担いで新王権「上宮王権」の独立を援け、大臣兼務となった時期。 (4) 大和王権と上宮王権の大臣を兼務しながら、二王権を近づけ、融合させ、大和王権に合体させた時代。大和王権の大和帰還遷都を助けつつ、大和に蘇我自領を拡大しようとした。その大和王権で専横したが、「乙巳の変」で蝦夷・入鹿が討伐されて蘇我宗家が滅亡した時代。 後半期では、稲目・馬子・蝦夷・入鹿は「肥前飛鳥」と「豊前豊浦」に拠点を持ち、「大和飛鳥」に拠点を造りつつあった。その新設や重点の置き方は前述のように変化しているが、「九州から大和への進出(=里帰り)」の動機と流れがあったようだ。蘇我氏の本拠は大和王権天皇の宮の多くと重なる。それは蘇我氏が自領に宮を提供したからだ。しかし、乙巳の変で蘇我宗家が滅亡すると、宮は天皇領になったようで、そのまま使われている(肥前板蓋宮で斉明即位、など)。 この様な複雑な歴史を、日本書紀は「倭国不記載」「二王権不記載」の方針で記しているから、蘇我氏の他二王権での活躍譚がすべて「大和王権内の事件譚」と誤読されている。しかし、不実記載や否定はしていないから、紀から上記のように解読することができる。これを理解しないで「蘇我氏」を論ずることはできない。 はじめに 第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」 第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」 第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」 第四章 「物部氏」のすべて 第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」 第六章 「法隆寺」の変遷 第四章 誤解されている「物部氏」 しかし、日本書紀と先代旧事本紀の検証から、物部氏は歴史的に四系統あり、ニギハヤヒ系は第二の系統だけであり、最も活躍したと目される第四の系統(物部尾輿・物部守屋)は「倭国王家の外戚と続いた九州物部氏」であった。日本書紀の「倭国不記載方針」から大部分は記載されていないが、大和王権(九州)が関わった部分「仏教初伝譚・仏教論争譚・物部守屋討伐譚)」が記載されている。その結果、それらが「大和朝廷の事件譚」と誤読されている。これを理解しないと、物部氏を正しく理解できず、従って日本書紀を誤解したままとなる。その誤解を正しているのは日本書紀自身である。本話をもとにした次著の「一図に見る九州物部氏」を参照されたい。 ●528 物部氏の系譜 先代旧事本紀から (系図検証) 「物部氏」は記紀にそれほど詳しく記されていない。記紀より200年も後に出た「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」(以下「同書」)の方がよほど詳しい。同書は「記紀を補う」という形を取りながら「偽説」とも解釈されている幾つかの「独自情報・主張」を含んでいる。総じて「物部宗家の家伝的自己主張の書」とされている。 以下では同書を基に、その不審点を修正する形で真相に迫りたい。参考にしたのは安本美典作成の系図である[注1]。これは、同書の物部氏系譜(第五巻天孫本紀)に記紀を加味したものである。下図はこれの要点であり、筆者の独自解釈は入れていない(ただし、図中番号とその系列名は筆者による)。 筆者検証は次節以下で示す。     ここで、縦線は物部氏当主の交代を示すもので、親子を示すものでは必ずしもない。また、括弧の天皇は同時期の天皇を参考までに示す。「<」「>」は天皇との主従関係を示す。同書は「物部氏はすべてニギハヤヒ(=ホアカリと同一神)の子孫で、神武を始めとして代々大和王権に仕えた」と主張している。確かに、これが正しければ系図上は総てニギハヤヒの系列で、それぞれに大和王権と関係する記述が記紀にもある。 細かく見ると、同書系図は物部氏に四系統①②③④あったことを示している。 ①はニギハヤヒの子ウマシマジを祖とする大和物部氏本流である。ニギハヤヒは神武に先行して河内・大和に天降ったとされ、記紀と同書は一致する。「伊香色雄(いかがしこを、崇神紀)・物部十千根(とちね、垂仁紀)・胆咋(いぐい、仲哀紀)」は記紀にも出てくる。物部印葉(物部印葉(いにば))は姉を応神妃に出し、その皇子は太子とされた程の物部主流であった。 ②はホアカリ(=ニギハヤヒ、同書)の子カグヤマを祖とする尾張氏/尾張物部氏である。これも記紀の記述「ホアカリの児天香山(かぐやま)は是れ尾張連の遠祖なり」(紀神代九段一書六)と部分的に一致する。部分的という意味は、記紀は尾張氏と尾張物部氏の関係には触れないが、同書はカグヤマを尾張物部氏の祖である様な扱いをしている。 ③河内物部氏は筆者仮称であるが、①の子孫物部胆咋(いぐい)宿禰(仲哀紀)以下の系統(特に物部麁鹿火)である。麁鹿火は継体天皇の重臣で、筑紫君磐井(いわい)の反乱を討伐したことで知られる。河内物部氏とする訳は、応神・仁徳の河内東征以来の重臣物部麁鹿火に代表される物部支族で、物部印葉主流が仁徳に遠ざけられた後に主流になったと考えられる。 ④九州物部氏は筆者仮称であり、その根拠は後述する。この系列の物部尾輿・守屋は安閑紀~敏達紀の「仏教初伝譚」「仏教論争譚」「物部守屋討伐事件譚」に出てくることで知られる。記紀でも「物部氏の主流」と目されているから、即ち「大和物部氏の本流」と解釈されている。 ●529 ニギハヤヒの天降り 先代旧事本紀 (記述検証) ここからが筆者の新たな検証と論証である。まず、先代旧事本紀の「物部氏の祖ニギハヤヒの天降り譚」部分を確認する。分析の都合で番号数字(1)~(5) まで筆者が付けた。 先代旧事本紀 巻第三 天神本紀 「(1) 天照太神(あまてらす)詔して曰く、豐葦原の瑞穂の国は、吾が御子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと、以下オシホミミと略す)の治めるべき国、、、(オシホミミの子)天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと、以下でホアカリニギハヤヒと略す)が生まれた、、、オシホミミ奏して曰く、將に降りようとしている時、児が生まれた、此を降すべしと、(アマテラス)詔してこれを許す、、、天神、天璽瑞寶十種を授く、、、 (2) 三十二人に防衛の為に天降りの供奉を令す、、、 天(あま)の香語山(かごやま)の命(みこと、尾張物部連等祖、以下記紀に合わせてカグヤマ)、、、 天児屋(あまのこやね)の命(みこと、中臣連等祖、以下アマノコヤネ)、他三十人(命がつくから神扱い(王族扱い)である)。 (3) (更に)五部(いつとも)の人(神扱いでないから臣下クラス)を副えた。物部造(みやつこ)等の祖天津麻ら(アマツマラ)、以下四人、、、 (4) (更に)五部の造(みやつこ)、、、(更に)天あまつ物部もののべ二十五部人、、、 (5) (更に)船長同じく共に梶取等を率いて天降り供奉した、饒速日尊(ニギハヤヒ)は、、、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す」 以上の文を解析する。括弧番号は対応させた。 (5) は「ニギハヤヒ天降り譚」である。ここでは「ニギハヤヒホアカリ」でなく、記紀と同じ「ニギハヤヒ」としている。記紀の「ニギハヤヒ天降り譚」とほぼ同一の河内天降り譚である。 以上の様に、記紀及び天神本紀の天降り譚は三つの要素、「ニニギ天降り譚」・「ホアカリ天降り譚・「ニギハヤヒ天降り譚」に分けられる。元来一体の「アマテラス一族天降り譚」だったかあるいは三譚別々だったものを、記紀は「ニニギ天降り譚」を切り分け「ニギハヤヒ」部分に少し言及し「ホアカリ譚」を不記載としたように見える(倭国不記載方針)。先代旧事本紀は、記紀で不記載とされたホアカリ・九州物部天降り譚を復活させるために、「ホアカリ=ニギハヤヒ」の言い訳を創り、ニギハヤヒ(=ホアカリ)譚の中にホアカリに供奉した九州物部一族を復活させている様に見える。 ●530 物部氏の系譜 修正一 以上の定説にはいくつかの不審点(内部不整合)があり、それを解消する筆者の系図案を示す(上図)。以下の括弧番号は前節とは対応しない。 (1) 不審点一。同書の「ニギハヤヒとホアカリは同一」には疑問がある。「同一」は同書だけが主張する新説で、記紀では別の神である。同書も前半で「ホアカリニギハヤヒ」としながら、後半では「ニギハヤヒ」と別名で記して別の神であることを漏らしている。 また、「カグヤマはニギハヤヒの子」にも不審がある。カグヤマはニニギの九州南征に合流したと思われ(高倉下戦記、後述)、その子孫(高倉下)は神武に従って東征し、最終的には尾張に定着した(天武紀)。従って「カグヤマ系の出発地は九州と考えられ、ニギハヤヒの天降った河内ではない」から「カグヤマはニギハヤヒの子ではない」が導かれる。また、記紀でカグヤマの父とされるから「ホアカリの天降り地も九州」と考えられる。ニギハヤヒとホアカリは天降り地が異なるから同一神ではない。 以上から、「同一」説には疑問があり、「倭国不記載方針」によって記紀から排除された「ホアカリと九州物部氏」を「排除されていないニギハヤヒと同一」とすることで復活させるための偽説ではなかろうか。この偽説で「九州物部氏は実は大和王権に臣従したニギハヤヒの子孫」となるから、「倭国不記載」の対象からはずれ、大和王権の「禁書」(続日本紀708年、倭国関係書?)の対象からもはずれる。 (2) 修正点一。そこで、系図の「ホアカリ=ニギハヤヒ」を切り離した。これに伴い、「カグヤマはニギハヤヒホアカリの子」を「カグヤマはホアカリの子」に修正した(上図)。また、ニギハヤヒの天降り先は河内だが、「ホアカリの天降り先はカグヤマのニニギ南征随行から九州」とすることができる。 (3) 系譜①「大和物部氏」の新解釈 大和に先住し、神武に臣従したニギハヤヒの子ウマシマジの大和物部氏。大和王権の大臣として記紀に登場し、大和王権に后妃を送り込んでいる。物部印葉連公で途絶えた系列。印葉連公の姉、物部山無媛連公(やまなしひめ)は応神妃となっている(応神紀)。応神~仁徳系(九州系)が大和天皇となったので大和物部氏が改めて臣従した証として姉を妃として差し出したのであろう。しかし、その皇子は応神の太子となるも天皇にならず(なれず)代わりに仁徳が即位した(仁徳紀)。滅ぼされたか、格下げされたか、系図では途絶えている。「物部氏はニギハヤヒの子孫 ① 」は少なくもここまでは史実である。印葉系は途絶えたが、同書は「胆咋(いぐい)系が大和系の主流として続いている」としている。これについては次節で検証する。 (4) 系譜②「カグヤマ系」の新解釈 ホアカリの子カグヤマ軍がニニギ軍に加わり南征した(高倉下戦記の元譚)。その子孫高倉下が神武東征に従い、最終的に尾張で定着し、ホアカリ・カグヤマを祖とする尾張氏/尾張物部氏となった。壬申の乱で活躍した。天武紀に登場する。このカグヤマ系物部氏はホアカリ系物部氏としても良く、大和系物部氏とも言えるがニギハヤヒ系ではない。ただ、①「ニギハヤヒ系大和物部氏」と合わせ読めば「ニギハヤヒ=ホアカリ(同一説)」の誤解を誘導している。 ●531 物部氏の系譜 修正二 (1) 不審点二。同書の物部氏系譜(系図)に天津麻良が出てこないのは不審だ。同書天神本紀冒頭天降り譚に「天津麻良は物部造(みやつこ)の祖、その物部造は天孫を守る中核、その多くが九州物部氏」としているのに、物部氏系譜系図に天津麻良が出てこない。その子孫系譜も示していない。 そこでアマツマラの子孫について考察してみる。 a) 同書では「物部造(みやつこ)の祖である天津麻良(アマツマラ)はホアカリニギハヤヒに供奉天降りした」とある。しかし、前節の修正(2) から「ホアカリとニギハヤヒは別の神、天降り先は別の地(河内と北九州(前節))」が導出された。そこで次の疑問が生ずる。「アマツマラの供奉したのはニギハヤヒかホアカリか」と。 b) もし、「アマツマラが供奉したのは河内に天降りしたニギハヤヒ」なら、「アマツマラの子孫に九州物部氏が多い」(同書)は整合しないから不審である。他方、「アマツマラが供奉したのは九州に天降りしたホアカリ」なら、系図の「九州物部氏は大和物部氏①の支族」は整合しないから不審である。なぜなら、同書の物部諸族名と九州地名の一致が多く、大和地名との一致は少ないから「アマツマラは河内に天降りし、その子孫諸族は大和から九州に移った」とは考えられない。以上から「アマツマラはホアカリに供奉して九州に天降りした。九州物部氏は大和物部氏とは別系統である」としなければ不審が解消しない。別系統ではあるが、天降り前の高天原では物部諸支族としてアマテラス諸王族に仕えていた、と考えられる。 (2) 修正点二。以上から「九州物部氏系」を「同書で大和物部氏系とされる胆咋(いぐい)」から切り離し、「天津麻良(物部造(みやつこ)の祖)」に繫(つな)げる(前図再掲、下図)。それを系図修正点二とする。胆咋(いぐい)自身は物部十千根(とちね)との共通点も多いので大和系に残した。物部氏の祖天津麻良までの数代は不明。   図1 説明   (3) 九州物部系の新解釈 修正の結果、「天孫ホアカリに供奉して九州に天降りした天津麻良(あまつまら)は九州物部氏の祖となった」となり、同書と整合し、記紀の「カグヤマ/高倉下の南征/東征譚」とも矛盾しない。このホアカリ系列はカグヤマに九州物部支族を分与してニニギを南征に送り出し、その子孫は神武に九州物部氏を分与してニギハヤヒ大和物部氏に合流するも、更に尾張に移った(②系)。 また、この系列は九州で生まれた応神に物部支族を分与して共に新羅征戦を戦い、仁徳はその支族を率いて河内東征した。物部木蓮子(いたび)・物部麁鹿火(あらかい)が記紀・同書に記されている(③系)。記紀に継体の重臣として記録され、大和系物部氏①と誤認されている。また誤認を補強するように同書系図では胆咋(いぐい)に接続されている。 ホアカリ系本流の九州物部氏④は、「物部氏の宗家」と思われる人材とその後の列島各地の支配者を輩出したことが同書で初めて明らかとなった。列島の中心的豪族物部氏の中心が九州物部氏であることは、その主筋が倭国王であることを傍証している。記紀はなぜ明記しないのか、それは記紀の「倭国不記載方針」であろう。安閑紀~用明紀に出てくる物部氏(物部尾輿・守屋)が例外的に出てくる理由は、この時期、筑紫君磐井の討伐や遺領収奪で大和王権が九州に領地を得、宮を持ち、大和天皇が倭国朝廷に参画して磐井遺領分配問題・任那問題を議したりした為だ。その記事に九州物部氏が出てくる。倭国不記載方針に抵触するから、「大和朝廷大臣」と読めるように記されている。大和天皇の後見役として大和朝廷大臣の任命(兼任)が実際あったかも知れない。 以上、定説の二つの不審点を修正することで、筆者仮説「カグヤマ系②・河内系③・九州系④はホアカリ系であって、ニギハヤヒ系ではない」の整合性が得られた。結論として、同書の「ホアカリニギハヤヒ系」説は検証の結果「河内天降りのニギハヤヒ系」と「ホアカリに供奉して北九州に天降りした天津麻良系の九州物部氏」に分離される。九州物部氏の主筋は天津麻良以来九州倭国王であり、それはホアカリ系倭国王である。以上、「九州物部系の主筋はホアカリ系」が導出された。 ●532 物部氏の系譜 修正三 (1) 不審点三。前節の修正二によっても、なお不審点が残る。前節で「物部尾輿・守屋の系列は同書では大和物部氏とするが、正しくは九州物部氏」と修正したが、同書は更に「その支族の祖を物部目連」としている。物部目連は雄略紀にしばしば具体的な事績に登場する。雄略天皇は河内~大和を拠点とし、九州倭国王興(倭五王)と並立したが九州に居たという記述は雄略紀に無い。その重臣物部氏は応神以来九州物部氏の支族「河内物部氏」である。同書は別所で「物部目連は河内物部の物部麁鹿火の叔父」としているから、河内物部系であろう。同書は九州物部氏を称揚する家伝書と考えられるから、その支族の祖を間違えるはずはない。これは意図的な改変で、雄略紀と合わせ読むことで「九州物部氏は河内物部氏の支族(雄略紀)、その河内物部氏は大和物部氏の支族(継体紀)」の偽説を装う造作であろう。 (2) 修正点三。その修正は単に「物部目連は河内物部氏」(修正系図)とすることで足りる(前図)。それは「河内物部氏は九州物部氏の支族」とする解釈に含まれる。従って、以下の扱いではこの修正点三は修正二の中に含めて扱う。 ●533 先代旧事本紀の目的 同書は偽説「ニギハヤヒ=ホアカリ」と「九州物部氏系譜を大和物部氏に接ぎ木」という「僅か二点余の偽装」「たった二本の系図結線の移動(ホアカリと胆咋(いぐい)の系譜)」によって「倭国不記載」に逆らわずに九州物部氏を公(おおやけ)にし、(不完全ながらの)名誉回復」を果たした。大和王権も、自ら「倭国不存在」という虚偽を言うことなく、そのように誤読誘導する同書の偽説に敢えて咎めだてしなかったのだろう。 この偽説にはもう一つの狙いがある。物部氏三系統を「ニギハヤヒ=ホアカリ」によって「物部氏の祖は天孫(=ホアカリ=ニギハヤヒ)」としている。これは考え抜かれた「奇策」と言える。なぜなら、「物部氏の祖は天孫」が正しいのは傍流となった天孫ホアカリの子カグヤマ系だけである。宗家九州物部氏の祖は天津麻良であるから「祖は天孫」とする資格は無い。ニギハヤヒ系は応神の代で系図上断絶しているから資格は無い(同書)。しかし、それらを一体化することにより「すべての物部氏の祖は天孫」「ニギハヤヒ系は断絶していない」「九州物部氏は大和系」の偽説を誘導している。しかも、「倭国不記載方針」に抵触することなく「九州物部氏」だけを「不記載」から救出し「大和王権に臣従」と誤読させた上で「家格の格上げ」を果たしている。「奇策」でなくて何であろう。 ●534 物部氏の諸系列 まとめ 以上から、物部氏諸系列は以下の様に解釈される。 (1) 冒頭で「物部氏は四系統あるように見える」と述べた。これは「高天原から天降りしたアマテラス一族は少なくも三波あり(天孫ホアカリ・天孫ニニギ・ニギハヤヒ)、それぞれに物部支族(物部軍)が供奉・天降りした」ことに由来するようだ。 (2) ホアカリ系 まず、アマテラスの天孫ホアカリが主力軍(中心は物部軍)を率いて天降りした(同書、同書は「ホアカリ=ニギハヤヒ」としている)。主力軍のトップは天津麻良(あまつまら、以下アマツマラ)、物部造(みやつこ)の祖とされる(同書)。天降った地域は遠賀川流域であろう(同書、九州物部氏)。この主力軍はスサノヲ系から「国譲り」を勝ち取って(紀)、北九州の「倭国大乱」に一つの区切りを付け、卑弥呼が魏に倭国統一を報告するに至った(魏志)。ホアカリは卑弥呼を共立する倭諸国王の主要な一人にのし上がったと思われる。これを「ホアカリ倭国」と呼ぼう。この「ホアカリ倭国/九州物部氏」は記紀には記載されていない(記紀の「倭国不記載」方針)。 (3) ニニギ系 「アマテラス一族の国譲り獲得」を受けて、アマテラスは筑紫の日向(関門海峡、イザナギ/アマテラス系の聖地)に祭事王として天孫ニニギを天降りさせた(神代紀)。ニニギに供奉天降りした五部神(筆頭は中臣氏の祖)に物部氏の名は無い。恐らく、天降った日向は既にスサノヲ軍を駆逐したホアカリ系物部軍に守られていたのだろう。 卑弥呼は大乱収拾の後、対立する狗奴国戦を決行した(魏志)。ホアカリは卑弥呼の号令に従い筑後方面で戦ったと思われる。その一翼として、本来は「ホアカリ倭国の祭事王となるべく天降った弟のニニギ」も南征(宮崎方面)に送り出された。狗奴国の背後を突かせる一翼軍だろう。定説ではこれも「天降り(のつづき)」とされている。この時ホアカリは子のカグヤマと物部軍の一部をニニギに付けたと考える(後述)。アマテラス一族の「葦原中つ国支配」は順調とはいえない状況変化だった。 「ホアカリの子カグヤマがニニギ南征(北九州から南九州へ)に従った」ということは、「カグヤマの父ホアカリが天降った場所は九州」(前項)を傍証している。即ち「ホアカリ(遠賀川)≠ニギハヤヒ(河内)」の傍証となる。しかし「ニニギ/カグヤマ/物部支族の南征」は大した成果が得られず、ニニギ子孫の神武はタカクラジ(カグヤマ子孫、同書)/物部支族を率いて東征した(神武紀高倉下戦記)。この物部支族は後に尾張氏/尾張物部支族として尾張に定着している。尾張氏はカグヤマを祖としている(神武紀)。その意味では「尾張物部支族は元を糺せばホアカリに供奉天降りした天津麻良系物部氏(ホアカリ系物部氏)」である。 (4) ニギハヤヒ系 同書の「ニギハヤヒ=ホアカリ」が偽説としても、「ニギハヤヒの天降り」は「葦原中つ国支配の拡大の不調」を受けて、「アマテラスがニギハヤヒを第二陣として天降らせた」と考えられる。その根拠は「ニギハヤヒはホアカリと同世代ではなく、ニニギと神武の間の世代と考えられる。なぜならニギハヤヒの子ウマシマジと神武が同世代である(記紀)」、またそうであるなら「ニギハヤヒは、まずはホアカリ系の基地(遠賀川周辺)に天降って、そこで数年の準備をしてから河内東征をした」と考えられる。後の例として「神武は関門海峡吉備で東征準備に七年をかけている」という例があるからだ。また同書が「ニギハヤヒの東征(天の岩船譚)がホアカリ天降り譚の続編であるかのように、追加的記述している点」などである。 神武が東征時にニギハヤヒ/ウマシマジ/ナガスネヒコ一族を降し、大和物部氏として従えたことは神武紀に詳しいし、同書の記述と一致する。史実であろう。崇神系・景行系・仲哀系にも物部氏が出てくるのは、神武系を受け継いだか、ニギハヤヒ系の支族か不詳だが、いずれにしてもニギハヤヒ系と考えて良いだろう。 (5) 河内系 応神天皇は九州出身で、記紀では仲哀・神功皇后の皇子とされているが、信頼性の高い海外史料の新羅征戦の年代・記紀の即位年代・崩御年代の検証から神功皇后より年長か同世代と考えられる()。応神は倭国軍(広開土王碑)と日本軍(東国軍、神功紀)の連合軍を統括し、双方から信頼されたと考える。それが可能な「九州出身で、後に大和天皇即位が大和に受け入れられる出自」とは「倭国内ニニギ系王族」と検証した()。かつて、神武は東征に際し、関門海峡域に一族の一部、例えば「ニニギに供奉天降りしたアマノコヤネ(後の中臣の祖)の子孫」を残している(神武紀)。残った理由は主筋のニニギ系王族が残ったから、とするのが妥当である。神武の皇子は残らなかったが(神武紀)、皇孫が残った可能性は否定できない。いずれにしてもニニギ系王族の一部が残ったようだ。後世、応神の王統が武烈で絶えた時応神五世孫の継体が立てられたように、仲哀の皇統が混乱した時応神が立てられた理由は「応神が九州に残っていたニニギ五世孫あるいは神武三世孫だった」という可能性が考えられる。もちろん、始めからそれを想定してそのような血筋の応神が新羅征戦連合軍の総帥(王、海外では大王・天皇と自称させた)に任命され、それが成果を挙げたから、予定通り大和天皇に推挙されたのかもしれない。推挙し後ろ盾となったのは倭国王であろう。倭国王は九州物部氏を応神・仁徳に分与したと考えられる。 以上、河内系物部氏の元は九州物部氏、その元はホアカリ系物部氏(1)である。 (6) 九州系 既に述べた様に、ホアカリは天津麻良の物部軍を率いて遠賀川周辺に展開してスサノヲ系から「国譲り」を勝ち取った。この子孫が九州で卑弥呼・台与系の倭国を再統一し(360年頃)、以後「倭の五王」の時代に列島宗主国の地位を確立した。これを支えたのが九州物部氏である。物部氏は倭国王に妃を送り込み、皇子が生まれると妃の里である物部領に宮を提供して皇子もろと自領に囲い込み、次代天皇に押し上げることで外戚となり、王権政事に影響力をもったと考えられる。その根拠は蘇我氏も藤原氏もそれを模倣してそうしているからだ。物部系倭国王にとって、王家と物部家の区別があいまいとなったようだ。例えば、倭国王に献上された百済王の七支刀(公の宝物)を倭国王が母方の物部神社(私)に奉納(後に石上(いそのかみ)神社に秘匿)するなどは絶頂期の公私混同であろう。そのような物部氏の専横は王家・他豪族の反発を招き、物部守屋の代で倭国諸皇子・倭国大臣蘇我馬子らに討伐された。注目すべきは、前話で述べた様に「物部守屋討伐を主導した蘇我馬子は大和王権を代弁する倭国朝廷の大臣」であった。しかし、蘇我氏が物部氏に代わって実権を握ったのではなく、王権は王家に帰し阿毎多利思北孤(隋書遣隋使記事)の時代に倭国王権の絶頂期が実現した。物部氏宗家は滅びたが、支族はその後も倭国政権の一角に残り、白村江の戦いでも物部軍は主力の一端であったと考えられる。 以上から、物部氏の祖はホアカリに供奉して九州に天降ったアマツマラである。同書は「アマツマラはニギハヤヒの船に供奉して河内に天降った」と追記しているが「ホアカリ=ニギハヤヒ」に合わせた偽説であろう。なぜなら「アマツマラはホアカリと同世代(同書)だから、三世代程後のニギハヤヒ(子のウマシマジは神武と同世代)には供奉していない」と考えられる。以後、300~400年間倭国王権に、支族は大和王権に臣従したと考えられる。特に九州系物部氏は外戚として倭国王家を支えた列島第一の豪族であった。 九州物部氏から仁徳と共に河内に分かれた物部麁鹿火は九州に戻って宗家の中でのし上がったが死没。物部麁鹿火の隆盛を引き継いだ物部尾輿が物部氏宗家当主になった。その後、倭国の本拠が博多難波津から遠賀川中流の鞍手に移動したのは、物部氏が外戚として倭国皇子を后妃の里に囲い込み、宮まで提供したからと、と解釈することができる。「百済肖古王から倭王に贈られた七支刀(公宝)が物部氏神社(私)奉納されている(のちに大和石上神社に秘匿)」という史実は「物部系倭国王が王家と物部氏を同一視(公私混同)していた」という可能性すら示唆している。但し、これを「物部王権」とすることができないのは、物部守屋討伐譚(次節)が示している。臣下が一線を越えると王家・豪族が一致してこれを阻止している。 ●535 物部氏と蘇我氏の覇権争い 用明・崇峻・推古 530~600年頃の記紀には「物部氏と蘇我氏の対立譚」があふれている(継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古の各天皇紀)。定説は「それらは大和朝廷内の覇権争い」としている。そう誤読されるような流れになっている。しかし正しくは「それらは倭国朝廷内の覇権争い」である。 その背景には第二章の「安閑の大倭国遷都(豊国)~推古の大和小墾田帰還遷都」の「大和朝廷九州時代」がある。そこでは「大和朝廷が九州倭国朝廷に参画して、磐井の遺領配分・任那派遣軍協議などで両朝廷の大臣が同席したり、仏教論争したり、相手朝廷から兼務大臣を委嘱されたりしている」のである。これまで論じられたことも無い意外な時代である。しかし、その理解によって、両者の覇権争いは「倭国朝廷内の第一豪族と第二豪族の覇権争い」であり、「近づいた大和朝廷をどちらが抱き込むか」の争いであり、「筑紫君磐井の遺領配分に関する大和・倭国の代理争い」であることが理解される (1) 当時、大和朝廷は磐井の乱討伐で初めて九州に領土を得た。全国の磐井一族(大彦七族)から屯倉を得たり、任那派遣軍を任されたり、日が昇る勢いであった。九州の方が軍務には便利、海外物資も豊富なので生活面でも文化が高く快適だったのであろう、大和天皇は宮を設けて行幸したり(欽明紀)、長期滞在したり(宣化紀)、朝廷を遷したりした(安閑紀)。 (2) 九州物部尾輿大連(物部宗家)は、大和朝廷が九州に重点を移しつつあるのを機に、物部麁鹿火大連(物部河内支族)に近づき、便宜を図り、協力し、麁鹿火が委任された倭国軍/日本軍の軍事にも口を出し、倭国朝廷内での自身の立場を強化した。 (3) 蘇我氏については第二章で解説した。九州に定着していたが、元は大和出身であるから継体/麁鹿火軍の九州活動を支援して商業的に成功。その後大和朝廷の九州進出を支援したり、倭国朝廷との間を取り持つことで双方の信頼を得た。宣化紀に「蘇我稲目が大臣に任じられた」と初任記事がある(536年)。その後、仏教論争譚で倭国王から「蘇我大臣」と呼ばれているが、「大和大臣が倭国朝廷内でもそう呼ばれた」だけなのか、「倭国大臣にも任じられた」のか不詳である。しかし、後に「物部守屋討伐を主導し、倭国王族と協力」しているから「倭国大臣にも任じられた」と考えるのが妥当である。蘇我稲目は麁鹿火亡きあとの大和朝廷筆頭大臣に昇りつめ、同時に倭国朝廷では大和朝廷代表大臣とみられ、実際に大臣職(倭国朝廷に無かった職位)に任じられた可能性がある。 (4) 「物部・蘇我の覇権争い」は記紀には「仏教論争」と「大和天皇選任争い」が記述されている。前者「仏教論争538年」については第二章で詳述した。蘇我稲目は安閑の九州遷都(534年)から二年目に大臣に任じられた(宣化紀元年536年)。物部尾輿大連が初出するのも安閑紀534年であるが、尾輿の関係者が安閑皇后に迷惑をかけたことで土地を献上している。尾輿の大連初任記事は欽明紀539年である。初任記事の前に大連として初出しているから、「534年に倭国大連であったが、539年に大和大連にも任じられた」と考えられる。 一方、稲目が長女・次女を欽明天皇に妃として送り込んでいるのが541年である。この長女妃が後の用明天皇・推古天皇を生んでいる。次女妃が後の崇峻天皇・穴穂部皇子を生んでいる。蘇我氏は大和天皇家の外戚となったのである。ただし、それは後のはなし、用明が即位したのは586年、崩じた跡の皇位推挙争いは587年であるから、尾輿・稲目が仏教論争(538年、縁起)してから50年も後であるが対立は続いている。すでに尾輿・稲目は物部守屋大連・蘇我馬子大臣に代替わりしていた。その守屋が崩御した用明の跡に穴穂部皇子を推したことで馬子勢が穴穂部皇子を殺した。 皇位をめぐる覇権争いのように見えるが、そもそも物部氏は既に倭国王位選考を独断していたと思われる。その問題で「よそ者」の蘇我氏には出る幕がない。他方、物部氏はそれに加えて、新たに倭国朝廷に参画した「大和朝廷の皇位継承」にも口出しを始めた。それに対して稲目以来大和天皇家に深く食い込んで外戚となっていた蘇我氏にとっては、「穴穂部皇子暗殺」はいわば「大和王権内の事件」であって、それに倭国守屋大連がちょっかいを出すのは自領を侵されるようなもの、決して口出しは許さない覚悟があったのであろう。 こうした対立に馬子は更に先手を打って「物部守屋討伐事件」を起こした。これにより物部宗家は滅ぼされたとされる。 ●536 物部守屋討伐譚 倭国王権の復活 物部守屋(筑紫難波)は物部尾輿の子で倭国の大連(上述した)。物部麁鹿火の成果を引き継いで勢力を拡大し、次第に倭国朝廷内で専横した。倭国王家がこれに反発した。崇峻紀587年に物部守屋討伐譚がある。 崇峻紀587年 「蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣に勧め、物部守屋大連を滅ぼすことを謀る、泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子、蘇我馬子宿禰大臣、(他11群臣名列挙)、、、ともに軍兵を率い、、、」
この事件によって物部守屋とその子らは殺された。従来、この事件は「物部氏と蘇我氏が大臣として張り合って、蘇我氏が競り勝った」と解釈されている。 しかし、だからといって、倭国王家の足元で「倭国守屋大連討伐」まで進む程の理由とは言えない。進んだ背景には、守屋の倭国内専横に日頃から反発していた倭国王族や他の豪族が、「蘇我氏が暴走して守屋討伐をしても、倭国王家や他豪族が見ぬ振りをするだろう」の読みが馬子にはあった、と考えられる。事実、討伐の呼びかけに倭国王族の上宮王が継嗣聖徳太子を参加させたり、倭国朝廷の客分的大和大王敏達天皇が竹田皇子を参加させている。参加の理由はそれぞれ別だった。上宮王は馬子と共に「北朝仏教推進派として反物部で一致(仏教論争)」、敏達と馬子は共に「大和王権の継承問題に倭国の口出しは許さない、で一致(天皇位継承問題)」であった様だ。 以上の事件を経て、蘇我宗家は滅亡したが、物部氏はその後も倭国王家大臣としての地位を保ち、蘇我系大臣が主流となることは無かった。蘇我氏がそれをも狙ったとしても、倭国王家にはそれを許す気は元々無かったと見て良い。それは「倭国はその後も北朝仏教容認に転じた訳ではなく、蘇我氏が倭国大臣を辞して上宮王の独立に加担している」からだ。倭国主導権は倭国王自身が取り戻し、後の?(たい)国王阿毎多利思北孤の遣隋使につながる。 倭国は大和の力を借りて磐井の乱を克服し、蘇我氏の力を借りて物部の力を減殺した。倭国王権は復活したようだ。記紀では物部氏は物部守屋討伐事件で消えている。「討伐されたから当然だ」と考えられている。しかし、倭国の最後の戦争「唐との白村江戦」から考えると、「物部氏の倭国内指導力は衰えたが、その軍事力(物部軍が中核)はなお健在だった」と考えるべきであろう、それも敗戦で失われたが。 ●537 物部氏 まとめ 物部氏は記紀の記するような、「ニギハヤヒ後裔一本」ではない。複数の天降りに従った「複数の系列、四系列」があった。特記すべきは「九州物部氏」があり、記紀で「倭国不記載方針」で不記載とされたが、この一部「物部尾輿・守屋」が特殊事情で詳記されている。その事情とは「大和王権の一時的九州遷都」である。「仏教論争譚」「物部守屋討伐譚」などが詳記され、当然「倭国王・大和天皇」が登場するが、両者を「天皇」と表記してなんとか「倭国不記載」を取り繕っている。これが「倭国不存在」「九州物部氏不存在」の誤読を招き、日本古代史の解明を混乱に陥れてきた。 はじめに 第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」 第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」 第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」 第四章 「物部氏」のすべて 第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」 第六章 「法隆寺」の変遷 第五章 誤読されている「遣隋使」 「遣隋使」に関する史料は二つしかない。「隋書」と「推古紀」である。二つの記事は「一致する記述」と「一致しない記述」がある。一致するから「二つの文書は同一事績を記している」と考えられている。古来の「定説」でも、新しい「九州王朝説」でもその点は異論ない。しかし、一致しない部分については「中国側の誤解」「日中の立場の違い」「推古紀の不実記載・捏造・当用」など様々な解釈がある。定説は「隋書には倭国王は男帝とあり、女帝推古ではなく聖徳太子のことだ」とし、他方、九州王朝説は「遣隋使は九州倭国王(男王)の派遣である。推古紀は倭国史の盗用だ」とする。 しかし、二つの史料を論理的に読むと、二つの史料はそれぞれの外交原則に基づく立場の違いはあるが極めて論理的に書かれており、立場の違いはあって不記載はあっても不実記載は無い、と読める。不一致に見えるポイントは、隋書は「裏外交は記せず」の原則に則り、倭国との公式外交だけを記し、推古との裏外交は伏せている。推古紀は「倭国不記載」の対唐外交原則に則り、遣隋使派遣者倭国王と主使を伏せ、推古の派遣した随行使小野妹子だけを記している。それらを理解すれば、二史料だけで全体像が整合性良く把握できる。 この章では二書の「遣隋使」の誤読をただす。正しているのは筆者ではない。二書である。まず、初節で結論を示し、それを以下の節で論証する。内容は初著と重複するが、次話につながるのでここに再掲したい 更に、後半に「倭国女王台与以来の随行使の慣例と歴史」について検証する。大和王権は倭国の遣中国使のほとんどに随行使を出している。
●538 「遣隋使」の真相 まず最初に、検証(次節以降)の結論を先に示す。 (1) 倭国は「俀(たい、イ妥)」と自称して第一次遣隋使を送った(隋書600年 )。このことは推古紀には記されていない。大和推古天皇は当事者でなかったからだ。遣主だったら記さない訳がない。 (2) 俀(たい、イ妥)国は第二次遣隋使を送った(隋書607年 )。この時俀(たい、イ妥)国王は国書「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々」という対等外交の国書を送ったので、隋の文帝が怒った、と隋書にある。隋書は第一次と第二次の送り主を同一と見做している。従って、第二次の遣主も推古ではない。 (3) しかし、第二次と同年の推古紀607年年に「小野妹子を大唐に遣わす」とある。遣わしたのは推古天皇である。では、この派遣は(1)・(2) の俀(イ妥)国遣隋使とは別の遣隋使だったのだろうか。次項からわかるように、別の遣隋使ではない。小野妹子は推古の命で俀(イ妥)国遣隋使に加わった一員「随行使」である。 (4) 怒った隋の文帝は俀(イ妥)国に調査使「裴清」を派遣する(隋書608年年)。小野妹子は裴清(大唐)と共に隋(大唐)より帰る(推古紀608年)。即ち、隋書の遣隋使と推古紀の遣隋使は同一である。即ち、遣隋使の遣主は倭国王である。小野妹子は「俀(イ妥)国王(遣主)の遣隋使に随行使として参加」するよう推古に命じられたのである。 (5) 裴清は608年4月に筑紫に着いて二か月筑紫に滞在し(推古紀)、その間に俀(イ妥)国王に会った(隋書)。俀(イ妥)国王は一転して「対等外交と俀(イ妥)国自称を撤回し、朝貢を約束した」(隋書)。 (6)九州に二か月滞在した後、 6月(摂津)難波に着いた裴清は推古と会う前に更に二か月かけて(推古紀)東端の海(難波の東=東海)まで調査した(隋書)。後に「海岸(海岸(東海)に達す)に達す、竹斯(つくし)より東、(大和も東海も)皆イ妥に附庸す」と報告した(隋書)。 (7) 二か月の東海調査を完了して8月、推古は(東海より戻った)裴清を京(大和小墾田宮)に迎えて隋帝の書を受け取った。そこには「倭皇」とあった(推古紀)。倭国は俀(イ妥)国を自称して朝貢を拒んで天子を自称したので、唐帝煬帝は推古を「俀(イ妥)国(つくし国)を除いた倭国の王」と認め、朝貢権を推古に与えたのである。これが「倭皇の朝貢を喜ぶ」の意味である。倭国王に「列島代表権を取り上げて大和に渡すぞ」と圧力をかける為の「予め用意した裏外交」であろう。 (8) それを示唆された倭国王は、裴清が推古に会う前に折れて「俀(イ妥)国改号・天子自称・平等外交を撤回し、朝貢を約束した」(隋書)。その結果、隋帝の国書「推古に対する倭国代表権・朝貢権」は推古に渡される前に反故にすることが予め決まっていたのであるが、形式上推古に渡された。隋書は公式史書として倭国だけを記して、裏外交である推古紀の内容はカットしている。隋帝の二股外交の完勝である。 (9) 聖徳太子は二書の遣隋使譚に登場しない。しないでも、上項のように整合する解釈が可能である。これは定説「多利思北孤は聖徳太子」の不成立を示す(九州王朝説(盗用説)不成立)。 以上、隋書と推古紀はすべて合理的に整合していると、解釈できた。隋書は「裏外交は公式史書に載せない」の原則を貫き、推古紀は「倭国不記載」の原則は貫いているが、隋が滅んだ紀編纂時点で「隋との裏外交を隠す必要」は無い。むしろ「大唐(隋)との友好外交」を強調している 。 ●539 検証 倭国の改号 俀(たい、イ妥)国 ここから10数節は上記結論「遣隋使の真相」の元となった検証と論証である。冒頭で言及したが初著「倭国通史」242~258頁の再掲である。 6世紀、混乱を極めた中国は隋(581年~)によって統一された。倭国は南朝(宋・斉・梁・陳)に朝貢してきたが、南朝が滅んで20年もたってからようやく北朝系の隋に遣使した(600年)。この前後に、倭国は「俀(イ妥)国」と国号を改めた様だ。その記事が隋書にある。この内容は推古紀には無い。 . 隋書列伝俀(イ妥)国条冒頭」 「俀(イ妥)国は百濟新羅の東南に在り、水陸三千里、大海の中、山島に依りて居す、魏時譯を中國に通ず三十餘國、皆王を自稱す、、、其の国境東西五月行、南北三月行各海に至る、、、邪靡堆に都す 、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり。古にいう、楽浪郡より、、、1万2千里、會稽の東にあり、、、安帝の時又遣使朝貢す、之を俀(イ妥)奴国という、、、魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず、、、」 「俀(イ妥)国は、昔の俀(イ妥)奴国、魏や梁に遣使した国」と言っている。魏に遣使したのは「倭国」の卑弥呼、梁に遣使したのは「倭国」の武であるから、「俀(イ妥)国」とは「倭国」からの国号変更があったと解釈される。過去の別名の国「倭奴国」まで「俀(イ妥)奴国」に変えているから、「単なる国字の変更」とも考えられる。7年後に再び「倭国」に戻っていることも、その傍証となる(後述)。 ●540 俀(イ妥)王阿毎多利思北孤、和名で通す 隋書俀(イ妥)国条には和語の漢字表示が多用されている。 隋書 (続き2) 「城郭無し、内官12等あり、、、軍尼(くに)120有り、中国の牧宰のごとし、、、冠制を始む、、、兵有りと雖も征戦なし、、、五弦の楽有り、、、仏法を敬い、、、阿蘇山あり、、、新羅・百済は皆俀(イ妥)を以って大国となし、珍物多く、並(みな)敬仰し、、、」 宋時代には倭の五王の姓名は倭讃・倭武のように漢風の一字姓、一字名だった。しかし、俀(イ妥)王は和名を用いている。これを「姓が変わっている。王統が変ったからだ。倭の五王の倭王家は滅びた。磐井倭王家は滅びた」とする解釈がある。しかし筆者は王統が変わっていない、と考える。「南朝には敬意を表して漢風名を用いたが、新参の北朝に対してそれは媚になる。自分には堂々たる和名がある。」として和名「アメノ□□□タラシヒコ」で通した、と解釈するのが自然だ。「日出ずる国の天子」(後述)と外交姿勢で一致している。前章でのべたように、倭国王家では物部氏の外戚戦略で主流・傍流の交代はあったかもしれないが、倭国王家(アマテラス系)自体は継続している。 ●541 俀(イ妥)は内政重視で大国に 隋書は続いて、俀(イ妥)国について詳細に記述している。訪倭した隋使の報告書に基づいたようだ。中国からの国使は卑弥呼の時代の魏使以来である。 隋書 (続き3)
「大業3年(607年)、其王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰く、『聞く、海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝拜し、兼(あわ)せて沙門數十人來り佛法を学ぶ』と。その国書に曰く、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々』帝は覧て悦ばず、、、『蛮夷の書、無礼有るは、復(また)以って聞(ぶん)するなかれ』と。 明年(大業4年 608年)、文林郎(ぶんりんろう、役職 文書係?)裴清を使いとして俀(イ妥)国に遣わす」 「城郭無し」とは、朝鮮と違って城の伝統がなかったのかも知れないが「磐井の乱」(第六章)を克服して敵対する勢力が居ないことを示している。官僚制度「内官12等」や牧宰(中国の地方国の長官)に似た地方行政制度「軍尼(くに、「国造」のこと?)」を整備したようだ 。「兵有りと雖も征戦無し」とは、「倭王武の上表文(前出)のような征戦の連続」と大いに異なり、半島の拠点を失ったが、国内征戦も無かった(終わった?)ことを示している。一方で、文化に力を注ぎ仏教を敬い、隣国から大国と看做されている、とある。俀(イ妥)国は内政を充実させ、文化を興隆させることによって、倭諸国の求心力を回復した様だ。 ●542 対等外交 俀(イ妥)国は外交でも積極策に出た、と隋書にある。 隋書 (続き3) 「大業3年(607年)、其王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰く、『聞く、海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝拜し、兼(あわ)せて沙門數十人來り佛法を学ぶ』と。その国書に曰く、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々』帝は覧て悦ばず、、、『蛮夷の書、無礼有るは、復(また)以って聞(ぶん)するなかれ』と。 明年(大業4年 608年)、文林郎(ぶんりんろう、役職 文書係?)裴清を使いとして俀(イ妥)国に遣わす」 ここで、「朝貢」と記されている。天子を自称する多利思北孤が朝貢するはずはなく「方物を献ず」位が妥当だが、後述するように後に隋は多利思北孤に「あれは朝貢でした」と言せたので、隋はここを「朝貢」と記している。「重ねて仏法を興す」とあるのは「南朝仏教があるのに、重ねて北朝仏教を興す」の意味で、南朝仏教の守護者を自認する多利思北孤が新興仏教を「暖かく見下している言葉」、と筆者は解釈する。しかし、それとは裏腹にこの遣隋使に多くの学者・僧が同行して新興の北朝仏教を学ぼうとする別の勢力(蘇我氏や推古朝)が混じっていたと考える。 さて、注目の「日出ずる処の天子云々」で始まる「対等外交国書」を送ったことに対して、煬帝が怒った、とある。煬帝は一度は怒ったものの、直ちに調査団を俀(イ妥)国に派遣した。場合によっては戦争になるかもしれないので、敵状偵察を命じたという解釈もある。 ●543 小野妹子の遣隋使 推古紀 この隋書俀(イ妥)国伝の記事に対応する記事が同年の推古紀にある。 推古紀15年(607年)「大礼小野臣妹子を大唐に遣わす」 推古紀16年(608年)「四月、小野妹子、大唐

定説では「隋書と推古紀は見事に一致し、同一事績を記述したものに間違いない。隋の使い『裴清』(隋書)と『裴世清』(推古紀)も2字まで一致し、完全に対応している。『倭皇』とは当然推古天皇のこと、多利思北孤は男王だから、摂政の聖徳太子のことだろう。隋書607年の多利思北孤の『朝貢す』という記事と推古紀の隋帝国書にある『朝貢』も一致する。朝貢を承認されたのだから、『倭の代表』と認められている。だから『俀(イ妥)』は『倭』の誤りで大和朝廷のこと。対等外交は結果的に成功した」とする。
しかしこの定説には女帝推古と男王多利思北孤が対応しないなど無理が多い。更に前章までに述べた様に、倭国と推古天皇の大和王権は王権が異なり、本拠も九州と大和で異なる。国書の差出人も異なるはずだ。同一事績ではない。
筆者も「別の事績」とするが、「同一年の事績」、と解釈する。なぜ同一年に異なる王権が同じ相手に国書を送っているのか。隋書の記述と日本書紀の記述は「同一事績」と「同一でない事績」の二面性を持っていて、後世の史家を惑わしてきた。それを次節以下で解析する。
●544 小野妹子は俀(イ妥)国遣隋使の随行使
隋書と推古紀を整合させ得る筆者の解釈について、結論から先に示す。「607年、俀(イ妥)国は遣隋使を送った。その国書は『日出ずる国の天子、、、』で始まる『対等外交』だった。この遣隋使に、大和推古天皇は小野妹子を随行させた(小野妹子と上宮王の関係はこちら) 。最先端の文化・文明を得る目的で倭国王の同意の下に、推古天皇の信書と献上品を携えて小野妹子は参加した」と考える。ここまでは倭国の遣隋使としての「同一事績」だ。
「随行」と述べたが、その理由の一つは当時外交権を握っていたのは倭国であって、外交問題では大和王権は従属国に過ぎない。大和からの遣中国使は初めてであり(新唐書)、当時まだ独自の公式外交ルートを持っていなかった。有力な倭諸国は推古に限らず随行使を送り込んでいたのではないだろうか。費用分担と引き換えに文化・珍宝を求めて。特に、百済が早くから北朝仏教に転向したのを知って、これを学ぼうとする勢力は国内に多かったようだ(上掲に「佛法を学ぶ数十人が随行」とある)。上宮王家の聖徳太子・大和王権の推古天皇・蘇我氏などだ(前章)。これら勢力が俀(イ妥)の遣隋使に随行使を送る大きな動機となった、と考える(俀(イ妥)国は南朝仏教に固執)。
ところが、主使である俀(イ妥)国使が煬帝を怒らせた結果、煬帝は俀(イ妥)国に断交を突きつける一方、随行する大和使に倭国代表権の誘いをかけた。煬帝の「遠交近攻策」だ。「隋と俀(イ妥)」と「隋と大和」の「別の事績」に変化した。隋国側が「俀(イ妥)国を相手にせず、随行の小野妹子を倭国朝貢使と認める」と急変したか、あるいは随行使小野妹子が急遽独自倭国代表(俀(イ妥)国を除く)として朝貢を申し入れたか、どちらの可能性もある。
●545 隋使裴清の訪倭 「海岸に達す」は東海
煬帝は一度は怒ったものの、直ちに調査団を俀(イ妥)国に派遣した。
隋書 (続き4)
「明年(大業4年 608年)、文林郎(ぶんりんろう、役職 文書係?)裴清を使いとして俀(イ妥)国に遣わす、、、都斯麻(つしま)国を経て大海中に在り、、、竹斯(ちくし)国に至る、又東秦王國に至る、、、又十餘国経て、海岸に達す。竹斯国より東、皆俀(イ妥)に附庸す。俀(イ妥)王、、、來迎し、、既に彼の都に到る、、、」
隋使は俀(イ妥)国を端から端まで調査した、とある。
ここで「海岸に達す」について、従来から種々論争がある。定説の「倭国=大和」説では「隋使裴清が難波に来ている(推古紀、前掲)。だから『竹斯国に到る、、、十餘国を経て海岸に達す』とは、瀬戸内海を経て海から海岸に達することで『摂津難波』のことだ。その後の文章に難波での歓迎と俀(イ妥)王の応接記事が続くから、隋使裴清は難波から上陸して大和に到り俀(イ妥)王(推古天皇)と面接した、と解釈できる。従って、『倭国=大和』であり、『竹斯より東は、皆大和に附庸す。』が成り立つ」としている。俀(イ妥)は倭の誤字と解釈している。
一方「九州王朝説」では、「『海岸に達す』は『陸路で十餘国を経て九州東端の海岸(豊前)に達す』の意味だ。『十餘国』はすべて九州内で、『皆俀(イ妥)に附庸す』は九州内が俀(イ妥)国であることを示している。推古紀の隋使裴清が来た難波とは筑紫難波津だ。隋使裴世清は大和に行っていない。推古紀は捏造だ。」とする。
しかし筆者は、この「海岸に達す」は九州東端ではなく、また大和難波でもなく、更に東の伊勢湾あたりあるいは東海だろう、と考える。その根拠を示す。
(1) まず、九州王朝説の豊前海岸ではない。なぜなら、筑紫から豊前は約50km、たかだか2~3日の道のりだ。皇帝に命じられ、長安から2000km近くを要した「敵情視察の大調査旅行」を、中国人からみれば「隣村」程しかない豊前海岸に至ってその海の向こう(東)も見ずに「東は全部判った」と報告することは考えられない。中国は九州の東に大和があることは知っている(雄略紀)。
(2) 煬帝の狙いは俀(イ妥)国を牽制する為の「遠交近攻策」である。このことは出発前から用意した大和推古天皇への国書が証となる。裴清は大和を俀(イ妥)国に対抗できる国として訪れ「魏時、、、邪靡堆(やまと)に都す 、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり。」(隋書冒頭文、前掲)と理解した、と考えられる。大和が倭国の強力な同盟国であることは宋書以来の中国の理解だ。小野妹子は中国でその様に強調しただろう。隋使はその認識を確かめる調査使である。
(3) しかし「海岸に達す」は「(摂津)難波」でもない。「海岸に達す」が「難波」のことでは、難波の「西側」を見ただけ、大和の「東側」を見ないで「東、皆俀(イ妥)に附庸す」と判断したことになり、これまた怠慢のそしりを免れない。隋書俀(イ妥)国伝冒頭に「俀(イ妥)国は、、、其の国境は東西五月行、南北三月行、各々海に至る」とある。そこで俀(イ妥)国を端から端まで、すなわち「海を渡り竹斯から秦王国(豊前)や(大和を含めて)十餘国を経て反対側の海まで、西端から東端まで全部実地に見た」という調査範囲報告「海岸に達す」が意味を持つ。それがあって初めて「竹斯国(西端)より東、皆(東端まで)俀(イ妥)国に附庸す」という結論が得られたのだ。
(4) その全体把握の披歴の後に、具体的行事「俀(イ妥)王と会った」と述べている。実際の行程の順序ではなく、報告の根拠を先に示した文章の様だ。なぜなら、日本書紀によれば、裴清が筑紫に着いたのが608年4月、(摂津)難波津に着いたのが6月、この2ヶ月間筑紫で俀(イ妥)王と会っていたと推定される。(摂津)難波に着いてから2ヶ月後の8月入京(大和小墾田)、この間に更に東端海岸まで調査していたと推定される。9月帰国する客を推古天皇は(摂津)難波で饗応している(推古紀、後述)。
以上結論として、「裴清は筑紫で俀(イ妥)王に会い、東海の海岸に行った後大和に入り推古天皇に会っている」。
●546 難波津や海石榴市(つばきち)は倭国接待施設
九州王朝説は「裴清が大和に行った、というのは推古紀の捏造だ。なぜなら書かれているのは倭国の筑紫接待施設だからだ。裴清は大和には行っていない」とする。
しかし、煬帝の隋使裴清は、帰国する倭国遣隋使と大和の随行使小野妹子と共に筑紫に着いた。難波津(筑紫)や海石榴市(つばきち)など九州の倭国接待施設で客人が歓迎されたに違いない。出迎えたのは倭国役人(主使側)と大和役人(随行使側)が一緒に裴清を歓迎している。推古紀に九州倭国の接待設備・行事がでてくる理由はある。
ただ、大和は筑紫の外交施設と同名の同様施設(難波津・難波高麗館)を摂津難波に作り、同様の歓迎行事(飾り船、飾り馬)を再度大和で繰り返した。「海石榴市」すら真似た可能性がある。これは裴清の為、というよりは日頃から九州風の地名や行事も近畿に持ちこんでいた可能性が高いからだ。これも後世読者の混乱と誤解を招いたようだ。
●547 「三つの難波」 筑紫・摂津・豊国
「難波」は二か所あって頻出し、分かり難いが書き分けられている。これを検討する。実は三か所目があり、これも含めて説明する。
「筑紫難波」は朝鮮半島からの外交使節の到着港であり(福岡市東区の多々良川河口付近か)、筑紫の人物と共に日本書紀に登場する。
欽明紀540年「難波祝津宮に幸す、、、物部大連尾輿(本拠は筑前鞍手郡、遠賀川中流)等従う」
欽明552年「稲目宿禰に試みに(仏像を)礼拝させる、、、大臣よろこんで小墾田(肥前三根郡、鳥栖市近く)の家に安置す、、、向原(肥前養父郡、鳥栖市西の向原川近くか)の家を浄めて寺と為す、、、後に国に疫気がはやり、、、天皇(倭国王、前章参照)曰く、、、仏像を難波(筑前)の堀江に流し棄てる」
敏達紀585年「物部守屋(筑前鞍手郡)が仏像を焼き難波(筑前)の堀江に棄てた」
一方、「摂津難波」は「神武東征」「神功~仁徳東征」「孝徳遷都(難波宮)」に頻出する。神武紀では「『浪速』が訛って今(日本書紀編纂時)『難波』という」としている。「難波」が神武より後世の名称と示唆されている。神功皇后東征後に筑紫難波の地名を摂津へ移植したと思われる。
三つ目の「豊国難波」については第六章「難波屯倉は豊国」で検証した。「豊国に三つ目の難波があった可能性が高い」というのがその結論だ。その要旨は「応神天皇の頃、日本貴国は北肥前から豊国大隅に遷り宮とした(応神紀)。また、大和との連携に好都合の豊国海岸に津を設け、筑紫難波を地名移植して「豊国難波」とした。その後摂津難波に遷った日本貴国(日本)は仁徳朝~継体朝の間、豊国難波を半島との主要中継地として活用した可能性がある。この間のいずれかの時点で、豊国は日本貴国の流れを汲む筑紫君磐井の所領となった(豊前・豊後の点在所領)。その磐井の所領を奪った安閑/物部麁鹿火は豊前勾金橋に遷都した。応神五世継体の子である安閑天皇は「豊国難波」を祖応神天皇ゆかりの地として大切にした(安閑紀)。」
日本書紀は三つの難波を説明なしに並記するから、弁別が難しい。日本書紀編纂時にすでに豊国難波の記憶・情報が失われた可能性、意図的に畿内への移植地名だけを記述した例など虚偽記載とは言えないが、大和一元政策に沿った編集が感じられる。応神紀~敏達紀は「三つの難波の並存」を認めて初めて無理のない解釈が可能となる。
●548 俀(イ妥)国の対等外交の放棄
本題の隋書に戻る。前述の隋書に続く記述には、「隋使裴清が俀(イ妥)国に行き、俀(イ妥)国王は対等外交をあっさり放棄し、朝貢を認めた」とある。文中括弧に筆者解釈を付記するが、付記を合わせ読むことで整合性が理解されると考える。
隋書 (続き5 俀(イ妥)国伝末尾)
「その王(俀(イ妥)王多利思北孤)は清(裴清)と相い見え、大いに悦んでいわく、『我れ聞く海西に大隋礼義の国ありと、故に遣わして朝貢す(前回の遣隋使、あれは朝貢でした、俀(イ妥)国王の天子自称はなかったことにしてください)』 と。清答えて曰く、『皇帝の徳は二儀(天地)に並び、、、王の化(おしえ)を慕うを以って、故に行人を遣わし来りてここに宣諭す(朝貢するなら許す、その確認に来た)』と、、、その後、(帯方郡に留まり報告書を長安に送って皇帝の許可を得た)清は(帯方郡から俀(イ妥)に)人を遣わしてその王に謂いて曰く、『朝命は既に達す(天子の自称をやめたことの確認と報告は終わった)』 と、、、復(ま)た(俀(イ妥)の)使者をして(長安に帰る)清に従い方物(宝物)を来貢せしむ(俀(イ妥)の使者が裴清に従って長安に行き朝貢した)。この後、遂に絶ゆ (俀(イ妥)国は再度改号して倭国に戻った、俀(イ妥)国としての使は二度と来なかった)」
多利思北孤は天子を自称したが、中国の反応が厳しく1年でそれを撤回した。「多利思北孤の対等外交の試みは、煬帝によって潰された」と解釈できる。煬帝は「俀(イ妥)国はあったが私が潰した」と勝ち誇って、わざわざ隋書に「俀(イ妥)国伝」を立て、俀(イ妥)王の「あれは朝貢でした」の言を取って607年記事を「朝貢」とした(前述した隋書つづき2の疑問への答え)。その上で「遂に絶ゆ」として「俀(イ妥)国」が潰れた事実を記録に残した(実際の隋書編集は後世だが、そのような当時の史料に基づいたものと思われる)。そして、国号を旧に戻した「倭国」が、2年後に朝貢したことを次の様に確認している。
隋書帝紀煬帝上(俀(イ妥)国伝の中でないことに注目)
「大業6年(610年)、倭国(俀(イ妥)国ではないことに注目)、使いを遣わして方物を貢す(朝貢再開の確認)」
●549 隋の二股外交
前節の隋書によれば608年に裴清は竹斯に到り、俀(イ妥)国の多利思北孤と会って「天子自称・俀(イ妥)国改号の撤回、朝貢の実行」を引き出した。それに日本書紀608年をあわせ読めば、裴清はその後に大和を訪ね、出発前に用意した煬帝から推古天皇宛の国書「倭国の代表として朝貢を認める」を伝達した。結果的に倭国代表を多利思北孤と推古天皇の二者に認めたことになる。隋使が隋を出る前から想定した公式と非公式の二股外交と考えられる。隋書と日本書紀では使者の身分が異なる。隋書は「文林郎(ぶんりんろう)裴清」とあり、日本書紀では「鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)裴世清」とある。隋が公式と非公式で使者の肩書きを変え、公式での二股を避けたとも考えられる。
裴清は列島の西端の海から東端の海岸まで実地検分し、竹斯国より東は皆(大和も含め)俀(イ妥)に附庸している実態を把握した。その結論として「今回、俀(イ妥)国の多利思北孤の代わりに推古天皇を倭国の代表に認める煬帝の国書を渡したが、実態を見ると大和は俀(イ妥)国に附庸している。多利思北孤も朝貢を受け入れたのであるから多利思北孤を代表に戻すべき、そう煬帝に報告しよう」としたのであろう。それが隋書にあるように「その後、清は人を遣わしその王(多利思北孤)に謂いて曰く、『朝命は既に達す、、、』」となったと考えられる。
この外交騒ぎは俀(イ妥)国の譲歩で収まり、以後の正式遣唐使は再び倭国からとなり、中国史は、倭国遣唐使のみを記録している。一方、日本書紀は大和の遣唐使のみを記録している(隋は618年に唐に代わった)。
●550 推古天皇は「倭国王認定」を反故(ほご)にされた
注目すべきは、前節の推古紀に、「その書(国書)に曰く『皇帝、倭皇に問う、、、皇、、、遠く朝貢をおさむるを知る、、、朕嘉(よみ)するあり』」とある点である。この「倭皇」の記述から、小野妹子が持参したであろう推古天皇の書は(俀(イ妥)ではなく)「倭国」の立場を取り、「天皇」と自称したと思われる(もちろん「天子」自称ではない)。また、献上品は朝貢品ではない。その時点では推古に朝貢の権限はないからだ。それに対して煬帝は、「倭皇の朝貢を嘉する」として推古天皇を「倭国の朝貢の主、倭国代表者」と持ち上げている。推古天皇は「倭国王」と認定されたのだ。
裴清が帰国するに当たり小野妹子を再度送り推古天皇は書を託した。
推古紀(608年)
「天皇唐帝に聘(あと)ふ。其の辞に曰く、東の天皇、西の皇帝に敬白す、、、」
再度「天皇」を自称している。秦の始皇帝がそれまでの「三皇(天皇・地皇・人皇)」の上に「皇帝」を新設したから「天皇」は「皇帝」の下である(史記秦始皇本紀)。その点は俀国のような「天子」自称問題を起こさなかったようだ。しかし、隋書には裴清が大和に行ったことも、推古宛国書のことも記されていない。それは公式化されたり、史書に載ることは無かった。推古天皇への「倭国王認定」はほごにされたのだ。それは、多利思北孤が譲歩して「俀(イ妥)国改め倭国」とし、600年の対等外交を「朝貢」であったと認めたことにより、再び「倭国代表者」と認められたからである。こちらは隋書に記載され公式史実とされた。煬帝の二股外交の完勝である。
隋帝と推古天皇のやり取りはどちらにとっても「裏外交」だ。隋は二股の一方が成功したから推古帝とのやり取りは明かしていない。倭国との公式外交だけを記している。推古帝にとって結果は失敗だったが、倭国滅亡後の日本書紀は隠す必要が無い。隋帝と推古天皇の友好外交と表現されている。両書を併読すると読者は誤読(多利思北孤と推古の混同)に誘導され易いが、なんら隠されていないからよく読むと全てがわかる。
●551 「邪馬台国=邪靡堆(やまと?)=大和」説
隋書俀(イ妥)国伝の冒頭には「邪馬台」について重要な記述がある(下線部)。
隋書列伝俀(イ妥)国条冒頭
「俀(イ妥)国は、、、魏時、、、邪靡堆に都す 、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり、、、」
(再掲)
この記述は「倭国=大和朝廷」説(定説)が強力な根拠としてきた史料だ。その根拠とは「隋書の内容(裴清、608年など)が推古紀と一致していること」「隋使が大和に来た上で邪馬台国は邪靡堆だ、としていること」「邪靡堆の読みは『やまと』だろう」などだ。その結果「倭国の都=邪馬台国(魏志)=邪靡堆(隋書)=大和(推古紀)」が史料で確認された、と解された。これについて検討する。以下で「大和」は地域を指し、発音は「やまと」などで表記する。
(1) 隋使の目的の一つは「俀(イ妥)を抑える為の遠交近攻策として大和を研究すること」だ。そこで隋使は「過去・現在の倭国・俀(イ妥)国・邪馬台国・大和」について貪欲に訪問先の九州と大和の人々に聞いたはずだ。九州と大和で答えは違ったかも知れない。特に大和は隋使に「卑弥呼=神功皇后説」や巨大墳墓を紹介して「邪馬台国=大和論」を繰り返したに違いない。
(2) 隋使が「大和」を訪問した後に「邪靡堆」と表記している。「大和」の発音は当時の表記「夜麻登(古事記)、夜摩苔・野麻登(日本書紀)など」から現在と大差ない「やまと」だったと考えられている。従って、「邪靡堆」の発音も「邪靡堆=やまと」だった可能性がある。
(3)「邪馬台国」を紹介しながら表記を「邪靡堆」に変えている。変えた理由の一つは「邪馬台と邪靡堆の発音が違う」からだろう。もし「邪馬臺=邪靡堆=やまたい≠やまと」だったら表記は変える必要がない。しかしそれでは「魏時の都邪靡堆=邪馬台国はどこか?」の中国の疑問に隋使は答えたことにならず、調査怠慢のそしりをまぬかれない。
(4) 中国も「邪馬台国は不詳」と思っていたようだ。隋書の「魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり」という表現には「魏志の謂う『邪馬台』がよくわからなかったが、大和の説明でよくわかった。『いわゆる邪馬台は邪靡堆(やまと=大和)のことだ』」と納得したような感じが出ている。
結論として、隋使は「魏志の謂う邪馬台国は地域としては大和、その発音はやまと、その表記は邪靡堆がより近い」との認識に至ったと考えられる。
ただ以下のように、魏以外の時代は倭国の都が大和でないことを中国は知っていた。
(1) 隋書文中の「俀(イ妥)奴国」は委奴国であり、この1世紀時点で当然大和は都でなかった(金印「伊発掘から北九州)。
(2) 「宋」「梁」は倭王が大和を統治下に入れたことで倭国王と認め、大和を統治し切れないから倭王と格下げしたのだから、倭国の都が大和でないことを知っていた(第六章)。
(3) 隋使は「倭王と大和天皇の両方に会って倭王を代表と報告した」(上述)。倭国の都が大和でないことを隋は知っていた。
(4) しかし、大和朝廷は「魏志倭人伝の『邪馬台国、女王の都する所』は大和のこと」と主張し、隋使も「少なくも魏の時のみはそうかもしれない」と考えたようだ。
その結果、「魏の時(のみ)倭国の都は大和」と、括弧の補足を加えた様な表現になったと考える。実は、魏の時の倭国の都は九州(第二章)だからこの隋書の文章も依然として誤解だ。
もう一つ、この文章は「608年、推古天皇が大和にいたことを示す重要な史料」として価値がある。「小墾田」はそもそも肥前の地名、蘇我稲目の本拠であったが、推古紀603年の「小墾田宮に遷る」は蘇我馬子が提供した「大和小墾田宮」である。
●552 随行使の歴史
以上で「推古派遣の小野妹子は倭国遣隋使の随行使であった」ことを検証した。隋から唐へ代わった後も「倭国の遣唐使への随行使」を舒明・孝徳・斉明が送っている。実は「倭国の女王台与にも倭国外(邪馬台国?やまと?)の随行使が居た」と晋書から読み取れる。この様に倭国は建国(西暦80年頃)から滅亡(701年)まで、倭国遣中国使に分国・周辺国の随行使を許し続けてきたようだ。このこと、「日本書紀の遣中国使記事は倭国遣使への大和王権随行使の記事である」ということを歴史の先達の誰も指摘してこなかった。
ここではそれら五例を検証して、そこから導かれる「倭国とやまとの関係」を明らかにする。
●553 推古紀の遣隋使 その後
前話で検証した「隋書イ妥国伝」は608年の「此後遂に絶ゆ」でイ妥国伝自体が終了している。倭国は「イ妥国への改号と天子自称」を煬帝に反対され、「倭国へ復号し、天子自称を止めて朝貢を誓ったのだ」(前話)。それが隋書自身から確認できる。
隋書帝紀煬帝
「大業6年(610年)、倭国遣使して方物を貢す(朝貢開始の確認)」
ここで「倭国」とある。イ妥国が倭国に復号したと考えられる。その倭国が朝貢した、とある。これが推古の朝貢なら、この610年の朝貢記事を推古紀が書かないはずはない。推古は隋帝に「朝貢をよみする」と言われたことを推古紀が大書しているのだから。しかし、この610年の遣隋使記事は推古紀に無い。この遣隋使の遣主は推古ではない。随行使も出さなかったのであろう。前年609年に小野妹子が帰国しているが大唐(隋)から「倭国が朝貢を誓ったので、煬帝が一旦認めた『推古の朝貢承認』は撤回する」と言い渡された(反故にされた)であろうから、「倭国の朝貢遣唐使」に付き合う気は無かったのだろう。
しかし、推古は614年に遣唐使を出している。これも随行使であろう。
推古紀614年
「八月、犬上君御田鍬(みたすき)、、、を大唐(隋)に遣わす」
次の年に帰国記事があるが、これも素っ気なく一行ですませている。「随行使」と推測する訳は記事が素っ気ないこともあるが、ほぼ同じ次の遣唐使記事(舒明紀、次節)が「随行使」と検証できるからだ。
●554 舒明紀の遣隋使
隋が唐に代わると(618年)、前遣隋使と同じ人物を唐に遣わしている。推古に代わった舒明の遣唐使の初出である。
舒明紀630年「八月、犬上君三田耜(みたすき)、、、を大唐(唐)に遣わす」
この遣唐使については旧唐書に詳しい。
旧唐書倭国伝631年
「(倭国)遣使方物(宝物)を献ず(貢・朝貢ではない)、大宗(唐帝)その道の遠きを矜(あわれ)み、所司(役人)に歳貢を無くすよう勅令した、又新州刺史高表仁を遣わし往きて之(倭国)を撫(なだめ)させた。表仁綏遠の才無く、王子と礼を争う、朝命を宣(の)べず還る」
630年発、631年着の同一遣唐使である。「倭国伝」であるから「倭国の遣唐使」である。だが、「献ず」とあるから「朝貢使」ではない。「隋には対等外交を拒否されて朝貢に転じた」が、唐になると「遣使はするが朝貢せず」に戻り、再び対等外交を目指している。遣隋使と同じ姿勢である。「唐帝は矜(あわれ)んで、もう来なくてよい、と命じた」とあるが、隋帝と同じように怒って同じように「詰問使」を送ったのであろう。案の定、唐の使い髙表仁と倭国は礼で争っている。友好外交ではない。朝貢を目指した推古路線、それを受け継いだであろう舒明の路線ではない。このことから、「舒明の初遣唐使は遣主ではなく、随行使」と考えられる。
「倭国訪問不和」の後に、舒明は高表仁を丁重に大和に迎えている。推古と同じ裏外交であろう。
舒明紀632年「十月、唐国使人高表仁等、難波津に到る、、、江口に迎えさせた、船三十二艘及鼓・吹・旗幟、皆具え整え飾った、高表仁等に便え告げて曰く、天子の命ずるところの使が天皇の朝(みかど)に到ると聞き、これを迎える、高表仁対(こた)えて曰く、風寒の日に船艘を飾り整え、以って迎えを賜る事、歓愧なり(うれしく恐れ入る)、、、客等を館に引き入れ、即日神酒を給わった」
ここで、難波津・江口・飾船三十艘は「推古の隋使裴世清に対する摂津難波での歓迎記事」と殆どおなじである(推古紀608年)。舒明は推古の親中国路線を踏襲している。舒明の本拠は推古の大和小墾田宮を継がず、再び九州の肥前飛鳥岡本宮としたが(舒明紀630年)、この唐使高表仁を迎えるには倭国との違いを強調すべく推古に倣い、摂津難波と大和小墾田宮での歓迎を踏襲したものと思われる。高表仁は大和で三か月滞在して帰国した(舒明紀633年)。
●555 孝徳紀の遣唐使
孝徳紀にも遣唐使記事がある。
孝徳紀653年
「五月、大唐に大使、副使、学問僧(定恵(鎌足長子)ら)、学生など121人(第一船)、他に120人(第二船、七月遭難)を遣わす」
孝徳紀654年
「二月、大唐に押使大錦上高向史玄理(たかむこのふひとげんり)、大使、副使他、、、分乗二船。数月を連ね、新羅道を取り、、、遂に京奉に到り、天子に会う、是に於いて東宮監門郭丈挙、日本国の地里及国の初めの神の名を問うた、皆問に答えた」
とある。海外史書もこれを伝えている。
唐会要倭国伝
「永徽五年(654年)、遣使して琥珀瑪瑙、琥珀大如斗、瑪瑙大如五升器を献ず、高宗書を下し、、、新羅素(もと)より高麗百濟を侵す、若し危急有らば、王宜しく兵を遣わしこれを救う(王宜遣兵救之)」
新唐書東夷伝 日本条
「孝德即位し、白雉と改元す 、虎魄大如斗、碼碯若五升器を献ず、時に新羅は高麗・百濟の暴す所、高宗璽書を賜り、出兵して新羅を援け令(し)む、孝徳死に、、、」
献上品が同一と思われ、同一事績とされるが、微妙に異なる。
(1) 唐会要倭国伝の記述だから、倭国遣唐使であろう。654年当時は倭国は未だ健在であった。一方の新唐書日本伝は建国後の日本遣唐使の報告を参照しているから、日本の公式の主張であって、孝徳紀は捏造でも盗用でもない。孝徳は遣唐使を送ったと確認できる。同一の遣唐使に倭国と日本の使いが居るとしたらどちらが主使で、どちらが随行使であろうか。当時の関係から、「倭国遣唐使に大和随行使」の組み合わせであろう。
(2) どちらも「献ず」となって「貢ず」でないから、倭国が遣主で大和が随行使だろう。なぜなら、倭国は唐に対して「遣使はするが朝貢せず」の対等外交に固執していた。
(3) 唐の役人が「日本」について詳しく聞いている(孝徳紀654年)。「日本」の呼称は四世紀ころから半島が列島東部の諸国を指す「見做し国名」で、東諸国軍も半島で「日本軍」を自称した。中国の公式史書は総国「倭国」は記すがその属国・分国は記さない。まして「見做し国名」は使ったことがない。唐が「日本」を使うのは初めてで、新羅が使う「日本」に倣(なら)ったのであろう。その背景にはこの頃「唐が新羅と連合し始めた」がある(648~660年)。「百済・倭国連合の背後の日本に接近・牽制する」ことが、新羅・唐連合の共通の関心事となったようだ。「日本」には「やまとを含む東国諸国」を総括する「見做(みな)し国名」の意味合いがあり、「大和王権を広域日本の代表と見做(みな)すから、取り纏(まと)めて倭国に離反してくれ」という中国の狙いがある(遠交近攻策)。
(4) 皇帝が倭国には「書を下し」て「新羅援軍派兵を希望」しているが、外交関係の無い日本に皇帝の「璽書」を賜り「新羅救援を命令」している。「これを実行すれば列島代表と認めよう」と持ち掛けたと思われる。これには孝徳は窮したと思われる。唐皇帝の直接の命令、百済に敵対せよ、との命令である。朝貢を願いながら命令を無視すれば長年の努力も水泡に帰する。さりとて宗主国倭国の友好国百済を攻めることはもっとできない。孝徳は病になって崩御してしまう。
以上、孝徳紀の遣唐使記事は「随行使」記事である。
●556 斉明紀の遣唐使
斉明紀にも遣唐使記事はあるが、重要なのは後年加えられた注の部分である。
斉明紀659年
「唐国に(石布某と吉祥某を)遣使す、(唐の)天子に陸道奥蝦夷男女二人を示す、〈(以下注)伊吉連博徳(いきのむらじはかとこの)書に曰く、(遣唐使、摂津)難波、、、より発す、、、(唐)天子相見て問訊し『日本国の天皇、平安なりや(天子相見問訊之日本国天皇平安以不)』と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あらむ(戦争となるだろう)、汝ら倭の客東に帰ること得ざる(抑留)、と、、、〉」
斉明紀661年「〈伊吉連博徳書に曰く、(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな〉」
斉明紀661年「〈伊吉連博徳書に曰く、(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな〉」
ここで日本書紀は「日本国」と「倭」と「大倭」を書き分けている。文中の「勅旨」の相手は正規外交相手の「倭(国)の主使」だろう。皇帝が話しかけているのは「日本国の客」だ。正規外交相手でない「日本国」(見做し国名、前節)の「客」に皇帝自身が会う、ということは異例のことだ。両方(汝ら)を「倭の客」として「留め置く」と言っている。大和の僧や学者らが倭国遣唐使船に随行・便乗していたのであろう。その「両方」を「留め置く」の理由は倭と中国の外交問題と示唆されている。留め置かれた博徳の帰国は唐帝の意向(日本を味方に引き入れる密約)を斉明天皇に伝える為に特別に帰国を許されたのではないだろうか。「大倭」は九州倭国の自称、ここでは国内での通称。「大倭の天の報い」とは中国外交筋の怒りを博徳から漏れ聞いた倭国外交に批判的な人々(斉明朝)の見解であろう。
唐から日本に百済復興に協力しないよう何らかの働きかけがあったとしてもおかしくない時代背景である。同じような働きかけは過去孝徳天皇にあった。斉明天皇は孝徳天皇の後継者である。唐帝は同じ命令を繰り返したかもしれない。それを斉明天皇が受け取ったのが前述の博徳書である。「斉明天皇が朝倉宮で急に崩御される直前、伊吉博徳が唐から帰国して朝倉宮で斉明天皇に唐の強硬姿勢を報告している」(斉明紀661年)。崩御偽装の可能性もある。
唐の天子が「日本国の天皇」と呼びかける文章は紀の造作ではない。唐の常套「裏外交」である。反抗的な倭国に「来年戦争になる」と脅し、随行使に裏外交で「日本国の斉明天皇によろしく」と伝えたのである。孝徳紀にも出て来た「唐の日本国号使用例」と同じである(前述)。唐は公式には「やまと」を相手にしていないが、この頃から半島に倣(なら)って見做(みな)し国号「日本国」を使って孝徳・斉明に裏外交で呼び掛けている。
大和王権は「推古以来、倭国遣唐使に随行使を出し、密かに朝貢請願をしている」前天皇孝徳は朝貢を願いつづけたが、唐は「それを願うなら、まず(倭国と手を切り、唐側について)百済を攻めよ」と命じた(孝徳紀)。百済は倭国の友好国である。孝徳は窮して病になって崩じてしまう。大和王権の「随行使としての朝貢請願戦略」は破綻したのだ。
以上、推古・舒明・孝徳・斉明の「倭国遣唐使への随行使」を検証した。結果的にそれは「隋・唐の遠交近攻策」に利用されることになった。しかし、「随行使」を許した倭国は伝統的にそれを宗主国の義務と思っていた節がある。
●557 台与の遣晋使と随行使
神功紀には「神功皇后は卑弥呼又は台与」を示唆するような次の編者注を載せている。
神功紀
「晋の起居注(皇帝日誌)に曰く、『武帝の泰始2年(266年)、、、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむ』と」
この記事に関連して注目されるのは同年の別の史料、晋書武帝紀だ。起居注と比べてみよう。
晋書武帝紀
「泰始2年(266年)、、、倭人来たりて方物を献ず」
神功紀の引用と同年で同じ晋の武帝関連記事だから、二文は同一事績だとするのが定説だ。しかし晋書は倭でなく「倭人」、朝貢とは異なる「献ず」である。「献ず」となっているのは、晋とまだ朝貢関係を持っていないか、これから持とうとする使節と考えられる。中国は誇示の意味もあって冊封体制の朝貢使には「貢ず、朝貢す、貢献す」と書き分ける(「献ず」・「貢ず」・「奉献す」の使い分けについては第五章で述べる)。すなわち晋書の「倭人来りて方物を献ず」は台与の「朝貢」遣晋使ではない。「同年の別の遣使」だ。では「倭国と別の倭人国が遠く危険を冒して別々に遣使」したのだろうか。そうではなく「朝貢する倭(国)女王(台与)の遣使」に「倭国とは別の、未だ朝貢していない倭種の国の遣使」が「随行」した、と考える方が自然だ。その根拠は、卑弥呼が魏の皇帝に「其れ(倭)種人を綏撫(すいぶ)し、、、」(魏志倭人伝)と、倭諸国・倭種の指導者として倭国外倭人の面倒を見ることを諭されているからだ [10]。
倭国の周辺には倭種の国は多いが、武帝紀に記される程の国となると「倭種で最大の人口を誇る邪馬台国」(魏志倭人伝)の可能性が高い(初著第二章「倭国女王卑弥呼と邪馬台国女王は別の国、別の女王」参照)。この推測が正しければ「晋は邪馬台国の遣使に直接接した」ことになる。魚豢が「魏略」を編纂していた270年頃には魚豢はそれを知っていた可能性がある。それでも魚豢は魏略の記事(倭(国)伝)に邪馬台国を採用しなかった。即ち「女王の倭(国)(九州、『帯方より万二千里』翰苑所引魏略)から海を度(わた)と倭種の国有り」(漢書地理誌顔師古注所引魏略)とあり、「(九州から)海を渡る邪馬台国は倭国外」と認識し、「倭(国)伝」には入れなかった。しかし、魏略の「倭国伝」を種本にした魏志「倭人伝」は国に拘らず広く倭人・倭種を総ざらえして倭種の「邪馬台国」を入れたのだ(初著第二章)。
この様に、倭国は卑弥呼・台与の時代から倭人の宗主国として「遣中国使に分国・周辺国の随行使を許す慣行」があった様に思われる。
はじめに
第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」
第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」
第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」
第四章 「物部氏」のすべて
第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」
第六章 「法隆寺」の変遷
第六章 「法隆寺」の変遷
 

法隆寺中門と五重塔(筆者)
●558 法隆寺不記載
日本書紀は「法隆寺」の記述はたった一か所「法隆寺火災、一屋も余す無し」とあるのみである。しかし近年の研究により「全焼したのは法隆寺でなく、その前身の斑鳩寺(いかるがのてら、若草伽藍)であり、法隆寺は斑鳩寺焼失後に隣接地に再建された」が定説となってきた。そうであれば、この一か所の記述も法隆寺ではない。日本書紀は法隆寺については「創建」も「移築」も「聖徳太子との関係」も実質何も記載していないことになる。隣の「斑鳩宮・斑鳩寺」についてはこの焼失記事を含め10回以上の記述があるのに、である。この「日本書紀は法隆寺について何も語らない」、これこそが筆者の発見した「法隆寺の謎を解く鍵」である。
●559 法隆寺の謎
「法隆寺の謎」は大きく二つある。「法隆寺の創建者とされる聖徳太子の謎」と「法隆寺の再建説・移築説の謎」である。前者は平安時代から論議があるが、信仰とからんで謎に尾ひれがついて作り話が発展した経緯もあり、謎解きは容易でなかった。他方、後者は近年科学的な手法で解明が進んでいる。以下では、この「最近の後者の成果、創建と移築の解明」を基にして歴史を再検証し、その結果を基に「前者の謎、聖徳太子と法隆寺の関係」解明へと進める手順を選ぶ。その基本的な立場は「真実をあばく」ではなく「真実を理解する」である。「千年の信仰には納得できる始まりがあるはず」という謎解きである。
結論を先に述べよう。法隆寺は創建以来三度の変質を遂げ、四期に分けられる。
●560 第一期 「布教寺」
法隆寺は「仏法を興隆する寺」として「上宮大王」により「布教寺」として創建された(600年頃、心柱年輪測定法)。上宮大王は創建した後は「上宮法王大王」と呼ばれ(伊予風土記逸文)、自他共に「(北朝)仏法興隆の推進役」と認められたのであろう。場所は恐らく上宮大王の飛鳥岡本宮近くか(肥前、推古紀)。
まだ倭国の上宮王であった頃は南朝仏教を学んでいた(正倉院御物「委国上宮王の写本法華義疏」は南朝系)。その後、百済王の勧める北朝仏教に帰依したが、倭国がこれを認めなかったことも一因となり倭国から独立して上宮大王を称し、晴れて北朝仏教の布教を始める為に法隆寺を建立したのである。
 

創建時の法隆寺は肥前飛鳥(第二章参照)
●561 第二期 「菩提寺」
上宮大王が崩御すると、「上宮法皇」と諡(おくりな)されて、法皇等身大の釈迦三尊像を主仏とする「上宮法皇菩提寺」とされた(623年、法隆寺主仏光背銘)。聖徳太子が薨去したのはその前年であるから太子菩提寺(斑鳩寺)ではない。
法隆寺は上宮王権の官寺であったが、その役割は聖徳太子の熊凝(くまごり)寺(第二代大王時代)を経て百済大寺(第三代・第四代大王時代)が担った。斉明時代に大和斑鳩北に移築されて大安寺となったとされる。
●562 第三期 大和移築と誤解
聖徳太子の大和斑鳩寺が全焼した(670年)。その斑鳩に、元明天皇が法隆寺を九州から移築した(708年)。天皇は法隆寺の創建者(上宮大王)についても、聖徳太子との関係(父子)についても黙して語らなかった。その理由は日本書紀の「上宮王家不記載」「倭国不記載」と同じであろう(他王権・他王統不記載)。
その結果民間では「法隆寺は聖徳太子の寺」(誤解、光背銘誤読)が広まった。天皇家はこのような誤解と誤読を肯定しないが否定もしなかった。その理由は、肯定すれば不実になる(「上宮法皇=聖徳太子」)。否定すれば「倭国不記載」「他王権不記載」の紀方針に反するからだ(「上宮法皇≠聖徳太子」)。。
●563 第四期 「合祀寺」
そこで天皇家(光明皇后)は法隆寺に聖徳太子を祀る「夢殿」を追贈した。「法隆寺は上宮法皇と聖徳太子の合祀寺」に改めることによって、民間の誤解・誤読「上宮法皇=聖徳太子=用明天皇皇子」を黙認したのだろう。その結果、「法隆寺は聖徳太子の寺」・「天皇家の法隆寺」が平安時代には既に定説となり、天皇家の保護によって、法隆寺は世界最古の木造建築伽藍として守られたのである。
以下、これらを検証をする。
●564 法隆寺の「第一期 創建」は600年頃 (検証)
法隆寺関連の「年代を示す最古の確証」は五重塔心柱である。近年の研究でその心柱の伐採年は「年輪年代法」から西暦594年とされ、異論の無いところである。
(1) 法隆寺の創建を塔伽藍の完成時とすれば、心柱伐採(594年)から6年程後、600年頃であろう。参考にしたのは「法興寺の発願587年から完成596年まで10年」(推古紀)である。
(2) 五重塔より金堂の方がより古いとする研究がある(雲形肘木(くもがたひじき)の歴史変化)。筆者は初著でこれを支持した。しかし、「金堂の雲形肘木の形は五重塔より古形であるが、両者の着工は同時である」という可能性があり、今回筆者はこれを取る。なぜなら、両者はそれぞれ別の尺度で作られている(建築学の研究成果)。即ちそれぞれ別の工人集団が造った可能性があり、その集団の手慣れた工法・尺度、好みのデザインが採用された可能性がある。寺塔伽藍として「同時着工」の方が自然である。
(3) 「創建607年説」があるが(金堂薬師如来光背銘、奈良時代か)、日本書紀607年の「元興寺完成」記事の誤認であろう(奈良時代)。元興寺は大和飛鳥、創建法隆寺は肥前飛鳥、別の寺である(第一章)。
以上「法隆寺の創建は600年頃」と検証される(心柱伐採年+6年)。
●565 法隆寺の「第一期 創建者」は「上宮大王」(検証)
「創建時期は600年頃」と検証したが、「創建者」は誰であろうか。この時代に仏塔伽藍を建立できる人物を内外史書に探す。この頃は列島の仏教黎明期であり、仏教の知識を持ち、国際レベルの建築技工集団を駆使でき、それだけの財力をもっていた人物は多くない。候補者を検証する。
(1) 「倭国王」は候補の一人である。600年の王は阿毎多利思北孤である(隋書)。倭国は南朝仏教が盛んだった宋に朝貢していた(宋書「倭の五王」)。倭国年号と考えられている九州年号に「僧聴」(536~)がある。倭国には仏教が既に伝わっていたことになり、600年頃に仏塔を建てる可能性はある。しかし、倭国の仏教は恐らく南朝仏教で、百済経由の仏教(北魏北朝仏教)の導入には慎重だった(仏教論争538~570年、元興寺縁起)。倭国王(天毎多利思北孤)は600年・607年に北朝系の隋に遣隋使を送ったが、北朝系新興国「隋」に対等心むき出しである。法隆寺の主仏は北魏様式(北朝仏教)だから「南朝仏教派の倭国王(阿毎多利思北孤)が創建者ではない」が結論である。
(2) 「物部氏」は筆頭大連として記紀に登場するが候補ではない。物部氏の宗家だった物部守屋は蘇我稲目の仏教(北朝仏教)導入に反対し、稲目が歿すると稲目の仏堂・仏像を破壊・破棄し(570年、排仏事件)、それが遠因で「「物部守屋(尾輿の子)討伐事件」」が蘇我馬子(稲目の子)・聖徳太子らによって起こされ、守屋は討伐されて死亡している(587年)。600年頃の排仏派の物部氏は候補ではない。
(3) 「蘇我馬子」は候補の一人である。馬子は守屋討伐勝利祈願に「法興寺」の建立を誓願し、勝利した。法興寺は「発願587年、着工588年、刹柱建立593年、完成596年」である(崇峻紀・推古紀)。「法興寺の刹柱建立(593年)」の後に「法隆寺五重塔の心柱伐採(594年)」の順であるから、「法隆寺≠法興寺」はもちろんであるが「法興寺が先行しつつ法隆寺が時期を重ねながら追った」と考えられる。列島最大の豪族となった蘇我馬子といえども、このような壮大な寺院建立を二寺も並行して行ったとは考えられない。法隆寺の創建者が馬子だったら法興寺と同様日本書紀に書かれないはずはない。結論として「法隆寺の創建者は馬子ではない」。
(4) 「敏達・用明・崇峻」は法隆寺五重塔心柱伐採年(594年)以前に崩御しているからこれら天皇は創建者ではない。
(5) 「聖徳太子」は候補の一人である。法隆寺の創建者とされている(定説、法隆寺薬師如来光背銘、奈良時代作)。しかし、聖徳太子は守屋討伐戦勝祈願に四天王寺建立を誓願し(587年)、願が叶って摂津難波に四天王寺を作り始めた時期である(推古紀593年)。この時代、寺塔伽藍の創建は大事業であった。太子の身で二寺を並行建立する余裕があるとは考えられない。聖徳太子は創建者ではない。
(6) では「推古天皇」か? 推古は593年即位である。即位記念に法隆寺建立を発願すれば翌年(594年)心柱を伐採することは不可能ではない。しかし、推古は605年に別の寺の建立を誓願している(元興寺、のちの大和飛鳥寺、推古紀)。この寺は「守屋によって破壊された蘇我稲目の仏堂の再興」という重要な意味が込められている。なぜなら、稲目は推古の祖父であり、その稲目の仏堂は皇女時代の推古の宮を改装したものである(元興寺縁起)。推古は祖父稲目の意志を継ぐ重要な寺院(元興寺=元の仏堂を再興する意味)建立に集中している。それに先立って推古が法隆寺を建立したとは考えられない。
(7) 前項までに「600年頃創建された法隆寺の創建者」として「記紀と海外史書に現れる主要人物」はすべて検証したが、すべて否定的である。「崇仏派の主要人物(馬子・聖徳太子・推古)」は当時すべて別の寺塔伽藍を創建しているが、法隆寺ではない。
(8) しかし、「記紀にも海外史書にも現れないが重要な候補者」が一人居る。法隆寺金堂主仏釈迦三尊像の光背銘(金石文、次節)に記された「上宮法皇」である。「上宮法皇」は「この時代の崇仏派で独自年号を持つ大王である」(次節)。そうであれば「上宮法皇だけは寺塔伽藍を建立していない」と考える方が不自然である。即ち「600年頃創建された法隆寺の創建者は上宮法皇」の可能性が最も高い(仮説)。そしてそれは奈良斑鳩の地ではない。上宮大王の子聖徳太子ですら斑鳩に移ったのは斑鳩宮造営(推古紀601年)、移り住み(推古紀605年)以降である。
(9) 「上宮法皇」は後述するように「上宮王」「上宮大王」「上宮法王大王」「上宮法皇」と呼称が変わった(次節)。法隆寺を発願した時点では「上宮大王」であったと考えられる。
以上、「法隆寺の創建者は上宮大王である」と考えられる(検証)。これを次節で論証する。
●566 法隆寺の「第一期創建者」は「上宮大王」(論証)
前節の光背銘にある「上宮法皇」とは何者か? 安易に「上宮法皇=聖徳太子」という誤説に惑わされずに、きちんと検証する必要がある。
(1) 倭国に「上宮王」という王族が居たことが知られている。「正倉院法華義疏写本」に所有者名として「大委国上宮王」の文字がある。「大委国」は「大倭国」の佳字と考えられ(志賀島金印「漢委奴国王」の「委」字)、「大倭国」は九州倭国の自称国号である(第二章)。従って「上宮王は倭国の王族」と考えられる。ちなみに「法華義疏は南朝仏教系」と考えられ、「上宮王は倭国の王族で南朝仏教派だった」と考えられる。前節でのべた「倭国王は南朝仏教派」と整合する。
(2) 倭国に北朝仏教が初伝したのは538年である(元興寺縁起)。北朝仏教とする理由は北魏に朝貢していた百済王の勧めだからである。倭国王は南朝仏教だから北朝仏教導入には慎重である。「物部尾輿(大連、倭国の主流派である、第四章)が天皇(倭国王のこと)の許しを得て大臣蘇我稲目の仏堂・仏像を破壊し、難波江(博多)に破棄」している(570年、排仏事件譚、同縁起)。蘇我稲目(大臣、倭国内の非主流派、第三章)は敗退した、と考えられる。
(3) 倭国にも「北朝仏教導入」に関わった王族「大別王」がいたという。前項の排仏事件の7年後「百済国王は使の大別王等に経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工六人を付けて還す、遂に難波大別王寺に安置す」(敏達紀577年)とある。この「難波」は前項「(博多)難波江」であり、倭国の支配地である。「倭国内の王族にも非主流派(大別王、北朝仏教導入派)がいた」と示唆している。
(4) 倭国内で「物部守屋討伐事件」が起こった(崇峻紀587年)。主流派物部守屋(尾輿の子)の専横が続き、非主流派蘇我馬子(稲目の子)・厩戸皇子・竹田皇子らが立ち上がったのである。物部守屋は倭国大連であるが、大和王権(当時九州遷都時代)からも大連に任じられた(第四章)。倭国内では主流派である。蘇我馬子は大和王権大臣であるが、倭国朝廷にも参画して大臣と呼ばれていた(第三章)。倭国内では非主流派である。排仏事件は倭国内の事件である。「厩戸皇子」は上宮皇子とも呼ばれ(用明紀)、上宮王の皇子である(次項)。上宮皇子がなぜ非主流派(北朝仏教派)に加わったか、それは父上宮王が(北朝仏教派に転じた)非主流派だからである(次項)。大和王権敏達天皇の子竹田皇子が参加した理由は「親蘇我」からであろう(倭国内では非主流派)。
(5) 「上宮王」は596年には上宮皇子から「我が法王大王」と呼ばれている。根拠は、伊予風土記逸文に「伊予温泉には天皇の行幸が五度あった、、、上宮聖徳皇子が碑を建てた、、、碑文の詞書に、法興六年(596年)、、、我が法王大王、、、夷與(いよ)の村に逍遙(しょうよう)し、、、」とある。ここで「我が法王大王」は誰か。二人は「法興年号」を使っている。この時代、三つの年号が並存>しているから、三人の大王が居た。倭国王(天王)・大和天皇、それにこの上宮大王である。法興六年(596年)には用明天皇は崩御(587年、用明紀)しているから用明天皇ではない。また、この文によれば推古は伊予温泉に行っていないから、推古天皇でもない。風土記(元明風土記)は「倭国不記載」に従っているから倭国王ではない。残るは法興年号を使った「上宮皇子(太子)の大王」である。上宮皇子が「我が大王」というのであるから「上宮大王は上宮皇子(聖徳太子)の父」と考えられる。
(6) 上宮王(1)は「大王」になったのである。倭国には当時「倭国王阿毎多利思北孤」が居る(600年、隋書)。同じ国に大王は二人いるはずはないから、倭国王族「上宮王」は倭国から分かれて独立し、大王を自称し、年号を建てたのである。この様に「王族が国を割って大王になる」ということは大事件、万余の兵が動くような大事件である。591年「(蘇我馬子が)二万余の軍を領(ゐ)て筑紫に出で居る」(崇峻紀591年)とある。この前後に該当する記事は他に無い。上宮王は蘇我馬子に推戴されて筑紫に出兵して倭国に圧力をかけ、倭国からの独立を果たし、「大王」となったと考えられる。上宮大王は「法興年号」を建て(591年~、伊予風土記逸文)、蘇我馬子は「法興寺」を建てている(~596年、推古紀)。聖徳太子は法興寺の高僧(高麗僧、北朝仏教)を師とし(推古紀602年)、法興年号を使っている(伊予風土記逸文)。上宮王は「北朝仏教派」に転じて南朝仏教の倭国を割った「倭国内非主流派」だったのである。
(7) この時代背景から、倭国王や倭国系の豪族が北魏様式の法隆寺を建てるはずはなく(南朝仏教派)、他方大和王権推古天皇は元興寺建立に拘っている。聖徳太子(上宮皇子)は四天王寺建立に注力している。蘇我馬子は法興寺を建てている。法隆寺を建て得る崇仏派の主要人物は「上宮大王」しか居ない(前節)。法興寺も法隆寺も北魏様式とされる。倭国時代の上宮王は南朝仏教派であったが、上宮大王は蘇我馬子と同じ北朝仏教派に変わっている。南朝仏教派の倭国を見限って独立した一因であろう。
(8) 上宮王は独立して「上宮大王」となった(591年)。その時発願して法隆寺を創建した(前項)。創建者は「上宮大王」である。法隆寺が完成した以降「法王大王」と呼ばれた、と考えられる(596年、伊予風土記)。
以上、「上宮王」は591年に独立して「上宮大王」となり、法興年号を建て、法隆寺(仏法隆盛を実現する寺)の創建を発願し、594年に五重塔心柱を伐採し(年輪年代法)、596年には既に「上宮法王大王」と呼ばれたのであろう。600年頃に法隆寺を完成した(法隆寺薬師如来光背銘)と考えられる。寺の創建者は発願時の称号は「上宮大王」であろう。法隆寺の第一期は「仏法隆盛の寺」である。
●567 法隆寺の「第一期創建地」は肥前飛鳥
法隆寺を創建した上宮大王の宮は「(肥前)飛鳥岡本宮」にある。推古紀606年に「皇太子、法華経を岡本宮に於いて講ず、天皇これを大いに喜び、播磨国水田百町を皇太子に施す、因って斑鳩寺に納める」とある。ここで「皇太子」とはもちろん「聖徳太子」である。「岡本宮」とは「(肥前)飛鳥岡本宮」である(舒明紀630年、第一章)。「天皇」とは「推古紀だから推古天皇」と読まれてきた。しかし、この年(606年)の推古天皇の宮は「大和小墾田宮」である(推古紀603年)。
ここの「天皇」とは大和小墾田宮に居る推古ではない。肥前飛鳥岡本宮の「天皇」は「聖徳太子の父、上宮大王」である。紀は「大和天皇以外の大王」は不記載方針があるから記せない。「天皇・大王が複数いたので、天皇に統一した。天皇とあれば推古天皇と誤読するのは読者の勝手」との言い訳を用意して「上宮大王」を「天皇」と記している。推古紀には複数個所でこの手法の「天皇(上宮大王)」の記述がある(前著171頁「上宮王が『天皇』と記されている例 」参照)。
「肥前飛鳥は蘇我馬子の本拠」である(第三章)。それは「物部守屋討伐」に成功し、守屋領を奪ったからと考えられる。馬子はこの飛鳥に討伐戦勝を願って誓願した「法興寺」を建立している。
この討伐には聖徳太子が参加している。紀には書かれていないが、倭国王族上宮王も参加している可能性は高い(倭国不記載)。上宮王も「肥前飛鳥」に新王家領を得たであろう。飛鳥岡本宮の近くに法隆寺を建立したと考える(豊前説もあるが第二期としたい、後述)。
●568 法隆寺の第二期は「上宮法皇菩提寺」
「上宮大王」の創建した法隆寺は、上宮大王が崩御した後「上宮法皇の菩提寺」に改められた。それは法隆寺金堂主仏釈迦三尊像の光背銘から解る。光背銘を検証する。
即ち「上宮法皇の病気治癒を願って等身大の仏像を造らせたが、甲斐なく崩御した。そこで、三主(法皇・太后・王后)の菩提を願って三尊像を造らせた」という。ここの「上宮法皇」が前節の「上宮大王」であることは論を待たない。
光背銘からは「三尊像を主仏に据えた時期」は読めないが上宮法皇の崩御後、それまでの主仏と置き換えたのである。「創建者が連想される仏像を主仏に据える」ということは、後世の「顕彰寺」「菩提寺」の概念に近いであろう。その変化の時期を探るうえで、法隆寺の建築上の研究が非常に参考になる。「法隆寺再建論」とも絡む研究である。
なお、「上宮法皇菩提寺」か「上宮王家菩提寺」かは重要な観点である。三主が祀られているから「上宮王家菩提寺」のように見えるが、法皇の前年に薨去した聖徳太子が祀られていない。あくまで法皇が中心であるから「上宮法皇菩提寺」と考えるのが妥当である。
●568- 法隆寺の変遷 (建築学上の研究)
建築学上の研究から「法隆寺の変遷」を探る [1][2]。法隆寺史を長年追い、法隆寺棟梁西岡常一氏(1995年没)の講演会にも参加してきた筆者がようやく納得した学説である。
[1] 法隆寺 「建築から古代を解く」 米田良三 新泉社 1993年
[2] 「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004年
(1) 法隆寺金堂の釈迦三尊像(623年造)は尺度Aで造られている(筆者仮称、[3])。この像を安置する法隆寺の金堂・五重塔(600年頃)の「基壇(組み石に囲まれた土台)」も像と同じ尺度Aで造られている。
[3] 尺度A=27.1㎝ 尺度B=27.0cm 尺度C=26.85㎝ AとBの違いはわずかだが、建築学上別系統と言えるという。 平井進『法隆寺の建築尺度』「古代文化を考える」40号
(2) 金堂(600年頃、もしくはそれより以前)は尺度Bで造られている。その基壇は上物(金堂)より20年も後の尺度で造られている。年代が逆転している。基壇は後年の修復か移築であろう。木造の上物が健在なのに石の基壇をたった20年後に作り直すことは通常「修復」では考えられない。「移築」の証拠であろう。しかし、この移築は後述する708年の斑鳩移築ではない。尺度A(623年の造仏止利仏師の尺度)が85年後の斑鳩移築に使われたとは考え難い。
(3) 五重塔は別の尺度Cで造られている。心柱は594年伐採である(心柱の年輪年代測定から)。主仏三尊像(623年)と基壇は尺度Aで造られている、と述べた((1))。基壇の方が後年である可能性が高い(前項と同じ)。恐らく上宮大王の崩御後、三尊像が造られ(光背銘、前節)、菩提寺とするための移築があり、金堂とともに新しい基壇の上に建てられたのであろう。心柱(尺度C)の一部は尺度Aで追加工されている。移築の際に加工されたものであろう。
(4) 金堂・五重塔の裳階(もこし)も尺度Aで造られている。移築の際に追加されたものであろう。
(5) 法隆寺が九州から現在の奈良斑鳩に移築されたのは708年と考えられる。七大寺年表に「708年、(元明天皇の)詔に依り太宰府観世音寺を造る、又法隆寺を作る」とある。移築の理由は斑鳩の若草伽藍の焼失(670年)であろう(若草伽藍発掘調査)。
以上、法隆寺には「移築の痕跡(基壇が新しい)、その時の追加工跡」が多いが、ほとんどすべて623年(第二期)関連である。708年の斑鳩への移築に際し、何らの変更も追加工も施していないようだ。「上宮法皇菩提寺」をそっくり残すことを目的として「何ら変更しないこと」が元明天皇の意志だったからであろう。
●569 法隆寺の「第二期 移築地」は豊前京(みやこ)(筆者推定)
上宮法皇が崩御すると、法隆寺は上宮法皇菩提寺に改められた。基壇を新しくしてまでするなら移築であろうし、飛鳥内ではあるまい。上宮法皇が崩御すれば、その菩提寺は上宮王家の本拠、父祖の墓域である可能性が高くなる。それは豊前であろう。なぜなら「上宮王家」は独立するまで倭国内ニニギ系中枢王族だから、関門海峡(イザナギ禊(みそぎ)の小戸祭場(彦島小戸))を任されていたと想像するが、独立後は豊国北部の何処かを本拠にしたであろう。それは「豊前、京(みやこ、福岡県京都郡)」ではないか。「乙巳の変」(642年)の後10年間記紀から「飛鳥板蓋宮」が消え「京(みやこ)」が出てくる。上宮法皇の子孫である皇極上皇・中大兄皇子が蘇我支族の反撃を避けて蘇我領近くの「飛鳥板蓋宮」から避難した場所ではないかと考えられ「上宮王家の本拠」の可能性があるからだ(孝徳紀645年)。この頃の大王は自領本拠に生前から寿墓をつくる風習があり、それは父祖の墓域の可能性も高い。崩御後にここに埋葬されれば、その近くに菩提寺を移築することは十分考えられる。
これ以上の根拠はないから、あくまで筆者の推測である。「法隆寺は第二期として、豊前に移築され上宮王家の菩提寺となった」と推測する。
●570 法隆寺の後継寺は別
法隆寺は上宮王権の官寺で始まった。それを一代目大王の菩提寺にしたから、二代目大王は別の寺を官寺にした。それは恐らく聖徳太子の遺寺熊凝(くまごり)寺であろう(大安寺伽藍縁起)。三代目田村大王(退位して舒明天皇)・四代目宝大王(のちに皇極天皇)はこれを移して肥前百済寺として大造営している(舒明紀)。後にこれは平城京に移され官寺に近い扱いを受けている。
●571 第三期 「移築と誤解」の解釈
斑鳩寺が全焼した(天智紀670年)。その斑鳩に、元明天皇が法隆寺を移築した(豊前から708年(元明在位)、「造る」でなく「作る」と七大寺年表にある)。
(1)「斑鳩寺に火災」(天智紀669年)・「法隆寺に火災、一屋も余す無し」(天智紀670年)とある。670年の火事は法隆寺ではなく、これも斑鳩寺であろう。斑鳩寺は669年に小火災をおこし、670年に全焼したのであろう。
(2) 斑鳩寺が焼失したので、その焼失跡(実際は少し離れている)に法隆寺が移築されたと考えられる。その理由は二つの寺は隣合わせながら方角が20度ずれていて、並存したとは考えられない。方角を南北正して法隆寺が移築された後、斑鳩寺の記憶は法隆寺の前史として記憶され、670年の記事のように「法隆寺の焼失」と記録されたが焼失したのは斑鳩寺であろう。呼称が違うのは出典が違うからであろう。従って現存の法隆寺には火事の跡も無いし、594年伐採の五重塔心柱も現存している。
(3) 斑鳩寺は聖徳太子の寺だが、その焼失跡に移築する寺として「聖徳太子の父である上宮法皇菩提寺、法隆寺」は適切である。当時、九州の法隆寺は寂れていたと考えられる。その根拠は法隆寺伽藍縁起并流記資財帳に「食封三百戸、、、己卯年(679年)停止」とある。唐軍撤退・傀儡倭国消滅の混乱期である。建物の移築の前に本尊(尊釈迦三蔵像)だけが九州から大和に(予想された戦乱から避難して)移された可能性はあると思うが定かでない。
(4) 708年に「法隆寺移築の詔書」を出した元明天皇と上宮法皇は次のようにつながっている。
上宮大王(上宮王家初代)―聖徳太子の弟(上宮王家二代目大王、大安寺伽藍縁起)―
―皇極/斉明天皇(上宮王家四代目大王でもある、三代目は舒明)、「聖徳太子の姪」(大安寺伽藍縁起))―天智天皇(敏達天皇四世孫でもある)―元明天皇
上宮法皇は元明天皇の先祖である。元明天皇が先祖の菩提寺である豊前の法隆寺を大和斑鳩へ移築させた理由は十分ある。元明天皇は「古事記」撰録、「風土記」の編纂を命じている。歴史に関心が強い。
(5) しかし、大和朝廷には上宮王を公式に顕彰できない理由があったようだ。それを推定する。
① 上宮王は倭国中枢の王族だったと考えられ、倭国不記載の原則から記述を避けた。
② 上宮王(591~623)は推古天皇(592~628)と治世が重なるので両方は出せない。
③ 大和王権(肥前)から大和王権(大和)へ遷都した天皇として推古天皇は欠かせない。
④ 記紀は「聖徳太子の父は用明天皇」として蘇我系大和王権と上宮王家をつないでいる。「父は上宮法皇」とはできない。
➄ 天子を自称した上宮法皇は唐の手前はばかられる。秦始皇帝は従来の天皇・人皇・地皇の上に「皇帝(=天子)」を創設したから、「天皇」は唐皇帝の下で許される。
(6) 日本書紀(720年)は法隆寺についても上宮王家についても上宮法皇についても沈黙を守っている。理由は「倭国不記載」と同じであろう(前項)。その結果民間では「上宮法皇=聖徳太子」(誤読、推古紀の誤読誘導)と「法隆寺は聖徳太子の寺」(誤解、通説)が通説となった。
●572 第四期 「合祀寺」の解釈
天皇家は「法隆寺=上宮大王菩提寺」を知っていたが、黙していた。その結果、民間は日本書紀の「上宮聖徳太子」と法隆寺の主仏光背銘の「上宮法皇」を同一と誤解した。
天皇家は定説(誤解と誤読)を肯定しないが否定もしなかった。その理由は、肯定すれば不実になる(「上宮法皇=聖徳太子」)。否定すれば「倭国不記載」「他王権不記載」の紀方針に反するからだ(「上宮法皇≠聖徳太子」)。そこで「法隆寺は上宮法皇と聖徳太子の合祀寺」に改めることによって、民間の誤読・誤解「上宮法皇=聖徳太子=用明天皇皇子」を黙認したのだろう。
以上、「上宮法皇と聖徳太子の合祀寺」に改めることによって、世の誤解(「上宮法皇=聖徳太子」)に対して天皇家は沈黙を守ることができ、その沈黙によって誤解は定説となった。そして、その定説によって「法隆寺」が「天皇家の法隆寺」として広く認められ、天皇家によって保護されることによって、法隆寺は世界最古の木造建築伽藍として守られたのである。
「千年の誤読」 了
はじめに
第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」
第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」
第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」
第四章 「物部氏」のすべて
第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」
第六章 「法隆寺」の変遷
 
四著「一図でわかる日本古代史」 公開2021
三著 「千年の誤読(ごどく)」公開2020
次著「高天原と日本の源流」既刊2020・
寄稿文「倭国内ニニギ系王族」2017
初著「倭国通史」既刊2015・増補版 公開2025