該当解説に飛ぶまで数秒かかることがあります、お待ちください。
一図に戻るには「戻るボタン」を押してください
一図で解ける「千年の誤読」 解説
●801 一図
この図は、日本の古代史を一図にまとめたものです。イザナギから日本国を建国した文武天皇までを、内外史書(古事記・日本書紀を基に海外史書で補充)の整合する道筋だけを抽出し、推論を排して再構成した筆者理解です。赤字ボタンのクリックで解説が表示され、この一図だけで「直感理解」も「論証理解」も得られる、と自信を持ってお勧めするものです。
「解説小窓」はJavaScript を使うため、ブラウザ(Chrome推奨)によっては不安定です(IEなど、別タブ表示)。この場合でも「解説小窓風」にする方法があります。「別タブ」をドラッグして欄外にドロップすれば「別ウィンドウ」になります。以後毎回関心ある「赤数字ボタンあるいはリンク青字をドラッグしてこの『別ウィンドウ』にドロップ」すれば「解説小窓風表示」とすることができます。
一図は縦軸を時代に、左右を西から東、即ち九州を黄色、大和を緑で表しています。「倭国」は左二重縦線、大和朝廷は右縦線で示しました。
「定説・通説・教科書」と違う「新説・私説」が多数含まれていますが、すべて論拠を「解説と更に引用詳論」で示しました。更に詳しくは筆者著書「倭国通史」「高天原と日本の源流」(いずれも原書房)を参照ください。
●802 この図の黄色、九州
この図の黄色は「九州」を示します。日本書紀はその大半を「倭国不記載」の方針から記載を避けています。
●803 この図の緑 大和
緑は近畿地方、特に大和地方を示します。神武東征以来、大和朝廷が拠点としました。こ日本書紀は「神武の万世一系」としていますが、何回かの断絶があります。しかし、筆者は「神武が九州に残した一族の子孫が継いだので『ニニギ系の同族一系』とすることができる」と考えます。
崇神系・景行系は神武系に並存した別系統と思われるが、記紀はこれら三系を縦につなげています。そうする何らかの政治的必要性があったと考えられます。
●804 イザナギ・イザナミ
古事記は「高天原は対馬」と示唆している。 記紀の高天原神話では、イザナギ・イザナミは神に島生みを命じられた。そこで沼矛で海を掻き混ぜてオノゴロシマを造った。そこを拠点に大八島(日本列島)を造り(記紀)、(オノゴロシマに)帰る途中で「六島を造った」(古事記島生み譚第三段)、とある。
この神話の「オノゴロシマ」は通説では「現淡路島近くの小島」とされる。しかし、現「淡路島」は神代の「淡路島(古淡路島、関門海峡小島)」から地名移植されたものである。古事記の解析から、島生み譚三段目「途中の六島」とは「関門海峡北西に散在する小六島」と比定できる(第三段と島名・地形・順序が整合)。その一つの小島に御幸した応神天皇が「オノゴロシマみゆ」と歌っている(応神紀二十二年条)。これらの論証から「小六島の北西に遠望できる宗像沖ノ島がオノゴロシマである」と比定できる。更にその先北西にある「対馬」がイザナギの出発地「高天原」と比定できる。少なくも古事記はそう読める様に記している(前著第一章)。
「素人の愚説」と侮るなかれ、これに続く解析から、次々と整合する解釈が続いて、この図「日本の古代史」の全貌と整合する。
対馬には「良田」が無い(魏志倭人伝)。対馬交易海族は弥生稲作に転業する植民地を求め、まず交易拠点としていた関門海峡を植民拠点としたのだろう(「島生みは国生みの意」本居宣長説)。
●805 イザナギの三貴子
アマテラスは小戸(関門海峡小戸)で生まれた(記紀)。イザナギ・イザナミは大八島の島生みを終えて、(オノゴロシマに)帰って神生みを続けたが、火の神を生んだイザナギが火傷で死んだ。イザナギは黄泉の国までイザナミを送ったのち「筑紫の日向の小戸」で禊(みそぎ)をし、三貴子(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)を生んだ。記紀の記述(二海峡)の解析から、禊(みそぎ)の地、従って三貴子の生まれた「小戸」は「現・関門海峡彦島の小戸海峡」と比定できる。
イザナギはアマテラスに「高天原を治めよ」、スサノヲに「天の下を治めよ」と命じた。
ここでの注目点は「古事記は祖神アマテラスの生まれ故郷は関門海峡と読める様にしている点」である。これは「天皇家の祖の出身地は(対馬
→)関門海峡」が先にあり、「天皇家の祖神はあのアマテラス大神」と結びつけられた結果であろう。
●806 アマテラス
アマテラスは対馬から半島南端に移った。記紀にはここも高天原と記されている。イザナギに「高天原(対馬)を治めよ」と命じられたアマテラスは、イザナギの故郷対馬(高天原)に戻ったが、対馬には「良田」が無い(魏志倭人伝)。そこでアマテラスは良田適地を他に求めたようだ。「アマテラスの田、皆良田」(神代紀七段一書三)とあるからだ。その地は対馬の対岸、朝鮮半島南西部と考えられる。なぜなら、「高天原を訪ねたスサノヲは乱暴を働き、追放されて新羅に降り到った(海流で下った)」(神代紀八段一書四)とあるから、「高天原は新羅国の上流(海流)」、即ち「朝鮮半島南西域」である。
一方、海外史書は「そのあたりに倭国があった」としている。即ち、後漢書には「韓は東西を海、南を倭と接す」(後漢書東夷伝韓条)、また三国史記に「辰韓(のちの新羅)の上流に金官国(現・金海市)があり、その上流の多婆那国の南西一千里(短里、80q)に倭国がある」(三国史記新羅本紀脱解王条)としている。
結論として「記紀のアマテラスの高天原は朝鮮半島南西部にあった倭国(海外史書)の位置と一致する」となる。そこは山がちだが「良田適地」を探すと唯一現・韓国全羅南道高興(コフン、小半島)」、現在でも農業が盛んな「良田適地」で「アマテラスの高天原」の比定候補地とすることができる。
この「高天原=朝鮮半島南部」説は「天皇家は朝鮮半島から来た韓人系か」とする一説と混同されて嫌悪・忌避されるふしがあるが、ここの倭人は南方渡来系の海族(対馬海人)である。
そもそもの「アマテラス神話」は九州諸島の海人(倭人諸族)に伝わった古来の共有伝承であろうが、記紀では「天皇家はアマテラスの直系」とひとり占めして「天皇が天の下を支配する権利はアマテラス以来神代で決まっていて、人代では変えることができない」としている。
●807 スサノヲ
スサノヲはイザナギの子、「筑紫の日向の小戸(関門海峡小戸)」で生まれた。イザナギに「天の下を治めよ」と命じられたスサノヲは、小戸を治めつつ、葦原中つ国(現・小倉市足原・中津口か)へ支配地を広げようとした。初めは痩せ地しか得られなかった(アマテラスの良田を羨んでいる、神代紀八段一書四)。しかし次第にアマテラスに「葦原中つ国は豊かである」(神代紀五段一書十一)」と認めさせる程に良田適地を得た。それがアマテラスの対抗心に火をつけた。「葦原中つ国は太子オシホミミ(アマテラスの嫡子、●810)の治めるべき国である」として一族諸将を送り込み「倭国大乱」になり、ついにスサノヲに「国譲り」を認めさせた。半島の倭人諸族はより豊かな北九州を獲得して大挙移住し、倭国はその中心を半島から北九州に移したようだ(半島倭国の消滅)。
●808 半島倭国と倭国統一
半島には倭人が居た(「楽浪海中(ソウル付近)倭人あり」(漢書地理誌))。また半島南端には倭国があった(後漢書韓伝)。その倭国は半島が中心で、北九州を含んでいた。なぜなら後漢書倭伝57年条には「倭奴国(九州志賀島、金印出土)は倭国の極南界、光武(帝)は賜うに印綬を以てす」とある。
その後、後漢書・魏志倭人伝によれば「倭奴国の建国(57年)から20年程後(80年頃)に半島中心の倭国が統一されたこと、更に30年程後に倭国は後漢に遣使した(107年)、しかし承認と叙位はあった形跡がない」と結論される。詳細論証はこちら。
その倭国で「倭国大乱」がおこった(後漢書倭伝)。その「倭国大乱」の中心は北九州に移った(魏志倭人伝)。「卑弥呼の大乱終結」後には半島倭国は消滅した(魏志倭人伝)。これらから「半島中心の倭国は大乱で勝利し(記紀国譲り譚)、中心を北九州に移した」と解釈できる。
●809 倭国大乱
西暦160〜180年、漢(の楽浪郡)が朝鮮半島の韓人をソウル付近(後の馬韓・百済)まで追い払った(後漢書)。その余波でその付近の倭人(中部倭人、漢書地理誌)の多くが南端の倭国(後漢書韓伝)に移動した。韓人に追われた彼らは「漢人戦法」「鉄剣」「異民族虐殺」を知っていたから、倭国で激しい戦いを広げたであろう。これが「倭国大乱」(後漢書)の発端だ。後漢書では「倭国」の主体は半島倭国を意味し、列島倭人ではない。
しかし、馬韓の遠浅の海(海族倭人好み)や広大な良田適地を知っていたので彼ら南下倭人は手狭な南端倭国に満足せず、より広く豊かな海の向こう(北九州)を望んだ。彼らの渡海を先導したのは渡海船団(サルタヒコ)を配下に持つアマテラスであろう(詳細論証はこちら)。アマテラス自身、高天原(南端倭国)より蘆原中つ国(北九州)の方が豊かだと認識している(神代紀)。
倭国大乱は卑弥呼を共立して収まった(魏志倭人伝)。「共立」とは倭諸国王がそれぞれの新しい領国を確定したことを意味するから、「アマテラス系の天降り組(渡海組)もホアカリがスサノヲ系から国譲り(葦原中つ国(小倉市足原中津口か))を受け、祭事王ニニギがイザナギの聖地筑紫の小戸(関門海峡彦島小戸か)の支配者として送り出された」、即ち「アマテラス系倭国」が倭諸国の一つとして北九州に成立したと考えられる。
●810 オシホミミ
オシホミミはアマテラスの太子。葦原中つ国(小倉足原中津口か)の平定が完了すると、アマテラスは太子オシホミミを支配者として送り出そうとした。オシホミミは高天原(半島南端倭国)で倭国大乱を差配した後方指揮者だったのであろう。しかし、太子の次子ニニギが生まれたので代わりに(祭事王として祭事司(中臣氏の祖アマノコヤネ)を付けて)葦原中つ国に送り込んだ。ということは、長子ホアカリが手元に居なかった、大乱戦場に先行投入されていた、と考えられる(葦原中つ国平定(国譲り譚)の主役と考えられる、次項)。
●811 ホアカリ
ホアカリは太子オシホミミの長子で、後世の「九州倭国の祖」である。記紀で「天孫の一人」として名が記されているだけである。記紀には「倭・倭国」は多出するが、「九州倭国」「九州倭国の祖ホアカリ」はほとんど記されていない。記紀の編集方針「倭国不記載」と関係するだろう。
しかし、ホアカリはアマツマラ(九州物部氏の祖)を従え北九州遠賀川周辺に天降った(先代旧事本紀)。その領国は卑弥呼を共立する倭諸国の一つ、恐らく筆頭主要国の一つとなったであろう。卑弥呼・台与の約100年後にホアカリの子孫が倭国を再統一して倭国王に就いた(宋書「倭の五王」、倭王武上表文)。その根拠は「ホアカリ系に供奉した九州物部氏は連綿と倭国王に仕え、物部守屋まで続く」とある(先代旧事本紀)。その倭国は遣隋使を送り、遣唐使を送り、白村江で唐と戦って滅亡したことは中国史書で明らかである。
●812 アマツマラ
アマツマラはホアカリの筆頭重臣である。「天孫ホアカリの天降りに供奉した五部人筆頭は軍事政事司物部氏の祖天津麻良(あまつまら)」と先代旧事本紀にある。この書は記紀と整合しない面が多く「偽書」ともされるが、物部氏宗家の家伝書を基にした「初出の史書」とも受け取られる部分があると考えられている。例えば初出の物部支族名に北九州遠賀川周辺の地名と一致するものが多く、「九州で没落した物部支族」を想像させる。そうであれば、「九州で滅亡した倭国の重臣物部氏」ではなかろうか。同書は「その祖の主筋はホアカリ」と主張している。筆者は前著でそれを検証・論証し、更に「ホアカリ/アマツマラらは、ニニギに先行して北九州(遠賀川)付近に天降りし、スサノヲから葦原中つ国を奪った(国譲り譚)」と考える。
●813 軍事司・祭事司
天孫の兄ホアカリには物部氏の祖(軍事司)が筆頭供奉し、天孫の弟ニニギには中臣氏の祖(祭事司)が筆頭供奉した。この対比は当時の政治体制によくみられる。倭諸国の「政事王」が共立した卑弥呼は「祭事王」である。祭政二重構造であった。この対比から、ホアカリ系は政事王・ニニギは祭事王と見ることができる。
アマテラス一族の天降り神は三神居るが、それぞれ天降り時には軍事司・祭事司の分家が供奉したようだ。例えば、ホアカリ系には物部氏の他に後世中臣氏が現れる。また、ニニギ系には中臣氏の他に物部氏が臣従し(尾張物部氏)、ニギハヤヒには物部氏が臣従したと考えられ、後世物部氏の祖といわれる。
●814 ニニギ
ニニギはアマテラスの孫。神武天皇の曽祖父とされる(記紀)。アマテラスの高天原(半島南)で生まれ、「筑紫の日向の(関門海峡門司)」に天降った。定説では「日向は宮崎」とされているが、ニニギは海路門司に天降った後陸路南九州に宮崎に南征し、その地も日向と地名移植した。それをも「天降り」と呼ぶならばそれもあながち誤りではない。
アマテラスは葦原中つ国(小倉)に繰り返し侵略軍を送り、ついにスサノヲ系から葦原中つ国を国譲りされた。その支配者として送り込まれたのがニニギである。ニニギの天降りには五部神が供奉したが、その筆頭は祭事司アマノコヤネ(中臣氏の祖)である。まだ子供だったこともあり、政事王ではなく祭事王、イザナギの聖地「小戸」(関門海峡彦島小戸)を祀る祭事王としてであろう。
ニニギはアマテラスの高天原(半島南端の現・韓国全羅南道高興(コフン、小半島)あたりか)から天降り(海流下り)して笠沙の岬(対馬南端の笠の形の岬(神崎(こうざき)、海の八差路)でアマテラス配下のサルタヒコ(対馬海人族)の出迎えと補給を受け、葦原中つ国(小倉)に達した(紀)。ここはイザナギの時代から朝日が海からでるから「日向(ひむか)」と呼ばれていた。ニニギはそこを支配するはずだったが状況が変わり(魏志倭人伝の狗奴国戦か)、陸路「国探し」に出て南九州吾田(あた)で美人を得て定着し、ここも「日向(ひむか)」と地名移植した(二か所目の「日向」、論証はこちら)。これを「ニニギの南征」と筆者は呼ぶ。
定説は「日向は宮崎」とするが、「日向は韓国に向う(古事記)」、えっ?向いてなんかいないよ!、「笠沙御前(みさき)は天の八衢(やちまた、八差路、記)」なにっどういう意味?、「日向には小戸(小海峡)がある(古事記)」えっ、無いよっ!、などの疑問が上記の修正で解ける。
●815 アマノコヤネ・アマノタネコ・ウサツオミ
アマノコヤネはニニギの天降りに供奉した五部神の筆頭である。のちの祭事司中臣氏の祖とされる。その孫アマノタネコは神武の東征に従った(神武紀)。ニニギ直系の神武王権の筆頭重臣として大和王権に「中臣連祖」が現れる(神武紀・垂仁紀 )。
一方、アマノタネコの子ウサツオミは九州に残ったとされる。景行紀に「豊後直入(なおり)県、、、直入の中臣神(ニニギ系)」の記述がある。景行熊襲征伐以前から豊国に中臣氏の祖が定着していたことを示し、「神武が九州に残した中臣氏の一部」である可能性がある。仲哀・神功紀の九州記事に中臣の名が現れる。また允恭(いんぎょう)紀の九州関連記事にも中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)の名が現れる。允恭天皇は応神天皇の孫とされるが、その大臣の多くは応神の次の仁徳が九州から河内に引き連れて行った者達の子孫であろう(河内系)。結論として、応神〜允恭の中臣氏は九州系の中臣氏であろう。
アマノタネコ(中臣)一族が大和・九州に二分された理由は「主筋(ニニギ直系の神武一族)の二分」が主因と考えるのが常識的には妥当だ。重要な使命には主従一体で派遣される。神武はすべての皇子を東征に伴ったから(神武紀)、九州に残したのは神武の兄弟の子辺りであろうか。いずれにしてもニニギ系支族を残したのであろう。
●817 ニギハヤヒ
ニギハヤヒはアマテラス一族(天神)で河内に天降りした。神武に歯向かったナガスネヒコ(妻の兄)を抑えて神武に下った。子のウマシマジは大和物部氏の祖とされる。これは「ニギハヤヒに臣従した物部氏の支族の長にウマシマジ(またはその子孫)が就いたと考えられる。
先代旧事本紀天神本紀は「ホアカリとニギハヤヒは同一人」としている。これは「日本書紀の倭国不記載に整合させる為の偽説」である。ニギハヤヒ系大和物部氏は応神時代以降表向きからは消滅している(論証はこちら)。
●818 カグヤマ・高倉下(たかくらじ)・尾張物部氏
カグヤマはホアカリの子で、尾張物部氏の祖とされる(神代紀九段一書六、先代旧事本紀)。その子孫高倉下(たかくらじ)は神武東征に従軍中、天孫の夢を見て神武の戦勝につなげる(高倉下戦記、神武紀・先代旧事本紀)。そもそも「天孫」はホアカリかニニギしかいないが、紀は「倭国不記載」「ホアカリ不記載」「九州物部氏不記載」だからここの「天孫」はホアカリではない、ニニギだ。ニニギが戦ったのは「南征」しかない(葦原中つ国(筑紫の日向)から南九州吾田(第二の日向)への第二の天降り)。カグヤマは天孫ニニギの「南征」に参加してその戦記を子孫高倉下に伝え、高倉下はニニギの子孫神武の東征に参加した時その戦記を披露したのだ。一連に臣従した物部支族はホアカリが子のカグヤマに分与した物部氏の支族であろう。高倉下の子孫が継いで最終的に尾張物部氏となっている。
●822 神武
神武については多くが研究され多くが語られているから、ここでは全体認識にかかわる二点を指摘したい。
そもそも、アマテラスは「政事王ホアカリ」に軍事司を付けて博多に、「祭事王ニニギ」に祭事司をつけて小倉(北九州日向)に派遣した。祭政二機能で一国である。ところが、大乱終息のはずが拡張戦(狗奴国戦か)が始まった。ニニギは「祭事機能」(ニニギ自身と中臣の祖)に加えて「政治機能」(ホアカリの子カグヤマと物部支族)を分与されて「祭政両機能」を持つ分国王(目標)として南征に出た(宮崎日向に定着)。その後裔である神武は「祭事機能」(神武自身と中臣一族)と「政事機能」(カグヤマの子孫高倉下と物部支族)の「祭政両機能」を持つ分国王(目標)として東征に出た。神武大和王権はホアカリ国(台与の倭国の一倭諸国)の分国として出発した。
もう一点、ではホアカリ国の祭事機能(聖地小戸を祀る役目など)はどうなったか。神武はすべての皇子と中臣の祖(アマノタネコ)を東征に引き連れたから、九州の祭事機能としてニニギ系王族の一部(神武の兄弟の子辺りか)と中臣一族の一部(アマノタネコの子ウサツオミ)を九州に残したようだ。これらがのちの「応神系・継体系・上宮王系、中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)系・中臣鎌子/鎌足系」であると筆者は考える。
●823 アマノタネコ
アマノタネコはアマノコヤネ(ニニギに供奉天降りした祭事司)の孫。祭事司はアマノタネコ以降二系統に分かれる。アマノタネコは神武の東征に従った(神武紀)。その子孫は大和王権に「中臣連の祖」として現れる(大和中臣氏、神武紀・垂仁紀
)。アマノタネコの子の一人ウサツトミは九州に残った(九州直入(なおいり)中臣氏など、仲哀紀)。後世この子孫(鎌足の曽祖父か)が中臣姓を賜った。中臣鎌足・不比等はこの九州系だが、大和系もさかのぼって中臣と呼ばれる(遡及表記)。
●824 大和物部氏
天神ニギハヤヒは大和物部氏の祖とされる。ニギハヤヒ自身は天神とされるから物部氏ではない。しかし、神武に臣従したからニギハヤヒの子孫(ウマシマジ〜)は王族扱いから物部氏の長として物部氏扱いになったのであろう。この系統は応神天皇に妃を出し、太子を生むが排され、系譜から消えてしまう(先代旧事本紀)。代わりに仁徳が連れてきた九州系物部氏が筆頭となる(例えば雄略に仕えた物部フツクル連)。下図は筆者提案系図。
●825 尾張物部氏
尾張物部氏の祖はカグヤマ(神武紀)。カグヤマはホアカリの子とされる(神武紀・先代旧事本紀)。カグヤマは天孫の子だから王族だが、その子孫高倉下は神武に臣従したから臣籍降下して従臣の物部支族の長に就いたのだろう。後世尾張に勢力を張り、尾張物部氏として大和王権に、壬申の乱では天武に加勢した。前項図参照。
●826 欠史八代
神武に続く欠史八代は八世代(紀)ではない。神武皇子三系統四世代と解析され約百年である(佃收説)。記紀はこれに続いて崇神系・景行系を縦に繋いでいるが歴史的に整合しない。正しくは「欠史八代と崇神系・景行系は並立した三王権」である(詳細はこちら)。
欠史八代の最後開化の年代は神武から4世代(90年)後〜380年頃とみられる。一方(欠史八代の次の)崇神の在位は〜318年(記崩年)、景行は推定〜332年頃であるから神武系・崇神系・景行系の三系は並立している。これを統合した応神(ニニギ系、380年〜)は王統としては開化(ニニギ系、〜380年)を継ぎ、開化の陵を神武系で初めて前方後円墳で造ることで崇神系・景行系の前方後円墳に合わせた。以後応神・仁徳〜の陵も同形式で続いている。
欠史八代と並立した渡来系と思われる二系統を系図上大和王統に組み入れたのは、二系統の子孫豪族を取り込もうとした継体か推古の融和策であろうか。
●827 九州ニニギ系王族
九州王朝説の古田武彦は「九州倭国はニニギが建国した。大和王権はその分国だ」としている。しかし筆者は次の様に論証した(前著)。「九州倭国はホアカリが建国した。ホアカリ(政事王)/物部氏(軍事司)が先行してスサノヲ系から国譲りを受け、弟ニニギ(祭事王)/中臣氏(祭事司)を呼び寄せた兄弟統治国だ」と。ニニギはその後カグヤマ(ホアカリの子)/物部支族を与えられて分国を目指して南征した。その曽孫神武は東征して大和王権を創始した。
では祭事王ニニギが抜けたホアカリ倭国の祭事はどうなったか。その答えを筆者は「神武は東征に際し、倭国内にニニギ系王族/中臣系支族を関門海峡域に残した」と考える(詳細はこちら)。即ち、九州ニニギ系王族と祭事司九州中臣氏である。これらがのちの「応神系・継体系・上宮王系、中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)系・中臣鎌子/鎌足系」であると筆者は考える。即ち、応神以降の大和王権は東征後の神武系ではないが、神武が九州に残した同族のニニギ系と考える。
●828 九州中臣氏
定説ではアマノコヤネの子孫中臣氏は後年活躍する中臣鎌子(欽明紀)、中臣鎌足(皇極紀)を含め「神武東征に供奉した大和中臣氏」と考えられている。確かにアマノコヤネの孫アマノタネコは神武東征に従ったが、その子ウサツオミ(トミ)は九州宇佐に残り子孫が代々豊前で続き中臣の姓を賜った(鎌足の曽祖父)。中臣鎌足は皇極から神祇伯に指名されているから(皇極紀)、皇極は中臣の主筋であることを意味する。皇極は上宮王の孫であるから、上宮王も中臣系(祭事司)の主筋、つまりニニギ系祭事王を意味する。上宮王は倭国王族であった(「委国上宮王」と正倉院文書にある)。これは、倭国内にニニギ系の王族が居たことを示している。その上宮王は591年に(倭f国から)独立して法興年号を建てている(法隆寺釈迦三尊像光背銘)。その上宮王の孫皇極に仕えている鎌足は神祇伯になるべき身だった。元をたどれば倭国神祇司であったことが判る。倭国神祇司を引き連れて倭国から独立した倭国王族とは「倭国内ニニギ系王族」である。即ち、「上宮王は倭国内ニニギ系王族」である。
●829 ホアカリ倭国
ホアカリはアマテラスの二人の孫(天孫)の一人(兄)である。ニニギに先立って軍事司物部氏の大軍を授かって遠賀川域に天降りした(先代旧事本紀)。「国譲り」の最終段階に関わったと思われる。なぜなら、神武軍のタカクラジなる者が「タケミカヅチの国譲りの剣」の夢を見て、その力で神武軍が勝利したという(神武紀、先代旧事本紀)。タカクラジの父祖はカグヤマ(先代旧事本紀)、その父はホアカリである(同)。その一族は「国譲りの剣譚」を伝承していた、ホアカリもまた「国譲り」に関わったと考えるべきである。
記紀は「倭国不記載」「ホアカリ不記載」「九州物部氏不記載」を貫いている。その事がこれら三項目が一体的であることを示唆している。即ち「ホアカリは九州物部氏を率いてホアカリ倭国を建国した」と考えられる。まだ卑弥呼の時代(倭国大乱とその終結)であろうから、卑弥呼の倭諸国の一つ、有力の一つ、恐らく「倭諸国筆頭」であろう。
●830 九州物部氏
九州に物部氏が居たことは古来知られていたが、歴史上有力な人物はいないと思われてきた。物部氏の最も著名な「筑紫君磐井を滅ぼした物部麁鹿火(あらかい)」「仏教導入に異議を唱えた物部尾輿」「専横の据えに蘇我氏や聖徳太子に滅ぼされた物部守屋」などは当然「大和王権の重臣」と考えられてきた。
しかし、この三人は実は「九州系物部氏」である。倭国王は崇神系・景行系の王位を認める見返りに海外遠征軍で協力させ、応神に統括させて新羅征戦を成功させた。凱旋すると九州物部軍を分与した応神を河内に送り込んで欠史八代を継がせ、崇神系・景行系も支配した。河内王権の大臣となったのが九州系河内物部氏・大伴氏である。
応神系王統が断絶すると倭国王は応神五世孫とされる継体を送り込んだ。河内物部麁鹿火(あらかい)は出身母体の倭国の危機「筑紫君磐井の反乱」に死力を尽くして討伐し、磐井遺領を収奪して九州に勢力を築き、河内王権は河内から大和に都を遷すとともに、九州にも宮を設け、継体の子(安閑・宣化〜)は一時的の積りで九州豊国に遷都もした。九州在住の蘇我稲目が奔走して倭国朝廷と大和朝廷を取り持ち、稲目は大和大臣にとりたてられ、倭国朝廷でも大臣として扱われた。物部麁鹿火は大和朝廷大連だったが、倭国朝廷でも大連として扱われたようだ。倭国大連物部尾輿は大和朝廷からも大連に任じられた。このように、大和勢力は磐井討伐の戦勝主力として上位扱いされたようだが、次第に平時の秩序が戻ると、文化程度の高い九州勢が上位を取り戻し、大和勢は脇役に過ぎなくなったようだ。
九州物部尾輿は物部麁鹿火に協力して倭国内勢力を拡大し、大連として稲目と対立した。尾輿の子守屋は勢力を更に拡大したが専横が過ぎ、倭国王族・蘇我馬子らに討伐された。勢力はそがれたが、蘇我氏は所詮倭国内ではよそ者、勢力回復したのは倭国王であった(王政復古、阿毎多利思北孤、隋書)。
●831 ヒミコ
「卑弥呼の邪馬台国は九州か?大和か?」論争が延々と続く。これは議論の前提「卑弥呼の邪馬台国」がそもそも誤読だから、結論がでるはずがない。「卑弥呼の女王国」「女王の都する邪馬台国」が同一の女王だとは書いていない(魏志倭人伝)。そうも読めるが、別とも読める。
倭国の女王卑弥呼の国都は女王国、その位置は北九州沿岸から160q程と記され九州島内である(魏志倭人伝)。同書には「邪馬台国に都する女王、その位置は水行十日陸行一月」の不確かな、九州内とは思えない記述もある。同書の種本とされる「魏略」は「倭(国)は、、、」で始まる「倭国伝」である。ここには邪馬台国は出て来ない。従って「邪馬台国は倭国外」を示唆している。この魏略を参考にした魏志は「倭人は、、、」で始まる「倭人伝」である。倭国女王卑弥呼はもとより、倭国外の遠方の「邪馬台国女王」も含め、倭人情報を洗いざらい集めた「倭人伝」である。以上から「倭国女王国卑弥呼と倭国外の邪馬台国女王は別の国、別の女王」と結論される。「邪馬台国は大和」とする隋書もあるが、確かでない。詳細論証は「倭国通史」高橋通 原書房 2015年、第二章、その要約は前著参考二こちら。
神武に続く欠史八代は八世代(紀)ではない。神武皇子三系統四世代と解析され約百年である(佃收説)。記紀はこれに続いて崇神系・景行系を縦に繋いでいるが歴史的に整合しない。正しくは「欠史八代と崇神系・景行系は並立した三王権」である(詳細はこちら)。
●832 共立倭諸国
倭国大乱の後、女王卑弥呼を共立したのは九州北半分の倭(人)諸国(魏志倭人伝)。その中で頭角を現したのは、初期はサルタヒコ渡海船団を抱えて半島組をまとめたホアカリ倭国であり(神代紀)、中期は神武東征・崇神四道将軍ら東国開拓を自らの力と自負したホアカリ倭国であり(倭王武上表文)、後期は東国軍(景行軍・仲哀軍)を呼び寄せて九州統一を進めたホアカリ倭国であろう(同)。九州統一を機に海外征戦に移ったから(仲哀紀)、「卑弥呼系の倭国はホアカリ系によって再統一された」と考える。
●833 トヨ
台与は卑弥呼を継いだ倭国巫女女王。266年に晋(魏の後)に遣使した(晋書、こちら)。この記事の後、中国史書の「倭」記事は宋書「倭の五王」までない。
●834 崇神
崇神・垂仁二代(イリ系)は欠史八代(推定300〜380年)に続く大和王権天皇とされている。しかし、解析から在位は288〜318年と推定され、神武の推定在位270〜300年と重なる。欠史八代(300〜380年)とも重なる(詳しくはこちら)。崇神は渡来系(フヨ系)ともいわれ、人口が半減したとの記事があり、渡来系の感染病持ち込みとも考えられている。
更に崇神系・景行系・神功系は本拠や陵域が異なるなど、一系とするには疑問が多く、不審と議論が多い。筆者は別系統と考える。
●835 景行
次の景行天皇は垂仁(イリ系)の子とされているが推定崩年から同世代と思われる。和名にタラシがつく景行・成務・仲哀・神功は中国東北部鮮卑系で南朝鮮を経てきた渡来人らしい。崇神天皇が越に派遣した四道将軍大彦の同族か子孫とみられる。九州熊襲征伐に関わり長年大和を留守にしているから大和を支配した天皇ではなく崇神朝の将軍達だったと考える。
では、なぜ将軍が天皇とされているのだろうか。神功・その皇子の墓陵(佐紀盾列古墳群)が栄え始めると崇神系(フヨ系)の陵墓が造られなくなった。タラシ系がフヨ系を滅ぼしたとも言われている(佃收説)。
●836 仲哀・神功
神功紀は「九州遠征」「熊襲退治」「仲哀の不審死」「新羅征伐」「皇子の東征」など波乱に満ちた楽しい読み物である。一方、誇張が多く、現実離れした長寿や海外史書との不整合など、不信だらけの捏造譚とする見方も多い。しかし、記述は幾つかの常套原則に基づいていて、これを理解して復元すれば、海外史書とも整合する合理的な解釈が再構築ができる。
まず、紀の当時の三つの「年代記述法」を理解して修正する。即ち、紀の崩年より「記(古事記)崩年」を優先する。次にこの時代までの天皇の寿命には「二倍年歴法」が使われていると理解して半分に修正する。また、神功紀の干支は二巡(120年)繰り下げる。これらにより、合理的な理解が得られる。詳しくは
こちら。
次に、神功紀・応神紀・仁徳紀には「仲哀・神功の皇子=応神天皇」と記述されているが、これは後世に別系統の子孫豪族を懐柔する為の「見做し同族」があったのではないか。これを更に自然に読ませるように、常套手法「数代の成果を特定人物に集約記述しし、称揚効果を高める手法」がある。例えば新羅征戦譚は史実は「神功・応神・仁徳の40年の大事業」であったが神功紀にまとめて記述されているから応神紀・仁徳紀には新羅征戦はほとんど出て来ない。その結果「神功の戦果」と誤読されている。これは九州系の応神・仁徳が河内王権を建てたことで東国諸豪族が「新羅征戦に出兵にした見返りの戦利品受領権利を反故にされるのではないか」という疑念を払う「権利保障」の「見做し同族」ではなかろうか。そうする必要のあった天皇は大和からよそ者と見られた応神・仁徳・継体・推古(70年ぶりの帰還大和遷都をした)が居る。特に天皇紀を作らせた推古ではないか。
●837 九州統一
倭国女王台与は倭諸国王に共立された形式的な統一であった(魏志倭人伝)。そのころの博多〜関門海峡を抑えるホアカリ倭国は共立する倭諸国の一つに過ぎなかった(同書、先代旧事本紀)。倭諸国が九州で拡大を目指すことは共立に反する。ホアカリ倭国にまだその余力はなかった。そこで、まず東征に注力した(神武東征ではない、ホアカリ東征)。
(1) 神武東征もホアカリ倭国の東征とする倭国の主張 その為にホアカリ倭国は九州物部軍を分与した。
(2) 崇神四道将軍援護 崇神は渡来系であったが、ホアカリ倭国は王位を認めてやることで、神武王権を攻めないことを約束させたと考えられる。並立協定だ。
(3) 景行 倭国の立場は「東征では協力してやるから、西征では協力しろ」であろう。景行は東征を実現し、倭国の九州統一に協力した。記紀は「倭国不記載」したから「景行の九州統一譚」と読めるが、捏造でも盗用でもない。
(4) 仲哀・神功の熊襲征伐も倭国の協力要請であろう。仲哀は新羅征伐を断っているから、倭国と主従関係ではない。同盟軍であろう。
九州を統一したことは、台与倭国の王統がホアカリ系に代わったことを意味する。その間100年の間に中国遣使は無いから、別の統一王統があったとは考え難い。
●838 ホアカリ倭国の統一
トヨ以来200年ぶりに倭国が中国に朝貢使を出した。それが宋書「倭の五王」である。「倭王武上表文」の中で倭国が列島を統一した歴史を述べている。「、、、東は毛人を征すること五五国、、、」とある。中国の知るヒミコ・トヨの倭国は九州である(魏略)。トヨ以後九州から列島内を東征した史実は「神武東征〜崇神四道将軍」しかない。倭国は総国として、これらが「自分たちの東征」であると自慢しているのである。倭国・倭諸国の中で「神武・崇神は身内」と認識する九州の国は「倭諸国の中のホアカリ倭国」しかない。「東征を自慢しているのはホアカリ系倭国」と結論される。
「倭王武上表文」は続いて「西は衆夷を服すること六六国、、、」とある。「ホアカリ倭国が九州を統一した」の述べている。我々は知っている「ホアカリ倭国が身内と認識する景行・仲哀も熊襲征伐に行った」と。しかし記紀は遣宋使を記していないから、自慢しているのは大和王権ではない。景行・仲哀はホアカリ倭国の九州統一を手伝っただけだが記紀は「倭国不記載」で「大和の協力」だけを記しているのだ。
「倭王武上表文」は続けて「渡りて海北を平らぐること九五国、、、」とある。九州統一後に神(倭国王)のお告げ「次は新羅だ」と仲哀紀にある。しかし、仲哀は反対しているから倭国王ではない。単なる協力者である。
以上、「倭の五王はホアカリ倭国の子孫王統」である。詳論はこちら。
●839 応神
ホアカリ倭国は列島を統一すると海外征戦に乗り出した。記紀は神功皇后の新羅征戦を特筆するが、広開土王碑(400年頃)〜新羅人質(402年)など、神功・応神・仁徳三代40年の大事業であった。応神は仲哀・神功の皇子とされている(記紀)。当時からその建前が流布された節があるが、不整合が多い。解析からは「応神と神功は同世代、皇子とは別人」と推定される。詳論はこちら。
応神は日本貴国王(東国軍兵站基地の王)として豊国難波(企救半島東)に宮を置き、関門海峡域を自領としている(仁徳が国見をしている(仁徳記))。この地はイザナギの神聖な故地であり、神武東征後は倭国のニニギ系王族(祭事王)の管理地であったはずである。このことから、応神は「倭国内ニニギ系王族」と考えられる。詳論はこちら。
応神・仁徳は新羅征戦が完了すると日本軍(東国軍)を率いて河内に凱旋し、王権を樹立した。王統としては開化(欠史八代目)を継ぎ、崇神系・景行系を王族として認める代わりに支配下に置いたと考えられる。この時、九州物部氏を重臣として引き連れたと考える(物部河内支族、のちの物部麁鹿火など)。
●840 神功の皇子
応神は仲哀・神功の皇子とされているが、正しくない(前項)。皇子は神功と共に東征して仲哀の忍熊・香坂の二皇子との戦いに勝ち、故地(宇治川域)を得た。神功の御陵は北大和(佐紀盾列(さきたたなみ)にある。佐紀古墳群の始まりで、以後何代もの陵がある。佐紀盾列古墳群(タラシ系)が栄え始まると、崇神(フヨ)系の柳本古墳群(天理市)はこの頃を境に造られなくなる。神功の皇子系が崇神系に代わって大和を支配していく、と解釈できる。同時に南大和でながらえた欠史八代が開化で危機に立たされた可能性もある。それを救援すべく応神・仁徳が河内に大軍を送り、最終的に開化を継ぐ形で大和王権を存続させたと考えられる。その時崇神系・景行系を支配する代わりに王統に組み入れて顔を立てる妥協が図られたとも考えられる。
●841 仁徳東征
河内王朝を開いたのは応神とされている。応神は九州で倭国軍に協力する日本軍(東国軍)の統括者だったと思われる(応神紀、日本貴国天皇)。東国諸国王と接触したはずで、大和王権の再構築と東国諸国の利益調整(諸王権の承認と戦果配分、大和王権を通じての倭国支配の仕組み)を果たしたと考える。応神崩御は豊国難波宮とされる。
それを実行に移したのは仁徳である。新羅征戦のすべては記紀では神功紀にまとめて記載されているが、新羅から人質を得たのが402年、仁徳重臣が河内に移ったのは408年頃と仁徳紀から読める。そのことから、仁徳が河内に移ったのもそのころ(408年頃)と考える。詳論はこちら。
●842 河内物部氏
仁徳には九州系の物部氏・大伴氏が供奉したと考えられ、河内物部氏・河内大伴氏と呼ぶことにする。のちに活躍する物部麁鹿火(あらかい)が出ている。大和物部氏はその頃を境に系図から消える(先代旧事本紀)。
●843 倭の五王
九州倭国内ニニギ系だった仁徳が河内に王朝を確立し、神武王権を引き継ぎ、崇神系・景行系を王族に認定して支配体系に組み込んだ(410年頃)。これにより、ホアカリ系倭国は列島の宗主国としての地位を確立した。それが遣宋使の動機であろう(413〜478年)。
●844 継体
応神・仁徳系が雄略を経て武烈で絶えた。雄略時代には大和王権の指導力は東国にも拡大して海外からは日本国と呼ばれ(見做し国名)、倭国と並び称されるまでになった(雄略五年条)。倭国はこれを嫌い、武烈断絶を好機とばかり河内物部氏・大伴氏を抱き込んで応神五世孫を擁立させた。継体である。ちなみに応神はニニギ五世孫に当たる可能性があるから、継体はニニギ十世孫に当たる可能性がある(こちら)。
継体は大和豪族に出処不審とされたか大和に入れなかったが、倭国の危機「筑紫君磐井の乱」の鎮圧を倭国から頼まれると、物部麁鹿火(あらかい)を派遣して死力を尽くして鎮圧に努力した。継体も麁鹿火も九州倭国が父祖の故地だからだ。
磐井の乱の鎮圧に成功すると、継体/麁鹿火は磐井の遺領を収奪して力を付け、継体は大和に入り、麁鹿火は任那回復軍を任されて倭国朝廷でも大きな発言権を持った。
●845 物部麁鹿火(あらかい)
仁徳に供奉して九州から移った河内物部支族の系統である。倭国に押されて継体を擁立した。継体の指示で筑紫君磐井の乱を鎮圧すると、磐井の遺領を収奪して継体領や自領とする一方、任那回復軍を任されて倭国朝廷での発言権も強めた。晩年は殆ど倭国の実力者とし活動した。
●846 筑紫君磐井の乱
従来の解釈(通説・九州王朝説)は「倭国・大和王権の友好並立」(筆者説)を反映していず、正しくない。
|
誰に反乱したか |
誰が反乱したか |
勝者 |
通説 |
継体天皇 |
九州豪族 (筑紫君磐井) |
継体/物部麁鹿火 |
九州王朝説 |
倭国王 (筑紫君磐井) |
継体/麁鹿火 |
引き分け (倭国王統存続) |
筆者理解 |
倭国王 |
大和系九州豪族 (筑紫君磐井) |
継体・倭国王 (倭国王統存続) |
「筑紫君」というのは大和勢が使った「九州で活躍している大和系王者」に対する敬称、又は磐井の祖大彦に始まる大彦七族内の敬称(加賀の君・筑紫の君など)。
磐井の遺領の肥前領は倭国王/物部麁鹿火+物部尾輿が取り、豊前領・豊後領は大和王権/蘇我稲目が分け取りしたようだ。肥前領はのちに物部守屋を滅ぼした蘇我馬子が奪った。
●847 安閑〜
安閑は継体の長子として継体を継ぐと、「大倭国勾金橋に遷都した」という(安閑紀)。「大倭国」は雄略紀二年条に一度出てくるが、これは「大倭国/天王・日本国/天皇」と並記で出てくるから「大倭国」は九州倭国を指す。次出が安閑紀の遷都記事、次々出が宣化紀の。「大倭国身狭桃花鳥坂上陵に奏す」の三例である。後者二例の大倭(たい)国も九州倭国のことであるが(論証はこちら)、常用の「大倭(つくし)国」として使われたようだ。いずれにしても「安閑は九州に遷都した」と解釈できる。それは「仮宮」の積りで始めたようだが、結局70年間大和王権は九州を首都としている、大和領を保持はしていたが(安閑〜推古前半)。
●848 安閑の九州遷都
安閑の九州遷都は安閑(534年)・宣化・欽明・敏達・崇峻・用明・推古と続き、推古803年に大和小墾田宮に帰還遷都するまで70年続いた。このことは、記紀の数か所に出ているのだが、そうと解るような書き方はしていない。記紀に「倭国不記載」の方針があるからだ。でもその数か所をよく解析すると「安閑の大倭国遷都は九州」が立証できる(別の論証雄略紀)。
●849 蘇我稲目
蘇我氏は大和王権の大臣を出した「大和の豪族」とされてきた。確かにその祖は大和出身であるが、歴代海外征戦に従事して九州を拠点にし、歴史に登場した初代蘇我稲目は「九州の豪族」である。磐井の乱で九州に遺領を得た継体/物部麁鹿火に協力して頭角を現し、継体の継嗣安閑の「九州遷都」に功績があり、「大和王権安閑の大臣」に任じられた。
稲目が注目されるのは「仏教論争」である。仏教初伝は戦前は552年(欽明紀)とされたが、戦後は教科書も538年(元興寺縁起)とする。史実はそう単純でなく筆者は、
(1) 「倭国への仏教初伝は536年以前」(南朝仏教、九州年号「僧聴」から)
(2) 「倭国への北朝仏教初伝は538年」(元興寺縁起、仏教論争、蘇我稲目主導・物部尾輿反対)
(3) 「大和への仏教初伝は552年」(欽明紀、北朝仏教)
と考える。
●850 物部尾輿
物部尾輿は「天孫ホアカリに供奉天降りした物部氏の祖アマツマラの主流九州物部氏」である。本来は「倭国不記載」方針の記紀には出て来ない。しかし「尾輿」は七回(安閑紀2、欽明紀5)出てくる。その理由は尾輿は倭国大連であるが、九州に遷都した大和王権の大連にも任じられているからだ(こちら)。
この頃、百済は北魏に朝貢して北朝仏教を導入していた。百済王は政商蘇我稲目を通じて倭国に北朝仏教を勧めた(538年)。しかし、倭国王は南朝仏教派であったから、適当にあしらい、物部尾輿と九州中臣鎌子は国粋主義と神道の立場から反対した(こちら)。史料の元興寺縁起はこれを「大倭国仏法、創(はじ)めて、百済から度(わた)り来る(538年)」とあり、「大倭国」とは九州倭国の応神以来の「自尊称」である(こちら)。これも「尾輿は倭国大連」の傍証である。
●851 物部守屋
守屋は尾輿の子、倭国大連であるが大和王権の大連としても出てくる(敏達紀・用明紀・崇峻紀)。しかし、稲目没後に稲目の仏堂・仏像を破棄・投棄したこと、ライバルが居なくなったことで守屋の専横が目に余り、倭国内諸王族と稲目の子馬子が手を結んだ「物部守屋討伐事件」(587年)で滅ぼされた(こちら)。
●852 蘇我馬子
馬子は稲目の子、敏達紀・用明紀・崇峻紀で大連とされる。稲目の没後、倭国大連物部守屋の排仏強行への反発もあり、守屋の討伐を主導し、倭国上宮王の皇子聖徳太子・倭国朝廷に参画した敏達の竹田皇子を巻き込んで勝利したことが、倭国と大和王権と馬子の関係を示している。この時期、倭国王族と大和王族は九州で一体的に動いている(こちら)。大和王権内事件(推古紀812年)にも倭国王権内事件(排仏論争)にも馬子大臣として登場する。
排仏派の守屋を倒したが、倭国王が北朝仏教や北朝律令を受け入れた訳ではない。長年南朝に朝貢してきた倭国は南朝が崩壊したのちは南朝後継国として北朝隋と対等外交をしようとした。北朝仏教受け入れは容認しなかった。それに反発して倭国から独立した上宮王に従って、馬子は倭国を離れた。以後、馬子は推古天皇の大臣と、上宮大王の大臣を兼務した(こちら)。
上宮王が倭国から独立して大王を称したが、九州に三王権が並立するには狭すぎた。馬子は一族の故地でもある大和への凱旋志向から、大和葛城を拠点に大和飛鳥に「稲目の本拠小墾田に因んだ大和小墾田宮」を造り、推古に提供した。推古は大和王権の都を70年ぶりに大和に帰還遷都した(詳論)。
●853 多利思北孤
「倭の五王」と同系の後継倭国王である。物部宗家の守屋が討伐されたことで、討伐した蘇我馬子が倭国の主流となった訳ではない。権力を掌握したのは倭国王である。いわば王政復古であり、それを継承したのが遣隋使を出した阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)である。
倭国の遣隋使には大和から随行使小野妹子が加わった。隋書は随行使など一切記していない。一方、推古紀は「倭国不記載」だから「随行使」しか記していない。これが「阿毎多利思北孤=聖徳太子」の誤説を生んだが、両書はそれぞれ片面ながら正しい。合わせて補完読みすれば、全体像が把握できる(こちら)。
●854 上宮王
倭国はニニギ(祭事王)とホアカリ(政事王)の祭政二重統治で始まった。その後、ニニギ曽孫の神武は物部軍(のちの尾張物部氏)を分与されて東征した。その際、神武はニニギ系王族の一部を祭事王として九州に残した、その子孫に応神(ニニギ五世孫相当)、継体(応神五世孫だからニニギ十世孫相当)、上宮王(ニニギ十五世孫に相当)と考える。なぜなら、上宮王は倭国王族だが非主流派(反物部)であり、東方志向が強く、臣下に中臣(鎌子)を持っている。そのような倭国王族とは倭国内ニニギ系王族しか居ない。
上宮王は倭国から独立して大王を称し、独自年号「法興」を立てた。上宮聖徳皇子から「我が法王大王」と呼ばれている。(伊予風土記逸文)。亡くなった時は「上宮法皇」と称していた(法隆寺釈迦三尊像光背銘)。ただ、上宮大王は大和王権でも大和王統でもないから記紀は「上宮大王不記載」とせざるをえなかったのである。
●855 聖徳太子
日本書紀では「厩戸皇子(後の聖徳太子)は用明天皇の皇子で推古天皇の摂政皇太子」とされている。しかし、新たに「上宮王の出自は倭国内ニニギ系王族」と論証できたことで解明が進み、「聖徳太子は上宮王の太子」と論証し、更に「なぜ、どのような経緯で日本書紀は異説を記すようになったのか?」が解明できる。結論として「推古紀に上宮王と聖徳太子の事績記事を無理やり入れさせたのは元明天皇の可能性がある。」と考える。その論証はこちら。(●371〜●391)。
元明は歴史に興味を示した女帝である。敏達・舒明・天智の血をを引く大和王統継承者であるが、同時にニニギ系王族上宮大王の孫(皇極)の孫でもある。「倭国不記載」「上宮王権不記載」の方針をかいくぐって上宮大王の記録を何とか日本書紀に残したかった、その為に「上宮大王=聖徳太子」の誤読・誤解があってもよい、と考えたに違いない(父子合祀)。
●856 推古
推古紀での最大の誤解は「聖徳太子」を除けば「宮の場所」であろう。
宮名 |
即位時の豊浦宮 |
崩御時の小墾田宮 |
通説 |
大和 |
大和飛鳥 |
九州王朝説 |
肥前小墾田(鳥栖市) |
|
筆者説 |
この違いが重要なのは、日本古代史の全体把握に関わるからだ。この把握を放置しているようでは、全体理解はおぼつかない(詳細は、表の青字をクリック)。注目点は「推古の豊浦宮は九州、803年に大和小墾田宮に遷った」にある。
●857 遣隋使
倭国王アマノタリシホコは遣隋使を出した。長年南朝宋に朝貢したが、宋滅亡後は「南朝系の継承者の意識」からか、隋に対しては対等対抗心があり、好字「?(たい、イ妥)」を国名として「日出ずる国の天子云々」の国書を送った。これに隋煬帝(ようだい)は怒り、隋使裴世清を倭国に送り、天子自称を撤回させ、国名も「倭」に戻させ、(朝貢でない)献上物を「あれは朝貢でした」と認めさせた。
遣隋使には大和推古から派遣された随行使小野妹子が加わった。煬帝は裴世清に推古宛ての密書を託した。それには「(推古の献上物を)朝貢と認めよう(日本を朝貢国(代表国)とみとめよう)」とあった。結果的には倭国と大和王権の両方に代表権(朝貢権)を与える二股外交である。この経緯は推古紀に明らかにされているが、隋書には出て来ない。その理由は「倭国が煬帝の要求をすべて飲んだ」から、推古への秘密二股外交は反故にされたからである。推古紀が書かれた時点では隋も倭国も滅亡しているから、推古紀は「倭国不記載」としながらも、対隋外交の秘密をばらしたのである。これが「阿毎多利思北孤=聖徳太子」の誤説を生んだが、両書はそれぞれ片面ながら正しい。合わせて補完読みすれば、全体像が把握できる(こちら)。
●858 上宮王権
田村・宝
田村は敏達孫で田村皇子、宝はその妻宝皇女のこと。だが、実は宝は上宮大王の孫でもあり、田村はその夫で上宮大王の三代目大王となった。これは記紀に無い驚きの「上宮王家別史」である。「田村皇子を『姪男(宝皇女の夫)』と呼んだ聖徳太子が薨じ、翌年上宮大王(初代)が崩じ、第二代上宮大王には殖栗(えぐり)皇子が就いた(上宮王家系図)。この第二代が臨終の時、娘宝皇女の夫田村皇子を召して第三代大王に指名した」という(大安寺伽藍縁起)。
「田村大王」と仮に呼ぶと、田村大王は敏達孫で、上宮王統ではないから「宝皇女(上宮大王の孫)を第四代大王にする為の中継ぎ」の様に見える。これは上宮王統の継承譚である。だから記紀には記されていない。田村大王はその後大和天皇に重ねて就いて舒明となる。宝皇女は舒明天皇兼田村大王を継いで皇極天皇兼宝大王(筆者仮称)となるが、それらはのちの話。
この上宮王統譚が前段となって、次の大和王権の舒明・皇極に続き、更に「二王統融合・二王権合体」につながる。
●859 大和王権舒明・皇極
推古が大和小墾田宮で崩じ、田村皇子が継いだ。舒明天皇である。宮は肥前飛鳥岡本宮、推古の大和小墾田宮から肥前に戻している(こちら)。舒明は敏達の孫、大和天皇として天香山(あまのかぐやま、豊前香春岳)で国見の歌を歌って神武の跡を確かめている。
次の皇極は大和王権から見れば舒明の皇后に過ぎない中継ぎ天皇である(上宮大王孫、前項)。乙巳の変後、皇極から孝徳に、更に皇極が重祚して斉明となった。これも中継ぎと見れば、舒明の継嗣天智が継いでようやく大和王統に復帰したことになる。以後、大和王統が続いている。「上宮王家の田村大王」の認識があって初めて「なぜ田村が推古後継に選ばれたのか、なぜ中継ぎ女帝が易々実現したのか理解できる。
●860 二王権の合体
新認識「血統でない田村皇子が上宮大王に就いたのは中継ぎ」ならば「血統でないその皇后が大和天皇皇極に就いたのも中継ぎ」は解る。執権蘇我氏が居たし、在位は短いから(3年)。では、重祚の斉明(皇極)も中継ぎだろうか。斉明は蘇我氏を排したのちであるし、日本軍(東国軍)の白村江参戦を決めるなど、中継ぎとは思えない主導権を取っている。上宮王統(宝大王(斉明))が大和王権を事実上主導している、と見ることもできる。これを中大兄皇太子(両王統の血を引く)がサポートしている。「斉明は両王統が融合して統合大和王権を主導している」と解釈することができる。
舒明の即位に至る選考過程で、聖徳太子の継嗣山背(やましろ)大兄皇子と競り合ったと舒明紀にあるが、大和王統の継承に聖徳太子一族は部外者である。これは推古紀の聖徳太子記事と同じ理由による上宮王家記録の挿入であろう。「結局二王統は融合したのだから、遡って別々だった王統記録を融合(挿入)しても全くの不実記載とはいえない」と紀編者の言い訳が聞こえるような気がする。
●861 蘇我蝦夷・入鹿
蝦夷は馬子の子、入鹿は蝦夷の子で、いずれも大和王権大臣、上宮王権大臣を兼務して専横した(詳論)。稲目の本拠地は肥前小墾田(佐賀県鳥栖市)、馬子の本拠地は肥前飛鳥(佐賀県三養基町)と豊浦(豊前今川付近か、筆者説、詳論)、蝦夷は肥前飛鳥・豊浦だが晩年は豊浦を拠点に大和拡充に専念した。入鹿は更に大和飛鳥に入れ込んでいる。
入鹿は大和で聖徳太子の継嗣山背(やましろ)大兄皇子一族を滅亡に追い込んで恨みも買い「乙巳の変」で滅ぼされた(詳論)。
●862 中臣鎌足
鎌足の父中臣御気子(みけこ)は上宮王の独立に従って倭国を離れ、上宮王権の神祇伯となった九州中臣氏と思われる。推古崩御に際しては、蘇我蝦夷大臣と共に田村皇子の舒明即位を推し進めたとされる(舒明紀)。この時田村皇子は既に上宮大王に即位していて、それを大和天皇にも即位させ、上宮王の夢「上宮王権主導の二王権合体の実現」を狙ったと考える。
子の鎌足は上宮王統系の皇極の代で神祇伯を辞退し(仏教信仰)、中大兄皇子を援けて「乙巳の変」で蘇我宗家を打倒した。戦略は謀略に近く、相手の仲間割れを誘う政略結婚あり、少人数でのクーデターであり、先手先手の武器隠匿ありである。
その後も、大和王権の顔を立てる如き孝徳への譲位、蘇我支族の反撃をかわす摂津難波への遷都など進めるが、実は孝徳をないがしろにする面が強い。孝徳崩御後は大和王統に有無を言わさぬ斉明重祚、藤原京明け渡しも倭国王権吸収への誘いに見える。斉明崩御を理由に近畿軍参戦の遅延半減・倭国出兵後の戦線離脱をしたが、すべて「上宮王系主導の大和王権温存」を図る中臣鎌足の謀略と考える。
●863 乙巳の変 蘇我氏滅亡
一図の観点から注目点は、「入鹿の本拠は九州なのに、なぜ斑鳩の山背(やましろ)大兄皇子一族を滅亡させたか」である。実はこの時期の皇極の宮(飛鳥板蓋宮)は肥前であって、大和王権の大和領は蘇我一族が代官として差配していたと考えられる。蘇我の故地は大和葛城であり、入鹿は本拠を主筋の居ない大和に移して王者として振舞いたかったようだ(自邸を宮門と称す)。皇極の次に山背(やましろ)大兄皇子が継ぐと斑鳩に宮を遷すであろう、それを阻止したかったと考えられる。「変」は肥前で起き、入鹿・蝦夷宗家が滅亡した。支族の蘇我石川麻呂は中大兄に取り込まれていた。
●864 孝徳〜持統
孝徳は乙巳の変後、皇極からの譲位を受け肥前板蓋宮から摂津難波宮に遷都した。九州・大和の蘇我支族の反撃を避ける為であろう。しかし、蘇我排除が着々進む中、実権を持ったのは孝徳ではなく、肥前に残った皇極上皇と中大兄皇子・中臣鎌足であった。孝徳は疎外されていた。疎外が成功すると、皇極上皇・中大兄皇子は大和に移り、大和王権の上宮王統支配が完成した。
孝徳が崩御し、中大兄皇子が継ぐところ、皇極上皇が重祚して斉明となった。以後、倭国の白村江戦への東国勢参戦へ向かう。しかし、斉明崩御があり(偽装か)中大兄皇子がこれを理由に参戦を遅らせ半減させたこともあり、倭国は大敗、唐軍の九州進駐と倭国傀儡化へ進む。天智は傀儡倭国と距離を置くうち、唐軍の九州撤退(唐の国内事情)、倭国滅亡(不詳)と続く。天智・壬申の乱・天武と続き、天武の病死と皇后持統の即位となる。
●865 白村江戦と倭国滅亡
この図から言えば、倭国滅亡は自滅に近い。「倭の五王」が南朝宋に朝貢して以来、宋の滅亡後も南朝の継承者を自認して北朝隋に対抗した節がある。隋が唐に代わっても「遣唐使は出すが朝貢せず」を守り、唐と対立して遂に「白村江戦」に至る。
しかし、勝利要因は唐の常套「遠交近攻策」であろう。倭国の後ろの大和に裏外交を仕掛けた。唐帝は孝徳に使者を通じ「大和が近畿をまとめ倭国に離反するなら、別国(日本国)と認めて手をにぎろう。その代わり、百済を攻めろ」と提案し、斉明には「倭国とは戦争になるが、日本は攻めない」と密書を送った。斉明は白村江戦に参戦を決めたが、中大兄皇子は斉明崩御(偽装か)を理由に参戦を遅らせ規模を半減した。倭国/大海皇子軍は来るはずの斉明/中大兄皇子軍が来ずに梯子を外され惨敗した。
唐軍は九州倭国に進駐し、結局倭国は滅亡した。
●866 文武〜元明
文武は「日本国」として建国を宣言し、唐の意向に沿う姿勢を示して朝貢遣唐使を送った。遣唐使は唐の厳しい査問を受け、「倭国と日本国は別の国」「日本国は唐の朝貢国」の認定を得て唐との国交を確立した。
遣唐使の帰国を受けて、日本書紀(日本紀)の原稿に手が加えられた。「倭国不記載」「他王権・上宮王権不記載」となった。時の女帝元明はこれに異を唱えたようだ。元明は歴史に関心が強い。風土記編纂を命じている。上宮王統と大和王統の両方の血を引くから、「上宮王権不記載」は不満であった。「上宮王を載せないなら、せめて聖徳太子を大和王統と見做して上宮王/聖徳太子の事績を載せよ」と命じたと考える。
●867 藤原不比等
不比等は鎌足の継嗣。持統の参謀として「天武の倭国継承路線を否定」と「新日本国建国と対唐朝貢外交」を目指して「倭国王統/外戚物部氏体制」に学んで「日本国天皇家の外戚」として権力を独占したが結果的に「権威と権力の分離」「天皇家を打倒の対象から外し長期安定王権」と「それに支えられた長期安定外戚権力」を実現して明治維新まで続いた。
●868 日本国
唐は白村江戦の前に斉明に「日本国の天皇、平安なりや」と伝言を密使に託した。「日本国」とは四世紀ころから半島で使われた近畿東国地方を指す見做し国名で、「大和は近畿一帯の国をまとめて倭国に離反せよ、そうすれば日本国として友好国扱いする」の意味である。唐の九州駐留軍によって倭国は傀儡化されたのちに滅亡した。文武は「日本国」として建国を宣言し、唐の意向に沿う姿勢を示して朝貢遣唐使を送った。遣唐使は唐の厳しい査問を受け、「倭国と日本国は別の国」「日本国は唐の朝貢国」の認定を得て唐との国交を確立した。
遣唐使の帰国を受けて、日本書紀(日本紀)の原稿に手が加えられた。「倭国不記載」「他王権・上宮王権不記載」となった。時の女帝元明はこれに異を唱えたようだ。元明は歴史に関心が強い。風土記編纂を命じている。上宮王統と大和王統の両方の血を引くから、「上宮王権不記載」は不満であった。「上宮王を載せないなら、せめて聖徳太子を大和王統と見做して上宮王/聖徳太子の事績を載せよ」と命じたと考える。
●869 一図で見る「倭国不記載」
日本書紀は「(九州)倭国不記載」の方針を貫いている(下図)。ところが本文には「倭」字があふれ、後世これを「やまと」と読ませている。この背景を検証する。
倭国が白村江戦で唐に敗れ(872年)、結局滅亡した(880年頃)。混乱の九州を収めた大和文武天皇は日本国を建国した(701年)。外交は倭国が握っていたから、日本国は改めて「列島代表権」を唐に承認してもらう必要があった。それが遣唐使(702年)である。
戦う前、唐帝は斉明に「倭国とは戦うが、日本国天皇とは友好したい」と密書を送った。「大和国だけではなく、東部諸国をまとめて倭国に離反せよ、そうすれば列島代表権(朝貢権)を与えるぞ」との裏外交である。「日本国」とは正式国号ではなく、四世紀ころから半島で使われた「列島東部」の「見做し国名」である(漢語日本●508 、次著第八章)。斉明を継いだ天智(称制)は(倭国軍出陣後も)斉明崩御を理由に参戦を遅らせ、派遣東国軍の規模も半減した。「倭国(宗主国)には逆らえないが、唐の要求に最大限従った」との立場を作ったのである。天智の孫文武は遣唐使を通じ「お望み通り、倭国とは手を切り、国名もお望みの日本国とした。倭国とは別の国、今や列島唯一の国だから、朝貢させてください」との立場を取り、遣唐使は厳しい査問を受けたが承認され、日本国は国際社会に入れてもらえた(旧唐書・新唐書)。
このような背景から「日本書紀」は「倭国(別の国)」「上宮王権(別の王権)」については一切触れていない。これを「抹殺」「抹消」「ごまかし」などと見做す説(九州王朝説)もあるが、唐は長年倭国を知っているからそれは誤説である。倭国は大和にとって長年の宗主国・友好国・兄弟国・兄国であり、唐もそれを知っていた。だから、外交上の建前から「倭国は別の国、だから記載しない」の立場を取らざるをえない「倭国不記載」である。同じ理由で「上宮王権不記載」を取った。
そのような「日本書紀」は「倭国不記載」でありながら「倭」字で溢れている。その内容はほとんどが「やまと」の地名・人名である。外交的な建前は「日本国は御存知の様に倭国の一部でした。だから『倭』の地名・人名が多いのは仕方がない。外交以外の中身は倭国と変わらないのでこれは認めてください。外交的にはご要求通り倭国と手を切り、国名も変えたのだから」であったであろう。
しかし、「日本書紀」は「やまと・夜麻登・山常」などに「倭」字を「新当て字」したもので、「やまとは倭国の継承者」を外交的に印象付ける意図があったと思われる。天武古事記以来の姿勢を継承している。
外交的にそれが認められると、新政権は国内的にすべての「倭」字を日本書紀に限らず「やまと」と読ませ、振り仮名させた。これは日本書紀の意図を超える政治的な「やまと主導の国内統治」を狙ったのであろう。
中には数例の九州倭国を意味する「大倭国」も(倭国不記載にかかわらず)現れるが、後世これも「おおやまと」と振り仮名している。これは後世の政治的な誤読誘導である(第二話参照)。
●870 一図で見る「蘇我氏」
蘇我氏は元は大和出身であるが、記紀に登場する初代蘇我稲目は九州に定住してきた大和系豪族である。これを一図でみる。
蘇我一族の祖石川宿禰(武内宿禰の子)は「仲哀/神功/武内宿禰の熊襲征伐〜新羅征戦」に従ったと推測される。石川の子満致(まち)は応神・仁徳の三韓征伐に、孫の蘇我韓子は倭五王/雄略の「新羅経略」に関わった(雄略紀465年)。曾孫の蘇我高麗(こま)は「筑紫君磐井の乱討伐」や「物部麁鹿火(あらかい)を大将軍とする任那遠征」(継体紀)に加わった可能性があり、この時代に九州に定着したようだ(下図赤太点線、詳しくは前著第三話参照)。
「筑紫君磐井の乱」の後、倭国は内政重視に転換し、半島経略は物部麁鹿火(継体・安閑・宣化の大連)を総大将とする東国軍(日本軍)に任せた。
これに伴い、統括する安閑・宣化は、豊国の屯倉(磐井遺領)の一つ「大倭国勾金橋」に遷都した。遷都を準備したのは蘇我高麗であろう。なぜなら、高麗の子蘇我稲目は大臣に抜擢され、屯倉の管理を任されている(宣化紀元年条536年)。
ここまでが、記紀に登場する初代蘇我稲目の前史である(赤点線)。稲目の本拠は筑紫君磐井から奪った肥前小墾田(佐賀県鳥栖市)である。
蘇我稲目は大和王権大臣となったが、倭国朝廷からも大臣と呼ばれて百済王の北朝仏教推薦を仲介している(仏教論争)。倭国は高い文化を持っていたが、権威が低下していたから(磐井の乱)、同族的な大和王権(継体/物部麁鹿火/蘇我稲目)が支えてくれることを歓迎した節がある。他方、大和王権は長年同族倭国(宗主国)の権威に支えられてきたから、倭国朝廷に参画して存在感を高めたことに満足していたようだ。お互いに持ちつ持たれつであった。
子の蘇我馬子は大和王権大臣であるが、倭国朝廷からも大臣と呼ばれ、倭国大連物部尾輿と仏教論争で対立している(大安寺伽藍縁起)。稲目/馬子は娘を大和天皇の妃に入れ、外戚となった。馬子は倭国王族上宮王/聖徳太子・敏達継嗣竹田皇子と共に排仏派で倭国外戚として専横する物部守屋を討伐した。しかし、倭国の権力は蘇我氏に渡らず、王家が握り王政復古となった(阿毎多利思北孤)。上宮王は遂に倭国から独立し、蘇我氏が従って上宮王権が成立した。蘇我氏が外戚となっていた大和王権推古は大和小墾田宮に帰還遷都した。
馬子の子蝦夷は上宮王家に田村皇子(第三代大王)・宝皇女(第四代大王)を据えたが、大和王権の推古の後にも田村皇子(舒明)・宝皇女(皇極)を据えて、二王権を事実上統合して大臣として専横した。その結末が子の入鹿の山背(やましろ)大兄皇子一族の殺害であり、乙巳の変の蘇我宗家滅亡へと続いた。
●871 一図でみる「九州物部氏」
物部(もののべ)氏は定説では「神武東征より前に河内に天降った饒速日(ニギハヤヒ)命が祖先と伝わる天神系の氏族」とされ、「物部の守屋が蘇我氏に討伐されるまで天皇家の有力な重臣であった」とされている。
しかし、記紀・先代旧事本紀などの解析から、物部氏は四系統あり、ニギハヤヒ系は400年頃に途絶えた系統であり、最も活躍し宗家と目される系統(物部尾輿・物部守屋)は「倭国王家の外戚と続いた九州物部氏」であった。日本書紀の「倭国不記載方針」から大部分は記載されていないが、大和王権(九州)が関わった部分「仏教初伝譚・仏教論争譚・物部守屋討伐譚」だけが記載されている。その結果、それらが「大和朝廷の事件譚」と誤読されている。
ここでは物部氏の宗家ともいうべき「九州物部氏」について一図で見直す。
九州物部氏は「ホアカリに供奉して遠賀川域に天降りした」(先代旧事本紀)。そのほとんどは日本書紀では「倭国不記載」「九州物部氏不記載」の方針で記されていない。しかし、卑弥呼・台与系に代わって九州倭国を再統一(360年頃)したのは九州北部を制していたホアカリ系倭国、それを支えたのは筆頭軍事司の九州物部氏と考えられる。九州物部氏がホアカリ系倭国の外戚となって倭国を支えと考えられる(蘇我氏が模倣)。
物部尾輿は当初は倭国内で傍流だったようだが、河内支族物部麁鹿火に近づき、大和王権の倭国朝廷での活動を援け、主流へとのし上がったようだ(先代旧事本紀)。その縁で、九州に遷都した大和王権を倭国朝廷に参画する仲介を果たし、大和王権からも大連に任じられた。
尾輿の子守屋は仏教論争で勝ち、蘇我氏を追い落とすと権力を独占して専横を極め、それが倭国王族や蘇我氏の反発を招き、物部守屋討伐事件に至って物部氏宗家滅亡を招いた。支族は残ったが権力は倭国王に戻った(王政復古)。それが倭国滅亡まで続く。