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初著「倭国通史」 引用抜粋
高橋 通 原書房 2015年
(著作権留保)
引用該当部分が出るまで
数秒お待ちください
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●9 倭国統一
「脱解王は59年に倭国と友好を結んだ」(三国史記、前出)とあったが、三国史記の記述の流れからこの倭国は多婆那国の近くの半島倭国であろう。「脱解王は倭国と一元的な外交ができた」とは「倭国は統一された」を意味するのだろうか。しかし、これは前述「倭国の倭奴国」(後漢書57年条)の項(3)の「倭国は統一できていない」と矛盾する。恐らく状況は単純ではなく、「倭国は半島を主体に統一の過程にあったが倭国の極南界の倭奴国が一方的に独立を宣言して勝手に中国に遣使した」などの対立的関係も推測される。
それから50年程のち、倭国は後漢に遣使した、と後漢書にある。
後漢書 倭伝107年条
「倭国王
[14]
帥升(すし)等、生口(せいこう)160人を奉献し、請見を願う」
後漢書 安帝紀107年条
「倭国使いを遣わし奉献す」
「その国(倭国)は本(もと)も亦男子を以って王となし、住(とど)まること7、80年なり。倭国乱れ相攻伐すること歴年。すなわち一女子を共立して王となす。名づけて卑弥呼という、、、」
後漢書
「桓・霊の間、倭国大乱、、、歴年主なし、、、」
「倭国は乱れる前に男子の倭国王が居て、遣使して朝貢を願い出た」とは「倭国は統一された」と考えられる。ここでは統一時期のみ検討し、「倭国大乱」については後述する。後漢桓帝(147年〜167年)・霊帝(168年〜189年)の年代がわかっているから「その前の男王が居た70〜80年間」を基に統一年代を逆算してみる [16]。その結果を略記すると「西暦80年頃、倭国は男王によって統一され、107年に倭国王帥升が遣使した。統一は150年〜160年まで続いたが、その後大乱があり20年前後続いた(160年〜180年)」となる。
[14] 「倭国王」 後漢書では「倭国王」だが、『翰苑』に引用されている後漢書には「倭面上国王」とあり、諸本により「倭面土国」「倭面土地王」「倭面国」などがあるなど議論が残っている(「倭人伝の用語の研究」 三木太郎 多賀出版 1984年)。ただ、西嶋等は「当初から倭国王であった」と結論している(「倭国の出現」西嶋定生)。次に中国史書に出てくる「倭国王」は宋書の「倭国王珍」である。
[15] 「魏志倭人伝」 中国の正史『三国志』中の「魏書」の東夷伝倭人条の略称 280年-290年頃陳寿の編、史実に近い年代に書かれた。
[16] 「統一年代」 後漢桓帝(147年〜167年)・霊帝(168年〜189年)の「桓帝の例えば中ごろ157年から大乱が開始した」とすると、その前、70〜80年間が男王の統一時期だから、統一年代は、「157年の70〜80年前、即ち77年〜87年」だ。倭国王帥升(107年遣使)は数代後の倭国王だ。
●50 邪馬台国の遣晋使? (2012.1 加筆)
卑弥呼後のことが魏志に記されている。
魏志倭人伝末尾
「卑弥呼以って死し(250年頃、北史)、大いに冢を作る、、、更に男王をた立てるも国中服さず、、、卑弥呼の宗女壱与(通説では台与、以下通説に従う)、年十三を立てて王と為し、遂に定まる、、、台与、、、政(魏使張政)等の還るを送らしむ、よりて台(洛陽)に詣り、、、(生口三十人、白珠などを)貢す」
一方、神功紀には「神功皇后は卑弥呼又は台与」を示唆するような次の編者注を載せている。
神功紀
「晋の起居注(皇帝日誌)に曰く、『武帝の泰始2年(266年)、、、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむ』と」
しかし、「神功皇后が倭の女王」とは書いていない。そうでないことを編者は中国史書から知っていたと考えられる。卑弥呼・台与(3世紀、上掲の女王は時代的に台与と考えられている)と神功皇后(400年頃、第四章参照)とは時代が違いすぎる。神功皇后の年代を遡らせる為の示唆に使ったと考えられる。示唆に留めたところが編者の工夫であろう。
この記事に関連して注目されるのは同年の別の史料、晋書武帝紀だ。起居注と比べてみよう。
晋書武帝紀
「泰始2年(266年)、、、倭人来たりて方物を献ず」
神功紀の引く晋の起居注
「泰始2年(266年)、、、倭(国)の女王、、、貢献せしむ」(再掲)
神功紀の引用と同年で同じ晋の武帝関連記事だから、二文は同一事績だとするのが定説だ。しかし晋書は倭でなく「倭人」、朝貢とは異なる「献ず」である。「献ず」となっているのは、晋とまだ朝貢関係を持っていないか、これから持とうとする使節と考えられる。中国は誇示の意味もあって冊封体制の朝貢使には「貢ず、朝貢す、貢献す」と書き分ける(「献ず」・「貢ず」・「奉献す」の使い分けについては第五章で述べる)。すなわち晋書の「倭人来りて方物を献ず」は台与の「朝貢」遣晋使ではない。「同年の別の遣使」だ。では「倭国と別の倭人国が遠く危険を冒して別々に遣使」したのだろうか。そうではなく「朝貢する倭(国)女王(台与)の遣使」に「倭国とは別の、未だ朝貢していない倭種の国の遣使」が「随行」した、と考える方が自然だ。その根拠は、卑弥呼が魏の皇帝に「其れ(倭)種人を綏撫(すいぶ)し、、、」(魏志倭人伝)と、倭諸国・倭種の指導者として倭国外倭人の面倒を見ることを諭されているからだ [10]。
倭国の周辺には倭種の国は多いが、武帝紀に記される程の国となると「倭種で最大の人口を誇る邪馬台国」(魏志倭人伝)の可能性が高い。この推測が正しければ「中国は邪馬台国の遣使に直接接した」ことになる。魚豢が「魏略」を編纂していた270年頃以前の事績である。「情報だけならもっと前から邪馬台国の情報が中国に伝わっていて不思議は無い。それでも魚豢は魏略の記事に邪馬台国を採用しなかった。公式外交国『倭国』とは別、と知っていたからだ。」と推定される。
この記事については「前方後円墳との関係」で次章で改めて触れる。
[10] 随行使 似た事例は「今使訳通ずる所三十国」(魏志倭人伝)だろう。三十国が別々に遣使したとは考えられない。随行使、連名の遣使や献上物と信書の預託などが多かった、と考えられる。
第5・7・8章で述べるが、倭国は後年も中国遣使に雄略朝・推古朝・孝徳朝の随行使の同行を許したようだ。晋書はその嚆矢となる記事と解釈できる。この寛容な外交指導力が倭国の長年の宗主国継続の原動力だろう、と考える。
●65 纒向の祭事朝廷 神武は創始者ではない (2011.10 改 2013.2 加筆)
纒向祭事活動は畿内のみならず東海から吉備以西にまで及ぶ範囲から集まった人たち、言い換えれば列島各地の首長から派遣された人々で行われ、その成果である前方後円墳とその祭事形式を列島各地に持ち帰った、と考えられている。そのような広域祭事活動の主導者はだれだろうか?[3]前注
(1)
纒向古墳の創始時(200〜220年頃)には大和にはニギハヤヒ一族が鳥見(とみ、桜井市、奈良盆地の東南)に居た。神武東征に立ち向かうのだから大和の代表格の政事覇権であろう。しかしその勢力圏は大和盆地を出ることはなく、広域の祭事的権威を持っていたとは考えられない。
(2)
鳥見の北の三輪(奈良盆地の東南東)には三輪・大物主神一族が居た。三輪一族は政事覇権的には弱体でも、ニギハヤヒに滅ぼされることもなく地神系の三輪神とスサノヲ系の大物主神の祭事権威を維持していたと考えられる。大物主神は列島各地に国造りを完成させた、と記紀にあり、纒向活動の主導者の資格はありそうだ。各地の政事王達はその祭事権威に従って配下を纒向に送り込んだと思われる。纒向祭事朝廷は三輪王権が主導したものであろう。
(3) 神武はニギハヤヒ一族を制圧して鳥見を奪って本拠地とした(磐余)。しかし、神武も隣の三輪一族の地を奪うことなく、そこを本拠とする大物主神一族の娘を后とした。一般に「ある王統の娘を后・妃にした」とある場合、三つのケースがある。「征服の象徴(上下の上)」「忠誠の証(上下の下)」「親交の絆(対等)」だ。神武の場合はその後の三輪王権との関係をみると「親交」と思われる。
(4)
神武が崩じた後、子が継いで綏靖天皇となり母方の三輪を本拠地にした。三輪王権の当主にもなったか傍流かは分からない。神武一族にとって三輪一族との連携は政祭両面でのメリットがあった、と考えられる。
(5)
欠史八代とは、神武系3系統4世代(約90年)、第9代開化天皇までの天皇とされる。姻戚関係の分析から、いずれも三輪王権と関係が深いという(佃説、[2]前注 )。
しかし、神武から第8代までの天皇御陵は円丘または山形である。九州の伝統を守って天照系を堅持しているようだ。神武系は260年頃に始まったといわれる纒向の前方後円墳活動の主導者ではないと筆者は考える。
(6) 第9代 開化天皇は孝元天皇の子、欠史八代の最後とされる。神武系で初めて御陵は前方後円墳であり、以降次代の崇神〜敏達天皇(第31代)まで例外(安康・雄略・武烈)を除いてすべて前方後円墳である。神武系として最初に前方後円墳を取り入れ、次代の崇神系に引き継いでいる形だ。
(7)
第10代崇神天皇は開化天皇の子とされるが、和名にイリがつくからイリ王朝とも呼ばれ、神武高天原系と異なる王権とする説が有力だ(扶餘からの渡来系とする説が根強い)。ただし、神武系と崇神系に姻戚関係があったのは史実のようだ。開化天皇の孫狭穂姫が垂仁天皇の后となった詳述がある(記紀)。
崇神はアマテラスを祀っている。渡来系と考えられる崇神がなぜアマテラスを祀ったのか。背景に「疫病から人口半減した」(崇神紀、渡来系のもたらした疫病か)という厳しい状況があり、崇神天皇は祭事に没頭し、天照大神・倭大国魂・大物主神を祀り直した(崇神紀)。崇神天皇はアマテラスも祀る統合祭事王となったと思われる。
(8)
第11代垂仁天皇も同じく和名にイリがつき崇神の直系と考えられる。やはり天照大神を祀り伊勢神宮を創始したとされる。纒向祭事権威は神々を融合しながら三輪系、神武系、崇神系へと引き継がれたようだ。
(9)
第12代景行・(第13代成務)・第14代仲哀は長年征戦で大和を留守にしているから、祭事王ではなかったようだ。ここでは省き後述する。
(10) 仲哀天皇の神功皇后は九州征戦から大和に帰還するが、又巫女の資質を持ち、祭事の主導者だった、と解釈できる(次章)。
(11) 仲哀天皇の皇子は神功皇后とともに九州から大和に帰還して、崇神朝を支配下に置いた(次章)。当然崇神朝の天照大神も含めた統合祭事権を継承したと考える。この仲哀系の王権の上に乗ったのがやはり九州から帰還した大和軍の王、仁徳朝だ(次章参照)。仁徳と後継者も当然祭事権を継承したと考える。纒向以来の前方後円墳である応神天皇陵〜仁徳天皇陵(最大)がその証だ。
以上祭事権の推移をまとめると、「神武天皇は纒向古墳の創始者ではない。神武系は政事的には三輪系に近づいたが、祭事的には九州系を維持して前方後円墳を採用しなかった。むしろ、後代とされる崇神朝の方が前方後円墳に象徴される纒向の三輪系祭事権と神武の天照系を融合して祭事王権として拡大し、その祭事王権は崇神系・仲哀系・仁徳系の大和諸政事王権に継承されてきた」。その理由は「大和の纒向以来の祭事風土的な伝統」だろう。祭事を理解し掌握して初めて大和の政事もうまく運んだのだろう。
●66
日本書紀の年次修正法 (2012.2 加筆)
神功紀以前の日本書紀年次(皇紀)には誇張や操作があり、次の修正法が支持されている。
(1)
古事記の天皇崩年干支は海外史書との整合性が高く信頼性が高いとされる。「記崩年」と略す。記崩年は崇神天皇から推古天皇までの多くに記されている。これを基点として計算することが多い
[4] 。
(2)
諸天皇に異常な長寿の記録がある。「春秋に歳を数える2倍年暦説」と解釈されて、半分を崩年年齢と解釈することが試みられる。例えば、神功皇后崩年年齢百歳は50歳に、応神天皇百十歳(古事記は百三十歳)は55(〜65歳)とする。次の文献が解釈の根拠の一つとされている。
魏志倭人伝注
「【魏略曰:其の俗、正歳四節を知らず、但春耕秋收を計って年紀と為す】」
(3)
干支で記述されている場合には2巡(120年)繰り下げてみる。外国史書と整合する場合が多い。例えば、神功紀二五五年の「百済肖古王薨」とあるのは正しくは375年と百済史書から判っている。
以上とて絶対ではなく、個々に他との整合性を見ながら試行錯誤するしかない。しかし、本書及び本書が依拠する文献では優先して上の順の修正を試みている。
[4] 記崩年 古事記の天皇崩年は記されていないものと、干支で記されたものが下記のようにある(西暦で表記)。記されたものは海外史書との整合性が高く、信頼できるとされている。
1代
神武天皇
2
綏靖天皇
3
安寧天皇
4
懿徳天皇
5
孝昭天皇
6
孝安天皇
7
孝霊天皇
8
孝元天皇
9
開化天皇
10 崇神天皇
318年
11 垂仁天皇
12 景行天皇
13 成務天皇
355
14 仲哀天皇
362
15 応神天皇
394
16 仁徳天皇
427
17 履中天皇
432
18 反正天皇
437
19 允恭天皇
454
20 安康天皇
21 雄略天皇
489
22 清寧天皇
23 顕宗天皇
24 仁賢天皇
25 武烈天皇
26 継体天皇
527
27 安閑天皇
535
28 宣化天皇
29 欽明天皇
30 敏達天皇
584
31 用明天皇
587
32 崇峻天皇 592
33 推古天皇 628
●68
崇神天皇の征戦 (2011.6 追加)
崇神天皇が祭事王として自然災害(前々節(7))を克服すると、政事王として大和から畿内の征戦に乗り出した。
崇神紀十年
「七月、群卿に詔して曰く、、、今既に神祇を礼し、災害は皆無くなった、然るに遠い荒人等はなお正朔を受けず、王化を未だ習っていない、其れ群卿を選び四方に遣わし朕の意を知ら令むべし、、、九月、大彦命を北陸に、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西道へ、丹波道主命を丹波へ遣わし、、、若し教えを受けざる者は兵を挙げてこれを伐て、共に印綬を授け将軍と為す、、、十月、、、今そむく者を悉く誅した、畿内は平穏になった、ただ海外は荒れ、騒動は未だ止まず、四道将軍等は今すぐ発せよ、、、将軍等は共に路に発す」
崇神紀十一年
「四月、四道将軍は戎夷を平らげ報告した」
畿外の征服譚の成果については2行の文で済ませている。十分な成果が無かったのだろう。成果が出るまでに数世代にも亘る時間と努力が必要だったから、と考えられる。それを以下に見る。
●69
垂仁天皇
第11代垂仁天皇(崩年331年頃[5])は崇神と同様和名にイリがつく崇神系(夫餘系)。神武系を支配下に置いたようだ。その根拠は、垂仁天皇は神武系の開化天皇の孫娘を后としたが、この后は兄とともに皇位を取り戻そうと叛乱して殺されている(狭穂姫命と狭穂彦王、古事記に詳記されている)。垂仁天皇の2番目の皇后日葉酢媛命も開化天皇の血筋という。前述のように年代的には整合しないが、神武系の一族であろう。垂仁天皇は神武系の支配権を奪い、支配の証として神武系を后とし、血統を取り込んだようだ(どちらの后にも皇子がいる)。
[5] 垂仁崩年・景行崩年 垂仁天皇の記崩年は残っていないので、一世代23年として前後世代の記崩年から331年頃と計算した。景行天皇の崩年も次代成務天皇の記崩年355年の23年前とすると332年頃と推定される。これら推定は共に、実子継承か同族継承で誤差が生ずるが、同世代である確率は高い。
●83
神功皇后 新羅親征
本題に戻る。362年に神功皇后は征戦準備に入り、兵站基地を構築する。364年には三国史記に「倭兵大挙来襲」とある。倭国・貴国の連携の新羅征戦の初戦だろう。この時は日本書紀に特段の記載がないから皇后は親征していないだろう。
そして369年神功紀に第二回の新羅征戦記事がある(年数根拠は、神功紀の干支2巡操作の修正から)。時期的にみて親征があったとすればこの第二回の可能性が最も高い。「新羅を撃ち破る」「七国を平定す」とあるからそれなりの成果と見なせるからだ。後述する七支刀との関係もある。しかし、この時も「新羅の平定」「新羅から人質・朝貢」(神功紀362年条)などは無かったと考えられる。それらは更に後年と考えられる。後述するようにそれは402年で、神功皇后が九州を去った後だ。だから神功皇后の親征は369年の一回のみと考えられる。
結論として「三国史記364年の新羅征戦は倭国・貴国の初戦。皇后の『新羅親征』は369年。『人質や朝貢』は更に後年」と考えられる。
●89 応神紀 応神天皇は仲哀天皇の子ではない (2012.2 加筆)
第15代応神天皇の応神紀は神功皇后崩年に始まり、41年間を記録している。しかし、応神紀は疑問が多いといわれる。私見を含めて修正解釈を示す。修正の根拠の一つは「古事記崩年」であり、これは信用できないとする根拠が少ない。もう一つは「二倍年歴修正法」で、こちらは根拠が弱いがこの頃の「天皇崩年年齢」に限って言えば参考になる(第三章で述べた)。それに従って例えば「120歳で崩御」は「60歳で崩御」とする。
(1)
記紀によれば、応神天皇は仲哀天皇の記崩年362年に生まれた。一方、応神天皇の記崩年を基にした生年は339年となる[5]。 同じ記崩年を基にしながら、これだけでも矛盾である。修正法に誤りがあるか、別人か。これだけではわからない。
(2)
同じく修正法に従えば、神功皇后の崩年年齢は50歳で、この時応神天皇は50〜60歳である
[6] 。二人は親子でなく同世代である。従って「応神天皇は神功皇后の皇子ではない」。
(3)
神功紀によれば「神功皇后と皇子は大和へ帰還(372〜382年)した」。その後の応神紀(〜394年)の殆どは貴国記事など九州である。応神天皇は神功皇后と共に東征したのでなく、残って貴国天皇になっている、とするのが妥当な解釈だ。その解釈に従えば「応神天皇は神功皇后の皇子ではない」という可能性がある。
記紀編者は神功皇后の皇子と応神天皇を同一人視している。その為か年次の不整合が多い。この同一人視がいつ、誰によって始められたかについて再度章末で検討する。
[5] 「応神天皇の生年」 応神天皇の記崩年394年、その時の記崩年年齢百三十歳を「2倍年暦」で修正すると、65歳である。従って、生年は329年となる。紀が生年とする362年には33歳である。
[6] 「神功皇后の崩年年齢」 神功皇后の崩年二六九年を「干支2巡修正」で修正すると389年だ。この時の紀崩年年齢百歳を「2倍年暦修正」で50歳崩御とする。その年の応神天皇の年齢は前注から50〜60歳だ。
●93 仁徳天皇 新羅人質を得る
第16代仁徳天皇が応神天皇を継いだとされる。継いだのは日本貴国の天皇位だ。在位は400−427年(紀の在位年数と記崩年から)。仁徳天皇は九州で生まれ(登場人物が九州出身)、応神天皇の皇子とされているが、兄太子との間で複雑な譲り合いの末に即位している。天皇位を横取りしたのではないか。皇子でなく王族の一員かもしれない。「難波高津宮で即位」(仁徳紀400年)とあるが、応神天皇の崩御の地が「豊国難波大隅宮」であるから、「豊国難波高津宮」と考えられる。仁徳の皇子は応神天皇の孫を后にしている(仁徳紀)。
この年「新羅を臣民とした倭」に対し、高句麗が巻き返してきた。
広開土王碑文
「400年、高句麗は歩兵と騎兵5万を遣わして新羅を救った。新羅城には倭が満ちていたが潰走し、これを追って任那加羅の従抜城を帰服させた。」(再掲)
これに対して倭国と貴国は再度新羅を制覇して、人質と朝貢を受けている。
三国史記402年
「新羅が倭国と通好し、王の子未斯欣(みしきん)を人質に出す」
これは「新羅から倭国への初めてで唯一の人質」であり、以後倭国の新羅支配が長期に続く[7]。倭国の実質的な新羅制圧はこの402年からだ。貴国仁徳天皇在位期間だ。
[7] 新羅支配 三国史記418年に「人質未斯欣が倭国から逃亡」とあり、逃亡はあったが外交状況が変わっていない。また、宋書438年条に「倭王珍が倭・百濟・新羅など六国諸軍事の称号を求めた」、同じく宋書451年条の「倭国王済が倭、新羅など六國諸軍事に叙せられた」とあるから、中国は倭国に新羅の支配を認めている。
●105 「二つの百済」の検証
百済の建国譚は三国史記と中国史書で異なっている。
三国史記
「BC18年、高句麗の始祖朱蒙(しゅもう)の庶子温祚(おんそ)が南韓の馬韓の地に百済を建国した」
この百済を仮に「南百済」と呼ぶことにする。馬韓50余国(後漢書)の一つであろう(一説では伯済)。以後次第に馬韓を統一し、25代武寧王までで500年近くを記している。
一方中国史書では、
隋書百済伝
「東明(扶余の始祖、一説では高句麗の祖朱蒙(しゅもう)と同一視)の後、仇台なる者あり、始めて国を帯方の故地に立つ、漢の遼東太守公孫度(200年頃、半独立帯方郡太守)、女(むすめ)をこれの妻とさせた」
こちらの百済を仮に「北百済」と呼ぶことにする。単に建国譚の異伝ではなく、後述するように別の国であることがわかる。北百済と南百済がどのような関係だったか、隋書と同時代編纂の周書がそれを示唆している。
周書百済伝
「百済は、その先は蓋し馬韓の屬國、夫餘の別種なり、仇台なる者、國を帶方に始める」
中国史書の百済(北百済)は前述の「南百済」から出ている、とある。この頃の馬韓には「5代目肖古王の百済(南百済)」がある(三国史記)。この南百済の王族の一人が独立して同名の小分国を帯方に建てたのだろう。北百済はその後北方へ発展し、楽浪を領し、南朝に朝貢した。
晋書百済伝
372年「百済王余句を拝して鎮東将軍と為し楽浪太守を領せしむ」
楽浪太守に叙位されている。南朝の懐に飛び込んで南朝の藩屏としての道を選んだと思われる。しかし、427年に高句麗が楽浪近くの平壌に都を移したから、北百済は楽浪太守を守れず帯方に南下し、更に高句麗に圧迫された(南斉書)。北百済はついに高句麗を背後から牽制してもらうべく北魏に泣きついた。
北魏書百済伝
「472年、王余慶始めて遣使上表して曰く、高句麗が道を阻んで臣としての意を伝えられない」
これまで北百済は南朝に朝貢してきが、北朝の北魏に初めて朝貢している。しかし、北魏は動かず高句麗は南下を続けた。北百済は更に追われてついに海を北上して遼西(渤海に注ぐ遼河の西)に遷都した。この地は遼西にあった北百済の飛び地である。
宋書百済伝
「百済国、本(もと、宋以前には)高驪とともに遼東の東千里にあり。(宋時代420〜479年には)高驪は遼東を略有し、百済は遼西を略有す。百済の治する(都する)所はこれを晋平郡晋平県と謂う」
遼西に遷った北百済は、今度は北魏と攻防することになる(南斉書、488年)。強かった北百済も、西の北魏と東の高句麗に挟撃され、海を渡って再び南韓に逃げた。
梁書百済伝
502年「號を征東將軍に進めたが、高句驪の破る所、衰弱は累年、南韓地に遷居す」
これが北百済に関する中国史書の最後の記述である。
一方この間、「南百済」は倭国に恫喝されて王を交代させられたり(390年頃、応神紀、前述)、倭国と高句麗に属民にされたりした(400年頃、広開土王碑)。475年には高句麗に漢城を落とされ21代蓋鹵王(がいろおう)は殺された。子の文周王(22代)は南に逃れて久麻那利(熊津)を都とした(三国史記)。
●106 南北百済の合体 (検証のつづき)
北百済が南韓地に遷居した502年には南韓百済には武寧王(25代)がいる。又しても二つの百済は南韓で並存したのだろうか。この疑問は以下の解釈で解決される。前述したように、武寧王以降中国史書・日本書記・三国史記の記録は概ね一致する。即ち各書の記載する王名は、
中国史書(余隆・余明(隆の子とも)・余昌・余宣・余璋・義慈)
日本書紀(斯麻(武寧とも)・聖明(明王とも)・昌(威徳とも)・義慈)
三国史記(武寧・聖・威徳・恵・法・武・義慈)
ここで、余隆、斯麻、武寧は武寧陵発見(1971)の発掘墓誌から同一人物であることが証明されている(生年・没年・軍号の一致など)。武寧王は南百済の王統である(日本書紀・三国史記に詳記)。しかし、北百済の冊封体制を引き継いで中国に朝貢している。
梁書百済伝
521年「王の余隆(武寧王)が再び遣使を以て奉表し、『度々高句麗に破られたが今通好を始める』と称した。而して百済は改めて強国となる。その年、高祖は詔に曰く、、、百済王の余隆を、、、宜しく旧の章程に従い、、、都督百済諸軍事、寧東大將軍、百済王とすべし」。
ここで、502年に北百済が高句麗に破られ南韓に遷居して以来19年間途絶えていた百済(北百済)の朝貢を百済(南百済)の武寧王が再開したので「再び」「旧の章程に従い」と言っている。この時、武寧王は北百済の王の姓(余、例えば北百済の王は余暉・余映・余毗・余慶など)を名乗って余隆として朝貢している。以上から、北百済は南百済と合体したと考えられる。
●107 「二つの百済」の実態 筆者推測
合体前の両者の関係はよくわからない。以下は筆者解釈の試案である。
遼西に流れて来た漢王族(呉太伯の後)がその地の扶余族の一部を引き連れて馬韓に百済を建国した(周書、第一章「倭人は呉の太伯の後裔か?」参照)。南を指向して次第に馬韓を統一していった。一方、王族の一人は北を指向して帯方に分国を建てた(200年頃)。義父の縁でいち早く中国に朝貢して「百済王」に叙せられた。一時遼西に遷都して呉を自称するなど、呉の末裔の意識があったようだ(次章「遼西呉国」参照)。以後国際的には北百済は百済の宗国。元の百済(南百済)はその一部だが百済王族の宗家として独立的に新羅・倭国と交流したようだ。ただ、扶余の別種として高句麗や北百済に対しては引け目の意識があったようだ。それぞれに盛衰があり、両百済が衝突することは無かった。むしろ、交易などで交流が深かったようだ(次章参照)。倭国/日本が交流した百済は弱い南百済(神功紀)と合体後の強い百済(南百済系)だ(継体紀以降)。合体後の百済(南百済系)の歴史書(百済三書)には合体前について南百済の王統と事績しか載せていない(北百済不記載)。ただ中国への朝貢記事は説明なしで記載している(北百済不説明)。その結果、朝貢は南百済の事績と誤読されている。
(最近の更新 2014.8 「二つの呉」追加 2012.2 再編と追加)
本章の要旨
日本書紀の「百済史書引用文」を根拠に、「倭国は大和朝廷だ」とする定説に対して、「同じ文章が『大倭≠日本』『倭国天王≠日本天皇』であることを明記している」とする説を確認した。更に「宋書の倭の五王」の分析から「倭王武は衰退の王」であり、日本書紀の示す「隆々たる雄略天皇」ではあり得ないと解釈される。
倭国と日本の関係は共にアマテラスを祀る対等的友邦であるとともに、倭国を宗主国とする倭諸国の筆頭として「倭国≧日本」と表現されるような関係と考える。
「獲加多支鹵(わかたける)大王」の銘のある鉄剣が熊本県の江田船山古墳と埼玉県の稲荷山古墳から出土し「列島の統一状況の証」とされ、その統一王が雄略天皇か倭王武かで論争がある。しかし「倭国王が支配する九州の中に、雄略天皇の将軍の墓が存在する十分な理由がある。日本貴国の後裔である筑紫君が鍵」との解釈を提案する。
●108 倭の五王
倭国は百済・新羅の実効支配に成功し、列島統一も完了させると(前章)、倭国はそれを国際社会に認めてもらおうと、中国に遣使して承認を求めた。中国正史である晋書〜宋書
[1] の中に「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)に関する記述がある。初出の倭王讃については、
晋書東夷伝 「413年、晋安帝の時、倭王讃有り、遣使朝貢す [2] 」
宋書夷蛮伝 「421年、倭讃が宋の武帝に遣使修貢した。425年、讃が司馬曹達を遣使した」
とあり、前後数回遣使朝貢したが後代の様な「倭・百済・新羅の軍事権承認の要求」「倭国王叙位の要求」が無い。承認の見込みがまだなかったのだろう。自称も「倭王」である。
次に、倭王珍について。
宋書夷蛮伝 「425年、倭讃が死に、弟珍が立ち、遣使貢獻、、、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭国王を自称し、除正を求めた。安東將軍、倭国王に叙す」
讃の弟珍の代で「倭国王」を自称し、初めて「倭国王」叙位を得た。百済・新羅を押さえ、初めて倭国を統一したと認められたのだ。以来、歴代の済・興も「倭国王」に叙された。軍事権については要求の一部だけが認められた。
宋書夷蛮伝 「443年、倭国王済が遣使奉献。安東将軍・倭国王となす。
451年、加えて使持節、、、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東將軍とす。済死、世子興遣使貢獻。
462年、倭王世子興を安東将軍・倭国王とすべし」
特に、倭王済は「倭国王」「倭・新羅その他の軍事権」を認められている。百済が除外されているのは、百済が倭国に先んじて宋に朝貢していたためといわれる。済の次に興も「倭国王」を認められている。
興の次に倭王武が立ち、上表文(後述)を奉じたとある。
宋書夷蛮伝 462年(つづき)「興死す(477年か?)。弟の武が立ち、使持節、都督、倭、百済、新羅、、、七國諸軍事、安東大將軍、倭国王を自称。
478年、武が遣使上表して曰く、、、(上表文略 後掲)、武を使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王に叙す」
[1]
「 宋書」 503年沈約によって完成。宋は479年までだから、同時代的史書。
[2]
「倭讃」
倭の五王の初出。倭は姓、讃は名と言われる。冊封体制を意味する「貢」の文字があるのに、見返りの叙位は未だ無い。「百済王」がすでに「鎮東大将軍」に任じられた時代(武帝紀)であるから、出遅れの感が強い。
●117 「二文同一」の検証と「大倭≠日本」の証明
上述したように雄略紀五年条の「二文同一」を根拠として「大倭=日本」が定説化されつつある。しかし、この条文それ自体が「二文は同一ではない」こと、従って定説とは逆の「大倭≠日本」を証明している、と坂田隆が著書「日本の国号」 [8] の中で展開している。もっと広く認識されるべき、極めて重要な史料解釈なので紹介する。
結論を先に記すと、「蓋歯王・昆支君(=加須利君)・軍君は三兄弟」という、新たな発見とその展開だ。その根拠は
武烈紀四年条
「百済新撰に云う、、、武寧王立つ斯麻王と諱(い)う。是れ混攴王子の子なり」(前掲)
にある。即ち、これと先の二文を合わせ読むと(下線部)、
雄略紀
┏兄 加須利君 ━ 嶋君(=嶋王=武寧王)
┗弟 軍君 日本の天皇に仕える
百済新撰
┏兄 蓋鹵王
┗弟 昆攴君(=混攴王子)━ 武寧王=斯麻王(=嶋王)
大倭の天王に仕える
から「加須利君=昆攴君(=混攴王子)」が読めてくる。これは次のようにまとめられる。
┏兄 蓋鹵王
┣弟(次兄)昆攴君(=加須利君)━ 斯麻王(=嶋王)=武寧王
┃ 大倭の天王に仕える
┗末弟 軍君 日本の天皇に仕える
坂田の結論は「百済王は三兄弟だった。兄蓋鹵王は弟の昆支君を大倭の天王に仕えさせ、この昆支君(=加須利君)は末弟の軍君を日本の天皇に仕えさせた」と言う、極めて明快な記述、とする。すなわち、「大倭≠日本」であり、「天王≠天皇」だ。これは、日本書紀(引用の百済新撰を含む)だけで読み取れる論理であって「推測」ではない。
これによって「大倭≠日本」と断定できる。「仮定」として検証を進めてきたが、ここで「史実」と確認できた。
[8]
「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993 年
●123 宋書「倭王武の上表文」は百済の模倣
倭王珍が列島を統一して、倭・百済・新羅の支配権承認を求めて倭国王に叙せられたが、この間の倭国側の生の声として、宋書の中に倭王武の上表文がある。宋最後の皇帝8代順帝に送ったみごとな駢儷体(べんれいたい)の格調高い漢文で、人の心を打つ堂々たる内容で書かれている上表文だ。宋書編者がながながと引用していることがそれを示している。少し長いがここで引用する。
宋書倭国伝478年条
「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬(みずから)甲冑を撰(つらぬ)き、山川を践渉し、寧処(ねいしょ)に蓬(いとま)あらず。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平ぐること95国。王道融泰にして、土を廓き畿を遽にす。
累葉朝宗(毎年朝貢して)して歳に葱(おこた)らず。臣、下愚なりと雖も、添(かたじけ)なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極(宋皇帝)に帰崇し、道百済を遥て、船筋を装治す。しかるに句騨(高句麗)無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷(へんれい)を掠抄(りゃくしょう)し、慶劉して已(や)まず。毎(つね)に稽滞(けいたい)を致し、以て良風を失い、路に進むと日(い)ども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に憲讐の天路を塞塞するを葱り、控弦百万、義声に感激し、方まさ)に大挙せんと欲しせしも、奄(にわ)かに父兄を喪い、垂成の功をして一管(後ひと息)を獲ざらしむ。居(むな)しく諒闇(喪中)にあり、兵甲を動かさず。ここを以て僅息し(息をひそめ)て未だ捷(か)たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎責文武功を効し、自刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆載を以て、この彊敵を擢(くじ)き克く方難を靖(やす)んぜば、前功を替えることなけん。窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は仮授して、以て忠節を勧む」と。(順帝)詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す」
まず、両国の歴史的な背景から説き起こし、感謝の念を表明している。続いて現在、自らの置かれている困難な状況を説明した上で、それを克服する熱意を披瀝し、位をくれればより忠節を励む、という条件を明らかにして、叙称を丁寧にお願いしている。調和の取れた立派な国書である。また、これは倭国統一について倭国側から述べられた唯一の資料だ。その記述内容から、東に西に征戦を繰り返したがそれはすでに完了し、行政体制を整え(開府)、上下を整え(仮授)、列島を統一した過程が十分推測される。倭王武が「隆々たる大王」として雄略天皇[13] に比定される所以だ。
しかし、「統一を失った衰退の倭王」の上表文として読むと、これは「高句麗が侵略して困る。なんとかしてくれ」という泣き言にもみえる。実は、百済王も同様の堂々たる上表文(400字超)を先行して北朝の北魏に出していて(472年)、北魏書に引用されている。内容も「高句麗が道を阻んで臣としての意を伝えられない」というものだ。それに対して北魏献文帝は「表を得て之を聞く、、、魏の門に誠を持って帰(順)する、欣嘉(朕の)意に至る」と詔している。
百済と北魏の間を高句麗が阻んでいるのは事実だ(百済上表文)。しかし、倭国と宋の間には百済・高句麗・北魏があり、高句麗だけが阻んでいる訳ではない。高句麗だけを持ち出すのは百済上表文の模倣であると看做され易い。実際、遣宋使はより近い海路を取り、高句麗・北魏を通る陸路でなかったと考えられている。
武の上表の翌年479年、南朝宋は滅亡した。いち早く北朝朝貢に転換した百済に比べると倭王武の上表文(478年)は史料として貴重ながら国際感覚が遅れている。「倭王武は衰退の原因を南朝と共有していた」と思いたくなる状況である。
[13]
「雄略天皇」 大王と称し(熊本江田船山古墳鉄剣銘・埼玉稲荷山古墳鉄剣銘)、暦を新たにし(中国元嘉歴)、万葉集の冒頭歌を恋歌で飾り、半島に派兵(日本書紀)を行う隆々たる英雄であった。
●129 雄略紀「呉国遣使」は倭国遣宋使の随行使か?
倭国と雄略朝は友邦国だった例として、漢人技工の招聘事業に於ける両者の協力を挙げる。雄略紀には呉国との交流譚が多い。
雄略紀
462年「呉国が遣使貢献した」
464年「身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉国に遣わす」
466年「身狭村主青等、呉の献ずる二羽の鵝(が、がちょう)をもって筑紫に到る」
468年「身狭村主青と檜隈民使博徳を呉に使わす」
470年「身狭村主青等、呉国使と共に呉の献ずる手末の才伎、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等をひきいて住吉津に泊まる」
ここで、「呉国」は定説・九州王朝説とも「呉=南朝宋」とする。定説では「雄略紀462年条の虚勢的表現(宋が大和に朝貢)は別として内容は宋への朝貢使記録譚であって、宋書倭の五王の記録とよく対応する。雄略天皇=倭国王の証拠」としている。一方、九州王朝説では「呉=南朝宋に朝貢したのは倭国王。倭王興は462年に倭国王に叙せられている(前述)。その伝達使の記事(462年条)、それに続く答礼使(464年条)、答礼使の帰国記事(466年条)、これらすべてを雄略紀は盗用している」と解釈する。
しかし、「これらは倭国の遣宋使に随行した雄略朝の事績で、雄略紀は史実」という解釈もありうる。その根拠は、
(1) 雄略朝の漢人技工招聘譚は上述のように詳細に亘り、史実と考えられる(特に470年条)。
(2) 当時「漢人の招聘」で倭国と雄略朝は協力していた。
雄略紀
「百済の献上した手末才伎が大嶋に来た、、、倭国の吾礪(あと、遠賀川阿斗?)に安置す、、、天皇、大伴大連室屋に詔して東漢直掬(つか=阿知使主の子、都加(つか)使主)に命じて新漢(今来(いまき)の漢人)の陶部、、、等を上桃原、下桃原、真神原の三所に遷し居らしむ」
ここで上桃原、下桃原、真神原は肥前の倭国領である(九州倭国豪族領であることも含む。のちに継体領を経て蘇我領となる、第八章「近畿飛鳥」と「肥前飛鳥」の項参照)。すなわち、雄略朝は今来の漢人を東漢(肥前飛鳥の漢人居住地、倭国領)に住まわせている。その後、雄略紀470年条のように漢人技工を摂津難波に連れてきている。倭国の協力があったか、むしろ倭国主体の漢人招聘事業に雄略朝も便乗したと考えられる。
(3) 雄略朝が単独で遣呉使=遣宋使を送ったとは考えられない(468年条)。宋に朝貢する宗主国倭国がありながら、単独で宋と交流することは通常ありえない。外交ではなく交易なら単独もあり得るが、倭国がしばしば遣宋使を送っている時期である。海難リスクが高いことを考えると雄略朝の遣宋使とは倭国の遣宋使への随行使である可能性はある。
(4) 「随行使」の別の根拠は、倭国は外交を握り中国に遣使する時倭諸国の使を随行させた例が以下のように少なくないからだ(私見を含む)。
266年、倭国台与の遣晋使には「朝貢していない国の倭人」が随行したと思われる(第二章参照)。
464年、468年の倭国遣宋使に随行した雄略朝の使(上述)。
607年、俀(たい、イ妥=倭)国遣隋使に随行した推古朝の小野妹子(第七章参照)。
631年、654年の倭国遣唐使に随行した孝徳朝の使(新唐書日本伝、第八章参照)
以上、少なくも倭国と雄略朝は漢人技工招聘事業で協力している。それを雄略朝は「倭国の遣宋使への随行使」という形で実現した可能性はある。
●140 反乱した「筑紫君磐井」は大和系九州豪族である(2014.9 更新 2012.1 加筆)
「倭国王=磐井」(九州王朝説)には難がある。その根拠(1)〜(11)を示した上で筆者新解釈を示す。
(1) 九州王朝説の「筑紫君=倭国王」は正しくない。少し時代は下がるが(70年後)、「隋書俀(イ妥)国伝」の一節に「竹斯(ちくし)国 [3] は俀(イ妥)国(倭国)に附庸す」とある様に、「筑紫国≠倭国」である。従って筑紫君磐井は倭国王でない。
(2)倭国王家の祖は天孫系、その先はアマテラス、その先は海原倭人と考える。一方、筑紫君の祖は大彦命、その先は半島系、その先は中国系と考える。即ち、
孝元紀(欠史八代)
「大彦命、、、筑紫国造、越国造、、、凡そ七族の始祖なり」
崇神紀
「大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西道へ、丹波道主命を丹波へ遣わす、将軍の為に印綬を授く(四道将軍)」
大彦は神武系に仕えた後、崇神天皇の四道将軍の一人として北陸越の国を平定した。ここには宿禰系(漢人系新羅人多羅人)が多い。大彦自身が宿禰系かタラシ系、少なくも渡来系だろう。その一族武内宿禰らは神功皇后(宿禰系)・仲哀天皇(タラシ系)の下で筑紫で熊襲征伐・日本貴国の建国に携わった。そして、神功皇后が近畿に帰還した後も一部は残って筑紫(筑後)の豪族となったようだ。それが筑紫君(筑紫国造)だろう。「七族」とあるように、官位ではなく氏族名だ。大彦を祖としている。むろん「倭国王≠筑紫君」だ。
(3)「筑紫君」は行政職ではなく、世襲的権威の名であろう。筑紫君といっても筑紫全土を支配していたのではなく、豊前・肥前・肥後・筑後に点在する領地を持って倭国王家に仕えていた豪族だろう(特徴的な石像の分布などから、(5)項参照)。後世の区画に従えば「筑後君」であって倭国王が拠点とした「筑前」ではない。磐井についての詳記が「筑後国風土記」にあるからだ。倭国に協力した日本貴国(神功・応神・仁徳)を支えた氏族として、倭国内で相応の権威を維持していたと考える。公式には当然「倭国王>筑紫君磐井」が正しい。
(4) なぜ格下の筑紫君磐井が倭国王に反逆したのだろうか。 倭国王家の力は南朝の冊封体制で叙位された国際的な外交力と権威だった。その南朝が衰微し、衰微する南朝からすら「衰退の倭王」の烙印を押され(前章)、その権威は冊封体制離脱で完全に失われた。では、実力ではどうか。倭国王家は筑前を中心にしながら各地に多くの領地を持っていたと想像されるが、実力では各地に同族(七族)を持つ筑紫君の方が豊かだったかもしれない。その根拠は筑紫君磐井の寿墓(生前築造)とされる岩戸山古墳が九州最大で豊富な宝物を副葬しているからだ。この繁栄は律令制と関係があるかもしれない。
(5) 岩戸山古墳(筑後)にある衛頭(がとう、政所)という別区(べっく)に様々な石像物が立てられて「裁判の様子を模している」という。磐井は律令・司法に関心を持っていることを示している。
九州王朝説ではこれを根拠に「磐井は政所で律令・司法を発令した当人。律令を発令できるのは宋から叙位された倭国王だ。従って筑紫君磐井は倭国王。磐井はそれを誇りとして自ら寿墓に残した。」としている。
(6) 磐井は中国東北部出身の宿禰系と近い大彦の子孫であるから北朝に親近感をもつはずだ。当時北魏の一部になっていた遼西呉国とも交流があったと思われる。その根拠は筑紫君と雄略朝とは近い関係があり、その雄略朝は百済を通じ、あるいは直接遼西の呉国に遣使していた(前章「二つの呉」)。筑紫君磐井も同様に遼西呉国を通じて北朝の情報を得ていた可能性がある。北魏は均田制などで先行しており、磐井は律令制の情報を北魏から相当得ていたのではないだろうか。衛頭の律令は南朝系でなく、北朝系をとりいれた可能性もあるだろう。
(7) 磐井は倭国王に「滅亡した宋の代わりに北魏へ朝貢すべき。律令を導入するなら南朝よりは北魏から」と強く進言したのではないか。しかし、倭国王は頑なにそれを拒んだ。権威が失われ、実力も豪族頼み、改革も仏教も先進的となった北魏にそっぽを向く、そんな倭国を見限り、磐井は継体の味方も期待して「今立てば倭国王家に代わって列島主導権を握れる。」と見て反乱となったのではないだろうか。
(8) 筑紫君磐井は「日本貴国将軍の後裔」、継体天皇も「日本貴国王後裔」(応神天皇五世)だから、手を組む素地があったとも考えられる。磐井は継体が同盟すると期待したかもしれない。しかし「継体軍は当初様子見だったが、ある時点で突然(予定通り)倭国王家側に立った」それが筑後国風土記逸文の表現「俄かにして官軍(継体軍と倭諸国の連合軍)動発おこりて襲わんとする」という表現になった、とも考えられる(前注 [2] )。五世前の応神天皇は武内宿禰(大彦の一族とされる、記紀)を貴国から追い出した(第四章、応神紀389年)。継体天皇(応神五世)はその故事に倣(なら)って大彦の末裔である磐井を討ったのかもしれない。
(9)継体天皇の言葉は「列島東西分割支配」ではなく「奪った磐井領の東西分割支配」と考える。「長門以東(の磐井領(と同族の大彦七族の領))は朕之を制す。筑紫以西(の磐井領)は汝之制せよ、、、」と括弧を補って解釈すべきだ。その根拠は、これ以後の大和王権の屯倉設置が九州のみならず、短期に播磨〜尾張、駿河にまで拡大されているから、長門以東とはそれら磐井領/大彦七族領を指したと考えられるからだ。そして、東西の分け方は「継体の祖応神天皇の『西の日本貴国』と仁徳天皇の支配した『東の日本』(近畿東国)」を踏まえた表現であろう。
(10) ただ、「継体天皇は大彦七族を滅ぼしたのではなく、屯倉を差し出させた」あたりが妥当な推測だろう。その理由は、孝元紀に「七族の祖なり」とあり、日本書紀編纂時に七族が存続していることが示唆されているからだ。確かに、筑紫君すら完全に滅ぼされたのでなく天智紀に「筑紫君薩野間」が出てくる。倭国不記載の原則の中で、倭国臣下の筑紫君を記すのは「日本貴国の末裔として特別扱い」だからだろう。筑紫君磐井を記しているのも同じ理由が考えられる。
(11) もし、九州王朝説「筑紫君磐井=倭国王磐井」が正しいとしたら、日本書紀は「倭国不記載」の原則をここだけは明白に例外としていることになる。ここで倭国王をこれだけ明白に記述するなら、なぜ他を不記載とするのか。九州王朝説「筑紫君磐井=倭国王」説の消えぬ矛盾だ。
●145 倭国の半島撤退
滅亡はしなかったが倭国にとって「磐井の乱」は衝撃だったに違いない。これを境に倭国は半島征戦を麁鹿火に委ね、足元の内政重視へ転換したようだ(隋書 に「兵有りと雖(いえど)も征戦なし」とある(次章参照)。
倭国/日本(大和)の連携が崩れたことで加羅(から)諸国は連合体制を強めて新羅に対抗しようとしたが、この混乱を巧みに利用して新羅は勢力を広げ、532年(金)海加羅を併合し、562年には残りの加羅諸国を併合した。
三国史記 新羅(つづき)
532年「金官国王が財宝と家族と共に来降し国王の末子が新羅に仕える(金官は伽耶連盟の盟主との説も)」
536年「初めて年号を用いる(建元元年 南朝年号からの離脱)」
物部麁鹿火は磐井の乱の後、半島戦略の倭諸国軍司令将軍となったと思われる。まず毛野臣を朝鮮半島南部に遺わし、朝鮮半島の支配者が倭国から物部麁鹿火に代わったことを告げさせようとした。しかし倭国王が派遣していた任那日本府(倭国府?)の官吏は毛野臣が任那日本府に入ることを拒否した。毛野臣は役目を果たすことができずに帰国する途中で死去する。物部麁鹿火の朝鮮半島戦略は早々に失敗に終わる。その後欽明朝は百済の力を借りて朝鮮半島を支配しようとする。「任那復興」である(後述)。
●146 大和王権の九州遷都 (2012.3 追加)
27代安閑天皇(528-535記崩年)は、磐井の乱の後に継体天皇が崩じたので継体の長子として即位した(継体の記崩年527年)。上述のように麁鹿火は任那奪回に失敗したが、九州の筑紫君磐井の所領を着々収奪して大和王権の屯倉とした。
安閑紀535年
「筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉、豊国の膜碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉.大抜屯倉・我鹿屯倉、火国の春日部屯倉、、、(以下播磨・備後・阿波・紀・丹波・近江・尾張・上毛野・駿河の各国内に1〜2の屯倉列記)を設けた」
九州では豊国が主である。豊国は応神天皇の本拠だったから(後述)こだわりがあったかもしれない。磐井の本拠地と思われる肥前・筑後は主として倭国王家自身、あるいは九州物部氏・蘇我氏が収奪を進めたのだろう。一方、安閑紀の新設屯倉が九州のみならず列島各地に及んでいることは、筑紫君所領が列島各地にあった可能性を示すが、筑紫君の同族(大彦を祖とする越国造など七族、孝元紀)に屯倉を差し出させたのかもしれない。
更に、安閑天皇は九州年号とは別の年号を建てたようだ[5]。この年、前述した「日本天皇一族崩薨」の事件があり、翌年を「治天下元年」とした。いずれも物部麁鹿火が「大和王権」を押し立てて倭国に並ぼうと剛腕を奮ったようだ。
安閑天皇はこのころ遷都している。
安閑紀534年
「大倭国の勾金橋(まがりのかなはし)に遷都す、因りて宮号と為す」
「大倭国」は雄略紀にあるように九州倭国の自称国名である。勾金橋は豊前勾金(現福岡県田川郡香春町勾金)か。その根拠は安閑紀に「豊国に最多の屯倉を得た」とある(安閑紀、上掲、次節以下で検証)。勾金のある香春町には「河内王の墓」があり宮内庁管理、安閑天皇陵との伝承もあるというが、円墳だからこれは誤伝だろう。
「大和王権が九州倭国に遷都」と記している。事実なら重大事績だが、従来説でも九州王朝説でも体系的に検証されてこなかった。ここを見過ごすと、その後の状況がまるで判らなくなる。そこでまず、この遷都が少なくも九州である根拠を次節以下で検証する。
[5] 九州年号とは別の年号 九州年号の「殷到(531-535)・僧聴(536-540)・明要(541-551)」とは別の「定和(531−537)・常色(538-543)・教知(544-548))で、一書「和漢年契」のみにある。この時期、倭国の九州年号以外に年号を立てられるのは「治天下」(532年〜538年〜)を唱えた大和王権しかない。ただし、大和天皇の即位年と連動していない。さりとて、麁鹿火の没年(356年)とも連動していない。
●147 安閑天皇の二妃の屯倉は後に蘇我氏の本拠「肥前」 論証
安閑天皇は遷都すると大和の皇后(仁賢天皇の女(むすめ))とは別に三妃を立てたという。三妃とは許勢男人大臣(こせのおひと)の女紗手媛(さてひめ)、その妹香香有媛(かかりひめ)、物部木蓮子(いたび、河内物部氏系か)大連の女宅媛(やかひめ)らで、それぞれに屯倉を与えた、という。
安閑紀534年
「大伴大連金村、奏して、、、小墾田(おはりだ)屯倉と国毎の田部とを以て紗手媛に、桜井屯倉と国毎の山部とを以て香香有媛に、難波屯倉と郡毎のくわよぼろ(田部?)を宅媛に給う」
ここで、二妃の小墾田・桜井の比定地を検討する(難波屯倉については後述)。紗手媛に与えられた小墾田は次の史料から「向原(むくはら)」に近い。
欽明紀552年
「百済聖明王、、、釈迦仏金銅像一躯を献ず、、、(天皇)(蘇我)稲目宿禰に試みに礼拝せしむ。大臣跪いて受け、悦んで小墾田家に安置す、、、向原の家を寺と為す」
552年頃、小墾田・向原・向原寺は近くにあり共に蘇我稲目の本拠地になっている。
一方、以下の史料から「香香有媛に与えられた桜井は後の崇峻紀にある桜井寺の地と考えられ、桜井寺は別名向原寺・豊浦寺といわれ、向原にあった蘇我馬子の本拠に近い」とわかる。
崇峻紀590年
「(蘇我馬子が遣わした)学問尼善信等、百済より還る、桜井寺に住む」
元興寺縁起「牟久原(むくはら)殿を、、、桜井道場に作る」
大和志(江戸時代)
「桜井寺は別名向原寺・豊浦寺である」
桜井・向原・豊浦は同じ地域内と考えられる。「蘇我蝦夷が豊浦大臣と呼ばれた」(斉明紀)と合わせ考えると、これらの地名は蘇我氏の本拠となっている。
続日本紀751年「雀部(ささきべ)朝臣真人等言う、磐余玉穂宮(継体天皇)・勾金椅宮(安閑天皇)御宇大皇の御世、雀部朝臣男人は大臣となり、供え奉(たてまつ)る、而るに誤りて巨勢男人臣と記す、、、望み請う、巨勢大臣を改めて雀部大臣と為し、名を長き代に流(つた)え、栄えを後胤に示すことを、という、大納言従二位巨勢朝臣、、、その事を証明す」
また、継体紀529年に「巨勢男人大臣薨ず」とあり、安閑天皇(534-)に仕えた雀部男人は別人であろう。雀部は肥前の豪族と見られる。
●148 蘇我氏本拠は肥前
では、蘇我氏の本拠はどこにあったか。以下の文献からそれがわかる。
崇峻紀591年
「紀の男麻呂宿禰、巨勢の巨比良夫、、、葛城の烏奈良臣を大将軍とし、二万餘の軍を領(ひき)いて筑紫に出て居す」
崇峻紀592年
「(蘇我)馬子、、、天皇(崇峻)を弑(しい)す、、、駅馬(はゆま)を筑紫の将軍に遣わし内乱により外事を怠るなかれ、という」
後述するように、これらの事件は上宮王(倭国王家中枢の王族)の独立を支援する蘇我馬子の軍事行動である。
591年条から、その地域とは「紀」「巨勢」「葛城」の地名のあるところだろう。九州でこれらの地名を持つ候補は肥前基肄郡基肄(きい)・肥前佐嘉郡巨勢・肥前三根郡葛木である(いずれも明治期肥前地名)。
592年条から、「蘇我馬子の本拠は筑紫以外の九州」と考えられる。その根拠は「馬子が崇峻天皇を殺し(後述)、筑紫に居す将軍に陸路駅馬を派遣できる地域は筑紫以外の九州内」だからである(592年条)。
以上から、「蘇我馬子の本拠は肥前」が解る。
●152 欽明天皇 (2012.3 追加)
29代欽明天皇(539−571年)は継体天皇の嫡子、大臣は大伴金村大連・物部尾輿大連((4)項参照)・蘇我稲目宿禰大臣とされる(欽明紀任命記事)。欽明紀は複雑である。
(1)欽明天皇は大和の継体天皇の嫡子として大和磯城島金刺宮で即位したという。その後、難波祝津宮(なにわのはふりつのみや、九州)に御幸している。九州所領が着々増え、活動の比重が高まったから仮宮をつくり御幸したのだろう。この大和と九州の二面性が史家を惑わせてきた。
(2)倭国は半島経略を放棄した(兵有りといえども征戦なし、隋書)、というより歴史の流れを視て役割を大和に押し付けた。倭国に代わって半島経略に注力したのは大和王権、即ち継体/物部麁鹿火〜欽明天皇である。欽明天皇の登場する舞台は九州が多い。
(3)欽明朝の主要大臣は大伴金村大連(河内、後に博多)・物部尾輿大連(没した麁鹿火の代わり、筑紫鞍手郡)・蘇我稲目宿禰大臣(本拠は肥前小墾田)とされる。大伴金村は欽明が筑紫に遷った直後に任那問題で失脚している。欽明紀の大半は任那復興活動であるが、効果はなかったようだ。後半の記述は「排仏派と崇仏派の論争」が主であり、後述するように倭国朝廷内の論争である。
(4)「物部尾輿は倭国朝廷の大連」を示唆する記述がある。安閑紀のある盗難事件譚に「大臣任命記事が無いのに物部尾輿が大連として登場する」(安閑紀元年534年、尾輿の初出)。即ち物部尾輿は「大和朝廷大連として登場する前に別の朝廷の大連、即ち倭国朝廷の大連であった」と解される。
(5)「倭国朝廷の大臣尾輿」が「宣化・欽明朝廷の大臣に任命」では格下げを意味する。尾輿の活躍からは考えにくく、兼務か。それよりは別の解釈「欽明天皇は尾輿大臣のいる倭国朝廷に参画した」とする方が整合性が高い。即ち「宗主国である倭国朝廷には必要に応じて倭諸国の王又は将軍が参画した」という常識的な理解である。欽明天皇(大王)の九州滞在を考慮すると、欽明天皇は自分の九州仮宮で自分(大王)の朝廷(遠征軍の政事体制)を持つ一方、必要に応じて倭国(天王)朝廷に参画した可能性が高い。「倭国は宗主国、大和は倭諸国の筆頭、欽明天皇は百済任那問題を任された倭諸国軍の代表、という立場」と解される。
欽明朝は「磐井の乱後、大和が九州に拠点と所領を得て拡大する好機」を持ったが、大和以来の大臣が居なくなり「九州に比重を高めた結果、倭国に取り込まれてしまう危うさ」を持っていた(次章参照)。
●153 仏教伝来 三種類の伝来 (2012.4 追加 )
欽明紀〜敏達紀には仏教論争譚が多い。これを正しく理解することは、倭国と大和の関係を理解する上で極めて重要である。従来、仏教伝来の年次については三候補あり、どれが真かで議論されてきた。
@ 定説では欽明紀552年に「百済王からの仏像・経典などの贈り物に欽明天皇が『これほどの妙法は聞いたことが無い』と歓喜踊躍した」とあるのが「仏教公伝」とされている。「公伝」とするのは「それ以前にも私的な導入はあったかもしれない」と、別説に対抗する予防線を張っている。
A 別説とは「元興寺縁起538年条に『仏法創めて渡る』とある」とするものだが、後世の加筆などあるようで、信頼性で疑問がある、とされている。
B 更に、「九州年号に『僧聴』(536年〜)があるから536年以前だ」とする説があるが、九州年号それ自身の後世偽作説があったりして議論が多い。
これら議論に対し、筆者は「三候補ともある意味で正しい。ただ内容と当事者が異なる」と解釈する。以下説明する。
(1) 仏教初伝は九州年号「僧聴」(536-549)以前と考えられる。九州年号は倭国の年号で、倭国は南朝に朝貢してきた。従って、この仏教は南朝仏教であろう。
(2) 倭国に北朝仏教が初伝したのは538年である。
元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳(再掲)
「大倭国仏法、創(はじ)めて、、、(宣化)天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰仕え奉るとき、治天下七年歳次干戊午(538年)十二月より度(わた)り来る、百済国聖明王の時、太子像並びに灌仏の器一具及び説仏起書一巻篋(はこ)を渡し、、、」
百済は472年以来北魏に朝貢しているから、その仏教は北朝仏教と考えられる。百済王が献上した仏像の贈り先「大倭国」は倭国自称名である(雄略紀に同じ、前章)。倭国には既に仏法が伝わっているから正しくは「北朝仏法初伝」であるが「創めて本当の仏法(北朝仏教)が渡った」という元興寺の立場の表現であろう。「(宣化)天皇の御世」とあるのは年次を表すだけで、内容は倭国朝廷の話である。蘇我稲目は倭国朝廷の大臣である。その根拠は、次項で解るようにこの時点では大和朝廷は仏法に関心を持ってはいない。宣化天皇はほとんど九州には来ず、物部麁鹿火後継者が代理として百済と交渉に当たり、百済王の贈り物を倭国王に仲介したのだろう(前々節参照)。
倭国王は南朝仏教は知っていたが、新興北朝仏教には慎重だったようだ。続く記述を要約すると、
元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳 つづき(要約)
「天皇が群臣に諮ったところ餘臣等神道派が反対し、独り蘇我稲目が勧めたので、天皇は試みとして稲目にだけ崇仏を許した。その後、排仏派物部氏らと崇仏派蘇我氏の論争が続く。稻目大臣が死去(570年)すると餘臣等は天皇の許しを得て堂舎を燒き、仏像・経教を難波江(筑前)に流した」
と続く。それを再興したのが元興寺だという。倭国内には南朝仏教派(衰退)・神道派(物部氏ら、勢力挽回)・蘇我稲目ら北朝仏教導入派(新興)があったと考えられる。
538年の時点で物部麁鹿火が百済仏教の仲介はしても、大和はまだ仏教に無関心だったようだ。一方、570年(仏像を難波江に流す)時点では次項のように大和は北朝仏教伝来・受入れ後だから、排仏派ではない。排仏を許したのは南朝仏教の倭国王である。従って、ここの「天皇」は倭国王のことである。上掲資材帳の「天皇」は日本書紀に合わせて書換えたものだろう、日本書紀と整合する。
(3) 大和朝廷に仏教(北朝仏教)が公伝したのは552年である。
欽明紀552年
「百済聖明王、、、釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干・経論若干巻を献ずる、、、天皇聞きおわり、歓喜踊躍す、使者に詔して云う、朕は昔より、未だ曾って是の如き微妙の法を聞くを得ず、、、然れども朕自ら決めず、すなわち群臣に歴問して曰く、、、蘇我大臣稲目宿禰奏して曰く、(以下崇仏論)、、、物部大連尾輿、中臣連鎌子、同じく奏して曰く、(以下排仏論)、、、天皇曰く、宜しく情願人稲目宿禰に付けて試しに礼拝せしむ」
敏達紀585年
「、、、この後国に疫気流行し、、、物部大連尾輿・中臣連鎌子、奏して曰く、、、天皇曰く、奏する通りにせよと、、、仏像を難波の堀江に流棄し、伽藍に火をかけた」
欽明天皇は任那再興を指揮するためしばしば九州に来た(例えば「難波祝津宮に幸す」欽明紀540年)。百済王の献上品(552年)は538年と違って欽明天皇宛であろう。欽明天皇は「歓喜踊躍」した。欽明天皇は仏教を大和に持ち帰っている。それが大和の仏教初伝と伝えられている。前掲文の前半「大和への仏教公伝は552年」は史実と考えられる。
(4) 欽明紀552年の後半「天皇が蘇我稲目に限って崇仏を許す(伽藍縁起では538年頃)」、敏達紀585年の「天皇は物部尾輿等の排仏上奏を許す(伽藍縁起では570年頃)」は前々項の伽藍縁起と同じで、倭国朝廷の事件である。「倭国朝廷内の蘇我氏(北朝仏教)・物部氏(神道)の主導権争いとその上にたつ倭国王(南朝仏教)の三つ巴の論争」と理解すると納得が行く。倭国王は南朝仏教派であって北朝仏教に「歓喜踊躍」するはずがない。後年(590年頃)の多利思北孤や上宮王ですら南朝仏教を支持し続けている(上宮王は後に北朝仏教に転向、第八章)。倭国は結局北朝仏教を受け入れなかったようだ。敏達紀の「天皇が蘇我稲目に限って崇仏を許す」「天皇は物部尾輿等の排仏上奏を許す」の「天皇」は「倭国王」と考えられる。このことが「蘇我稲目大臣、物部尾輿もまた倭国朝廷大臣」の傍証ともなっている。
(5) では、なぜ日本書紀は「倭国朝廷の仏教論争」を大和朝廷の論争のごとく記述しているのか。それは記述の目的が「仏教論争」ではなく、「物部氏・蘇我氏の争い」だからだ。この観点では「倭国王」と「大和天皇」は共通の立場だ。「物部氏の専横を阻止すべく蘇我氏を引き立てる倭国王」と、「倭国朝廷に参画した結果、河内物部氏(麁鹿火系)を九州物部氏(本流)に取り込まれて、対抗上蘇我氏に近づく大和天皇」の立場が近いため、倭国王と大和天皇が共闘している。「倭国朝廷群臣の物部守屋討伐に敏達の皇子達が参加」が具体例だ。さらにこれを伏線として「敏達・推古・孝徳王権を担ぐ蘇我氏の隆盛」(次章)へと続く。そこで倭国史料を一部流用して日本書紀に載せているようだ。捏造でも盗作でもない。ただ、「天王(倭国王)」と「天皇(または大王、大和)」を両方「天皇」と表記している。
日本書紀は「倭国不記載」を原則としている、と述べた。それにもかかわらずここだけ「天王(倭国王)」の言動が「天皇」として描かれている、とするのはご都合主義の解釈、と非難されそうだ。しかし、遠かった倭国朝廷と大和朝廷がこの時代にあまりに接近したため同一立場の問題に限って「倭国王」を「天皇」と表記して「倭国不記載」に目をつぶった日本書紀の苦肉の編集と思われ、安閑紀〜敏達紀で特に頻出する。これについては次章で詳述する。 「倭国不記載」は必然的に「九州物部氏不記載」を伴う。なぜ例外的に物部尾輿〜物部守屋が記載されているか、は同じ理由と考えられる。
●158 天王を天皇と表記
更に混乱する一因は敏達紀が「倭国王(天王)も大和天皇(大王)も同じ『天皇』と記している」にある、と考える(前章で触れた)。記紀は「倭国不記載」を原則としているから、本来は倭国王を記述しない。しかし、物部麁鹿火以降の大和天皇が九州で活躍し、倭国朝廷と近づいた結果、倭国王の記載を避けることができない場面が増した。そこで紀編者は「倭国王(天王)と大和天皇(大王)を同じ『天皇』と表記することによって、記載しながら記載していない形」を狙ったようだ。「天王・天皇・大王など王権クラスが複数並存したので『天皇』表記に統一した、と言い訳できる。これによって「倭国王=大和天皇、という誤読が生じるかもしれないが、そのような虚偽記載はしていない」と主張することもできる。雄略紀の「二文同一」も「並記はしたが、同一とは言っていない」と言い訳できる。誤読されるのは承知の上、「敏達紀だから『天皇』とあれば敏達天皇のこと」と思うのは読者の勝手、という立場だ。
このような編集が欽明紀(倭国大臣が登場)・敏達紀(守屋・馬子論争譚)・用明紀(同)・崇峻紀(倭国朝廷群臣による守屋征伐)と続く。建前上の主役は敏達・用明・崇峻だが、舞台は倭国朝廷である。この時期の記紀には大和天皇と倭国王(天皇)の両方の記事が混在している。例えば、立太子記事は欽明紀十五年(554年)と敏達前記568年(欽明二十九年)に二回記されている。敏達と倭国王の立太子記事の両方が混在しているようだ。
このような表記が無差別に、また日本書紀全般に現れる訳ではない。上記のような必要最小限であって、言い訳が用意出来る時に使われるようだ。
敏達紀を総括すると「大和大王(おおきみ)として即位した後、倭国朝廷の大臣物部守屋大連と蘇我馬子大臣が後見役となり『倭諸国筆頭の大和大王』として倭国朝廷に参画した。大和以来の大臣は居なくなり、大和王権は倭国朝廷に半ば取り込まれた」と解釈する。
●159 倭国と物部氏 (2014.9 加筆 2012.3 新)
物部氏は300〜400年間倭国王権に、支族は大和王権に臣従したと考えられる。第三章では「物部氏は高天原でニギハヤヒ・ホアカリ・ニニギなどアマテラス一族に臣従した氏族。何波かの天降りに従って各地に分かれたが、葦原中国の中心筑紫を継いだ九州倭国(ホアカリ系)の外戚となった九州物部氏が物部氏宗家となった」と推測した。主従の関係は力関係ではなく、歴史的に由来する決り事と考えられていたようだ。九州物部氏から仁徳と共に河内に分かれた物部麁鹿火は九州に戻って宗家の中でのし上がったが死没。物部麁鹿火の隆盛を引き継いだ物部尾輿が物部氏宗家当主になった。その後、倭国の本拠が遠賀川中流の鞍手に移動したのは、物部氏が外戚として倭国皇子を后妃の里に囲い込み、宮まで提供したからと、と解釈することができる。「百済肖古王から倭王に贈られた七支刀が物部氏神である石上神社に奉納されている」という史実は「物部系倭国王が王家と物部氏を同一視(公私混同)していた」という可能性すら示唆している。但し、これを「物部王権」とすることができないのは、物部守屋討伐譚(次節)が示している。臣下が一線を越えると王家・豪族が一致してこれを阻止している。
●160 物部守屋討伐事件 倭国王権の復活
物部守屋(筑紫難波)は物部尾輿の子で倭国の大連(上述した)。物部麁鹿火の成果を引き継いで勢力を拡大し、次第に倭国朝廷内で専横した。倭国王家がこれに反発した。崇峻紀587年に物部守屋討伐譚がある。
崇峻紀587年
「蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣に勧め、物部守屋大連を滅ぼすことを謀る、泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子蘇我馬子宿禰大臣、(他11群臣名列挙)、、、ともに軍兵を率い、、、」(再掲)
この事件によって物部守屋とその子らは殺された。従来、この事件は「物部氏と蘇我氏が大臣として張り合って、蘇我氏が競り勝った」と解釈されている。しかし、物部氏はその後も倭国王家大臣としての地位を保ち、蘇我系大臣が主流となることは無かった。物部氏に代わって実権を持ったのは蘇我氏ではなく、倭国王自身だった。このことは多利思北孤(600〜608年)の例から判る(隋書、次章で詳述する)。
倭国は大和の力を借りて磐井の乱を克服し、蘇我氏の力を借りて物部の力を減殺した。倭国王権は復活したようだ。
●161●161 大和王権(九州)のその後 用明・崇峻・推古 2013.7
敏達天皇の次、用明・崇峻・推古の各天皇は大和王権(九州)とはいえ、倭国大臣物部氏・蘇我氏の争いに翻弄され、傀儡化され、九州化されて、下記のように影が薄い。
(1) 物部氏と蘇我氏は用明天皇即位にも介入して争っている。例えば「蘇我系用明天皇即位後、穴穂部皇子が即位に異を唱え、物部守屋がこれを支持した」(用明紀)。更に、「物部守屋との対立で蘇我馬子が穴穂部皇子を殺した」(崇峻紀)、などがある。即ち、大和王権(九州)の継承問題に物部麁鹿火(大和大臣)の成果を引き継いだ物部氏が介入している。それでも蘇我氏が用明即位を主導できたのは、敏達の皇后が蘇我系の推古だから、と考えられる。
(2) 大和王権を傀儡化した蘇我氏は大和王統との関係が希薄な崇峻天皇を即位させ、その崇峻天皇を弑(しい)して代わりに蘇我系の推古を立てている。敏達天皇の継嗣の押坂彦人大兄皇子を差し置いて、である。
(3) 大和王権(九州)は相当九州化され、蘇我化されて大和の伝統が失われたことは否めない。例えば、用明〜孝徳の御陵は九州風の円墳・方墳で、敏達の前方後円墳と一線を画する(後述)。
(4) 後述するように、大和王権は推古天皇の時に大和へ帰還遷都するが、それが可能だったことは「大和王権(九州)が九州化され蘇我化されたとはいえ、大和の豪族たちが受け入れることできる王権、即ち大和王権であったこと」を示している。
●162 「法隆寺光背銘の上宮法皇=多利思北孤」説
次の4節は九州に創建された新しい王権「上宮王家」についてである。
法隆寺の釈迦三尊像は、聖徳太子を祀ったものと言われているが、その由来を記録した光背銘には、聖徳太子の事蹟と矛盾する内容があることが論議を呼んでいる[2] 。
法隆寺釈迦三尊像光背銘
「法興31年(621年)、鬼前太后崩ず、、、明年、、、上宮法皇枕病余(よ)からず 、、、干食王后仍(より)て以って勞疾並床に著く、、、仰いで三宝(さんぽう)に依り、当(まさ)に釈像を造るべし、、、2月21日、、、王后即世す、、、翌日法皇登遐(2月22日)す、、、(623年)釈迦尊像、、、敬造し竟(おわ)る、、、使司馬鞍首止利佛師造」
この著名な像は、法隆寺の移築再建時(708年移築か、七大寺年表)に移入安置されたと考えられるが(第十章参照)、聖徳太子のために作られたものでないことは、以下の違いから確かめられる。
(1)
没年の違い。光背銘の対象は、法興32年(622年)2月22日没。聖徳太子は、推古29年(621年)2月5日没(推古紀)。
(2) 登場人物の位の違い。上宮法皇 [3] ・鬼前太后(太后=皇帝の母)・干食王后(王后=皇帝・天皇・大王の正妻)など。聖徳太子の位は太子で、天皇・大王・法王ではない。第一夫人は橘大郎女妃(后でない)。
(3) 后の没年。上宮法皇没の前日に没した后に対し、聖徳太子の第一夫人の妃橘大郎女は、太子没後に長生きして天寿国繍帳を作らせた(638年)。
(4) 上宮法皇は登場人物らの位から、天子を自称し「法興」年号の建てたと考えられる。
以上から、光背銘の人物上宮法皇は聖徳太子ではない。(上宮法皇≠聖徳太子)
そこで新たな解釈として「上宮法皇=多利思北孤」説が出た。32年間法興元号(九州年号)を維持させた天子、法興17年に遣隋使を送った「日出ずる国の天子、多利思北孤」と考えられた。即ち「上宮法皇=多利思北孤」説 前注[2]だ。筆者も長年その解釈を信じてきた。
[2] 「釈迦三尊像光背銘」 「古代は輝いていたV」古田武彦 1985年 朝日新聞社 に拠った。
[3] 「法皇」 秦始皇帝はそれまでの最高位である三皇(天皇・地皇・人皇)の上位として皇帝を自称した。法皇は三皇と同等と考えられが、大后・王后などの呼称から、天子を自称したとも解釈できる。法興年号が続いているから上宮王が譲位したのでなく、上宮法皇となって皇位を継続したものだろう。
●163 上宮王の独立 肥前の地名 (2011.6 追加)
しかし、九州年号は別にあり(端政・告貴・願転・光元・定居・倭京、589年〜622年)、上宮法皇は法興年号を別に建てた別の王権、という説が浮上する。佃収の「上宮法皇≠多利思北孤」説 [4] を検討する。佃説は「上宮法皇は591年に九州年号とは別の法興年号を創始した別王権だ。『上宮王家』とする。肥前飛鳥岡本宮を本拠にして北九州の倭国を割って独立した」 とし、その根拠を「法隆寺釈迦三尊像光背銘」(前出)及び次の記録、としている。
崇峻紀591年「紀某・巨勢某・葛城某、、、をして大将軍とし、二万餘の軍を領(ひき)いて筑紫に出て居す」
崇峻紀592年「(蘇我)馬子、、、天皇(崇峻)を弑す、、、駅馬(はゆま)を筑紫の将軍に遣わし内乱により外事を怠るなかれ、という」
推古紀595年「将軍ら筑紫より至る(帰る)」
文中『紀某』は肥前基肄郡基肄(きい)の将軍、『巨勢某』は肥前佐嘉郡巨勢の将軍、『葛城某』は肥前三根郡葛木の将軍と思われ、いずれも肥前である。『筑紫に出て』とあるから肥前から筑紫に出てきている。崇峻紀だから崇峻天皇が軍の支配者と思われて来たが、崇峻が殺されても二万の軍隊は動いていないから崇峻軍ではない。軍に命令しているのは肥前を本拠とする蘇我馬子だ。『外事』とあるから『任那復興軍』と解釈されてきたが、二万の軍は4年も筑紫に駐留(居す)しているだけで任那に渡っていない。二万の軍を筑紫に送った591年は上宮法皇が九州年号とは別の法興年号を建てた年だ(法隆寺釈迦三尊像光背銘文)。これらから591年に上宮王(後の上宮法皇、後述)は蘇我馬子の支援で肥前に新王権を立て、天子を自称し、年号を建て(天子の専権)、二万の軍を動かして筑紫の倭国(福岡県鞍手郡が本拠)に示威をして独立を承認させた、と解釈される。これを『上宮王権・上宮王家』とする。上宮王家は後に肥前飛鳥板蓋宮大極殿で蘇我入鹿(馬子の子)・蝦夷を討っている(皇極紀645年、乙巳の変)。『大極殿』は天子の政庁を意味する。
日本書紀の記録を整理すると、蘇我馬子は一方で肥前の大和王権を支配して崇峻天皇を殺し、蘇我系の血脈の濃い推古を天皇にしている。他方で新王権(上宮王家)を担いで大臣となり、二万の軍を筑紫に差し向けて倭国を牽制した。4年間の駐留で独立を認めさせ、戦うことなく国境を確定した、と解釈できる。以上が佃説だ。
「上宮王家」説は、倭国が中国南朝の冊封体制から離脱して天子の専権である年号(九州年号)を建てたことを契機として、物部氏や蘇我氏が王族達に独立王権を立てさせ、自分たちは外戚として王権を専横した流れをよく捉えている。
[4] 上宮王家について 「物部氏と蘇我氏と上宮王家」 佃収 星雲社 2004年
●166 推古天皇「大和小墾田宮」に遷(うつ)る 筆者解釈 (2011.7 追加)
上宮王家と並立した大和王権(肥前)は共に蘇我氏が戴いた。敏達崩御のあと、蘇我氏は継嗣押坂彦人大兄皇子(太子)を差し置いて蘇我系の用明・崇峻・推古を大和王権(九州)の天皇に即位させた、と前述した。
推古天皇は592年に豊浦(とゆら)宮で即位したが、603年に小墾田(おはりだ)宮に遷った(うつった)(推古紀)。
推古紀603年
「小墾田宮に遷る」
豊浦・小墾田の比定地には諸説あり、佃は多くの状況証拠を挙げて「
豊浦は肥前三根郡葛木豊浦、小墾田も『向原の近辺』と欽明紀にあるから肥前三根郡向原(現佐賀県鳥栖市西の向原川近く)」として説得力がある。
欽明紀552年「百済聖明王、、、釈迦仏金銅像一躯を献ず、、、(天皇)稲目宿禰に試みに礼拝せしむ。大臣跪いて受け、悦んで小墾田家に安置す、、、向原の家を寺と為す」
この検証で「552年時点では肥前に小墾田の地があり蘇我稲目の領地だった」と言える(小墾田の肥前説、前章で検証した)。
しかし「小墾田宮」の比定にはその先が必要で、筆者の解釈は「603年には推古天皇は肥前豊浦から大和に遷り、その宮を祖父の肥前小墾田にちなんで『小墾田宮』と名付けた。それ以来、『小墾田宮』は肥前と大和二ヶ所にある。」とする。以下にその根拠を示す。
(1) 591年倭国王家の王族「上宮王」が倭国王家から独立し、蘇我馬子がこの新王権(肥前)に馳せ参じて倭国朝廷を去った。その結果、肥前に二つの王権を擁立するわけにゆかず、大和の蘇我領に「大和小墾田宮」を造り、推古天皇を「敏達を継ぐ大和天皇」として大和に送り込んだと考えられる(603年)。
(2) 蘇我系大和王権の居なくなった肥前では、上宮王が飛鳥岡本宮に(606年)、上宮王家の皇極天皇が肥前小墾田宮に居る(642年)。
推古紀606年
「天皇(上宮王)、皇太子(聖徳太子)に請い勝鬘経を講ぜ令む、、、皇太子また法華経を(肥前飛鳥)岡本宮に於いて講ず、天皇これを大いに喜ぶ、播磨国水田百町を皇太子に施す、よって斑鳩寺に納める」(再掲)
皇極紀642年
「(皇極)天皇(肥前)小墾田宮に遷る」
(3) 後述するように、608年推古天皇は隋使裴清を摂津難波と大和に迎えている。この時の情報を隋書は「邪靡堆(やまと)、、、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり」としている。推古が大和に居たことを示す重要な証拠である(「邪靡堆=大和」論については後述)。
(4) 大和に小墾田宮があったことを示す記述がある。
孝徳紀649年
「(摂津難波宮に居た孝徳)天皇は、、、(讒訴事件で中大兄に追われて九州から逃げて来た)蘇我倉山田麻呂大臣を攻めた。大臣の長子興志は是より先倭(やまと)に在って(山田寺(奈良桜井市)を建造中であったが)、、、是の夜、興志は宮を焼くことを欲す、[宮は小墾田宮と謂う]」
大和に居て孝徳軍の襲撃を受けた蘇我興志が反撃として近くの「小墾田宮」を焼く、というこの宮は「大和小墾田宮」である。この文からは、孝徳は推古天皇から受け継いだ「大和小墾田宮」に居たが(629年-645年)、難波遷都(645年)の後649年時点では、「大和小墾田宮」を領有はしていたが、そこには居なかった、と解釈できる。地文でなく注である点は論証として弱いが、この注が「肥前小墾田宮」を指す可能性はない。そこは蘇我倉山田麻呂が負けたばかりの相手の本拠、即ち642年以来中大兄皇子が守る上宮王家の宮だからである。この頃、孝徳天皇と中大兄皇子は既に王権合体で連携していた(次章)。
以上から蘇我系大和王権の「小墾田宮」は「大和小墾田宮」である。「いつ遷ったか」については日本書紀では唯一の記録が「603年、小墾田宮に遷る」(推古紀)であるから、「603年、推古天皇は大和小墾田宮に遷った」とするしかない。
●170 倭国の改号 俀(イ妥)国
さて、ここから章末までの10数節は隋書に出てくる遣隋使関係である。あの「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々」という対等外交の顛末である。
6世紀、混乱を極めた中国は隋(581年〜)によって統一された。倭国は南朝(宋・斉・梁・陳)に朝貢してきたが、南朝が滅んで20年もたってからようやく北朝系の隋に遣使した(600年)。この前後に、倭国は「俀(イ妥)国」と国号を改めた様だ。その記事が隋書にある。
隋書列伝俀(イ妥)国条冒頭
「俀(イ妥)国は百濟新羅の東南に在り、水陸三千里、大海の中、山島に依りて居す、魏時譯を中國に通ず三十餘國、皆王を自稱す、、、其の国境東西五月行、南北三月行各海に至る、、、邪靡堆に都す 、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり。古にいう、楽浪郡より、、、1万2千里、會稽の東にあり 、、、安帝の時又遣使朝貢す、之を俀(イ妥)奴国という、、、魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず、、、」
「俀(イ妥)国は、昔の俀(イ妥)奴国、魏や梁に遣使した国」と言っている。魏に遣使したのは「倭国」の卑弥呼、梁に遣使したのは「倭国」の武であるから、「俀(イ妥)国」とは「倭国」からの国号変更があったと解釈されている。過去の別名の国「倭奴国」まで「俀(イ妥)奴国」に変えているから、「単なる国字の変更」とも考えられる。7年後に再び「倭国」に戻っていることも、その傍証となる(後述)。
●171 俀(イ妥)王阿毎多利思北孤、和名で通す
隋書俀(イ妥)国条には和語の漢字表示が多用されている。
隋書 (続き1)
「開皇20年(600年)、俀(イ妥)王、姓は阿毎(あま、あめ?)、字は多利思北孤(たりしほこ、たらしひこ?)、阿我輩雞弥(おおきみ?)と号し、使いを遣わして(朝貢となっていない)、、、妻は雞弥(きみ)と号し 、、、太子を名づけて利歌弥多弗利となす、、、」
宋時代には倭の五王の姓名は倭讃・倭武のように漢風の一字姓、一字名だった。しかし、俀(イ妥)王は和名を用いている。これを「姓が変わっている。王統が変ったからだ。倭の五王の倭王家は滅びた。磐井倭王家は滅びた」とする解釈がある。しかし筆者は王統が変わっていない、と考える。「南朝には敬意を表して漢風名を用いたが、新参の北朝に対してそれは媚になる。自分には堂々たる和名がある。」として和名「アメノ□□□タラシヒコ」で通した、と解釈するのが自然だ。「日出ずる国の天子」(後述)と外交姿勢で一致している。前章でのべたように、倭国王家では物部氏の外戚戦略で主流・傍流の交代はあったかもしれないが、倭国王家(アマテラス系)自体は継続している(第七章)。
●172 俀(イ妥)は内政重視で大国に
隋書は続いて、俀(イ妥)国について詳細に記述している。訪倭した隋使の報告書に基づいたようだ。中国からの国使は卑弥呼の時代の魏使以来である。
隋書 (続き2)
「城郭無し、内官12等あり、、、軍尼(くに)120有り、中国の牧宰のごとし、、、冠制を始む、、、兵有りと雖も征戦なし、、、五弦の楽有り、、、仏法を敬い、、、阿蘇山あり、、、新羅・百済は皆俀(イ妥)を以って大国となし、珍物多く、並(みな)敬仰し、、、」
「城郭無し」とは、朝鮮と違って城の伝統がなかったのかも知れないが「磐井の乱」(第六章)を克服して敵対する勢力が居ないことを示している。官僚制度「内官12等」や牧宰(中国の地方国の長官)に似た地方行政制度「軍尼(くに、「国造」のこと?)」を整備したようだ 。「兵有りと雖も征戦無し」とは、「倭王武の上表文(前出)のような征戦の連続」と大いに異なり、半島の拠点を失ったが、国内征戦も無かった(終わった?)ことを示している。一方で、文化に力を注ぎ仏教を敬い、隣国から大国と看做されている、とある。俀(イ妥)国は内政を充実させ、文化を興隆させることによって、倭諸国の求心力を回復した様だ。
●173 対等外交
俀(イ妥)国は外交でも積極策に出た、と隋書にある。
隋書 (続き3)
「大業3年(607年)、其王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰く、『聞く、海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝拜し、兼(あわ)せて沙門數十人來り佛法を学ぶ』と。その国書に曰く、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々』帝は覧て悦ばず、、、『蛮夷の書、無礼有るは、復(また)以って聞(ぶん)するなかれ』と。
明年(大業4年 608年)、文林郎(ぶんりんろう、役職 文書係?)裴清を使いとして俀(イ妥)国に遣わす」
ここで、「朝貢」と記されている。天子を自称する多利思北孤が朝貢するはずはなく「方物を献ず」位が妥当だが、後述するように後に隋は多利思北孤に「あれは朝貢でした」と言せたので、隋はここを「朝貢」と記している。「重ねて仏法を興す」とあるのは「南朝仏教があるのに、重ねて北朝仏教を興す」の意味で、南朝仏教の守護者を自認する多利思北孤が新興仏教を「暖かく見下している言葉」、と筆者は解釈する。しかし、それとは裏腹にこの遣隋使に多くの学者・僧が同行して新興の北朝仏教を学ぼうとする別の勢力(蘇我氏や推古朝)が混じっていたと考える。
さて、注目の「日出ずる処の天子云々」で始まる「対等外交国書」を送ったことに対して、煬帝が怒った、とある。煬帝は一度は怒ったものの、直ちに調査団を俀(イ妥)国に派遣した。場合によっては戦争になるかもしれないので、敵状偵察を命じたという解釈もある。
●174 小野妹子の遣隋使 推古紀
この隋書俀(イ妥)国伝の記事に対応する記事が同年の推古紀にある。
推古紀15年(607年)「大礼小野臣妹子を大唐 [7]に遣わす」
推古紀16年(608年)「四月、小野妹子、大唐より帰る、、、大唐使人裴世清、、、筑紫に至る、唐客の為に、更に(摂津)難波高麗館に新館を造る、、、六月、、、客等(摂津)難波津に泊まる、是日、飾船三十艘を以って客等を迎え新館に安置す、、、八月、、、唐客入京、、、時に使主裴世清、みづから書を持ちて両度再拝して、使いの旨を言上して立つ、その書に曰く、『皇帝、倭皇に問う、使人、長吏大礼蘇因高等(小野妹子)至りて、、、皇(倭皇のこと)、、、遠く朝貢をおさむるを知る、、、朕嘉(よみ)するあり、、、故に鴻臚寺の掌客裴世清を遣わして、、、』、、、と」
定説では「隋書と推古紀は見事に一致し、同一事績を記述したものに間違いない。隋の使い『裴清』(隋書)と『裴世清』(推古紀)も2字まで一致し、完全に対応している。『倭皇』とは当然推古天皇のこと、多利思北孤は男王だから、摂政の聖徳太子のことだろう。隋書607年の多利思北孤の『朝貢す』という記事と推古紀の隋帝国書にある『朝貢』も一致する。朝貢を承認されたのだから、『倭の代表』と認められている。だから『俀(イ妥)』は『倭』の誤りで大和朝廷のこと。対等外交は結果的に成功した」とする。
しかしこの定説には女帝推古と男王多利思北孤が対応しないなど無理が多い。更に前章までに述べた様に、倭国と推古天皇の大和王権は王権が異なり、本拠も九州と大和で異なる。国書の差出人も異なるはずだ。同一事績ではない。「別の年の別の事績」とする解釈もある
[8]。
筆者も「別の事績」とするが、「同一年の事績」、と解釈する。なぜ同一年に異なる王権が同じ相手に国書を送っているのか。隋書の記述と日本書紀の記述は「同一事績」と「同一でない事績」の二面性を持っていて、後世の史家を惑わしてきた。それを次節以下で解析する。
[7] 「大唐」 ここで、「隋」が「大唐」となっているのは「唐の始祖高祖は隋帝から禅譲を受けた」とする建前から唐の「隋は唐の前史」の立場を尊重したからであろう(紀の編纂は唐時代)。
[8] 「別の事績」 多利思北孤の遣隋使と推古の遣隋使は別の事績、とする解釈。そのひとつに古田武彦の「12年ずれ説」がある。「日本書紀のこの記述には12年の錯誤があり、607年小野妹子の遣隋使は実は618年に隋が唐に代わった後の619年遣唐使だ。それが推古紀の『大唐』の表現となっている。」とする。妥当と思われる論点がある一方、12年ずれて「唐の遣大和使」だとすると遣使の理由や中国史書に現れない理由が不明など、無理もある。後述するように、唐初期に倭国は再び唐と対立し朝貢を止めていたから「大和朝貢」があったら中国史書に載らない理由が無い。ところが、その時期も唐史には倭国しか出てこない。「古代は輝いていた」古田武彦 朝日新聞社 1985年
●175 小野妹子は俀(イ妥)国遣隋使の随行使
隋書と推古紀を整合させ得る筆者の解釈について、結論から先に示す。「607年、俀(イ妥)国は遣隋使を送った。その国書は『日出ずる国の天子、、、』で始まる『対等外交』だった。この遣隋使に、大和推古天皇は小野妹子を随行させた。最先端の文化・文明を得る目的で倭国王の同意の下に、推古天皇の信書と献上品を携えて小野妹子は参加した」と考える。ここまでは倭国の遣隋使としての「同一事績」だ。
「随行」と述べたが、その理由の一つは当時外交権を握っていたのは倭国であって、外交問題では大和王権は従属国に過ぎない。大和からの遣中国使は初めてであり(新唐書)、当時まだ独自の公式外交ルートを持っていなかった。有力な倭諸国は推古に限らず随行使を送り込んでいたのではないだろうか。費用分担と引き換えに文化・珍宝を求めて。特に、百済が早くから北朝仏教に転向したのを知って、これを学ぼうとする勢力は国内に多かったようだ(上掲に「佛法を学ぶ数十人が随行」とある)。上宮王家の聖徳太子・大和王権の推古天皇・蘇我氏などだ(前章)。これら勢力が俀(イ妥)の遣隋使に随行使を送る大きな動機となった、と考える(俀(イ妥)国は南朝仏教に固執)。
ところが、主使である俀(イ妥)国使が煬帝を怒らせた結果、煬帝は俀(イ妥)国に断交を突きつける一方、随行する大和使に倭国代表権の誘いをかけた。煬帝の「遠交近攻策」だ。「隋と俀(イ妥)」と「隋と大和」の「別の事績」に変化した。隋国側が「俀(イ妥)国を相手にせず、随行の小野妹子を倭国朝貢使と認める」と急変したか、あるいは随行使小野妹子が急遽独自倭国代表(俀(イ妥)国を除く)として朝貢を申し入れたか、どちらの可能性もある。
●176 隋使裴清の訪倭 「海岸に達す」は東海 (2013.2 秦王國修正)
煬帝は一度は怒ったものの、直ちに調査団を俀(イ妥)国に派遣した。
隋書 (続き4)
「明年(大業4年 608年)、文林郎(ぶんりんろう、役職 文書係?)裴清を使いとして俀(イ妥)国に遣わす、、、都斯麻(つしま)国を経て大海中に在り、、、竹斯(ちくし)国に至る、又東秦王國に至る、、、又十餘国経て、海岸に達す。竹斯国より東、皆俀(イ妥)に附庸す。俀(イ妥)王、、、來迎し、、既に彼の都に到る、、、」
隋使は俀(イ妥)国を端から端まで調査した、とある。
ここで「海岸に達す」について、従来から種々論争がある。定説の「倭国=大和」説では「隋使裴清が難波に来ている(推古紀、前掲)。だから『竹斯国に到る、、、十餘国を経て海岸に達す』とは、瀬戸内海を経て海から海岸に達することで『摂津難波』のことだ。その後の文章に難波での歓迎と俀(イ妥)王の応接記事が続くから、隋使裴清は難波から上陸して大和に到り俀(イ妥)王(推古天皇)と面接した、と解釈できる。従って、『倭国=大和』であり、『竹斯より東は、皆大和に附庸す。』が成り立つ」としている。俀(イ妥)は倭の誤字と解釈している。
一方「九州王朝説」では、「『海岸に達す』は『陸路で十餘国を経て九州東端の海岸(豊前)に達す』の意味だ。『十餘国』はすべて九州内で、『皆俀(イ妥)に附庸す』は九州内が俀(イ妥)国であることを示している。推古紀の隋使裴清が来た難波とは筑紫難波津だ。隋使裴世清は大和に行っていない。推古紀は捏造だ。」とする。
しかし筆者は、この「海岸に達す」は九州東端ではなく、また大和難波でもなく、更に東の伊勢湾あたりあるいは東海だろう、と考える。その根拠を示す。
(1)
まず、九州王朝説の豊前海岸ではない。なぜなら、筑紫から豊前は約50km、たかだか2〜3日の道のりだ。皇帝に命じられ、長安から2000km近くを要した「敵情視察の大調査旅行」を、中国人からみれば「隣村」程しかない豊前海岸に至ってその海の向こう(東)も見ずに「東は全部判った」と報告することは考えられない。中国は九州の東に大和があることは知っている(雄略紀)。
(2)
煬帝の狙いは俀(イ妥)国を牽制する為の「遠交近攻策」である。このことは出発前から用意した大和推古天皇への国書が証となる。裴清は大和を俀(イ妥)国に対抗できる国として訪れ「魏時、、、邪靡堆(やまと)に都す 、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり。」(隋書冒頭文、前掲)と理解した、と考えられる。大和が倭国の強力な同盟国であることは宋書以来の中国の理解だ。小野妹子は中国でその様に強調しただろう。隋使はその認識を確かめる調査使である。
(3)
しかし「海岸に達す」は「(摂津)難波」でもない。「海岸に達す」が「難波」のことでは、難波の「西側」を見ただけ、大和の「東側」を見ないで「東、皆俀(イ妥)に附庸す」と判断したことになり、これまた怠慢のそしりを免れない。隋書俀(イ妥)国伝冒頭に「俀(イ妥)国は、、、其の国境は東西五月行、南北三月行、各々海に至る」とある。そこで俀(イ妥)国を端から端まで、すなわち「海を渡り竹斯から秦王国(豊前[9])や(大和を含めて)十餘国を経て反対側の海まで、西端から東端まで全部実地に見た」という調査範囲報告「海岸に達す」が意味を持つ。それがあって初めて「竹斯国(西端)より東、皆(東端まで)俀(イ妥)国に附庸す」という結論が得られたのだ。
(4) その全体把握の披歴の後に、具体的行事「俀(イ妥)王と会った」と述べている。実際の行程の順序ではなく、報告の根拠を先に示した文章の様だ。なぜなら、日本書紀によれば、裴清が筑紫に着いたのが608年4月、(摂津)難波津に着いたのが6月、この2ヶ月間筑紫で俀(イ妥)王と会っていたと推定される。(摂津)難波に着いてから2ヶ月後の8月入京(大和小墾田)、この間に更に東端海岸まで調査していたと推定される。9月帰国する客を推古天皇は(摂津)難波で饗応している(推古紀、後述)。
以上結論として、「裴清は筑紫で俀(イ妥)王に会い、東海の海岸に行った後大和に入り推古天皇に会っている」。
[9] 秦王國 秦の末裔を自称する渡来人(実際は漢人系新羅人が多い)の居住地。地名・伝承の豊富な豊前(香春岳付近)が比定されている。倭国役人と共に小野妹子らが裴清を漢人密度の高い豊前地域に案内して、大和王権推古天皇と豊前秦氏(漢人系と信じられていた)の緊密な関係を強調した可能性はあるだろう。豊前は肥前大和王権天皇達の故地であり、当時も支族や領地が残存していたことが考えられる。列島横断の10余国の中に秦王國が特記されているのは、そうした案内が奏功したからだろう。豊前秦氏・製錬技術・新羅仏像・蘇我馬子・肥前大和王権推古・上宮王家・聖徳太子・秦河勝などの連想が浮かぶ。
●177 難波津や海石榴市(つばきち)は倭国接待施設 (2011.7 追加)
九州王朝説は「裴清が大和に行った、というのは推古紀の捏造だ。なぜなら書かれているのは倭国の筑紫接待施設だからだ。裴清は大和には行っていない」とする。
しかし、煬帝の隋使裴清は、帰国する倭国遣隋使と大和の随行使小野妹子と共に筑紫に着いた。難波津(筑紫)や海石榴市(つばきち)など九州の倭国接待施設で客人が歓迎されたに違いない。出迎えたのは倭国役人(主使側)と大和役人(随行使側)が一緒に裴清を歓迎している。推古紀に九州倭国の接待設備・行事がでてくる理由はある。
ただ、大和は筑紫の外交施設と同名の同様施設(難波津・難波高麗館)を摂津難波に作り、同様の歓迎行事(飾り船、飾り馬)を再度大和で繰り返した。「海石榴市」すら真似た可能性がある。これは裴清の為、というよりは日頃から九州風の地名や行事も近畿に持ちこんでいた可能性が高いからだ。これも後世読者の混乱と誤解を招いたようだ。
●178 「三つの難波」 筑紫・摂津・豊国 (2014.8 豊国難波を追加)
「難波」は二か所あって頻出し、分かり難いが書き分けられている。これを検討する。実は三か所目があり、これも含めて説明する。
「筑紫難波」は朝鮮半島からの外交使節の到着港であり(福岡市東区の多々良川河口付近か)、筑紫の人物と共に日本書紀に登場する。
欽明紀540年「難波祝津宮に幸す、、、物部大連尾輿(本拠は筑前鞍手郡、遠賀川中流)等従う」
欽明552年「稲目宿禰に試みに(仏像を)礼拝させる、、、大臣よろこんで小墾田(肥前三根郡、鳥栖市近く)の家に安置す、、、向原(肥前養父郡、鳥栖市西の向原川近くか)の家を浄めて寺と為す、、、後に国に疫気がはやり、、、天皇(倭国王、前章参照)曰く、、、仏像を難波(筑前)の堀江に流し棄てる」
敏達紀585年「物部守屋(筑前鞍手郡)が仏像を焼き難波(筑前)の堀江に棄てた」
一方、「摂津難波」は「神武東征」「神功〜仁徳東征」「孝徳遷都(難波宮)」に頻出する。神武紀では「『浪速』が訛って今(日本書紀編纂時)『難波』という」としている。「難波」が神武より後世の名称と示唆されている。神功皇后東征後に筑紫難波の地名を摂津へ移植したと思われる。
三つ目の「豊国難波」については第六章「難波屯倉は豊国」で検証した。「豊国に三つ目の難波があった可能性が高い」というのがその結論だ。その要旨は「応神天皇の頃、日本貴国は北肥前から豊国大隅に遷り宮とした(応神紀)。また、大和との連携に好都合の豊国海岸に津を設け、筑紫難波を地名移植して「豊国難波」とした。その後摂津難波に遷った日本貴国(日本)は仁徳朝〜継体朝の間、豊国難波を半島との主要中継地として活用した可能性がある。この間のいずれかの時点で、豊国は日本貴国の流れを汲む筑紫君磐井の所領となった(豊前・豊後の点在所領)。その磐井の所領を奪った安閑/物部麁鹿火は豊前勾金橋に遷都した。応神五世継体の子である安閑天皇は「豊国難波」を祖応神天皇ゆかりの地として大切にした(安閑紀)。」
日本書紀は三つの難波を説明なしに並記するから、弁別が難しい。日本書紀編纂時にすでに豊国難波の記憶・情報が失われた可能性、意図的に畿内への移植地名だけを記述した例など虚偽記載とは言えないが、大和一元政策に沿った編集が感じられる。応神紀〜敏達紀は「三つの難波の並存」を認めて初めて無理のない解釈が可能となる。
●179 俀(イ妥)国の対等外交の放棄
本題の隋書に戻る。前述の隋書に続く記述には、「隋使裴清が俀(イ妥)国に行き、俀(イ妥)国王は対等外交をあっさり放棄し、朝貢を認めた」とある。文中括弧に筆者解釈を付記するが、付記を合わせ読むことで整合性が理解されると考える。
隋書 (続き5 俀(イ妥)国伝末尾)
「その王(俀(イ妥)王多利思北孤)は清(裴清)と相い見え、大いに悦んでいわく、『我れ聞く海西に大隋礼義の国ありと、故に遣わして朝貢す(前回の遣隋使、あれは朝貢でした、俀(イ妥)国王の天子自称はなかったことにしてください)』 と。清答えて曰く、『皇帝の徳は二儀(天地)に並び、、、王の化(おしえ)を慕うを以って、故に行人を遣わし来りてここに宣諭す(朝貢するなら許す、その確認に来た)』と、、、その後、(帯方郡に留まり報告書を長安に送って皇帝の許可を得た)清は(帯方郡から俀(イ妥)に)人を遣わしてその王に謂いて曰く、『朝命は既に達す(天子の自称をやめたことの確認と報告は終わった)』 と、、、復(ま)た(俀(イ妥)の)使者をして(長安に帰る)清に従い方物(宝物)を来貢せしむ(俀(イ妥)の使者が裴清に従って長安に行き朝貢した)。この後、遂に絶ゆ (俀(イ妥)国は再度改号して倭国に戻った、俀(イ妥)国としての使は二度と来なかった)」
多利思北孤は天子を自称したが、中国の反応が厳しく1年でそれを撤回した。「多利思北孤の対等外交の試みは、煬帝によって潰された」と解釈できる。煬帝は「俀(イ妥)国はあったが私が潰した」と勝ち誇って、わざわざ隋書に「俀(イ妥)国伝」を立て、俀(イ妥)王の「あれは朝貢でした」の言を取って607年記事を「朝貢」とした(前述した隋書つづき2の疑問への答え)。その上で「遂に絶ゆ」として「俀(イ妥)国」が潰れた事実を記録に残した(実際の隋書編集は後世だが、そのような当時の史料に基づいたものと思われる)。そして、国号を旧に戻した「倭国」が、2年後に朝貢したことを次の様に確認している。
隋書帝紀煬帝上(俀(イ妥)国伝の中でないことに注目)
「大業6年(610年)、倭国(俀(イ妥)国ではないことに注目)、使いを遣わして方物を貢す(朝貢再開の確認)」
●180 隋の二股外交
前節の隋書によれば608年に裴清は竹斯に到り、俀(イ妥)国の多利思北孤と会って「天子自称・俀(イ妥)国改号の撤回、朝貢の実行」を引き出した。それに日本書紀608年をあわせ読めば、裴清はその後に大和を訪ね、出発前に用意した煬帝から推古天皇宛の国書「倭国の代表として朝貢を認める」を伝達した。結果的に倭国代表を多利思北孤と推古天皇の二者に認めたことになる。隋使が隋を出る前から想定した公式と非公式の二股外交と考えられる。隋書と日本書紀では使者の身分が異なる。隋書は「文林郎(ぶんりんろう)裴清」とあり、日本書紀では「鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)裴世清」とある。隋が公式と非公式で使者の肩書きを変え、公式での二股を避けたとも考えられる。
裴清は列島の西端の海から東端の海岸まで実地検分し、竹斯国より東は皆(大和も含め)俀(イ妥)に附庸している実態を把握した。その結論として「今回、俀(イ妥)国の多利思北孤の代わりに推古天皇を倭国の代表に認める煬帝の国書を渡したが、実態を見ると大和は俀(イ妥)国に附庸している。多利思北孤も朝貢を受け入れたのであるから多利思北孤を代表に戻すべき、そう煬帝に報告しよう」としたのであろう。それが隋書にあるように「その後、清は人を遣わしその王(多利思北孤)に謂いて曰く、『朝命は既に達す、、、』」となったと考えられる。
この外交騒ぎは俀(イ妥)国の譲歩で収まり、以後の正式遣唐使は再び倭国からとなり、中国史は、倭国遣唐使のみを記録している。一方、日本書紀は大和の遣唐使のみを記録している(隋は618年に唐に代わった)。
●181 推古天皇は「倭国王認定」をほごにされた
注目すべきは、前節の推古紀に、「その書(国書)に曰く『皇帝、倭皇に問う、、、皇、、、遠く朝貢をおさむるを知る、、、朕嘉(よみ)するあり』」とある点である。この「倭皇」の記述から、小野妹子が持参したであろう推古天皇の書は(俀(イ妥)ではなく)「倭国」の立場を取り、「天皇」と自称したと思われる(もちろん「天子」自称ではない)。また、献上品は朝貢品ではない。その時点では推古に朝貢の権限はないからだ。それに対して煬帝は、「倭皇の朝貢を嘉する」として推古天皇を「倭国の朝貢の主、倭国代表者」と持ち上げている。推古天皇は「倭国王」と認定されたのだ。
裴清が帰国するに当たり小野妹子を再度送り推古天皇は書を託した。
推古紀(608年)「天皇唐帝に聘(あと)ふ。其の辞に曰く、東の天皇、西の皇帝に敬白す、、、」
再度「天皇」を自称している。秦の始皇帝がそれまでの「三皇(天皇・地皇・人皇)」の上に「皇帝」を新設したから「天皇」は「皇帝」の下である(史記秦始皇本紀)。その点は前回のような「天子」自称問題を起こさなかったようだ。しかし、隋書には裴清が大和に行ったことも、推古宛国書のことも記されていない。それは公式化されたり、史書に載ることは無かった。推古天皇への「倭国王認定」はほごにされたのだ。それは、多利思北孤が譲歩して「俀(イ妥)国改め倭国」として「朝貢」を再開したことにより、再び「倭国代表者」と認められたからである。こちらは隋書に記載され公式史実とされた。煬帝の二股外交の完勝である。
隋帝と推古天皇のやり取りはどちらにとっても「裏外交」だ。隋は二股の一方が成功したから推古帝とのやり取りは明かしていない。倭国との公式外交だけを記している。推古帝にとって結果は失敗だったが、倭国滅亡後の日本書紀は隠す必要が無い。隋帝と推古天皇の友好外交と表現されている。両書を併読すると読者は誤読(多利思北孤と推古の混同)に誘導され易いが、なんら隠されていないからよく読むと全てがわかる。
●182 「邪馬台国=邪靡堆(やまと?)=大和」説 (2014.11 加筆)
本章の要旨
隋が滅び唐に代わると、倭国は再び大倭を自称しその王は再び天子を自称した。倭国は遣唐使は送っても朝貢はしなかった。上宮王家と大和王権はそれぞれ親唐自主外交を模索した。
蘇我入鹿は上宮王の嫡孫山脊大兄王一族を斑鳩寺で滅亡させたのに対し、上宮王家の中大兄皇子らは「乙巳の変」で蘇我宗家を滅ぼした。しかし蘇我支族との妥協からか、皇極天皇は「中大兄皇子を皇太子にすることを条件に孝徳天皇に譲位する」と提案した。紆余曲折があったが、孝徳が崩ずると斉明(皇極)が継承(重祚)して「大和王権/上宮王家の合体」を実現した。その後の動向からこれは「大和王権を存続王権とする両王権の対等合体」と解釈でき、その正統継承権を持つ中大兄皇子が即位できる態勢が整った。
半島では百済が唐・新羅に滅ぼされ、百済の遺臣らが倭国に救援要請をしてきた。百済の保護者を自認していた倭国は、列島宗主国として倭諸国に「百済救済」の派兵を号令した。倭国との合体を構想する斉明天皇は結局「百済救済」に加わった。
白村江の戦いで倭国・倭諸国連合軍は敗れた。戦後の状況と記録は錯綜して諸説あり、なお研究の余地が多い。
●183 倭国王の天子自称再開と外交 (2011.8 改)
前章で九州に三王権が並立し、その一つ大和王権(九州)が大和に帰還遷都したことを検証した。ここでは、三王権のその後を辿ることにする。
俀(イ妥)国の多利思北孤は隋帝の圧力に屈して天子自称を返上し、国名も倭国に戻した(前章)。しかし、隋が滅び(618年)唐の時代になると多利思北孤は「天子自称」を再開し、国名も「大倭国」を自称した。それは622年没するまで継続した様だ。更にその継承者も「天子」を自称したと考えられる。このことは「631年に、倭国の王子が唐使の高表仁と席次を争っている」ことから推測できる。
旧唐書倭国伝631年 「(倭国)遣使して方物を献ず(「貢ず」「朝貢」となっていない)、、、(唐は)高表仁を遣わし、、、王子と礼を争う、、、」
倭国は隋には朝貢を誓ったが、唐になると朝貢せず、唐使を迎えた倭の王子は席次をめぐって争っている。倭国王の「天子自称」は後継者も含め、600年〜670年(白村江の戦い)までの約70年間続いた可能性がある。現在も大宰府(筑紫)に「太極殿」「内裏」「紫宸殿」「北帝門」など、「天子に関係する地名」が遺存されている。この地名が定着した背景には、このような倭国の70年という長期間の「天子の存在」があったと思われる。考古学調査から「大宰府はこの70年間現在地に在ったのではなく、白村江の戦前後に倭国の本拠地(筑前鞍手郡、遠賀川中流か)から現在地に移された」という可能性もあるようだが、その場合も名称を受け継いでいる、と考えられる。
●184 上宮王家を継いだ舒明天皇 ( 2012.12 以下4節更新 2012.4
更新)
上宮王家は上宮王が在位32年の後崩御したが、太子(上宮聖徳太子)は既に薨去して次の天皇が立った。その天皇が登場する恐らく現存唯一の文献がある。その天皇から舒明天皇への継承指名のいきさつを示している[1]。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳
「飛鳥岡基宮宇天皇(舒明天皇)の未だ極位に登らざる時号して田村皇子という、、、皇子、私に飽波に参りご病状を問う、ここに於いて上宮皇子命、田村皇子に謂いて曰く、愛わしきかな、善きかな、汝姪男、自ら来りて我が病を問うや、、、天皇、臨崩の日に田村皇子を召して遺詔す、朕病篤し、今汝極位に登れ、宝位を授け上宮皇子と朕の羆凝寺を譲る、仍りて天皇位に即く、、、百済川の側に、、、九重塔を建つ、号して百済大寺という」
この前半には「上宮皇子(聖徳太子)が田村皇子(のちの舒明天皇)を姪男と呼んだ」とある。田村皇子を夫とするのは宝皇女(のちの皇極天皇)である。後半に登場する天皇「朕」は上宮皇子と寺を共有する天皇、文脈から「上宮皇子の薨去(622年)、上宮王の崩御(623年)の後を継いだ上宮王家天皇」である。推古天皇ではない。その天皇が臨崩に際し田村皇子を次代天皇に指名した、とある。後の舒明天皇である。
[1] 上宮王二代目 「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004年
●185 舒明天皇の本拠は肥前
舒明天皇は即位して百済川の側を宮処としたという。
舒明紀639年
「大宮及び大寺を造作すという、即ち百済川の側を以て宮処となす」
宮処は地名として残っている。
和名抄
「肥前国神崎郡 蒲田、三根、神崎、宮所」
肥前国風土記
「神崎郡 宮処郷 郡の西南にあり」
神崎郡の西南に流れる川は筑後川支流の城原川という(現佐賀県諸冨町)。百済川とは現城原(じょうばる)川と思われる。
皇極紀元年642年
「阿曇連比羅夫(あずみのむらじひらふ)、筑紫国より騨馬(駅馬、はゆま)に乗り来りて言う、百済国は天皇(舒明)崩ずると聞き、弔使を奉遣す、臣、弔使に従いて共に筑紫に到る、而るに臣、葬に仕えむと望み、故に独り先に来る也」
舒明天皇の葬儀の場所に「筑紫から早馬で来た」とある。葬儀は本拠で行われたであろうから、そこが九州内ということは「舒明の本拠は九州内」である。
上宮王家が大和王権と合体した一因は「唐と対立する倭国から距離を置きたい」だったと考えられる。その唐を訪問した学者伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の報告が緊迫した唐・倭の関係を伝えている。
斉明紀割注所引伊吉連博徳書
659年条「(遣唐使)難波、、、より発す、、、(唐)天子相見て問訊し『日本国の天皇、平安なりや(天子相見問訊之日本国天皇平安以不)』と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あらむ(戦争となるだろう)、汝ら倭の客東に帰ること得ざる(抑留)、と、、、」
661年条「(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな」
ここで日本書紀は「日本国」と「倭」と「大倭」を書き分けている。皇帝が話しかけているのは「日本国(の客)」だ。正規外交相手でない「日本国」の「客」に皇帝自身が会う、ということは異例のことだ。文中の「勅旨」の相手は正規外交相手の「倭(国)の使い」だろう。両方(汝ら)を「倭の客」として「留め置く」と言っている。大和の僧や学者らが倭国遣唐使船に便乗していたのであろう。その「両方」を「留め置く」の理由は倭と中国の外交問題と示唆されている。留め置かれた博徳の帰国は唐帝の意向(日本を味方に引き入れる密約)を斉明天皇に伝える為に特別に帰国を許されたのではないだろうか。「大倭」は九州倭国の自称、ここでは国内での通称。「大倭の天の報い」とは中国外交筋の怒りを博徳から漏れ聞いた倭国外交に批判的な人々(斉明朝)の見解であろう。
ちなみに「天皇」という称号は天武天皇が創始した、それまでは「大王(おおきみ)」と呼ばれた、というのが定説だ。しかし、第五章注 [1] でのべたように[4]再掲 、日本書紀は海外史料や海外王族の発言についてはたとえまちがいと思われる記述もむやみに改変しない、という原則があったという。特にここでは「日本書紀公定のたった60年前の朝貢相手国の皇帝の言葉」であり、漢語会話 → 漢語報告書 → 斉明紀の引用漢語記述までに意図的な改変があったとは考えられない。「日本国天皇」という呼びかけは改変無い史実であろう。
[4] 「大倭」「天王」「日本」「天皇」について 「日本書紀の謎を解く」森博達 中公新書 1999年 (162頁)で森は「雄略紀五年条(前掲)で『我が(之)孕める婦』の『之』は正格漢語の誤用で、編者(中国人続守言としている)の文章であったら訂正したであろうが、引用扱いとしてあえて改変していない。」として、日本書紀編者の改変が加えられていない「準引用文」の例としている。雄略紀五年条には「大倭」「天王」があるが、蓋鹵王の発言であるから、朝鮮王の言葉の引用として改変ない例と考えられる。
●206 斉明天皇崩御と白村江(はくすきのえ)の敗戦 (2012.12 注 額田王 追加)
斉明軍は661年1月に難波を発った。斉明のたっての願いで、自ら指揮することになったと言われている。西征軍が伊予に休止しした後の出立の歌が万葉集にある。
万葉集巻一、八 額田王の歌
「熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
この歌を斉明に同行した天武の妃額田姫王(ぬかたのおおきみ)の歌、とする通説がある。しかし、万葉集の左注に「類聚歌林(山上憶良)によれば、斉明天皇の歌である」とあるように、「斉明天皇(=額田王)の歌」である。これが正しい[5]。斉明天皇の意気込みを感じさせる出立の号令である。
しかし68歳の女帝の出陣は尋常ではない。斉明軍は時間をかけて、4月に筑紫朝倉宮に着いた。しかし、斉明は旅の疲れからか、7月にあっけなく急死してしまった、とされる。
斉明紀 661年
「七月、天皇が朝倉宮に崩御された」
「斉明崩御は仮装」説については次章で述べる。その後、皇太子中大兄皇子が政務を引き継いだ。
天智紀
661年「九月、百済王子豊璋を軍五千余で本国に衛送した」
662年「五月 大将軍比邏夫連等が軍船百七十艘を率いて豊璋等を百済国に送り其位を継がせた」
663年「三月、前・中・後(阿倍比羅夫)七千人を派遣し新羅を打つ、、、六月、百済王豊璋は福信に謀反の心を疑い、、、斬った、、、新羅は百済王が良将を斬ったことを以って直ちに入国、、、八月、唐軍は軍船百七十艘を白村江に陣烈した、、、日本の軍船が到着し、大唐の軍船と戦った、、、日本不利に退く、大唐は堅陣を守る、日本諸将と百済王は状況を観ず、、、進んで大唐の堅陣の軍を打つ、大唐は進んで左右から船を挟んで包囲戦した。たちまち官軍は敗を績ねた。水に落ち溺死する者多数、、、百済王豊璋は数人と船に乗り高麗へ逃げ去る、、、九月、百済は唐に降伏した」
ここで「日本」とのみ記されているが、もちろん「倭国軍」が主導する「倭諸国軍(日本軍を含む)」だ。倭国軍は大敗した。引用がいささかそっけないのは、抜粋だからではない。原文自体が他人事の様な書き方である。記述にもある様に、百済・倭国連合軍は稚拙な戦いをした様だ [6] 。
筆者が白村江を訪れた際、その干満差の大きいのに驚いた。200q北の仁川(じんせん)は世界最高クラスの潮位差(8m)があり、干潮時にはで沖合い数キロ(km)が干上がるという。
この様に、7世紀には朝鮮半島の国際関係に劇的な変化があった。隋が高句麗との戦争で疲弊した後、隋に代わった唐は高句麗の背後の新羅と手を組み、まずは百済を攻めてこれを滅ぼした。次いで、新羅と組んで百済再興派と倭国連合を下し、最後に高句麗を滅ぼして全半島を影響下に納めた。
[5] 「額田王(ぬかたのおおきみ)」と考えられている人物は3人いる。その一人が本文のように「額田王(万葉集)=斉明天皇」である。もう一人は斉明崩御後の万葉集の「額田王」だ。こちらは「天智天皇の后、倭姫王」の万葉集での別名で、天智への恋歌を歌い(巻四、四八八番)、天武から「人妻ゆゑに」と歌われ(巻一、二〇番)、天智のもがりの歌を締めくくり(巻二、一五五番)、「類聚歌林」が「御覧・御歌」と尊称する。古人大兄皇子の娘である(日本書紀)。おそらく斉明の別名「額田王」を継承したのであろう。三人目は天武天皇妃「額田姫王」で、鏡王の娘である(日本書紀)。通説は「額田姫王=額田王」として天武・天智との三角関係を取り沙汰する。しかし、「額田姫王=額田王」の根拠は日本書紀にも万葉集にもなく、また父が違う別人である。天武の妃が天智の后になったのではない。(「人麻呂は誰か」坂田隆 1997 新泉社)
[6] 「『白村江』以後」 森 公章 講談社選書メチエ 146P など。
●209 唐の交渉軍使 2013.7 更新
白村江の敗戦の半年後(664年)、百済の鎮将(唐将)劉仁願(りゅうじんがん)が唐使郭務綜(かくむそう)を派遣してきた。
天智紀664年
「夏5月、百済鎮将劉仁願は郭務綜等を遣わす、表函と献物を進む」
従来、戦勝国唐が軍使を敗戦国倭国に派遣して戦後処理の交渉に来た、と解釈されてきた。しかし、倭国は対抗姿勢をくずしていない。
天智紀664年
「是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に防(さきもり、ママ)と烽(のろし)を置く、また筑紫に大堤を築いて水を貯める、名を水城という」
天智紀に記述があるのは、大和王権も協力したからであろう。唐は再度使いを送る。
天智紀665年
「9月23日唐は劉徳高、郭務綜等 [等とは右戎衛郎將上柱國百濟禰軍を謂う] 254人を遣わしてきた。9月20日に筑紫に着き、22日に上表文の函を奉った、、、12月劉徳高まかり帰る」
唐の軍使が国書を持って筑紫に着き、2日後に国書を提出したという。国書のあて先は筑紫の倭国王だったことを意味し、大和の天智ではない。これに対し、倭国は唐へ使節を送った。
天智紀665年
「是歳、小錦守君大石等を大唐に遣わす云々〈等とは小山坂合部連石積・大小乙吉士岐弥・吉士針間を謂う、蓋し唐使人を送るや〉」
唐使の帰国に同行したのだろう。これも和平交渉と解釈されてきた。
ところが次の文書から、これら唐使や倭国使節の目的が別だったことが解る。
旧唐書劉仁軌伝665年
「泰山に封ず、仁軌は新羅・百済・耽羅・倭の四国酋長を領(ひき)いて会に赴く、高宗甚だ悦び、、、」
唐皇帝にとって最大の祭祀慶事、秦の始皇帝に始る「泰山封禅」に近隣国の酋長が参加し皇帝はご満悦とある。その事前準備の倭国王出席要請(天智紀664年)とその迎え(天智紀665年)、そして倭国使節の出発(665年)だったのだ。665年の唐使が254人という小人数だったことは「慶事出席要請だから、威圧的行動を避けた」と解釈できる。
泰山封禅使節団の帰国記事がある。
「百済の鎮将劉仁願、熊津(百済)都督府熊山県令、、、等を遣わし、、、石積等を筑紫都督府に送る」
ここに「筑紫都督府」が初出する。都督府は唐の占領地監督の機構であり、敗戦国百済熊津にもある。その都督府が筑紫にあるということは、過去3年の唐の慶事優先の融和外交が一転したということだ。遡って、664年の慶事出席要請使は倭国の対抗姿勢を帰国報告しただろう。665年の迎えには倭国を刺激しないように少人数で丁重に倭国使を迎えた。しかし、慶事を無事終えた667年の倭国使返送便で唐は一転して強硬外交を見せつけた。背景に667年に唐は高句麗を討ち「向かう所克ち捷(か)つ」(旧唐書)とあり、余裕の出てきた唐の「対抗姿勢を緩めない倭国に対する厳しい要求」があったと解釈できる。この帰国記事には665年条の「 小錦某」が含まれていない。留め置かれたのではないだろうか。ただ、この段階では都督府の規模は筑紫の港湾に浮かぶ唐の軍船だけだったかもしれない。その根拠は、依然として倭国は対抗姿勢を崩していなかった。朝鮮史書が、不穏な動きを伝えている。
三国史記新羅本紀668年
「唐は『倭国討伐』を理由に軍船を修理したが『新羅討伐』のためと噂された」
唐が「倭国討伐」を唱えると言うことは、倭国が唐への対抗姿勢を崩していなかった、と解釈できる(前章、斉明紀659年条伊吉連博徳書参照)。
●210 天智即位
倭国が唐との対立を継続する中、天智が飛鳥から近江大津へ遷都し(667年)、天皇に即位した(668年)。なぜ斉明の没後6年も称制を続け即位できなかったか、なぜ斉明の造った立派な大和飛鳥を捨てたのか? 様々な謎がある。
斉明天皇は白村江の戦いに出兵準備の九州朝倉宮で崩御した(661年)とされるが、「実は崩御は斉明軍を大和へ引き上げる口実とする為の中大兄皇子の仮装で、斉明天皇は実際は666年まで生きていた」とする説がある(九州王朝説の一部)。その根拠は羽曳野市(大阪府)野中寺弥勒像台座の「中宮天皇病気平癒の請願文」であるとする。
野中寺弥勒像台座銘文
「丙寅年(666年)、、、中宮天皇大御身労坐します時、誓願し奉りし弥勒御像也」
この説は「666年に天智は称制で天皇ではない。だから天皇でありうるのは斉明天皇の生存説」とする。一つの可能性である。筆者はもう一つの根拠を挙げたい。「斉明天皇は中皇命(なかつすめらみこと)と呼ばれることもあった。万葉集の中皇命の歌(巻1−10〜12)の注には類聚歌林(山上憶良)に『天皇の御製歌なり』とあることなどから斉明天皇である」(折口信夫説を引く坂田隆説、人麻呂は誰か 新泉社 1997年)とされる。ここから筆者は「666年の中宮天皇とは中皇命=斉明天皇である」とする解釈は有り得ると考える。すなわち「斉明天皇は666年まで生きていた」という可能性である。
●211 斉明天皇の崩御は仮装か? (2014.10 追加)
「さすが斉明崩御を仮装してまで軍を引くことはありえない。長年の友邦国倭国を裏切ることになるからだ。」というのが常識だ。しかし、事は国家存亡にかかわる。倭国もろとも日本まで滅亡したら、列島は唐の完全な支配下になる。一方、唐にとっても長年朝貢を願ってきた日本を倭国から分断することは伝統の遠交近攻策に叶う。日本は負ければ更に奥地に逃げて手を焼くだろうと考えたに違いない(後述「祢軍墓誌」参照)。唐帝は遣唐使に随行した伊吉博徳らに異例にも「日本国の天皇、平安なりや」と問いかけている(斉明紀661年条、前章参照)。唐から日本に百済復興に協力しないよう何らかの働きかけがあったとしてもおかしくない
同じような働きかけは過去孝徳天皇にあった。遣唐使に随行した日本使に時の唐帝高宗は璽書を賜り「出兵して新羅を援け令(し)む」と百済攻撃を命令している。悩んだ孝徳は病にかかって崩御してしまう(前章)。斉明天皇は孝徳天皇の後継者である。唐帝は同じ命令を繰り返したかもしれない。それを斉明天皇が受け取った可能性がある。「斉明天皇が朝倉宮で崩御される直前、伊吉博徳が唐から帰国して朝倉宮で斉明天皇に『大倭の天の報い、近きかな』と唐の強硬姿勢を報告している」(同斉明紀661年条)。唐の意向が日本にもたらされたとしたらこの時しかない。そうだとしたら、斉明天皇の窮地はただならぬものだったに違いない。半島出兵直前である。唐に朝貢を願い続けた日本が、唐に「百済を討て」と命令された直後に唐と戦うのでは、唐の怒りが倍加する背信となる。
報告を聞いた斉明天皇が、もちろん心痛から急死したかもしれないが(紀)、中大兄皇子と謀って崩御を仮装した可能性もある。 いずれにしても喪に服し、斉明軍を減らしたり参戦を遅らせたりしたようだ。日本としては、ぎりぎりの選択だ。それでも唐は怒った。それを示す金石文がある。白村江の決着が着いたあとも唐は「日本は唐の罰を逃れている」としている(後述「祢軍墓誌」参照)。
●212 近江大津遷都 筆者解釈 2013.7 新
天智の近江遷都も謎とされている。「唐の侵攻を恐れて、より奥地の近江にのがれた異常な臆病か?」とされている。当時の人々からも反対が多かったというから、明らかな身に迫る外敵の脅威があった訳ではない。確かに天智の遷都した667年は筑紫に唐の都督府が設けられた年だが、まだ倭国の対抗姿勢は続いている。
筆者の推測は「天智の恐れたのは、唐の侵攻そのものではなく、倭国が早晩唐に屈すると、唐は倭国に大和を攻めさせる、という想定だ」と考える。倭国は神武の建国以来400年間大和を同盟国とし、これを敵国・競合国として武力を行使した事は無かった(磐井の乱も含め)。しかし、倭国が唐の傀儡になれば、唐の命令で大和征伐が始まるのは明らかだった(後述「祢軍墓誌」参照)。倭国軍は弱体化していたにしても、そうなれば、すでに大和に逃げてきた多くの倭国の王族・貴族・豪族、それに大海皇子派までが雪崩を打って天智を裏切り倭国軍に寝返る恐れがあった。
天智は近江へ遷都して「倭国の藤原京遷都を受け入れる。その為に藤原京を空けた。ただし、その条件とは大海皇子への倭国王譲位だ」と倭国に提案したのではないだろうか。そもそも、斉明は何のために倭国王皇弟とも目される大海皇子を取り込んだのか、その大海皇子に4人もの天智皇女を送り込んだのか。それは、大海皇子を大和の力で倭国王に押上げ、天智が倭国王の外戚として倭国を専らにする戦略、恐らく藤原鎌足提案の長期戦略の実行だ。
一方、倭国にとっても今や大和遷都は魅力のはずだ。唐の脅威にさらされる倭国王が大海皇子(倭国王皇弟?)に譲位することも条件しだいで可能性もある。
倭国王が親唐大和派に代われば唐も傀儡としてではなく冊封体制としての朝貢に同意するだろう。新羅の前例がある。唐・百済・高句麗と対立した新羅は唐の懐に飛び込む冊封体制受入れで、むしろ事実上の独立を維持した。
天智にとって危険な賭けだが、成功した前例があった。さかのぼって「乙巳の変」の時、上宮王家皇極天皇は大和王権の孝徳天皇に譲位して上宮王権を大和王権に委ねたが、孝徳天皇が崩御すると斉明天皇が皇位を取り戻した。 結果的に大和王権を手に入れた(第八章)。今、大和王権天智が弱体化した倭国を藤原京に迎え入れ、大海皇子を倭国王に、その子草壁皇子(天智の孫)を皇太子にすれば、将来倭国王草壁が実現し、天智が外戚祖父として倭国を支配する。天智はその戦略の実行を急いだようだ。斉明天皇の遺言だったかもしれない。藤原京を空けて近江京に遷都するとともに、難波周辺の軍事施設(高安城)を強化した(667年)。
●213 唐軍進駐と倭国の朝貢
ところが、天智の恐れは意外に早く現実化して、戦略は狂ってしまった。
天智紀(669年)
「唐の郭務悰と2千名が九州に派遣された」
ついに倭国は対抗姿勢を止め、唐の冊封体制にはいった。それを示す史料がある。
唐会要倭国伝
「咸亨元年(670年)3月、使いを遣(つかわ)し高麗を平らぐを賀す。爾後、継(つづけ)て來りて朝貢す」
これまで長年倭国は、たとえ遣唐使を送っても朝貢はしてこなかった。そのことを中国史書は繰り返し確認している。隋書610年条を最後に「貢」の字を使わず「献」の字のみを記している。しかし、ここの記述では「朝貢」となっていて、倭国の対抗姿勢は無くなっている。倭国はこれまでの対唐対等路線を捨て、朝貢路線に転換した。
天智紀671年
「対馬国司が筑紫大宰府に使いを遣わして、郭務悰と2千名が、捕虜の筑紫君薩野馬 を連れて交渉を要求してきたことを伝えた」
薩野馬の他にも多くの王族人質や捕虜が半島に残されていて、中国はそれを交渉材料にして朝貢を押し付けたと思われる。
●214 百済人祢軍墓誌 2013.7 新
この時期の国際関係を示す史料が2011年に中国で見つかった。百済人祢軍(でいぐん、人名)墓誌拓本である。祢軍は中国系百済人で百済朝廷高級官僚、対唐戦で捕虜となったが抜擢されて傀儡百済政権の高級官僚となり、唐の対倭国交渉にも加わった。天智紀665年条(前掲)の「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」がその人と考えられている。678年ごろ没した。墓誌の拓本のみが2011年に中国で見つかった。
全文884字の関係部分を示す。下線部が注目ヶ所だ。
百済人祢軍墓誌
「、、、去る顕慶五年(660年),官軍(唐軍)本藩(百済)を平らげる日、、、于時(ときに)日本の餘噍(残党)は扶桑(近畿)に拠りて以って誅(罰)を逋(のがれ)る、、、萬騎野を亘り、、、千艘横波、、、(以下唐・百済戦の描写)、僭帝は一旦臣を称し、、、仍(すなわ)ち大首望数十人将を領(ひき)い、入朝して謁する、特に恩を蒙り左戎衛郎将を詔授される、、、」
下線部については当時の朝日新聞などで様々な推測がなされた。
(1) 墓が立てられた678年頃に「日本」という国号が使われている。最も早い例か。
(2) 「日本」とは倭国のこと、倭国の残党が逃げた扶桑とは近畿、その意味は「倭国が近畿に遷都したのではないか」(一部の九州王朝説)。
(3) 倭国王は「天子」から「朝貢する臣」になっているから墓誌の「僭帝一旦臣を称し」に一致する。倭国王は出陣し、戦い捕らえられ、臣下の礼を取らされたのではないか。
(4) 捕虜の筑紫君薩野馬は唐で「恩を蒙り倭国王を詔授され」て送り込まれてきたのではないか。
●215 薩野馬は倭国王でない 筆者解釈 2013.7 新
●216 天智天皇が「分国倭国=やまと」を「日本」に改号
倭国が傀儡化して朝貢を始めてしまった(670年)。天智の長年の戦略が狂ってしまった。「唐と対立する倭国に代わって倭諸国代表と認めてもらう」、これが長年の大和の戦略だった。ところが、倭国が朝貢を始めては、その可能性が無くなった。残る道は倭国から独立することだ。
三国史記 新羅本紀670年
「倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う、『日の出ずる所に近し』と。以って名と為す」
倭国が改号したと言うのだが、この史料以外にこの改号を記すものは無い。しかも旧唐書にはこの後も倭国は登場する。そこから「これは後世の日本(総国)建国(701年)の記事を、この年にはめ込んだのだろう」と言われている。しかし、701年は「建国」であって「改号」ではない(続日本紀 後述)。
「日本」は古くは倭国・朝鮮から近畿(日出ずる方)を指す漢語他称として、また継体天皇頃から自主外交の場面で大和朝廷の漢語自称として使われた(第五章参照)。この時期(670年)に、近畿・大和のいずれかの国名を「日本」と改号できる人物は天智天皇しかいない。では改号の元の「倭国」は九州倭国だろうか。いや、天智天皇に宗主国の改号権限は無い。一つの可能性が考えられる。それは大和朝廷が自らを「倭国(の一員)」と自称してきたことだ(新唐書日本伝・推古紀の「倭皇」など)。「総国倭国の中の分国倭国」という意味だろう。その「分国倭国(=近畿・大和)」を、天智天皇が分国倭国王として「日本国」に改号することは論理上可能である。「分国倭国の改号」の狙いは、「宗国倭国からの独立、傀儡倭国との決別」だろう。倭国と手を切り、唐と連携する新羅と通じたのだ。新羅だけがこれを受け入れたようだ(三国史記670年条)。しかし皮肉にも、この年から唐と新羅は対立を始めた。
●217 壬申の乱 2013.7 改
「倭国と日本の大連合を大和が主導する」が大海人皇子に期待される役割だった。それに先んじて唐が倭国を傀儡化することを天智天皇は恐れた。しかし、恐れていた通り、倭国は唐の傀儡となり(670年)、大和に先んじて朝貢するようになった。天智天皇が大海人皇子(皇太弟)に譲位する理由が失われた。天智は子の大友皇子を重用し、ついに太政大臣に就かせた。それが壬申の乱の引き金になった。
天智10年(671年)、天智は病気を理由に譲位を提案するが、大海人皇子は裏があるとみて辞退し、出家して高野山にこもった。その後天智が没し、翌年(672年)6月「壬申の乱」が始まる。
藤原京は天智軍で固められていたから大海皇子は美濃を頼った。「大海皇子は倭国を頼った」(古田説)は正しくない。大海皇子は唐への対抗意識を保っていたから唐の傀儡倭国を頼るはずがない。また西国諸国も天武(反唐)に味方すれば唐の敵となるから賛同しなかったであろう(後述)。皇位継承戦争の形を取った戦いだが、国際力学・新旧勢力・近畿対地方など様々な要素が複雑に絡み合いながら、日本古代における最大の内戦は短期間で大海人皇子が勝利した。大海人皇子は藤原京で即位して天武天皇となった(672年)。
●218 天武天皇の「大倭国」構想
天武天皇が編纂を指示した古事記(次章)には「日本」が一度も出てこない。天智天皇の中域「日本国(漢語、国名)」を否定したのだ。では、国名は何にしたのだろうか? 天武天皇は「大倭国(たいわこく、漢語、国名、おおやまと、和語、国名)」の構想を持っていたと思われる。過去にも正式漢語国名「倭国」に対して、「大倭(たいわ)、漢語、国名」は雄略紀や斉明紀にも出てくるがあくまで自称・美称国名である。それを「倭国」に代わった新しい天武王権の正式漢語国名にしようとしたのだろう。多利思北孤の「俀(イ妥)」も「大倭」に由来する、という解釈も前述した。天武はその「大倭国」を再現しようとした。このことは、天武が編纂を指示した古事記の冒頭部分に「大倭(おおやまと)豊秋津島(総国)」の当て字があることからもわかる。数代の天皇名の頭についた「大倭(おおやまと、やまと)根子」の当て字も編纂時の天武の意思ではないか? その心は唐と対等になろうとした倭国の「大倭」の精神を引き継ぎたい、という天武の意思の表れと考えられる。そうであるならば、天武は生粋の南朝派倭国王家皇子である。
「天武の大倭国構想」と解釈したもう一つの根拠は、天武の崩御後孫の文武天皇が「大倭(漢語・和語、国名)」を「大倭(やまと、和語、国都名)」に格下げしたからだ(707年以後の大和地名に現れる)。天智の「日本国改号」を天武が否定し、天武の「大倭国」を文武が否定したしたことになる。いずれも政治的意図と考えられる。逆にそれが「古事記の『大倭』は天武の政治的意思」だったことを示唆している。
●220 倭国の終焉 (2013.9 加筆)
朝鮮半島では高句麗を破った新羅が優勢になって、徐々に唐と対抗する様になり、ついに唐軍を朝鮮半島から追い出して朝鮮を統一した(676年)。唐軍の半島退去で九州の唐軍も縮小されたと考えられている。
唐軍を後ろ盾とした傀儡倭国の情報も全く消えた。701年の日本建国までに倭国は消滅したと考えられているが、いつ、どの様にして消滅したのか、定かではない。唐は公式には倭国の滅亡に関与した、とはしていない。公式唐史の旧唐書倭国伝の末尾に「白村江の戦い」を記していない。これは「対百済戦」の残敵討伐戦であって倭国は百済の支援部隊に過ぎない。唐と倭国は公式に戦争した訳ではない。また、旧唐書には「倭国伝」に続いて「日本伝」があるが、「日本は倭国との関係を云々しているが倭国と日本は別種だ。」としているだけで、公式には「倭国の滅亡の理由には関知しない」との立場に見える。
しかし、前章で挙げた百済人祢軍墓誌
百済人祢軍墓誌
「、、、去る顕慶五年(660年),官軍(唐軍)本藩(百済)を平らげる日、、、于時(ときに)日本の餘噍(残党)は扶桑(近畿)に拠りて以って誅(罰)を逋(のがれ)る」
この文章から「倭国は罰を受けている」と読み取れる、と前章でのべた。更なる解釈の可能性もある。この墓誌には「百済」と「日本」があるが「倭」字が無い。彼が665年、使節として来た相手は「倭国」であって「日本」ではない。その「倭」がない。この時期まで「倭」を記録しつづけた中国史料、即ち「(660年、百済で)倭衆並びに降る」(旧唐書百済伝)、「(670年)來りて朝貢す」(唐会要倭国伝)なども、この時期以後出現しない。そのことに注目すれば、この文章は「唐軍は百済を平らげた。倭国は罰を受けて消滅した。日本の残党は近畿に拠って罰をのがれている」と、下線部を補って読むのが妥当だろう。墓誌は678年で、唐軍の撤退の前後である。その時期に「唐軍の罰を受けて消滅した」とはどんな状況が考えられるだろうか。
唐軍は百済から撤退した時には宝物を根こそぎ奪い、宮殿を破壊つくし、百済王、皇子のほかに1万人を捕虜として連れ去ったと言われている(その後に傀儡政権 → 唐軍政)。九州の唐軍は最大で2000人だから、駐留軍ではあるが占領軍ではない。しかし、唐軍は倭国を傀儡化し、傀儡倭国に対し百済から逃げた王族貴族の引き渡し、彼らが百済から持ち逃げた宝物の引き渡しを要求しただろうことは想像に難くない。百済人のみならず、百済から逃げ帰った倭国軍の王族や将軍もその対象になったであろう。彼らは山野や日本(近畿)に身を潜め、唐軍の引き渡し要求は次第に強奪になり、傀儡倭国はそれを黙認し、更に協力したかもしれない。唐軍撤退前には見境ない略奪・暴行・放火の嵐が九州倭国を襲ったことが容易に想像される。なぜなら、九州から近畿へ逃避した宝物は多く、九州に残された貴重な遺産があまりに少ない。
倭諸国にとって、倭国の外交機能こそが倭国を宗国と認める根拠だったから、それを失った傀儡倭国はもはや宗主国の吸引力は無い。倭諸国の離反や倭国王族の大和避難で、倭国は急速に空洞化・縮小化して、立ち枯れのように消滅したのではないだろうか。
その根拠の一つが上述した「祢軍墓誌
●221 大極殿 倭国消滅の傍証
●222 天武天皇の記紀編纂事業 古事記 (2011.10 改)
●223 古事記の 「倭(やまと)」
●224 「万世一系」
●225 天武天皇崩御
唐軍が撤退し、倭国は消滅した。天武にとって、まさにこれから「統合大倭国」を建国しようとする時期だった。大和の諸王権の位置づけも明確にし、国史の編纂もそれなりに進んでいた。旧倭国の「大倭国への吸収」も順次進んでいただろう。
しかし、天武天皇は「大倭国」の夢の実現を見ることなく、686年に病没した。天武崩御後、皇后持統が称制をとり690年に即位したとされる。持統天皇は天武天皇の路線を継がず、むしろ父天智天皇の親唐路線で大和の「日本」中心の新国家構想を推進した。天智天皇にその路線を助言したのが藤原鎌足で、持統天皇に助言したのが鎌足の息子藤原不比等だ。この2代にわたる関係に注目したい。
このようにして、倭国は最後の支持者だった天武の崩御によって、継承と再建の途を閉ざされた。持統天皇は「大極殿」を「内裏」に戻し、その孫文武天皇は国都名を「大倭(やまと、和語)」に変えた[5]。天武の「大倭(たいわ、漢語、国名)」・「大倭(おおやまと)、和語、国名」」を「大倭(やまと、和語、国都名)」に格下げして矮小化したのだ(前章末尾で触れた)。
これには従来「持統が夫の戦略よりも、血統を選択して父の戦略を採った」という解釈もあるが、それよりは「唐と対立した倭国・大倭国を足下にしっかり押さえ込んだ姿を中国に示した上で、改めて朝貢外交を請う」と言う、現実的な外交路線が選択された結果と考える。この時点では、天武天皇の親倭・反唐路線は、滅亡した倭国と同じ「危うい観念主義(理想主義)」だったと言うべきだろう。こうして唐への対抗姿勢を消し去った後、天武天皇が消した中域「日本」を、今度は文武天皇が総国「日本」として建国し、編纂中の国史も「日本紀」とし、念願の日本の朝貢遣唐使へと続く。
[5] 「大倭」 701年に大和地区を「倭(やまと)」から「大倭(やまと)」に当て字変更した。これより前の天武紀4年(675年)に飛鳥地区を「大倭(やまと)国」と呼ぶ例が出てくるが、これは日本書紀の編纂時の遡及改変だろうとされる。「大倭(やまと)」は後に「大和(やまと)」に変更された。「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993年
●226
日本建国と遣唐使
持統天皇の皇太孫文武は、697年に持統を継いで天皇に即位したが、701年3月に改めて建元した。
続日本紀 [6] 701年条
「3月、対馬嶋が金を貢ぐ、建元して大宝元年と為す、令を始め官名位号を改制す。」
「対馬嶋が貢ぐ」とは、「対馬という旧倭国の地を併せた(旧唐書 後述、「国を併せた」ではない点に注目)」ことの誇示であり、「建元」とは「改元」と異なって元号を新たに建てることで、新王朝・新国家の始まりを意味する。では、新国家は何と号したか? もちろん「日本国」である。しかし、その日本国は「日本国の建国は神武による」としているので(日本書紀)、701年は建前上建国ではなく、それ以前から日本国が存在しなければならない。そこで、文武は即位(697年)するとすぐに日本国号を復活させた、と思われる。それを示す史料がある。
三国史記 698年「日本国の使、至る」
天智天皇の「日本国(分国)」改号(670年)は、天武天皇が廃止して「大倭国(おおやまと、総国)」を称していた、と考えられるからだ。では、797年完成の勅撰「続日本紀」は、720年の日本紀(改め日本書紀、791年)の立場を知りながら、なぜ701年に関して建国を意味する「建元」と記したのだろうか?
「どの国も大昔からの建国神話を持っている。だがそれは建前で、実態は701年が建国だ」という当時(797年頃)の常識を素直に記している、と解釈できる。
建前は建前として、701年の「建国」以前の大和は「国」ではなかったのか? 宗主国倭国の下で自前の元号も無く、国史も無く、官位制度も借り物で、外交ルートも持っていない、国際的にはとても一人前の国家ではなかった。だから、建国して国際的な承認を得ることが必要だった。遣唐使派遣は建国の仕上げの儀式でもあった。
[6] 「続日本紀」 797年完成の勅撰 撰者菅野真道
●227 唐の認定「倭国と日本は別の国」
翌年、文武は遣唐使を派遣して、建国の国際的承認を求めた。遣唐使は総勢160人、代表は粟田真人(くりたまひと)、萬葉歌人として有名な山上憶良が随行した。その結果は、唐の史書「旧唐書」に記されている。東夷伝の中に、高句麗・百済・新羅・倭国と並んで初めて日本国の条が立てられている。
まず、従来の倭国条については、すでに何度も記載した。
旧唐書列伝東夷倭国条
「倭国は古の倭奴国なり、、、世々中国と通ず、、、その王の姓は阿毎氏、その字は多利思北孤、、、官を設けて12等あり、、、貞観5年(631年)、使いを遣わして方物を献ず、、、高表仁を遣わし、、、綏遠の才なく、王子と礼を争い、、、22年(648年)に至り、また新羅に附けて表を奉り、以て起居を通える」
倭国条の最後は、648年の「新羅に託して状況を伝えた」で終わっている。白村江の戦いも、傀儡倭国も出てこない。前者は唐にとって百済との戦争であって、倭国関係の事件ではない。後者は唐軍の末端の失敗でしかない。倭国は記される程のことも無く、唐史から消えた。
これに対して、新たな日本国の条は、
旧唐書列伝東夷日本条
「日本国は倭国の別種なり。その国は日の辺に在るを以て、故に日本を以て名となす。 或はいわく、倭国は自らその名の雅しからざるを悪み、改めて日本となすと。 或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併すと。 その人の入朝は多く自ら衿大にして、実を以て対せず、故に中国は疑う、、、其の大臣朝臣真人、来り方物を貢す」
唐は日本の遣唐使から、倭国と日本国の関係について @別の国、A倭国の改名、B日本が倭の地を併合した、と矛盾する3つの説明を受けた様だ。これを聞いた唐は説明に疑いを持ち、「故に中国は疑う」と述べている。そして、@別の国 だけを認め、朝貢を認めた上で、国交開始の証として日本条を立てた。それ以外の日本の主張A・Bについては、記すだけに留めている。
これを検討する。
(1) 「日本国は倭国の別種なり」 倭国遣唐使に随行した推古遣隋使以来、日本は「倭国とは別の国」を繰り返し主張したから、唐もこれは認めた。
(2) しかし次の改名説は受け入れていない。「倭国は自らその名の雅しからざるを悪み、改めて日本となす」は天智天皇が「倭国(分国名、大和)を日本国と改号した時の理由」(三国史記670年、唐会要670年、前章)だが、中国はそう受け取っていない。「倭国(総国名)を日本国と改名した」との主張と受け取り、「倭国は滅亡した。倭国の継続・単なる改名は認めない」と拒絶している。
(3) 「日本は旧小国、倭国の地を併す」は「倭国消滅の後、倭国の旧地を併す」の意味であって、「倭国を併す」でないから虚偽ではないが、中国側は「日本は倭国を吸収合併」という主張と受け取り、これも「倭国の継続」として拒絶している。「倭国は滅亡した」との理解だからだ。
(2)(3)のいずれも、「実を以って対せず」と言われるような虚偽を言っている訳ではないが、中国の理解を得てはいないようだ。
●228 日本書紀の編集方針「倭国不記載」と「ぎりぎりの記載」
●229 「二つの倭国」と「倭国不記載」 百済三書を参考に (2014.8 追加)
●230 その後の日本
日本書紀公定を前に「最近まで存在した倭国」を日本国から排除することが総仕上げだった。それには、倭国に関する記録を含んだ国内史料が問題だった。遣唐使帰国後の708年、朝廷はそうした望ましくない書物を禁書として没収した。
続日本紀708年「和銅元年とし、、、大赦(たいしや)を行う、、、死罪以下、罪の軽重に関わりなく、、、すべて許す、、、山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来の様に罪する」
どの様な書物が禁書になったかは推して知るべし、だろう。
こうして、日本書紀はまず「日本紀」として完成した。
続日本紀720年
「舎人親王、勅を奉じ日本紀を修む。ここに成りて奏上す。紀30巻系図1巻」
完成の翌年(721年)には早くも、宮中において博士が貴族達の前で講義する日本紀講筵(こうえん)が公的に設けられた。これは、開講から終講までに数年を要する長期講座で、日本紀の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられたと言う。ここでは国内向けには日本の正統性を最大限に教宣した。漢文に弱い日本国民に振り仮名を付けて「神武以来、山跡(やまと)が倭(やまと)であり、大倭(やまと)も大和(やまと)も日本(やまと)である」と教えた。日本書紀の「日本」初出に、「大日本[注、日本、此れを耶麻騰と云う、以下皆此れにならえ]豊秋津島云々」とあり、「日本(やまと)」が常用されていなかった新しい訓読であることが読み取れる。しかも、海外文献の引用「日本(にっぽん)」にも適用させている(この乱暴な注が編者注であるはずがなく、解説者注であろう)。海外に通用する理屈ではないが、振り仮名を利用して、理屈抜きに「日本は倭国」を繰り返し刷り込んだのだ。鎌倉時代の「釈日本紀」からは、「二文同一」(第五章)を肯定した解釈から「日本=大倭」「天皇=大倭天王」が既に深く浸透していたことが伺える、と述べた。以後、日本国はこの主張を繰り返し、次第に他国もそれを「日本の主張」として認知していった。
通常史書は隣国までは触れるものだ。しかし、ほぼ完璧な「倭国不記載」だったから「倭国=日本」の教宣が成功した。
こうして倭国は終焉しただけでなく、消されてしまった。
更に後年、天智系の光仁天皇が「日本紀」の特に持統紀に改変を加えて天智系を正統とした「日本書紀」を改めて公定した(791年)。これが今日の「日本書紀」として伝わっている、と言われている。このことは本書「倭国通史」の範囲ではないので触れない。本書で参考にしたのは改定後の「日本書紀」であるので「日本書紀」と記述した。
●231 新唐書の理解
●232 法隆寺の変遷 大和朝廷の上宮王家顕彰寺 (2013.2 追加)
最後に一文を追加したい。日本国建国後、大和朝廷は公式には「神武天皇にはじまり、敏達天皇を経て天智天皇に至る大和の王権」である。しかし途中経過に「九州・大和の非倭国系二王権の対等合体」があったことを検証した。その理解によって初めて「大和朝廷の法隆寺への特別な思い入れ」が正しく理解できる、と考える。「法隆寺の変遷」についてまとめた[8][9]。
(1) 法隆寺金堂の釈迦三尊像は上宮法皇(斉明天皇の祖父、第八章参照)の病気平癒を祈念して622年1月発願された(法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘、第七章参照)。しかし、祈念は叶わず上宮法皇は一カ月後の2月に崩御した。遅れて像は翌623年3月に完成した(同)。
(2) 釈迦三尊像は尺度Aで造られている(筆者仮称、[10])。この像を安置する法隆寺の金堂・五重塔の「基壇(組み石に囲まれた土台)」も像と同じ尺度Aで造られている。法隆寺はこの像を安置するために同時に発願されたと考えられる。場所は上宮王家の本拠(肥前三根郡飛鳥岡本宮)近くであろう(第七章「)。
(3) 発願者、即ち法隆寺の創建者は上宮法皇の継嗣である聖徳太子と考えられ易いが、聖徳太子は前年の621年2月に既に薨去しているから違う(日本書紀、弟で斉明天皇の叔父か第八章参照)。
(4)法隆寺の基壇(尺度A)の上の金堂主屋は尺度Bで造られている。新しい基壇の上に、他から移築したようだ。発願者は上宮法皇の病気治癒を願って急いで建立しようとしたのだろう。ここで「移築」とは後年の「肥前から大和への移築」(後述)ではなく「建立時の肥前内(推定)移築」である。
(5) 五重塔も別の尺度Cで造られている。別にあったものを移築したようだ。五重塔の心柱は594年伐採である(心柱の年輪年代測定から)。像よりも20年前に建てられている。すでにあった寺から移築した証拠である。心柱(尺度C)の一部は尺度Aで追加工されている。移築の際に加工したものであろう。 (6) 金堂の雲形肘木(ひじき)は五重の塔のそれより古形であるという(建築史)、金堂は五重塔よりも更に古い。移築の証拠である。金堂・五重塔の裳階(もこし)も尺度Aで造られている。移築の際に追加されたものであろう。これらに従って細かいことを言えば、世界最古の現存木造建築は金堂であって五重塔ではない。
(7)上宮王家が肥前から大和に遷(うつ)ったのは656年である。斉明紀656年に「天皇遷る、号して曰く後飛鳥岡本宮(大和飛鳥)」とある。少なくもそれ以前は法隆寺は肥前飛鳥にあったと考えるのが自然だ。
(8) 法隆寺が肥前から現在の奈良斑鳩に移築されたのは708年と考えられる(七大寺年表に「708年、詔に依り太宰府観世音寺を造る、又法隆寺を作る」とある)。移築の理由は斑鳩の若草伽藍の焼失であろう(若草伽藍発掘調査)。「斑鳩寺に火災」(天智紀669年)・「法隆寺に火災、一屋も余す無し」(天智紀670年)とある。670年の火事は法隆寺ではなく、これも斑鳩寺であろう。斑鳩寺は669年に小火災をおこし、670年に全焼したのであろう。斑鳩寺が焼失したので、その焼失跡(実際は少し離れている)に法隆寺が移築されたと考えられる(708年、「造る」でなく「作る」と七大寺年表にある)。その理由は二つの寺は隣合わせながら方角が20度ずれていて、並存したとは考えられない。方角を南北正して法隆寺が移築された後、斑鳩寺の記憶は法隆寺の前史として記憶され、670年の記事のように「法隆寺の焼失」と記録されたが焼失したのは斑鳩寺であろう。呼称が違うのは出典が違うからであろう。従って現存の法隆寺には火事の跡も無いし、594年伐採の五重塔心柱も現存している。
(9) 斑鳩寺は聖徳太子の寺だが、その焼失跡に移築する寺としては聖徳太子の父である上宮法皇ゆかりの法隆寺が最適である。当時、九州肥前の法隆寺は寂れていたと考えられる。その根拠は法隆寺伽藍縁起并流記資財帳に「食封三百戸、、、己卯年(679年)停止」とある。唐軍撤退・傀儡倭国消滅の混乱期である(本章冒頭参照)。建物の移築の前に本尊(尊釈迦三蔵像)だけが九州から大和に(予想された戦乱から避難して)移された可能性はあると思うが定かでない。
(10) 708年に「法隆寺移築の詔書」を出した元明天皇と上宮王は次のようにつながっている。
上宮王―聖徳太子の弟(上宮王家天皇)―斉明天皇(上宮王孫)―天智天皇―元明天皇
上宮王は元明天皇の先祖である。元明天皇が先祖の顕彰寺である肥前の法隆寺を大和斑鳩へ移築させた理由は十分ある。元明天皇は「古事記」撰録、「風土記」の編纂を命じている。歴史に関心が強い。
(11) しかし、大和朝廷には上宮王を公式に顕彰できない理由があったようだ。それを推定する。
@ 上宮王は倭国中枢の王族だったと考えられ、倭国不記載の原則から記述を避けた。
A 上宮王(591〜623)は推古天皇(592〜628)と治世が重なるので両方は出せない。
B 大和王権(肥前)から大和王権(大和)へ遷都した天皇として推古天皇は欠かせない。
C 記紀は「聖徳太子の父は用明天皇」として蘇我系大和王権と上宮王家をつないでいる。「父は上宮法皇」とはできない。
C 天子を自称した上宮法皇は唐の手前はばかられる。
(12) 以後、天智系歴代天皇は上宮王の顕彰寺を公式には聖徳太子の寺として法会したようだ。
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[8] 法隆寺 「建築から古代を解く」 米田良三 新泉社 1993年
[9] 「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004年
[10] 尺度A=27.1p 尺度B=27.0cm 尺度C=26.85p AとBの違いはわずかだが、建築学上別系統と言えるという。 平井進『法隆寺の建築尺度』「古代文化を考える」40号
●233 この時代の年表 672〜702
●234 倭国の実像
●235 海峡国家に終る
●236 失われた半身
倭国通史 了
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