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四著「一図でわかる日本古代史」 第二図_ _________

 

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「一図でわかる日本古代史」

 

はじめに

元 図 「一図でわかる日本古代史」 

第二図  三つの流れ   

第三図 「倭国不記載」とその理由

第四図 「倭」字の読み方の変遷

第五図 「物部氏」のすべて

第六図 「蘇我氏」の流れ

第七図 白鳥の「飛鳥」

第八図 陰の主役「上宮王権」

  

  .  

第二図 三つの流れ

  .  

「日本古代史の始め」を理解する三つの流れを元図に重ねて三つの楕円で示した。「卑弥呼系倭国」(黒楕円)・これを再統一した「ホアカリ系倭国」(青楕円)・「ニニギ系大和国」(赤楕円)である。

時代と共に変化した三者の関係を、それぞれの楕円に記した●●ボタンをクリックすれば「解説文」を表示できる。

 

 

テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 00 テキスト ボックス: 01 テキスト ボックス: 02 テキスト ボックス: 03 テキスト ボックス: 04 テキスト ボックス: 05 テキスト ボックス: 06 テキスト ボックス: 07 テキスト ボックス: 08 テキスト ボックス: 09 テキスト ボックス: 10 テキスト ボックス: 11 テキスト ボックス: 12 テキスト ボックス: 13 テキスト ボックス: 14 テキスト ボックス: 15 テキスト ボックス: 17 テキスト ボックス: 19 テキスト ボックス: 20 テキスト ボックス: 21 テキスト ボックス: 22 テキスト ボックス: 23 テキスト ボックス: 24 テキスト ボックス: 25 テキスト ボックス: 26 テキスト ボックス: 27 テキスト ボックス: 28 テキスト ボックス: 29 テキスト ボックス: 30 テキスト ボックス: 31 テキスト ボックス: 32 テキスト ボックス: 33 テキスト ボックス: 34 テキスト ボックス: 35 テキスト ボックス: 36 テキスト ボックス: 37 テキスト ボックス: 38 テキスト ボックス: 39 テキスト ボックス: 40 テキスト ボックス: 41 テキスト ボックス: 42 テキスト ボックス: 43 テキスト ボックス: 44テキスト ボックス: 45 テキスト ボックス: 46 テキスト ボックス: 47 テキスト ボックス: 48 テキスト ボックス: 49 テキスト ボックス: 50 テキスト ボックス: 51 テキスト ボックス: 52 テキスト ボックス: 53 テキスト ボックス: 54 テキスト ボックス: 55 テキスト ボックス: 56 テキスト ボックス: 57 テキスト ボックス: 58 テキスト ボックス: 59 テキスト ボックス: 62 テキスト ボックス: 61 テキスト ボックス: 64 テキスト ボックス: 65 テキスト ボックス: 66 テキスト ボックス: 67 テキスト ボックス: 68

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        解説は黒丸・青丸・赤丸ボタンのクリックで     第二図トップ     

 

 

 

 

第二図 三つのながれ 解説文  (ボタン解説と重複) 

 

701  「倭国」の三つの流れ

は中国史が記述する「倭国」 (のちの「卑弥呼倭国」)である。「漢書地理誌」・「後漢書」・「魏志倭人伝」は「北は朝鮮半島西岸から南は「伊都国(糸島)」までの海峡域諸国とされる(後漢書)。「一旦(南韓で)統一したが、西暦160180年に倭国大乱」(後漢書)とある。

倭国(=海峡国家、後漢書)

 

 を筆者は「アマテラス国」(のちに「ホアカリ倭国」)と呼び、❶の「倭国百余国」(後漢書)の一つと考る。根拠の一つは「倭国大乱」の一部と思われる記述が「日本書紀」にあり、「アマテラスが一族を遠賀川流域に送りこんでスサノヲ一族と争った、アマテラス一族(ホアカリ)が勝ってスサノヲは国譲りして出雲に退いた」とある(神代紀)。

「ホアカリ倭国」と呼ぶ根拠は「(卑弥呼倭国を再統一した)倭国王の祖はアマテラスの孫ホアカリ」だからである(筆者第二著「高天原と日本の源流」第四・六章で論証、また以下の第五図も参照)。

ただ、日本書紀は「倭国不記載の方針」により、日本書紀に「ホアカリ倭国」「ホアカリ神話」は記されていない。

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 国譲りの後、アマテラスは弟孫ニニギを祭事王として「筑紫日向小戸」(下関市彦島小戸)に送りこんだ(天降り)。「アマテラス国」はのちに「ホアカリ(兄)系倭国」と「ニニギ(弟)系大和国(弟)」に分かれたが、元をただせば「アマテラス」、その父祖「イザナギ」につながる「神話を共有する同祖同族」であった。

ニニギ神話の視点(神代紀)

 

はいずれも南韓〜北九州にまたがる海峡国であるから図では下地を薄青で示した。

 

 

702  卑弥呼の倭国統一

倭国大乱二十年の後、倭諸国の王たちは卑弥呼を共立して大乱を収束させた。

アマテラス国はその中で、かなり主要な役割を果たしたと考える。その理由は「大乱の理由が半島からの倭人の乱入」だと前項で述べた。その恐らく中心にホアカリ王が居たからだ。なぜなら、ホアカリ王はサルタヒコ渡海船団(対馬)を配下にもち、南韓製の鉄武器の交易を握り、海北諸族の渡海の主導権を持っていたからだ。更に、北九州でスサノヲと繰り返し戦い、それに勝利し(「国譲り譚」)、大乱収束の一端を主導したと考えられる。

 

倭国(=海峡国家、後漢書)

 

これらを背景に、遠賀川域を(拡大)「アマテラス倭国」として諸王を主導して卑弥呼を共立した可能性がある更に弟ニニギを祭事王として呼び寄せて関門海峡域の管理を任せた。卑弥呼は祭事王として政事諸王の上に居る「祭政」二重構造なら、アマテラス倭国もニニギ祭事王/ホアカリ政事王の祭政二重構造だった可能性がある。

「卑弥呼倭国」・「アマテラス国 」いずれも北九州であるから地色を黄色とした。

 

 

703 ❸❸ 狗奴国戦

倭国大乱を収束させた卑弥呼は南の脅威「狗奴国」と戦いを始めた(魏志倭人伝)。ホアカリは正面の筑後川に出陣し、ニニギはホアカリから「子カグヤマと物部軍の一部」を分与され、狗奴国の背後宮崎に陸路向かった(カグヤマの解説ボタン20参照)。「ニニギ南征」である。ニニギは宮崎に門司の「日向」の地名を移植した。

ニニギ南征(筑紫日向から宮崎日向へ、陸路、神代紀)

この時ニニギ祭事王は軍事司物部氏を分与されて、「祭事王」から政事・祭事を抱える「ニニギ王」に変質したと考えられる。それは「ニニギはイザナギ聖地を祀る祭事司の一部をホアカリにゆだね、ホアカリ政事王も政事司・祭事司を抱える「ホアカリ王」になったこと、「アマテラス国」は「ホアカリ国」と「ニニギ国」の「兄弟国」に分かれたことを意味するであろう。

狗奴国戦は決着なく休戦になったようだ。ホアカリ国は豊かな筑後川域を得ることなく、さりとて(卑弥呼共立の平和協定で)近隣倭諸国領を攻め取りすることもできなかった。ニニギ国も再戦に備えて宮崎日向で定着せざるを得なかったが、この地方は火山灰台地で弥生稲作適地ではなかった。子孫の神武はついに東征を決意する。ホアカリ倭国もこれを支援した(関門での遠征準備)。

この東征戦略は成功し、神武が大和の一角に拠点を確保すると、ホアカリ倭国は第二陣として関門域に残っていたニニギ系支族の崇神に渡来系兵団(東漢、九州飛鳥)の一部を付けて派遣した。崇神は大和東部に領土を得て定着した(神武系と並存)。

神武・崇神・景行の修正在位年 (「並立」を示している)

 

それを確認してホアカリ倭国は第三陣として、関門域に残っていたニニギ系支族の景行に渡来系兵団を与えて派遣した。景行は宇治川域を本拠に各地に点在する渡来系と連携して紀伊・上越・瀬戸内海に領地を広げた。

この神武系・崇神系・景行系日本書紀縦につないで一系としているが、定評ある時代修正法に従えば三系は並立したニニギ系同族である。

即ち、「卑弥呼共立」(九州内平和協定)が「ホアカリ倭国の東方志向」を生み、それが「ニニギ系の東方拡大」を成功させたのだ。

 

 

704 ❹❹ ホアカリ倭国の再統一(倭の五王へ)

卑弥呼・台与共立の協定が崩れ、倭諸国(九州諸豪族)の食い合いが始まった(西暦300年頃(推定))。協定の間、独り東方で力を蓄えたホアカリ系/ニニギ系は瞬く間に九州を平定した(景行紀(倭国不記載だが))。その後も熊襲(渡来系)の跋扈に悩むが、ホアカリ系王は仲哀/神功/武内宿禰を呼び込んでその渡来系宿禰兵団を熊襲討伐に振り向け成功させた(毒には毒を、神功紀、)。

この結果、ホアカリ倭国は卑弥呼系倭国を継承する形で倭国再統一に成功した。これに協力した豊前(関門域)のニニギ支族王も複数国を従える大王となった(ブログ第35)。

更に、この豊前大王はのちにニニギ系三系(神武系・崇神系・景行系)を統合・継承する形で大和天皇応神天皇に即位した。ここにアマテラス系三大王並立が実現した。

三京(大王の都)並存が示すアマテラス系三大王(倭国C・豊前A・大和B

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705 ❺ 倭国の盛衰と大和

ホアカリ系倭国(以下倭国)は大和(ニニギ系)の協力で九州再統一・列島統一(初)を果たし、続いて海外征戦に進んだ。ここでも応神率いる東方軍が大活躍し、海外では日本国と呼ばれた(、見做し国名、雄略紀)。政事・軍事面では両者ほゞ同格だったようだが、倭国は宋に朝貢して列島宗主国を認められた。

これを機に、倭国は強くなり過ぎた大和の力を削ごうと、応神系の王統が断絶すると、すかさず豊国ニニギ系の応神五世孫を継体天皇として送り込んだ。倭国宗主国体制は完成したかに見えた

応神五世孫継体が倭国の豊前国から送り込まれた(東征第五陣)

 

ところが、宋(南朝系)が北魏(北朝系)に敗れて滅亡すると、倭国は列島宗主権・海外軍事権の根拠を失い、急速に衰退した(任那の喪失など)。そこへ筑紫の君磐井(大和系九州豪族)の反乱があり、倭国は亡国に瀕した

それを救ったのが大和の継体だ。継体は大和大王即位に際して倭国大王/豊国ニニギ王が後ろ盾になったことに恩義を感じ、死力を尽くして磐井の乱を鎮圧した。

倭国は内政立て直しに専念し、任那回復などを継体に任せた。事実上の「外交宗主権を一時的に大和に委任・移譲」したのである。

これを受けて大和王権九州豊国勾金橋に一時的遷都を果たした(安閑紀534年)。これは推古の大和帰還遷都(603年、大和小墾田宮、肥前小墾田の地名を宮名に)まで70年間続いた。

継体の糟屋屯倉・安閑の勾金橋

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706 ❻ 倭国の復活と大和の独立模索

倭国は内政充実で復活し、蘇我氏を焚きつけて物部守屋を滅ぼさせ(587年)、蘇我氏に倭国内部の上宮王を担がせて蘇我氏ごと追い出し(591)、倭国王の「親政」を実現した。多利思北孤大王は大和に「外交宗主権」を返上させ、その外交権で遣隋使を送った。

大和推古天皇は外交宗主権を失ったので、九州遷都の根拠を失い、大和小墾田宮に帰還遷都した(603年)。

二回目の遣唐使(607)に多利思北孤大王対等外交の国書を送り隋煬帝を怒らせた。この時推古は小野妹子を随行使として送ったので、煬帝は大和に朝貢権(宗主権)を餌に裏外交を展開した(遠交近攻策)。それを恐れた倭国は対等外交を放棄して朝貢したので、推古の朝貢権は反故にされた。これらの経緯は隋書と推古紀からすべて読み取れる。

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707  倭国滅亡と日本国建国

隋が唐に代わると、倭国は再び対等外交に拘り、「唐に遣使はすれ、朝貢せず」を貫いた。その挙句が白村江敗戦(662年)である。隋が唐に代わっても、唐は大和(、孝徳・斉明)に対する裏外交を続け「大和が主導する日本(東国諸国の見做し国名)をまとめて倭国から離れろ、そうすれば列島の宗主国と認めよう」と誘い続けた。

 

「白村江戦」では大和は及び腰ながらも倭国に続いて参戦した。大和は斉明崩御を理由に参戦を遅らせ、規模を半減し、早期撤退をして倭国の足を引っ張った。それも一敗因となり、倭国は唐軍進駐を受け、傀儡化されたのち滅亡した

「倭国を継承する」とした天武に対し、持統は天智の「親唐朝貢路線」を採り、文武は日本国を建国して唐に朝貢を願い出た。唐は「日本国は倭国とどう違う?同じなら敵だ、違うなら国書を提出しろ」と要求したようだ(旧唐書)。国史日本書紀は「倭国不記載」とすることで、唐の要求に対応したのだ。

 

以上、列島の古代史はこれら「三つの王権(三つのながれ)の王権移動の物語」と理解することができる。

実は、上述三王権の陰に第四の豊国王権が断続的に表れる(上宮王権)、これについては第八図「陰の主役、上宮王権」で解説する。

 

第二図 解説文 了       ページトップへ

 

はじめに

元 図 「一図でわかる日本古代史」 

第二図  三つの流れ   

第三図 「倭国不記載」とその理由

第四図 「倭」字の読み方の変遷

第五図 「物部氏」のすべて

第六図 「蘇我氏」の流れ

第七図 白鳥の「飛鳥」

第八図 陰の主役「上宮王権」

  

 

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