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新著(第五著)「一図でわかる日本古代史」解説文
公開中 高橋 通 2023年
(著作権留保)
元 図 「一図でわかる日本古代史」
第二図 「概 要」 一図で示す三つのながれ 解説文
●701 ❶❶❶ 「倭国」の三つの流れ
❶ 「魏志倭人伝」や「後漢書」には「西暦160〜180年に倭国大乱」とある。この倭国は「伊都国(糸島)」を極南とする海峡国群とされる(南韓を含む、後漢書)。
倭国(=海峡国家、後漢書)
❶ その「倭国大乱」の一部と思われるが、「日本書紀」には「アマテラス一族とスサノヲ一族の争いがあった」とある(神代紀)。「
❶ この神話の登場地域は「筑紫日向小戸」(イザナギ、下関市彦島小戸)、「遠賀川流域」(ホアカリ神話、先代旧事本紀)など「北九州沿岸域」である。のちに「ホアカリ系倭国(兄)❶」と「ニニギ系大和国(弟)❶」に分かれる「二大氏族」も、元をただせば「アマテラス」、その父祖「イザナギ」につながる「神話共有する同祖同族」であった。
ニニギ神話の視点(神代紀)
その他にも海峡域には倭人と呼ばれる海族がいた。それを図では九州(黄色)の北(海峡域)として❶❶❶共に薄青で示した。
「倭国大乱」の遠因は「後漢の東方拡大(楽浪郡)」で、押されて「韓人の南下」があり(魏志韓伝)、連鎖の「半島倭人の列島への大移動」で「倭国大乱」になったと考えられる。
これらから、「160年頃、(海峡国)倭国に大乱があり、半島倭人が大挙列島へ移住した」と解る。
倭国大乱で半島から北九州に移住した王の一人にニニギ王(アマテラスの孫)が居る(記紀)。その筆頭臣は(のちの)中臣氏(なかとみ、祭事司)であるから、ニニギ王は祭事王であろう。のちの「大和国 → 日本国」(赤楕円)の祖である❶。
ニニギに先立って移住した王の一人にホアカリ王(アマテラスの孫)が居る(先代旧事本紀)。その筆頭臣は物部氏(もののべ、軍事司)であるから、ホアカリ王は政事司であろう。当時「祭事王卑弥呼/共立した諸王(政事王)」の祭政二重構造があったから、ニニギ王とホアカリ王も別の国ではなく、一つの国であろう(❶、ホアカリ倭国とする)。その神話はニニギ系に残されているが(記紀)、同祖同族だからホアカリ倭国の神話も同一で、共有されていただろう。
ただ、「倭国不記載の方針」により、日本書紀に「ホアカリ倭国」は記されていない。
●702 ❷❷❷ 卑弥呼の倭国統一
倭国大乱二十年の後、倭諸国の王たちは卑弥呼を共立して大乱を収束させた。
ホアカリ倭国はその中で、かなり主要な役割を果たしたと考える。その理由は「大乱の理由が半島からの倭人の乱入」だと前項で述べた。その恐らく中心にホアカリが居たからだ。なぜなら、ホアカリはサルタヒコ渡海船団(対馬)を配下にもち、南韓製の鉄武器の交易を握り、海北諸族の渡海の主導権を持っていたからだ。更に、北九州でスサノヲと繰り返し戦い、それに勝利し(「国譲り譚」)、大乱収束の一端を主導したと考えられる。
倭国(=海峡国家、後漢書)
これらを背景に、遠賀川域に「ホアカリ倭国」を建国し、諸王を主導して卑弥呼を共立した可能性がある❷。弟ニニギを祭事王として呼び寄せて関門海峡域の管理を任せた❷。ニニギは独立国ではなく、ホアカリ倭国の祭事王であったと考えられるが、形式的には卑弥呼は形式的には倭国王(祭事王)/倭諸国王(政事王)の祭政二重構造であったようだ(❷/❷)。その倭諸国も形式的に祭事王が上に居る「祭政」二重構造なら、ホアカリ倭国もニニギ祭事王/ホアカリ政事王の祭政二重構造だったかもしれない(❷/❷)。
●703 ❸❸❸ 狗奴国戦
倭国大乱を収束させた卑弥呼は南の脅威「狗奴国」と戦いを始めた(魏志倭人伝)。ホアカリは正面の筑後川に出陣し、ニニギはホアカリから子カグヤマと物部軍の一部を分与され狗奴国の背後宮崎日向に向かったと考える(カグヤマの解説ボタン20参照)。「ニニギ南征」である。
ニニギ南征(筑紫日向から宮崎日向へ、陸路、神代紀)
狗奴国戦は決着なく休戦になったようだ。ホアカリは豊かな筑後川域を得ることなく、さりとて(卑弥呼共立の平和協定で)近隣倭諸国領を攻め取りすることもできなかった。ニニギも再戦に備えて宮崎日向で定着せざるを得なかったが、この地方は火山灰台地で弥生稲作適地ではなかった。子孫の神武はついに東征を決意する。ホアカリ倭国もこれを支援した。
この東征戦略は成功し、神武が大和の一角に拠点を確保すると、ホアカリ倭国は第二陣として関門域に残っていたニニギ系支族の崇神に渡来系兵団を付けて派遣した。崇神は大和東部に定着した。
神武・崇神・景行の修正在位年 (「並立」を示している)
それを確認してホアカリ倭国は第三陣として、関門域に残っていたニニギ系支族の景行に渡来系兵団を与えて派遣した。景行は宇治川域を本拠に各地に点在する渡来系と連携して紀伊・上越・瀬戸内海に領地を広げた。
この神武系・崇神系・景行系は日本書紀は縦につないで一系としているが、定評ある時代修正法に従えば三系は並立したニニギ系同族である。
即ち、「卑弥呼共立」が「ホアカリ倭国の東方志向」を生み、それが「ニニギ系の東方拡大」を成功させたのだ。
●704 ❹❹❹ ホアカリ倭国の再統一(倭の五王へ)
卑弥呼・台与共立の協定が崩れ、倭諸国(九州諸豪族)の食い合いが始まった(西暦300年頃(推定))。協定の間、独り東方で力を蓄えたホアカリ系/ニニギ系は瞬く間に九州を平定した(景行紀(倭国不記載だが))。その後も熊襲(渡来系)の跋扈に悩むが、ホアカリ系王は仲哀/神功/武内宿禰を呼び込んでその渡来系兵団を熊襲討伐に振り向け成功させた(毒には毒を、神功紀、)。
この結果、ホアカリ倭国は卑弥呼系倭国を継承する形で倭国再統一に成功した。これに協力した豊前(関門域)のニニギ支族王も複数国を従える大王となった(前著ブログ第35話)。
更に、この豊前大王はのちにニニギ系三系(神武系・崇神系・景行系)を統合・継承する形で大和天皇応神天皇に即位した。ここにアマテラス系三大王並立が実現した。
三京(大王の都)並存が示すアマテラス系三大王(倭国C・豊前A・大和C)
●705 ❺❺ 倭国の盛衰と大和
ホアカリ系倭国❺(以下倭国)は大和❺(ニニギ系)の協力で九州再統一・列島統一(初)を果たし、続いて海外征戦に進んだ。ここでも応神率いる東方軍が大活躍し、海外では日本国と呼ばれた(❺、見做し国名、雄略紀)。政事・軍事面では両者❺❺はほゞ同格だったようだが、倭国❺は宋に朝貢して列島宗主国を認められた。
これを機に、倭国は強くなり過ぎた大和の力を削ごうと、応神系の王統が断絶すると、すかさず豊国ニニギ系の応神五世孫を継体天皇として送り込んだ❺。倭国宗主国体制は完成したかに見えた❺。
応神五世孫継体が倭国の豊前国から送り込まれた(東征第五陣)
ところが、宋(南朝系)が北魏(北朝系)に敗れて滅亡すると、倭国❺は列島宗主権・海外軍事権の根拠を失い、急速に衰退した(任那の喪失など)。そこへ筑紫の君磐井(大和系九州豪族)の反乱があり、倭国は亡国に瀕した❺。
それを救ったのが大和の継体だ❺。継体は大和大王即位に際して倭国大王/豊国ニニギ王が後ろ盾になったことに恩義を感じ、死力を尽くして磐井の乱を鎮圧した。
倭国は内政立て直しに専念し、任那回復などを継体に任せた。事実上の「外交宗主権を一時的に大和に委任・移譲」したのである。
これを受けて大和王権❺は九州豊国勾金橋に一時的遷都を果たした(安閑紀534年)。これは推古の大和帰還遷都(603年、大和小墾田宮、肥前小墾田の地名を宮名に)まで70年間続いた。
継体の糟屋屯倉・安閑の勾金橋
●706 ❻❻ 倭国の復活と大和の独立模索
倭国❻は内政充実で復活し、蘇我氏を焚きつけて物部守屋を滅ぼさせ(587年)、倭国内部の上宮王を担がせて追い出し(591年)、倭国王の「親政」を実現した。多利思北孤大王は大和に「外交宗主権」を返上させ、その外交権で遣隋使を送った。
大和❻推古天皇は外交宗主権を失ったので、九州遷都の根拠を失い、大和小墾田宮に帰還遷都した。
二回目の遣唐使(607年)に多利思北孤大王❻は対等外交の国書を送り隋煬帝を怒らせた。この時推古❻は小野妹子を随行使として送ったので、煬帝は大和❻に朝貢権(宗主権)を餌に裏外交を展開した(遠交近攻策)。それを恐れた倭国❻は対等外交を放棄して朝貢したので、推古❻の朝貢権は反故にされた。これらの経緯は隋書と推古紀からすべて読み取れる。
●707 ❼❼ 倭国滅亡と日本国建国
隋が唐に代わると、倭国は再び対等外交に拘り、「唐に遣使はすれど、朝貢せず」を貫いた❼。その挙句が白村江敗戦(662年)である。隋が唐に代わっても、唐は大和(❼、孝徳・斉明)に対する裏外交を続け「大和が主導する日本(東国諸国の見做し国名)をまとめて倭国から離れろ、そうすれば列島の宗主国と認めよう」と誘い続けた。
「白村江戦」では大和は及び腰ながらも倭国に続いて参戦した❼。大和は斉明崩御を理由に参戦を遅らせ、規模を半減し、早期撤退をして倭国の足を引っ張った。それも一敗因となり、倭国は唐軍進駐を受け、傀儡化されたのち滅亡した❼。
「倭国を継承する」とした天武に対し、持統は天智の「親唐朝貢路線」を採り、文武は日本国を建国して唐に朝貢を願い出た❼。唐は「日本国は倭国とどう違う?同じなら敵だ、違うなら国書を提出しろ」と要求したようだ(旧唐書)。国史日本書紀は「倭国不記載」とすることで、唐の要求に対応したのだ。
以上、列島の古代史はこれら「三つの王権(三つのながれ)の王権移動の物語」と理解することができる。
実は、上述三王権の陰に第四の豊国王権が断続的に表れる(上宮王権)、これについては第八図「陰の主役、上宮王権」で解説する。
第二図 解説文 了 ページトップへ
第三図 「倭国不記載」とその理由 解説文
●711 ❶ ホアカリ倭国不記載の理由
日本書紀は「倭国の祖、ホアカリ」を不記載としている。 ニニギの兄として名は一二回出てくるが、「倭国の祖ホアカリ」とは記せない。「日本国の祖は神武、その祖はニニギ」とする以上、「倭国と日本は兄弟国」とは言えないからだ。唐にとって「敵であった倭国の兄弟国は敵」となるからだ。
朝貢遣唐使(701年、粟田真人)に対する唐の査問は「日本国は(白村江で戦った)倭国と同じ国か、違う国か? 同じなら敵だ。違うならその国史を提出せよ」であったと考えられる(旧唐書)。
唐は長年の交流で「倭国と大和は同祖・同族」「倭国は宗主国、日本は国内諸国だが筆頭友好国」など承知の上だった。長年両者を遠交近攻策で離反させようとしていた位だから(孝徳紀・斉明紀)。
当時、唐は内政重視政策に転じていたから、日本と揉める積りはなかったが、戦った倭国の仲間だから建前上「別の国」とする必要はあったのだ。
●712 ❷ 「卑弥呼の倭国」(魏志倭人伝)不記載
唐への提出を想定した日本書紀編者は不用意に中国史書に触れるのは避けている様だ。唐の学者の知識には敵わぬからだろう。奈良時代の後代注に「魏志に曰く、、、」「晋の起居注に云う、、、」などあるが、むしろ奈良時代の方が不勉強に対する自覚が足りない。倭国の忘却などがあり、「倭国不存在」「倭国=大和」などの「不実記載」の和読(振り仮名)を平気で容認していく。
●713 ❸❹❺ の熊襲征伐・新羅征戦
景行紀❸・仲哀紀❹は九州熊襲征伐を記し、神功紀〜応神紀❺は新羅征戦を記している。それらには倭国は出て来ない。しかし、記紀と海外史料(三国史記など)の検証から「これらの主役は倭国であって、大和はこれに協力した脇役に過ぎない。しかし、日本書紀は主役の倭国を出せない立場(倭国不記載)。書紀は不記載・不説明だが不実記載・捏造ではない、とわかる。
景行〜ヤマトタケル〜仲哀が倭国・豊国に長期協力した理由は、景行が倭国(ホアカリ系)とその一部となった豊国(ニニギ系)から第三次東征として派遣され、その結果東方で大王になれたことへの恩返しの側面が景行紀から読み取れる。
●714 ❻ 「倭の五王」不記載
宋書「倭の五王」には大和も大和天皇も出て来ない。他方、日本書紀も「倭の五王」についての記載が無い(後述)。その理由は、「この時代、両者で列島を統一したが、両者の実力は拮抗していた」と考えられる。
倭国は宋に認められた宗主権によって強くなり過ぎた大和を支配下に置こうとし(遣宋使に大和を入れず?)、大和はそれを認めつつも東国の自由支配を倭国に認めさせたと考えられる。
雄略紀五年条に百済新撰引用の形で「日本」・「大倭」、「天皇」・「天王」が並記されている。これが「倭国・倭国王」「日本国・日本天皇」が並記されている正しい唯一の例だが、雄略紀は「並記した両者は同一、雄略は唯一の大王」と誤読誘導するような書き振りである。後世は更に両方に「やまと」「おおきみ」と振り仮名してはっきり誤読させている。
●715 ❼ 「倭国天王」を「天皇」と記す奇手
この時代、倭国は衰退して、大和王権に任那回復を任せた関係で、大和王権が九州に遷都した。その為に「倭国朝廷」と「大和朝廷」が接近・オーバーラップした。倭国大連の物部尾輿・守屋が大和大連を兼ね、大和大臣蘇我稲目・馬子が倭国朝廷からも大臣扱いされた。そこでの事件「仏教論争」や「物部守屋討伐事件」は「ほとんど倭国朝廷の事件なのに、大和朝廷関係者も関わっている為書紀に記されている。どうやって「倭国不記載」と整合させているのか。
これら事件では「倭国大王」を「天皇」と記して胡麻化している。「当時、複数の大王がいて、様々な呼ばれ方をしていた(大王・天王・天皇・おほきみなど)。だから『天皇』表記に統一した」という言い訳を用意したのだ(欽明紀・敏達紀など)。
●716 ❽ 上宮王権不記載
日本国遣唐使が「唐に日本国列島宗主権を認めてもらう」為に、「大和王権はこれまでも列島唯一の王権」と主張する上で、「上宮王権もあった」とは言えないのだ。そこで前項の手法は「上宮大王」を「天皇」と記す例にも使われている(推古紀)。たしかにこの時代「三人の大王(おほきみ)」が並立していたから、日本書紀編纂者は隠すのに苦労した訳だ(前著ブログ第23話参照)。
●717 ❾ 遣隋使記事の倭国不記載
「遣隋使」に関する史料は二つしかない。「隋書」と「推古紀」である。二つの記事は「一致する記述」と「一致しない記述」がある。一致するから「二つの文書は同一事績を記している」と考えられている。古来の「定説」でも、新しい「九州王朝説」でもその点は異論ない。しかし、一致しない部分については「中国側の誤解」「日中の立場の違い」「推古紀の不実記載・捏造・当用」など様々な解釈がある。定説は「隋書には倭国王は男帝とあり、女帝推古ではなく聖徳太子のことだ」とし、他方、九州王朝説は「遣隋使は九州倭国王(男王)の派遣である。推古紀は倭国史の盗用だ」とする。
しかし、二つの史料を論理的に読むと、二つの史料はそれぞれの外交原則に基づく立場の違いはあるが極めて論理的に書かれており、立場の違いはあって不記載はあっても不実記載は無い、と読める。不一致に見えるポイントは、隋書は「裏外交不記載」の原則に則り、倭国との公式外交だけを記し、推古との裏外交は伏せている。推古紀は「倭国不記載」の対唐外交原則に則り、遣隋使派遣者倭国王と主使を伏せ、推古の派遣した小野妹子随行使だけを記している。それらを理解すれば、二史料だけで全体像が整合性良く把握できる。検証は筆者三著第五章こちら。
●718 ❿ 「倭国滅亡不記載」
日本書紀は倭国滅亡を記していない。「倭国不記載」が編集方針だからである。そして唐はそれを不審に思ってはいない、自分たちが滅亡させたのだから。博多付近に駐留したと思われる唐軍は680年頃、本国事情により撤退した。その時をもって、倭国・倭国王族の消息は途絶えた。なにがあったか推して知るべしである。百済を滅亡させた際の唐軍は百済財宝を一切合切さらい、百済人捕虜1万人を中国に連行した。だから、想像する、、、
「681年のある夜、博多湾の迎賓館で唐駐留軍の最後の撤退軍船団を送る送別の宴が開かれた。これには傀儡倭国の倭国王・王族・大臣・将軍らがこぞって参加した。明日からは独立を回復する、との期待を込めての歓送会でもあった。
翌日の朝には博多湾の唐軍軍船の船影はまったく消えていた。出港したのだ。そして、、、前夜の宴からは付き添いも含めて誰も帰らなかった。行方不明である、迎賓館の警備員も料理人も、、、。そして、どこからか噂が流れて来た。この不審事について口にする者がいたら、彼らは生きて帰らない、と。それは唐軍のいつもの緘口令と同じだった。残された者はなにがあったか想像できた。そして黙って、生きていること、帰ってくることを祈り待った。しかし、だれも帰ってこなかった。後世、唐の資料にも情報は全く無い、、、」 。
第三図 解説文 了
第四図 「倭」の読み方の変遷
●721 ❶ 中国史書
中国史書は漢の時代(後漢書)・卑弥呼の時代(魏志倭人伝)から唐の時代(旧唐書)まで一貫して列島を「倭国」と記してきた。その読みは漢音呉音ともに「倭(ゐ)」である。卑弥呼も台与も中国から「倭(ゐ)」とよばれ{倭(ゐ}と自称したはずだ。
日本書紀はこの時代の記述に「倭」を多用し、「やまと」と振り仮名しているが、すべて古代の伝承「やまと」に書紀編者が「倭」字を当て(天武改字令*)、奈良時代の振り仮名付き写本が「倭(やまと)」と振り仮名したのだ。
*「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993年 参照)
ただし、後代注記に「魏志倭人伝」引用「倭女王」があるが、さすがこれには「倭(わ)」と振り仮名している(例えば岩波版)。魏志が「倭(やまと)」と読ませたとは考えられないからだ。
●722 ❷ 「大倭(たいゐ)」
仲哀らの協力を得て熊襲征伐し、九州統一を果たした倭国は台与倭国を継承した。その勢いを駆って半島征戦に乗り出し、応神時代に百済・新羅を圧倒した。
これら諸国は中国に倣って倭国と呼んできたが、倭国は魏の自尊称「大魏」に倣って「大倭(たいゐ)」と自尊称し、相手にも使わせた(漢語、百済記(神功紀)。
この自称を倭国は好んで滅亡まで使った。中国はこれを不遜と嫌ったためか、中国に対しては引き続き「倭国」を使った。
●723 ❸ 「大倭(たいい→たい)」
この自尊称は半島にだけ使い、国内でも使ったらしいことが斉明紀からわかる。国内だから「大倭(たいい)」と和語読みしたらしい。それを示す「正倉院御物法華義疏」にある署名「大委国(たいいこく)上宮王」の例がある。「委」は「倭」の佳字であろう。また、遣隋使が使った自称「俀(たい)国」からも推察される(隋書❺)。
●724 ❹ 倭の五王の「倭(ゐ)」
中国宗への遣宋使は「倭(ゐ)」を使ったことが宋書からわかる。中国は「大倭」を倭国の不遜として嫌ったからであろう。
●725 ❺ 遣隋使の自称国号「俀(イ妥、たい)」
対等外交を目指した遣隋使は「倭国」は使わず国内自称尊号「大倭(だいゐ →たいい → たい) 」(和語化)から更に好字を選んで「俀( (たい)国」として対隋対等国書を出した。しかし、煬帝の老獪な外交で一年でつぶされ「倭国」に戻った。
●726 ❻ 「大倭(つくし)」
「大倭」は長年使われ和語化が進んだから、「大倭(つくし)」と訓読(同意和語読み)された可能性が高い。「大倭」を大和人が「九州」「九州倭国」を指す例から、「大倭(つくし)」の訓読を推測する。その根拠は後年の天武の「やまと」への新当て字「倭(やまと)」だ。
●727 ❼ 「大倭(おおやまと)」
「倭国」が滅亡し、国都国が「つくし」 から 「やまと」になったから、訓読「倭(つくし)」を「倭(やまと)」に変えた(天武)。
●728 ❽ )「倭(やまと)」
天武は「大倭国」の継承を狙ったが、中国と対立し、唐と連携した新羅との外交も途絶えたから、「大倭国」の外交国号も和語国号「大倭(おおやまと)」も出番が無く、使われなくなった。そこで「大倭(やまと)」が残り、国都国「倭(やまと)」だけが残った。後年それを「大和(やまと)」に再当て字変更して今日に至っている。
第四図 解説文 了
第五図 「物部氏」のすべて
●751 ❶ 物部氏の祖
物部氏の祖は天孫ホアカリに供奉して遠賀川域に天降りしたアマツマラである(先代旧事本紀)。
アマツマラは天孫ホアカリ系を支える五部神筆頭の軍事司で、物部軍を統率したとされる。葦原中つ国(小倉市足原中津口か)一帯を支配するスサノヲ一族に勝って国譲りを受けた。
●752 ❷❷’ ❷” 物部氏の祖はアマツマラ
物部氏の祖アマツマラはホアカリに供奉して遠賀川域を本拠にホアカリの建国を支え、ホアカリは卑弥呼を共立する倭諸国王の主要な一員となったようだ(先代旧事本紀、魏志倭人伝)。
その前後に天降りした同族のニギハヤヒは物部軍の一部❷’を分与されて河内・大和に定着した(先代旧事本紀)。のちに東征した神武に臣従して大和物部氏となった(神武紀)。
その後、天孫ニニギ(ホアカリの弟)が筑紫日向小戸(関門彦島小戸)に天降りしたが、故あって九州東岸沿いに南征し宮崎に定着した(卑弥呼狗奴国戦の一環か)。この時ホアカリはニニギに子のカグヤマと物部支族の一部❷”を与えたようで、のちに神武はカグヤマの子孫(タカクラジ)と物部支族を率いて東征した。タカクラジと物部支族は更に東進して尾張物部氏として落ち着いた。
●753 ❸ 九州物部氏
ホアカリが建国した国を支えた主力はアマツマラの子孫九州物部氏であった。その子孫に倭国王に仕えた物部尾輿・守屋がいる。下図は筆者の推測する九州物部氏の系図である。
参考にしたのは先代旧事本紀の示す物部氏系図である(詳細はこちら)。
九州物部氏はホアカリ系倭国軍とその協力景行軍〜仲哀軍の協力で衰退した台与倭国を再統一して倭国を継承したと考える。
●754 ❹❹’ 半島征戦の主力物部軍
倭国を再統一したホアカリ系倭国/応神は余勢を駆って半島征戦に。応神・仁徳は東方軍と九州物部支族軍❹’をと共に凱旋して河内に落ち着き、神武系・崇神系・景行系を再統一して拡大大和国を治めた。
●755 ❺ 河内物部氏
応神・仁徳(豊国ニニギ系)は大和物部氏を取り込もうと、その妃を迎えて皇子兔道稚郎子(うじのわきいらつこ)を太子に指名したが辞退し自死したので大和物部氏は衰退し、代わりに九州物部支族が主流となった。これが河内物部氏である。
応神系の武烈天皇に継嗣がなく、倭国は応神(豊国ニニギ系)の五世孫継体を大和天皇に押し込んだ。この継体の筆頭大連が河内物部氏の物部麁鹿火(あらかい)である。
倭国で筑紫の君磐井の乱が起きると、倭国に恩義を感じた継体が麁鹿火を成敗に差し向け、これに成功した。倭国は内政重視に転じて任那回復軍を麁鹿火に任せ、一方継体は磐井の遺領である豊前・肥前飛鳥一帯(鳥栖市)を得てそこを拠点に任那回復軍の指揮を執った。
●756 ❻ 倭国筆頭重臣物部氏
物部尾輿は倭国の内政立て直しに貢献し、筆頭重臣として活躍した。
●757 ❼ 物部氏は大和朝廷の大連にも
物部尾輿は任那問題を大和朝廷に引き継ぐために継体・欽明に(豊前遷都前の)大和朝廷大連に任じられた(兼務)。
●758 ❽ 尾輿・守屋の専横
倭国の内政立て直しに貢献した物部尾輿・守屋父子は倭国内で専横し始め、これを嫌った倭国王に焚きつけられた倭国王族ら(上宮王ら、主軍は蘇我馬子)に物部守屋は討伐された。
これにより、物部宗家は滅亡した。
第六図 「蘇我氏」の見えざる二面 解説文
●761 ❶ 蘇我氏の祖は蘇我石川宿禰(大和)
蘇我氏の祖は蘇我石川宿禰(武内宿禰の三男、新撰姓氏録)、本拠は大和(葛城?)であった。「蘇我氏は渡来系」と推測する説もあるが、子孫の名前に子「満致(まち)」(百済系の名)・孫「韓子(からこ)」・曽孫「高麗(こま)」が居る。このことから子孫に「いがみあっていた三韓に因む名」をつけているから、三韓のどれかから渡来したとは考えられない。逆に石川一族は「三韓征戦に携わった」と推測する方が妥当である。
●762 ❷ 二代 満致(まち)三韓征戦に
二代 満致(まち、百済系の名)は時代的に「三韓征戦後の応神・仁徳の大和帰還/東征」に従い河内に移った、と考えられる。仁徳の次履中紀(河内)に蘇我満智の名が見える。
●763 ❸ 三代 韓子(からこ)。 新羅征戦に
三代 韓子(からこ)。 雄略紀465年の「新羅経略譚」に韓子の名がみえる。倭国と雄略の新羅経略に参加(雄略紀)。本拠は次第に筑紫に移ったようだ。
●764 ❹ 四代 高麗(こま) 筑紫から肥前に
四代 高麗(こま) は「筑紫君磐井の乱」の討伐に参加した功績で磐井の遺領肥前向原を得たようだ(次項)。
●765 ❺❺’❺“ 五代 蘇我稲目(いなめ) 肥前向原を本拠に
五代 蘇我稲目❺は代々半島征戦に関わって百済朝廷とも人脈を得た様で、百済王の勧める北魏仏教を倭国王に仲介した。豪商として倭国朝廷にも出入りしていたのであろう。しかし、宋の南朝仏教を既に導入していた倭国王、神道を主張する物部尾輿と仏教論争をしている。
磐井の乱で弱体化した倭国に任那外交を任された欽明天皇・物部麁鹿火が九州に滞在すると、稲目は欽明に大和大臣に任じられ❺“、倭国王との仲介から倭国大臣にも任じられた(兼務)❺’。
●766 ❻❻‘❻“ 六代 蘇我馬子(うまこ) 肥前飛鳥に
稲目が歿すると子の馬子が大和大臣・倭国大臣(兼務)を引き継いだ(敏達紀、大安寺縁起)。推古天皇の大臣を務めながら❻‘(推古紀)倭国王大臣を務めた(兼務)❻“。
この裏には倭国王が物部尾輿の力を削ごうとした為と見られる。そこから起こる物部氏と蘇我氏の対立は最終的に「物部守屋討伐譚」となり、物部宗家(九州)は滅亡した。
では、馬子は倭国で筆頭大臣になれたか? 否、である。それは倭国王が「親政体制」をとったからだ。倭国王は倭国王族の上宮王や蘇我馬子が主張する「北朝仏教導入」を認めなかった。馬子は倭国内での覇権を諦め、上宮王をかついで倭国を飛び出し、「上宮王権」を確立した。上宮王家はニニギを祖とし、神武・崇神・景行・応神・継体を送り出し、何度か大王を称した名門だから、「大王」となる資格があったのだ。
馬子❻は「三人の大王(おおきみ)」に仕えた稀有な存在なのだ。大和天皇(敏達〜推古)の筆頭大臣❻‘でありながら倭国大臣を兼務し❻”、上宮大王が独立すると(倭国大臣は辞したが)推古大臣を続投しながら上宮大王の筆頭大臣を兼務したからだ❻”’(筆者ブログ第23話「三人の大王」参照)。
●767 ❼ 七代 蝦夷(えみし)
馬子の子蝦夷は推古大臣を引き継いだが、推古崩御の次期天皇には田村皇子(敏達孫)を推した。その対抗候補は山背(やましろ)大兄皇子(聖徳太子の嫡男)であった。その狙いは複雑である。
蘇我氏の祖地(葛城?)は大和だったので、馬子以来大和に自領を広め、蝦夷はしばしば豊国豊浦の港を拠点に大和に出向き「豊浦大臣」とも呼ばれた。
田村皇子は上宮大王孫宝皇女の夫であり、皇女の大王即位までの中継ぎ大王(第三代)であった。これを推古のあとの候補に推挙すると同時に、宝皇女(田村后)を第四代上宮大王に据える積りだった。上宮王家の本拠は肥前だから、宝大王は肥前に留まり、その夫が大和天皇に即位しても夫妻は肥前に留まるであろう。
蝦夷は肥前百済川に豪壮な宮を提供し、近くに百済寺建設を支援した。百済寺は聖徳太子の熊凝(くまごり)寺の移転寺で、上宮王権の官寺である。宝大王・舒明天皇がそこを離れるはずはない。そうなると、推古のあと大和は大王不在になる。蝦夷の狙いはそこであった。大王の居ない大和を大臣として代管理すると共に、蘇我氏が大和で大王の振る舞いをしてもそれに文句をつける資格者は聖徳太子の継嗣山背王(斑鳩)だけであった。
●768 ❽❽’ 八代 入鹿(いるか) 蘇我氏の滅亡
蝦夷の子入鹿❽は大臣にならなかったが父大臣を笠に着て横暴に振る舞い、聖徳太子の遺族(山背(やましろ)王一族を殺害したことが命取りになり、「乙巳の変」(肥前飛鳥板蓋宮大極殿の事件)で殺された。蝦夷はこれを聞いて自死し、蘇我氏は滅亡した。
入鹿の暴挙は、推古のあとの舒明・皇極が都を肥前に戻したので、空白の大和で大王の振る舞いをし、山背(やましろ)王が大和大王になるのを恐れて一族を殺したのだ❽’。
第六図 了
第七図 「飛 鳥」 解説文
●771 ❶ 漢人阿知一族の渡来 肥前飛鳥入植
漢王族の子孫で朝鮮半島に移住した一部の阿知一族2000人が渡来した(280年頃、後漢献帝玄孫劉阿知)。台与倭国は渡来人疫病を恐れて博多付近から山ひとつ向こうの肥前山裾に入植地を与えたと考えられる(のちの肥前飛鳥、佐賀県基山町付近)。その地を渡来人は自らを渡り鳥白鳥になぞらえて「飛鳥」(ひちょう、漢語)と名付けたようだ。この渡来集団には韓人も含まれ、この飛鳥を「あんすく」(安宿、韓語)と呼んだようだ。それが「飛鳥(あすか)」の和語読みの由来であろう。
●772 ❷❷’ 前期大和飛鳥
肥前飛鳥の漢人の一部は崇神(東征第二陣、豊国ニニギ系王族)に率いられて大和盆地東部に移り住んで飛鳥と地名移植した(遠つ飛鳥、奈良天理市付近)❷。
更に一部は景行(東征第三陣、同)に率いられて河内に移り住んで飛鳥と地名移植した(近つ飛鳥、大阪府古市市、景行紀)❷’。
●773 ❸ 漢人技工の招聘事業
河内飛鳥が雄略紀に出てくる。倭国は百済を介して遼西百済(北百済)の西隣の呉国(三国志の呉国王末裔小王国)から漢人技工を招聘し、これを肥前飛鳥に住まわせた。
●774 ❹ 漢人技工の一部を河内飛鳥分置
雄略天皇は倭国の招聘事業に参画して、肥前飛鳥の漢人技工❸を分与してもらい、河内飛鳥に住まわせた(近つ飛鳥、雄略紀)❹。ここはその後も渡来系の移住地となり、韓人も多く、いまでも飛鳥神社がある。
●775 ❺❺’ 肥前飛鳥を蘇我稲目が領有
「磐井の乱」を討伐した継体/物部麁鹿火(あらかい)が磐井の遺領(豊前・肥前の一部)を得て、任那奪還を任されると、継体の継嗣安閑天皇が九州豊前に一時遷都した。倭国に通じていた蘇我稲目は肥前の一部(鳥栖市付近)を安閑に与えられ、のちにそれを広げ肥前飛鳥を領有した❺。しかし、日本書紀の「上宮大王不記載」・「大和朝廷九州遷都不記載」から、この頃の「飛鳥」も「大和明日香」が定説(誤説)となっている❺’。
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●776 ❻ 馬子の飛鳥は肥前飛鳥
馬子は肥前飛鳥に法興寺を建造し、皇女時代の推古の館や、のちに倭国から独立した上宮大王に岡本宮を、皇極に飛鳥板蓋宮を提供するなど、当時の日本書紀の栄華譚の中心となった。しかし、日本書紀の「上宮大王不記載」「大和朝廷九州遷都不記載」から、「飛鳥」は「大和明日香」が定説となっている❻’ 。
皇極の皇太子(中大兄皇子)が肥前飛鳥板蓋宮で入鹿を殺害し(「乙巳の変」)、皇極が退位して孝徳が大和に遷都して難波宮で即位した。皇極は肥前飛鳥板葺宮を去って、豊前上宮王家領に隠居したと思われる。上宮大王を続けている積りだったのだろう。孝徳が崩御すると継いで斉明は豊前飛鳥板蓋宮で即位した❼。斉明天皇である(重祚)。孝徳の皇太子とされた中大兄皇子がつぐべきところ、恐らく影から倭国の対唐戦準備にどう対応するか謀略を計っていたと思われる。戦えば豊前はおろか九州が危ない。斉明を大和に退避させるべきと、同年大和に宮を造り、「倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかかわべのかりみや)」を経て、「後飛鳥岡本宮(あとあすかおかもとのみや)」に遷都させた。のちの「飛鳥浄御原宮」だ。肥前飛鳥の地名にこだわった地名移植だ❼’。
以後、「飛鳥」と言えば「大和明日香」を指す。日本書紀は「肥前飛鳥」を明記しないが、以上の解釈を否定していない。
第七図 了
第八図 陰の主役「上宮王家」
●781 ❶❶’ ホアカリとニニギの仲
アマテラスの孫は二人、ホアカリとニニギは20才位離れた兄弟であった。二人の仲を解説する。
ホアカリが軍を率いて海を渡り遠賀川あたりからスサノヲ軍を攻め勝って「国譲り」を受けた。そこで幼いニニギを呼び寄せて祭事王として先祖イザナギの故地(筑紫日向小戸、現関門域彦島小戸)を守る祭事王に据えた。主臣にはアマツマラ(のちの中臣氏)を付けた。末子が親の老後を守り、先祖を祀り、家を継ぐ慣行が当時はあった。
ニニギが成人したころ、戦いが始まり(恐らく卑弥呼の狗奴国戦)ホアカリは主戦場(筑後川あたり)へ(記紀は不記載)、ニニギ❶は背後を突くべく東沿岸を宮崎日向に陸行した。_
この南征出発に当たりホアカリは子のカグヤマ❶’(ニニギと叔父甥の関係だがほぼ同年代)に物部軍の一部をつけてニニギに与えた。その子孫は神武東征に従い、のちのカグヤマを祖とする尾張物部氏となる。
それはともかく、子のカグヤマを与える程の「ホアカリとニニギの仲」であった。
●782 ❷❷’ 神武東征と一族の豊国残留
神武は宮崎日向から東征に出発し、ニニギの育った関門域で残留ニニギ一族と思われる協力を得て(古)吉備・(古)安芸で船の調達など東征の準備をした❷。
東征に当たっては、一族の一部を九州に残した❷’。アマノタネコ(ニニギの主臣アマノコヤネの孫)は神武に従い東征したが、その子ウサツオミは九州宇佐に残った(神武紀)。その子孫が後世の中臣氏である。豊前直入(なおり)中臣(景行紀)・中臣鎌子(倭国神祇司、敏達紀)・中臣彌氣(みけ、鎌足父)・中臣鎌足(肥前飛鳥)を輩出してる。いずれも九州である。_
これらから、中臣氏の主筋であるニニギ系・神武系の一部も九州に残った、と考えられる。なぜなら、「イザナギの禊の祭場」である筑紫日向小戸(現下関市彦島小戸)で祭祀する祭事王の任務があるからだ。
●783 ❸ 崇神 東征第二陣
崇神は「神武の子孫」とされているが、定評ある記紀の年代修正法 * で修正すると、「神武〜欠史八代(三兄弟三世代)」と「崇神・垂仁」・「景行〜仲哀」の三系は並立だった、となる**。
* 記紀の年代修正「古事記崩年重視(下図青数字)・在位崩御年令の二倍年歴修正(赤数字)・神功紀の干支二巡繰り上げ・一世代平均23年差」
** 神武の在位270〜300年頃、崇神の在位は288〜318年、景行の在位は300〜332年と重なるから
年代修正後の大和天皇 三系は並立
従来、神武国(橿原〜葛城周辺)・崇神国(桜井周辺)は拡大(あるいは移動)とされたが、並立なら別の国である。近いから敵対関係でなく、別系統である。別系統としても同族であろう。同族が10年を経て別の国を作るとは、どういうことか。
「神武東征の成功を確認した送り出し側(豊国ニニギ系)は、同族の崇神を東征第二陣として送り出した、崇神は神武の隣に同族国を建てた、と考えられる。そうならば記紀が二人を「はつくにしらす=建国者」と讃えてもおかしくない。
記紀で「京」字が初出するのは崇神紀十年で、四道将軍派遣譚の後である(下図@崇神紀)。神武紀にない「京」字が出るのは漢人が居た証拠だ。漢人にとって京は大王の都である。_
崇神は四道将軍派遣で複数の王を影響下に置く大王と(ホアカリ系)倭国にも認められ、神武国とは(同系ながら)別の国を建国したと自認したのだろう。
●784 ❹ 景行 東征第三陣
景行も万世一系とされるが、同時代並立である。10年遅れだ。そうであれば、豊国ニニギ系は崇神の東征第二陣の成功を見て、第三陣景行を宇治域に送って領地獲得に成功した、と考えられる。
崇神時代の飛鳥「近つ飛鳥」(前期飛鳥)
実は、崇神・景行系には渡来系が含まれている。それは280年頃台与倭国が受け入れた半島漢人2000人(韓人を含む)の分与を受けた可能性がある(応神紀)。これを仲介したのは台与を共立していたホアカリ倭国王であろう。豊国ニニギ系王族家は祭事ではホアカリ王家の上格でも、政事では格下、そんな関係だと考えられからだ(卑弥呼(祭事王)/倭諸国王(政事王)の関係が参考になる)。
景行紀の熊襲征伐譚に二回「豊前の京」が出る(紀次出)。景行天皇はそこに滞在して、南征して日向を取り戻し、「大和の京」に帰還している(紀三出)。
これは、景行の熊襲征伐前から「豊前に京」があったことを示している。豊前(関門域を含む)の王はニニギ系だった。「神武が関門海峡域に残した一族」が大王になっていたことを示唆している。それは、第二陣崇神の東征が成果を挙げて、派遣元のニニギ系王も大王に昇格したからだろう。
崇神東征が成功して、ニニギ系大王は直ちに第三陣として景行を派遣し、景行/ヤマトタケルが東征・征西に大活躍したと考えられる。
景行は西征で熊襲征伐・日向奪還(ニニギ南征ルートとほぼ同じ)に成功した、派遣元がニニギ系大王でったことを示唆している。
その成功で景行も大王となり、大和の都を「京」と称している(「京」、景行紀)。
景行が大王になり自都を「京」と称し、彼を派遣したニニギ系大王がいて自都を「京」としているならば、その兄弟国(兄国)のホアカリ系王も大王となり自都を「京」としていないはずがない。のちに九州年号(倭国年号とされる)「倭京(わきょう、漢語、618〜622年)」がある *。
* 孝徳紀に「倭京(やまとのみやこ、和語)」があるが、こちらは天武の新当て字令(680年頃)による遡及表記である。
景行の西征(320年頃か)の終わった頃に、ホアカリ系王・ニニギ系王は「台与系九州倭国」を再統一して、ホアカリ系王は九州倭国大王となり、ニニギ系王は豊前〜日向(宮崎)を治める大王となったと考えられる(仮に前期
豊前大王とする)。大和景行の大王を含めて「三人の大王」が居た、と解釈できる。これが「三人の大王(おほきみ)」(第五著第23話)の始まり、とできる。_
●785 ❺ 応神 東征第四陣
応神・仁徳の出自は豊前ニニギ系で、神功皇后の皇子とは別人である(筆者ブログ第23話)。半島征戦で大活躍し、戦後には凱旋帰還兵、半島人捕虜、渡来人を引き連れて東征し、乱れた大和の三王権を継承する形で大和を再統一した(東征 第四陣)。応神・仁徳大王国の都は(仁徳の半ばまで)豊前京、その後(410年頃)仁徳が河内に遷都したと考える。_
●786 ❻ 継体 東征第五陣
応神系が拡大大和を統治して繁栄したが、武烈で血統が途絶えた。これを機に倭国/豊前ニニギ系が応神五世孫継体を押し込んだ。 応神が豊前ニニギ系王族なら、継体も同じだと言え、それは続いた倭国/豊国の東征の第五陣を意味する。
倭国内で大和系豪族磐井(大彦末裔)の乱が起こった時に、継体が死力を尽くしてその討伐に当たったのはその恩返しと考えるのが妥当だろう。この頃の豊前は倭国内分国のような立場で、倭国朝廷仏教論争に中臣某が出てくる。中臣の主筋はニニギ系であったから、倭国の中にニニギ系王族がいた可能性が高い。継体の同族であろう。_
●787 ❼ 上宮王権独立
上宮王もニニギ系であった。その根拠は幾つかある。
「大委国上宮王」と署名のある史料がある。正倉院御物「法華義疏(ほっけぎそ)写本」(南朝仏教系)である。大委国は大倭国の佳字だから、上宮王は大倭国の王族であった。上宮王は南朝仏教に興味があったことになる。
上宮王の子上宮太子(聖徳太子)の史料に「「上宮聖徳皇子が建てた碑文に、法興六年(596年)、、、我が上宮大王、、、云々」(伊予風土記逸文)がある。上宮王は大王になったのだ。九州年号と異なる法興年号を使っているから倭国大王ではない。倭国から独立したのだ。「上宮王権」とする。大王(おおきみ)と名乗った例は「ホアカリ系倭国大王・景行天皇・豊前国(ニニギ系)大王」の前例があるだけだ(前述、こちら❹)。この頃では倭国天王(阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)・推古天皇・上宮大王だけだ(五著「ブログ千年の誤読」第23話「三人の大王」)。即ち、大王を名乗る資格がある上宮大王は「豊前ニニギ大王の子孫」としか考えられない。
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に「法興三一年、、、上宮法皇、、、」とある。元号・法皇(大王格)から法隆寺(北朝仏教様式)は上宮大王菩提寺と考えられる。上宮大王は北朝仏教帰依に転じたのだ。これを証する史料がある。「天皇(上宮大王)、皇太子(聖徳太子)に請い勝鬘経(北朝仏教系)を講ぜ令む」(推古紀606年)。日本書紀は基本的に「倭国不記載」「上宮王家不記載」だが数か所で「倭国天王」「上宮大王」を「天皇」と表記して記している(敏達紀・推古紀)。_
●788 ❽ 大和王権への接近
上宮大王が崩ずると、聖徳太子が既に薨じていたので弟()が第二代大王に就いた(大安寺伽藍縁起)。第二代が崩ずると子の宝皇女までの中継ぎとして宝皇女の夫田村皇子(敏達孫、ニニギ系)が第三代に就いた(同)。上宮王家(ニニギ系)は同祖の大和王族を迎えたのだ。_
●789 ❾ 大和王権との合体
推古天皇が崩ずると、田村皇子が上宮大王を辞して舒明天皇に即位した。上宮大王位は宝皇女と山背(やましろ)大兄皇子(聖徳太子継嗣)が争ったが宝皇女が第四代に就いた(舒明紀)。舒明天皇と宝大王は同じ宮(肥前百済宮)で二王権の二大王を務めたのだ。大臣は蘇我蝦夷が兼ねた。舒明が崩ずると、宝大王が皇極天皇に就いた(兼務)。二人の継嗣中大兄皇子までの中継ぎとはいえ、二王権の大王を兼ねるとは、「二王権の合体」を意味する(形式的には大和王権が上宮王権を吸収)。皇極は飛鳥板蓋宮(肥前)を宮とした。上宮大王が本拠とし法興寺を建てた地である。_
●790 ❿ 上宮王家主導の大和王権
「乙巳の変」が起ると皇極は退位して豊前京(みやこ、豊前ニニギ系王家の本拠か)に遷ったようだ。肥前飛鳥は蘇我氏の本拠でもあるから、蘇我支族の反撃を避けたのだろう。
次の孝徳天皇が難波宮で崩ずると、皇極上皇が肥前飛鳥板葺宮に戻り即位し斉明天皇となった(重祚)。しかし、倭国が唐と戦う戦火を避ける為、更に大和に遷り飛鳥と地名移植した(のちの大和飛鳥浄御原宮)。
斉明は大和天皇となったが上宮王家の血筋、即ち豊前ニニギ系の血筋だ。そのせいか、倭国と大和をつなぐような政策が多い。倭国との融合・或いは上宮王家主導の合体を夢見たのではないか。なぜなら、天智(大和王権皇太子)の弟とされる天武を幼い頃から倭国の名門大海氏(倭国の祖ホアカリの末裔、新撰姓氏録)に養育を任せている。
豊国ニニギ系は結局、斉明自身を入れて陰に陽に数次にわたる東征を成功させ、結局大和王権を主導し、次にはホアカリ系倭国を主導して列島を支配しようとした、と考える。それは倭国の滅亡と、九州の吸収によって日本国建国に結びついたのだ。それが筆者のたどり着いた結論「上宮ニニギ系は『倭国と日本』『倭国から日本へ』の流れを作った影の主役だった」である。
その陰の主役「上宮王〜斉明天皇〜天智〜」を支えたニニギ以来の陰の主臣「アマノコヤネ〜中臣氏」の関係は昭和まで続く「ニニギ系日本国天皇家」とその主臣「中臣〜藤原〜五摂家」の関係へと続くことになった、と考える。
第八図 解説文 了
「一図でわかる日本古代史」解説文 了