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第 23 話 三人の大王(おほきみ)
推古天皇の時代に、三人の大王(推古天皇・倭国天王*・上宮大王)が並立したことは、これまで一図シリーズも含め何度か触れてきました。 *「天王」は倭国王が自称で使った王号(雄略紀五年条)
そして、その根拠の一つとして「三つの年号の並存」が挙げられてきました。
今回は、新たな根拠を一つ提案したいと思います。
「三人の大王(おほきみ)の並立在位」がたった二史料で論証できるのです。
於朋枳彌(おほきみ、推古天皇、推古紀二十年条612年)
於朋耆彌(おほきみ、上宮大王、同上)
阿輩?彌(おほきみ、多利思北孤天王、隋書開皇二十年条600年)
記紀では歌は万葉仮名で記されているから上二例はそれです。三例目は隋書が倭国王の自称を聞き取って表音表記した記録で、珍しい例です。
なぜこれが見落とされてきたか、も含め検証します。
● 二人のおほきみ 推古紀
最初の二例はここに出てきます。
推古紀612年
「二十年春正月、、、置酒して群卿に宴す、是日、大臣(蘇我馬子)上寿して歌ひて曰く、
夜須弥志斯 和餓於朋枳彌能 (中略) 烏呂餓弥弖 兎伽陪摩都羅武 宇多豆紀摩都流。
(やすみしし わが大君(おほきみ)の (中略)拝(をろが)みて 仕へまつらむ 歌献まつる)」(返歌へつづく)
ここで「歌の読み下し文」は当て字・振り仮名ともに日本書紀岩波版に従いました。
推古天皇が「大和小墾田宮」で正月の宴を開きました。その席で蘇我馬子が推古に歌を奉った、とあります。歌は型通りで月並みですが、献上相手於朋枳弥(おほきみ)は勿論推古天皇です。
推古はこの9年前に「九州豊浦(とゆら)宮」から「大和小墾田宮」に帰還遷都(推古紀603年)しましたが、蘇我馬子大臣は本拠(肥前飛鳥)から動かず、この新年挨拶も含め、年に数回の大和訪問程度であとは群卿・代官に任せていたようです。その理由は、肥前で「上宮大王(肥前飛鳥)の大臣(兼務)」を優先させていたからでしょう。推古紀に戻ります。
「天皇和(こた)へて曰く(返歌)
摩蘇餓予。蘇餓能古羅破。宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。多智奈羅麼。句礼能摩差比。宇倍之訶茂。蘇餓能古羅烏。於朋耆彌能。兎伽破須羅志枳。
(真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君(おほきみ)の 使はすらしき」
馬子へのこの返歌で、推古は馬子の子ら(のちの蝦夷(えみし)ら)を「最上級の馬、最上級の太刀」に例えて褒め上げ、「その子らを(遠くにいるもう一人の)おほきみが使っているらしいわね」とやんわり羨(うらや)んでみせているのです。この推量文「らしき」が「ここのおほきみは推古自身ではない」と判断できる根拠です。
「おほきみは一人きり」とする定説は「このおほきみも推古」と解釈しますから、「おほきみが自分自身をおほきみと詠いあげる」という推古らしからぬ解釈となり、えっ? と詰まりますが、読者も「おほきみはひとりきり」の先入観から見過ごしてきました。記紀には「他王権不記載方針」がありますが、編纂者が何故見過ごしたのかはわかりません。
では、「二人目のおほきみは誰か?」。もうお分かりですよね、蘇我馬子が戴く上宮大王です(第1・2・4・17話)。
推古天皇と上宮大王は大和に共同誓願寺元興(がんこう)寺(605年)を建てているくらいですから友好関係です。しかし、馬子の子(蝦夷(えみし)ら)の紀初出は推古崩御後ですから、蝦夷は推古に仕えていません。使っているのは上宮大王(おほきみ)です。推古はそのことで上宮大王を羨んで見せ、馬子に少し拗ねて見せているのです。
推古には「華やかな九州」の記憶があり、比べて「大和に島流しされたような感じ」があったのでしょう。しかし馬子にすれば、「寂しかったら近くの斑鳩に上宮大王の太子がいるのだから摂政みたいに頼ったら良い」位の気持ちでしょう。
ちなみに「大君」は奈良時代以降の当て字で、紀の原文には出てきません。当時は和語「おほきみ」には漢語「大王」が当て字されていたのでしょう。「天皇(大和王)」「天王(倭国王)」も早くから自称王号(漢語)として、特に海外での格上げ王号として使い、使わせたようです(雄略紀五年条)。
以上、「二人のおほきみの並立」が確認できました。
● 三人目のおほきみ 隋書
倭国王が?(イ妥、たい)国と改号して遣隋使を送った、と隋書にあります。
隋書?(イ妥、たい)国伝
「開皇廿年(600年)、?(イ妥)王、姓は阿毎(あま、あめ?)、字は多利思北孤(たりしほこ、たらしひこ?)、阿輩?彌(おほきみ)と号し、使いを遣わして(朝貢となっていない)、、、妻は?弥(きみ)と号し 、、、太子を名づけて利歌弥多弗利(わかやたふり)となす、、、」
宋時代には倭の五王の姓名は倭讃・倭武のように漢風の一字姓、一字名でした。それに対し、倭国王は国名も?(イ妥、たい、和語国号)と改号し、王姓名も和名を用いています。「南朝には敬意を表して漢風名を用いたが、新参の北朝に対してそれは媚(こび)になる。自分には堂々たる和名がある。」として和名「アメノタラシヒコ」、自称王号も「阿輩?彌(おほきみ)」で通した、と解釈することができます(自称だから「わがきみ」ではない)。「日出ずる国の天子」(後述)と外交姿勢で連動しています。
隋書600年は一見この倭国の改号も和名も認めたような書き方ですが、実は逆です。
つづきがあります、、、。
隋煬帝は倭国の対等外交に激怒、列島征服戦も視野に倭国遣隋使の帰国便に調査使裴世(はいせい)を送り、九州から東海までを調査させました。裴清は帰途に大和の推古にも会って、あらかじめ用意した煬帝の推古宛て国書「倭皇(推古)の朝貢を嘉(よみ)する」を渡したのです(推古紀608年)。その意味は「推古を倭国王と認める」であって、大和と倭国を離反させる中国得意の「遠交近攻策」です。裴清はそれを帰国時筑紫で再度会った倭国王に示唆して脅し、最終的に「?(イ妥)国改号と対等外交の撤回、朝貢すること」を認めさせたのです(隋書?(イ妥)国伝)。
隋書?(イ妥)国伝 末尾
「(中略、608年)、、、復た、(?(イ妥)の)使者を(煬帝の使者)清(裴清)に従い方物を來貢せしむ、此の後遂に絶ゆ」
隋は「対等外交」をすべて撤回させた事実を歴史に残すためにわざわざ「?(イ妥)国伝」を立て、「来貢させた」で締めくくり、「?(イ妥)の使いは二度と来なかった」と?(イ妥、たい)国伝を終結したのでした。
2年後に「倭国が朝貢したこと」を次の様に確認しています。
隋書 帝紀煬帝
「大業6年(610年)、倭国、使いを遣わして方物を貢す」
ここに「倭国」が再登場していますから「倭皇(推古)の朝貢承認(推古倭国王承認)」も反故(ほご)にされたのです(検証は https://wakoku701.jp/S5.html)。
この大王は結局「隋から倭国王と認められた」(隋書610年)のですから「倭国おほきみ」であって、倭国から独立したばかりの「上宮おほきみ」ではありません。妻がいますから「推古おほきみ」ではありません。太子がいますから聖徳太子ではありません。
以上、少なくも600年には推古天皇(592〜628年)・上宮大王(592〜623年)、そして多利思北孤天王の「三人の大王(おほきみ)」が並立して在位していた、と確認できました。
● 結語
後世の人々は隋書も読みますから、最終的には「対等外交」は失敗だったことは解るのですが、「?(イ妥、たい)王が誰であれ、最後は失敗でも、あれだけ堂々と対等外交に挑んだことは、胸がすくことだ」といったところが日本国民の偽らざる心情でしょう。
それはともかく、以上の経緯から普通ではありえない和語王号の「読み」まで隋書に記されて知ることができたのです。多利思北孤の和語王号は「阿輩?弥(おほきみ)」だったのです。
筆者は「隋書に和語王号『阿輩?弥(おほきみ)』が記述されていることは以前から知っていました。そして、これが「倭国王が対等外交を目指してあえて和語を外交の場で多用した、しかし煬帝が激怒してそれらを撤回させ、その経緯と共に『?(イ妥、たい)国伝』を10年で終わらせた」と初著(「倭国通史」高橋通 原書房2015年)で指摘もしてきました。
しかし、その経緯の結果「隋書で倭国王の王号の和語が『阿輩?弥(おほきみ)』であったこと、「三人のほおきみの並立在位の証拠となること」に今回遅まきながら気が付いたのです。
「他王権不記載とせざるを得なかった記紀」とは別の「Another Story」がまだまだ楽しめそうです。
第23話 了
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第23話 注
●注1 三つの年号 (本文へ戻る)
文献から600年頃の年号が三つ見つかっている。「二中歴」に「年号吉貴(594-600)」があり、倭国年号と考えられている。次に、襲国偽僭考に「三年(595年)を始哭と為す」とあり、推古三年に該当するから大和王権の年号と考えられている。大和王権は「□□天皇何年」と記し、年号を建てるのはまれである(始哭・大化・大宝など)。三つ目は法隆寺釈迦三尊像光背銘に「法興年号(591-623)、上宮法皇」とある。
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第23話 注 了
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