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五著 ブログ「千年の誤読」 公開中 _____________________________
四著「一図でわかる日本古代史」公開中 _____________________________
初著「倭国通史」既刊 ご案内
初著「倭国通史」
高橋 通 原書房 2015.4
次著「高天原と日本の源流」紹介は
→ こちら
第三著「千年の誤読」は → こちら
本書は「倭国(わこく)」の建国(西暦80年頃)から滅亡(701年)までを通史としてまとめたものです。
「日本国に先行して倭国があった」とする点では「九州王朝説」に属しますが、その基本認識以外の多くの点、特に九州王朝説の一方的な「日本書紀の欺瞞・捏造」の決め付けには賛同できず、倭国事績と日本書紀が整合する多くの解釈を提案します。史料に基づく論理的検証に徹し、推論を極力排しています。日本書紀にはそれを可能とする十分な記述があるからです。
日本書紀は「倭国不記載」を原則としています。そうした理由の一つは、日本建国後初の遣唐使(702年)に対し唐が「倭国と日本は別の国」と認定したからでしょう(旧唐書)。一方で日本書紀は、倭国の存在を否定しない配慮が随所に見られます。その結果、日本書紀から多くの「倭国と大和の関係」を読み取ることができます。
それらを含めて本書の「他書と異なる主な主張点」を記して自己紹介に代えさせて頂きます。
(1) 「倭国の源流は朝鮮半島の倭人国だ」とする点は、最新の九州王朝説の一部と重なるが、「呉の倭人」説、「百済王統の分流」説などは採らず、「半島倭人の源流は海原倭人(北九州諸島倭人)」と考える(魏志韓伝・神代紀)。
(2) 「半島倭国」は北方民族移動(魏志韓伝)によって半島から押し出され、「半島倭国の消失」(魏志)・「列島倭国大乱」(後漢書)・「国譲り」(神代紀)につながった。これら事績は神話化されて海原倭人の「高天原アマテラス神話」の最後部につけ加えられた(神代紀)。半島から列島へ「天降った」時代差で「九州倭国」(国譲り前)と「神武大和」(国譲り後)に分かれた。「九州倭国から分かれた大和朝廷」説(古田武彦)は採らない。
(3) 「卑弥呼の邪馬台国はどこか」論争には与(くみ)しない。なぜなら、魏略と魏志倭人伝の比較検討から「九州の倭国女王卑弥呼」と「邪馬台国に都する女王」は「別の国、別の女王」と論証できるからだ(第二章)。本書の基本論証の一つ。
(4) 倭国は一貫して倭諸国の宗主国であり、宗主国であろうとした。その根源は倭国女王卑弥呼が魏の皇帝に「其れ(倭)種人を綏撫(すいぶ)し、、、」(魏志倭人伝)と、倭諸国の指導者となることを諭されているからだ。以後、倭国の中国遣使に倭諸国の随行使を許したようだ。台与の遣晋使・倭の五王の遣宋使・多利思北孤の遣隋使・倭国遣唐使に「大和の随行使」を許している。また、東国征戦・九州征戦・半島征戦で倭諸国を主導し大和もこれに協力している。
(5) 倭国は一貫して大和を「格下ながら特別な同盟国」として扱っている。その由来を筆者は「九州倭国の祖は天孫ホアカリ(ニニギの兄)、神武大和の祖は天孫ニニギ(弟)、即ち倭国(兄)≧大和王権(弟)の関係」と推測する(先代旧事本紀から、第三章)。
(6) 雄略紀5年条が「倭国と日本は別の国、倭国≠日本」を証明している、とする論証を確認し、傍証を加えて補強した(武烈紀・宋書)。倭国と雄略朝は百済王家人質を分け合う同盟国だった。従って、倭国が支配する九州に大和雄略朝の将軍墓墳(熊本江田船山古墳)がある十分な理由がある。
(7) 「磐井(いわい)の乱」に関する定説と九州王朝説の両説を否定し、「反乱した筑紫君磐井は筑後に栄えた豪族(日本貴国将軍の後裔)。反乱の相手は倭国王(筑前)。倭国王から反乱鎮圧を要請された継体天皇が鎮圧軍を派遣した」と解釈する(継体紀・雄略紀)。三者(倭国王・継体(応神五世)・磐井(大彦末裔))の関係には五世遡った祖先達(倭国王・応神天皇・武内宿禰(大彦同族))の関係が投影されていたと考える。この理解があって初めて次項「大和王権の九州遷都」の背景が理解できる。
(8) 磐井の乱を制圧し磐井領を収奪した継体天皇と派遣将軍物部麁鹿火は九州で大和王権の橋頭保を築いた。内政に重心を移した倭国に代わって、歴代大和天皇は「任那奪還倭諸国軍司令」として九州に宮を設け(安閑紀・欽明紀)、倭国朝廷に参画した(敏達紀)。「大和王権の九州遷都と倭国朝廷への参画」が論証できる。その間も大和王権は一貫して「倭国の臣下ではない、格下だが同盟国」の関係を維持している。
(9) 大和王権は九州に遷都したが、次第に倭国物部氏に取り込まれ蘇我氏に翻弄された。しかし、「三つ目の新九州王権(倭国から独立した上宮王家)と連携し、乙巳の変を契機に合体して大和王権として復活したいきさつ」(第七〜十章)を日本書紀は明示していないが、隠してもいない(合体前二王権の天皇の交互記載)。
1970年頃から、松本清張氏の「古代史を疑う」(1968年)や古田武彦氏の「『邪馬台国』はなかった」(1971年)などをきっかけに「倭国=九州王朝」説に瞠目しつつも、一方的な「日本書紀の捏造・盗用」の解釈に疑問を持ち続けてきました。先達の諸説に学びつつ新たな検証を加え、中国史書や日本書紀とも整合する「倭国と大和」の全体像を得たと思います。引用をさせていただいた諸先達に感謝するとともに、諸兄のご批判とご助言を乞う次第です。
2015年 春
Mail: wakoku701@gmail.com
東京在住 工学博士
URL: https://wakoku701.jp/index.html;
著作権留保
更新 2015.4 2009.10 公開2007.3
[ 書評 ] ネットに登場した本書に関する書評例 (新しいもの順、選別無し)
書評、ありがとうございます。
● 「さすが、の一言。古代史はご都合主義的解釈ばかりではない、、、納得。」
http://www.amazon.co.jp/倭国通史-日本書紀の証言から-高橋-通/dp/4562051507
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saito氏のブログ「私の推薦する本」書評より
http://www.mars.dti.ne.jp/
saitota/book.html#TOP
● 「、、、今まで日本古代史について色々な説を読んだが、その中でこれが一番納得が行く、、、これを論じた人は高橋通さんと仰る工学博士、凄い方がいらっしゃるものと感服するしかない。、、、もやもやが一気に晴れ、展望が開けた感がする、、、」
/20140615
● 「(懇親会で)高橋通著『倭国通史』(原書房)の紹介あり、目から鱗の話満載、、、」
http://from76.exblog.jp/i9
● 「今月の新刊は高橋通『倭国通史【日本書紀の証言から】』。久しぶりに古代史ですよ。手がけたのは古田武彦さん(九州王朝説創唱者)以来かな。それにしても本書は刺激的、、、」
本書の編集をしていただいた原書房編集長 石毛力哉氏のブログより
(氏は「古代通史」古田武彦 1994 原書房 の編集者)
http://t.co/1HZe5BrlL4
https://twitter.com/ishige_hara
/status/
単行本のご検討はこちら
TEL:(03)3354-0685 FAX:(03)3354-0736
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第一章 半島倭人の「倭国統一」、列島へ移動で「倭国大乱」
第二章 倭国女王卑弥呼」と「邪馬台国女王」は別の国、別の女王
第三章 纒向・神武・崇神・仲哀 それぞれの倭国との関係
第四章 仲哀皇子/応神、仲哀皇子/仁徳を同一人視
第五章 日本書紀の証言「倭国≠日本」と「倭国≧日本」
第六章 「磐井(いわい)の乱」と「大和王権の九州遷都(副都)」
第七章 上宮王と倭国多利思北孤と大和王権推古
第八章 上宮王家の大和合体と倭国白村江の戦
第九章 天智の「日本」と天武の「大倭」
第十章 倭国の終焉と日本建国
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1.
半島倭人の「倭国統一」、列島へ移動で「倭国大乱」
「倭国」のはじまりについて概観した。
(1)「倭人」は「古代の上海地方の鯨面文身(いれずみ)する漁民」を指した(論衡、周(前11-3世紀)条)。その「倭人」が朝鮮半島中部にも居ることが知られ(「楽浪海中倭人あり」漢書地理誌)、次第に「倭人」と言えばこの「極東の倭人」のみを指すようになった。
(2) 「倭人国」の萌芽は、紀元前1世紀(漢書)、次第に韓民族とは異なる極東倭人による半島南端の「倭国」が認識された(後漢書韓伝)。「倭国」の名は中国がその様な「極東の倭人の国」に名付けた他称国名に始まる。中国の認識は中国領に近い「半島倭人」から始まっただけで、列島の稲作技術や倭人国の萌芽は半島より先行していた可能性もある。
(3) 倭国の半島側の中心は対馬の西170km程にあった(三国史記、「多婆那国の南西80km」)。その半島倭人が、より豊かな列島へ繰り返し渡海移住したこと(神代紀)、それが倭国大乱の要因の一つと考えられる。(神代紀・魏志)。半島倭人は稲作技術では劣っても、中国領に近く開化が早かったから武器・戦闘で列島稲作倭人を圧倒したのであろう。
(4) 「卑弥呼の倭国大乱収拾」と「神話の国譲り」は時代的に対応する(魏志倭人伝と記紀)。渡海移住はニニギの天降りで完了し、半島倭国は消失した(記紀と魏志倭人伝240年条)。
(5) 中国史書は「卑弥呼〜台与」(魏志・晋書)「倭五王」(宋書)など700年頃まで倭国を記述している。王統の継続はともかく、倭国の存続が確認される。645年を最後に倭国伝は終り、「倭の別種日本国の遣唐使が702年に来た」と記し、以後日本国が継続している。(第一・二・三章)。
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卑弥呼は九州、邪馬台国女王は恐らく大和、である。この「邪馬台国女王は卑弥呼」と魏志倭人伝は書いていない。国都名が「女王国」と「邪馬台国」と違うから「別の国、別の女王」の可能性がある。「魏略」とそれを原典とした「魏志」の比較からそれを論証した。その論拠は、
(1)「魏略」は「倭(国)は、、、」で始まる「倭(国)伝」である。魏の立場から、対象を「魏の認定した倭国」に絞り、「倭国の女王は卑弥呼、その国都は女王国、その範囲は九州北半分、海を渡ると別の倭種」としている。「邪馬台国は(海を渡った)倭国外」だから記述していない。正しい認識と考えられる。
(2)「魏志」は「倭人は、、、」で始まる「倭人伝」である。晋時代の魏志は、魏略を原典としながらも対象を「魏の認定した倭国」にとらわれず、倭国外の倭種にも広げ、古い情報も含めて倭種・倭人情報を洗いざらい挙げ、「遠方に(別の)女王の都する邪馬台国(別の国都)もある」を採用した。その内外区分意識の薄い「曖昧文章」が誤読「卑弥呼の女王国(国都)=女王の都する邪馬台国(国都)」を誘導して後世を誤解させた。第一の誤解だ。
(3) 後続の「後漢書」は、魏志の「曖昧文章」を正すつもりで「卑弥呼は『九州の邪馬台国』に都する」と明記した。第二の誤解だ。その結果「邪馬台国は九州」説の根拠の一つとなった。
(4) 後世の「隋書」は「倭の遣隋使」を機に隋使裴世清を九州倭国と大和推古に遣わした。大和も随行使小野妹子を出していたからだ。その結果を隋書は「倭国(当時俀(たい、イ妥))国を自称)は、魏時(魏の時代)邪靡堆(やまと)に都す、即ち魏志の謂う邪馬台なるものなり」とした。魏時の倭国国都は九州卑弥呼女王国だから、第三の誤解だが、「邪馬台国は大和」説の根拠になっている。
(5)「台与の倭国遣晋使〈266年〉は」「倭(国)の女王の貢献」と表現されている(晋の起居注(266年条、神功紀引用)。一方、別資料に「倭人来りて方物を献ず」(晋書武帝紀266年)である。定説は「二つの記事は同一事績」とするが、正しくは別の遣使記事である。なぜなら「貢献」は「朝貢国」に対する正式表現である。「献ず」とのみあるのは「朝貢していない国・人」と考えられ、「台与遣晋使(朝貢使)に随行した倭種(未朝貢、邪馬台国?)の遣使」の可能性がある、と指摘できる。この随行使が纒向に前方後円墳の着想を持ち帰った可能性もある。なぜなら前方後円墳は晋尺を使用し(森浩一「古墳の発掘」)、晋尺が伝わった可能性のある倭の遣使はこれが最後である(次は413年遣宋使)。
以上、「邪馬台国論争」は「卑弥呼の女王国(倭国の国都)と邪馬台国(別の国の国都」がどこか)の論争だが、共通の誤読「卑弥呼の女王国=邪馬台国」の上に「九州か大和か」を論争するが、前述のように「二つの別の国都」だから、決着するはずが無い。原典魏略解釈(1)の再確認に立ち帰るべきであろう。
このように、古代史の論争は初期の誤読で自縄自縛になっている解釈が多々あり、一度「常識化した誤読」から解放される必要がある。例えば、九州王朝説は「倭国再発見」に大貢献したが、その倭国を記載していない記紀を「倭国隠蔽・倭国存在否定・倭国史書の盗作・捏造」と決めつけ、「記紀不信」の自縄自縛から記紀の「重要な倭国情報の数々」を見逃している(二天皇の混在記述、仏教論争など、敏達紀)。一方、定説派は九州王朝説派の「記紀不信」とは逆の「記紀信奉」から「記紀に書いていない九州王朝など無かった。だから不記載なのだ」として「倭国=大和王権」の自縄自縛から抜け出せないでいる。双方、自縄自縛である。
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3世紀後半〜4世紀の列島について「海外史書」の記述は乏しいが「記紀」を再検証して「倭国と大和の関係」が解読できる。
(1)台与の遣晋使(266年)後について、倭国の中国情報は倭王讃の遣晋使413年まで無い(晋書東夷伝)。この間は倭国は遣晋使を送れる統一王権が崩壊していたと解釈できる。
(2) 神武の大和東征時(270年頃)、纒向祭事朝廷(邪馬台国か)は既に在った(纒向は三世紀前半、神武建国は三世紀後半)。神武は三輪系と姻戚関係を持ったが円墳を維持しているから、纒向祭事(前方後円墳)を統括したとは考えられない。むしろ崇神系が祭事王権を統合した可能性がある(天皇陵の前方後円墳は崇神系から)。
(3) 一方、大和に政事統一国は未だ無く、記紀は神武系・崇神系・景行系を繋(つな)いで一系としているが、これら三系は並立・交代した可能性がある(三系並立)。その根拠は、かなり信頼できるとされる記崩年(古事記天皇崩年、崇神318年・仲哀362年)を重視し、天皇崩年年齢を「二倍年歴」説に従い修正し、父子継承の場合は一世代平均23年を採用などから修正在位年数を求めた。その結果、「神武〜開化は270〜380年頃」、「崇神・垂仁は288〜340年」、「景行〜仲哀は316〜362年」と時代的な重複があり、一系でなく並立していた可能性がある。この時代は渡来系も多く、混沌としている。
(4)台与の後、九州倭国は乱れ、覇権争いが続いたと思われるが、勝ち残ったのは崇神系と協力して東方征戦で力をつけ、景行系と協力して西方征戦で九州を征した倭国王、これが「倭の五王」に続く((1)の続き)。
本著では、この再統一を果たした九州倭国王がホアカリ系であること(第四章)、大和王権は三系並立したが、大和王統は神武系‐欠史八代‐応神へとニニギ系がつながるから万世一系(同族一系)が成立していることを論証した(第五章)。
4世紀後半、倭国王は仲哀・神功軍の協力で「熊襲征伐を完了」した。次に新羅の利権で誘って新羅征戦に引き込んだ。
(1) 神功は大和・東方軍の兵站基地「日本貴国」を北肥前に準備した。
(2) 新羅征戦は、神功(緒戦)・応神(大戦果)・仁徳(完成)の40年に亘る大事業であった。しかし、紀は神功紀362年に凝縮記載している。当時から、応神・仁徳を称揚することに大和諸豪族の反感があったのではないか。応神・仁徳の出自が原因と思われる。
(3) 神功皇后・皇子は「一定の成果(七支刀)があった」として半島利権を得て近畿(宇治川域)に東征・帰還した(神功紀380年頃)。神功皇后・皇子は宇治川域から北大和に進出し、皇子は崇神王権を支配下においた。その根拠は、神功系陵墓とされる佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群(タラシ系)が栄え始まると、崇神(フヨ)系の柳本古墳群(天理市、大和盆地東部)はこの頃を境に造られなくなる(400年頃か)。神功皇后の皇子(天皇)が崇神王統に代わって大和を支配していく、と解釈できる。古市・百舌鳥古墳群の応神陵・仁徳陵が造られたのは仁徳東征後の420年頃と考えられる。陵域を異にするから、神功・皇子と応神・仁徳は系列が異にすると考えられる。この王権交代の衝撃を緩和するために神功皇后・皇子=応神という「同一人視」が大和豪族対策として必要であったと考える。
(4) 応神天皇(仲哀皇子とは別人)が貴国王になると「倭が百済・新羅を臣下とした」(広開土王碑)という大戦果があった。応神は河内に行っていないから仲哀・神功の皇子ではない。倭国王族ではないか(仮説)。
(5) 仁徳は新羅を破り、新羅から人質をとって支配下に置いた。新羅征戦は完了し、河内に東征(410年頃)して近畿諸王権を支配下においた(これも王権交代だが複雑)。
(6) 宋はその結果を「倭国は列島統一を果たした」と認定して「倭王」の称号を「倭国王」に格上げした(宋書)。
(7) 倭国と日本の関係は「共にアマテラスを祀る対等的友邦」であるとともに、「倭国を宗主国とする倭諸国の筆頭」として「倭国≧日本」と表現されるような関係と考える。
本著では、応神・仁徳の出自を「倭国内ニニギ系王族」と論証したことで、大和王権の継承権を持ち、一方「応神は倭国王族」という仮説が広い意味では正しいことが論証される。
第五章 日本書紀の証言「倭国≠日本」と「倭国≧日本」
定説は「雄略紀五年条の百済史書引用文」を根拠に、「倭国=大和朝廷」とするが、「同じ文章が逆に『大倭≠日本』『倭国天王≠日本天皇』を証明している」とする説を確認し、論証した。即ち、「百済王は三兄弟だった。兄蓋鹵王(けろおう)は弟の昆支君(こんしくん)を大倭の天王に仕えさせ、この昆支君(=加須利君)は末弟の軍君を日本の天皇に仕えさせた」、即ち「大倭≠日本」であり、「天王≠天皇」、「倭王武≠雄略天皇」が立証される。これは、日本書紀(引用の百済新撰を含む)だけで読み取れる論理であって「推測」ではない。
倭国と日本の関係は共にアマテラスを祀る対等的友邦であるとともに、倭国を宗主国とする倭諸国の筆頭として「倭国≧日本」と表現されるような関係と考える。
「獲加多支鹵(わかたける)大王」の銘のある鉄剣が「熊本県の江田船山古墳」と「埼玉県の稲荷山古墳」から出土したことについて、定説は「雄略天皇の列島支配の証拠、倭王武=雄略」とし、九州王朝説は「倭王武の雄略天皇の列島支配の証拠」としている。共に誤りである。正しくは「倭国が支配する九州の中に、雄略天皇の将軍の墓が存在する十分な理由がある。仁徳に従った九州出身の将軍(日本貴国の子孫)の子孫将軍の墓が熊本にも埼玉にもある」との解釈を論証した。
第六章 「磐井の乱」と「大和王権の九州遷都(副都)」
「磐井(いわい)の乱」を定説は「大和朝廷の筑紫国造(くにのみやつこ)磐井が大和朝廷に対して造反した」とし、九州王朝説は「筑紫君=倭国王磐井に対して継体が造反した」としている。いずれも誤りである。
筆者解釈は「磐井が倭国王に造反したが、倭国王に救援要請された大和継体軍に征伐された」とする。根拠は「筑紫君磐井とは仲哀・神功の熊襲征伐に参加した大彦一族の将軍が筑後に残って倭国王に仕えた大和系豪族。筑紫君とは大和が呼んだ名で倭国王ではない」にある。その功で継体は豊国の磐井領領有を倭国王に認められて拠点を得た。更に磐井の遺領(列島各地にも点在)を次々と収奪した。
最も注目すべきは、「九州の磐井遺領を得た安閑天皇(継体の次)は九州豊国の勾金橋に遷都し(534年)、倭国朝廷にも参画した(安閑紀・敏達紀)」である。遷都といっても実態は一様ではない。安閑は豊国に遷都したが、次の宣化は殆ど九州に来ていない。次の欽明は任那がらみでしばしば九州滞在し、九州に宮も持った。敏達は九州に定着し、倭国朝廷にも参画した(倭国大連が大和大連を兼務)。用明・崇峻・推古は倭国王族扱いを受けて蘇我氏提供の肥前の宮に居た(本領は豊前、大和領は蘇我氏が管理か)。蘇我氏に翻弄されている。推古の後半は大和飛鳥に帰還遷都している。
定説も九州王朝説もこの「大和王権の九州遷都」を検証して来なかったので、解釈が大混乱している。これを理解して初めて「難波(筑紫)の堀へ棄仏」・「蘇我氏の本拠は肥前」・「推古の豊浦宮は豊前」も納得され、「日本書紀の捏造」説(九州王朝説)の多くが否定される。
第七章 上宮王と倭国多利思北孤と大和王権推古
推古の時代、九州には「倭国」と「遷都した大和王権」と「倭国から独立した上宮王家」の三王権が並存した。その根拠は、文献から600年頃の年号が三つ見つかっている。「年号を建てられる独立大王が三人いた」ことを意味する。九州年号「吉貴」(594-600)は倭国年号と考えられている。次に、襲国偽僭考に「三年(595年)を始哭と為す」とあり、推古三年に該当するから大和王権の年号と考えられる。三つ目は上宮王(法皇)の法興年号(591-623)だ(法隆寺釈迦三尊像光背銘)。595年時点の三大王の本拠はいずれも九州である。
この三大王の存在を理解しないと隋書の「遣隋使、日出ずる国の天子、日没する国の天子に書を致す、恙無きや」を理解できない。定説は「多利思北孤=聖徳太子」としているが、国王と太子は格が異なる別人である。別の定説は「聖徳太子=上宮法皇」として「聖徳太子は推古の代理国王」として隋書と整合させようとしているが、没年が異なる別人(親子)である(推古紀と法隆寺釈迦三尊像光背銘)。定説も九州王朝説も全体理解に不整合が多く、遣隋使譚を正しく把握出来て居ない。
筆者の解釈は複雑だが、細部に至るまで綺麗に整合する。
(1) 遣隋使の派遣主は倭国(当時俀国と改号していた)の王多利思北孤(たりしほこ)、王は「日出ずる国の天子云々、、、」の対等外交国書で煬帝を怒らせた。この遣隋使に推古は小野妹子を随行使として送っていた。
(2) 煬帝は調査使裴世清を多利思北孤と推古に送り、前者から「朝貢開始と俀国改号取り消し(倭国に戻す)」の約束を取り付けた(平等外交の撤回)。続けて大和の推古に煬帝の国書を伝えた。その国書は「皇帝(煬帝)、倭皇遠く朝貢をおさむるを知る、朕嘉(よみ)するあり、、、」とある。中国は通常朝貢国の格下の分国から二重の朝貢は受けない。推古の奉物を朝貢と認めたのは「俀国を認めず、代わりに推古を倭国の朝貢権を持つ倭王」と持ち上げたのだ。
(3) しかし、倭国が折れて朝貢を開始したので、結果的に一国に二重の朝貢を認めたことになるが、最終的には推古の朝貢権は反故(ほご)にされた。煬帝の「遠交近攻策」「推古との裏外交」の完勝である。
以上の解釈で、隋書(推古との裏外交は記さない)と推古紀(倭国不記載、推古外交しか記さない)が綺麗に整合する。詳しくは前著「倭国通史」242〜260頁を参照されたい。
第八章 上宮王家の大和合体と倭国白村江の戦
倭国は、隋が滅び唐に代わると「対唐対等外交」に戻り、再び天子を自称し(「大宰府大極殿」など)遣唐使は送っても朝貢はしなかった(旧唐書631年)。他方、上宮王家と大和王権はそれぞれ親唐自主外交を模索した(舒明紀632年・新唐書日本伝654年)。
大和王権と上宮王家の二王権は、蘇我氏が大臣を兼ね外戚となっていた。北朝仏教導入でも外交路線(朝貢外交)でも一致し、二王権は急速に接近して姻戚関係も重ねて行く(田村皇子(後の舒明天皇)と宝皇女(上宮王孫、後の皇極天皇)の結婚)。紀は「大和王権は推古の後、舒明・皇極・孝徳と続いた」としているが、二王権が混在していて様々な解釈が可能で不審が多かった。
蘇我氏の専横に対し、二王権は連携して「乙巳の変」で蘇我宗家を滅ぼした。「乙巳の変後には二王権は明確に合体した」と解釈できる。二王権のその後の動向からこれは「大和王権を存続王権としながらも、上宮王家系が主導権を取る合体」と解釈できる。しかし、この合体には多くの疑問があった。
半島では百済が唐・新羅に滅ぼされ、百済の遺臣らが倭国に救援要請をしてきた。百済の保護者を自認していた倭国は、列島宗主国として倭諸国に「百済救済」の派兵を号令した。親唐外交を模索した孝徳を継いだ斉明は立場上親唐派であったが結局「百済救済戦」に加わった。これまで「何故、親唐派の大和王権斉明が白村江戦に参戦したのか?」「何故、斉明の皇子天智が白村江戦から手を引いたのか?」「何故、弟の天武が反唐派なのか?」など、ある程度の推測はしたが、残る謎があった。
第九章 天智の「日本」と天武の「大倭」
白村江の敗戦後、九州倭国は博多に進駐した唐軍2000人によって傀儡化された(唐会要倭国伝670年)。大和の傀儡化を恐れた親唐派の天智天皇は傀儡倭国と距離を置き「倭国からの独立、親唐日本国」を構想して大和を「倭国(分国)」から「日本国」へ改号宣言した(三国史記670年条)。しかし、天智が崩御し(671年)壬申の乱(672年)で「親倭国・反唐・反傀儡倭国の天武」へ代わると、天武は「反唐に転じた新羅」に近づいた(天武紀)。新羅が唐に勝って朝鮮半島で支配的になると九州に駐留していた唐軍は撤退し、傀儡倭国は消滅した(不詳)。大和の天武は、次第に列島の単独支配者になっていった。天武は「大和主導の総国大倭(おおやまと)」構想を進めた(古事記)。しかし、天武は道半ばで没した(686年)。
天武の「大倭(おおやまと)国」構想も天武の崩御と共に消えた。 持統が天智の「親唐日本国構想」を復活させて、それを文武が実行した。倭国や天武の唐に対する対等外交は封印され、日本建国(701年)は唐への「朝貢遣唐使」で完成した。
遣唐使に対し唐は「日本国と倭国は別の国」と認定し「日本国は倭国の正統な継承者」とは認めなかった。それに従って記紀は「日本国の国史、日本紀(後に日本書紀)」は「別の国である倭国」についての事績は記述しない方針「倭国不記載」を採用した。外交的には「日本国は神武が大和に建国した」として「滅亡した地上の九州倭国から分国したのではない別国、非倭国」として親中国を鮮明にする一方、国内向けには「やまと」に「倭(やまと)」「大倭(やまと)」を当て字して「倭」字を総国名から地方名に格下げし、「日本(やまと)」と振り仮名して「日本=やまと=倭国」を教宣した。
倭国と大和は政事的に対抗することはあっても対立までは到らず、むしろ政・祭を分担してきた。倭国の自滅によって大和は祭事朝廷色を色濃く残したままの日本国を建国し、今日に至っている。
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