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寄稿文「倭国内ニニギ系王族」 解題

追加 2024.01

何年か前、筆者はある学術誌の編集者から寄稿依頼を受けた。季刊誌「唯物論研究」の隔年特集号「中間総括 市民の日本古代史研究」である。この季刊誌は思想的観点から「歴史」・「九州王朝説」も研究対象とし、数年に一度「九州王朝説の研究進捗を総括する特集号」を企画、錚々たる論者に寄稿の場を提供していたのである。その論者の一人が筆者を編集者に推薦したと聞く。

 

 

特集号表紙

 

この特集号の論者に触れよう。

古賀達也(筆頭論者):「古田武彦の正統継承者」を自任して、分裂後の「古田史学の会」代表である。

福永晋三:(旧)古田会の幹事をしていたが、自説で古田とぶつかり破門されたとしている。福永がその後開いた月一研究会に筆者もしばらく参加したことがあり、古田史学の研究スタイルを垣間見たのは参考になった。今でも研究会の案内を頂いている。

室伏志畔:幻視史学と称する直感的仮説「南船北馬説」(海洋渡来系倭人と北方騎馬民族末裔の倭人とのせめぎあい説)の論証を唱えている。広い人脈から独創的孤立論者を支援したり(大芝英雄など)、この特集号のまとめ役でもある。今でも自論冊子を定期的に頂いている。

安本美典:九州王朝説とは距離を置く定説派(よりは通説派)として多くの読み物を提供して著名である。古田武彦を激しく論難したことでも知られる。

佃收:九州王朝説を緻密に論証した大部(「古代史の復元」七冊)をものしている。独自の大局的把握(多元的王朝交代)などに筆者は賛同しないが、多くの論証は参考になり、多くを引用させて頂いている。

橋通 「倭国通史」で注目を得、その一部が佃收の久留米大学講演の参考資料として紹介されるなどした。

 

 

 

 

特集号目次

 

  筆者がこのサイトでこの寄稿文に触れたことは無い。なぜなら、この寄稿文は次著「高天原と日本の源流」の先駆的考察文(仮説)であって、次著がより詳細に、より正しく論証したので、重複を避けたのである。

  ただ、筆者にとっては斯界の錚々たる論者に並んで自説を披瀝できた記念すべき場であり、小論(12頁)なので改めてここに転載させていただくものである。

 

 

 

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季報唯物論研究特集号 「中間総括 市民の日本古代史研究」 201702

 

倭国と大和王権の架け橋「倭国内ニニギ系王族」

応神・継体・上宮王・天武の出自を解く

高橋 通 工学博士     

 

筆者近況欄             

前著「倭国通史」に無い新内容で出稿。記紀の神話と海外史書が一致する新解釈!

工学博士の「工」とは「二(天と地)の間をつなぐ定規を持つ人」の意という。「神話と史実」をつなぐ人になりたいものです。

             

        

はじめに

筆者は前著「倭国通史」[1]で「倭国と大和王権の同盟的関係」「大和王権が九州に重点を移した時期があった(安閑〜舒明)」「日本書紀の倭国不記載の背景」「応神・継体・上宮王・天武の出自の不詳点」などを問うた。本小論ではこの最後の「不詳点」が「倭国内ニニギ系王族」というコンセプトによって相当程度解消すること、その解釈によって、なぜ何度も王統が乱れながら、大和王権が曲りなりに「万世一系」を主張し得たかを論じたい。

 

● 大和王権と関門海峡の関係

神武〜天武までの大和王権は「関門海峡域」に特別の関心と関係を示している。即ち、神武がこの地から東征に出立し(神武紀)、景行〜仲哀がこの地域の穴門(長門)に宮を置き(仲哀紀)、応神・仁徳がこの地(難波=関門海峡域〜豊国、後述)をある時期領有し、安閑〜舒明が豊国に執着を示している(安閑紀〜舒明紀)。そして、天武天皇は「下関稗田出身と思われる阿礼」を呼び出し「古事記(大和王権の記録)」を伝誦させた。

なぜ大和王権は「倭国が支配していた関門海峡域」にそれ程こだわるのか。この謎解きが首題の解明の糸口となる。まず、神話から始める必要がある。

 

● イザナギと関門海峡

前節の「関係」は大和王権の祖イザナギ・イザナミに始まることが古事記の「島生み神話」から読み取れる。その神話は三段から成り、「オノゴロジマ生み」「大八島(おおやしま)生み」「(オノゴロジマに)還ります時生める六島(吉備児島・小豆(あずき)島など六島)」である。この「六島」譚は日本書紀には無い。

この「六島」は「関門海峡北西の島々」に比定できる。六島すべての島名が現在名と整合する点を持ち、全体として数・島名・地形・順序が共に整合する。神話としては稀な例、むしろ史的解釈として「比定地論証」とするに足るレベルと考える(比定結果は[2]、参考文献は[3][注5]、論証は[1]増補版参照)。即ち「イザナギ・イザナミがオノゴロジマに還る時生んだ六島」とは「関門海峡を起点に北西方向に並ぶ六島」に比定できる。史実かどうかはさて措き、古事記はそのように読める記述をしている。

 

● オノゴロジマは宗像沖ノ島

前節の「関門海峡六島」を詠んだ歌がある。応神紀の「難波大隅宮の歌と後続文」に「あはぢしま」「あずきしま」「淡路島」「難波の西」「吉備」の地名があり、仁徳記の「淡道島でよめる歌と前後文」に「なには」「おのごろしまみゆ」「吉備」とある。前節及び「おのごろしまみゆ」(前節六島の先)・「あずきしま」(前節六島の一つ)が視野に入っているから、二つの歌の視点はほぼ同じで「関門海峡」である(海峡東と西、眼前か否かの若干の違いはある)。従って、その視点の内にある共通地名「あはぢしま(淡路島・淡道嶋)・なには(難波)・吉備」は「関門海峡西」に比定できる(詳細、並びに後年の地名移植については[1]増補版参照)。

又、前節の比定から、関門海峡北西六島の先、仁徳の歌「オノゴロジマ見」は「宗像沖ノ島」に比定できる。事実、関門海峡から天気が良ければ沖ノ島が見える。

更に、「イザナギの出発地高天原 → オノゴロジマ(沖ノ島) → 六島(関門海峡北西六島)」を逆に辿ると、「イザナギの高天原は対馬」が示唆されている。

 

● イザナギの「小戸」は「下関彦島」

前節が傍証となって、次の比定が可能となる。イザナギはイザナミの死後、禊(みそぎ)をし、三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)を生む。その地について紀神代五段一書六・同一書十に書かれている言葉に「小戸」「小門」「粟門(あはと)」「速吸名門」「潮」「流れ」「瀬」「二門」「筑紫」がある。「筑紫」があるから、九州近くの複数の海峡名と考えられる。その内「速吸名門」は神武東征で最初に通った海峡「速吸門」(記)で「関門海峡」と考えられている。「粟門」も「潮」とあるから海峡である。「二門」とあるから別の海峡である。「関門海峡」付近には他には現「小門(おど)海峡」しかない。これは下関と彦島とを隔つ4km程の川の様な海峡、関門海峡側に狭い口(〜30m、流れが速い)と日本海側に広い口(〜300m、流れが弱い)を持つ。上掲の記・紀(一書)の記述に一致する。「イザナギの小戸」は海峡としては「下関小門海峡」に、地名としては「彦島小戸(現小戸公園など)」に比定できる(西井健一郎説[3]を基に検証)。

以上から、古事記の島生み譚を史的解釈すれば「イザナギは対馬(高天原)を出て、沖ノ島(オノゴロジマ)で国生み祈願(「島生み」の本居宣長解釈)をした後、関門海峡を拠点として獲得し、沖ノ島(オノゴロジマ)に還り、再び関門海峡彦島の小戸に戻って祭事(禊)をした」と解釈することができる。前二節と合わせ、イザナギを祖とする大和王権が関門海峡にこだわる理由の第一である。

 

● イザナギの「筑紫の日向」は「関門海峡筑紫側」

イザナギの小戸は「筑紫の日向の小戸」(古事記)とある。小戸彦島説には「彦島は筑紫でない」という疑問があった。しかし、関門海峡は両岸を支配して初めて要衝の意味を持つ。島としては別だが、日向と彦島を要衝として「同一領域」と見ることもできる。例えば仲哀紀に「関門海峡の穴門(山口)から宇佐を東門と」など、「海峡両岸を同一領域」と見る例がある。その理解で、「日向は関門海峡筑紫側、対岸の彦島小戸も日向の同一領域」と理解すれば、「筑紫の日向の小戸」は成り立つ。

同一領域だから遠方ではない。彦島の対岸、例えば「門司」が日向の比定候補として挙げられる。ここでは比定順を「小戸 → 日向」とした(九州王朝説と逆)。ただ、イザナギ関連の「日向」は上記数文字だけで、「同一領域」などの解釈は出てこない。一方、ニニギの「筑紫の日向」には支配領域・同一領域視の意味がある(次節)。そこで、ニニギ時代を記述する際に「筑紫の日向の(一部である)小戸」という慣用表現があって、これを「イザナギ記事へ遡及使用」したとも考えられる。ここではイザナギの「筑紫の日向」は「門司」、を比定候補として挙げるに留め、次節で検証する。

 

● ニニギの「筑紫の日向」は「門司」

ニニギは「葦原中国を支配する為に、筑紫の日向の高千穂峰に天降りした」という(記紀)。

門司(日向の比定候補)の隣に小倉(こくら)がある。小倉中心部に「足原(あしはら)」「中津口(なかつくち)」という地名が隣り合って現存する。葦原中国(あしはらなかつくに)」の比定地候補となり得る([5]、ただし地名の時代考証は要る)。合わせると「葦原中国(小倉)を支配する為に、日向(門司)に天降りした」とすることができる。これを「筑紫の日向は門司」の比定論拠の第一としたい。

ただ、小倉も彦島の対岸だから、小倉も「日向」の第二候補、あるいは「門司と小倉両者合わせて日向」の可能性もある。以下の「門司」はその可能性も込めて「門司(〜小倉)」の意味で使う。

 

● ニニギの「筑紫の日向の高千穂峰」は「門司の峰」

ニニギの「日向は門司」(前節)であるなら「日向の高千穂峰は門司の峰」となる。これを検証する。古事記には高千穂を評したニニギの詔がある。「(ニニギは)竺紫日向の高千穂の久士布流多氣(くしふるだけ)に天降ります、、、此の地は韓国(からくに)に向、笠沙(かささ)の御前(みさき)に真来(まき)通り、朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国なり、かれ、此地(ここ)はいと吉(よ)地(ところ)と詔す、、」とある。

ここで「朝日の直刺す(たださす)国」とあるのはただの朝日ではない。ただの朝日ならどこでも差す。「直(ただ)刺す」とは「海から頭を出した朝日の最初の光が直ちに刺す」の意味ではないか。門司の近くの主峰(例えば戸ノ上山518m、または足立山597m)に登ると瀬戸内海が見え、真東100km以内に山や島が無い。これら門司の峰は「海から昇る朝日を拝める北九州で唯一の場所」である。これを「日向は門司」の比定論拠の第二とする。博多周辺では峰に登っても朝日は海からでなく山の端から出る。

更に、「夕日の日照る国」の夕日はただの夕日ではない。「海から出た日が海に戻るまで照らしてくれる地、最も長く日照る国、天す国にふさわしい地」と褒め称えた、と解釈できる。門司の峰から真西の方向は100km以内により高い山や島がなく、海に沈む夕日が拝める。門司の峰は「海から出る朝日と海に沈む夕日」の両方を見られる北九州唯一の場所である。「日向は門司」の比定論拠の第三とする。

更に、「韓国(からくに)」は一般的な韓国ではない。良い関係の韓国、とりわけ鉄などの主たる交易相手金官国(後の伽耶)などであろう。門司は金海市(金官国、釜山西)に直接向き合い、背後に鉄の瀬戸内海市場を持ち交易基地としても栄えるだろう「いと吉(よ)地(ところ)」なのである。比定論拠の第四とする。博多周辺では金海市の間には対馬が横たわり直接向き合っていない。

ニニギ自身が日向を高く評価している諸点にこれ程合致する地は他にない。ニニギの「日向の高千穂」は「門司の峰」、従って「日向」は「門司」と比定できる。

 

● 「笠沙のみさき」は笠の形の「対馬神崎」

更に、「笠沙の御前(みさき)」を以上と同様の「視界の果て」の100km以遠に探すと「対馬南端に笠の形をした山(神山)から成る岬、神崎(こうざき)」があり、比定地候補とできる。

笠沙は「ニニギが天降りの途中(経由地)でサルタヒコの出迎えと日向までの随行を受けた地」(記紀)。そのサルタヒコは「高天原から葦原中国までを照らす国神」(紀)とあるから魏志倭人伝に「對馬國は絶島、、、良田無く、、、船に乗り南北に市糴(してき、交易)す」とある「対馬の海原倭人」であろう。同書はこの「南北」を北九州と半島南の意味で使っている(「、、、」は中略の意)。「経由地笠沙は対馬」と整合する。

「真来通り」を「起点(高天原)と対馬(経由地、笠沙)と終点門司(日向)を直線で結んで真っすぐ来た(真来通る)」と解釈すると、その逆をたどって起点を求めると「半島南、対馬の東170km辺り」ということになる(次節)。即ち「ニニギの高天原」は「半島南」に比定できる可能性がある。「対馬神崎」はそのほぼ中間となり、その山容(笠形)と合わせて「経由地笠沙」に相応しい比定地となる。

「半島南 → 対馬南端 → 門司」は「対馬海流の上流 → 下流」であり、史実「海(あま)下り」を神話的表現したのが「天降り」と解釈すれば上記全てと整合する。

以上から「笠沙は対馬南端神崎」に比定できる。

 

● 「高天原」は南韓「高興半島」 内外史料が整合

半島にも倭人がいて、部落国家群があった(漢書地理志、紀元前1世紀)。しだいに統合して倭国となった(後漢書倭伝107年)。それは半島南沿岸部にも広がっていた(後漢書韓伝)。その中心は「多婆那国の南西千里(80km)」とある(三国史記「脱解王説話」)。筆者は前著でこの地をほぼ特定して図示した。それは現韓国全羅南道高興(コフン)郡の「高興半島」である。この地は「対馬周辺の良田(魏志倭人伝の用語)適地」としては恐らく広さ四番目( 博多周辺 > 小倉周辺>釜山周辺>高興周辺 )である。漢の膨張に押されて半島西を南下した韓人は馬韓(百済)の広大な良田適地に留まり、一方半島中央部を南下した韓人・濊(わい)人(ツングース系?)・靺鞨(まっかつ)人(高句麗と同系)は第三の釜山/金海の良田適地に留まり、それらの中間の第四の高興は南下する半島人の空白地帯と考えられる。第一の博多と第二の小倉はスサノヲ系が先に押さえたから(記紀)、高興は対馬アマテラス一族(イザナギの後裔)の植民適地として唯一残された地である。南下韓人に押された半島西沿岸の稲作倭人の流入を加えて(あるいはそちらが主)高興周辺の倭国は農耕が盛んだったと思われる。記紀のアマテラス高天原の記述と整合する。前節と合わせ「アマテラスとニニギの高天原は半島南、特に高興」に比定できる。

その後「韓・濊(わい)の更なる南下」(後漢書韓伝)もあって最後は「半島倭国の消滅」(240年魏使通過時点以前、前著で論証した)となる。それに先立ちアマテラスは一族諸将を列島に天降りさせ(植民〜侵略)、天孫ホアカリ(兄)はスサノヲ系から「国譲り」を勝ち取り、博多周辺(第一の良田適地)を既に治めた(次節)。これは「倭国大乱収拾」(卑弥呼の180年頃、後漢書)に対応すると言える。天孫ニニギ(弟)は200年頃(遅くも240年以前)に小倉周辺(第二の良田適地)を治める為に「サルタヒコの渡海船団で高興半島(アマテラスの高天原)を出発し、対馬南端(笠沙)で対馬倭人(サルタヒコ)の出迎えと随行を受け、海路門司(日向)に真直ぐ来た(真来通り天降りした)」と解釈できる。イザナギ・ニニギを祖とする大和王権が関門海峡域にこだわる理由の第二である。

付言すれば、「高天原」の意味に三段階あったことは前著でも指摘した。「原初の神話高天原は天」であろう。「イザナギの高天原は故地対馬の可能性」を前述した。ここでは「アマテラスの高天原は故地の半島倭国」とした。恐らく、史的にはそれぞれの名前があり、神話に押し込まれると皆原初と同じ「高天原」とされたのであろう。「アマテラス」も同じ経過が考えられる。

 

●  祭事王ニニギは「祭事倭国王卑弥呼」を継ぐべく天降った

引き続き、「大和王権と関門海峡の関係」の検証を続ける。

魏志倭人伝に「倭国は祭政二重構造であった」とある。即ち「諸政事王が祭事(鬼道)を行う卑弥呼を共立して倭国王とした」(魏志倭人伝)。「祭」が上である。

では、「支配者ニニギ」は「政事王」であろうか「祭事王」であろうか。それは従臣をみれば解る。天孫ニニギに供奉した五部神は天児屋命(あまのこやねのみこと、中臣氏の祖)を筆頭とした祭事・神祇司である(紀神代七段本文)。一方、「国譲り」を勝ち取ったと思われるアマテラスの天孫ホアカリ(ニニギの兄)に供奉した五部神は天津麻良(あまつまら、物部氏の祖)を筆頭とした政事・軍事司が主である(先代旧事本紀、同書は「ホアカリはニギハヤヒと同一」とするが、筆者は採らない、前著)。ニニギは祭事王、ホアカリは政事王と考えることができる。

従って「ニニギは祭事王卑弥呼に代わって次の祭事王、即ち倭国王となるべく天降った」と解釈できる。天降り先「筑紫の日向」は祭事王ニニギにとって「第二の良田適地小倉」と「スサノヲ系との緩衝地帯であり要衝の関門海峡」と「イザナギ系の聖地小戸」をまとめて治める祭事王に相応しい地だ。一方、政事王ホアカリ小倉以東ニニギに委ね、自身は博多周辺(第一の良田適地)を治めて、西方・南方の倭諸国政事王となお覇を競っていたと思われる。「ニニギの日向」を「ホアカリの博多周辺」に比定する明確な理由は無い。

 

● ニニギは倭国王になれず南征へ

ところが、卑弥呼からニニギへの祭事王(従って倭国王)の譲位・交代は実現しなかった。まだ、大乱は完全には収まっていなかったからだ。祭事王とは言え、ニニギは最大政事勢力(ホアカリ)側であって、中立的仲裁機能の卑弥呼に代わることができなかった。結果的にニニギ一族は対狗奴国戦などでホアカリ軍の一翼を担い、その一部を傘下に加えて政事王的な性格が強まった。

その根拠は神武東征譚の「高倉下(たかくらじ)の戦記」(神武紀)にある。先代旧事本紀にも同一内容で記され、両史料とも「高倉下なる者が夢に導かれて見つけた剣(国譲り戦で使われた)を神武に奉った」とある。先代旧事本紀では更に「高倉下は天香山命(あまのかぐやまのみこと、以下カグヤマ)の後の名であり、即ちホアカリの子、尾張物部氏の祖である」としている。しかし、ホアカリの子カグヤマはニニギと同時代と考えられ、「高倉下戦記」は本来ニニギ軍・カグヤマ軍で共有された戦記、それを神武紀に入れたのは神武を称揚する為で、ニニギ(〜フキアエズ)の成果を神武紀にまとめたと考える。記紀にニニギ〜フキアエズの戦記が無いからだ。応神・仁徳の成果(新羅征戦)を仲哀紀・神功紀にまとめたと同じ手法、と言える。歴代の一族の成果を後代(あるいは先代)に集約して語ることは編者の裁量の範囲であろう。捏造・盗作には当たらない。神武東征譚に九州伝承が多く含まれているという検証報告も多い。同じ理由ではないか。

 以上、ニニギ一族はカグヤマ軍を傘下に加えてホアカリ軍の一翼を担い、祭事だけでなく、軍事力として狗奴国戦や南方征戦に携わったと考えられる。

 

● ニニギ〜神武の南征と地名移植 

ニニギ〜神武は狗奴国戦などで南九州に遠征し、東沿岸の広範の地に上述の「水平線から昇る朝日を拝める場所」があることを知り、そこも「日向」と名付けた(地名移植)。「日向国」の由来であろう。遡って「日向は門司」の比定理由が正しかったことを傍証している。

「笠沙の御前(かささのみさき、記)、笠狭の崎、紀」も「日向天降り以前(対馬の笠沙)」と「国探し以後(南九州)」の二群がある。後者が地名移植であろう。「遠征地での地名変更・本国の地名移植は征服の儀式の一つ」と考えられている。

 

● 神武東征とニニギ系王族/中臣氏の一部残留

しかし、狗奴国戦も休戦に終わったようで、ニニギ一族の南征は目的を果たせなかった。神武らは目標を変え、関門海峡(速吸名門)を出立地として東征に出ることになった。神武を祖とする大和王権がこの地にこだわる理由の第三である。

その東征の際、祭事系ニニギ一族の一部を関門海峡域に残したようだ。「スサノヲ系政事勢力(出雲以遠)に対する緩衝役」だろう。その根拠は、ニニギに供奉して天降りした祭事・神祇司の子孫「中臣氏」の二分にある。その主体は神武東征に従ったであろう。なぜなら、大和王権にその子孫の「中臣」が現れるからだ(神武紀・垂仁紀など)。しかし、その一部は九州に残ったのであろう。その子孫が倭国大臣として現れるからだ。即ち「倭国王に廃仏を奏上する中臣氏」が居る(欽明紀552年、倭国王であることは前著で論証した)。中臣氏が倭国に居るから、その主筋のニニギ系王族の一部も倭国に居たことを傍証している。即ち、倭国に残ったニニギ系王族は中臣氏を従え、ホアカリ系倭国王/ニニギ系祭事王族の「政祭二重構造」が続いたと思われる(祭政ではない)。

 

● 応神天皇は倭国内ニニギ系王族

応神の孫允恭(いんぎょう)紀にも中臣(ニニギ系)の名が現れる(中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)、仲哀・神功紀の九州記事に初出)。その大臣の多くは仁徳が九州から河内に引き連れて行った者達の子孫で、この中臣も九州系、即ち倭国中臣系と思われる。そうであれば、その主筋の祖応神も倭国王族、即ち「応神は倭国内ニニギ系王族」であった、即ち神武系でなかったという可能性が高い。これを検討するのが本節の目的である。

(1)  神功皇后の新羅親征(369年、筆者推定)は成果があったものの、王統が乱れて神功は貴国(東国軍兵站基地か)を去り(372年頃、同)、後任として応神が貴国の王に立った。応神は神功皇后の皇子ではない。応神の記崩年から逆算した生年、神功皇后の生年修正(二倍年歴・干支2巡修正法など)から、両者は同世代を示している(前著)。九州で生まれ、難波(関門海峡近く)大隅宮で崩じた(応神紀)。次代の仁徳も豊国難波に住んでいる(難波の歌を詠んでいる、仁徳記)。これは、景行・仲哀・神功ら遠征軍の一時的滞在と明らかに違う。「応神は元々九州氏族の出」の可能性を示唆している。また、応神は武内宿禰を貴国から追い出している(応神紀)。応神はタラシ系・宿禰系(神功・武内宿禰など)ではない証だ。

(2)  応神は日本貴国を北肥前から関門海峡域に移しているが、関門海峡を支配していたのは大和王権ではない。倭国だ。根拠の一つは「仲哀天皇が筑紫香椎宮にいる時、神(倭国王、筆者解釈)の言葉を伝達したのは沙波(山口)の県主の祖だった」と神功紀にある。倭国王は沙波(山口)に配下を置いて支配していた。筑紫との間の関門海峡も支配していたと考えるのが自然である。一方、応神は日本貴国王として豊国難波(企救半島東)に宮を置き、関門海峡域を自領としている(応神紀の歌)。この重複支配は「倭国王は応神天皇の関門海峡支配を許可しうる立場にあった」と考えることで整合する。

(3) 応神は関門海峡域を東国軍の中継基地として、倭国・大和連合の要(かなめ)を果たしたと考えられる。これには両者の架け橋となり得る「倭国内ニニギ系王族」が最適である。それが百済・新羅臣民化(広開土王碑、391年)の大戦果となったと解釈できる。

(4) では、なぜ記紀は大和王権に近い倭国内ニニギ系一族のことや応神の出自を記さないのか? 「倭国不記載」の方針に触れるからであろう。「仲哀と神功の皇子=応神」とされている。

以上からの結論は「応神天皇は倭国内ニニギ系王族」である。応神を継いだ仁徳も同じ系統として関門海峡域豊国難波から東征して、河内に王権を確立して神武系・崇神系・神功系を支配して大和王権を再確立した。応神天皇は、神武に続くニニギ系大和王権の第二の祖、中興の祖である(応神はニニギから200年、八世孫位に当たる)。関門海峡は第二の祖応神天皇の故地である。「大和王権が関門海峡にこだわる理由」の第四として挙げる。

 

● 継体天皇も倭国内ニニギ系王族の子孫

 大和王権の王統が武烈で断絶したあと、応神五世孫とされる継体が擁立された。応神と同じ「倭国内ニニギ系王族」の子孫ということになる(ニニギ十三世孫相当)。それを傍証するのが「継体の子安閑天皇は筑紫君磐井領を収奪して、倭国勾金橋(豊国勾金)に遷都」(安閑紀)である(前著)。安閑の祖応神は豊国難波の宮に居たから、豊国も「倭国ニニギ系王族」に所縁(ゆかり)の地であろう。

 

● 上宮王も倭国内ニニギ系王族

「上宮王(聖徳太子の父)は倭国の中枢王族だったが倭国から独立した」と前著で検証した(正倉院御物「法華義疏(ほっけぎしょ)写本」など)。この上宮王家にも中臣氏(鎌足、ニニギ系)が居る(皇極紀)。「上宮王は倭国内ニニギ系王族」であったことを示している(ニニギ十七世孫相当)。倭国王族であるにも関わらず、大和王権に近づき、最終的に大和王権と合体したことがそれを証している(乙巳の変)。

しかし、上宮王はニニギ系(祭事系)であるにもかかわらず、仏教に傾倒している。倭国から独立して「法興年号」を建て、法皇を自称している(法隆寺釈迦三尊像光背銘)。倭国内祭事管掌を放棄して独立したのだろう。引き連れて来た中臣鎌足も上宮王家内で神祇伯就任を辞退している(皇極紀)。倭国内ニニギ系の祭事・神祇主流派(又は旧守派)は倭国内に残ったのであろう。

 

● 天武は倭国内ホアカリ系王族の教育を受けた

天武の出自も疑問があった。大和寄りの側面と倭国寄りの側面が混在して、倭国王の弟説もある(大皇弟、天智紀)。上宮王家の宝皇女(皇極/斉明、上宮王孫)は皇子の一人中大兄皇子を東宮に、もう一人大海人皇子を武人に育てようとした。以下、天武の養育環境について検討する。

(1) 上宮王家は祭事系なので、そのような「武人教育」の環境は無かったようだ。宝皇女はその養育を大海(おおあま)氏に頼んだ(倭国内ニニギ系王族経由か)。大海氏は海事、殊に海軍に長けた氏族で、その祖はホアカリである(新撰姓氏録)。ホアカリ系倭国王家に近い。大海氏は大海人皇子を「倭国内ホアカリ系王族としての養育」を施したであろう。その根拠は大海(おおあま)氏某が天武の葬儀で壬生(みぶ、養育掛り)として弔辞を述べているから、とされている(天武紀末尾)。

(2)  大海人皇子は「倭国ホアカリ系王族」と考えられるような育ち方をしている。大海人皇子は天武天皇となった後、「倭国の対唐対等外交」を継承しようとしている。滅亡した倭国を大和に再興しようと「倭(やまと)」「大倭(おおやまと)」の新たな当て字を大和で使わせている。

(3) しかし、倭国内ニニギ系の影響も受けている。例えば、大海人皇子は壬申の乱の際、伊勢神宮を遥拝し、天武天皇になってからは国家神道を整備している。即ち、大海人皇子は上宮王家の仏教指向と異なり、倭国の神祇系(ニニギ系)に戻っている。倭国の神祇を司ったのは中臣氏や卜部氏で、いずれもニニギ系氏族である。その主筋の「ニニギ系王族」も倭国内に残存していた可能性を示唆している。大海人皇子は、それら「倭国内ニニギ系王族」の一員としても育てられた可能性がある(ニニギ二十世孫相当)。

(4)大和王権は豊国勾金橋遷都(安閑紀)の結果、外戚蘇我氏の血脈に縛られて、実質蘇我氏に取り込まれてしまった。上宮王家もそうなりつつある。倭国内ニニギ系王族に送り込んだ大海人皇子も既に倭国内宗像氏の妃をもらっている。その内、倭国王家の妃や物部氏の妃を貰うかもしれない。大海人皇子を上宮王家に引き留める婚姻政策が必要、と宝皇女は考えたようだ。中大兄皇子の娘4人を次々に妃として送り込んだ。それが必要な程、倭国内ニニギ系・ホアカリ系の大海人皇子に対する期待が大きかったのだろう。

(5) 倭国にとって、大和王権は最強の同盟国であり、それ故に大和王権を身近に引き付け影響力を及ぼすことも大切である。蘇我氏の台頭がそれを阻んできたが、乙巳の変で状況が変わった(上宮王家と大和王権の合体)。だからといって直ちに倭国が大和王権を主導できた訳ではない。倭国・大和双方の期待を担って登場したのが「倭国と大和王権をつなぐ架け橋となり得る大海人皇子」だ(孝徳紀)。大和王権側も「皇弟・大皇弟(天智紀二年条以降)」と持ちあげている。

以上、天武は「倭国を出たニニギ系王族上宮王」の曾孫だが「倭国内ホアカリ系王族」の養育と「倭国内ニニギ系王族」の養育の両方を受け、「倭国王族」と「大和王族」の両面性を持っている。「倭国王の弟ではない」と考えるのが妥当だ。

 

● 大和王権はニニギ系の「万世一系」

 大和王権の王統が乱れた時に「倭国内ニニギ系王族」が応神天皇・継体天皇を輩出した、と上述した。それは「倭国内ニニギ祭事王家は大和王権の本家」を意味するのだろうか。しかし、これは倭国と大和王権(神武〜天武)の同盟国的関係「倭国王家≧大和王権」と矛盾するから、「倭国内ニニギ祭事王族は大和王権の分家(支族)」と観るべきだろう。分家から本家の当主が出ることは少なくない。

ホアカリ自身は倭国(女王卑弥呼)の諸政事王の筆頭だったと考えられるが、その子孫は台与の後「東征60年」「西征40年」で倭国を統一し、倭国王となった。根拠は、倭王武の上表文と記紀の対応にある。一方、ニニギは倭国王となるべく祭事王として天降ったが適わず、東征して大和王権を確立した。両者はアマテラス系の兄弟国としてお互いに補完しながら列島を制したと解釈できる。この両者の関係を400年間に亘って、維持し、調整し、補強したのが「倭国内ニニギ系王族」だったと考える。この間、倭国の本拠は博多〜鞍手郡と考えられ、関門海峡域(豊前)の「倭国内ニニギ系王族」は程良い距離(有る程度の独立性と協力関係)と方向(瀬戸内海に面し、大和と連携)を保ったと考える。

結論として、「ニニギ系大和王権は王統が乱れたり断絶する度に倭国内ニニギ系王族から天皇が送り込まれてニニギ系王統をつないだ」という意味で、「大和王権はニニギ系万世一系」(同族王統)と称することができる。但し、日本書紀は唐との関係から「倭国不記載」とし、「倭国内ニニギ系王族不記載」としているから、「神武系万世一系」としている。「神武直系」はともかく「神武とその同族王統」と理解すれば大筋は捏造・偽りではない。

以上から、「応神・継体・上宮王・天武の出自の不詳点」は「関門海峡域を本拠とした倭国内ニニギ系王族」の解釈で概ね解消でき、「倭国と大和王権の架け橋」として「大和王権の万世一系(内実はニニギ系同族一系)」の主張の背景をなす、と考える。

以上関門海峡と大和王権の関係から、前著で不詳とした点を補完して、倭国と日本の関係通史が見えてくると考える。

 

[1] 前著 「倭国通史」高橋通 原書房 2015年  増補版(新内容)をネット公開中 2016611 「 http://wakoku701.jp 」 本小論の一部も公開に加えた。

[2] 六島の比定  西日本を中心に十数候補地を比較検証の結果、関門海峡北西の六島を選び、これを精査した。比定結果は古事記の記載順に、

(1) 「吉備児島(きびのこじま)、亦の名建日方別(たけひかたわけ)」の候補: 現在名「竹の子島(たけのこじま)」(下関彦島の北西隣)、元は「亦の名」に由来する「建児島(たけのこじま)」と考えられる。

(2) 次「小豆島(あずきじま)」の候補: 現在名「馬島(うましま)」(西)と「六連島(むつれじま)」(東)が並んでいる。六連島は島形が「あずき形」であり、応神紀の歌に「あずきしま、いやふたならび」と歌われるに相応しい「二並び」で、二つで一つと数える、(1)の北西隣)

(3) 次「大島(おほじま)」の候補: 現在名「藍島(あいのしま)」((2)の北西隣)、「仲哀紀」にある「阿閉(あへ)島」もこれに比定されている(〜江戸期考証)。

(4) 次「女島(ひめしま)」の候補: 現在名「女島(めしま)」((3)の北西隣)」、同名だから否定のしようがない。

(5) 次「知訶島(ちかのしま)、亦の名を天之忍男(あめのおしお)」の候補: 現在名「男島(おしま)」((4)と二並び)、「亦の名」に由来すると言える。

(6) 次「両児島(ふたこじま)」の候補: 現在名「蓋井島(ふたおいしま)」((1)の北西)、二つの峰をもち、比定地としてふさわしい[3]

[3] 「山口県風土誌」13巻明治37年  復刻版 9巻「蓋井島」の項に「古事記の両児島・天両屋(別名)は蓋井島」とある。根拠は先行考証(本居宣長の考証、「長門国志」など)を挙げ、六島の比定も婉曲に示唆しているが視点が神功皇后に偏り本論にとって充分でない。

[4] 小戸彦島説 「私考・彦島物語 III」西井健一郎 古田史学会報No71号(2005)他

[5] 日向小倉説 「http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-1/1-1-4.pdf」に示唆を受けた。

 

 

  

 

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