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寄稿文「倭国内ニニギ系王族」(2017

 

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次著「高天原と日本の源流」の紹介

高橋 通  原書房 2020.2

  

  

 

内容:「高天原と日本の源流」は「高天原」から「日本建国」までの八つの謎解きの論証です。20202月に前著と同じ原書房から出版されました。

 

 

 

 

序文 「高天原と日本の源流」 はじめに

 

 

古事記や日本書紀の神話には悠久の時の流れの中で、幾つもの地域の信仰や伝承が重ね合わされ、推敲されて共有された叙事詩のような一面があります。高天原やアマテラスを特定の地や人に比定しようとするにはなじまない面です。

しかし他面において、神話末尾「天降り譚」の神代(かみよ)と人代(ひとよ)の狭間(はざま)には「どこまでが史実か?」の謎解きの楽しさがあります。ある王家が先祖を神に祀り上げようとすれば、どこまでを先祖の史実・実績として残して讃(たた)え、どこから先を神話伝承に合わせ込んで神に仕立てて権威付けするか、切り分けの原則を編者に指示するでしょう。この「編集の原則」を幾つかの神話部分から把握できれば、謎解きの鍵が開きます。

本書はそんな謎解きの筆者最新の成果、八つの仮説(目次)と内外史書によるその論証を提供するものです。多くの専門家が多くの推論を出している難問ですが、専門家でない筆者にも論証できたと思うのは、論理の細い道だけを愚直に辿(たど)った結果です。推論を極力排除した理詰めの記紀解釈で、細々としかし次々と見えてくる楽しさがあります。「イザナギの高天原はここだ」(第一章)、「アマテラスの高天原は(第二章)から、そんな謎解きをお楽しみ下さい。

筆者の目的は、記紀を批判することではなく、千年にわたって信じられたことを否定することでもありません。記紀がなぜそう記述したかったのか、更にその先を知りたいからです。

本著八つの仮説と論証は前著の論証をベースにしています。その都度引用する煩雑さを避ける為、前著の関係論証の要点を末尾に「参考」として示しました。本著の「仮説論証の基点と始点」としてご理解頂く一助となれば幸いです。

なお、日本書紀原文は朝日新聞社版、口語訳は岩波書店日本古典文学大系版、古事記原文は皇典講究所校定版、口語訳は講談社学術文庫次田真幸訳注版を参考にさせていただきました。ただ、原文の旧漢字の多くを常用漢字に代えさせていただきました。その他の参考文献は各章の [] に記しました。

 

  前著  「倭国通史」橋通 原書房 2016年  

「倭国(わこく)の建国(西暦80年頃)から滅亡(701年)まで」を通史としてまとめたもの。

 

 

   2020年 2月 

高橋 通

Mail: wakoku701@gmail.com

東京在住 工学博士

URL: https://wakoku701.jp 

著作権留保

 更新   2020.02    

 

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「高天原と日本の源流」 目 次____

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はじめに         

第一章、古事記の証言「イザナギの高天原はここだ」

第二章、内外史書の証言「アマテラスの高天原は別だ」 

第三章、記紀の証言「天孫ニニギの南征と神武東征」

第四章、先代旧事本紀の証言「倭国王は天孫ホアカリ系」

第五章、応神・上宮王の出自は「倭国内ニニギ系王族」

第六章、推古紀の証言「実在の上宮王と聖徳太子」 

第七章、「倭」を「やまと」と読む由来 

第八章、国号「日本」の二つの源流とその合体 

補 論、万葉集二番歌舒明・柿本人麻呂論など 

参 考、論証の基点と始点・年表  

   あとがき

 

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[要 旨] 

                         

第一章、古事記の証言「イザナギの高天原はここだ」     

 古事記のある記述から「イザナギ・イザナミの島生み譚のオノゴロシマは宗像沖ノ島」が比定論証できる。そこから更に「イザナギ・イザナミの高天原は対馬」が導出できる。少なくも古事記はそう読めるように記している。

いかにも素人(しろうと)の妄想と思われそうだが、そこに至る考証は本居宣長始め諸先達が部分部分に残している。それら考証の断片の糸を繋(つな)ぎ、加え、海外史書との整合点を結び続けた結果、第二章「アマテラスの高天原は別」につながる望外・予想外に一貫した論証を得た。

しかし、記紀にはそれを明記しない理由があったし、読者も明記してほしくない理由があった。知りたいのは史実ではなく叙事詩なのだから。筆者もそれに同意する。

 

● 「イザナギ・イザナミの故地は対馬」(仮説)     

● 検証一  古事記の「島生み神話」三段目の「六島」

● 「六島」探し 十候補の比較検討

● 六島の比定候補「関門海峡北西の島々」の検証 

● 検証二  応神・仁徳の歌と関門海峡

● 検証三  「伊予之二名(ふたな)島」は下関の「彦島」  

● 「オノゴロシマ」は「宗像沖ノ島」

● イザナギの「高天原」は「対馬」 (検証)

● 「イザナギの小戸」は「彦島」  (比定検証)

● 「小戸彦島説の否定論」への反論

 

 

第二章、内外史書の証言「アマテラスの高天原は別だ」     

古事記から「イザナギの高天原は対馬」と比定できた(前章)。この比定を基点として更に古事記から次の順で比定地が次々と推論できる。「イザナギの小戸 →ニニギの日向 → 笠沙岬 → アマテラスの高天原」である。驚くべきことに、「アマテラスの高天原の比定候補地」は海外史書群による「半島倭国比定地」と一致し、その検証からこれらの推論を比定とすることができる。

前章の比定と合わせると、記紀神話は「海峡倭人であるイザナギ(対馬)・アマテラス(半島南)を祖とするホアカリ(博多、第四章)・ニニギ(門司)の列島進出史」と位置づけることができる。記紀はこの進出史(史実)を高天原神話の最後に入れ、それまで曖昧だった神代(ニニギまで)と人代(以降)との境界を際立たせることによって「アマテラス〜ニニギ系の列島支配権は人代で変えることのできない神代の決まり事」と教宣したのだ。


 アマテラスの高天原は対馬ではない? (仮説)

● アマテラスの高天原はどこか? ニニギの天降り譚から

● 「ニニギの日向は門司」 比定検証

● 「笠沙(かささ)の御前(みさき)」はどこか?(比定論証)  

● アマテラスの高天原は「半島南」(検証一)

● 海外史書の認識 半島南に倭国あり (検証三)

● もう一つの海外史書「三国史記」 (論証)

● 内外史書の整合点

● 天孫ホアカリの天降りは遠賀川・博多 (仮説)

● 高天原神話  まとめ

 

      

 

第三章 記紀の証言「天孫ニニギ南征と神武東征」

 

 

前章で「ニニギの天降りした日向は門司」と論証した。しかし、定説は「ニニギは宮崎の日向の高千穂に天降りした」とする。定説は誤説だろうか。否、全くの誤説とは言えない。日向(門司)に天降りしたニニギはその後『南征』に出て宮崎に達し、そこも『日向』と地名移植した」(ニニギ南征譚)と読解することによって両説は整合する。「ニニギは宮崎の日向に天降りした」は許容される表現である。

この「ニニギ南征譚」には「戦記」が殆ど無く、「コノハナサクヤヒメ・ウミヒコ・ヤマヒコなど古伝承」が殆どである。「戦記」部分は「東征の前段戦」として「神武東征譚」に纏(まとめ)られた様だ。何故(なぜ)なら「神武東征譚」には「天孫ニニギ南征譚」が混在している。古伝承(推古以前)にはこのように「数代の事績」を「称揚したい一代」にまとめて記すことがしばしばある(例えば神功紀)。記紀はニニギより神武の称揚に注力している。

  

● ニニギのその後

● 二か所の笠沙

● ニニギ一族の状況変化と南征

● 高倉下(たかくらじ)戦記 

● 南征の中止と神武東征 

● 吉備・安芸

● 神武東征譚

● 「神武東征譚」に混在する「天孫ニニギ南征譚」  

● 「神武東征譚」と「ニニギ南征譚」の併せ語りの動機 

● 神武東征の完成  秋津島    

● 「蜻蛉のトナメ」は彦島の象徴 

 

 

  

第四章 先代旧事本紀の証言「倭国王は天孫ホアカリ系」

 

先代(せんだい)旧事本(くじほん)()」を検証すると、「九州物部氏の物部尾輿・守屋の主筋はホアカリ系」が導きだされる

筆者が前著で論証した「紀記に現れる物部尾輿・守屋の主筋は倭国王である」と合わせると「物部尾輿の主筋倭国王はホアカリ系」が論証できる。

このように論証できた「ホアカリ系倭国王統」が物部尾輿の前後どこまで敷衍できるか検証した。結論として「倭国女王台与のあと、ホアカリの子孫は数世代(〜100年)かけて倭国王となり(320360年頃)、それは倭国滅亡(701年)まで続いた」とすることができる。

 

● 女王卑弥呼・台与の倭国はどうなったか?

● 倭国王は天孫ホアカリ系か?   (前著仮説提案)

● ニギハヤヒの天降り  先代旧事本紀  (記述検証)

● ホアカリの子、(あまの)香山(かぐやま)

● 「天香山」は「香春岳」

● 物部氏系譜 先代旧事本紀から  (系図検証)

● 物部氏の系譜 修正一

● 物部氏の系譜 修正二

● 先代旧事本紀の目的

● 「倭国王はホアカリ系」 (第六章で確認)

● 倭国の王権・王統  その万世一系

 

  

 

 第五章 応神・上宮王の出自は「倭国内ニニギ系王族」

  

前章で「倭国王権は天孫ホアカリ系」を論証した。これに定説「大和王権は天孫ニニギ系」と合わせて、筆者仮説「両王権は兄弟王権」の論証が成立する。この論証は、更に次の仮説「ホアカリ系の倭国内に一部ニニギ系王族が居た」という着想を可能にする。本章ではこれを検証し、首題を論証した。その結果、大和王統は応神・継体・皇極など王統断絶かと不審のあった継承が、いずれも「ニニギ系同族」と認められるから「神武以来大和王統はニニギ一系、従ってアマテラス一系」とすることができる。

王統はそれで納得できるが、王権は複雑だ。神武系・崇神系・景行系の三系は一系ではなく並立したのみならず、最大王権(と祭事王権)はこの順序で移動したと思われる。しかし、倭国主導の東征・西征に協力する間、崇神系・景行系も神武系を(形ばかり)地域宗主国として立てた可能性もある。三系に血縁関係も多少はある、あたりが可能な解釈か。

 

● ニニギは祭事王として天降った

● ニニギ系の二分

●「倭国内ニニギ系王族」の可能性  (仮説)

● 応神天皇の出自   (再検討)     

●「応神は倭国内ニニギ系王族」(論証)     

● 応神と大和王権  欠史八代の開化と応神は同時代(仮説)

● 三系並立を一系にまとめた記紀

● 継体天皇も倭国内ニニギ系王族の子孫

● 倭国対大和  「対等 → 支配 → 対等 → 支配」

● 大和側の「対等 → 格下 → 対等 → 格下」

● 上宮王も倭国内ニニギ系王族    

● 倭国内ニニギ系王族の本拠

● 豊浦(とゆら)宮は「豊前海添い」 (提案)

● 蘇我馬子は二人の大君(おおきみ)に仕えた

● 蘇我氏の本拠  大和 → 肥前 → 大和へ

 上宮王家を継いだ舒明天皇       

● 二王権の空洞化と蘇我氏

● 舒明は大和王権天皇となったか?

● 舒明は大和王権天皇となった

● 皇極天皇も大和王権天皇となったか?    

● 天武は「倭国内ホアカリ系王族の教育」を受けたニニギ系    

●「応神・上宮王の出自」の不思議 (まとめ)

 

 

第六章、推古紀の証言「実在の上宮王と聖徳太子」      

 

 

この章では疑問の多い聖徳太子を検証する。日本書紀では「厩戸皇子(後の聖徳太子)は用明天皇の皇子で推古天皇の摂政皇太子」とされている。しかし、前章で新たに「上宮王の出自は倭国内ニニギ系王族」と論証できたことで解明が進み、この章で「聖徳太子は上宮王の太子」と論証し、更に「なぜ、どのような経緯で日本書紀は異説を記すようになったのか?」の解明を目指す。結論として「推古紀には上宮王と聖徳太子の事績の挿入記事が多い」と論証される。これが「法隆寺は上宮王と聖徳太子の合祀寺」という天皇家の暗黙の合意を経て、「上宮王=聖徳太子」「法隆寺は聖徳太子の寺」とする世上の解釈が定着した。

 

 

● 聖徳太子は上宮王の太子

● 仏教初伝

● 「仏教論争」

● 物部守屋討伐と倭国王権の復活

● 上宮王の独立と法興思想

● 独立のもう一つの動機 大和王統継承問題

● 聖徳太子は推古摂政皇太子になったか?

● 推古紀の聖徳太子は上宮王皇太子(検証)

● 元興寺

● 上宮王が「天皇」と記されている例

● 法興寺と元興寺の混同

● 「憲法十七条」は上宮王/聖徳太子の事績(?)

● 冠位の施行  聖徳太子の事績ではない

● 聖徳太子と遣隋使

● 用明紀の改変

● 蘇我氏の外戚策

● 「上宮王=聖徳太子」の誤解

● 聖徳太子の墓

● 「聖徳太子称揚」の目的は「上宮王称揚」 

● 不比等の関わり

          

 

第七章 「倭」を「やまと」と読む由来

  

「倭」をなぜ「やまと」と読むか、については議論が多い((やまと)(うた)など)。「中国がやまとを倭国と呼んだからだ」「九州の倭国がやまとに移ったからだ」「倭国は九州の国だから、やまとは九州の地名だ」など諸説ある。しかし、「倭をなぜやまとと読むか?」をいきなり解明しようとしても答えは出ない。「倭(ゐ、漢語)」が先で、どのような変遷を経て「倭(やまと、和語)」にたどりついたか、複雑だが解明する面白さは格別だ

 

● 「倭(わ)」と「やまと」の違い

● 漢語他称から漢語自称へ 「倭(ゐ)」→「大倭(たいゐ)」

● 和語化 「大倭(たいゐ)(漢語)→「()()(和語読み)」→「(たい)(和語)

● 通称化 「大倭(たい、和語)」→「大倭(つくし、和語通称、推定)」

  天武の外交  漢語国名は「大倭(たいゐ)国」を踏襲 

● 天武の和語国名改号 「大倭(つくし、推定)」→「大倭(おおやまと)」  

●  紀の誤読誘導 「大倭(つくし・おおやまと・やまと)」

● 国都国冠字  「倭(やまと)」から「大倭(やまと)」へ

● 国都国改号  「大倭(やまと)」から「大和(やまと)」へ

● 「日本(やまと)」

 

 

第八章 国号「日本」の二つの源流とその合体

   

国号「日本」には二つの源流があった。その一は、大和地方の和語国名「やまと」の流れである。「夜麻登(やまと)」「山常(やまと)」などが長らく使われてきたが、天武によって「倭(やまと、680年頃〜)」に改字(当て字)された(古事記など)。その二は、漢語地方名「日本」の流れである。元語は和語地方名「ひもと(列島東方、神武紀)」だったが、漢語化されて「日本(列島東方、四世紀〜)」となり、倭人が半島で使ったので、半島諸国が国名ではないが「日本国」と呼び習わした(見做し国名)。

倭国滅亡後、文武が建国して、漢語国名を「日本(じつほん)」としたが、後に国内向けに「日本、これをやまとと読め」として和語国名としたことにより、二つの流れが合体した。これは「外交向け中国朝貢姿勢」と「国内向け大和王権主導姿勢」を内外で使い分ける両面作戦とも言える苦心の国号であった。

 

● 国号「日本」  はじめに

● 国名「日本」の二つの流れ その一 和語「やまと」の流れ 

● その二 漢語「日本」の流れ

● 和語「ひもと」はその後漢語化された → 漢語「日本(じつほん)」 

● 和語「ひもと」は使われなくなった 

● 漢語「日本」は半島で(のみ)使われ続けた

  孝徳紀の「日本」

   斉明紀の「日本」

● 天智の「日本」

● 天武は「日本の残党」

● 文武の「日本建国」

● 日本書紀の「日本(やまと)」 漢語系と和語系の合体

● 「倭国不記載」は日本国の「自立宣言」

 

 

 

補 論、万葉集二番歌舒明・柿本人麻呂論など        

多くの先達の説から多くの示唆・教示を受けている。参考にはなるが、賛同出来ないものも少なくない。それらについて筆者愚考を示すことも敬意の表し方の一つと考える。ここでは、それらや各章に入りきれない幾つかの考察(次の九つの小論)を示したい。

 

 

「神武東征九州内説」批判

●「豊前王朝説」批判

「壬申の乱九州内説」批判

万葉集二番歌舒明天皇

●「柿本人麻呂は天武の孫」説

柿本人麻呂の「遠の朝廷」は「彦島」

天香具山持統の場合

半島倭国の消失要因 再検討

倭国と物部氏 日本国と中臣氏

天児屋命から現代までの系図一例

 

 

次著「高天原と日本の源流」ご案内   了

 

 

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