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40 話   パンドラの箱 神功紀

 

「神功皇后は仲哀天皇が崩御すると、八か月の身重の腰に石を挟んで出産を遅らせ、新羅親征して勝利し、人質を得て帰国。皇子を出産すると、皇位継承戦にも勝利した。皇子はのちの応神天皇だ」(神功紀)、とされています。

 

「伝承とは言え、すごい女傑」と千年読み継がれて来ました。その一方で、「どこまで史実?」の好奇心は止めようがありません。歴史としては最後まで謎が残る「伝承と歴史の狭間(はざま)」、これに挑戦する、これが今回のテーマです

 

●  神功紀の年代修正  パンドラの箱

神功紀の謎解明には年代修正が必須です。ただ、年代修正に手をつけると、パンドラの箱(注1)を開けた様にとんでもない謎が幾つも飛び出して来ます! でもそうだと知ると、逆にどうしても開けたがるへそ曲がりが必ず居るものです筆者もその一人でした。しばらくお付き合いください。新たな謎がたとえ解けなくても、全体像は見えてきますから。

 

●  神功紀の年代修正

神功紀は皇紀で西暦201〜269年までとされています。これに定評ある「年代修正法(注2」で修正すると363397年となります。

この年代修正により海外史書との整合性はかなり高くなります。 例えば、修正により「新羅征戦の始めは362年(仲哀天皇の崩御の直後)」(神功紀)となり、海外史料の「364年、倭兵が大挙して新羅を襲ってきたが、伏兵で皆殺しにした」(三国史記)とほぼ整合します

 しかし、この修正によって、次々に新しい謎が飛び出して来ます。

 

●謎1  神功皇后は本当に新羅に行ったのか?

この修正によれば「この年の神功皇后は弱冠15才」となります(検証(注3)。

 

ただでさえ「八か月の身重で新羅親征」という非常識の上に、「そんな小娘が大軍を率いて新羅に遠征など荒唐無稽」と史実感がますます遠ざかります。

 

ただし、この程度の謎は次の様に解釈すれば、あながち荒唐無稽でも不実記載でもありません。

 

364年、倭兵が大挙して新羅を襲ってきた」(三国史記)、とありますから、その二年前362年に「倭国軍/仲哀軍の新羅征戦の軍船出陣式」くらいがあってもおかしくはありません。

「その儀式で倭国王が出陣を宣し、神功皇后が弱冠15才で八か月の身重ながら、崩御した仲哀天皇の代理で御船(みふね)に乗り(巫女のように)戦勝祈念した(仲哀紀九年条)。征戦の実行は大臣武内宿禰(たけのうちのすくね)が取り仕切った」

 

と解釈すれば、(皇后が新羅まで行かなかったとしても)記紀の「神功皇后が自ら新羅親征した」という記述は、誇張ではありますがあながち嘘ではありませんし、「謎」と言う程ではありません。誇張や伝承・神話は他にも無数ちりばめられていますから。

 

●謎2  「新羅征戦」は一年か、四十年か?

年代修正をしても、なお残る謎の一つは「新羅征戦の期間」です。

 

神功紀は「新羅征戦」から「新羅から人質」までをすべて「仲哀崩年」(362年、修正後)の一年に記しています(神功摂政即位前紀)。この「神業の様な二か月の征服」は「腰に石を挟んで出産を抑えたので、十月十日の出産に間に合った」という伝承によって臨場感を与えられ、奇跡の史実と信じられてきました。

 

しかし、海外史料では「新羅征戦364年」(三国史記、前述)、「新羅から人質」は「402年、新羅が倭国と通好し、王の子未斯欣(みしきん)を人質に出す」(三国史記、新羅本紀)とあります。新羅にとって自国の恥ですから誤記ではあり得ません。また、三国史記の年次の干支は信頼性が高いとされています。

他の検証(広開土王碑など)からも「新羅征戦(362年)から人質獲得(402年)までは、神功・応神・仁徳(402年を含む)三代、なかんずく応神時代を中心に四十年の大事業だった、と解釈するのが妥当です。

なぜ神功紀がそれを362年一年に書いているのか、残る疑問です。

 

しかし、これは記紀ではよくある編集方法です。ある人物を称揚する際に「先代、あるいは後代の偉業を一代にまとめ書きする」という例は「ニニギ南征戦記を神武東征にまとめ書きした」にも見られます(第14話 一図で解る 「神武東征」)。また、「上宮大王を称揚したいのに、他王権不記載の方針に妨げられたので子の聖徳太子の業績として記す」などもありました(第33話の注4)。

 

三代の偉業を神功紀になぜまとめ書きしたか。天皇王統はニニギ系だったが、神功皇后は渡来系兵士達にとっては自分たちの象徴だった可能性があります。だから「新羅征戦の偉業は自分たち渡来系兵士の偉業、即ちその象徴である神功皇后の偉業」として各地の渡来系氏族に多くの(誇張された)伝承が残された、と筆者は想像します。

 

●謎3  神功皇后と応神天皇は別王権?

年代修正によれば、「神功皇后の崩年(397年)より前に応神は即位(374年)していて、並立の期間が20年もあり、それぞれの本拠は宇治と九州で遠く離れています(検証(注4)。「並立別王権?」の疑いが生じます。

 

  神功皇后  -----------------397

  応神天皇   374-----394

  仁徳天皇           395-----

 

これに対しては、次の様に解釈すれば「謎」という程ではありません。

「皇子の成人まで、神功摂政と皇子は宇治で本国を守った。武内宿禰は九州に戻り、西筑紫の兵站基地を「日本貴国(宇治の分国)」と名付けて仲哀軍を率いて征戦を続けた。太子は成人するとこれに加わり、日本貴国の天皇に即位した。宇治本国は天皇不在が続いたので神功摂政が守り続けた。宇治本国と九州分国貴国は遠方なので、戦時として止むを得ぬ『同一国内天皇・摂政並立体制』であった。記紀はこの並立した神功紀と応神紀を縦につないで万世一系化した」と

「同族系の並立王権」を縦につないで万世一系化する例(神武系・崇神系・景行系)は第34第16で検証した通りです。それよりは、有り得る話です。

 

●謎4  「皇子と応神は別人か?」

ところが、年次修正法に従えば「神功皇后皇子誕生の年、応神は33才」となります(検証(注5))。「二人は別人」です。

これは前節の解釈「同一国内天皇(応神)・摂政(神功)並立体制」を否定するものです。なぜなら、神功紀によれば、神功皇后の皇子(太子)はただ一人、仲哀天皇の別の皇子二人は殺されています。それ以外から太子や天皇が来たとは読み取れません。

 

●謎5  太子の「名前交換譚」

前項を読み解くヒント「太子名前交換譚」(仲哀記末尾)があります。「角鹿(つぬが)の伊奢沙和氣(いざさわけ)大神が、吾が名を御子の御名に易(か)えたい、と云ったので、命のまにまにかえた」とあります。
また、応神紀にも冒頭部注に「一に云はく、、、(応神)天皇、太子となったのち、ある神と名前を交換した、交換前は去来紗別尊(いざさわけのみこと)、交換後を誉田別尊(ほむたわけのみこと)という、未だ詳(つまびらか)ならず」とあります。神功紀十三年条にも関連記事があります。仮にこの神が神功の皇子であるなら、

 

  神功皇子 太子ホムタワケA → 太子イザサワケ

        ↓↑  名前の交換 (応神紀冒頭部注)

  応神   太子イザサワケ  → 太子ホムタワケB 

         → ホムタ天皇C(諡して応神天皇)

 

という解釈になります。そして、「神功紀は二人の太子ホムタワケABを記し、応神紀は(即位からの)ホムタ天皇Cを記している」となります。

 

注目すべきは仲哀記が「皇子の名前交換」で終わって、応神記に移っていることです。

神功皇子は(6才で)夭折し、一族の王族応神が名前(ホムタワケ)と太子を継いだ可能性が考えられます。

一族の王族とは崇神系・景行系を輩出した豊前ニニギ王家でしょう。なぜなら、応神は宮(貴国本拠)を豊前(同王家の本拠)に遷しているからです

 

● 神功紀・応神紀のまとめ

以上、パンドラの箱から飛び出した謎は多いのですが、それぞれ解釈が見えてきました。

それを仮説も含んでいますが以下にまとめます。少し遡って始めます。

読む前のご理解を容易にする仮説年表をこちら(注6) に提示しましたのでご利用ください。

 

以下、文章としてまとめました。少々遡って始めます。

 

1  熊襲征伐には渡来兵が有効

景行系(ヤマトタケル・仲哀)は倭国から分与された渡来人を引き連れて東国開拓を進めました。その恩義から、倭国の熊襲征伐要請にも応えてきました(第35)。熊襲(渡来系)征伐には渡来系兵団が有効だからです(毒には毒を以て制す)。

 

2  倭国の狙い  渡来兵を半島征戦に

仲哀に対する倭国の隠れた期待は「熊襲征伐が終ったら、仲哀の渡来系兵団を海外征戦に活用したい」でした(神功紀では「神の声」とされています。毒には毒を、の延長線)。

 

3  熊襲の懐柔  渡来系の神功/武内宿禰

仲哀は倭国王の半島征戦を断りました。仲哀にとって、渡来系兵団は東方開拓に必要だからです。しかし、渡来系である神功皇后と渡来系を束ねる武内宿禰は倭国王の要請を受けたのです。渡来系は母国(三韓)の敗者でしたから、母国を取り返したかったからです。熊襲もこれに同調して武内宿禰に従いました。仲哀はなぜか急逝しました

 

4  武内宿禰体制.

仲哀崩御を受けて、神功皇后・皇子/武内宿禰は宇治で皇位継承戦に勝利し、皇后は摂政に就き、皇子と共に宇治(のちに大和)に留まりました。武内宿禰は九州に戻って東国軍を率いて倭国半島征戦に加わりました。

 

5 日本貴国

武内宿禰は倭国の許可の下、西筑紫の神田を「日本貴国(注7」と名付けて東国軍の兵站基地としました。

 

6  武内宿禰の暴走

武内宿禰は熊襲系も含めて宿禰系を多用し、倭国軍の別動隊として半島で勝手に、かつ乱暴に動いた様で(百済国の王を交代させたり)、恐らく倭国の強い危惧と牽制を受けたようです。

 

7 貴国太子

そこで武内宿禰の上位に太子(40才位、のちの応神天皇)が送り込まれました。年回りから本国宇治の太子(当時6才位)ではなく、別人でしょう(名前交換譚)。恐らく豊前王族から貴国太子として送り込まれたと考えられます。「支配下の複数の王国に複数の太子を置いた例」としては景行天皇が挙げられます(三人の太子)。

 

8  貴国天皇

この貴国太子は貴国応神天皇として即位すると、武内宿禰を殺そうとして貴国(筑紫)から追い出しています(応神紀九年条)応神が神功皇后の皇子なら、父祖からの最重臣を殺そうとはしないでしょう。

 

9  貴国を豊前に移動

応神天皇は貴国を西筑紫から豊国に遷し、難波高津宮(企救半島東側か)を宮としました。大和にも何度か御幸したようですが、宮として出るのは崩御するまで豊前だけです(検証は(注8)。半島征戦が続いていたからです。    

 

10  大和天皇の継承

応神天皇は貴国天皇として豊前兵站基地・河内兵站基地に東国軍を集め、衰退していた欠史八代の最後開化天皇を継ぐ形で大和天皇を兼ねたと思われます。これは景行系(神功皇后皇子ら)が崇神系を侵食したのを牽制するためと考えられます。なぜなら、崇神(フヨ)系の柳本古墳群(天理市、大和盆地東部)が衰退し、景行(タラシ)系の佐紀盾列古墳群(タラシ系)が栄え始まるからです。

 

11  仁徳の東征

新羅の利権と人質を得た倭国/貴国は半島征戦を終了し、仁徳は貴国を解散して倭国・豊前国に返還し、凱旋兵団を率いて407年頃河内に本拠を遷し、治水・開墾で拡大し、神武系・崇神系・景行系の三王権を統合して拡大大和国天皇に即位したと考えられます。「日本貴国の大和遷都」との解釈もあり得ます。その後、応神陵・仁徳陵を造成したでしょう。

 

12  仁徳の重臣

応神・仁徳の重臣の多くは豊前王国の重臣・倭国重臣の支族などで占められていたと考えられます。神武が東征に際して引き連れた中臣系や、分与された九州物部氏支族系はここで没落し、代わって九州物部氏河内支族(物部麁鹿火など)・豊前中臣河内支族などが巾を利かせたと考えます。

 

 以上、神功紀のパンドラの箱は(一部仮説解釈も含めて)それなりの解釈を得て元の箱に収まったのではないでしょうか。

 

 

40話     了

 

 

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以下、   第40話    注

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●注1 パンドラの箱    (戻る
ギリシア神話で、ゼウスがパンドラ(最初の女性とされる)に渡した箱。彼女が好奇心からこの箱を開けたところ、封じ込めてあったあらゆる悪・不幸・禍が飛び出して地上に広がってしまい、底には「希望」だけが残ったという。 (
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●注2  定評の年代修正法   (戻る

この時代の記紀は「神武崩年127歳・神功崩年100歳・神功紀に海外記録と120年(干支二巡)のずれ」などがあり、そのままでは海外史書との整合も悪く、時代考証と修正が必要です。

 

(1) 「二倍年暦修正」

「神武崩年127歳・神功崩年100歳」など天皇の崩年年令を半分に修正する二倍年暦修正法がある。「魏志倭人伝」の注釈に「その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることが根拠とされる。

 

(2) 「記崩年重視」

古事記に出てくる天皇崩年は海外史書との整合性が比較的高いとされ、信用できないとする根拠が少ないので記載あれば重視します。今回使った記崩年は崇神318年・成務355年・仲哀362年・応神394年・仁徳427年です。

 

(3) 「神功干支二巡修正」

神功紀には干支を基にした定説と海外史書では120年(干支二巡)の違いがある例がある。例えば、神功紀干支二五五年(定説)の「百済肖古王薨」とあるのは正しくは375年と百済史書から判っている。

神功皇后の崩年二六九年を「干支二巡修正」で修正すると389年だ。この時の紀崩年年齢百歳を「二倍年暦修正」で50歳崩御となる。

 

(4) 「平均年齢差23年」

年齢差不明の父子相続の場合に「平均年齢差23年」を使う例が多い。

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●注3  神功皇后の年齢   (戻る

神功皇后の崩年令は記紀共に百歳とあり、これを半分の50才と修正します。

在位六九年(神功紀末尾)とあるのを半分の34.5年とします。

「新羅征戦は仲哀天皇崩御の年」(神功紀)とありますから、仲哀の記崩年362年を採ります。

その年の神功皇后の年齢は、50(崩年令)-34.5(在位)=15.5 から、15才となります。

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●注4 神功皇后の崩年 応神の即位年   (戻る

摂政即位を363年とします(仲哀記崩年362年の翌年)。

在位69年(神功紀末尾)を半分の34.5年とします。

以上から、神功紀は363397年(=363(摂政元年)+69/2(在位)=397.5

 

一方、応神は記崩年394年、在位20.5年(応神紀41年の1/2(二倍年暦修正)から即位年は

      373年(394-20.5=373.5)。

二人の在位は373394年の間並立しています。神功皇后の崩年の方が後です。

 

修正により、「神功摂政は363398年」となります。その根拠は、仲哀崩年に古事記崩年を採り362年、摂政即位が翌年363年、在位六九年(神功紀、二倍年歴)から、36369/2=398年(崩四月を繰り入れ)

一方、「応神天皇即位は374年」です。その根拠は応神の記崩年394年と在位四一年(応神紀、二倍年歴)から、394-41/2=374(崩二月繰り入れ)

その結果「神功紀は応神紀と374398年の間並立した別王権」となります。

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 ●注5  応神の年齢     戻る

応神記崩年は394年、これを採ります。記崩年令は130才。

従って、生年は394-130/2=329年。

生年とされる362年には 36232933才です。

 

在位41年(応神紀)から41/2=20.5

即位は394-20.5373.5 373

 

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●注6   仮説年表     戻る

理解を頂くためにまず、以上の「別王権・別人」を仮説として下図年表に示します。

仲哀紀から「紀伊からの熊襲征伐へ出発@(下図右上)」、「仲哀崩御(筑紫)B」、ここから神功紀で「新羅征戦(後述)」、「皇子出産(筑紫)C」、「翌年忍熊(おしくま)皇子との皇位継承戦(宇治)E」、「大和・宇治での神功摂政・太子G」は397年まで宇治で続きます。

 

 

一方、応神紀の舞台は九州(西筑紫・豊前)であり、時代は応神天皇即位Hから仁徳即位Iまで神功紀と重なります。

その応神紀の数年後に応神は武内宿禰大臣を殺そうとして追い出しています。と応神

仁徳東遷の理由は、新羅征戦の終了により、貴国の東方軍兵站機能は縮小され、海運・交易も減少して豊前のニニギ系王国の国勢は傾いたと思われるからです。豊前に残ったニニギ系王族は、イザナギ・アマテラス系の聖地の祭事王として残り、やがては倭国内祭事王として存続はしたと考えられます。のちの上宮王家です(第36

 

以上は「別王権」「別太子」の仮説を年表化したものです。

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●注7  日本貴国   (戻る

神功紀 仲哀九年362

「火前国松浦県(佐賀県唐津市か)に到る、、、躬(みずから)西征することを欲し、神田を定め、儺河(福岡県那珂川)の水を引き、神田を潤さんと欲して溝を掘る」

 

神功軍は西征する為に肥前で食料を自給しようとしている。遠方から来ている大和軍の兵站基地と思われる。倭国は神功皇后に倭国内分国「貴国」を認めたのだろう。「貴国」は神功皇后の熊襲征伐の後、その領域(肥前松浦〜志摩〜筑紫那珂川)のどこかに建てられたと推定される。

 

神功紀四六年条

「甲子年(364年)、、、百済王が東方に日本貴国有りと聞き、、云々」

神功皇后と皇子は363年に宇治で皇位継承戦に勝ち、宇治に残り、武内宿禰が九州に戻って半島征戦を率いたと考えられる。

武内宿禰は西筑紫の仲哀軍兵站基地(神田)を「日本貴国」と名付けたようだ。「日本(ひもと)」は古来九州人が東方諸国をさす見做し国名で、「東方軍」も自称として使ったようだ。「貴国(きのくに)」は仲哀天皇の熊襲征伐出発地の「紀伊国(きいのくに)」に由来するようだ。

 

神功紀五十二年

「(肖古王が)孫の枕流王に謂いて曰く、今我が通う所の海東の貴国は、、、」

 

九州肥前あたりにありながら近畿・大和を意味する「日本の貴国」と呼ばれている。大和軍・東国軍の基地だからだ。

 

「貴国」はその後強力な国となった。百済が自国の王を殺して貴国に謝罪している。

 

応神紀二年392

「百済辰斯王立ち、貴国天皇に礼を失す。故に紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を遣わし、其の礼なき状を嘖譲す(せめる)。是により、百済国は辰斯王を殺し以って之を謝す。紀角宿禰等、阿花を王と為して帰る」

 

「自国の王を殺して失礼を詫びる」とは何か深い訳がありそうだ。貴国が強力なのは百済に対する軍事力があったからだろう。貴国が強いのではなく、貴国を後方基地とする半島駐留の大和軍(神功軍・大和軍・東国軍)が強かったのか、後ろ盾の倭国が強かったのか。

 

上掲のように貴国の将軍に宿禰が多い。宿禰は中国系の将軍職名といわれ、中国動乱(五胡十六国304439年)の時代に列島各地に移り住んでいた、と考えられている。神功皇后の父の名にも宿禰がつく。ここでは武内宿禰に代表される神功軍の将軍達だ。大和・北陸から同行したかあるいは北九州で熊襲征伐に加わったか、また降伏した熊襲系など、各地の宿禰系集団を貴国に糾合したのではないだろうか。

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●注8  応神の本拠は豊前   戻る

一方、応神紀は貴国(西筑紫)から始まります。即位後の初出の宮は「吉野行宮(かりみや)」ですが、現大分県山国町吉野地区 吉野宮(=地元呼称、現若八幡宮)かと思われます。若八幡宮はこの地区に幾つもあり、どれが当時の吉野宮か不詳ですが、吉野川(地元呼称、現山国川)は耶馬渓の上流で景観が佳く、古来人が愛した離宮があっておかしくない地です。

 

大分県山国町吉野地区 吉野宮(地元呼称、現若八幡宮)

吉野川(地元呼称、現山国川)沿い 筆者6年前訪問 Googlemapより

 

次出は、難波大隅宮(応神歌の解釈から、周防灘企救半島東側か、第30、下図右下)、

 

難波大隅宮 周防灘大隅島 右下

 

「崩御は明宮(一に云ふ、大隅宮)」(応神紀末尾)とあり、いずれも豊前です。

応神紀には大和の記事もあるのですが、新羅征戦のリーダーとして、応神は本拠である豊前(東国軍兵站基地)を離れられなかったのでしょう。

宮は動かさなかったものの、応神は東方軍のまとめ役として、また倭国軍との仲介役として東方諸国の代表格となったと考えられます。そして、衰退した神武系の開化天皇を継ぐ形で南西大和を領有したと考えられます(上図河内・大和の「応神領」)。

なぜなら、続く仁徳紀は前半はやはり豊前ですが、後半河内・大和に宮を遷しているからです(I〜K)。

 

一方、新羅から人質を得て凱旋した仁徳は、引き連れた東方軍や捕虜を河内の開拓や応神陵の造成に使ったと思われます。新羅制圧で得た利権の分配を見返りに与えたのでしょう。

 

仁徳東遷の理由は、新羅征戦の終了により、貴国の東方軍兵站機能は縮小され、海運・交易も減少して豊前のニニギ系王国の国勢は傾いたと思われるからです。豊前に残ったニニギ系王族は、イザナギ・アマテラス系の聖地の祭事王として残り、やがては倭国内祭事王として存続はしたと考えられます。のちの上宮王家です(第36

 

36話で検証済みの系譜が下図。

 

 

以上は「別王権」「別太子」の仮説を年表化したものです。

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40話    注    了

 

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