< 目次へ 前話へ 次話へ__________________________________
第 34 話 コロナと崇神天皇
中国ではゼロコロナ政策を突然転換した為に発症が急増している、と伝わってきます。「免疫がない状態で打つ手が無い」の怖さですね。
古代でも似た記述があります。第10代崇神天皇の時代(300年頃)に「国内、疾疫多くして民死亡する者大半なり」(崇神紀五年)とあり、「三年間、天照神や大国主神を合わせ祀りして収まらず、分け祀りして、更に八十万(やおよろず)の神を祀ってようやく収まった」と。
鎖国が解けた近代も大陸との交流が増えて疫病が蔓延した例もありました。
そんな連想も一因で「崇神朝」については学者の間でも「渡来系王朝説」が出され、「イリ王朝説」・「神武・崇神・景行は三並立王朝説」等あり、諸説紛々未だ定説がありません。「謎の崇神朝」のままなのです。
今回のテーマは「崇神は渡来人を多く使った節(ふし)があるものの渡来系王朝ではない、神武とおなじニニギ系王族が大和に建国した神武の兄弟国だ」と仮説して検証することです。
●1 神武と崇神
神武に始まる歴代天皇を記紀は次の様にしています。
神武に始まる歴代天皇
記紀はこのように(万世)一系としています。神武が別名「始馭天下(はつくにしらす)之天皇」(神武紀)とされるのは「初代建国者」とされていますからわかりますが、崇神も別名「御肇国(はつくにしらす)天皇」(崇神紀)と記されています。学者さんの一部は「国の創建者が二人居るのはおかしい。崇神は別王朝だ、渡来系王朝だ」と主張しています。
確かに、定評ある記紀の年代修正 * によって天皇の在位を修正すれば、「神武〜欠史八代(三兄弟三世代)」と「崇神・垂仁」・「景行〜仲哀」の三系は並立、別の国であることが論出できます(**、下図参照)。
*
記紀の年代修正法 @ 古事記崩年重視(下図青数字)・ A 在位崩御年令の二倍年歴修正(赤数字)・ B神功紀の干支二巡繰り上げ・ C
一世代平均23年差」 などが広く支持されている。
** 神武の在位270〜300年頃、崇神の在位は288〜318年、景行の在位は300〜332年となって重なる。
年代修正後の歴代天皇 三系は並立
●2 崇神はニニギ系天皇
冒頭に紹介した「崇神時代に疫病が蔓延した」と前節の「別王朝だ」とを組み合わせると、学者さんの「崇神=渡来王朝説」は説得性があります。
実は、崇神の即位した284年頃、「後漢献帝玄孫の劉阿知が一族2000人を引き連れて半島か渡来した」という史実があります(注1)。
だから、「崇神はその一族、即ち渡来人」の可能性が無い訳ではありません。しかし以下の理由から、それより可能性が高いのは「崇神はその渡来人の一部を使った」です。
まず、「崇神は疫病危機に瀕して天照神・大国主神を祀っている」から(崇神紀)、崇神は渡来系ではなく「アマテラス系」の可能性が高いでしょう。それも「天孫ホアカリ(政事王)系」ではなく、「天孫ニニギ(祭事王)系」でしょう。なぜなら、ニニギは関門域(彦島)の祭事王で(第13話)、彦島はイザナギ・スサノヲ(大国主の祖)の聖地でもあり、大国主神系とも交流がありました。一方、ホアカリはスサノヲと国争いしましたから、大国主神を祀るのはニニギまかせでした。
崇神がニニギ系だとすると、なぜ渡来したばかりの漢人の一部を使った可能性があるのでしょう。漢人は半島由来の鉄武器・鉄農具を持ち、半島風の戦法・戦術に長けていたから東征(四道将軍譚)に役立つ一方、渡来漢人は入植地を求めていたからです。この渡来漢人(肥前飛鳥居住)を管理していたのは台与系倭国王で、仲介したのは−倭諸国である「ホアカリ系倭王(遠賀川域)」でしょう。
即ち、「崇神は渡来したばかりの渡来人を率いて神武国の近くに別の国を建国したニニギ系」の可能性があります。
では崇神はどこから来て大和に建国したのでしょう。
●3 崇神は神武に続く「ニニギ系の東征第二陣」
当時、北九州の「アマテラス国(ホアカリ/ニニギ)」は「卑弥呼を共立する倭諸国の主要一国」でした。卑弥呼共立の倭国内(九州)での争いはご法度(台与の共立)でしたから、「アマテラス国が拡大するには東に目を向けてまず神武が東征しました(下図東征第一陣、第14話)。
神武は東征に際して関門域の残留ニニギ一族の協力を得て(古)吉備・(古)安芸で船の調達など東征の準備をし、東征に当たっては、一族の一部を九州に残しました(注2)。
関門域に残ったニニギ一族は、「支援し期待して送り出した神武東征の建国の成功」を聞いたはずで、すぐ同族の崇神を東征第二陣として送った、と考えられます。即ち、崇神は神武と同じ関門域を出発点とした可能性です。
●4 神武国・崇神国は同族ながら別国=兄弟国
「崇神はニニギ系」と推測しました。ニニギ系でも神武系なら神武国に合体すればいいのに、並立した別の国、と前述しました。神武系ではない同世代とすると、崇神は神武の兄の皇子(おい)あたりか、ここでは広く「ニニギ系=同族」としておきます。崇神は神武国(橿原〜葛城周辺)の近く(桜井周辺)に陣取り、平和裏に並立しています。異族敵対関係ではありません。同族系兄弟国でした。 同族ながら別国です。
「はつくにしらす」の別名を持つ天皇が二人いることは前述しました(神武と崇神)。「一国に二人の建国者がいるのはおかしい、どちらかが嘘だ」と学者さんは主張しますが、別国ならそれぞれに建国者がいてもおかしくありません。
ちなみに、景行・ヤマトタケル・成務・仲哀は東征第三陣、と以下で提案します。次話「ヤマトタケル」も参照。
●5 東征とは 倭王武上表文から
「倭の五王」(宋書)最後の倭王武の上表文に「(我が祖は)東は毛人を征すること55国(東征)、西は衆夷を服すること66国(西征)、渡りて海北を平ぐること95国(半島征戦)、云々」とあります。この五王は「卑弥呼・台与系倭国」(祭事系)と異なり、祭事系ではありません。卑弥呼・台与系を再統一した別王統、と考えられます。
その「新倭国」が「東征」「征西」で列島を統一したとすれば、その「東征」とは時代的に「神武・崇神・景行」の東征しかありません。また、「征西」とは「景行・仲哀の熊襲征伐」を含むと考えられます。これらニニギ系天皇の大和王権は遣宋使を送っていませんから、これらの「東征・征西」を「自国の東征・征西と称するような倭国」とは、「ニニギ系大和王権を身内とするような国」、ニニギの兄「ホアカリ倭国」と考えられます。記紀が「倭国不記載方針」で記さなかった「倭国」です。
「ホアカリ倭国」は大和王権の東征・征西も自国の東征・西征の一部、神功・応神の半島征戦も自国の海外征戦に含めて「列島を統一した」と主張して宋に「列島宗主国」と認められました(上図、左下の「卑弥呼・台与倭国に代わって列島を統一した倭国、ホアカリ倭国」です。
遣宋使など外交では「ホアカリ系(政事王)が主、兵力で多大な協力をした東国のニニギ系(祭事王)は従」であることが読み取れます(上図、崇神の四道将軍・景行の西征など)。記紀は「(ホアカリ系)倭国不記載」ですから、従であるこれらのみを記しています。実際には「主従」関係ではなく「政・祭」の二重構造でした。卑弥呼の時代の「祭・政」二重構造とは逆転していますが。二祖が兄弟だった兄弟国「ホアカリ系倭国」「ニニギ系大和国」です。
●6 「京」字の初出
崇神は四道将軍派遣で複数の王を影響下に置く大王となった、と考えられます。その根拠は「京」字の記紀初出です(崇神紀十年)。四道将軍派遣譚の後です(下図@崇神紀)。神武紀にない「京」字が出るのは漢人が居た証拠です。漢人にとって「京」は大王の都です。
「京」字の初出@は大王の証(崇神紀)
●7 応神による三系統合
余談ですが、九州ニニギ系の応神は東国軍を率いて半島征戦に参加しました。新羅権益(の分与)を得て、多くの帰還兵・半島の捕虜渡来人と共に凱旋すると、河内に本拠を置いて同系の神武国・崇神国・景行国を統合継承して応神天皇となりました(上図E、第14話)。東征第四陣です。同系だからこそ統合できた、と考えられます。
ただ、応神天皇にとって河内は副都であって、本宮は終生豊国のままでした。これについては長くなりますので又の機会に譲ります。
●8 まとめ
「謎の崇神朝」は
(1)
年代修正から「神武系・崇神系の並立」との解釈で「二人のはつくにしらす」の疑問が解消され、
(2) 「九州渡来の阿知一族の一部を引き連れた」との解釈で「渡来王朝説」は解消でき、
(3) 「神武と同系同族の祭事ニニギ系」との解釈で、「コロナ的疫病の対策として神々を祀った理由」が納得されるのです。
「これらのどれかだけ」を議論する諸説紛々の学者説が混迷するのは当然です。
以上から、「崇神朝は(コロナのような疫病を持ち込んだ)渡来系を引き連れて大和に東征した九州ニニギ系、同族神武に続く東征第二陣として別国を建国した」とすることができるのです。
第 34 話 了
ページトップへ 目次へ 前話へ 次話へ________________________________________________
__
●注1 阿知の渡来 (戻る)
この頃(280年頃)、漢王族子孫の阿知(後漢最後の献帝(〜220年)の玄孫の劉阿知)一族が扶余系を含む二千人を引き連れて半島から渡来しています。まだ、台与系倭国の時代、阿知一族は台与系倭国王から肥前(吉野ヶ里の近く、現みやき町)に土地を貰い「飛鳥(ひちょう)」と自称した漢人ですが(第2話)、ホアカリ/ニニギ系倭国はその一部を別けてもらい、ニニギ系崇神が引き連れて東征したのでしょう(次節)。その渡来人の更に一部が河内に移住してこれも「飛鳥」と地名移植しています(第2話、現飛鳥部神社付近=「近つ飛鳥」(履中紀))。病疫が蔓延したのはこの渡来人(免疫あり)からの伝染でしょう(崇神紀)。
「東漢氏」の家伝によると、その祖阿智王(阿知使主)は、後漢最後の献帝(〜220年)の曽孫で、逃げた朝鮮半島から更に避難して族人2000人を率いて渡来したという(280年頃か)。
(戻る)
●注2 関門域に残ったニニギ系 (本文に戻る)
その根拠は「ニニギの主臣アマノコヤネの孫アマノタネコは神武に従い東征したが、その子ウサツオミは九州宇佐に残った」(神武紀)です。
その子孫は後世の賜姓中臣で記されていますが、豊前直入中臣(景行紀)・中臣鎌子(倭国神祇司、敏達紀)・中臣彌氣(みけ)・中臣鎌足(肥前飛鳥)を輩出しています。中臣が居るということは、その主筋ニニギ系・神武系の一部も九州に残ったことを意味します。
(本文に戻る)
第 34 話 注 了
ページトップへ 目次へ 前話へ 次話へ________________________________________________