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第 33 話 女帝たちの法隆寺
法隆寺を肥前飛鳥に創建したのは上宮大王(上宮聖徳太子の父)でした(第一期)。
大王崩御後、上宮法皇と諡(おくりな)して大王の「菩提寺」に変えたのは第四代上宮宝大王(上宮大王孫(二世孫)、のちの皇極女帝)でした(第二期)。
持統女帝(大王四世孫でもある)も金堂天蓋を献納するなど法隆寺を支えました。
聖徳太子の斑鳩寺が焼失すると、跡に法隆寺を九州から移築したのは元明女帝(上宮大王四世孫でもある)でした。
法隆寺に夢殿を献納して上宮法皇と聖徳太子の「合祀寺」としたのは光明皇后(大王五世孫でもある聖武天皇の皇后)です(第三期)。
以後今日に至るまで、法隆寺は「聖徳太子(=上宮法皇)の創建寺」とされています(第四期)。
今回はこのような首題のテーマを「法隆寺」についての筆者別サイト https://wakoku701.jp/S6.html から短くまとめました。
● 法隆寺の創建 上宮王権の官寺 第一期
法隆寺の創建は594年と考えられます。「五重塔の心柱の伐採が594年(年輪年代測定法)」だからです。
創建したのは上宮大王です。その根拠は上宮王が倭国から独立して年号を建てる大王になった年が法興元年(591年)、そこから官寺建立を発願して594年に着手したと考えられるからです(論証は注1)。
大王になって最初の大事業が「法隆寺創建」、ということになります。万民の為に「(北朝仏)法(を興)隆(する為の)寺」で、上宮王権のいわば「初代官寺」です。ここでは「法隆寺第一期」とします(聖徳太子との関係など、詳細は注2)。
● 法隆寺は「上宮大王菩提寺」に 第二期
上宮大王が崩御してのち、法隆寺は主仏を現在の「上宮法皇等身の釈迦三尊像」に替えて「上宮法皇菩提寺」に衣替えされました(光背銘)。「法隆寺第二期」とします。
こうした背景には上宮王権の「百済大寺(二代官寺)」が完成したからです。聖徳太子の熊凝(くまごり)寺を遺贈された第三代田村大王(のちの舒明天皇)・宝皇后(のちの皇極天皇)が肥前に移して格上げした寺です。法隆寺は役割を終え、菩提寺に衣替えしたのは第四代宝大王(上宮大王孫(二世孫)、のちの皇極天皇)、642年頃でしょう(根拠と詳細は注3、下掲系図参照)。
二王権系図 茶点線は記紀による改変 @以下の解説は前話
● 二王権の融合・合体
系図からわかる様に、宝皇女Fは上宮王統、田村皇子は大和王統ですが、この二人が上宮王権を継ぎ(G・I)、大和王権を継いだので(H・J・N)、二王権は斉明時代に実質的に融合・合体しました。更に、二人の血統・王統の継嗣である中大兄皇子が大和天智天皇となりましたから、形式的にも上宮王権は大和王権に融合・吸収されました。
これは上宮大王の夢「倭国内ニニギ系王族として、先祖の応神天皇・継体天皇のように大和王統が乱れた時は大和天皇を継いで大和王権を再興する」、の実現でもあったのです。聖徳太子の夭折や、二代大王に皇子がいなかったなどで、女系(宝皇女・皇極・斉明)によるしか無かったのは満点では無かったかもしれませんが。女系はそれをよく認識して期待に応えようとした、と筆者は推測します。
以後、天皇系は大和王統であっても、皇后系は上宮王統の心を保つような伝統が続いたようです。
● 持統天皇
持統天皇(大王四世孫)も法隆寺を大切にしています。法隆寺資材帳639年に「持統天皇から紫の天蓋が下賜」とあります。
持統は13歳で大海人皇子(当時孝徳難波宮)に嫁すまで九州肥前飛鳥・豊前京(みやこ)にいたと思われます(第6話)。当然、九州に在った「大王菩提寺」は先祖の菩提寺ですから何度か参ったでしょう。
● 日本書紀は「法隆寺不記載」
日本書紀に「法隆寺に火災、一屋も余す無し」(天智紀670年)とありますが、全焼したのは法隆寺ではなく若草伽藍(=聖徳太子の斑鳩寺)であることが発掘調査から判明しました。この記事は法隆寺の唯一の法隆寺関連記事ですが、これが斑鳩寺全焼の記事だとすると、日本書紀は法隆寺について創建も移築も何の記述も無いことになります。
その訳は、法隆寺が「上宮王権官寺」であり、その後は「上宮法皇菩提寺」だったから「他王権不記載方針」の日本書紀は不記載としたのです。
● 元明天皇の抵抗
聖徳太子の斑鳩寺が全焼したので、九州から法隆寺が移築されました。命じたのは元明天皇(女帝、大王の四世孫)です。
七大寺年表708年に「(元明天皇の)詔に依り太宰府観世音寺を造る、又法隆寺を作る」とあり、「造る」と「作る」を書き分けていることから、「作る、は移築」と考えられます。
元明天皇は稗田阿礼から古事記を受け取り、風土記編纂令を出すなど、歴史に強い関心を持っていました。日本書紀の編纂にも口を出した可能性が高く、「他大王権不記載方針」から「上宮王権不記載」はあきらめながらも、せめて聖徳太子を、と系譜を変えてでも推古紀に押し込んで、陰ながら上宮大王の称揚を図りました。元明天皇が大王の四世孫だったからです。聖徳太子の子孫ではなかったから、聖徳太子の称揚の為ではありません。
● 光明皇后が「法隆寺を合祀寺へ」 第三期
奈良時代に入ると法隆寺には、「釈迦三尊像(上宮法皇等身、光背銘)を主仏とする金堂」に加え、「救世観音像(聖徳太子等身)を祀る夢殿」が献納され、法隆寺は二人を祀る「合祀寺」となりました。これを「法隆寺第三期」とします。献納したのは光明皇后(上宮大王五世孫でもある聖武天皇の皇后、上宮王と共に倭国から離れた中臣彌氣(みけ)の曽孫)です。聖武天皇は「上宮王権二代官寺百済大寺」を肥前から平城京に移して上宮王権称揚に気を使っています(のちの「大安寺」)。
● 法隆寺は聖徳太子の寺(第四期) 定説の由縁
平安時代に入ると、「法隆寺は聖徳太子の建てた寺」、「斑鳩寺の別名」とされ、「主仏等身の上宮法皇=聖徳太子」とされて今日に至りました。「合祀寺」などの認識も無くなりました。
なぜか、それは日本書紀の和読が普及し、倭国も倭国(やまと)と振り仮名され、上宮王権も不記載のまま忘却の中に消えて行ったからです。
古田武彦の王朝多元論も「日本書紀捏造説」など行き過ぎた発散によって説得力を失ってしまいました。正しくは、「記紀は抑制の効いた他王権不記載」であって、「不実記載は少ない」と認識すべきですが、それすら議論されていません。
大和天皇王統には上宮王統が融合していましたが、「他王権不記載」を守って沈黙していましたから、「法隆寺についての誤解」も黙認したのです。合祀したからには、もはや「聖徳太子の寺」もあながち間違いでもありませんでしたから。「上宮大王父子が融合して尊崇されるなら、それも上宮大王称揚の一つの形」、、、と。(注4)
● まとめ
「法隆寺は聖徳太子の創建に成る」、筆者はそれを否定する積りはありません。「千年そう信じられてきたこと」、それも重い史実ですから。ただ、そこに疑問を持つならば、「上宮大王による創建」という Another Story によってすっきり納得することも歴史の楽しみ方の一つ、と提案する次第です。
第 33 話 了
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以下、 第 33 話 注
●注1 法隆寺 創建者 (戻る)
5) この時代背景から、倭国王や倭国系の豪族が北魏様式の法隆寺を建てるはずはなく(南朝仏教派)、他方大和王権推古天皇は元興寺建立に拘っている。聖徳太子(上宮皇子)は四天王寺建立に注力している。蘇我馬子は法興寺を建てている。法隆寺を建て得る崇仏派の主要人物は「上宮大王」しか居ない。法興寺も法隆寺も北魏様式とされる。倭国時代の上宮王は南朝仏教派であったが、上宮大王は蘇我馬子と同じ北朝仏教派に変わっている。南朝仏教派の倭国を見限って独立した一因であろう。
更に詳細論証は筆者別サイトhttps://wakoku701.jp/S6.html
(戻る)
●注2 聖徳太子の父は上宮大王 (戻る)
聖徳太子は日本書紀では「用明天皇の第二子で用明妹の推古天皇の皇太子」とされている。しかし、これには従来から様々な疑問があり「聖徳太子捏造説」まである。諸説の中に「聖徳太子は上宮王(大王、法皇)の太子である」とする説がある [注6-1] 。筆者もこの説を採り検証してきたが、その論証は十分ではなかった。しかし前章で「上宮王の出自」に納得の解釈が得られたので、それを手掛かりに本章ではこの説の論証を目指す。
その論拠の第一は「伊予風土記逸文」にある([注6-2]に掲示)。この文は「伊予温泉には天皇の行幸が五度あった」とする風土記の引用文であるが、この中で上宮聖徳皇子(聖徳太子、 [注6-3] )が碑を建てたことが記されている。その碑文の詞書に「法興六年、、、我が法王大王、、、夷與(いよ)の村に逍遙(しょうよう)し、、、~の井(温泉)を觀て、、、歎(たた)ふ、、、碑文一首を作る、、、(以下法王大王の温泉称揚の碑主文)」とある。この法王大王の伊予温泉訪問(碑文作成)と聖徳太子の訪問(碑の建立)は別年であることが読み取れる。
この中の聖徳太子が書く「我が法王大王」は誰か、が問題である。法王大王が逍遥した法興六年(596年)には用明天皇は崩御(587年、用明紀)しているから用明天皇ではない。推古紀に従えば「元年(593年)に厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた」とあるから、伊予碑の「法興六年(596年、3年後)に伊予温泉を逍遥した(聖徳太子の)我が法王大王」は「推古」以外にあり得ない。しかし、この解釈はこの風土記と整合しない。なぜなら、風土記が数える「五度の行幸天皇」の中に推古も用明も出てこないから「推古は伊予温泉に行幸していない」と読める。「推古紀と風土記のどちらが正しいか」、以下で検証する。
まず指摘したいのは、伊予風土記もこの逸文しか残っていないし、文中の「碑」は現存していない。しかし、この「碑文」が歴史学の証拠で最上級の「金石文」に近いことが解る。碑文は上宮大王自身の文、詞書は聖徳太子自身の文であり、「両人の温泉訪問と碑文作成の両方に立ち会った証人が二人いる」ことが記され、余人の手が入り難い状況であること、碑そのものが法興六年(596年)〜聖徳太子薨去(622年)の間に建てられ、その碑は伊予温泉の地震被害(684年、[注6-4] 参照)まで少なくも数十年間は伊予温泉現地に存在したはずであり、地元民・訪問者が証人になり得る史実であることである。文人・好事家・史家の作文でない「金石文」といってよい。また、万葉集編纂の立場から引用された注釈であることは、政治的偏りの少ない文としてよい 。
では「用明でも推古でもない法王大王」とは誰か。この時代の王権は三つあり、大王クラスは三人、大和推古天皇(大王)・倭国王(天王、雄略紀[注6-5])・上宮王家上宮大王が居た( 根拠は「三年号の並存」[注6-6]) 。推古天皇が伊予温泉に行幸していれば、引用の風土記が無視するはずは無いが記していないから「我が法王大王」は推古ではないだろう。「倭国王」が行幸した可能性は十分あるが、風土記は日本書紀の「倭国不記載」に合わせて修正されているから、それで消された可能性はある。しかしもし「我が法王大王」が倭国王であり、それが理由で消されたなら「碑文譚」自体も消されたはずである。だからその解釈は取れない。では、法興年号と共に記される法王大王とは誰か。「法隆寺釈迦三尊像光背銘」に「法興三一年、、、上宮法皇、、、法皇登遐(とうか、崩御)す、、、止利(とり)仏師、造る」と記された「上宮法皇」であろう。上宮法皇とは崩御時(法興三一年)の称号だが(光背銘)、法興六年には「上宮法王大王」と呼ばれたのであろう(伊予碑)。更に六年以上前の倭国から独立する前は「上宮王」と呼ばれたようだ(正倉院御物「法華義疏(ほっけぎそ)」写本に「大委国上宮王」の筆者名がある)。 称号は変化するが同一人物であろう、本書では概ね「上宮王」と記す。ちなみに文中では「法王大王」となっているが、史料的に最も確かな光背銘の「上宮法皇」を使うのが正しい、との見方もあろう。上宮法皇には后がいる(光背銘)。だから上宮法皇は推古天皇(女帝)ではない。上宮法皇の崩御は法興三一年(623年)であるから用明天皇ではない(光背銘)。その上宮法皇を上宮聖徳皇子が「我が法王大王」と呼んでいる。「皇子(または太子)」が「我が大王」と言えばそれは父王の可能性が最も高い。ここの「上宮聖徳皇子」(聖徳太子)は上宮法皇の太子・皇太子・継嗣ということになる。
注目すべきは、「伊予温泉に天皇が行幸した回数」を数えているこの文献で、編者は「聖徳太子を天皇並みに数えて一度」とする一方「我が大王」の滞在を行幸に数えていない。これは変だ。「大王」は「行幸」に相応しい一方「太子」に「行幸」は使わない。原風土記では「大王の行幸は五度」とあったものを、「大王→天皇」と書き換えた時点で「上宮王は天皇でない」として「上宮王」をはずし、代わりに不自然だが「聖徳太子を天皇並みに数えて数合わせをした」という可能性がある。その時まで、「大和大王(天皇)と同等の別王権の大王の存在」が公知であったこと、それを聖徳太子が公然と「我が大王」として碑を建立していた時代があったこと、原風土記が「大和大王と別王権大王を同等に数えて居た時代」があったことを示している。倭国滅亡後に倭国王の行幸記事は削られたが、上宮王/聖徳太子行幸記事が残った理由は、上宮王家が推古と同じニニギ系であり(前章)、大臣は共に蘇我馬子であり、非常に近い関係で区別が曖昧だったのであろう。その後、大和天皇行幸だけを数える元明風土記の時代となり、上宮王の代わりに聖徳太子に行幸を使う時代となり(天皇扱い)、そして上宮王とは誰か解らなくなる時代を経て、「上宮王=聖徳太子」の誤解が定着した時代になったと考えられる(後述)[注6-7] 。
結論として、「聖徳太子は上宮王の皇太子である」とすることができる。 (戻る)
●注3 系図史料 (戻る)
上宮王家は上宮王が在位32年の後崩御したが、太子(上宮聖徳太子)は既に薨去して次の大王が立った。その大王が登場する恐らく現存唯一の文献がある。その大王から田村皇子(のちの舒明天皇)への継承指名のいきさつを示している[1]。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳
「飛鳥岡基宮宇天皇(舒明天皇)の未だ極位に登らざる時号して田村皇子という、、、皇子、私に飽波に参りご病状を問う、ここに於いて上宮皇子命(聖徳太子のこと)、田村皇子に謂いて曰く、愛わしきかな、善きかな、汝姪男(宝皇女の夫)、自ら来りて我が病を問うや、、、天皇(第二代大王のこと)、臨崩の日に田村皇子を召して遺詔す、朕病篤し、今汝極位に登れ、宝位を授け上宮皇子と朕の羆凝寺(くまごり寺)を譲る、仍りて天皇位に即く(第三代大王)、、、百済川の側に、、、九重塔を建つ、号して百済大寺という」
この前半には「上宮皇子(聖徳太子)が田村皇子(のちの舒明天皇)を姪男と呼んだ」とある。田村皇子を夫とするのは宝皇女(聖徳太子の姪、のちの皇極天皇)である。後半に登場する天皇(第二代大王)「朕」は上宮皇子と寺を共有する天皇、文脈から「上宮皇子の薨去(621年)、上宮王の崩御(622年)の後を継いだ上宮王家天皇(第二代大王)」である。推古天皇ではない。その天皇が臨崩に際し田村皇子を次代天皇(第三代大王)に指名した、とある。後の舒明天皇である。
ここで「天皇」とあるのは「他王権不記載・他大王不記載」の記紀に合わせている。「天皇・天王・大王の表記を天皇に統一した」という言い訳を用意したと思われる。
熊凝(くまごり)寺は聖徳太子の寺、第二代大王から田村皇子・宝皇女に遺贈された。推古天皇が崩御すると、田村皇子(上宮三代田村大王)が後継大和天皇に指名されて呼び戻されて舒明天皇に即位しました。上宮大王位は宝皇女に譲位したと考えます。その後も舒明は宝四代大王と共に肥前百済宮で上宮王家ゆかりの熊凝(くまごり)寺を百済大寺に格上げしています(舒明紀11年条)。
百済大寺はのちに聖武天皇によって平城京に移築され、のちに大安寺となりました。上記記事はその大安寺の伽藍縁起です。
[1] 上宮王二代目 「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004年
(戻る)
●注4 「合祀寺」は誤解の追認 (戻る)
日本書紀(720年)は上宮王家についても上宮法皇についても、その菩提寺法隆寺についても沈黙を守っている(上宮王家不記載)。理由は「倭国不記載」と同じであろう(他王権・他王統不記載)。その結果民間では「上宮法皇=聖徳太子」(誤読、推古紀の誤読誘導)と「法隆寺は聖徳太子の寺」(誤解、光背銘)が広まった。
天皇家はこのような誤解と誤読を肯定しないが否定もしなかった。その理由は、肯定すれば不実になる(「上宮法皇=聖徳太子」)。否定すれば「倭国不記載」「他王権不記載」の紀方針に反するからだ(「上宮法皇≠聖徳太子」)。
上宮王を称揚したかった天皇、例えば元明天皇も、日本書紀に表立って上宮王を記載することは諦めたが、推古紀に上宮王/聖徳太子の記録を挿入することが出来(誤読誘導)、上宮王の法隆寺も聖徳太子の寺として称揚されるなら(誤解)、「誤読・誤解であったとしても、父子が融合して一人の偉人として尊崇されるなら、それはそれで良し」としたのではないか、と想像される。先祖の偉業譚にその先代や次代の成果を含んだりする例は歴史伝承ではしばしば見られる。例えば、神武東征譚にニニギ南征譚が混入したりしている。
そこで天皇家は「法隆寺は上宮法皇と聖徳太子の合祀寺」に改める(追認する)ことによって、民間の誤解・誤読「上宮法皇=聖徳太子=用明天皇皇子」を黙認したのだろう。その結果、「法隆寺は聖徳太子の寺」・「天皇家の法隆寺」が平安時代には既に定説となり、天皇家の保護によって、法隆寺は世界最古の木造建築伽藍として守られたのである。
(戻る)
第 33 話 注 了
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