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第 32 話 大化の改新と女帝たち
近年の研究で「大化の改新はほとんど実施された形跡がない」とわかってきました(考古学の木簡発見などから)。そこから、「実質的な律令制の始まりは大宝律令(701年)から」との解釈が主流となりつつあります。
筆者もこれまで「改新の詔」は胡散臭い、と避けてきました。
しかし、筆者の得ているある視点から改めて見ると、納得ある解釈が可能でした。
結論から申せば、
(1) 「大化の改新」は「遣隋使(607年、推古紀)に始まり〜大宝律令(701年)に至る100年の長期戦略」の一重要エポックでした。実行されなかったのではありません。
(2) その律令への長期戦略を始めたのは上宮大王。その理念を継承したのは第四代上宮宝大王(大王の孫(二世孫)、のちの皇極)、それを実行に移した主導者は持統(大王四世孫)で、それを実行したのはその婿達(大和王統)です。二王統が一丸となって実現した律令制です。
「(1)は一般論としてはいいが、(2) は何のことやらさっぱり、、、」と思われるでしょう。説明します、、、
● 「遣隋使」で律令制導入を推進したのは上宮大王
推古天皇は倭国の第二回遣隋使(607年)に随行使小野妹子を送りました。推古に小野妹子を推薦したのは上宮大王でしょう。なぜなら、「小野妹子は(大王の継嗣である)聖徳太子の乳母(日益姫)の父(兄とも)」だったと伝えられ、大王の身内のようなものです。
大王の目的の一つは「隋・唐の進んだ律令制の新情報入手」でしょう。遣隋使の派遣主は倭国王ですが、倭国は「自分たちは南朝系宋から既に律令を導入している」としていました。しかし上宮大王は「それは古い、進んだ北朝系(北魏・隋)から学ばなければ」と推古に随行使小野妹子を推薦したのでした。なぜなら上宮大王/聖徳太子の「十七条憲法」は理念に留まり、律(刑法)・令(行政・財務)が必要だったからです(補足はこちら)。
● 改新の詔の草稿は中大兄皇太子
大化改新の詔は蘇我打倒の「乙巳の変」後即位した孝徳の大化二年正月に発せられました。
その直後の記述に「(中大兄)皇太子は使いを遣わして奏上し、、、天に二(つの)日無く、国に二王無し、、、云々」と改新の趣旨を滔々と述べています。「蘇我氏打倒の正当化」です。改新の草稿は蘇我打倒を実行した中大兄太子が作ったに違いありません。
この奏上を「使いを遣わして奏上」とあるから、中大兄は難波宮孝徳天皇からかなり遠くに居て、恐らく九州で蘇我支族の制圧に奔走していたのでしょう。改新の詔の四か月前には古人大兄皇子(蘇我系)/蘇我支族らの謀反を(九州で)制圧しています(皇極紀)。
蘇我氏打倒が「正当」なら皇極が退位する必要も、皇太子中大兄が即位を辞退する必要も無いのに、初の生前譲位・孝徳即位・皇太子中大兄がすんなり決まっています。
それを主導したのは中大兄/鎌足だった、と考えます。中大兄は皇太子に留まりながらも、裏で鎌足と共に数々の謀略を実行しています(中大兄/鎌足の謀略のかずかずについてはこちら注3)。
中大兄の最終目標は「天皇制/律令制の確立」ながら、それを実現する為には「改新の詔」の「理念」だけではだめで「力」が不可欠と理解し、謀略を使ってそれを得ようとしたのです。天皇が謀略を使うのは律令の理念に反するから、皇太子に留まったのです。
● 改新の詔を書かせたのは皇極上皇
前節の「天に二日無く、国に二王は無し」は、「上宮大娘(だいじょう)姫王(聖徳太子の娘、皇極のいとこ)が蘇我氏の専横を怒った言葉」として残っています(皇極紀元年)。
皇極は聖徳太子の「姪」でしたから(大安寺縁起)、一族である皇極も蘇我氏の専横に怒り、子の中大兄皇子の「乙巳の変」を認め、退位してもダメ押しで「改新の詔」を書かせたのでしょう。
系図は複雑ですが理解を助けます。記紀は「他王権不記載方針」ですから、左の上宮王統は不記載ですが、聖徳太子の娘は ■ 印で示しました。系図の詳細はこちら注4に委ねます。
二王権の系図 連続同色は同一人物 詳細はこちら注4
この系図によれば、皇極は上宮大王の孫に当たり、皇極の求めた詔の精神は祖父上宮大王・叔父聖徳太子譲りの可能性があります。皇極は聖徳太子の 熊凝(くまごり)寺を遺贈され、のちに百済寺(官寺)に格上げしています(舒明紀十一年)。
● 改新の精神は上宮大王以来
皇極の祖父上宮大王は百済経由の北朝仏教を興隆させたいと、蘇我馬子と共に反対する倭国物部守屋を討伐していますが、同時に百済経由の北朝北魏律令を学んでいたようです。倭国からの独立(591年)の後は大きくない自領にその律令体制を試行したにちがいありません。それが上宮大王/聖徳太子による「十七条憲法」(推古紀)だと考えます。
● 蘇我氏の律令制に対する立場
蘇我馬子は大王の直轄領に関する限り王権権威の上がる律令制導入には賛成でしたが、自分の領地を大王に差し出す気は毛頭なかったでしょう。
また、「国に二王無し」にも賛成だったでしょう。二王権・二大王の大臣を兼ねる蘇我馬子・蝦夷は二王権合体を陰に陽に進めました。その点は上宮大王の夢「二王権・王統の合体、それを自分が統べる」の支持・推進者でした。大臣の立場がより大きくなるからです(補足はこちら注6)。ただ、のちには主君をないがしろにする二王の振る舞いをしています。律令を取り込む気はありませんでした。
● 中臣鎌足の役割り 改新の実行には_
中大兄と共に蘇我氏打倒を決行した鎌足は、以後相当期間日本書紀に出てきません。それは改新の詔の実現には「力」が必要で、中大兄とを援けて裏方の謀略に専念していたと思われます(鎌足についてはこちら注7)。
● 孝徳は改新の推進者か 否
孝徳は間人皇后(皇極の皇女)に即され、実権を握る大兄皇太子の顔を立てて改新の詔は出しました。
しかし、孝徳はいずれ皇太子を子の有馬皇子に替えたく、中大兄が抱き込んだ蘇我支族の倉山田麻呂と組むことを念頭にしていましたから、倉山田麻呂がいやがる「蘇我領を天皇(自分)に差し出させる改新」を実行する気はありませんでした。
● 皇極上皇/斉明(重祚)の役割
退位(645年)した皇極上皇は兼務していた第四代上宮大王を退位する理由が無く、九州の上宮大王領(福岡県みやこ)と大和王権領(福岡県香春町勾金辺り)を大和副都として孝徳期を過ごしたと思われます。
孝徳を継いだ斉明は、上宮王家領と大和王権領を合わせ支配する実質二王権合体大王でした。律令制導入の準備がととのい、国民の為の大治水事業を始めました。しかし、倭国の対唐戦に付き合わされ、その直前に崩御しました(注8)
● 天智〜持統の役割
天智は上宮大王〜斉明天皇譲りの親唐派でしたから、白村江戦には斉明崩御を理由に参戦を遅らせ半減させ、早々撤退して兵力を温存しました。これも謀略の匂いがします(斉明崩御仮装説)。なぜなら、この間中大兄皇子は即位せず称制を続け、「天皇の謀略」を避けた可能性がありますから。
しかし、唐軍進駐による倭国の傀儡化のさ中に中大兄が天智即位、崩御すると、壬申の乱で反唐派の天武天皇となりました。天皇親政を進め、結果的に次代の律令制の基盤を造りました。
天武を継いだ皇后持統は天武の反唐路線ではなく父天智の親唐律令路線を採りました。これを実行したのが文武天皇です。
文武は日本国を建国し、大宝律令を定め、遣唐朝貢使を送りました。
これが、上宮大王の遣隋使に陰ながら小野妹子を送り込んで以来の100年後の律令制の制定、大化の改新の実現となるのです。
● まとめ 律令制への100年
遣隋使に律令制を求めた上宮大王(607年)、その血統と精神を受け継いだ女帝(皇極)とその息子(中大兄)が「大化の改新」(646年、遣隋使から40年)を起動させ、その血統と精神と力を受け継いだ女帝(持統)とその孫(文武)が「大宝律令」(701年)として100年目に完成させたのでした。
文武の母は次代元明天皇です。歴史に関心が強く、風土記編纂を命じ、古事記を監修していますから、恐らく編纂中の日本書紀「大化の改新」にも口を出した可能性もあります。二王統の血を引き(上図)、上宮大王の顕彰に密かに心を砕いた節があります。法隆寺(上宮大王・聖徳太子合祀寺)移築再建もその一つでしょう(七大寺年表608年、詳しくは別サイトこちら)。
律令制によって確立した天皇制は現在まで続いています。その節目「大化の改新」に女帝・女系が寄与したこと、そんなことはこれからもあってよいと、思う一人です。
第32話 了
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以下、第32話 注
●注1 乙巳の変 (戻る)
蘇我氏(蝦夷・入鹿)の専横がはなはだしくなり、蘇我系皇子である古人大兄皇子を皇極の次の天皇にしようと、有力候補聖徳太子継嗣山脊大兄皇子一族を斑鳩に襲わせて滅亡させました(643年)。
これで王家の怒りが爆発し舒明・皇極の継嗣中大兄皇子/中臣鎌足らは決起して、大極殿(肥前板蓋宮)で入鹿・蝦夷を討つことに成功したのです。
しかし皇極天皇は翌日には皇位を孝徳に譲位し、孝徳は中大兄を皇太子にしました(大化元年、645年)。
「乙巳の変(645年」です。 (戻る)
●注2 改新の詔 (戻る)
大化二年、孝徳天皇/中大兄皇太子により改新の詔が発せられました(646年)。
改新の詔 (要旨)
第一、首長らの部民、豪族の土地を廃して天皇のものとし、代わりに食封(戸口)・布等を与える。
第二、京・畿内の関など防備・諸制度を定める。
第三、戸籍・経帳・班田収受の法をつくる。
第四、従来の賦役を賦役用食料・物産納に改める。
とある。
(戻る)
●注3 中大兄/鎌足の謀略のかずかず (戻る)
中大兄は「乙巳の変」前に蘇我氏大和支族の倉山田麻呂を仲間に引きずり込み(謀略)、皇極退位後の後継者争いを辞退した古人皇子を謀反容疑で殺し(謀略)、倉山田麻呂を難波孝徳の監視役とし(謀略)、孝徳に近づきすぎた倉山田麻呂を謀反容疑で討伐し(孝徳紀五年、謀略)、蘇我氏を徹底排除することに専念しました。更に、孝徳崩御後は孝徳の継嗣有馬皇子を謀反容疑で殺しました(謀略)。
こうしてみると、さかのぼって舒明崩御時の中大兄は16歳でしたから即位してもよいはずなのに、皇后皇極が即位した理由も、中大兄は皇太子として陰ながら蘇我氏打倒の謀略を練っていたのかも知れません。天皇が謀略で臣下を滅ぼすのは律令に反しますから。
中大兄は孝徳太子でありながら、孝徳崩御の次に斉明重祚を進めて自分は黒子謀略役に徹し、斉明崩御を理由に百済出兵を遅らせ半減させて、大和がまとめた日本(近畿)軍を温存しました(謀略)。
これが一因となって倭国敗戦・滅亡へと進みましたが、日本は唐から睨まれながらも奥地故に難を逃れました。
中大兄は天智となった後、飛鳥清御原宮を空けて近江に遷ったのは、敗戦倭国を吸収する誘動策(餌)でしたが、実行する前に倭国は滅亡してしまいました(謀略の不発)。
中大兄は政治表舞台を避けて謀略を好み、その成功で大和王権の存続に大いに寄与しました。
律令には「理念」と「力(武力・財力)」が必要です。力の獲得には謀略が効率的です。しかし「天皇が謀略を使う」のは律令理念に反します。この矛盾を解消するのが「皇太子に留まって謀略を使ってでも力を得るが、天皇は公平な裁きに徹する」、これが中大兄皇太子/鎌足の「律令実現への戦略」だった、と筆者は考えます。 (戻る)
●注4 二王権の系図 解説 (戻る)
ここでは、第23話で検証した三王権の内、倭国を除いたこの時代の系図を示します。
左側が上宮王権(青縦点線まで)、右端が大和王権で、中間が二王権に関係する王族です。同色でつながっているのは同一人物です。多くの王族・天皇が二王統につながっていることがわかります。
二王権の系図 連続同色は同一人物
記紀は「他王権不記載方針」から上宮王家・上宮大王@を記載できず、せめて聖徳太子Aを、と用明天皇の子としていますBX。
正しくは「上宮聖徳太子の父は上宮大王」ですC。その根拠は、、、
「上宮聖徳皇子が建てた碑文に、法興六年、、、我が上宮大王、、、云々」(伊予風土記逸文)とあること、
この法興年号は「法興三一年、、、上宮法皇、、、」(法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘)とあることから
「上宮聖徳太子Aの父は法興年号を建てた上宮大王@」と結論できるからです。
用明紀で皇后とされるD穴穂部間人皇后は正しくは上宮大王の皇后です。その根拠は聖徳太子妃が母后を偲んだ「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の残存原刺繍に「(穴穂)部間人公」とあり、聖徳太子の母后(上宮大王皇后)は穴穂部間人皇后と確認できるからです。
そうであれば、聖徳太子・上宮大王の没後、第二代上宮大王を継いだのは、聖徳太子の弟殖栗(えぐり)皇子Eです。
系図から、皇極は大和王権の血筋ではありません。にもかかわらず、舒明を継いで(中継ぎとして)大和天皇に即位しました。
これにより、二王統は事実上合体しました。合体は蘇我馬子と蝦夷の主導です。
大和王統は「敏達−−舒明−天智−」と続き、上宮王統は「上宮大王−−−皇極−天智−」で合体が完了しました。
このあとは第4話「上宮王家の婿たち」で検証した通りです。(戻る)
●注5 律令制導入の基点は上宮大王 補足 (戻る)
遣隋使を始めたのは倭国大王多利思北孤(たりしほこ)でした(隋書600年)。
倭国大王は南朝宋の律令・仏教を既に知り、隋と対等外交を目指しました。隋から律令・仏教を学ぶ気は薄かったはずです。(第23話「三人の大王」を参照)
推古天皇は倭国大王の第二回遣隋使(607年)に随行使小野妹子を送りました。北朝仏教に興味があったからと考えられます。推古天皇は大和に元興寺(北朝仏教系)建立を始め(推古紀605年)、進んだ北朝仏教を知りたいと思って小野妹子と学生を随行させました。倭国の対等外交には内心不同意でした。
推古に小野妹子を推薦したのは上宮大王でしょう。なぜなら小野妹子は「上宮聖徳太子の乳母(日益姫)の父(兄とも)」、学識豊かな身内でしたから。
上宮大王は推古の元興寺建立の共同誓願者で、隋の北朝仏教を学びたい動機がありました。更に、上宮大王/聖徳太子の「十七条憲法」を発布しましたが(604年)、これは理念だけでは不十分と知っていて、隋の進んだ律令を導入すべく小野妹子を推薦したのです。自身は倭国から独立(594年)したばかりで、倭国に願い出る立場ではなかったからです。
上宮大王は小野妹子が持ち帰った新律令制を広くない自領には施行したと思われます。
一方、上宮大王を推戴した蘇我馬子大臣は、より広大な自領を大王に献上するはずもありません。 (戻る)
●注6 蘇我氏の律令制に対する立場 補足 (戻る)
蘇我馬子は倭国から独立した上宮大王を担いだ手前、律令が大王の権威を高める点には賛成でしたが、自分の領地を大王に差し出す気は毛頭なかったにちがいありません。大王の直轄自領に限る限りどうぞ、だったと思われます。
では、寄与した役割があるとすれば、それは上宮大王の夢「ニニギ系二王権・王統の合体、それを上宮王統が統べる(大和王権の吸収)」の実現でしょう。蘇我氏が二王権の大臣を兼ねて、合体には積極的でした。大臣の立場がより大きくなるからです。
肥前を拠点としていた蘇我氏の夢は祖地大和への再進出でしょう。その点は上宮大王と夢を共有していました。推古領豊前豊浦を交換名目で手に入れて豊浦港をつくり、大和再進出の足掛かりとし、そして得た大和蘇我領に広大な山田寺をつくり、甘檮岡(あまかしのおか)に宮殿風の拠点を造り、王の振る舞いをしていました(皇極紀644年)。
(戻る)
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●注7 中臣鎌足とは (戻る)
鎌足の父(中臣彌氣(みけ))は上宮王が倭国から独立した際、供奉して倭国を離脱したと考えられます。
彌氣は上宮王家と大和王権の融合に尽力しています。舒明紀に「中臣彌氣は推古崩御(628年)の折に田村皇子(大和系敏達孫ながら、既に上宮王家大王であったと考えられる)を次の大和天皇に推挙した」(舒明紀)とあります。
推挙の相手先は上宮王家の大臣蘇我蝦夷ですが、蝦夷は大和王権の大臣でもあり「大和王権天皇を決め得る実力者」であるからです(舒明紀)。「大和天皇舒明の次は皇后の皇極(上宮王孫)を立てる構想」を持った上での推挙だったでしょう。
なぜなら中臣の主筋上宮王(623年崩御)の遺志は「倭国内ニニギ系王族である自分が大和天皇となって(応神のように)大和王権を再興したい」でしたから。それは叶わなかったが、「舒明の次に皇極天皇即位(上宮王孫、第四代上宮宝大王兼位)」が実現しました。大和王権も「中大兄皇子(626年生)までの中継ぎなら」と受け入れたのでしょう。
鎌足(当時名は鎌子)は上宮王家内ニニギ系神祇司を継ぎながら、上宮王の仏教指向に同調して「皇極から神祇伯に任じられた時に再三固辞」(皇極紀三年条)して、上宮王家の信認を得ています。
皇極朝では中大兄太子に近づき「乙巳の変」を成功させました(謀略成功)。
「乙巳の変」成功と皇極退位の後、鎌足(鎌子)は中大兄皇子に天皇即位を押しとどめ、(蘇我一族一掃するまで表にでずに謀略を共に、と)孝徳の太子を勧めました(謀略)。
その後の中大兄太子の謀略(前述)のほとんどは鎌足の謀略策でしょう。
唐との白村江戦の期間、大海人皇子と中臣鎌足は紀に登場しません。恐らく、親唐派の天智が反唐派の大海人の監視役として鎌足をつけたのでしょう。天智の意向通り、日本軍は早々撤退して兵の損耗を少なくしたようです(謀略)。
天智紀669年に藤原内大臣として賜姓されました。政治の表舞台の左大臣・右大臣ではなく、謀略担当内大臣の意味でしょう。その翌日に死没しました。
以上から、大化改新の実行に関しては、中大兄も鎌足も実行には「力」が必要としてそれに専念したと考えられます。 (戻る)
●注8 斉明の役割 補足 (戻る)
皇極は大和天皇位を退位後、蘇我支族の反撃を避けて肥前飛鳥板蓋宮から豊前京(みやこ、上宮王家本拠)に遷りましたが、兼位だった第四代上宮大王位を続け、大王位として自領から賦役を徴して大治水工事を続行したようです(豊前勾金の遺構がそれ、とする説あり)。その考えは、斉明天皇(重祚)即位後も大和で実行し、「たむれ心の溝工事、無駄な人夫三万余」と謗(そし)られました(斉明紀二年)。律令制では人民の為の大規模な治水工事をやる例は隋の運河でも見られます。後世には感謝される事業です。
(戻る)
第32話 注 了
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