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31 話   久米歌(くめうた)

 

先日のテレビ「ブラタモリ」で、「苫小牧」の地名はアイヌ語の「ト(沼の)マコマ(奥の)イ(ナイ、川)」で「真駒内」と共通部を持つ、と説明がありました。両方アイヌ語だろうな、とは思っていましたが、初めて知り、太平洋から札幌を経由して日本海まで通じる船水路があったそうで、驚きです。

 

地名には先住民のものも多いですが、移入民が持ち込んで変える場合、無かったから移入元の名を移植する場合も多いこと、周知の通りです。

 

ほほえましい例もあります。

カナダ中部にロンドン市があります。最初は小さな入植村だったでしょうから、故郷の地名で精いっぱいの自己主張だったのでしょう。近くの川もテムズ川としました(下図)。さすがにドーバー海峡はありませんが、元名ロンドン市と間違える人は誰も居ません。

カナダのトロント市とテムズ川   (GoogleMap より)

 

●  戦争による地名変更

ウクライナの戦争で、首都キエフ(ロシア語名)は正式には「キーウ」(ソ連崩壊で取り戻したウクライナ語名)だと初めて知りました。今もロシアに併合された東南ウクライナ地区ではロシア語化が進められているそうです。抵抗もあるでしょう。

過去にもフランス小説「最後の授業」(ドイツ語強制に対する抵抗譚)や、フィンランド叙事詩「カレワラ」(ロシア併合に抵抗する自国伝承文学)など有名です。

 

独立を回復したこれらの例では誇らしく語られますが、併合されたまま数百年も経てば忘却の彼方に埋もれてしまいます

 

● 古代史の地名・国名の移植・変更例  

そのような、忘却・無視されているが主要な史書からでも読み取れる例を、筆者も幾つか紹介してきました。

「日向」、忘却された北九州の元地名。(地名移植後国名化された南九州の)日向国」

「百済」、吸収され忘却された本国百済(北百済)。

「高麗」、記紀に出てくるのは後世無視された小分国伽耶高麗国(神功紀)。

などですが、ここでは詳細は略します。(詳細はこちら、注1

 

●  淡島

前話の「淡島(あはしま)」は神話化でぼかされた例でしょう。

島生み譚前段で「生み損ねた(侵略し損ねた)最初の島、淡島」とされる島は「遠賀川河口域の島々(今は陸地)」か、と推測しました(下図再掲)。

 

「淡島(あはしま)」(記紀 島生み譚 前段)の比定地候補 (中央?印) 前話より

 

しかし、これは侵略した側(イザナギ)の立場です。

侵略を阻止した側は、葦原中つ国(小倉市足原・中津口か)の豊かな弥生稲作農民でしょう。彼らはこの時は撃退しましたが、その後「(古)淡路島」(宗像大島、前話)、「(古)伊予二名島(関門海峡彦島、前々話)」から挟撃され、スサノヲ(イザナギの子)に侵略され、それを奪ったアマテラス/ホアカリに再支配され(国譲り)、徴兵されて征服地拡大(例えば神武東征)の前線に送られたかもしれません(併合地のウクライナ人のように)。

 

●  久米歌(くめうた)

そんな想像を掻き立てるのが「久米歌」(記)です。

来目歌とも書き(紀)、記紀に八首*が載り、多くが「久目の子らは、、、撃ちてし止まむ」で結ばれています。「クジラが取れた時には旨いところは古妻にはやらず、新妻にやれ」と(多妻時代の)共感を呼び笑いをさそう歌など、久米(氏)族に伝承された戦いの酒宴の歌舞であろうとされ,また大和王権へ忠誠を誓ったものと考えられています(定説)。

今も宮中の儀式,節会(せちえ)などの舞楽に再現されています。

戦前は兵士を鼓舞し、あるべき精神の歌として教宣されました。

* 八首訳は他サイト、 http://utamai.com/article/175930935.html   を参照ください。

 

(古)久米氏は大伴氏配下として、ニニギ天降りに従い(初出、神代紀)、神武東征で戦勝に寄与したともあり(神武紀)、天皇家護衛隊として戦勝歌で何度も登場します。上位の役職は与えられないまま、いつしか消えてゆきました。国譲り後、ニニギ天降りまでに臣従した新参氏族だった可能性があります。

 

古代の戦勝宴で前座の歌舞を受け持つのは多く下級兵団で、徴兵された新参の被征服民でした。かれら亡国の民は、自由で楽しかった過去を惜しみ、恨みを晴らす再起を誓って何代にもわたって歌舞など自文化を伝承しようとしたことは、「カレワラ」「フィンランディア(シベリウス)」がよく教えるところです。

 

半農半漁の淡島の民も、「かつては侵略者を撃退した誇るべき国、今は亡国となって何代も続いて、前座で笑わせ勇壮を誓うが、いつかは自分の為に戦い自分たち家族が笑う日を取り戻す」、そんな秘めた思いの歌舞を伝承した、と想像するのです。

 

●  久米歌の表と裏  Another Story

「淡島」の一方に「侵略しそこなった恥ずかしい島だが、その後に征服した島」とする側(イザナギ〜天皇家)が居て、

他方に「侵略を撃退した誇らしい島だが、今は取り戻すことを誓う島」とする他側(久米族か)も居た、と想像します。

そのように、「久米歌」にも表(定説)と裏(筆者想像)があった、「久米族は淡島の民だった」、そのような可能性を想像するのです。

 

「歴史には表と裏がある」、その裏を Another Storyとしてたどるのも楽しみの一つ、と提案するしだいです。

 

 

31 話     了

 

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以下、第31話     注

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●注1   忘却された地名・国名     (戻る

「日向」

イザナギは「筑紫の日向の小戸」に天降りしました。この日向は北九州でした。更に詳しくは第8話 注8 こちら をご参照ください(ここに戻るには開いたサイトを閉じてください)。

ニニギ(イザナギの曽孫)は幼児期に「笠沙岬」経由でこの「日向」に天降りしましたが、成人の後陸路国探しに出かけたとあり(神代紀)、南九州に落ち着き、そこに「日向」「笠沙」の地名を移植しました。

更に詳しくは第8話、注9 こちら をご参照ください(ここに戻るには、開いたサイトを閉じてください)。

 

 

ニニギの国探し路

 

後年南九州の「日向」は国に格上げされたこともあり、北九州の名は忘却されました。

本文に戻る

 

「百済」

百済の起源は、遼河の西「遼西」にできた「呉末裔王をかついだ扶余族の国」でした。

 

南下して「百済」を称する過程で呉王族が排除され、ご王族はその北(帯方)に同名の「百済」(分国)を建てました(北百済)。これがいち早く中国に朝貢したので、中国史書の「百済」はこちらを指します(本国扱い)。

 

一方、南下した「百済」(南百済)は本国を自認して倭国と付き合いましたから、記紀に出てくる「百済」(南百済)は純扶余系です(神功紀)。

 

二つの百済

 

500年頃、北百済は北魏・高句麗に挟撃され、南百済に逃げて吸収されました(500年)。以後南百済の武寧王が中国朝貢権を受け継いで、中国からも「百済」として認められ、滅亡662年まで続きます。

 

記紀に出てくる「百済」は上図の黄線だけです。北百済の認識はありません。

詳しくは  第22 (クリック、ここに戻るには開いたサイトを閉じてください)。(本文に戻る

  

 

 

「高麗」             本文に戻る

「高麗史で無視された小分国伽耶高麗国(神功紀)」

まず「高麗」は神功紀の「三韓征伐」に初出する。ちなみに日本書紀に「高句麗」は使われていない。

 

神功紀の「三韓征伐」

「是に於いて高麗、百済二国王は新羅が図籍を収め日本国に降ったと知り、密かに其の軍勢を伺わせ、則ち勝つことの不可を知り、自ら営外に来りて叩頭して曰く、今より以後永く西蕃と称し、朝貢すること絶えず、故に因りて内官家(うちつみやけ)を定める、是れ所謂三韓也」

 

ここで、高麗と百済が自ら降伏してきたとあるが、従来は「高麗は高句麗の別名。倭国に戦勝した強国高句麗が自ら降服するはずはない。ここは神功紀の虚勢的表現」と解釈されてきた。しかし、「高麗=高句麗」はそう単純ではない。ここに坂田隆の「二つの高麗」説を紹介する  (「古代の韓と日本」 坂田隆 新泉社 1996年 )

 

 高麗と称し、あるいはそう呼ばれた国は三つある。

 

@ 後世、新羅を滅ぼして半島を制した高麗国(9181392年、首都は開城)。ここでは時代的に対象外。

 

A 高句麗(BC37668年)の別名。略称として初出は270年頃(魏略)、国号として併用は472年(魏書)以降。

 

雄略紀476

 

「高麗王大いに軍兵を発し百済を伐尽す、、、〈 百済記云う、蓋鹵王乙卯年冬、狛の大軍来り大城を七日七夜攻む、王城降陥、遂に尉礼国(漢城)を失う、王及び大后・王子等、皆敵手に没す〉」

 

ここでは、高麗の記事の中に狛が引用されて、ここの高麗が高句麗であることがわかる。高麗(高句麗)は百済を滅亡させた強国であることを伝えている。

 

B 高句麗の別種。高句麗(別名「貊」)の別種の例とし「小水貊」が知られている(三国志高句麗伝)。他にも別種国が複数あった可能性は否定できない。百済も高句麗から出たとする文献も多い。

 

神功紀の「高麗」は時代的には Aの高句麗の略称「高麗」が使用されていた時代だが、前述のように高句麗でありえないから、B 高句麗の別種 と考えられる。通常別種は同名ではなく例えば上述の貊と小水貊のように別けるが、遠距離で大小に明らかな差がある場合は混同が起きないから小さい方が同名を自称する場合がある(例えば、九州に倭国があるのにやまとが倭国を自称した例、新唐書日本伝、第十章参照)。高麗と自称した高句麗の別種の存在の可能性はある。この高麗の場所は南韓、特に伽耶諸国と考える。その根拠は神功紀の「三韓」(上述)にある。三韓は元は馬韓・弁韓・辰韓に由来し、後に統一が進んで百済・新羅・伽耶諸国となった後も「三韓」と呼ばれることはあった。いずも韓人が多い地域だからだ。しかし「新羅・百済・高句麗」が「三韓」と呼ばれたことはない。高句麗は韓人系ではないからだ。従って、神功紀が「新羅・百済・高麗」を「三韓」と称した理由はこの高麗が伽耶諸国にあったからではないか。伽耶にあって高麗を名乗るとしたら高句麗の別種と考えられる。応神紀に傍証がある。

 

応神紀七年

 

「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並びに来朝す、時に武内宿禰が命じ、諸韓人らに池をつくらせる、因りて以って池の名を韓人池と号す」

 

ここで、高麗人を百済人・新羅人と共に韓人としている。高句麗系流民が百済・新羅以外の韓人域に小国を作り、高麗と称していた可能性を示唆している。

 

このように、神功紀・応神紀の「高麗」は南韓の高句麗系小国と考えられる。その高麗が倭国と日本貴国の連合軍に降伏した。そして倭国から朝貢を受ける権利を譲られた日本に高麗が朝貢した可能性がある。即ち、神功紀の三韓征伐は史実の可能性がある。

 

日本書紀は二つの高麗を断りなしに並記している。嘘を言っているわけではないが「強国高句麗が日本に降伏・朝貢した」という誤読を誘導している。

 

以上、「二つの高麗」説を紹介した。     (本文に戻る

 

 

31話   注    了 

 

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