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             第 22 話  二つの「百済」の離婚と再婚

 

前話で「百済の飛び地」に言及しました。ついでなので、混乱している「百済史」について整理しておきましょう。

「百済史」には朝鮮史書系と中国史書系があり、「建国年」は200年も違います。「百済王統」も「百済国の場所」も違うのです。一致するのは西暦500年頃から滅亡する660年までです。

 

簡単に整理すると、原初の百済は「漢人王を戴く扶余族(ツングース系)が遼西(中韓国境)から南下して朝鮮中部で建国した百済国」です。しかし、まもなく、漢人系と扶余系は別れて(離婚)、漢人系は遼西に戻り(北百済)、扶余系は南韓に移動しました(南百済)。二つとも同じ「百済国」を名乗り続けました(謂わば離婚したが同姓)。

 

北百済はいち早く漢に朝貢して宗主国と自認し、南百済を分国とみなしました。

南百済百済王家の宗家を自認し、北百済を分家とみなしました。しかし、お互い友好国として盛んに交易をしました。

北百済が北魏と高句麗に挟まれて滅亡し、北百済は南百済に逃れ吸収され(謂わば再婚)、南百済が唐に朝貢して宗主国を引き継ぎました。

 

国際的認知(中国認知)は北百済、倭国・日本が付き合ったのは南百済です。

 

ここでは、前話の図を利用して、なぜ両者はそう主張するかを跡づけたいと思います。


● 整合する筆者解釈
そこで、二つの「百済史」が整合する筆者の解釈を先に説明し(下図、前話に同じ)を使って、それを中国史書・朝鮮史書がどう取捨選択をして、上記の違いに至ったかの観測を加えます(今回は論証を目的としませんので、史料・資料は略します、前話史料参照)。 

(1)BC18年、扶余系の温祚(おんそ)が(呉越の呉@の末裔、遼西の呉王族Aを担いで)馬韓の地Bに百済を建てた」(三国史記)とあります。朝鮮史書の建国譚です。

三国史記では括弧は省かれています(理由は(3) )。


(2)
 中韓国境では漢人王を頂くことで漢圧を避けるメリットがあったのですが、追われて移った先の馬韓では漢人王を担ぐ利点は低かったのでしょう、AC200年頃までには百済国の王は扶余系に代わったようですC(推定)。これに不満を持ったか、(漢人系王族の)仇台なる者が馬韓を出てその北の帯方Dに百済国(同名別国、仮称北百済)を建てました(周書・隋書、中国史書の百済建国譚)。自分こそ正統な百済王統である、と主張して国を割ったと思われます。

 

百済史の真相  赤は漢人系、黄は扶余系 

百済史の真相  赤は漢人系、黄は扶余系 

 

(3)  仇台は楽浪大公孫氏に気に入られてその女(むすめ)を妻とし、後に楽浪太守に任じられましたE(隋書)。

 

(4)  370年頃、高句麗の拡大南下に悩まされた百済(北百済)は故地の遼西Fに移りました。ここで百済(北百済)は扶余を攻めて拡大し、南百済に先んじて中国朝貢を重ねて、130年程栄えました。隣の遼西呉国・南韓百済(南百済)との交易で栄えたのがこの頃です(応神紀・雄略紀)。

 

(5)  500年頃、北百済は高句麗と北魏に挟まれて衰弱し、逃れて南百済に吸収されました(謂わば再婚G。一方、遼西呉国は北魏の中で600年頃まで続き、中韓中継交易で栄えました(雄略紀)。

 

(6) 北百済を引き取った南百済武寧王は、北百済の「中国朝貢権」と北百済の「王統王姓余氏」を引き継ぎ、強大となって6160年間栄えました(500660年)。

660年、百済は唐・新羅に敗れ、滅亡しました。

 

以上を年表で表します。赤は中国史書の「百済伝」、茶は朝鮮史書の「百済国史」です。

    

       

 

● 朝鮮史書の主張

朝鮮史書(三国史記)は後年の中韓対立からくる中国嫌いから、(1)(6)を一貫した南韓百済として記述し、北百済の(4) の中国朝貢記事と王姓余氏をつまみ食いして南百済の歴史に追記しました。

その政治的史書の政治的解釈は現在も韓国史学会に引き継がれ、自国の客観的な史学検証を阻んでいます。

 

● 中国史書の主張

一方、中国史書は「(2) (5)の北百済」と「朝貢と王姓を引き継いだ(6)(南百済) 」をつないで一統の百済として記述しています。

北百済の出自に漢人がからんでいること、中国に朝貢し続けたことを評価して北百済を「百済」と認定しているのです。

それは「中華思想」という偏見にとらわれた史書であって、現在も続く「中韓史学界間の政治的史学論争」の解決を阻んでいるのです。

 

● 日本書紀は「北百済」や「遼西呉国」を記す

日本書紀の時代は南朝宋に朝貢していましたから、中国文物を珍重していました。それらの輸入は「遼西呉国 → 北百済 → 南百済」のルートが多かったので、応神紀や雄略紀からにはそれらの国が出てくるのです。その記述は南百済の「北百済は自国の飛び地」という主張を受け入れてはいますが、政治的解釈ではなく隣国との経済的視点に従っているだけに自然であって、上述した解明を阻んでいません。

 

ところが、後世の日本史学界は中韓史学論争に惑わされて、未だに上記解明に至っていないのです。例えば「雄略紀に出てくる『呉国』とは南宋のこと、中国の別名だ」とする解釈が未だに通用しています。

日本書紀の方がそれより公正な視点「『呉国』とは百済の分国(北百済)の隣の遼西呉国だ」を示しているのです。

 

 

22 話     了    (文章推敲更新 2023.08

 

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