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 21 話  「呉服」の「呉」

 

 

「呉服」という言葉は年配者とって懐かしい言葉ですが、着物を着る人も少なくなり、呉服屋さんも少なくなりました。今のうちに再確認しておきたいことがあります。それが首題です。

 

日本では呉服の「呉」は「中国の同義語」のように使われてきた、と思う人も多く、「ああ、三国志の呉、大陸の海寄りのあのあたりの地名だろ」と知っている方も少なくありません。

 

そう、それはそれで千年信じられてきた、というのも事実ではあります。

でも、なにか違う、本当はどうなのか? 

意外に明確な実像、「呉服の呉」の「直接的語源」の扉が「日本書紀」の鍵で開きます。ご期待ください。

 

● 応神紀の「呉」  4世紀

日本書紀には「呉」字が34回出てきますが、主なものは、

「応神紀の漢人技工招聘(しょうへい)譚(6回)」と「雄略紀の漢人技工招聘譚(17回)」です。

 

応神紀の「呉」は説明も無くいきなり出てきます。

 

応神紀三七年(390年頃)

「(半島からの渡来漢人の子孫である)阿知をに遣わし縫工女を求めしむ、、、」

 

まてよ、この時代に「呉国」があったなんて聞いていないから、「呉地方」の意味だろうな、それなら知っている、上海地方に何回も出てくるあの「呉地方」だろう、、、。

ところが、この文は続きます、、、。

 

応神紀つづき

「(阿知は)高麗国に渡りてに達せんと欲す、則ち高麗に至る、更に道路を知らず、高麗王は導者(道案内)を与え、是に由りに通じるを得る」

 

高麗(高句麗)の隣の「呉」?、そんなところにも「呉」の地名があったのか、、、。

ところが、たんなる地名ではないのです。この文は続きます、、、。

 

つづき

呉王、是に於いて工女兄媛、弟媛、呉織、穴織の四婦女を与えた」

応神紀四一年「阿知、より筑紫に至る」

 

「王」がいるからには「呉国」です。しかしさすが、「呉国」がこの辺にあった、と歴史書には無いのでは?、、、・

 

● 遼西の呉 (3・4世紀)

ところがあったんです。史料は、、、

 

梁書百済伝

「晋(265420年)の世に高句麗は既に遼東を略有し、百済はまた遼西・晋平二郡の地を拠有する、は自ら百済郡を置く」とあります。

 

ここで「遼西」とは遼東半島の向こう、渤海の北岸にそそぐ「遼河」、その西領域を指します。

 

 

AM21-1.JPG

遼西の呉国と百済

 

ここに「高句麗の向こうに百済(領)があり、隣接して(友好的な?)呉国があった」とあります(400年頃)

 

えっ、「百済」は半島の南でしょ! 飛び地? 別の国?

 

この歴史は面白いのですが複雑です。簡単には後述しますが、ここでは「百済の飛び地」、仮称「北百済」で話を進めます。

 

この呉国と百済の古い関係の記録が10世紀の古辞書「広韻」にあります。

 

   (青字をクリックで注へ)

「(呉越の戦い(前5世紀、@下図)に負けて北に逃げた一部の)呉王族の子孫 が今の 百済扶余王 だ」

 

どうやら遼西は「(南から流れ来た)呉王族と(北から南下した)扶余(ツングース系)が出会った故地A」だったのです。

 

この地は漢の外縁で、扶余族が漢の圧力をかわす為に漢人王(呉王)を戴いたのでしょう。「呉王/扶余族」の関係がこの地でできたようですその後その一部は南下して馬韓に「百済」を建国しB、次第に馬韓にとって代わりました(三国史記BC18)。

 

しかし建国後、百済の王はしだいに「扶余系」に代りC、不満を持ったか「呉王系」は分かれて北の帯方に同名の「百済」を建国D周書百済伝200年頃、楽浪E晋書百済伝372)を経て故地の遼西に戻ったのですF(梁書百済伝400年頃、上掲)。それが上図の北百済です。

 

呉と扶余の出会い  呉系は赤、扶余系は黄_

AM21-2.jpg

呉と扶余の出会い  呉系は赤、扶余系は黄

 

北百済は390年頃〜500年頃まで続きましたが、衰弱して南百済に吸収されました(梁書百済伝502)。隣の呉は更に600年頃まで続いたようです(後述)。

 

● 雄略紀の呉   呉織・呉財

日本書紀に戻ります。

 

百済と北百済の間では長年交易があったようで、倭国・大和にとって、「遼西呉 ⇔ 北百済(遼西) ⇔ 百済(南韓) ⇒倭国⇒大和」経由で南朝系の晋・宋の(のちに北朝系の北魏も)文物が入って来ました。百済が「呉物」と珍重したので、それを再輸入した倭国でも「呉物(くれもの)」が中国物(からもの)の代名詞になった由来です。それが日本書紀に出てくるのです。

 

呉織(応神紀三七年条390年頃、高麗経由で呉王提供・雄略紀)・呉琴(雄略紀、百済経由の呉国人が伝承)・呉財(欽明紀、任那経由)など。

 

呉国、高麗国、並びに朝貢す」(仁徳紀五八年条)。定説はこの「呉」を中国と解釈しますが、さすが当時の強国東晋や高句麗が倭国に朝貢するはずはありません。この呉国は(小国の)遼西呉国です。

また、この高麗国は高句麗ではなく、伽耶の中の同名の小高麗国(分国)です(別名「小水貊」、高句麗は別名「狛」(三国史記高句麗伝)、坂田隆説)。

 

小国からの献上を「朝貢・貢献」とする例は記紀に多く見られますが、大国(中国・高句麗)には使っていません。

 

雄略紀

461年「呉国が遣使貢献した」

464年「使いを呉国に遣わす」

468年「使いをに使わす」

470年「使いが呉国使と共に帰国、呉の献ずる手末の才伎、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等をひきいて住吉津に泊まる」(漢人技工の大和招聘譚)

 

● 続いた呉との関係

北百済が弱体化し南に逃れて南百済に吸収されて無くなりました(上述、梁書百済伝502年)。その後も「呉」との交流はつづきました。

 

「百済が任那日本府に呉財を贈った」(欽明545年)。

「百済王、命じて(使いを)呉国に遣わす、その国(呉国)乱れ有りて入るを得ず」(推古紀609年)。

 

入国できなかったが、呉国があったことの証拠です。隋はこの頃安泰でしたから、呉=隋ではありません。隋の小属国群の間の小競り合いでしょう。

 

「百済より帰化する者あり、呉橋構(つ)くらす、、、(別の百済帰化人)呉に学び伎(くれ)楽の舞を得たり、という」(推古紀612年)

 

唐の路に使いす、、、難波より発し、、、筑紫より発し、、、」(斉明紀659年)

 

この最後の記事は、倭国遣唐使に大和随行使が同乗したことが解っていますが、「呉唐」は倭国が遣唐使の目的地の一つに「呉」を加えたようです(しかも最初の訪問地)。倭国はまだ「南朝」にこだわって、唐訪問に先立って遼西呉国を訪ねてみようとしたのでしょう。この時は暴風に阻まれ、唐に直接行った、とあります。

その後の「呉」は不詳です。

 

以上、日本書紀の「呉」は(ほとんど)すべて「遼西呉」を意味します。

 

「遼西呉⇒百済」が中国物の交易窓口だったことから、「呉」字が記紀に多出して、後世広く中国物の代名詞になったことは事実です。それが現在でも日本語の中に出てくる由来です。

 

それに、、、「遼西の呉」も更に遡(さかのぼ)れば「呉越の呉」に由来する、といいました。それなら「呉服の呉」も遡れば「中国の呉」もあながち間違いとは言い切れません。

 

しかし、「呉服」の「呉」の「直接的語源」は「遼西の呉」だったことは論証できたと考えます。この論証が既にあったか、、、浅学の筆者は「無かった」と思い、一つの試説・一つの史実として認められれば幸いです。

 

 

21話      了

 

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