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第 8 話 「壇ノ浦」と「人麻呂の歌」
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の「壇ノ浦」を楽しまれましたか? 私にはいささか手みじか過ぎて不満でした。
この様な「関門海峡と天皇」の関係譚は記・紀(〜持統)以後ではこの「壇ノ浦と安徳天皇」だけです。持統以前の記紀には少なくありませんが、「持統に仕えた柿本人麻呂」の歌にこの「関係譚」の一つを詠った歌があります。見てみましょう。
万葉集三〇四番歌 詞書 柿本朝臣人麿の筑紫国に下りし時に、海路にして作れる歌二首(の二首目)_
「大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)と蟻通ふ島門(しまと)を見れば神代し思ほゆ」
この歌の解釈は諸説ありますが、筆者解釈を以下にまとめました。詳細は下の各語をクリックして筆者解説を参照ください。
「大君(神武天皇)の遠い朝廷(東征準備で滞在した関門海峡の宮)と、蟻(の様に舟が列をなして)通る島門(=関門海峡)を見れば神代(神武以前)が思われるなあ」
まさに「関門海峡と神武天皇」の関係譚ですね。
人麻呂が海路で筑紫に近づいた時に見える島門(海峡)は関門海峡です。「壇ノ浦」を過ぎて「現関門橋」辺りが最も狭く、潮が速い難所です。地元の慣れた舟頭が潮目の頃合いに漕ぎだすと、後ろに多くの船が蟻の列の様に連なって、必死でついて行きます。遅れて潮の流れが反転しては向こうに行き着けないからです。
その彦島に「神武が東征前に七年居た阿岐(あき)の宮」(古事記)があった可能性があります。彦島(ハート型、下図)の愛称は「トンボのトナメ(交尾)はハート形」からの連想で「蜻蛉(あきつ)島」でしたから。広島の安芸はここからの地名移植ではないかと考えます。_
また次の「東征準備に八年居た吉備の宮」(古事記)も彦島にあった可能性が高いのです。なぜなら、彦島北隣の現「竹の子島(たけのこじま)」は古事記の「吉備児島(別名建児島(たけのこじま)」に比定できますから、彦島に吉備の地名があったと考えます(古事記の島生み第三譚の検証から)。また、神武東征はそこから「速吸門(はやすいのと)」を通って始まりますから(古事記)、吉備の宮は関門海峡の西、彦島でしょう。この「吉備」はのちに岡山地方に地名移植されたようです。
では、なぜ人麻呂は「海峡と彦島を見れば神代を思う」のでしょう?_
人麻呂は知っていたはずです、関門海峡とニニギが関係したことを。海峡の対岸は門司ですが、ここは「神武の曽祖父ニニギが海路天降ったゆかりの地、日向(筑紫の日向)」です(記紀)。「筑紫の日向の小戸」(神代紀)という表現もあり、日向は小戸(現下関市彦島小戸)を含んでいました。海峡の両側を支配することが海族の重視するところでした。
ただし、ニニギはそこから更に陸路南征して、宮崎に「日向」を地名移植しています。
更にさかのぼると、ニニギの曽祖父イザナギとイザナミはオノゴロシマと彦島で島生み(国生み(本居宣長解釈)、入植地獲得)しました。「彦島」とする根拠は「島生み第二譚(大八島、おおやしま)」が完了すると、「(オノゴロシマに)帰る途中で小六島造った」とあります(古事記、島生み第三譚、前述注6)。その「六島」は「彦島の北隣の竹の子島を始点とする北西六島」に比定論証できるからです。
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「古事記島生み第三譚の六島」は「関門海峡北西の小六島」と比定される
その「オノゴロシマ」は「(彦島の)吉備国の隣の嶋からオノゴロシマが見える」(古事記、仁徳の歌)とありますから、オノゴロシマは彦島に隣接する小六島の先にあるはずです(イザナギ島生み第三譚)。それを探すと「沖ノ島」しかありません。「オノゴロシマは宗像沖ノ島」が導かれます、古事記の主張ですが。
柿本人麻呂はこれらを全てそらんじていたでしょう。なにしろ、仕えた持統の夫(天武)は沖ノ島を管理した宗像氏の娘を最初の妃とし、古事記編纂を命じたのですから。
「彦島から六島の先に見えるオノゴロジマ」とは「沖ノ島」しか無い
我々が「壇ノ浦」と聞けば走馬灯のように「義経の八艘飛び」「安徳天皇入水」「平家滅亡」が思い出されます。
同じように、柿本人麻呂が「島門(関門海峡)」見れば「神武の東征前の宮」と「ニニギの日向(門司)・イザナギの禊(みそぎ)をした小戸(彦島)・その北西小六島(古事記島生み第三譚)・その先の孤島オノゴロシマ・その先の高天原など、関門海峡に絡む神代の物語のかずかず」が走馬灯のように思い出されたのでしょう。
第 8 話 了
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以下、第8話 注
●注1 諸説 (戻る)
定説は「大君=持統」、「遠の朝廷=遠い大和朝廷出先の中心=筑紫大宰府」、「蟻通う島門=大宰府に皆が通う山門(やまと)(根拠不明)」、「それを見ると神代の昔のことが思われるなあ」とされてきた。
一方、九州王朝説は「遠い朝廷=倭国」と決めつけているから、「大君は倭国王」、場所は「倭国朝廷=太宰府」、として疑わない(古田武彦)。
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●注2 大君(神武天皇) (戻る)
(1) ここの「大君」は「大和王権天皇」である。「倭国王」ではない。なぜなら、人麻呂は天武・持統の関係者である。天武は大和朝廷の天皇である。根拠は「天武が編纂を命じた古事記は大和王権史」にある。天武・持統の関係者(人麻呂)が「大君」と歌えばそれは「大和王権天皇」である。「倭国王」ではない。「表向きは持統、裏の真意は倭国王朝へ馳せる想い」という解釈(九州王朝説派の一部)は可能だが、以下項目と整合しない。
(2) 神代紀のイザナギ〜ニニギは関門海峡と関係が深いが、「神」とされているから「大君」ではない。
(3) 人代紀の天皇紀で「遠の朝廷=九州の宮」とすれば神武即位前紀・神功紀・応神紀・仁徳紀・安閑紀〜皇極紀など多い。だがどれも「博多」でも「大宰府」でもない。「神代」と関係するのは「神武即位前紀」しか無い。
結論として、関門海峡と神代に関係する大君(天皇)は神武しかいない。 (戻る)
●注3 大君の遠の朝廷 (戻る)
神武は東征の後大和を治める大君となった。東征の前にも宮(朝廷、彦島域の吉備・安芸)があった(記紀)。だから「大君の遠(とほ)の朝廷(みかど)」とは、「神武大君の大和から遠い彦島の朝廷(宮)」である。神武が「蜻蛉(あきつ)のトナメ」と歌った彦島であろう(神武紀末尾)。そこは神武から高天原につながる神代への入口である。
結論として「大君の遠(とほ)の朝廷(みかど)」は「神武の彦島の宮」である。 (戻る)
●注4 阿岐(あき)の宮 (戻る)
古事記 「神武天皇は、、、東に行かむと思い、即ち(宮崎)日向より発ち、、、筑紫に幸す、、、阿岐国、、、七年、、、吉備に、、、八年、、、速汲門にて、、、(大和へ)」 とある。
定説では神武紀の「安芸」と共に広島とされるが、彦島安芸から広島への地名移植と考える。なぜなら、関門海峡・彦島からの地名移植は他にも多いからだ。彦島は古名「二名伊予島」とされ、その中に古代部落国家として「伊予」「讃岐」「粟」「土左」などがあったとされ、また難波・安芸・吉備・豊浦も彦島かそれに近い。後世それらが主として人の移動(倭国の領主派遣など)と共に地名移植が進んだと考えている。 (戻る)
●注5 吉備の宮 (戻る)
古事記 「神武天皇は、、、東に行かむと思い、即ち日向より発ち、、、阿岐国、、、七年、、、吉備に、、、八年、、、速汲門にて、、、(大和へ)」とある。
定説では岡山の吉備とされるが、岡山吉備が彦島吉備からの地名移植と考える。なぜなら、彦島からの地名移植は他にも多いからだ。例えば、彦島は古名「二名伊予島」とされ、その中に古代部落国家として「伊予」「讃岐」「粟」「土左」などがあり、後世その地の一族が各地に移住して地名移植が進んだと考えている。 (戻る)
●注6 島生み第三譚 (戻る)
古事記の「島生み神話」は三譚からなる。以下の検証は三譚目が中心である。
(1) 第一譚はオノゴロシマ)の誕生譚。 要約すると「天つ神がイザナギ・イザナミに島生みを命じたので、二神は沼矛(ぬぼこ)を用いて拠点となるオノゴロシマを創った」とある。いかにも「空想的神話」で比定地論議の対象外とするのが常識。
(2) 第二譚は「大八島(おおやしま、列島)」の誕生。島生み神話の主要部で、列島各島と考えられている。通説では淡路島・四国(伊予二名島)・九州(筑紫島)・隠岐・壱岐・対馬・佐渡・本州(豊秋津島)に比定する。いかにも「現実に合わせた後知恵話」とされる。
(3) 第三譚は、「イザナギ・イザナミが島生み巡りから還る時に六島を生んだ」とある。六島とは「吉備兒嶋・小豆島(あずきじま)・大島・女島(ひめしま)・知訶島(ちかのしま)・両児島(ふたごしま)」とある。これら六島の比定島は従来から種々提案されている。通説では六島バラバラに西日本各地の小島に比定されている。
日本書紀にはこの古事記島生み三譚目に相当する記述は無い。いかにも「ついで話」で真面目に検証されてこなかった。しかし、この六島探しが解読の糸口となる。
「六島」探し 十候補の比較検討
通説の「六島それぞれが各地バラバラに比定島がある」とするのは正しいか。島生み神話第三段には、「二神が大八島(おおやしま)を生んだあと『然る後(オノゴロシマに)還(かえ)ります時、、、次に、、、次に、、、』と生んだのが六島ある」とある。どこに還ったのだろう。還った先で今度は神々を生んでいるから「オノゴロシマに還る時」であろう。即ち「六島は次々と還る方向を示してまとまっている」「六島は大八島とオノゴロシマの間にある」と示唆されている。
そこで「まとまった六島」の条件に合う小島群を各地に探してみる。範囲は五島列島から「摂津難波沖」までとした。
これらの詳論は省くが、「関門海峡北西」のみが残る。その様な提案も既に江戸時代からあるが、検証は十分でない]。筆者はそれらを参考にして、精査した。
六島の比定候補を各地の「関門海峡北西の島々」の検証
「古事記の六島」と比定島候補「関門海峡北西の六島、次図 @〜E」を対応させて検討する。原文にある「亦の名」は貴重なヒントとなる。
(1) 「吉備児島(きびのこじま)、亦の名建日方別(たけひかたわけ)」の候補: @現在名「竹の子島(たけのこじま)」(下関彦島(ひこしま)の北西隣)、現在名の由来は「亦の名」に由来する「建児島(たけのこじま)」と考えられる。
(2) 次「小豆島(あずきじま)」の候補: A現在名「六連島(むつれじま、島形があずき形)」(東)と「馬島(うましま)」(西)とが並んでいる。((1)の北西隣)。応神紀の歌に「あずきしま、いやふたならび」と歌われ二つで一つと数える。「二並び」については後述する。
(3) 次「大島(おほじま)、亦の名大多麻流別(おおたまるわけ)」の候補: B現在名「藍島(あいのしま)」((2)の北西隣)、「仲哀紀」にある「阿閉(あへ)島」をこれに比定する説がある(中世〜江戸期考証、(6)の文献に同じ)。古代に「おほ〜」から「あへ〜」に変化し、それ以後現在名「あい〜」につながった可能性がある。
(4) 次「女島(ひめしま)」の候補: C現在名「女島(めしま)」((3)の北西隣)」、同名だから否定のしようがない。
(5) 次「知訶島(ちかのしま)、亦の名天之忍男(あめのおしお)」の候補: D現在名「男島(おしま)」(女島(4)の隣)、「亦の名」の「男」に由来すると言える。(4)と「二並び」でもある。
(6) 次「両児島(ふたごしま)」の候補: E現在名「蓋井島(ふたおいしま)」((1)の北西)、二つの峰をもち、比定地候補としてふさわしい。明治期以前にこの島が「古事記六島生み神話の両児島だ」という考証があった。
以上、古事記の「六島」と「関門海峡北西の島々」は全体として数・地形・順序共に整合し、すべての島名が現在名と整合する点を持つ。これほどの整合性は先に挙げた他候補には見られず、「最有力な比定島候補」とするに足るレベルと考える。
(戻る)
●注7 「吉備」はのちに岡山地方に地名移植 (戻る)
仲哀紀・神功紀・応神紀・仁徳紀には、関門海峡・彦島に絡んで地名「土左國・粟國・伊予國・讃岐國」が繰り返し記載されているから、これら時代にその地名はそこにあり、後世四国に地名移植された可能性がある。地名移植は遠方に移植された場合、相当期間並存することが多く、移植時期が特定し難い。また、段階的である場合も多く単純とは限らない。
「吉備」については「関門海峡吉備 (地名)→ 神武東征に従った吉備出身者(人の移動) → 吉備津彦(四道将軍、地名の人名化) →吉備津彦の西征(人の移動) → 岡山の地名「吉備」(征服、人名の地名化)」など複雑な多段階が想像される。(戻る)
●注8 日向(筑紫の日向) (戻る)
従来、「日向は宮崎」が定説化されてきたから、それ以上の検証が十分されてこなかった。だが、きちんと検証すると「千年の誤読」が解けてくる。以下は拙著「高天原と日本の源流」(原書房)第一章・第二章での検証の要旨。
「日向」について記紀には「ニニギは葦原中つ国(あしはらなかつくに)を支配するために日向(ひむか)に天降った」とある。
(1) まず「日向」を探す。これに先立つ古事記のイザナギの禊(みそぎ)譚に「小戸」「二門(小門(おど)と速吸名門(関門海峡)」「竺紫の日向の小門(おど)」の表記があるから、「日向は彦島の小戸(おど)を含む九州」と考えられる。下図を提案する第一の根拠である。
(2) 次に、「葦原中つ国」を捜す。ここを支配する拠点がニニギの天降った「日向」であるから、下図「日向」の近くを探すと、小倉市に「足原・中津口(あしはら・なかつくち)」の二地名がある。地名の由来は未確認だが、ニニギの日向はこの辺り、とする第二の根拠とする。「葦原中つ国=列島」とする定説は後世の拡大解釈と考える。
(3) ニニギは天降った「日向」を次のように評価して詔(みことのり)している。
「此の地は @韓国(からくに)に向ひ、A笠沙の御前(みさき)に真来(まき)通り、B朝日の直(ただ)刺す国、C夕日の日照る国なり、かれ、此地(ここ)はいと吉(よ)地(ところ)と詔す、、、」(古事記)
ここで「B朝日の直刺す(たださす)国」とあるのはただの朝日ではない。ただの朝日ならどこでも差す。「直(ただ)刺す」とは「朝日の最初の一点から鋭い光線が真直ぐに刺す」の意味であり、海族(うみぞく)イザナギ一族にとってそれは「水平線まで晴れている海から昇る神々しい朝日」であろう。
彦島小戸・門司の近くで東の海を望めるのは「戸ノ上山の峰」である。この峰から東の海を望むと100qに島が無く、朝日は海の水平線から上がる。「日向は朝日の直刺す国」の条件を満たす。いささか「奇説」に聞こえると思うが、「日向=門司」の根拠第三としたい。まだまだ根拠が続く。
戸ノ上山からの「日の出」の写真である。真東100km以内に山や島が無い。その向こうに瀬戸内海の島々があるはずだが、遠くかすみ波間に沈む。朝日は海から出る。
門司(筑紫日向)の戸ノ上山から見た朝日は海から出る(「日向」の語源)
(4) 次の「C 夕日の日照る国」とはただの夕日ではない。ただの夕日ならどこでも照る。「朝日の直(ただ)刺す」と対だから意味がある。門司の峰から真西の方向は100km以内により高い山や島がなく、夕日は海に沈む。「海から出た日が海に戻るまで一日最も長く照らされる地」を表現したと解釈できる。
九州では、この門司の峰が「海から出る朝日と海に沈む夕日」を見られる唯一の地、「日向」の唯一の比定候補地である。第四の比定論拠としたい。
(5) 古事記には「ニニギは日向の高千穂峰に天降りしたあと、国探しの遊行の旅に出た、その始点は二上峰」とある。「二上峰」は「二つの戸(海峡)の上の峰、即ち「戸ノ上山と足立山」(前掲写真)ではないだろうか。そうであれはこの「二上峰」が「高千穂峰」となる。「高千穂峰」にはいささか似つかわしくないが神話には誇張が多い。 弱いが、第五の根拠としたい。
(6) 更に「@ 韓国(からくに)に向かひ」とあるが、対馬交易海族(うみぞく)が「韓国(からくに)」と言えば、鉄などの主たる交易相手「金官国(後の伽耶(かや))」であろう。金官以西の半島南沿岸は当時「半島倭国」であって韓国(からくに)ではない(魏志韓伝、後述)。日向(門司)は金官韓国(きんかんからくに、釜山(ぷさん)西の金海市)に直接向き合い、背後に瀬戸内海市場を持ち交易基地としても栄えるだろう「いと吉(よ)き地(ところ)」なのである。博多周辺と金海市の間には対馬が横たわり直接向き合っていない。宮崎や南九州は「韓国(からくに)に向かい」と云えない。第六の比定論拠である。
(7) 「A 笠沙の岬」とはどこか? 日向に天降る途中、笠沙の御前(みさき)でサルタヒコの出迎えを受けたという。対馬南端に笠の形の山(神山)がなす岬(神崎(こうざき))がある。日向(門司)に直行できるこの「対馬南端の岬=笠沙岬」であろう。日向=門司の第七の比定論拠である。
(8) 他の説を検証する。
定説は 「日向=宮崎日向」であるが、ここも確かに「朝日が海からでる地」であるが、夕日は海ではない。韓国に向いていない。
九州王朝説では「日向=博多」とするが、博多周辺の峰に登っても朝日は海ではなく「山の端」から出る。ここは「日向」の候補地ではない。また、博多近くにはイザナギの「筑紫の日向の小戸」の「小戸(小海峡)」は無い。小戸神社はあるが、江戸時代の創建だ。
他説に「日向=彦島」説(西井健一郎)もあるが彦島の峰は低く、門司側の山に遮られて海から出る朝日は見られない。ここは「日向」の候補地ではない。「日向=小倉」説(前原浩二説)の提案もあり参考になるが、近世の埋め立てを除くと、小戸と離れている。論証が無い試案に留まる。
以上まとめると、記紀の「ニニギが天降りした日向」は「門司+彦島」である。
ただし、ニニギは二上峰(戸ノ上山と足立山か)を始点として国探しに出て宮崎に落ち着き、日向・高千穂・笠沙の岬の地名を移植した。これも含めて天降りとするのが定説である。
●注9 宮崎に「日向」を地名移植 (戻る)
ニニギは「笠沙の岬」(対馬南端神崎(こうざき、笠形の山))経由で海路天降って、「筑紫の日向」(門司+彦島)の「高千穂峰」(門司戸ノ上山か)に宮を建てた。
ニニギの天降り(海路、青点線)と南征(陸路、茶点線)
紀には「その後の遊行の状は、、、」とあって(恐らく十数年後、ニニギの成人を待って)、陸路宮崎までの「国探し」(南征)の行程が記されている。ニニギは宮崎吾田(あた)で落ち着き、そこに「日向」「笠沙岬」「高千穂」を地名移植した。地名移植なら、「宮崎日向は韓国(からくに)に向いていない」も、「近くに小戸(小海峡)が無い」も許される。例えば、カナダ中部のロンドン市の近くにドーバー海峡が無くても許される様に。もっともこの市の近くにテムズ川はあるが。地名移植とはそうゆうものだ。
この「南征」は陸路なので「天降り(海降り、海路)」でないが、これも含めて「ニニギが宮崎日向に天降った」とするのが定説である。 (戻る)
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●注10 蜻蛉(あきつ)島 (戻る)
彦島は下関と小門(おど)海峡で隔てられた小島で、二つの海峡で囲まれた(環濠で囲まれた)守り易い地だった。
曲がりくねった小海峡(小戸・小門)を境とする彦島
そして、この形はある秋の風物詩を連想させた。
秋の風物詩「蜻蛉(とんぼ)のとなめ(交尾)」
その風物詩とは「蜻蛉(とんぼ)のとなめ(交尾)したまま飛ぶ、愛らしいハート型」だった。
彦島の愛称は「蜻蛉(あきつ)島」
そこから、彦島の愛称は「蜻蛉島」だった、それが神武紀の故事となり、舒明歌となったと考えられる。 (戻る)
●注11 仁徳記の歌 (戻る)
仁徳記
「淡道(あはぢ)嶋を見むと欲(おも)ふと曰(のたま)いて幸行(みゆき)の時、淡道嶋に坐(いま)して、遥に望みて歌ひて曰く『おしてるや(押照、難波にかかる枕詞とされる)、なにはのさきよ、いでたちて、わがくにみれば、あはしま、おのごろしま、あじまさのしまもみゆ、さきつしまみゆ』乃(すなわ)ち其の嶋より伝いて、吉備の国に幸行(みゆき)す」
この歌に「オノゴロシマが見える」とある。そこで、「どこから見たのか?」が問題だ。九州生まれで九州難波大隅宮で崩御した応神天皇を継いだ仁徳はのちに河内に東征するが、この歌は九州難波高津宮(仁徳紀)に居た頃と考えられる。この歌の「淡道嶋」は「イザナギ・イザナミが島生み(国生み、植民)した最初の島」で、吉備の国も含めて彦島近辺の地である。
(戻る)
●注12 「オノゴロシマ」は「宗像沖ノ島」 (戻る)
「オノゴロシマ」比定説は幾つかある。通説の一つは「岡山県淡路島と紀伊半島の間の海峡に浮かぶ島」説、九州王朝説では「能古島(のこのしま、博多湾内)」説(古田武彦説)、「小呂島(おろのしま、沖ノ島の南隣)」説などがある。「所詮神話」「空想上の島」と真面目に検討されていない。それが常識である。
しかし、「島生み第三譚」で「(オノゴロシマへ)還ります時」に彦島に隣接する「吉備児嶋(現在名「竹の子島」)」から始まり、「次」「次」と順次北西に向かって六島創った、とあるから、オノゴロシマは六島の更に北西にある。そして、そのオノゴロシマは「関門海峡近くの(古)淡道島」に居る仁徳天皇が「オノゴロシマみゆ」と言っている島である。六島の北西のその先にあって、見える範囲の島は「宗像沖ノ島」しかない(70km)。「天気がよほど良ければ関門海峡から沖ノ島が見える」とは地元の人の多くが証言している。以遠の対馬・釜山は波間に霞んで見えない(150km〜)。他の比定候補「能古島」「小呂島」は途中の島や山で遮られて関門海峡近くの仁徳天皇からは見えない。これらは「古事記のオノゴロシマ比定候補」からは除外するしかない。
以上、「六島」の比定から「オノゴロシマは宗像沖ノ島」の比定が導出される。
また、「オノゴロシマ」は絶海の孤島でなければ「初めての島生み神話の舞台(起源説話)」とはならないだろう。沖ノ島から周りの島々へは60km〜70kmあり「天気がよほど良くなければ隣の島も見えない絶海の孤島」である。だから「島生みの舞台」という発想につながる。「能古島(博多湾内)」には絶海の孤島というイメージが全くない。
「オノゴロシマ」は神聖な島とされたであろう。沖ノ島は今でも神聖な島である。宗像大社の沖津宮が祀られ、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点もの宝物が見つかり、そのうち八万点が国宝に指定されている。「倭国王家歴代天王の墓」という説も納得性があるような神聖な島である。
沖ノ島が世界遺産として登録され、多くの解説がなされるが、「大和朝廷が古代から祭祀した」とする解釈も少なくない。「これだけの宝物を奉納できるのは大和朝廷しかないだろう」という想像からだ。しかし、記紀は沖ノ島を含む宗像神社を「宗像三女神はスサノヲの子で筑紫の胸肩君等が祭る神」(紀神代上六段本文)として他人事扱いだ。それなら「宗像の属する倭国の一部」「宝物は倭国の奉納」「祭祀は倭国内ニニギ系祭事司」と考えるのが妥当だ。
天武が宗像氏から妃を迎えるなど倭国/宗像氏と大和王権/倭国内ニニギ系祭事司との関係は断絶していない。にもかかわらず沖ノ島の祭事に大和王権の関与が希薄なのは沖ノ島が倭国王家の墓所だった可能性がある。墳墓と違って開放型墓式の為、秘所とされたのではないだろうか。古墳時代・弥生時代を更に遡る暦年の秘宝が連続して存在することは、途中の盗掘が無かったこと(考古学)、管理が一貫して続き管理者交代が無かったことを示す。卑弥呼の倭国統一前後には倭国大乱や混乱期があった(魏志倭人伝)。その間も一貫して管理し得たのは、一帯の海域を掌(たなごころ)の様に支配した海族(うみぞく)イザナギを祖とし、後に倭国王となって一貫して管理し続けた倭国王家の存在と継続性を想像させる。
ここまでの結論として「記紀(古事記島生み譚三段・応神紀・仁徳記の歌など)に拠る限り、オノゴロシマは宗像沖ノ島」と比定できる。 (戻る)
第 8 話 注 了
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