目次へ 前話へ 次話へ__________________________________
第 9 話 「柿本人麻呂」 はペンネーム
前話で人麻呂の歌を挙げたので、その人物像について話題を提供したいと思います。
「万葉集第一の歌人といえば柿本人麻呂」、これには古今異論はありません。ですが、この歌人には「不詳」のみならず「疑問」も多く、諸説ふんぷんです。その中にはペンネーム説もあり、その中のある一説(坂田隆説)が「他を圧倒する論考」と私は支持しています。
● 坂田隆 説
その一説とは、「柿本人麻呂は天武天皇の孫、山前(やまさき)王のペンネーム」 です。その根拠は、
万葉集423番歌の題詞に「、、、作者 山前(やまさき)王」とあり、左注(さちゅう)には「右一首或云 柿本朝臣人麻呂作」とあります。ここでは歌の内容には触れません。注目点は「柿本人麻呂は山前王である」と示唆されている点にあります。
山前王は「天武の子忍壁(おさかべ)皇子の子」で実在人物です。ここから「柿本人麻呂=山前王の別名、ペンネームである」という仮説が生じます。
● 皇位継承問題
これがこの仮説のポイントになります。人麻呂の作歌時期は689〜700年頃の10年間です。そして、この10年間はなぜか「天武崩御686〜文武即位697年の皇位継承で暗闘のあった時期」と一致します。
持統から文武への皇位継承候補者
山前王にはそれを解く鍵がありました。山前王が王族として仕えた持統天皇は、天武崩御後皇后として4年の称制に就きました。持統は子で継承順位1位の草壁(くさかべ)皇子を皇太子としましたが、継承順位2位ながら評判の良い大津皇子の台頭を危惧し、謀反容疑で自害(686年)に追い込んでいます。しかし、草壁が病死(689年)してしまい、そこで草壁の子、孫の軽皇子の成長するまで自ら即位(689年)して隙を見せずに皇位を守りました。
山前(やまさき)王の父忍壁(おさかべ)皇子は大津皇子の自害、草壁皇太子の病死などで皇位継承順位が4位から2位に上がったので、大津皇子の様に暗殺されることを恐れたのでしょう。この時期からは暗闘を避けて隠遁生活したらしく、公式には出て来ません。仙人の形を詠んだ歌を献じられています(万葉集1682番)。子の山前王も政治に距離を置いたようで、歌(3首程残っている)以外の動向記録はありません。ペンネームで歌詠みに没頭したようで、柿本人麻呂の名で草壁挽歌を殯(もがり)歌が残っています。人麻呂の作歌活動の始まりです。それは文武天皇(軽皇子、草壁の子)即位(697年)まで続きました。
この期間の最後、文武即位(697年)で継承問題が終了すると、忍壁皇子は政治に復帰し、太政官の統括職などで重んじられています。山前王の昇位も復活して更に20余年生きています。一方、人麻呂はこの期間の最後に辞世の句を残して死んだことになっています。二つの「10年間」の一致が仮説のポイントです。
● 筆者確認
山前王の生まれは不祥ですが筆者の年齢推論によれば、「壬申の乱」(672年)の頃誕生、「大津皇子の悲劇」当時14歳です。「それに続くかもしれない自分たち父子の皇位継承に絡む危険を如何に避けるか」、その為に「持統・草壁・高市・軽皇子らを神扱いにして忠誠を尽す宮廷歌人一筋のふりを貫くこと」となったのでしょう。持統から王族への贈歌や王族の挽歌の作歌依頼を受けた、と考えます。
山前王は17歳でデビュー作「持統最愛の草壁皇子の挽歌」を柿本人麻呂の名で作ったことになります。この年齢は早すぎる感がありますが、その後の人麻呂の並外れた歌人才能からは十分有り得ると考えられます。
10歳頃から、倭国滅亡で天武を頼った逃避歌人などから倭国歌集の写しに接する機会もあったでしょう(天武は親倭国派)、何百編の歌を一度読んだら忘れない程の記憶力」があって、持統から王族への贈歌や王族の挽歌の作歌依頼を受けた、と考えます。藤井棋聖のような天才だったのでしょうね。
● この説の妥当性_
この仮説は一編の歌の左注一つが頼りで、他に明確な根拠は無いとしています。従って「唯一の解」とするには論拠としては弱い面もあります(代作説など)。しかし坂田は詳細な検証によって、「この仮説を否定する根拠は無い」としています(活用できる史料の範囲では)。これは論理学でいう「二重否定は真」から、それなりに真としても良いでしょう。ただ、かっこが付くから直感(主義)論理とされ、やヽ弱いですが。
従来の「柿本人麻呂論」の多くが実在人物としているから、ペンネームでなら起こり得る数々の不整合(例えば複数の辞世の句の地名が異なる)に分析者は翻弄されて、仮定と想像を重ねた空論に終わっています。それに対し、ある歌の一片の左注から整合性の極めて高い人麻呂の全体像を引き出す坂田の解析・論証力に筆者は深い敬意を覚えます。
● 人麻呂歌の複雑さ
この仮説が正しいとした上で人麻呂の歌を見直すと、納得できる視点がパッと開けることを提案したいと思います。
人麻呂の歌には微妙な複雑さがあります。古田武彦は「柿本人麻呂は倭国歌人だった」とする推定説をとり、九州王朝説の多くがこれに従っています。その説の根拠は無いのですが、そう感じられるふしはあります。歌の一部に微妙な(屈折した)感情を感じる人が多いからでしょう。
山前王であれば、その屈折した感情は理解できます。
祖父の天武(大海人皇子)は幼年から大海氏(ホアカリを祖とする倭国系豪族)に預けられ武人教育を受けたと考えられ、その影響で「天武は親倭国・反唐派」でした。孫の山前王に「天武の親倭国、倭国を偲ぶ気持ち」があっておかしくありません。
一方、持統はもちろん天武系主流でしたが、即位後はしだいに父「天智の親唐路線」に傾いていきました。持統に仕えた山前王はそこを配慮して、人麻呂名「天智近江朝を偲ぶ歌」(万葉集266番「近江の海、夕波千鳥、、、」)を詠う理由があったのです。
このような「天武(壬申の乱では反天智)」と「持統(天智回帰への変化)」の間で揺れる山前王の屈折した感情、これが人麻呂の歌に「公式の意味の裏にどちらとも読める謎が隠されているような微妙な感じ」がにじんで、「柿本人麻呂歌の奥行の深い味わい」の源泉となったのではないでしょうか、私にはそう思われます。
第 9 話 了
ページトップへ 目次へ 前話へ 次話へ________________________________________________
以下、 第 9 話 注
●注1 諸説 (戻る)
持統朝で各地を転勤した官人説、草壁皇子の舎人説、宮廷歌人説など。九州王朝説では「倭国朝廷歌人」説がある。
経歴は『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注など、それに基づく後世の引用歌集などが資料とされるが不詳とされる。
概説はwikipedia/柿本人麻呂などを参照されたい(開いたサイトを閉じるとここに戻る)。 (戻る)
●注2 ペンネーム説 (戻る)
柿本人麻呂を解明しようと、似ている名前の歌人の別名、今で言うペンネームを含む諸説がある、例えば、「猿丸大夫=柿本猨(かきのもと の さる)=柿本人麻呂」説(梅原猛ら)など。ただ、「似ている同時代歌人」という以外の根拠が無く、支持されていない。また、「題詞の作者名」と「左注、或に曰く、の作者名」が異なる例は多いが、多くは「同一人の変化した呼び名」と説明できる例、説明できない多くは「建前作者名と代作作者名」と片付けられている。 (戻る)
●注3 坂田隆説 (戻る)
「人麻呂は誰か」 坂田隆 新泉社 1997年
●注4 ペンネームを使った動機 (戻る)
なぜペンネームを使ったか?皇位争いから父子共に暗殺をされるのは避けたい、だから追従歌でもなんでも厭わないで作歌する。だが、もし仮に父が皇位を継ぐようになれば、自分は太子だ。その時には本名から「御用追従歌詠み」を消し去りたい。だからペンネームだ。ペンネームだから、位が低い「朝臣」でよい。本人は王族だからどんな高位の王族にも同行でき、高位の王族の葬儀にも参加できる(草壁皇子の挽歌を作っている)。だが、挽歌は低位の御用作歌者「柿本朝臣人麻呂」の名で、と考えたのではないだろうか。この解釈は、人麻呂の様々な謎を整合性よく解消する。
その十年が「柿本人麻呂の歌人活動の十年」と一致する。これが仮説を整合よく説明できる。 (戻る)
●注5 筆者推論 (戻る)
山前王の生まれは不祥だが、筆者推論を記す。壬申の乱(672年)では天武が約41歳、高市(第一皇子)19歳(扶桑略記等から)、忍壁(第四皇子)17歳(655年生)としても大きくははずれていないだろう。忍壁17歳時の子(672年生)が山前王(柿本人麻呂)とすると、その作歌活動期(689〜700年頃)は17〜28歳となる。この作歌年齢は早すぎる感があるが、16歳以下で忍壁が子を作るのは考えにくいし、これより後年の子では「16歳以下の子が挽歌を作歌依頼された」となり、それも考え難い。この辺の歳回りに絞られる。山前王は17歳で持統最愛の草壁皇子の挽歌を依頼されて柿本人麻呂名で作ったことになる。この作歌年齢は「実人生体験に基づくものではない」ことを示している。生まれつきの感性と、豊かな先行歌知識、そして必死の知恵と努力の結晶だろう。動機としては「大津皇子の悲劇」(当時、山前王14歳)、「それに続くかもしれない自分たち父子の皇位継承に絡む危険を如何に避けるか」、その為に「持統・草壁・高市・軽皇子らを神扱いにして忠誠を尽す宮廷歌人一筋のふりを貫くこと」となったのだろう。それを支えた知恵と、それを可能にした「天武一族の限られた一部に与えられた倭国歌集閲覧の機会」(推定)、それを有効活用できた「10歳頃(倭国滅亡直後)から、何百編の歌を一度読んだら忘れない程の記憶力」があって、持統から王族への贈歌や王族の挽歌の作歌依頼を受けた、と考える。もちろん、「それほど歌が好きで、作歌に没頭できた」ということでもあるが。 (戻る)
●注6 直感(主義)論理 (戻る)
古典論理学では、二重否定のそれぞれが真という前提で真とされるが、直観論理(直感主義論理とも)ではそれぞれが真の証明があれば真、とする。差がよくわかりませんが、前者は論理に重点を置き、後者は証明に重点を置いた論と思われます。人間社会で絶対真理などめったに無いですから、証明は難しいです。
こちらを参照ください。 wikipedia直感主義論理 ここに戻るには開いたサイトを消してください。 (戻る)
第9話 注 了
ページトップへ 目次へ 前話へ 次話へ________________________________________________