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10 話   「日本」は何と読む?

 

 日本書紀では「日本」字はすべて「やまと」と振り仮名されています。原文は漢文で、振り仮名はすべて後世です(奈良後期〜平安時代、青字クリックで注へ。「はじめに 解題」参照)。  

 

原文の「日本」は神代紀からあり、変化して様々の内容で書かれていますから、様々に読まれたはずです。それを「すべて同じ振り仮名」では誤訓が生じます。「千年の誤読」の始まりです。

 

結論から述べますと、紀の「日本」は230カ所余あります。

(1) 古くは3世紀までの「日本(ひもと)」(2カ所、意味は「東方地方」)。

(2)  4世紀頃、それを半島貿易などで漢語化して使い(産地など)、使わせ(倭国軍傘下東方軍など)、長く使われた「日本(じつほん)」(約100カ所、ほとんど半島征戦・外交関係・海外史書引用、意味は「列島の東方国」(見做し国名))。

(3)  倭国滅亡(7世紀後半)後の天武時代に、昔からの「やまと(夜麻登など)」が「倭(やまと)」に改字され(古事記)、その一部が日本書紀で「日本(やまと)」と再改字されたもの(100余カ所、ほとんどが天皇名の一部、例えば日本武尊(やまとたけるのみこと)など)。

(4)  「総国日本」の意味で20カ所程あります(遡及表記・和語読み不明も含め)。

 

それらの変化と違いは、紀の後世振り仮名が「すべて『やまと』と読め」とした結果、そして後世がそれを鵜呑みにしたので、訳がわからなくなってしましました。

 

その結果、現在も学会の定説は、

701年までは『倭(やまと)』、701年に改号・改字『日本(やまと)』があって、国関係・天皇名関係は遡及改字された。それまで『日本』字は使われていなかった」としてきました。鵜呑みの結果の誤説です。

逆に、7世紀後半まで「倭(やまと)」の読みはありませんでしたし、改号ではなく建国、「倭国滅亡と日本国建国」です。これも振り仮名誤読の例ですが、、、。

 

近年、701年前の海外新史料に時々「日本」が出ます(例えば百済人祢軍(でいぐん、人名)墓誌678年)。その度に大騒ぎされる有様です。そんな定説派は「倭」と「日本」を書き分け並記する「雄略紀五年条461年」や「斉明紀659年」をどう説明するのでしょうか?

自国名の読み方なのに、研究界が「原文と後世の振り仮名の齟齬(そご)」に無頓着なのは学者さん達の怠慢です。

 

「日本に住んでいながら、ボーっと生きてるんじゃねーよ!」とチコちゃんにどやされますよ

 

●  イザナギの「日本(ひもと)」

時代的に一番古い「日本」の使用例はイザナギです。「神武が(大和の)丘でこの地を秋津洲と名付けた、昔イザナギがこの国を日本は浦安の国云々とのたまわった」(神武紀末尾)とあります。

 

イザナギの時代に漢字が使われたはずは無く、後世の当て字です。では何の当て字でしょう。「やまと」ではありません。大和に「浦」はありませんから。「ひもと」でしょう。なぜなら、この神武紀では東征の出発地「日向(ひむか)」と到着地「日本」が対で語られているからです。イザナギの本拠は宮崎日向ではなく「筑紫の日向(の小戸、下関彦島小戸)」です(神代紀)。ここは「東の海から出る朝日を迎える地、ひむか」です。「日本」は「浦安」ですから「東の朝日の出る本(もと)の地、東方地方、瀬戸内海」です。その読みは「日向」と「日本」が対ならば「ひむか」の対「ひもと」と考えられます。

 

イザナギの「日本」は「東方(ひもと、浦安)地方」の意味

 

「ひもと」は神武以前からの古い呼び名、瀬戸内海(浦安)やその向こう「大和」も含む漠然とした呼び名、「他称」です。地名でも国名でもありません

 

● 「ひもと」の漢語化「日本(じつほん)」 

「ひもと(東方・近畿)」と同じ概念の漢語「日本」が垂仁紀(4世紀)以降の半島関連記事に現れます半島諸国の王族が「日本国」と呼び、認識している記録が複数あります。

九州の人々が半島と交易などをする時に物産産地など列島東方を指す「ひもと」を「表意漢字表記」して漢語「日本」を造語したと考えられます。

また、倭国軍/東方軍による半島征戦で倭国が東方軍を神功・応神・仁徳に任せ「日本軍」と地元軍に紹介し、そう呼ばせたようで、東方軍も自分たちを「日本」と自称しました(神功紀、日本貴国)。東方軍が大和軍だけでなく、吉備・近畿・北陸・東国等の広域軍だったからでしょう。

その結果、半島人にはあたかも一つの国のように見做され、次第に「日本国」と認識されたようです(見做し国名)。必ずしも大和王権が広域「日本」を支配していた訳ではありません。 

 

● 漢語「日本」は半島で(のみ)使われ続けた 

半島では7世紀まで「倭」と並んで「日本」は使われ続けました。倭国・日本連合軍が半島で征戦や外交を続けたからです(360年頃から200年以上、神功紀・応神紀・雄略紀・継体紀・欽明紀)。

 

この時代の前半は、紀に出る「日本・日本国」の使用者は殆ど百済王・新羅王ですから漢語系です。後半はそれを受けた列島日本の半島での自称が増えます。漢語系自称ですが、国内でどう読まれたかは不詳です。多分、呉音系の「にちほん」「にほん」でしょう。

 

● 文武の「日本(じつほん、漢語国号)」

文武は697年に即位し、701年に改めて「建元して大宝元年とした」とあります(続日本紀、「建元」は新国家「建国」の意味)。

 

この時の建国国名「日本」が注目点です。国名はもちろん唐と戦った「倭国」でなく、まして唐の嫌う「大倭国」(第1話参照)でなく、唐が受け入れるであろう漢語「日本国(じつほん)」です(孝徳紀・斉明紀)。「やまと」の改号でなく、そのような新国名で新建国することが唐との関係を新構築する上で欠かせないと判断されたのでしょう。

 

文武建国の漢語国号が「日本」に決まる過程は、唐の「遠交近攻策」に始まります。唐は「倭国とは戦う、日本国とは友好」と斉明に伝えて来ました。「日本」という「列島東方地方名(見做し国名)」の代表を「やまと」と見做して「やまとだけでなく、東方諸国がまとまって倭国から離れろ」と促したのです。その誘いに窮した孝徳(崩御)、乗り損ねた斉明(崩御)・乗った天智(改号)・反発した天武(改号破棄)・乗り遅れたかと危惧した持統・文武(遣唐使)など紆余曲折はありましたが、701年文武は国名を「日本」として建国しました。

 

 

● 国号「日本」の和読「やまと」 

国号「日本」は外交向け漢語としては701年ですが、和語国名(読み)の定めはありません。日本書紀の後世振り仮名「日本(やまと)」が「公認に近い和語国号制定」と考えるしかありません。

漢語「日本」は「総国日本」の意味ですが、和語「やまと」は「新国都国・新列島宗主国」で意味が違います。違うということは訓読(漢語と同意の和語読み)に該当しません。「大和王権が新列島支配者」を宣言する政治的な振り仮名です(偽訓)。

 

日本書紀の振り仮名「日本(やまと)」は奈良時代の「大和朝廷による列島支配権を強化する意図」があったことは確かです。それも歴史の一つと認識しつつ、しかし「本来どう読まれたか?」も研究すべき一面、として提案した次第です。

 

 

 

10 話     了

 

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●注1  振り仮名の時期   (本文へ戻る

日本書紀公定の翌年から「日本紀講筵(にほんぎこうえん、貴族向け解説講座)」が開かれた。第1回(翌年721年)は公定本の披露、実質的な和読口座は2回目の812年以降(平安時代)と考えられている(釈日本紀)。

 

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●注2  神武紀末尾   (本文に戻る

神武紀三十一年条(末尾近く)

「(神武天皇)巡幸す、、、腋上(わきがみ、やまと)の丘に登りまして、國の状を廻(めぐ)らし望みて曰く、あなにや(あヽ)、國を獲(え) つること、、、うつゆうのまさき(せまい)國と雖(いえど)も蜻蛉(あきつ、とんぼ)のとなめ(交尾)の如くにあるかな、とのたまふ、是に由(よ)りて、始めて秋津洲(あきつしま)の号有り、、、昔、伊奘諾尊(いざなぎ)、この国を目(なづ)けて曰く、日本は浦安の国、細戈(くはしほこ、銅矛か)の千足る(ちだる、千もある)国云々、とのたまいき」

 

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●注3  ひもと   (戻る

(1) イザナギ一族は「交易を生業とする対馬海人であった」と検証した(第一章)。「浦安」も「細戈(ほそほこ)」も交易海人イザナギらしい言葉である。「イザナギ時代の言葉」と言った方が正確であろう[8-3] 。日本書紀は原則的には漢文で、特記が無ければ「日本」は漢語である。ただこの時代、文字も漢語も無い時代だから、口語和語に後世当て字表記したのであろう。

(2) 「日本」は「何の口語の「後世の当て字」か?「日本」と類似の「日向(ひむか)」が参考になる。なぜなら、神武紀では出発地が「日向」で、終着地が「日本」である。二つの地名は対で使われている。その内「日向」はニニギの詔で「(海から)朝日の直(ただ)刺す地」と褒め称えられた地、この時代には漢字も漢語も無いから「日向」は後世の当て字であろう。その原語は「朝日に向かう」の口語の「ひにむかう」「ひむか」であろう。「讐武伽(ひむか)」とも記されている(推古紀二十年条)。それに適合する北九州唯一の地は「門司」である。 その「ひむか」に居るイザナギが東の瀬戸内海(浦安)を「日本」と呼んだとすれば、漢字も漢語も無い時代であるから原語は「朝日の出るもとの地」の口語の「ひのもと」「ひもと」であろう。「ひむか」と対ならば「ひもと」とするのが妥当だ。

(3) 地図を見れば明らかだが、門司から大阪への最短航路は、最初の100kmは島に遮られることもなく真東に直航、その後は島々を避けてジグザグだが、概ね東北東である。「日向(門司)」に居るイザナギには「浦安の国」は視界の果てまで真東ひもとの先にある。「日本ひもと」は文字通り「真東の地」の意味で使われている。九州視点の他称である[8-5]

 

以上から、イザナギの「日本」は「ひもと(東方、和語)の地」を指す北九州視点の地域名で、他称である。国号・国名ではない。

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●注4   半島関連記事    (戻る

森博達は「日本書紀の謎を解く」中公新書 1999年 の中で「日本書紀編者は引用する朝鮮史書の漢文について、原文尊重から(例え誤りがあっても敢えて)訂正・改変していない」と述べている。それに従って、まず「日本」について検討する。日本書紀の海外史料の引用文や海外王の云った言葉の「日本」は少なくない

垂仁紀二年条「意志富加羅国の王子、日本国に聖皇ありと聞きて帰化す」

神功紀摂政四六年「百済王聞く、東方に日本貴国有り」

応神紀二十八年条「高麗王の表に曰く日本国に教う」

雄略紀五年条「百済の加須利君、、、其の弟の軍君に告げて曰く、汝宜しく日本に往きて天皇につかえよ」(前掲)

継体紀三年「百済本記云う、久羅麻致支弥(くらまちきみ)が日本から来た、というが未詳」

継体紀六年「百済が遣使貢調す、、、国守穂積臣押山奏して曰く、此の四県は百済に近く連なり、日本に遠く隔たる、、、」

 

いずれも倭国や大和と交流する朝鮮の王が「日本」と使っている。これらの「日本」は日本書紀の改変「やまと、倭(やまと) → 日本(やまと)」(当て字変更)と考えられてきた。しかし、これらは元が漢語のはずで、「日本(やまと)」の用法ではない。漢語「日本」は、倭国が漢語で大和・近畿を指す時、「倭国からみて東方の国、日本(漢語)」を古くから使っていたことに由来するようだ。大和も朝鮮と付き合う時は本来他称であるこの漢語「日本」を自称として使った。なぜなら、当時自称の「やまと」に対応する漢語は「日本」以外に無く、「やまと」の当て字(表音漢字、万葉仮名)すら定まっていなかった[]。これに対応して朝鮮諸国の「日本」呼称は古い。神功紀の「貴国」は肥前にあったが、大和・近畿軍の兵站基地的性格から「日本貴国」と呼ばれたようだ。「日本」は必ずしも統一王権とか国ではなく、「倭国の東方分国」として、もしくは「近畿・大和諸国連合」のような、特に対海外活動でまとまる時、あるいは「日本貴国」・「任那日本府」に象徴される「非倭国の求心力」が必要な場面で自称・他称として使われたと考える。

 

また推古紀に「隋煬帝の国書に『倭皇』とあり、それに対応した返書で『天皇』と自称した」とある。さすがそれは書紀編者の改変でないと考えられる。隋書は倭国王の自称に合わせて「俀(イ妥)王」としているから、推古を俀(イ妥)以外の倭国の王「倭皇」と持ち上げているのである。「遠交近攻策の裏外交」である。

 

ただ、「天皇」が雄略期に国内的に使われたかどうかは不明だ。なぜなら、雄略天皇が「大王(おおきみ)」と表記された金石文(江田船山古墳・稲荷山古墳の鉄刀銘、後述)があるからだ。   (戻る

 

 

 

10 話  注   了

 

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