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第 11 話 卑弥呼は九州、邪馬台国は大和
NHKテレビ番組「邪馬台国サミット」(2021年)で紹介された諸説の一つとして「上野武説」(上野武「女王卑弥呼の『都する所』」日本放送出版協会 2004年)が話題になりました。
この説を一言で表現したのが今日の首題です。対立する「九州説」「大和説」の両方の顔を立てたような、中途半端な「妥協説」と受け取られて双方から相手にされていません。
しかし、この説の論証は確かで、筆者はその大半を支持して更に論考を進め、自著 に一章を加えたことがあります(2015年)。それを簡明に紹介したいと思います。
出発点は「魏志倭人伝は『卑弥呼の邪馬台国』と、なんとなくそう読めるが、しかしそうとは書いていない」という事実です(曖昧記述)。
検証を進めてみましょう。
● 魏志の構文、「邪馬台国の向こうが国境」
ここでは上野とは別の論拠を提案し、「女王国卑弥呼と邪馬台国女王は別の国・別の女王」を論証しましょう。注目するのは、倭国の「国境記事」の構文上の位置です(番号は筆者)。
@ 冒頭文「倭人は帯方の東南大海中にあり、山島に依りて国邑をなす、、、」。注目点は、魏志倭人伝は冒頭「倭人は、、、」で始まる「倭人伝」、です。
A 里程記事 「(帯方郡より)、、、始めて一海を度(わた)る千余里、対馬に至る、、、(以下女王国への里程記事が続く、魏使の行程報告記事)」
B 日程記事 「南投馬国に至る、水行二十日、、、南邪馬台国に至る女王の都する所水行十日陸行一月、、、」。
ここに出る「邪馬台国、女王の都する所、水行十日」とあるだけで、卑弥呼との関係には言及が無く、曖昧です。この「距離を日程で表す記事は倭人からの伝聞記事か 」とも考えられています。
C 国境記事 「女王国の東、海を渡ること千余里、復国有り、皆倭種なり、、、」
ここでは、A里程記事(卑弥呼女王国まで)とB日程記事(女王の都する邪馬台国)の後にC「国境記事」が出てきます。つまり、「卑弥呼女王国と女王の都する邪馬台国は同じ倭国内」と読めるのです。「倭国の女王卑弥呼と邪馬台国女王は同一」と明記はしていないのに、構文上「同一」という解釈に(なんとなく)なります。
これは「九州説」も「大和説」も、魏志に拠る限り同じ解釈になり、次の論争「それはどこか?」になる訳です。
● 魏志倭人伝の底本「魏略」
「魏志倭人伝」(265年〜)の検証には「魏略」の検証が欠かせません。「魏略」(〜260年頃)は魏時代に各種・各地報告書を基に書かれたと考えられています。散逸して引用逸文しか残っていませんが、その逸文から「魏志」の「底本・原典」と考えられています。
● 魏略の構文、「冒頭に国境文」
魏略は「倭(国)は、、、」で始まる「倭(国)伝」です。その構文を魏志の@〜Cに対比させて検証しましょう。
@冒頭文+続けてC国境記事 「倭(国)は帯方の東南大海中に在り、山島に依りて国を為す。海を度(わた)ること千里、復国有り、皆倭種なり」(漢書地理誌倭伝 顔師古(唐代の注釈者)の注が引く所の魏略)
A里程記事「略魏志里程記事Aに同じ」(「翰苑(かんえん)」引用逸文より)。
B日程記事 「魏略逸文に見つかっていない」
上野らは詳細な魏志・魏略の分析から「魏略にはB日程記事(邪馬台国記事)」は無かった」としています。筆者もそれを支持します。
その理由として上野は「邪馬台国情報は魏略(260年頃)と魏志(270年頃)の間に晋にもたらされた情報と推察し、「卑弥呼女王国は九州、邪馬台国は海の向こうの女王、それは台与しかいない。台与は九州から大和に遷都したと推測するしかない。」としました。「台与東遷説」です。
しかし、筆者は「卑弥呼の時代は列島を巻き込む纒向大宗教活動の時代、邪馬台国情報を持っていない訳が無い。その情報は魏使に伝わった、それでも魏略はその情報を魏略倭国伝に記述しなかった。なぜなら、邪馬台国は倭国外(海の外)だったから。その根拠が魏略冒頭文である。」と検証しました(次節)。
また、倭国は台与の後も九州に本拠とし続けていますから(第1話)、上野の「台与東遷説」は採りません。
● 魏略の編集方針
魏略は逸文しか残っていないことを考慮しても、構成が明確です。
冒頭文を「倭(国)は、、、」とする「倭(国)伝」とし、「倭国女王は卑弥呼、その国都は女王国、支配域は九州北半分、海を渡ると倭種の別の国」と魏の冊封国認定を裏付ける公式文書です(上野の異論についてはこちら)。
「魏に朝貢した倭(国)」「呉の太伯の後と自称する倭が魏に朝貢した」を喧伝したい三国志(魏呉蜀)の魏の立場です。
魏略の記事は「倭国内諸国及び隣接国」に限られ「倭国外で、隣接国でもない邪馬台国は不記載」、これが魏略なのです。
● 魏志の編集方針
これに対し、魏志は「晋」(魏の次)の立場で書かれ、魏略を原典としながらも対象を「魏の認定した倭国」に限らず、倭国外の倭種にも広げ「倭人は、、、」で始めた「倭人伝」です。
魏志は魏略のみならず多くの史料に基づき、「倭」を時間的にも地域的にも幅広く記しました。時間的には「漢の時 → 今(魏)」、印綬の前後で「倭 → 倭国」「王 → 倭王」の変化を記し、地域的には九州女王国はもちろん、更に国境外に言及し、「女王国の東、海を渡ること千余里、又国あり、皆倭種。又侏儒国(しじゅこく)有り、その南に、、、又裸国(らこく)有り、黒歯国(くろはこく)復在りその東南船行一年にして至るべし、、、」と倭国外の倭種の情報もあらいざらい採用しています。
ただ「卑弥呼女王国(A日程記事)」と、系統の違う「邪馬台国、女王の都する所(B日程記事)」を同類視してC国境記事(海が国境)の前に挿入しました。これによって、「倭国女王卑弥呼の都は邪馬台国」(かもしれない)と読める様になった訳です。陳寿のこの第一の誤解が後年の混乱の源ですが、倭人伝を旨とする陳寿にとっては論旨に関係しない些事でしょう。
それは目的が「晋の冊封認定に資する為の資料集め」だからでしょう。「魏の認定した倭国」だけでなく、倭国外倭種情報も含め、倭国・倭人国が晋に朝貢願いしてきた時に晋帝に助言する為です。
事実、魏志の予見通り266年に台与が朝貢遣使をしています。晋は朝貢を認定しています(晋書266年)。
● まとめ
「魏略は邪馬台国を知っていたが書かなかった」とする筆者の解釈は「卑弥呼・台与は九州」です。それは私説「台与系の後、倭国はホアカリ系九州倭国となって680年頃まで続いた」と整合します。
「邪馬台国は大和か?」、、、恐らくそうでしょうが、「卑弥呼・台与の居ない邪馬台国」に興味はありません。
● 後続史書の誤解
魏略文と倭人情報をかき集めて倭国内外区分の意識なく並べた陳寿の「倭人・倭人国・倭国の曖昧な使い分け」は晋の「倭人伝」の目的からは自然ですが、後世の「倭国をどう伝えるか、の諸史書」の誤解を誘導しました。
後漢書の「九州説」
魏志の後に完成した「後漢書」は、魏志の「曖昧文章」を正すつもりで「卑弥呼は『九州の邪馬台国』に都する」と明記しました。第二の誤解です。その結果「邪馬台国は九州」説の根拠の一つとなりました。
隋書の「邪馬台は大和」
後世の「隋書」に「倭国は、魏の時邪靡堆(やまと)に都す、即ち魏志の謂う邪馬台なるものなり」とあります。隋使が九州倭国と大和推古を訪ね、大和の主張「邪馬台国は大和」に影響されたのでしょう。しかし、「魏時の倭国の都は九州卑弥呼女王国」だから、その意味では第三の誤解ですが、「邪馬台国大和説」の根拠の一つとなっています。
以上、熱帯夜に向けた睡眠薬の提供でした。そろそろねむくなりましたでしょうか、、、。
● まだ足りない方への ふろく 台与遣晋使に邪馬台国の随行使?
台与の倭国遣晋使(266年)の記事は「倭(国)の女王の貢献」と表現されています(晋の起居注266年条、神功紀引用)。一方、別資料に「倭人来りて方物を献ず」とあります(晋書武帝紀266年)。
定説は「これら二つの記事は同一事績」と片付けていますが、正しくは別の遣使記事です。なぜなら「貢献」は「朝貢国」に対する正式表現、「献ず」とのみあるのは「未だ朝貢していない国・随行使などからの献上」の慣用表現です。遣中国使は容易ではありませんでしたから「台与遣晋使(朝貢使)に随行した未朝貢倭種の遣使(最大戸数国の邪馬台国?)」の可能性がある、と指摘できます。
随行使の由来は、卑弥呼が魏帝に「其れ(倭)種人を綏撫(すいぶ)し、、、」(魏志倭人伝)と、倭諸国・倭種の指導者として倭国外倭人の面倒を見ることを諭されていることに始まるようで、倭国はしばしば遣中国使に大和随行使を伴っています(雄略紀・孝徳紀・斉明紀)。
この随行使が纒向に前方後円墳の着想を持ち帰った可能性もあります。なぜなら前方後円墳は晋尺を使用し(森浩一「古墳の発掘」)、晋尺が伝わった可能性のある倭・倭人の遣晋使はこれが最初で最後ですから(次は413年遣宋使)。
台与に遣晋使派遣を進言したのは「台与を共立した倭諸国の筆頭『ホアカリ系遠賀川倭国』」でしょう。ホアカリ倭国は「纒向連合国の随行使」を連れていくことも台与に進言したかもしれません。念頭には大和に建国したばかりのニニギ系神武(ホアカリ倭国の兄弟国)があったはずです。
目的は「台与倭国は倭国外邪馬台国も影響下におきつつある」と晋帝に誇示することでしょうが、もう一つの下心は九州で「台与倭国内でホアカリ倭国が主導権を取る事」、そして大和では「纒向連合国(国都は邪馬台国)を台与倭国の影響下に置くことに神武国が仲介主導権を取る事」でしょう。
いずれにしても台与と纒向を仲介できる兄弟国でした。
その兄弟国が東西の仲介役から東西それぞれでの主導役にすすみ、「台与系をうけついだホアカリ系九州倭国」(100年後)と「その倭国の兄弟国として仲介役・代理役として広域日本国(見做し国名)を主導したニニギ系神武大和王権」に成長したと考えます。
「夢の実現」は「夢を見る」の第一歩が無ければ始まりませんね。
第 11 話 了
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●注1 自著 (戻る)
「倭国通史」橋通 原書房2015年 第二章「『倭国女王卑弥呼』と『邪馬台国女王』は別の国、別の女王」
その紹介はこちら
https://wakoku701.jp/index2.html
(戻る)
●注2 魏志倭人伝 (戻る)
中国の正史『三国志』中の「魏書」の東夷伝倭人条の略称 280年-290年頃陳寿の編。
●注3 曖昧記述 (戻る)
歴史学者の西嶋定生はこう言っている。「どうしたことか、卑弥呼は邪馬台国の女王であると理解されている。しかし 『魏志』倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国の女王でぁると いう記述はない。またそのように解釈しなければならない叙述もない」と(西嶋定生「倭国の出現――東アジア世界の中の日本」東京大学出版会1999年)。
同じ魏志倭人伝を参照して後続の「後漢書」は「、、、その大倭王は邪馬台国に居る。楽浪郡のとりで(帯方郡の南端)は、その国を去ること万2千里(魏志に同じ、九州)」としている。漢人の専門家ですらそう誤読する曖昧記述なのである。
それは「曖昧記述」というよりは、書き手(倭人を対象とする視点)と読み手(倭国を伝えんとする視点)で同じ文がかくも違って読まれる例、とする方が正鵠をえているかもしれない。 (戻る)
●注4 「日程記事」は倭人からの伝聞記事か? (戻る)
倭国について魏志倭人伝も研究した隋書に「夷人(倭人)は里数を知らず。ただ日を以って計る」(隋書)とある。魏志倭人伝の日程記事Bは魏使のたどった行路記事ではなく、倭人の伝聞情報と考えられている。つまり、魏使の行った卑弥呼女王国と魏使の行っていない伝聞情報の「邪馬台国、女王の都する所」は別の国・別の女王である。
●注5 魏略 (戻る)
魚豢(ぎょかん)編纂の「魏」を中心に書かれた歴史書。成立は魏末から晋初の時期(260年頃)
●注6 魏略「倭(国)は、、、」 上野の異論 (戻る)
上野はこの冒頭文について「これが魏略原文であった、と思うのは漢籍における逸文の扱い方を誤っている」としている。「この部分は魏略原文そのものではなく、唐代の顔師古が漢書地理誌に注を加えた際に引用した魏略であって、顔師古の常として理解を助ける目的のためには原文の要約・編集・省略がかなりある」とする。その根拠として、明治の碩学那珂道世(なかみちよ)の次の記述を引用している。「顔師古が他書を引くに、常に字句を節略したるにつきて思ふに、魏略の原文は、魏志にとりたるが如くありしなるべし」(那珂道世)と。上野はこれを是として
(1) 「魏略」逸文が冒頭「倭」であって「人」字がないのは、顔師古が引用する際に省略したものと考えられる。
(2) 「顔師古の引く魏略冒頭文」の「@+C」の文章は魏略原文ではない、むしろ魏志の「@+A+B+C」の方が魏略原文に近い(番号表記は筆者表記に変えた)。
すなわち、「魏略の冒頭文は魏志と同じ」と推測している。
「那珂通世(なかみちよ)」は1851年- 1908年 明治時代の歴史学者。東洋史の概念を初めて生んだとされる。「支那通史」や日本の紀年問題を研究した「上世年紀考」などを著す。
これに対する筆者の解釈を対比して示す。
(1) 「魏略」逸文が冒頭「倭」であって「人」字がないのは、上野説のような顔師古の省略でない。その理由が漢書地理志から読める。
漢書地理志
「樂浪海中倭人有り、分れて百余国を為す、歳時を以って來たり獻見すと云う、、、[師古曰く、、、今猶(なお)倭国有り、魏略に云う、倭は帶方東南大海中に在り、山島に依り国を為す、海千里を渡る、復(また)国有り、皆倭種]」
漢書地理志は人文地理志だから対象は「倭人」であって「倭(国)」が主ではない。しかし、この箇所で注釈者願師古が魏略を引用して説明したかった言葉は漢書地理志の「倭人」ではなく、自分の注釈文「今猶(なお)倭国有り」の「倭国」だ。その為に魏略の「倭(国)は、、、」を引用している。魏略が「倭人は、、、」だったら引用していない。従って、魏略冒頭文は「倭(国)は、、、」だったと断定できる。「人」字の省略ではない。
(2) 顔師古に省略や改変が多いことは上野の詳しい分析と説明から判る。また、「@+C が原文だ」との保証はない。@とCが離れていた可能性はある。しかし、だからと言って魏略原文が魏志の「@+A+B+C」に近いと断ずるのは早計だろう。
その根拠は、願師古は魏略と魏志を良く理解していてその違いも良く知る立場だから、両書にある C国境記事 の文章上の場所によって、卑弥呼女王国と邪馬台国とが同一か別国か、の違いが生じることは、十分気がついたはずだ。更に、陳寿が悩んだだろう 「 C国境記事の位置」に、顔師古が無神経であるはずがない。従って、事実は逆で「@+C」と魏略を引用紹介していることは、そうしても「魏略の原意を損ねない」と顔師古が信じていたことを示している。その様な状況は、次の二つのケースで考えられる。
(2-1)魏略原文の順が「@+A+C(海が国境)+B(海を渡り邪馬台国)」であったケース。これならば Bは国境の外で、 Cの位置が願師古の注の様に冒頭に移動されても意味が変わらないし、記事の順序としては近いところから順に記すことになるから一番素直だ。しかし、これでは倭国記事の中に「国境の外の別の国とされる邪馬台国」の記事が混在する形になり、「倭(国)は、、、」で始まる「倭(国)伝」の史書の形式にはずれる。
(2-2) 魏略原文にそもそも B日程記事 が無かったケース。事実、B は逸文としても見つかっていない。そして又、願師古注の様に「@+C+A」でも魏志の「@+A+C」でも同じ意味になり、Cの移動改変によって魏略の原意を損ねない。又(2-1)の様な国外記事混在の問題も生じないのだ。
以上から、「願師古の魏略引用の冒頭文(@+C)は魏略原文であるか、少なくも原意を損ねていない文章であり、B日程記事 は魏略にそもそも無かった」とするのが妥当である。魏略の魚豢はB の情報(邪馬台国女王)は持っていたが、「倭(国)伝」の編集方針として倭国外の情報を載せなかった、と解釈できる。 前述では「魏略には日程記事は元々なかった」ことを「仮説」としたが、ここまでに確認でき、その理由は「別の国」だったからと考えられる。
結論として、「邪馬台国は倭国の外、別の国」である。従って「倭国女王卑弥呼と邪馬台国女王は別の女王」である。
(戻る)
●注7 太伯の後 (戻る)
魏略逸文に「その旧語を聞くに(訪倭した魏使が倭人から聞いた伝承に)、(倭人は)自ら太伯の後(後裔)と謂う」
ここで「太伯」とは史記に「呉(会稽の北、上海近く)の太伯(周の太王の子)は句呉(後の呉王朝)を建てた」(史記 呉太伯世家)とある。「呉の太伯」である。この呉は春秋時代(紀元前)の呉であって、三国志(魏呉蜀、3世紀)の呉ではないが、魏が対抗心を持った呉地方(会稽、上海)に関係する。
●注7 隣接国 (戻る)
魏略逸文に出てくる隣接国は「東、千里復国有り(漢書注)」「南の狗奴国(翰苑)」「侏儒国(法苑珠林(ほうおうじゅりん)、唐代、女王国南四千里)」、いずれも「隣接国」扱いだ。「邪馬台国も隣接国か?」との疑問に対して「海(国境)を渡り投馬国を経て5千里以上あり、隣接国とはいえない」として魏略は邪馬台国を倭国伝から除外した、と解釈できる。残念ながら残された逸文だけで判断せざるを得ない。 (戻る)
第 11 話 注 了
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