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第 7 話 舒明の「天香具山」と「蜻蛉(あきつ、トンボ)島」
(5/18 更新)
持統の万葉歌「天香具山」を前第 6 話で検証しました。持統の祖父舒明天皇も「天香具山」の歌を残しています。
万葉集巻一、第二番歌、詞書「舒明天皇が香具山に登りて国見をした歌」
「山常(やまと)には群山(むらやま)あれどとりよろふ(とりわけよい)天の香具山(かぐやま)登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原は鴎(かまめ)立ち立つうまし国ぞ蜻蛉島(あきつしま)八間跡(やまと)の国は」
この歌は万葉集の二番歌、有名ですから、解説は多いです。ここでは「この歌に蜻蛉島が出てくる訳」について「私の発見」を聴いて下さい。
この歌は舒明が国見をして、「神武が大和を蜻蛉(あきつ、トンボ)に見立てて秋津洲(あきつしま)と名付けた」(神武紀三十年条)という故事を下敷きにした歌、とする定説に異論はありません。「国見歌に神武の故事から採った『蜻蛉』を詠う」のはさすがです。
しかし、定説は更に「国見をしたのは(当然)大和の香具山だ」 としますが、これには「そこから海は見えない、?はいない」、「なんで『やまと』に二種類の表記?」 など、幾つか疑問があり、異説も少なくありません。まずはこれを整理しましょう_。
(1) まず、「舒明は九州に都した」と第3話で確認しました。また、この国見の山「天の香具山」は前第6話で確認したように、「天」が付くから「大和香具山」ではありません。この山は「香春岳(かわらだけ、福岡県香春町、古名天香山(あまのかぐやま)」でした。「とりよろふ(とりわけよい)山」の表現にふさわしい山です。
写真は大正時代、香春町観光協会HP
(2) 「山常(やまと)」は国都名、「八間跡(やまと)」は国名です(筆者解釈)。その使い分けが舒明天皇の「神武を継ごう」という心意気を示しています。
(3) 「大和の香具山から海が見えないでは?」に対して、「香春岳からなら海が見えます。目をつぶれば?も目に浮かびます。」
(4) 「蜻蛉島」 私の発見
香春岳からは、なんと関門海峡と彦島(下関市)が遠望できるのです。Google Earth のお蔭で発見しました。
この発見で、筆者には「舒明がなぜこの歌に『蜻蛉島』を詠み込んだか?」が納得できたのです。なぜなら、、、
舒明が国見した香春岳から見える「島」は一つだけです。東方周防灘にはありません。見えるのは北方関門海峡の向こうの「彦島(下関市)」だけです。そして「彦島」は神武紀の「蜻蛉のトナメ」を連想させるのです。それは彦島の形にあります。
その彦島は下関と小門(おど)海峡で隔てられた小島で、二つの海峡で囲まれた(環濠で囲まれた)守り易い地でした。
曲がりくねった小海峡(小戸・小門)を境とする彦島
そして、この形はある秋の風物詩を連想させました。
秋の風物詩「蜻蛉(とんぼ)のとなめ(交尾)」
その風物詩とは「蜻蛉(とんぼ)のとなめ(交尾)したまま飛ぶ、愛らしいハート型」でした。
彦島の愛称は「蜻蛉(あきつ)島」
そこから、彦島の愛称は「蜻蛉島」だったと考えられます。それが神武紀の故事となり、舒明歌となったのでしょう。彦島は神武が東征準備をした地でした。
まとめると、舒明は「神武の大和国」を継承して、「神武の愛した天香山」で国見をしたら、なんと神武が愛した「蜻蛉島」が見えたのです。それに感動して(「神武の秋津洲(大和)」でなく)「神武の蜻蛉島(彦島)」を国見歌に詠み込んだと考えられます。
このように「舒明の万葉集二番歌は天香山(=香春岳)から国見した歌」なのです。前話の持統歌と整合することから、両歌あいまって「天香具山=天香山=香春岳」が証明された、と納得いただけたでしょうか?
更に詳しい解釈は本話の目的を超えますので、歌(下に再掲)の各語をクリックして筆者解釈を参照頂ければ幸いです。
「山常(やまと)には群山あれどとりよろふ天香具山(かぐやま)登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原は鴎(かまめ)立ち立つうまし国ぞ蜻蛉島(あきつしま)八間跡(やまと)の国は」
第7話 了
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以下、第7話 注
●注1 「山常(やまと)には」 国都名 (戻る)
この歌には「山常(やまと)」と「八間跡〈やまと〉」が使われている。なぜ、同じ歌に違う表記が出てくるのか議論がある。筆者解釈はこうである。この歌の「やまと」には「国名」と「国都名」の使い分けがあった。使い分けの例では、魏志倭人伝では「倭国(国名)」と「女王国(国都名)」が使い分けられている。隋書にも「倭国=?(イ妥)国」と「竹斯(ちくし)国 」は書き分けられている。
最初の「山常(やまと)」は国都名であろう。その理由は、「山常」は「天の香具山がある場所」であり、「国見をした場所」である。国そのものではなく、国の一場所である。「香春岳のある豊前」を国都「やまと」と呼ぶのは前例が無い。しかし、舒明は神武の国都「やまと」を豊前に遷都した、と意識して「やまと(豊前国都名)」としたのだろう。
舒明の宮は百済川だった(舒明紀)。しかし、この宮は蘇我蝦夷が自領の一角に建立して献じた宮と考えらる。舒明の本領は豊国と考えられる。それは「大和王権の九州遷都」が「勾金橋(現香春町勾金、香春岳ふもと)」で始まり、舒明も天香山(香春岳)で国見をしているから、ずっと大和王権領の中心だったと考えられる。国都「山常」は「豊前(もしくは香春町周辺)」であろう。
「八間跡〈やまと〉」は後注参照。 (戻る)
●注2 「とりよろふ天香山」 (戻る)
この語は「山常には」<「群山あれど」<「とりよろふ(=とりわけよい)」<「天香山」 の順で「天香山」を盛り上げている。「山常」は「豊前に遷した国都名」、国見山のある場所を指している。「天香山は豊前の周りの山々に比べても格別だ」の意味で納得できる。 (戻る)
香春岳(かわらだけ、左から三ノ岳・二ノ岳・一ノ岳)
写真は大正時代、香春町観光協会HP
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定説「天香具山(かぐやま)=大和三山」から海は見えませんが、「天香山=香春岳」からは海が見えます(下図↓)。そこから国見をすれば「海原は鴎(かまめ)立ち立つ」は成り立ちます。
「海は見えるが、遠くて?まで見えないのでは?」。いえ、舒明にとって「海が見えれば(子供の頃にそこで遊んだ)?が目に浮かぶ」のです。なぜなら、(九州に遷都した)安閑天皇の宮(534年〜、香春岳のふもと勾金橋、現香春町勾金)以来舒明天皇(〜641年、香春岳で国見をしている)まで、香春岳は九州内大和王権領だったからです。敏達、その孫の舒明にとって、この近くも近くの海も馴染みの場所だったからです。
(戻る)
●注3 「国見をすれば」 (戻る)
国見は自国領でするものである。舒明が香春岳で国見をしたのだから、天香山(香春岳)も「安閑天皇の勾金橋(宮、現香春町勾金、香春岳ふもと)」も自国領であろう。大和王権を継いだ舒明は「伝来の大和領・豊国領・各地の屯倉を継いで、国都を大和から豊国に戻し、そこで国見をした」と考えられる。遠い奈良の大和(旧国都)で国見をしたのではない。そこの天香具山からは海原は見えないし鴎もいない。
大和王権を継いだ舒明は「国都を大和から豊国に戻し、そこで国見をした」と考えられる。そこからは勾金橋(大和王権領)も京(みやこ、上宮王家領)も見える。 (戻る)
●注4 「天香具山」 =香春岳 (戻る)
この表記は万葉仮名で、記紀では「天香山(あまのかぐやま)」と表記され「現香春岳」である、と前話で検証した。
「神武が豊国の香山(かぐやま、香春岳)を秀山として東征後大和三山に山名移植した」、それを踏まえてその元山の豊前天香山で国見をすることに舒明は神武を継ぐ大和王権天皇としての高揚を感じ、二番歌に採用される優れた国見歌となった」と考える。 (戻る)
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●注5 「海原は鴎(かまめ)立ち立つ」 香春岳から海は見える!! (戻る)
香春岳からは周防灘(瀬戸内海)が遠望できる。舒明の祖父敏達(大和王権九州遷都時代)の政事活動の場は筑紫(倭国朝廷)だが、本領は安閑以来の豊前と考えられる。舒明天皇は幼少を豊国で過ごし、豊前海岸で鴎と遊んだ記憶があるだろう。遠望であっても海をみれば幼いころの鴎が目に浮かぶことは自然である。
定説「天香具山(かぐやま、万葉集)=大和香山(かぐやま、紀)」から海は見えませんから定説は誤りです。「天香山=香春岳)」からは海が見えます(下図↓)。そこから国見をすれば「海原は鴎(かまめ)立ち立つ」は成り立ちます。
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「海は見えるが、遠くて?まで見えないのでは?」。いえ、舒明にとって「海が見えれば(子供の頃にそこで遊んだ)?が目に浮かぶ」のです。なぜなら、(九州に遷都した)安閑天皇の宮(534年〜、香春岳のふもと勾金橋、現香春町勾金)以来舒明天皇(〜641年、香春岳で国見をしている)まで、香春岳は九州内大和王権領だったからです。敏達、その孫の舒明にとって、この近くも近くの海も馴染みの場所だったからです。
(戻る)
●注6 「神武紀三十年条 (戻る)
「、、、(天皇)巡幸す、、、丘に登りまして国の状を廻らし望みて曰はく、あなにや(ああ)國を獲(え)つること、うつゆうのまさき(せまい)國と雖も、蜻蛉(あきつ、とんぼ)の臀噛(となめ)の如くにあるかな、とのたまう、是に由りて始めて秋津洲(あきづしま)の号有り、、、」
これは故郷の地名移植(征服の宣言儀式の一種)であろう。なぜなら、神武は東征の準備に関門海峡彦島で十数年費やした。彦島は第二の故郷である。
(戻る)
●注7 「八間跡(やまと)国」 拡大やまと (戻る)
この歌の最後の「八間跡(やまと)国は」は「国名」であって、神武以来の大和盆地に加え、安閑紀の豊国・播磨・尾張・駿河などの屯倉を含む「拡大やまと」の意味が込められている。ただの「神武の大和」「近畿の大和」ではない。
そうであれば「舒明が拡大やまと(八間跡、国名)の国都の意味で豊国をやまと(山常、国都)と呼んだ」という使い分けと考えられる。
この歌では「大和王権天皇としての神武と自分」「神武の国都(大和)と自分の国都(豊国)」「大和天香具山と豊国天香山」を対比連想して詠んだと考えられる。但し、「やまと」を「国都豊国」の意味で使われた例はこの歌以外に無いようで、舒明の高揚歌と解釈するのが妥当だろう。
(戻る)
第7話 注 了
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