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第 6 話  「春過ぎて、夏来たるらし、、、」

 

 

そんな季節になりましたね

 

 「、、、白妙の衣干したり、天の香具山」、この持統天皇歌は藤原京から大和の香具山を詠ったものとされています(万葉集二八番歌、原文はこちら)。しかし、、、

 

ここでは、従来に無い解釈「この歌は、持統天皇が香具山を眼前にしつつも、幼い頃の『ある思い出の山』 を詠ったものだ」とする私なりの解釈を提案します。「天」の意味を読み解くと、神話と歴史を感じさせる味わい深い歌と解ります。

 

(藤原宮から見た香具山、橿原市観光協会HP_

 

 

持統が生まれたのは645年、「飛鳥板蓋(いたぶき)宮」ですこの宮は「九州飛鳥」(吉野ヶ里の近く)だ、と第2話で検証しました。この年この宮で蘇我氏を滅ぼした「乙巳の変」があり、皇極天皇は退位し、孝徳新天皇は河内難波宮に遷都しました。生まれたばかりの持統を連れて中大兄皇子(父)や皇極上皇(祖母)は蘇我氏支族の反撃を避けて上宮王家本領の豊前の京(みやこ、現福岡県みやこ町、下図)に移り、持統は8才までそこで育ったと考えられます。

ちなみにこの頃の歴代天皇は、推古 → 舒明 → 皇極 → 孝徳 → 斉明 (皇極重祚) → 天智 → 天武 → 持統、と続きます。

九州遷都時代の天皇宮地と蘇我氏本拠 詳しくはこちら

 

その「京(みやこ)」からわずか7km程のところに、その「思い出の山」はあります。山の名は現在は「香春(かわら)岳」といいます(福岡県香春町、地図↑)

 

香春岳(かわらだけ)  左から三ノ岳・二ノ岳・一ノ岳

(大正時代の写真、香春町観光協会HP

 

この香春岳は特徴的な三連山です。三ノ岳(左)には現在も銅鉱山・製銅所があり「奈良時代、東大寺大仏の銅はここから」との伝承もあり、副産物で金も採れます。そこから「日本書紀に『天香山、金を採りて云々』(神代紀七段)とあるのはこの山だ」とする解釈があり(検証はこちら)、この山の古代名は「天香山(あまのかぐやま)」だったと考えられます。なぜなら神代紀は概ね九州の伝承記事であり、神代に九州で金の取れた山はここ以外に古代史料はありません。神武紀東征譚にも「天香山」は「神託譚」として登場します(その本文注に、香山、これを介遇夜摩と読め、とあります)。大和到着前ですから「大和香具山」ではありません。

「香春岳の古代名は天香山(あまのかぐやま)」とすることができます

 

この香春岳の古代名「香山(かぐやま)」と「大和の香具山(かぐやま)」が同じ呼び名であるのは偶然ではありません。神武が特徴あるこの山を「先祖のイザナギ〜ニニギまでのゆかりの山」として愛で、その名を東征後に大和三山に地名移植したからだ、と考えます。

 

この香春岳一ノ岳(写真右端)は全山真っ白な石灰岩で、木が生えず遠目に真っ白な山で目立ったようです。800年頃、山腹の寺に来た最澄が初めて植林を試みた、と伝わる程緑が無かったそうです(伝承)。最近まで石灰岩採掘所がありました。

 

 

香春岳一ノ岳の石灰岩は高品質(香春町観光協会HPより)

 

 

香春岳 現在の一ノ岳は上半分が採掘されて白く見えます(Googl Earth より)

 

古代の一ノ岳は頭から山裾まで真っ白だった可能性が高いのです。それは豊前の京(みやこ)から見えた可能性もあります。現在は頭部は石灰岩掘削で半分ありませんが。

 

持統は大和香具山(かぐやま)を眼前にして、「ああもうすぐ夏だなあ、それにつけても子供の頃に見た、豊国の香山(かぐやま)の夏の白い輝きが思い出されるわ、、、山々が緑萌(も)える時期、その山だけは白い山肌がひと際目立ち、あたかも天女が水遊びのあとに緑の枝に掛けた羽衣のようだね、と祖母(皇極上皇)が話してくれたあの山を」とつぶやいたかもしれません(筆者解釈のつづきそれはさて置き、、、

 

ここで新たに提案したいのは「千年の誤読」ですそもそも、日本書紀で「香山」(11か所)に「天」が付くのは神話がらみの上述神代紀(5か所)と神武紀東征譚(4か所)だけで、大和に落ち着いて名付けた「香山」(2か所)には「天」が付いていません。神話でないからでしょう。「大和香具山」は本来は「天」がつかないのです。後世「天」を冠するのはこの日本書紀「神代紀」の影響です。

 

そうであれば、「日本書紀以前の持統の歌」の「天」がついた「天香具山」は「大和香具山」ではなく、持統が幼い頃何回も見た「神話の天香山はこれだ、とされた豊前の天香山(現香春岳)」です。

これを万葉集が「天香山」でなく「天之香具山」としたのは単に「歌は万葉仮名(和語表音漢字表記)」の原則に従ったに過ぎません。

 

以上から、持統の歌の「天香具山」を「眼前の大和香具山を美化した表現」とするのは「誤読」で、正しくは「幼い頃に見た天香山(現香春岳)を詠った歌」と理解できます。

 

その理解の上で、この歌を再度味わいたいと思います。

「春過ぎて」には持統の「13才で嫁して、妃として大海人皇子(天武)と共に戦った『壬申の乱』までの自分の翻弄された半生が過ぎた」が込められているようです。しかし「美しい春が過ぎて惜しい」という感情よりは「夏きたるらし」に期待を込めています。「まだ何も書かれていない白地(未来)に、輝く夢を描きたい、その時が来たようだが不確かな未来(白地)」への女帝としての夢と希望と不安の交錯する情感を、思い出の「真っ白い山、天香山」に込めている、奥行きの深い歌です。

 

その思いが(命がけで守り切った皇孫)文武天皇による「日本建国」(701年)とその後の発展を白地に描いて行くのです。

 

 

  第6話     了

 

 

 

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以下、 第6話 注

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●注1   原文    (戻る

万葉集二十八番歌藤原宮御宇天皇(持統天皇)代天皇御製歌

「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山」

同 原文 「春過而夏来良戸之白栲能衣乾有天之香来山」

はるすぎてなつきたるらししろたへのころもほしたりあまのかぐやま

戻る_

 

 

 

 

●注2   乙巳の変         戻る

舒明が百済宮(佐賀県諸冨(もろどみ)町、飛鳥の西10q)で崩御すると皇極皇后が継いだ。上宮大王位は皇極が引き続き兼務したと考えられる(第3話)。皇極は宮を642年肥前小墾田(元蘇我稲目の本拠)の小墾田宮に、643年肥前飛鳥(元蘇我馬子の本拠)の板蓋宮に遷した。大臣蘇我蝦夷が献上したのだろう。この後蘇我の専横がはなはだしくなり、入鹿が次代上宮大王位争いから斑鳩の上宮王嫡孫山脊(やましろ)大兄皇子の一族を襲って滅亡させた(643年)。これで上宮王家の怒りが爆発し中大兄皇子/中臣鎌足らは決起して、大極殿(肥前飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿・蝦夷を討つことに成功した。「乙巳の変(64561213日)」である。

皇極天皇は翌日には皇位を孝徳に譲位し、孝徳は蘇我支族の反撃を避けてか河内難波宮に遷都した。皇極上皇/中大兄皇子/中臣鎌足は上宮王家の本領である豊前京(みやこ)に遷り、上宮大王位を守ったようだ(次注) (戻る

 

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●注3   安全な豊前京(みやこ、現福岡県みやこ町)    (戻る

この地図で、左下にある「飛鳥」は3世紀の漢人入植地「飛鳥」が後に蘇我馬子の本拠となり、皇極天皇の宮「飛鳥板蓋宮」などがあった場所、現在の佐賀県みやき町川原(こうばる)地区。根拠は「飛鳥川原宮」(斉明紀655年)など。

 

 

 

「小墾田(おはりだ)」は蘇我稲目(馬子の父、推古の母方祖父)の本拠。元は「筑紫君磐井(大和系倭国豪族)の乱討伐」で継体天皇が収奪して屯倉とし(安閑紀534年、小墾田屯倉)、蘇我稲目に賜ったものだろう。根拠は「稲目の小墾田の家は向原(むくはら)の近く」(欽明紀552年)とあるから、現佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)の近くであろう。

この様に、これら地区は蘇我氏の本拠である。「乙巳の変」で皇極の後継天皇孝徳は河内難波宮に遷都し、蘇我宗家を滅ぼした中大兄皇子/中臣鎌足は周辺の蘇我支族の反撃に備え、皇極上皇・生まれたばかりの持統を連れて豊前京(みやこ、現在名京都郡(みやこぐん)みやこ町)へ移ったと思われる。

 

「福岡県京都郡みやこ町」とはやや違和感のある現在名だが、上宮王家の本領だったと考える。その根拠は、関門海峡を守る倭国内ニニギ王族だった上宮王が倭国から独立した際、さすが「倭国ニニギ系(祭事系)本拠の関門海峡(イザナギの天降り聖地小戸、現彦島小戸)」から追われたが、その南の自領は維持して新王朝風の漢語名称「太后・王后・登遐(とうか、天子の崩御)など」(法隆寺釈迦三尊像光背銘上宮法皇関連記事)と共に、上宮王家の都の意味で京都・京と名付け、今に残ったのであろう。

 

「京」は普通名詞として記紀に出るが、ここで特に「豊前京(みやこ)に遷った」とする根拠は(上述の他に)、「乙巳の変」の後10年間日本書紀に「飛鳥板蓋宮」の字が出なくなり、代わりに「京」が出てくる。例えば「百済大使、、、京に入らず、、、上京の時は云々」(孝徳紀645年)など。結果論をいえば板蓋宮は結局失われなかった。10年後に斉明天皇の即位にこの宮を使っている。蘇我氏を抑え込んだのだ。  (戻る

 

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●注 「天香山」は「香春岳」  検証  (戻る

「天香山(あまのかぐやま)」は大和の「香具山(かぐやま)」ではない。大和岩雄(おおわいわお)は「秦氏の研究」(大和書房1993年)の中で、「天香山は豊前の香春岳(かわらだけ、福岡県香春町)である」と指摘している(「天孫降臨の謎」関裕二 PHP研究所2007年 から再引用)。根拠は「天香山の金を採りて云々」(日本書紀神代七段)・「天香山の銅を採り、日像の鏡を造り」(先代旧事本紀)・「天香山の畝尾」(古事記)・「香春(かわら)は(冶金に長けた秦・)新羅系集団の居住域」(豊前風土記)など、としている。確かに、香春岳は畝(うね)を成す500m級の三連山から成り、全石灰岩の真白な特徴ある山である(現石灰岩採石場)。また、香春岳は銅の産地として名高い(現在まで続く採銅所がある。

五木寛之が小説「青春の門」の冒頭で「香春岳は異様な山である。決して高い山ではないが、その与える印象が異様なのだ」と全山真白な特徴を表現している。

 

因みに、記紀共に「香山」と表記され、神武紀本文注は「香山、此を介遇夜摩(かぐやま)と云う」と読ませている。金・銅採掘の技術を持って香春に移住してきた秦・新羅系住民が豊国の「かぐやま(和語)」を漢語で「香山(かざん)」と書き、それを採用した記紀が「香山(かぐやま、漢語表記・和語読み)」と注したと思われる。「大和の香具山」にはその経緯(秦・新羅系住民)がなく、地名移植当時から「香具山(和語、表音漢字表記)」だったようだ。畝尾(神代記)についても畝丘(うねを、神代紀)・畝火(うねび、神武記)・畝傍(うねび、神武紀)など時代変遷や地名移植による変化がある。以上、天香山は豊国香春岳である。金・銅の出ない大和の天香具山ではない。

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●注 イザナギ〜神武のゆかりの山   (戻る

イザナギ :イザナミが火の神「迦具土(カグツチ)神」を生んで火傷で亡くなってしまう。イザナギの涙がナキサワメの神となり「香山の畝尾」に居るという(古事記)。香山(香春岳)は青銅器の時代から火の絶えることのない製銅炉があったに違いなく、この神話が「香山」の名付け由来かもしれない。

イザナギ子孫は領有した山(香春岳)に自分たちの神話(カグツチ)と結び付けて「かぐやま」と名付けたのだろう。のちの新羅系精錬工人達はそれを「香山(かざん、漢語)」と書き、倭人達は「香山(かぐやま、漢語表記和語読み)」を使ったと考える。

 

ホアカリ :ホアカリは国譲り時点のアマテラスの直系継嗣(天孫長男)である(神代紀九段一書六)。ホアカリの子にカグヤマが居る(同)。名付けの動機はスサノヲとの天香具山(イザナギゆかりの地)争奪戦に勝ったからではないか(国譲りの一環)。カグヤマは父天孫ホアカリから「国譲り譚」を聞かされていたに違いない。

 

ニニギ :ニニギはホアカリの弟である(同)。ニニギが筑紫日向から宮崎日向へ南征する時、ホアカリから子カグヤマ部隊の支援を得たと考える。その根拠はニニギの子孫神武の東征譚に「カグヤマの子孫のタカクラジ下が『国譲りの刀』の夢を見て、天孫に奉った戦勝譚」がある(神武紀・先代旧事本紀)。カグヤマの子孫はその後尾張に定着して「尾張連の祖は天香具山=ホアカリの子」とされる(同・先代旧事本紀)。まとめると、「ニニギはホアカリとの共同戦線で南征し、ニニギの子孫(神武)はホアカリの子孫(高倉下)と共に東征した」と。

 

神武 :神武は東征途上で香具山で戦勝祈願をしたに違いない。軍勢にカグヤマの子孫タカクラジが居たからだ。

神武はこの山を「イザナギ以来の一族ゆかりの山」として愛で、東征後に大和三山に三連山の名を地名移植したと考えられる。     (戻る 

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●注6    歌の解釈 つづき      (戻る

この歌を「大和の低い香具山に干された白妙の衣を写実的に詠んだ」とする解釈も、「豊国の神秘的な白山香山を眼前にして写実的に詠んだ」とする極端な状況想像も正しくないだろう。持統は天皇としては九州に行っていない。唯一正しい解釈は「眼前の大和香具山を見て、記憶の豊前香山(かぐやま)を詠んだ」であろう。

 

歌は現実と記憶と知識を複雑に絡み合わせながら、眼前の人にアピールしたり、そこに居ない人に向けたり、いくつもの狙いを込めているのが普通ではないだろうか。作歌には様々な形がある。「眼前の景色を素直に詠む」「眼前の景色と過去の記憶が交錯する様を詠む」「古典名歌を下敷きに新たなモディファイ(変形、デフォルメ)を加えてそれをアピールする(密かに自慢する、枕草子「香炉峰の雪」など)」、「眼前の地名と移植前の地名にまつわる伝承を掛けて現状を美化する、茶化す」など、様々な技法がある。当時は壬申の乱後平和になり、朝廷では急速に歌が重要な教養として発達中だったと思われる。

 

この歌の意味は単純である。それ故に、その裏側を読もうと多くの論者が想像を巡らした。それでも、その多くが眼前の「香具山」と「白栲」に捉われている。しかし「春過ぎて」に「自分の壬申の乱までの翻弄された半生が過ぎた」が込められているようだ。「美しい春が過ぎて惜しい」という感情よりは「夏きたるらし」に期待を込めている。「まだ何も書かれていない白地(未来)に、輝くべき夢を描きたい、その時が来たようだが不確かな未来(白地)」への女帝としての夢と期待と不安の交錯する情感を、眼前の平凡な奈良の香具山が誘発する豊前の特異な白山の記憶に込めている。奥行きの深い歌である。       (戻る

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●注7  「天」のつかない「香山」   2か所    (戻る

日本書紀の神武東征譚以降に「香山」は2か所でる。いずれも「天」がつかない。

崇神紀十年条「倭(やまと)香山の土を取りて云々」とある。臣下の謀反に絡む事件譚で、「大和香具山」を指している。明らかに神武即位前紀の東征譚の「夢で神が訓えて曰く、天香山社の土を取りて云々」を下敷きにしているようだが、「天」は冠していない。神話でもなく謀反譚だからであろう。 

 

斉明紀二年条「香山西より云々」とある。ここも「天」がつかない。神話でないからだ。

 

結局、記紀には「天香山」・「香山」はあるが、「香具山」の表記は使われていない。「天」の有無で「豊前香春岳」と「大和香具山」を区別しているように見える。      (戻る

 

 

 第6話  注   了

 

 

 

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