第5話 「倭国滅亡」から学ぶ「プーチンの暴走」
毎日「ウクライナ戦争ニュース」を見せつけられています。「良い独裁」は即断即決、高効率の強国を造りますが、独裁は必ず「悪い独裁」に行き着くものです、プーチンもそれですね。「歴史は繰り返す」の典型例です。
「倭国王は独裁」だったのでしょうか? ここでいう「倭国」は「大和王権」でも「日本国」でもありません。680年頃滅亡した「九州倭国」です。
倭国王家は天孫ホアカリを祖とする「神の子孫」でその統治権は「神代からの決まり事」とされたはずです。臣下物部氏や蘇我氏(大和王権大臣を兼務した時期もありましたが、九州倭国大連・大臣です)は統治力・軍事力を巡って主流・非主流を争い、物部氏が専横し独裁化した時期もありましたが、王家王族(統治権)と臣下豪族(統治力)の間には侵すべからずの一線がありました。「君臨すれども統治せず」の立憲君主制に似て、倭国王統は独裁を振り回わさなくても長続きしました(卑弥呼・台与系に代わって300年間)。
それがある時「独裁化」し始めたのです。始まりは「筆頭重臣物部氏の討伐」でした。そもそも物部氏は「磐井の乱討伐」後の内政回復で成果を挙げ、倭国王家の外戚として権力(統治力)を掌握して専横を極めました。そこで倭国王は対抗馬の蘇我氏に「物部守屋討伐」(587年)をさせ、勝った蘇我氏を別の理由で追い出して(上宮王/蘇我氏の独立と新王権創立592年)、倭国王自身が全権(統治権と統治力)を掌握したのです。合わせて九州遷都中の大和王権から(成果が挙がらぬと)外交宗主権を返上させたので、推古天皇は大和に帰還遷都しました(603年、第1話)。倭国大王の「親政」です。
この頃の倭国王アマノタリシホコは遣隋使を送りました(隋書600年、第1話)。独裁王として隋に対等外交を挑みましたが煬帝にはねつけられ、一年にしてそれを取り下げました(隋書608年)。まだ柔軟外交が残っていたからでしょう(良い独裁)。
しかし隋が滅び(618年)、唐に代わると倭国はふたたび「対等外交」に戻ってこだわり続け「遣使すれども朝貢せず」を貫き、独裁を続けました。過去の南朝外交(遣宋使)の成功と栄光(列島宗主権)にしがみつき、北朝系の隋・唐の軍事強大化を甘く見、文化文明の大躍進に背をむけた「独裁の暴走」でした。そして遂に「白村江(はくすきのえ)で唐と戦い敗戦(663年)と滅亡(680年頃、公式には日本建国の701年)」に到りました。
_
古戦場である韓国白村江を訪ねた筆者(2005年、訪問記)
300年続いた(ホアカリ系)倭国が最後の60年の独裁で「悪い独裁の暴走」に行き着いて滅びた例です。倭国を支え続けた日本が白村江戦の途中で腰が引けたのも責められません。
この様な倭国の歴史を学ぶと、プーチンの「良い独裁」(初期)が必ず「悪い独裁の暴走」に陥ることを日本国ももっと早く見抜くべきでした。今からでも遅くない、近くの二つの「悪い独裁」のこれからに注視してそれらの「暴走」に準備すべきですね。
第5話 了
ページトップへ 目次へ 前話へ 次話へ________________________________________________
以下、第5話 注
●注1 天孫ホアカリを祖 (戻る)
筆者は「先代旧事本紀」を検証して「倭国はニニギの兄ホアカリが創始した」と前著で(その前半分を費やして)論証した(前著紹介はこちら)。このホアカリ系倭国は「卑弥呼の統一倭国」の一倭諸国にすぎなかったが、100年かけて台与系倭国を再統一して倭国王になり(倭王武上表文(宋書)の検証から)、遣宋使を送り「倭の五王」と宋書に記されている。ですから、倭の五王以降の倭国はアマテラスの天孫ホアカリ系で、神話は天孫ニニギ系の大和王権と共通だ。だから、倭国王権の根拠は記紀神話と同じである。 (戻る)
●注2 物部氏や蘇我氏 (戻る)
ここに出てくる物部氏は「九州物部氏」、蘇我氏も九州に定着していた「大和系豪族」である。両氏族は倭国臣下だが、九州に遷都した大和王権にも近づき臣下として記紀に登場する。二王権の臣下同士で覇を競い、物部宗家(守屋)は蘇我氏に滅ぼされた。しかし蘇我氏は倭国内で主流になれず上宮王を担いで独立した(倭国から追い出された)。これ以後、倭国王は親政によって強国となり、遣隋使を送った(隋書)。
●注3 物部守屋討伐譚 倭国王権の親政へ (戻る)
物部守屋(筑紫難波)は物部尾輿の子で倭国の大連。「磐井の乱」で成果を挙げた物部麁鹿火(物部河内支族)に近づいて勢力を拡大し、次第に倭国内で専横し、倭国王家がこれに反発した。崇峻紀587年に物部守屋討伐譚がある。
崇峻紀587年
「蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣に勧め、物部守屋大連を滅ぼすことを謀る、泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子蘇我馬子宿禰大臣、(他11群臣名列挙)、、、ともに軍兵を率い、、、」
この事件は「蘇我馬子主導」となっているが、諸皇子が加わっていることから、倭国王が背後にいることが推定される。これによって物部守屋とその子らは殺された(物部主流の滅亡)。従来、この事件は「物部氏と蘇我氏が大臣として張り合って、蘇我氏が競り勝った」と解釈されている。しかし、物部氏はその後も倭国王家大臣としての地位を保ち、蘇我系大臣が主流となることは無かった。物部氏に代わって実権を持ったのは蘇我氏ではなく、倭国王自身だった。このことは遣隋使を送ったアマノタリシホコ(600〜608年)の例から判る(隋書)。
倭国は大和の力を借りて磐井の乱を克服し、蘇我氏の力を借りて物部の力を減殺した。倭国王権は復活したようだ。 (戻る)
●注4 上宮王/蘇我氏の独立 (前話●注3 再掲) (戻る)
倭国には「上宮王」がいた、と史料は伝える(正倉院御物「法華義疏写本」に「大委国上宮王」の署名がある)。
上宮王は「法興年号を建てて上宮聖徳太子から法王大王と呼ばれている」(釈日本紀引用の伊予風土記逸文)。倭国の一王が年号を建てる大王に独立したのである。国を割って独立するようなことは「万余の軍が動くような大事件」である。この頃、その様な事件記事は「紀・巨勢・葛城を大将軍として二万余の軍を領(ひき)いて云々」(崇峻紀591年)しかない。「筑紫にいる(これら)将軍に駅馬を遣わし号令しているのは蘇我馬子である」(崇峻紀592年)。
「筑紫に駅馬」できるのは九州内であり、「紀・巨勢・葛木(葛城)」の地名が残っているのは肥前である。
以上をまとめると、上宮王は蘇我馬子を傘下陣営に加えて倭国から独立し、肥前を本拠に「上宮法王大王」を称し、「法興年号」を建元したのである。その皇太子が聖徳太子であり、崩御後は「上宮法皇」と諡(おくりな)されて法隆寺に祀られているのである(法隆寺釈迦三尊像光背銘)。 (戻る)
●注5 日本は白村江戦の途中で腰が引けた? (戻る)
倭国(ホアカリ系)と大和王権(ニニギ系)は兄弟国だった。倭国の東征・征西に協力し、半島征戦にも日本(東方諸国の見做し国名)の代表として倭国/日本の連合軍は成果を挙げてきた。
しかし、倭国王権が親政・独裁となり「俀(たい、イ妥)国」と改号して、二回目の遣隋使が「対等外交国書」を送って隋の煬帝を怒らせた。煬帝は推古の送った随行使小野妹子を通じて推古に「(倭国に替えて)大和を倭国代表と認め、献上品を『朝貢』と認める」と密書を送った(隋の遠交近攻策の裏外交)。この事件は倭国が「俀(イ妥)国号を倭国に戻し、朝貢します」と折れたので、密書は反故にされたが、大和王権が倭国に距離を置き、倭国遣唐使に随行使を出す時に、密かに裏外交で「親唐路線」を模索し始めるきっかけになった(孝徳紀654年・斉明紀659年)。
半島で百済が唐・新羅に滅ぼされ、百済の遺臣らが倭国に救援要請をしてきた。百済の保護者を自認していた倭国は、列島宗主国として倭諸国に「百済救済」の出兵を号令した。斉明は親唐外交を模索してきたが、結局「百済救済戦」に加わるべく九州朝倉宮まで出陣した。そこへ遣唐使に随行した学者が唐帝からの密書「日本国天皇(斉明)平安なりや?(暗に「倭国とは戦争になるが、日本とは平安にやりたい」)が届いた(斉明紀注661年)。その直後、斉明は急に崩御し(661年)、継いだ中大兄皇子(天智)は葬儀を理由に出兵を遅らせ、半減させた。
それは敗戦の一因になったかもしれないが、日本はその責任を逃げてはいない。日本書紀は「倭国不記載方針」だから、「白村江戦もその敗戦も日本の責任」として記されている。責任逃れをしていない。
それでも「唐と戦うなど無謀だ、と倭国の暴走を止める説得をすべきだった」との厳しい見方が有り得る。実際日本はそうしたかも知れないが、所詮「暴走」を止められなかったのだ。どうあれ「倭国不記載方針」からそれを記せないのだから、過剰な要求だが。
「この崩御は実は仮装だった」とする説がある。斉明・中大兄は敗戦を危惧して、崩御を仮装しそれを理由に出兵を渋った、とする解釈である(詳しくはこちら注6)。
それが事実であったとしても、それは倭国を止められなかった末の苦渋の決断であろうし、当時でも「疑い」の域を出ることのない範囲に留まったようだ。
しかし、出兵半減は事実であり、倭国敗戦の一因になったことは否定できず、それを唐が評価して後年の「日本国建国承認」につながった可能性は無視できない(旧唐書)。
歴史の裏側は非常に複雑で、簡単にまとめることなどできない、と教えられるのである。 (戻る)_
●注6 斉明崩御仮装説 (戻る)
天智が飛鳥から近江大津へ遷都し(667年)、天皇に即位した(668年)。なぜ斉明の没後6年も称制を続け即位できなかったか、なぜ斉明の造った立派な大和飛鳥を捨てたのか? 様々な謎がある。
斉明天皇は白村江の戦いに出兵する準備中の九州朝倉宮で崩御した(661年)とされるが、「実は崩御は出兵を中断する口実とする為の中大兄皇子の仮装で、斉明天皇は実際は666年まで生きていた」とする説がある(九州王朝説の一部)。その根拠は羽曳野市(大阪府)野中寺弥勒像台座の「中宮天皇病気平癒の請願文」であるとする。
野中寺弥勒像台座銘文
「丙寅年(666年)、、、中宮天皇大御身労坐します時、誓願し奉りし弥勒御像也」
ここの「中宮天皇」とは誰か? この説は「666年は天智称制であって天智天皇ではない。だから天皇でありうるのは斉明天皇の生存説」とする。一つの可能性である。筆者はもう一つの根拠を挙げたい。「斉明天皇は中皇命(なかつすめらみこと)と呼ばれることもあった。万葉集の中皇命の歌(巻1−10〜12)の注には類聚歌林(山上憶良)に『天皇の御製歌なり』とあることなどから斉明天皇である」(折口信夫説を引く坂田隆説、人麻呂は誰か 新泉社 1997年)とされる。ここから筆者は「666年の中宮天皇とは中皇命=斉明天皇である」とする解釈は有り得ると考える。すなわち「斉明天皇は666年まで生きていた」という可能性である。天智は斉明天皇の存命中は称制を続けた、という説が説得力を持つ。
「さすが斉明崩御を仮装してまで軍を引くことはありえない。長年の友邦国倭国を裏切ることになるからだ。」というのが常識だ。しかし、事は国家存亡にかかわる。倭国もろとも日本まで滅亡したら、列島は唐の完全な支配下になる。一方、唐にとっても長年朝貢を願ってきた日本を倭国から分断することは伝統の遠交近攻策に叶う。日本は負ければ更に奥地に逃げて手を焼くだろうと考えたに違いない。唐帝は遣唐使に随行した伊吉博徳らに異例にも「日本国の天皇、平安なりや」と問いかけている(斉明紀661年条、前章参照)。唐から日本に百済復興に協力しないよう何らかの働きかけがあったとしてもおかしくない
同じような働きかけは過去孝徳天皇にあった。遣唐使に随行した日本使に時の唐帝高宗は璽書を賜り「出兵して新羅を援け令(し)む」と百済攻撃を命令している。悩んだ孝徳は病にかかって崩御してしまう(これも仮装か?)。斉明天皇は孝徳天皇の後継者である。唐帝は同じ命令を繰り返したかもしれない。それを斉明天皇が受け取った可能性がある。「斉明天皇が朝倉宮で崩御される直前、伊吉博徳(いきのはかとこ)が唐から帰国して朝倉宮で斉明天皇に『大倭の天の報い、近きかな』と唐の強硬姿勢を報告している」(同斉明紀661年条)。唐の意向が日本にもたらされたとしたらこの時しかない。そうだとしたら、斉明天皇の窮地はただならぬものだったに違いない。半島出兵直前である。唐に朝貢を願い続けた日本が、唐帝に「倭国と手を切れば日本は平安」と示唆された直後に唐と戦うのでは、唐の怒りが倍加しする背信となる。さりとて、命令に従えば、倭国軍を背後から刺すに等しい裏切りとなる。
報告を聞いた斉明天皇が、もちろん心痛から急死したかもしれないが(紀)、中大兄皇子と謀って崩御を仮装した可能性もある。 いずれにしても喪に服し、斉明軍を減らしたり参戦を遅らせたりしたようだ。日本としては、ぎりぎりの選択だ。
この選択が「中大兄皇子の独自単独判断」だったか、「唐と裏外交があったか」、「あいだに間者(かんじゃ)がいたか」、それはもはや解らない。しかし、日本初の遣唐使(702年)に対して唐は「倭国は滅びた。日本国は倭国とは別の国と認め、朝貢を認める(列島宗主国と認める)」と判断した(旧唐書)。その判断の裏に唐帝の意を受けた唐役人が口では言わないが「白村江戦で日本は腰を引いたことは評価する、倭国と手を切ったと認める」と片目をつぶって見せた、と筆者は想像する。 (戻る)
●注7 白村江 訪問記 (戻る)
韓国白村江を訪ねた筆者(2005年2月)
雪のちらつく朝、古戦場である白村江を訪ねた。河口は干潮時であったため、港の岸壁にもかかわらず、干上がって漁船が泥床に傾いていた。干満の潮位差は4Mあるという。干満に伴う潮流も激しく、変化する浅瀬など、地元の漁民でも行き来は楽ではなかろう。
663年8月、このあたりを百済・倭国連合水軍四百艘(唐史料 紀では総千艘)が上流の泗沘(しひ)城(あるいは周留城)めざし数キロをさかのぼろうとし、唐・新羅連合水軍一七〇艘(紀史料)に挟撃されたて殲滅された。四度戦って四度敗れ,煙は天を覆い、海水は一面に赤くなったという。 (戻る)
_第5話 注 了
ページトップへ 目次へ 前話へ 次話へ________________________________________________