ここでは上宮王家を紹介し、その内側から見た大和王権との関係をやや皮肉っぽく語ってみます。
● 上宮王家とは?
西暦600年頃、日本列島には年号が三つありました。年号を建てられるのは「大王」クラスですから、少なくも当時列島には大王が三人いたことを示しています。
しかし、日本書紀は「唐に列島宗主権を認めてもらう為の国史」ですから「他王権不記載方針」でした。その結果「大王は昔から大和天皇のみ」が定説となりましたが、近年「倭国天王」(九州王朝説)が知られるようになりました。
あまり議論されていないのが「上宮大王」です。だからこそ、ここで検証する面白さがあります。
● 上宮大王
「倭国には上宮王がいた」と史料は伝えます。即ち、「上宮王は倭国内王族」でした。
別の史料は「(上宮王は)法興年号を建てて上宮聖徳太子から法王大王と呼ばれている」とあります。上宮王は倭国から独立して上宮大王になったのです。日本書紀にも一か所だけ「もう一人の大君」と推古天皇が詠った歌があります(推古紀612年、前話)。「上宮王権」「上宮王家」と呼ぶことにします。次の系図は上宮王家の家系図です。_
上宮王家系図(推定根拠はこちら)
● 宝皇女
倭国から独立して上宮王権を創立(591年)した上宮王は「倭国内ニニギ系王族」でしたから、ニ二ギ系大和王権に近い存在です。上宮王統が大和王統と結ばれた最初は、田村皇子(敏達天皇孫、のちの舒明)とその妃宝皇女(上宮王孫、第四代上宮大王、のちの皇極天皇)です。
● 宝皇女の中継ぎ婿 田村皇子
上宮王権の即位順は、初代上宮大王 → 二代殖栗(えぐり) →三代 田村 →四代 宝 です。
大和王権nお推古天皇が崩御すると、田村皇子(上宮三代田村大王)が後継大和天皇に指名されて呼び戻されて舒明天皇に即位しました。上宮大王位は宝皇女に譲位したと考えます(前話注4参照)。その後も舒明は宝四代大王と共に肥前百済宮で上宮王家ゆかりの熊凝(くまごり)寺を百済大寺に格上げしています(舒明紀11年条)。
結局、田村皇子は宝大王までの中継ぎ大王役を果たしました。
● 皇極の中継ぎ婿 舒明
大和王権の即位順は、推古 → 舒明(皇極の婿) → 皇極(中継ぎ) → 中大兄皇太子(予定、実際は孝徳へ)でした。
舒明が崩御すると継嗣中大兄皇子までの中継ぎとして宝皇后が大和皇極天皇に即位しました。これを上宮王家側から見ると、婿舒明を中継ぎとして宝大王が大和天皇位皇極を得たことになります。既になっていた上宮四代大王も継続したと考えられます(こちら)。
そしてこの頃を以て「上宮王権は上宮王統が主導する大和王権に吸収される形で融合合体した」と考えられます。実態は「皇極は蘇我蝦夷のお飾り天皇だった」としてもです。
● 皇極の中継ぎ娘婿 孝徳
即位順は、皇極 → 孝徳(皇極の間人皇女の婿) → 斉明(皇極重祚)です。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我宗家を滅ぼした「乙巳の変」が起こると、皇極は孝徳天皇に譲位しました。孝徳の妃(皇后となる)は皇極の娘間人(はしひと)皇女です。いわば娘婿に譲位したのです。そして孝徳天皇が崩御すると皇極上皇が重祚して斉明天皇となりました。これは「皇極上皇(斉明)は娘婿を中継ぎとして『蘇我氏無き上宮王統主導の大和王権』を手にいれた」と言えます。もっとも実権は中大兄皇太子と中臣鎌足でしたが。
● 斉明の中継ぎ孫娘婿 天武
即位順は、斉明 → 天智 → 天武(斉明の孫で天智皇女持統の婿) → 持統 → 文武
皇極は幼い大海人皇子を倭国系(ホアカリ系)の豪族大海氏に送り込んで倭国武人としての養育を頼み、倭国系人脈を得させました。だから天武は親倭国・反唐派です。
しかしそれは孝徳・斉明・天智と続いた「大和王権の親唐路線模索」に反しました。天武を継いだ皇后持統(天智皇女)は「夫天武の親倭国・反唐路線」は継がず、「父天智の反倭国・親唐路線」を継ぎました。斉明路線への復帰です。
要するに「斉明(皇極、上宮王統)は孫娘婿(大海人皇子、天武)を中継ぎとして孫娘持統の『上宮王家路線の親唐日本建国』の道をつけた」と解釈できます。
従来、女帝は「中継ぎ」と解釈されてきました。しかし、「男子天皇を中継ぎとして王権を思い通りにしよう」とした斉明女帝(←皇極女帝←宝女帝←宝皇女)は「外戚戦略に翻弄された女帝達の鮮やかな逆襲」と解釈できる特異な例ですね。
_第4話 了
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以下 第4話 注
●注1 三つの年号 (本文へ戻る)
文献から600年頃の年号が三つ見つかっている。「二中歴」に「年号吉貴(594-600)」があり、倭国年号と考えられている。次に、襲国偽僭考に「三年(595年)を始哭と為す」とあり、推古三年に該当するから大和王権の年号と考えられている。大和王権は「□□天皇何年」と記し、年号を建てるのはまれである(始哭・大化・大宝など)。三つ目は法隆寺釈迦三尊像光背銘に「法興年号(591-623)、上宮法皇」とある。上宮王家年号は「法興」以外は伝わっていない。 (本文へ戻る)
●注2 「上宮王」の史料 (戻る)
倭国には「上宮王」がいた、と史料は伝える(正倉院御物「法華義疏写本」に「大委国上宮王」の署名がある)。
「委」字は金印「漢委奴国王」の「委」に由来する「倭」の佳字、「倭国王家の秘字」と考えられます。大委(たい)=大倭(たい)=九州倭国です(第 1 話)。]
上宮大王 (戻る)
上宮王は「法興年号を建てて上宮聖徳太子から法王大王と呼ばれている」(釈日本紀引用の伊予風土記逸文)。倭国の一王が年号を建てる大王に独立したのである。国を割って独立するようなことは「万余の軍が動くような大事件」である。この頃、その様な事件記事は「紀・巨勢・葛城を大将軍として二万余の軍を領(ひき)いて云々」(崇峻紀591年)しかない。「筑紫にいる(これら)将軍に駅馬を遣わし号令しているのは蘇我馬子である」(崇峻紀592年)。
「筑紫に駅馬」できるのは九州内であり、「紀・巨勢・葛城」の地名が残っているのは肥前である。
以上をまとめると、上宮王は蘇我馬子を傘下陣営に加えて倭国から独立し、肥前を本拠に「上宮法王大王」を称し、「法興年号」を建元したのである。その皇太子が聖徳太子であり、崩御後は「上宮法皇」と諡(おくりな)されて法隆寺に祀られているのである(法隆寺釈迦三尊像光背銘)。 (戻る)
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●注3 「上宮王の別の史料」(戻る)
(釈日本紀引用の伊予風土記逸文)
法隆寺釈迦三尊像光背銘
国を割って独立するようなことは「万余の軍が動くような大事件」です。この頃、その様な事件記事は「紀・巨勢・葛城を大将軍として二万余の軍を領(ひき)いて云々」(崇峻紀591年)しかありません。「筑紫にいる(これら)将軍に蘇我馬子が駅馬を遣わし号令している」(崇峻紀592年)とあります。
上宮王は蘇我馬子と組んで独立したと考えられます。筆者は「上宮王権」「上宮王家」と記します。その系図はこちらです。(戻る)
●注4 系図 (戻る)
上宮大王の系譜
日本書紀では「他王権不記載方針」に従って「上宮王家」は明記されていない。しかし各天皇紀の冒頭系譜記事には「万世一系」とする為の「不実記載」があることは多く指摘されています。幸いなことに、上宮王と同時代の用明紀冒頭に(「上宮王」そのものは消されているが)上宮王の皇后・聖徳太子を含む一族が挿入されています。
用明紀では上宮大王は用明天皇とされている
それを踏まえた上宮王家の系図(推定)を検証します。更に詳しい検証は筆者別サイトこちら。
(1) 大安寺伽藍縁起
大安寺は聖徳太子ゆかりの「熊凝(くまごり)寺、その格上げ百済大寺(肥前)」、それを奈良に移築した寺である。上宮王家は上宮王が在位32年の後崩御したが、太子(上宮聖徳太子)は既に薨去して次の天皇(大王)が立った。その天皇が登場する恐らく現存唯一の文献が同書である。その天皇から田村皇子(のちの舒明)への継承指名のいきさつを示している。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳
「飛鳥岡基宮宇天皇(舒明天皇)の未だ極位に登らざる時号して田村皇子という、、、皇子、私に飽波に参りご病状を問う、ここに於いて上宮皇子命、田村皇子に謂いて曰く、愛わしきかな、善きかな、汝姪男、自ら来りて我が病を問うや、、、天皇、臨崩の日に田村皇子を召して遺詔す、朕病篤し、今汝極位に登れ、宝位を授け上宮皇子と朕の羆凝寺を譲る、仍りて天皇位に即く、、、百済川の側に、、、九重塔を建つ、号して百済大寺という」
この前半には「上宮皇子(聖徳太子)が田村皇子(のちの舒明天皇)を姪男と呼んだ」とある。田村皇子を夫とするのは宝皇女(のちの皇極天皇)である。後半に登場する「天皇」は本来「大王」であろう。「朕」は上宮皇子と寺を共有する大王、文脈から「上宮皇子の薨去(622年)、上宮大王の崩御(623年)の後を継いだ上宮王家大王」である。推古天皇ではない。その大王が臨崩に際し田村皇子を次代大王に指名した、とある。後に大和舒明天皇となる(「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004年参照)。
ここでは上宮大王を「天皇、臨崩」「天皇位」「朕」とあり、日本書紀の方針に合わせてこの縁起も「大王 → 天皇」の書き換えによって「偽書」・「焚書」の難を逃れたのであろう。 (戻る)
ここで、田村皇子は敏達の孫で、上宮王家系ではないが(上宮)聖徳太子から「姪男」と呼ばれて可愛がられていた、とある(大安寺伽藍縁起)。田村皇子の妃は宝皇女ですから、「姪」とは宝皇女だ。「聖徳太子の父は上宮大王」だから(上述、伊予風土記逸文)、宝皇女は上宮大王の孫です。聖徳太子の薨去(621年)の翌年、上宮大王崩御の時(622年)は皇孫山背(やましろ)大兄皇子が幼少だったので、上宮大王二代は三男の殖栗皇子が継いだと考えられる。その二代目の臨崩時に継嗣宝皇女までの中継ぎとして上宮王家血筋ではありませんが、婿の田村皇子が「宝位(上宮大王位)と聖徳太子・殖栗大王ゆかりの熊凝(くまごり)寺」を遺贈されて居るから(同縁起)、田村皇子が上宮大王三代を継いだと考えられる。
「他王家不記載」のはずの日本書紀にこのような上宮王家系譜まで挿入させたのは、上宮王を母方の祖とする元明天皇(天智皇女)だろう。日本書紀の編纂最終期であり、風土記編纂を命ずるなど歴史に関心をもつ天皇だったからだ。更に、用明紀・推古紀には冒頭系譜記事のみならず、「上宮王/聖徳太子記事」が「天皇/聖徳太子記事」の形で多出している。「天王・天皇・大王などが複数出るのはは混乱するから『天皇』表記に統一した、『推古紀だから天皇とあれば推古天皇』と誤読するのは読者の勝手、そんな不実記載はしていない」と言い訳を用意して元明天皇の命に従ったのだろう(推測)。詳細論証は筆者次著「高天原と日本の源流」(原書房、紹介サイト ここにもどるにはサイトを消してください)の第六章「推古紀の証言『実在の上宮王と聖徳太子』」 を参照いただきたい。(戻る)
●注5 上宮大王はニニギ系 (戻る)
倭国には中臣氏が居た。倭国の仏教論争に中臣鎌子が登場するからだ(欽明紀552年)。中臣の祖はニニギに供奉天降りしたアメノコヤネである。従って中臣の主筋はニニギ系である。倭国にニニギ系王族が居た可能性がある。
上宮王家にも中臣御食子(みけこ)が居た可能性がある。上宮王の独立に従って倭国から移ったのだろう。なぜなら、
舒明の崩御後、宝皇后が中継ぎとして即位しました(皇極)。その重臣に御食子子中臣鎌足が居る。上宮王家から連れてきたと考えられる。
中臣氏は上宮王に従って「倭国重臣から上宮王家重臣に移り」、宝大王が大和皇極天皇になったことで「大和王権重臣」となった。それは上宮王が中臣の主筋だったからと考えられる。中臣の祖(アマノタネコ)の主筋はニニギだから、「上宮大はニニギ系王族だった」とするのが妥当だ。 (戻る)
●注6 大王兼務と二王権の合体 (戻る)
後継者難の上宮王家は二代大王崩御の跡を娘婿の田村皇子を上宮三代大王に就かせた(大安寺伽藍縁起)。その田村大王は、推古天皇が崩御すると呼び戻されて大和天皇位を継いで舒明天皇となり、上宮大王位は宝皇后に譲ったと考えられる。山背(やましろ)大兄皇子が後継を争ったが敗れている(舒明即位前記)。いわば、
宝皇女は「婿(田村大王)を中継ぎ」として「上宮大王位」を得た、と考えられる。
舒明が崩御すると、継嗣中大兄皇太子がまだ16才だったので、皇后(宝皇后)が後継中継ぎとして即位し皇極天皇となった。皇極は上宮大王位も継続したと思われる(二王権大王位兼務)。いわば、
宝皇女(上宮大王)は「婿(舒明)の中継ぎ」として「上宮王系の大和皇極天皇」となったことになる。
皇極天皇は「乙巳の変」直後に孝徳に譲位した。孝徳の皇后は皇極の間人(はしひと)皇女である。間人皇女は舒明・皇極の二王統の血を引くから、上宮王統の皇極から見れば「孝徳は上宮王家の娘婿」だ。孝徳が崩御すると、皇極上皇は重祚して斉明天皇となった。即ち、
宝皇女(皇極上皇)は「娘婿(孝徳)を中継ぎ」として「蘇我氏が居ない、上宮王家系主導の大和王権」の天皇に即位した、と言うことができる。
皇極は次男大海人皇子(のちの天武天皇)に孫娘(長男中大兄皇子の皇女)を四人も妃として送り込ませ、結果論だが天武(反唐路線)を継いだ皇后の持統天皇(天智皇女、皇極の孫)は「上宮王以来の親唐路線」を継承したことになる。いわば、
宝皇女(重祚斉明、上宮王統)は「孫娘婿(天武)を中継ぎ」として「上宮王家路線の親唐日本建国の道をつけた」と解釈できる。
従来、女帝は「中継ぎ」と解釈されてきた。しかし、ここに紹介したのは「外戚戦略に翻弄された女帝達の鮮やかな逆襲」だ。 (戻る)
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第4話 注 了
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