第3話 舒明・皇極の「飛鳥」
第1話で「大和王権の九州遷都」と、それは「推古の大和小墾田宮への帰還遷都で終わった」と確かめました。
しかし、推古天皇が崩御すると、次の舒明天皇・皇極天皇が再び九州に遷都したのです。これを 「 第二次九州遷都 」 と呼びたいと思います。
なんでそんなことを取り上げるのか、それは「飛鳥にかかっていた霧がパッと晴れる」からです。
第一次九州遷都(勾金橋)と第二次九州遷都(飛鳥)の地
この遷都の意味は第一次(第1話)とは目的も意味合いも全く違ったものでした。倭国との関係は疎遠です。その理由は大和王権の主臣蘇我馬子が倭国王権主臣物部守屋大連を滅ぼしたからです。
第二次も九州ではなく「大和」と誤読されました。その原因も単純です。第1 話の誤読「大倭(やまと)」の延長線上、「推古も、蘇我馬子も飛鳥も大和だった、舒明・皇極・蘇我蝦夷(馬子の子)・飛鳥などが大和でない訳が無い」とされたのです。
まず、史実を確認しましょう。
舒明は敏達の孫ですが、即位前の田村皇子時代に上宮王家の宝皇女の婿となり、上宮大王位に就きました(大安寺伽藍縁起)。推古が崩ずると、大王位を宝皇女に譲り、舒明天皇となりました。
推古を継いだ舒明天皇は 「 推古の大和小墾田宮 」 に遷りませんでした。舒明天皇の最初の宮は飛鳥岡本宮です。この時期の飛鳥は肥前、と第2話で検証しました(上図)。その後「百済川の側を以て宮処となす、是を以て宮を造り、、、」(舒明紀639年)とあります。「宮処」は地名として残っています。「肥前国神崎郡 蒲田、三根、神崎、宮所」(和名抄)とあり、「神崎郡 宮処郷 郡の西南にあり」(肥前国風土記)ともあります。「肥前神崎郡の西南に流れる川」は筑後川支流の城原(じょうばる)川です(現佐賀県諸冨町)。「舒明の百済川の宮とは現佐賀県諸冨町あたり」でしょう。
「舒明・皇極の宮は九州である」とする根拠となる別の記事もあります。「(舒明の葬儀に)阿曇連比羅夫(あずみのむらじひらふ)、筑紫国より騨馬(駅馬、はいま)に乗り来りて言う、、、葬に仕えむと望み、故に独り先に来る也」(皇極紀元年642年)。即ち、舒明の葬儀は筑紫から馬で来られる九州内、を示しています。「舒明の宮は九州内」です。大和の騨馬(駅馬、はいま)は大化の改新以降に整備され、この年にはまだありません(孝徳紀大化二年条646年〜)。
● 舒明の第二次九州遷都の理由
推古の大和帰還遷都20余年の後、何で舒明は本拠を九州に戻したのでしょうか? 舒明は敏達の孫で、敏達は九州を本拠にしたことは第1話で検証しました。舒明は九州で生まれ育ったと考えられます。舒明は香山(かぐやま、肥前香春(かわら)岳、第T話注)で国見をし、万葉集二番歌で「かぐやま・くにみ・うなはら・かもめ」を歌っています。大和の香具山からは海原は見えませんが、香春岳からは周防灘が見えます。幼いころ慣れ親しんだカモメも目に浮かんだのでしょう。舒明は神武が香山(かぐやま、香春岳)の名を大和三山に地名移植したことはよく知っていたでしょう。その神武を継いだことを誇らしく国見歌に織り込んだと考えます。
● 皇極の本拠
舒明を継いだのは皇后で、皇極天皇となりました。皇極紀は舒明の葬儀譚から始まります。それが九州であることは上述しました。
皇極紀元年条に「小墾田宮に遷る」とあります。これが「皇極は推古と同じ大和の天皇」という定説に結びつきました。しかし、これは 「 推古の大和小墾田宮 」 ではなく、肥前小墾田の地に仮宮したのでしょう。その理由は、これのついての注に「ある本に云う、、、権宮(かりみや)に遷る」とあり、また翌年に 「筑紫太宰より馳騨(はいま、駅馬)して云々、、、権宮(かりみや)より飛鳥板蓋の新宮に移る」(皇極紀二年条)とあります。「はいま」で前述した同じ理由でこれは九州内です(肥前飛鳥、第2話)。この文から「飛鳥板蓋宮」は太宰から馬で行ける範囲、九州内と確認できますから、「皇極の本拠は肥前飛鳥」です。大和と肥前の二つの「小墾田宮」が一時的せよあったことになります。「肥前飛鳥」は第2話で比定した「馬子の本拠、肥前三養基郡川原(現佐賀県みやき町寒川(しょうずがわ)川原(こうばる)地区)」です。この肥前飛鳥は肥前小墾田(現佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川の辺り)から西へ10q程の地です(上図)。
この「飛鳥板蓋宮」で蘇我入鹿が暗殺された「乙巳の変」が起こり、「蘇我氏が滅亡」、「皇極は退位」、「孝徳の摂津難波宮に遷都」、即ち「第二次九州遷都の終了」と続く訳です。この「蘇我氏の滅亡」と「第二次九州遷都の終了」の因果関係を検証することが逆に「なぜ第二次九州遷都がなされたのか?」を解明する鍵になるのです。それを検証します。
● 蘇我氏の動き
「推古の大和帰還遷都」の後も、蘇我馬子は本拠を肥前から動かしていません。二王権の大臣を兼務しながら、上宮王権の本拠が肥前にあるから、上宮王権をより重視している、と考えられます。蘇我馬子は本拠の肥前飛鳥を離れませんでしたが、時々大和の推古に挨拶に伺ったようです。その時の歌(推古紀)から「馬子は二人の大君(推古と上宮王)に仕えた」、「二人目の大君、上宮大王(倭国から独立し、法興年号を建てた)の王権確立を優先して肥前に留まっていた」、と読めます。その根拠は「蘇我馬子の複数の子息が(蝦夷も含めて)上宮大王に(のみ)仕えている」からです(同歌、推古紀)。
また、これは推測ですが「大和は蘇我氏が代官として差配し、ゆくゆくは蘇我王国としたい」という野心があり、その為に「大和王権の舒明・皇極は肥前に留め置いた」と考えられます。事実、推古の居なくなった大和では大和王権の代官として専断し、上宮王家(聖徳太子・山背(やましろ)大兄皇子)の大和支配も阻止し、大和王のような振る舞いをしました。その結果が乙巳の変(蘇我宗家滅亡)です。
蘇我氏が滅亡すると、皇極は譲位し孝徳天皇が都を難波に移して第二次九州遷都は終わりました。このことから「第二次九州遷都とその終了には蘇我氏の影響が大きかった」と考えられます。
「乙巳の変」は「大和の飛鳥で起こった」という誤解から解放されると、パッと霧が晴れる疑問は多いのですが今日はまだ入り口です。おいおいと提案します。
「千年の誤読」 第3話 第二次九州遷都 了
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以下、第3話 注
●注1 蘇我馬子は二人の大君(おおきみ)に仕えた (本文へ戻る)
蘇我氏はニニギ系二王権(大和王権・上宮王家)の大臣を兼ねた。蘇我大臣は二王権の本拠にある朝廷の間を行ったり来たりしたのであろうか。そうではない。蘇我氏の本拠は肥前である。その肥前の蘇我本拠に二王権の宮を別々に提供し、それぞれの宮に出向いて大臣として朝廷政事を行ったと思われる。その一端を垣間見る記述がある。
推古紀612年
「春正月七日に、置酒して群卿に宴す。是の日に、大臣、壽上(おほみさかづきたてまつ)りて歌ひて曰さく、やすみしし 我が大君の(云々)、、、拝みて仕えまつらむ歌献る、天皇、和(こた)へて曰はく、眞蘇我よ蘇我の子らは馬ならば讐武伽(ひむか、日向)の駒、太刀ならば呉(くれ)の眞刀(まさひ)諾(うべ)しかも、蘇我の子らを大君の使はすらしき」
推古は603年以来大和小墾田宮に居る。そこでの酒宴であろう。まず蘇我馬子が推古に歌を奉った。その「我が大君」は推古を指している。馬子と推古の関係を示している。次いで推古が返歌する。返歌の「大君」は自分の事ではない。「蘇我の子らを使う大君」である。しかも推量文「らしき」である。自分とは別の「遠くに居る大君が使うらしい」である。蘇我氏が仕えるもう一人の(大和から見て)遠くに居る大君は上宮王(九州、大王)である。推古は馬子に「良い息子らを持っているね、その息子らを(もう一人の)大君(上宮王)は使っている、と聞いているわ」とやんわり羨んでいる(上宮王と馬子の近さをひがんでいる)のである。従来の解釈では「後半の大君も推古」とするから、推古が自分を大君と歌う、となり訳が解らなくなる。この歌は上宮王に言及している推古の歌である。馬子に対して少し媚びがあり、少しすねている。蘇我馬子(大臣)が大和に来たのは久しぶりなのであろう。息子ら(大臣代理)がしばしば来ている様子もない。来ているのは大和駐在の代官クラスであろう。推古にすれば大和に島流しされたようなものだ。しかし、馬子にすれば「寂しかったら、もう一人の大君の皇太子聖徳太子が近くの斑鳩に居るのだから摂政と思って頼ったらよい」あたりが本音であろう。注目すべきは「推古紀が、大君が二人出てくる一文を隠していない」点である。上宮王を不記載としている推古紀が隠し漏らしたのであろうか、二人の大君の記憶が早くも失われたからであろうか。
以上から、蘇我大臣は肥前から大和小墾田宮にすら出向いている。九州蘇我領内に提供した二王権の宮があった頃にはそれらに足繁く通っていたであろう。蘇我氏の本宅に天皇を呼びつけるような失礼はさすがしていない(「蘇我王権説」の否定)。
●注2 大安寺伽藍縁起并流記資材帳 (戻る)
「飛鳥岡基宮宇天皇(舒明天皇)の未だ極位に登らざる時号して田村皇子という、、、皇子、私(私的)に飽波に参りご病状を問う、ここに於いて上宮皇子命(上宮聖徳太子)、田村皇子に謂いて曰く、愛わしきかな、善きかな、汝姪男(めいおとこ)、自ら来りて我が病を問うや、、、天皇(第二代上宮大王)、臨崩の日に田村皇子を召して遺詔す、朕病篤し、今汝極位に登れ、宝位を授け上宮皇子と朕の羆凝寺を譲る、仍りて天皇位(第三代大王位)に即く、、、百済川の側に、、、九重塔を建つ、号して百済大寺という」
●注3 田村皇子が上宮王家に迎えられた背景 (戻る)
田村皇子を孫宝皇女の婿に迎えたのは上宮大王/蘇我馬子でしょう。上宮大王は倭国内ニニギ系王族でしたから、上宮王家と大和王家(ニニギ系)の連携第二弾でしょう。第一弾は「物部守屋討伐」での協力です。独立前の上宮王と聖徳太子/蘇我馬子、敏達/推古の竹田皇子がこれに参加して成功しました。成功しましたが、倭国の王政復古が実現したので、勝者が倭国で主流になることなく、逆に勝者の倭国離れ(上宮王の独立と大和王権の大和帰還)のきっかけとなりました。更に、聖徳太子の薨去で上宮王家の継嗣問題が浮上、この第二弾となったのです。他王統の田村皇子を三代目に立てたのは宝皇女を四代目に立てる中継ぎとしてでしょう。
●注4 宝皇女が第四代上宮大王 その根拠 (戻る)
舒明天皇が大和天皇に即位したあと、後継指名を得られなかった山背(やましろ)大兄皇子(聖徳太子の皇子)の抗議譚が残っている(舒明即位前紀)。山背(やましろ)大兄皇子は上宮王家系だから大和王権天皇位の継承権は無く、指名を争ったのは上宮大王位だったはずだ。山背(やましろ)大兄皇子が継いでいれば抗議するはずはないからそうではなく、継いだのは宝皇后だったのであろう。初代の孫、二代目の娘、三代目の皇后である宝皇女が継承して四代目となったとするのが妥当である。三代目舒明は元々上宮王家の血筋ではなく、宝皇女の婿として上宮大王の中継ぎ役を果たしたことになります。
第3話 注 了
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