第2話 中期の「飛鳥」は九州!
「飛鳥」時代は日本古代史ハイライトの一つです。女帝の活躍した時代、物部氏を押さえ、蘇我氏を滅ぼして大化の改新に向かう輝かしい物語です。
「飛鳥」は前期・中期・後期に分けられます。その前期と後期の「飛鳥」は「大和飛鳥」であることが読み取れます。「だから中期の飛鳥も(そうは書いていないが)大和だ」とするのが平安時代以来の定説です。この中期飛鳥が最も輝いた飛鳥です。
ところが、「中期の飛鳥」は「大和王権の九州遷都」時代(第 1 話)に重なります。「えっ、では中期飛鳥は九州?!」と当然の疑問が湧きますよね。そんなこと言った人は千年居ませんでした!? なぜなら、「中期飛鳥の東漢」記事(雄略紀)に振り仮名「東漢(やまとのあや)」が奈良時代に公認されたから「中期飛鳥も大和」が定説となったのです。「東漢」は肥前ですから「やまと」は誤訓です。これは前話の「大倭(やまと)に遷都」(誤訓)の派生誤訓でしょう。原文の責任ではありません。
そうなのです。中期飛鳥は九州なのです。 以下、(1) 本当? (2) 本当なら、その飛鳥はどこ? (3) 見えてきた「飛鳥」の全歴史 (4) 「飛鳥(あすか)」となぜ読むか? について、筆者解釈を提起させていただきます。
●(1) 「中期飛鳥=九州」に証拠はあるか?_
あります。一例を挙げます。「(蘇我馬子が)筑紫の将軍達に駅使(はいま)で指令を出している」(崇峻紀592年)とあります。「駅使」は九州倭国の制度で、この時期に大和にはありませんでした。従って、「蘇我馬子の本拠は九州」と解釈されます。「蘇我(馬子)大臣、、、飛鳥の地に法興寺を起こす」(用明紀587年)とありますから、「飛鳥は九州」が導かれます。「駅使」については注1を参照ください。
●(2) 「中期飛鳥=九州」なら、九州のどこか?
「中期飛鳥」は「飛鳥板蓋(いたぶき)宮」「飛鳥川原宮」などがあった地で、多くの検証からこの「川原」は現佐賀県三養基(みやき)郡みやき町川原(こうばる)地区と考えられます。吉野ヶ里の近くです。その地「飛鳥」は蘇我馬子の本拠であり、馬子が法興寺を建てた地です(用明紀587・588年)。その東10q程には蘇我稲目の本拠小墾田があり、その西10qは蘇我蝦夷の本拠大臣と考えられます。この一帯は蘇我氏の本拠であり、蘇我氏が提供した多くの宮があった地域でした(注2)。
小墾田・飛鳥・宮処の比定地
●(3) 飛鳥の歴史
「中期飛鳥は九州」から引き出せる「飛鳥の全歴史」の筆者理解を示します。おおむね検証ずみですが、仮説とします。
西暦280年頃、朝鮮半島の混乱で後漢の後裔王族「阿知」が漢人・韓人2000人を引き連れて列島に渡来したという(応神紀二十年条)。彼らは倭国王(台与後継?)から肥前に居住地を与えられ「飛鳥(ひちょう、漢語)」と名付けて定着したようです。その位置は吉野ヶ里の近くです(前節)。その阿知子孫を含む一部漢人は応神・仁徳の東征(410年頃)に従って河内・大和に移住して「飛鳥」を地名移植した(「前期大和飛鳥(遠つ飛鳥・近つ飛鳥)」、履中紀)。
その後、倭国王(興)と雄略天皇は宋の一小国「遼西呉国」からの漢人技工の招聘事業で協力していました(雄略紀、遣宋使の寄り道か)。倭国王は招聘された漢人(新漢)を肥前飛鳥の「東漢」(阿知の子孫)に命じて漢人居留地(桃原や真神原)に置きました(雄略紀)。雄略はその一部を分け取りして住吉津(すみのえのつ)経由で河内飛鳥(近つ飛鳥、前期大和飛鳥)に分置しています(雄略紀)。肥前真神原に居た「東漢」は「大和漢人」ではなく、「肥前漢人」です。雄略紀の振り仮名はそれを「東漢(やまとのあや)注3」と「誤訓」しているので「中期飛鳥真神原はやまとだ」と誤読された理由の一つとなったのです。以上、紀の「前期大和飛鳥」は正しいのですが、それはもっと古い「肥前飛鳥」の「大和への地名移植」なのです。
次の図を紹介します。筆者の「一図にまとめた飛鳥史」です。赤枠を以て説明とします。
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これを「一図にまとめた日本古代史」に重ねた一図も示しました(こちら)。細かすぎるので、説明は省略します。詳しくは筆者別サイト(こちら)(ここに戻るには別サイトを消してください)。
さて、話は「中期飛鳥は九州」に進みます。
6世紀、肥前飛鳥は「九州遷都した大和王権」の領地となりました。その経緯は「筑紫君磐井領」 → 「(磐井乱討伐後)継体が奪取」 → 「安閑が継承」 → 「蘇我稲目に下賜」 → 「蘇我馬子が相続」となりました。蘇我馬子はその肥前飛鳥に法興寺を建てています(用明紀587年)。
「大和王権の九州遷都」は70年後に終了し(第 1 話)、推古は大和小墾田宮に帰還遷都しました(603年)。しかし、大臣の馬子は本拠を「肥前飛鳥」に維持しました。蘇我馬子は二人の大君に仕えていた(注5)からです。
20年後、次話で検証するように「舒明・皇極が肥前飛鳥に再び遷都」しました。「第二次九州遷都」(舒明・皇極)です。馬子は自領に「飛鳥岡本宮」を舒明に、「飛鳥板蓋宮」を建てて奉献しています。
「飛鳥板葺宮」での「乙巳の変」で蘇我宗家が滅ぼされると「肥前飛鳥」は大和王権領となり、後年「斉明即位」(皇極重祚)に一時的に使われています。ここまでを筆者は「中期 肥前 飛鳥」と呼びます。
斉明は対唐戦の恐れなどから再び大和への遷都を進めました。その時、肥前飛鳥の地名を大和に地名移植したのです。「倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかかわべのかりみや)」を経て、「後飛鳥岡本宮(あとあすかおかもとのみや)」に遷都し、これがのちの天武「飛鳥浄御原宮」となるのです。これが大和飛鳥であることは疑問の余地がありません。
以後、「飛鳥寺記事」が多出しますが、現在に続く大和飛鳥寺です。これらが「後期大和飛鳥(注6)」です。
以上、「前期飛鳥は大和」は正しいのですが、「肥前飛鳥の飛び地」です。その説明にある「東漢(やまとのあや)」の誤訓と「大倭(やまと)へ遷都」の二つの「誤訓」によって「中期飛鳥も大和」と誤読されてきました。正しくは「中期飛鳥は肥前」です。「後期大和飛鳥」はもちろん正しいですが、斉明天皇による「大和への地名移植」です。
●(4) 「飛鳥」を「あすか」と読む由来
渡来人は同じ入植地に集められ、集まる傾向がありましたから、肥前の漢人居留地「飛鳥(ひちょう、渡来漢人の自称漢語地名?)」の一部に韓人居留村「安宿(あんすく、韓語普通名詞)」があり、倭人がこれを「あすか(明日香)」と聞き書きしたのが「飛鳥(あすか)」の訓読になったと考えます。肥前の飛鳥が地名由来元で、その一部が大和に移住と地名移植をしたのが前期大和飛鳥と考えます。中期飛鳥は本家肥前飛鳥に大和王権が遷都したから紀に頻出するようになったのです。後期大和飛鳥は斉明天皇が肥前飛鳥から大和の現明日香村に地名移植したと考えます。
このように解かってみると、何か夢が壊されるように感じる方も居られようが、このように「飛鳥」が解ければ俄然面白くなります。なぜなら、「飛鳥」以外のこともすらすら解ってくるからです。次話につづきます、ご期待ください。
第2話 中期の「飛鳥」は九州! 了
第3話では「第二次九州遷都」を検証します。
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以下、注
●注1 「駅使(はいま)」について (戻る)
「駅使(はいま)」は「騨馬(はいま、欽明紀三二年年条)・「駅馬(はいま、大化二年条)」・「馳駅(はいま、皇極紀二年条)」・「駅(はいま)に乗りて(斉明紀四年条)」などと表記されている(紀岩波版頭注は「いずれも馳馬・早馬(はいま)の約である」としている)。これら「駅馬(はいま)」は筑紫はじめ九州北半分に整備された倭国の制度であった(これら紀は九州遷都時代)。
大和の駅馬制度は大化の改新で初めて整備された。孝徳紀646年に「(大化二年、改新の)その二に曰はく、初めて京師(孝徳難波宮)を修め、畿内国の司・、、、・防人 ・駅馬・伝馬を置き、鈴契(すずしるし)を造り云々」とある。「九州遷都」を是とすれば、ここの「駅」字が大和関連記事では紀初出である。陸路の駅馬・馳馬に対して海路では対馬海峡(200q強)の軍令などに使われた「馳船(ときふね)」の語があり(欽明紀十四年条)、対馬海峡より長距離の九州・大和間(500q)にも早船が使われたと考えられる。
これら紀で「駅□」が「はいま」と振り仮名されたのは、「大倭(やまと)へ遷都」と振り仮名(第1話)した結果、その大和には未だ「駅□」制度が無かったのでどこでも使われた「馳馬・早馬(はいま)」のことだろう(紀岩波版頭注)と「駅□(はいま)」と振り仮名(訓読)したと考えられる。岩波版は奈良・平安時代の古書振り仮名に従っている(岩波版巻頭解説)。
細かい話になりますが、推古紀の後半には「駅馬」は出ません。「駅馬制度のまだ無い大和へ帰還遷都」したからです(第1話)。しかし、次の舒明紀・皇極紀には「駅馬」も「飛鳥」も又出てきます。又九州に遷都したからです(第二次九州遷都は第3話で検証します)。 (戻る)
●注2 もう一つの誤訓 「東漢(やまとのあや)」 (戻る)
「もう一つの誤訓」も絡んでいる。
「(蘇我馬子が)法興寺を作る、、、此の地を飛鳥の真神原と名づく」(崇峻紀588年)
「(蘇我馬子)大臣薨ず、乃ち桃原墓に葬す、、、家は飛鳥河の傍、、、」(推古紀626年)
ここに出てくる地名「飛鳥真神原」・「飛鳥桃原」は「九州遷都時代」だから「九州飛鳥」だが、100年以上前の雄略紀463年にも出ている。その内容は「飛鳥の有力漢人である東漢(とうかん、氏族漢語名)に命じて新漢(招聘漢人技工)を(肥前飛鳥の)真神原や桃原に居住させたが、その一部を雄略が貰い受けて大和飛鳥(近つ飛鳥、河内)に住まわせた」というものだ(詳しくはこちら)。この雄略紀は「前期大和飛鳥」の関連記事なので「東漢(やまとのあや)」と振り仮名されてしまい、この振り仮名で「東漢」も「桃原」も「真神原」も大和と誤認され、前節記事もすべて「大和飛鳥」と誤認されただ。しかし、「真神原の東漢」は「大和漢人」ではない。「肥前漢人」で、漢語氏族名だから「東漢(とうかん、本国より東の漢王族、漢語名)」だろう。 (戻る)
●注3 中期飛鳥はどこか? (戻る)
「安閑天皇は大倭(たい=九州)に遷都したのち、妃に小墾田(おはりだ)屯倉を与えた」(安閑紀元年)とあります。この地はのちに蘇我稲目大臣に与えられました。「稲目の小墾田の家は向原(むくはら)の近く」(欽明紀552年)とあるから、小墾田は現鳥栖市向原(むこうばる)の近くでしょう。
その「小墾田」の西10q程に 現佐賀県三養基(みやき)郡みやき町川原(こうばる)地区があります。「飛鳥板蓋(いたぶき)宮災(ひつけ)り、飛鳥川原宮に遷居す」(斉明紀655年)とある「川原宮」の地でしょう。宮名に使うのだから「川原」は河川敷ではない、れっきとした「飛鳥の川原地区」でしょう。現在も「川原(こうばる)橋」が近くにあります(筆者確認)。吉野ヶ里の近くです。その地「飛鳥」は蘇我馬子の本拠であり、馬子が法興寺を建てた地です(用明紀587・588年)。
その「飛鳥」の西10q程に 舒明の宮の地「宮処」がありました。「百済川を以て宮処と為す」(舒明天皇639年)とあり、宮処は地名として残っています。「肥前国神崎郡 蒲田、三根、神崎、宮所」(和名抄)、「神崎郡宮処郷、郡の西南にあり」(風土記)とあります。「神崎郡の西南にある百済川」とは現佐賀県神崎郡諸冨町城原川(じょうばるがわ)でしょう。この一帯は舒明の大臣蘇我蝦夷の本拠と考えられます。
要すれば、この筑後川北側一帯は蘇我氏本拠でした。その一角に「諸天皇の宮」があり「肥前飛鳥」があったのです。
●注4 「一図に示した日本古代史」に重ねる (戻る)
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●注5 蘇我馬子は二人の大君(おおきみ)に仕えた (戻る)
第1話で「推古は603年、九州豊浦宮から大和小墾田宮に帰還遷都した」と検証した。ではなぜ上掲のように「蘇我馬子の飛鳥墓」が推古紀(626年)に出てくるのだろうか。
それは、「馬子は大和王権大臣」は続いていたが、「馬子の本拠は飛鳥」を変えていないからだ。それはもう一人の大君(上宮大王)が飛鳥に居たからだ(飛鳥岡本宮、推古紀)。これを示す記事がある。飛鳥の馬子が大和を訪れ、新年の宴で大君(推古)に歌を献じ、推古が「あなたも良い息子を持っているね、その息子らをもう一人の大君(上宮大王)が使っている、と聞いているわ」と返歌したとある。馬子は上宮王権の確立を優先しているのだ。
推古紀612年
「春正月七日に、置酒して群卿に宴す。是の日に、大臣、壽上(おほみさかづきたてまつ)りて歌ひて曰さく、やすみしし 我が大君の(云々)、、、拝みて仕えまつらむ歌献る、天皇、和(こた)へて曰はく、眞蘇我よ蘇我の子らは馬ならば讐武伽(ひむか、日向)の駒、太刀ならば呉(くれ)の眞刀(まさひ)諾(うべ)しかも、蘇我の子らを大君の使はすらしき」
推古は603年以来大和小墾田宮に居る。そこでの酒宴であろう。まず蘇我馬子が推古に歌を奉った。その「我が大君」は推古を指している。馬子と推古の関係を示している。次いで推古が返歌する。返歌の「大君」は自分の事ではない。「蘇我の子らを使う大君」である。しかも推量文「らしき」である。自分とは別の「遠くに居る大君が使うらしい」である。蘇我氏が仕えるもう一人の(大和から見て)遠くに居る大君は上宮王(九州、大王)である。推古は馬子に「良い息子らを持っているね、その息子らを(もう一人の)大君(上宮王)は使っている、と聞いているわ」とやんわり羨んでいる(上宮王と馬子の近さをひがんでいる)のである。従来の解釈では「後半の大君も推古」とするから、推古が自分を大君と歌う、となり訳が解らなくなる。
この歌は上宮王に言及している推古の歌である。馬子に対して少し媚びがあり、少しすねている。蘇我馬子(大臣)が大和に来たのは久しぶりなのであろう。息子ら(大臣代理)がしばしば来ている様子もない。来ているのは大和駐在の代官クラスであろう。推古にすれば大和に島流しされたようなものだ。しかし、馬子にすれば「寂しかったら、もう一人の大君の皇太子聖徳太子が近くの斑鳩に居るのだから摂政と思って頼ったらよい」あたりが本音であろう。注目すべきは「推古紀が、大君が二人出てくる一文を隠していない」点である。上宮王を不記載としている推古紀が隠し漏らしたのであろうか、二人の大君の記憶が早くも失われたからであろうか。
以上から、蘇我大臣は肥前から大和小墾田宮にすら出向いている。九州蘇我領内に提供した二王権の宮があった頃にはそれらに足繁く通っていたであろう。蘇我氏の本宅に天皇を呼びつけるような失礼はさすがしていない(「蘇我王権説」の否定)。 (戻る)
●注6 中期飛鳥の終了と後期大和飛鳥 (戻る)
皇極の次、孝徳天皇は摂津難波宮に遷ったので、中期九州飛鳥の記述は日本書紀として終了となった。
ただし、その後の記事に次のようにある。
「天皇飛鳥板蓋宮に於いて即位」(斉明紀655年、皇極の重祚)
「飛鳥板蓋宮(肥前)災(ひ)つけり、飛鳥川原宮(肥前)へ遷居す」(斉明紀655年)
とあり、皇極紀のと同じ肥前飛鳥ですが、即位だけに使った一時使用(655年のみ)なので、筆者は後期の飛鳥には入れない。
斉明はその後、南大和(明日香村)に「飛鳥」を地名移植し、そこに遷都した。これ以降が「後期大和飛鳥」である。ただし、これは前期飛鳥(近つ飛鳥(河内)、遠つ飛鳥(中部大和))とは別の地である。
斉明紀656年に「(大和の)岡本に宮地を更定す、遂に宮室を起す、天皇乃すなわち遷うつる、号して曰く、後飛鳥(のちのあすか)岡本宮」とあり、16年後の天武紀に「宮室を岡本宮の南に営る、即ち冬に遷りて居す、是を飛鳥浄御原宮と謂う」(天武紀元年672年)とある。これらから、この岡本宮は肥前飛鳥岡本宮(舒明紀)と区別するため、後(のちの)飛鳥岡本宮とし、更にこの南に造った飛鳥浄御原宮が大和であることは、後続する記述から疑問の余地が無い。後続記事の飛鳥は大半が「飛鳥寺」で、丈六大仏のある現大和明日香村の「飛鳥寺」である。
(戻る)
第2話 注 了
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