https://wakoku701.jp/JPG/1000.jpg

_

____________________________________________________________________

三著 「千年の誤読」 第一章_ ________________

 

HOME   年表・地図   参考文献 ______________

 

 

日本書紀が正す「千年の誤読」

 

はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷

 

 

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」の振り仮名

(更新 2023.09   2020.2

  

「大倭」の誤読を取り上げるのは、「日本書紀の誤読千年の原点」だからだ。紀は漢文で書かれているから、元来は振り仮名は無い。しかし奈良時代から振り仮名付きの写本が広まった。その振り仮名が仮に誤りで、それがそのまま定説化されれば、以後の読者は誤読する。「千年の振り仮名誤読」である。これを正す「鍵」は日本書紀の原文に示されているのだから、正しているのは日本書紀自身であって筆者ではない。

日本書紀には「大倭」が16回出てくる。紀の振り仮名付き写本や解説書はほぼすべての「大倭」に「やまと・おおやまと」と振り仮名している。16回の内8例は「大和」に関する内容だから妥当な振り仮名だ。しかし、他の8例は「九州倭国」に関する内容だから妥当な振り仮名ではない。奈良時代の関係者は知っていてそう振り仮名したと思われる。つまり「意図的・政治的な振り仮名」、つまり「誤読誘導」である。

この振り仮名による誤読によって、ほとんどすべての「倭」「大倭」が「やまと」と読まれ、元来の「倭国(わのくに、九州筑紫を宗主国とする列島総国)」「大倭国(たいのくに)、九州倭国の自称国号)」「大倭(たい、つくし、通称、筆者説)」の理解が失われてきた。その結果生じた不整合・不審を検証してゆくとこの「千年の誤読」を解く鍵「振り仮名誤読の呪縛」が解け、「筑紫を宗主国とする列島総国倭国」の実像が確認される。更に「大和王権は534年(安閑)〜603年(推古初期)まで、70年間近畿大和から九州豊前に遷都した」という教科書にも歴史書にも無い驚くべき史実、定説も九州王朝説のほとんども解読してこなかった史実が論証できる。

更に、この解読が第一章の解読を可能にし、第三章・第四章、そして第七章の「日本古代史全体像の把握」につながる。

 

● 「倭国」の初め

「倭国」は中国が朝鮮半島南部から列島に居住している倭人の国を指した他称である(後漢)。漢語であるからその読みは「倭国(ゐこく)」である(漢音も呉音も同じ)。卑弥呼の国もそう呼ばれた。魏志倭人伝にも「(帯方)郡は(卑弥呼の)倭国に使いす」とある。その治所(本拠)は九州であった。その根拠は同書に「帯方郡から北九州沿岸まで一万里(海路距離、現在計測で800q)、女王卑弥呼の女王国(国都国、首都)に至るまでは更に二千余里(北九州沿岸から160q、陸路距離)」とあるから、「卑弥呼の女王国は九州内」である。大和(やまと)は北九州から500q(六千余里、海路距離)であるから卑弥呼の女王国は大和ではない。従って魏志倭人伝の「倭」字は漢語であるから「やまと」と読まないし、内容的にも九州であるから「倭(やまと)」と振り仮名すべきではない。魏志倭人伝に関する限りこれには異論はない。紀岩波版も「倭(わ)」と振り仮名している。

 

● 日本書紀の「倭」字

日本書紀でも魏志倭人伝の引用がありこれには「倭(わ)」(漢語の和読)と振り仮名されている(神功紀本文注 3、日本書紀岩波版など)。これはこれでよい。しかしこれら以外に「倭」字が200か所近く出てくる。写本ではほぼすべて「やまと」と振り仮名されている。確かにこれら大半の「倭」は「内容から大和に関連したこと」が確認され、振り仮名したのは妥当だと考えられてきた。

問題は二つある。表記上(表音表記、表意表記)の問題と読み方の問題だ。表記上では「やまと」(奈良地方を指す和語)は「夜麻登」「山常」などと当て字されてきた。いつ頃から、なぜ「倭」字を当てたのだろうか?

また、「倭」字200か所の内の16か所に「大倭」とある。紀の訓読付き写本や解説書では、ほぼすべてこれも「大倭(やまと)」と振り仮名している。その半数(8か所)は内容が「やまと」に関するから妥当な振り仮名だ。

ここで疑問はなぜ「倭」に「やまと」と振り仮名するのだろうか。本来「倭」「倭国」の表記は「倭・倭国=九州倭国」を意味した、と前述した。その「倭」字が「やまと」の意味に変えられたのには訳がある。「倭国の滅亡」(680年頃)である。魏〜宋など中国南朝に「朝貢外交」してきた九州倭国は「遣隋使を出した多利思北孤(たりしほこ)王」以降、北朝の隋・唐に対して「対等外交」を目指した。そのこだわりから、白村江戦672年)で唐と戦い敗れ滅亡してしまった(680年頃)。その結果、残存単独王権となった大和王権の天武は、「大和王権による倭国の継承」を構想して「外交的には倭国を継承し、国内的には宗主国(国都国)筑紫に代わって「やまと」が事実上の宗主国となった。即ち、百済・新羅に対して漢語国号「大倭」を継続使用し、和語「やまと」に「倭」字を当てて、和語国号を「大倭(おおやまと)」、国都国名を「倭国(やまとのくに)」としたのだ(古事記)。倭国と敵対した唐は天武の「大倭国号の外交継承」を認めず、国交は断絶したままだった。

天武の独り天下は倭国滅亡(680年頃)から天武崩御(686年)までの数年間に過ぎない。しかし天武の構想した「倭(わ)国継承とやまと主導」思想は「倭(やまと)」の訓読創始として記紀に引き継がれた。

天武崩御後の持統・文武は天武の古事記(国号「大倭(おおやまと)」)を封印し、漢語国号を唐の受け入れる「日本」に改号し、「倭」字を国名から国都名「倭(やまと)」以下に矮小化して「九州倭国不記載」の「日本書紀」を公定したのである。唐はこれを「倭国と日本国は別」として受け入れ(旧唐書)、文武の遣唐使は対唐朝貢外交を実現した。

日本書紀はこれに沿って書名を「日本」とし、「倭国不記載」としながらも「天武の『やまと』に『倭』を当て字とする定め」を継承したから、ほぼ完全に「倭(やまと)」で統一されている。原義「やまと」(和語)に「倭」字を当てた「当て字」であるから誤まった振り仮名とは言えない。

 

● 日本書紀の「大倭」

例外は「大倭」である。「倭」字200か所の中に16か所の「大倭」「大倭国」が含まれている。その半分8か所の「大倭」は前項と同じ「『やまと』 →『倭(やまと)』(当て字) → 『大倭(やまと』(新当て字)」の流れであるから、誤読とはいえない。しかしそれは天武改変以降の話。それまでの3世紀から7世紀末までは「倭=大倭=九州倭国」であった。日本書紀は「倭国不記載」ながら、8か所でこの「九州倭国」の意味の「大倭」を使っている。これらは「大和王権と九州倭国が関係ある事績」に出てくるので、隠し忘れた訳ではない。ただ「大倭(やまと)」に混ぜて使っているから、誤読誘導の責めは免れない。しかし、これをはっきり「やまと」と振り仮名するのは「知りながらの虚偽の振り仮名」とされても致し方ない。指導した奈良時代の日本紀講筵(にほんぎこうえん、貴族向け解説講座)」に始まり「それに倣った後世の誤読」に続いたのである。

まず、「大倭」の由来を確認する。

(1) 倭国は卑弥呼の時代に中国から「倭国」と呼ばれていた(前述)。

(2)  卑弥呼の倭国は360年頃までに「倭の五王」(宋書)系によって再統一されたが、同じ「倭国」を自称した。中国からもそう呼ばれていた(宋書)。

(3)  倭国は東征(神武東征・崇神四道将軍)・西征(九州統一、景行が協力)・半島征戦(神功・応神が前線司令)によって拡大を続け、百済・新羅を征圧する大戦果を挙げた。「倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・新羅を破り、臣民となしてしまった」(広開土王碑)とある。

(4)  勝った倭国は百済・新羅に対して「大倭」を使い始めた。神功紀六二年条(390年頃か)割注に「〈 百済記に云ふ、、、加羅の国王の妹既殿至(けでんち)、大倭に向かいて啓(まう)して云う(抗議す)云々〉」とある。百済記も神功紀も漢文だから、その読みは「大倭(たいゐ)」であろう。この「大倭」は「魏」の美称「大魏」に倣(なら)った「倭国」の自尊称名であろう。中国はこれを倭国の不遜として嫌ったようで、中国に対しては使わなかった。半島では征戦が長く続いたこともあって、この「大倭」は使われ続け、国内でも和語化されて使われた。神功紀から斉明紀までこの「大倭」が「九州倭国」の内容で出てくる(8か所)。倭国滅亡まで使われたようだ。「 倭の五王」(宋書)系によって再統一されたが、同じ「倭国」を自称した。中国からもそう呼ばれていた(宋書)。

 以上の分類は後述の「『大倭』16例の検証」の節で解析する(@〜O)。

 

● 「大倭」の読み方

「大倭」の読み方は前節で漢語「たいゐ」に言及したが、この他に「和読み」「和語化」「通称」などさまざまな読み方があったようだ。末尾節に検証を示す。

(1)「大倭(たいゐ)」 漢語読み 

漢語読みは頻度は高くないが、どの時代にも出てくる。前節の神功紀の他に、応神紀・雄略紀に百済書引用の漢語「大倭」がある。内容は「総国・宗主国=九州倭国」である。後述16例のBCE。

(2)「大倭(たいい)」「大倭(たい)」 和語読み  

百済書引用の漢語が当時どのように和語よみされたか、日本書紀の後代振り仮名ですべて「やまと」とされているからわからなくなっている。だが、「大倭(たいゐ)」の佳字として「大委(たいい)」があることが正倉院御物「法華義疏写本」に「大委国上宮王」の署名があることから和読で「大倭(たいい)」があったことが推測される。また、隋書に「倭国が『俀(たい、イ妥)』と自称した」とあることから「大倭(たいい、漢語和読)」がしだいに「大倭(たい)」と和読とされたことが推測される。即ち、「大倭(たいゐ、漢語) → 大倭(たいい、和読) → 大倭(たい、和語・和読) → 俀(イ妥、たい、和語)」の流れがあったと考えられる。

(3)「大倭(つくし)」  通称(推測)

総国「大倭(たいゐ)」の和読として「大倭(たい)」があったと述べたが、これは外交用語・官庁用語であり常用には違和感があり、地方からみれば「大倭」も「筑紫」も同義語だろうから、通称として「大倭(つくし)」と訓読(同義和語読み)された可能性があると考える。その根拠の一つは後年の「大倭(やまと)」の振り仮名である。総国「大倭国」を国都国名「つくし」と読み習わした前例があったからこそ天武の総国「大倭国」を新国都国「やまと」と読ませる発想が生まれた、と推測される。

安閑元年「大倭国勾金橋に遷都す」、次代宣化紀四年「天皇を大倭国身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうえ)陵に葬る」とある。「勾金橋」は豊国(現福岡県香春町勾金)、陵も同一表記であるから豊国であろう。これら「大倭」も同様の理由から「大倭(つくし)」であろう。

(4) 「大倭(おおやまと)」  紀には無し 古事記のみ

  この読み方は日本書紀には出て来ない。古事記に総国名「大倭」として数回でてくる。天武は倭国滅亡後、倭国の自称総国名「大倭国」を継承したが、和語総国名として「大倭(おおやまと)」と読ませた。その根拠は古事記国生み譚の「大倭豊秋津島」と日本書紀国生み譚の「大日本豊秋津洲」及びこれの読み方注「日本、此れを耶麻騰(やまと)という」との比較からそのように解析される。古事記の「大倭」(13か所)はすべて「大倭(おおやまと)」と和読して良い(検証は →こちら )。

(5) 「大倭(やまと)」   日本書紀 後世振り仮名

天武の和語総国名としての「大倭(おおやまと)」(古事記)は外交用語であって、国内殆ど使われなかったので、天武は国都国名「倭(やまと)」に二字美称冠字した「「大倭(やまと)」への改字令を出した(683685年、坂田説)。例えばこの頃「倭(やまと)直」から「大倭(やまと)直」への改姓がある。遡及表記にも 雄略二年に「大倭国造吾子籠宿禰」、孝徳紀645年の「欽明天皇十三年(552年)に百済王が仏法を我が大倭に伝えた」とある。いずれも内容的に「大和」に関する例で、計8例ある。これらは「やまと」に新当て字表記「大倭」を指定したのだから、「やまと」と振り仮名しても内容と一致し、誤読ではない。次節16例中8例、ADHKLMNO が該当する。全て天武以降の用例である。内ADは天武以前の事績に遡及表記している。

結論を繰り返すと(1)(2) は「大倭=九州」で8例ある(@BCEFGIJ)。(3) (4) は「大倭=大和」で8例ある。

 

● 日本書紀の「大倭」16例 検証 

以下が16例の解析である。いささか詳論証であるので、上記結論を仮に了とするなら次節まで飛ばして読まれても良い。

@  垂仁紀二五年条の「天照大神を祀り直そう」の文の割注(一に云う)に「大国主神」の意味で「倭大神」が、また「天照大神」の意味で「大倭大神」が出てくる。岩波版は両方共「やまとのおおかみ」と振り仮名しているが、注であるが別の神を「倭」「大倭」と書き分けているから、別の読み方がふさわしい。大和では「大国主神」の方が先在して「やまとの大神(おおかみ)」だった、と解釈すれば、この「倭(やまと)」は天武改字後の標準的な用字(読み方)として良い。この垂仁紀記事は「垂仁時代に大倭大神(天照大神)をやまとに祀り直そうとした」という内容だから、「神武がつくしから持ってきた天照大神」と解釈すれば、天武改字前の「大倭(たい)」(九州倭国の自称名、500年頃)か「大倭(つくし)」(通称)の用字(読み方)と解釈するのが妥当だが、神武の祖は「つくしのひむか」に天降った神祇系のニニギである(神代紀)。「大倭(つくし)」の用字例に入れる。

A 垂仁紀二五年条に「大倭(やまと)直(あたひ)の祖長尾市宿禰」(振り仮名は岩波版)とある。これは「紀編纂時の大倭直の祖は垂仁時代の長尾某である」の意味であるから、これは「「倭(やまと)直」から「「大倭(やまと)」への天武改字に従った遡及表記である。「改姓」でなく「改字」であるから振り仮名が同じであることは妥当である。天武以降の「大倭(やまと)」の用字例に入れる(「大倭(おおやまと)直」ではない)。

B 神功紀六二年条に「百済記に云ふ、新羅が貴国(きこく)に奉らず、貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣り之(新羅)を討たしむ、、、(サチヒコは美女で釣られて新羅でなく加羅を討つ)、、、加羅国王の妹が大倭に向かい敬(もう)して云ふ(抗議した)、、、天皇大怒し、即ち木羅斤資を遣わし云々」とある。ここで「大倭」とあるのは百済記であるから漢語である。倭国はこの頃から百済・新羅に対して「大倭(たいゐ)」を自称し始めていた。加羅が「大倭(倭国)」に抗議しているから「貴国(きこく)」(日本貴国=北肥前の日本軍の兵站基地、紀国と同じ語源を持つ名称か、尊称ではない)に新羅を討つよう命じたのは倭国王」と解釈できる(倭国軍・日本軍(応神)の連合軍統括者は倭国王)。漢語だから「大倭(たいゐ)」の例であるが、内容は九州倭国である。「大倭(やまと)」ではない。

C 応神紀二五年条に「大倭木満致(もくまんち)が百済の国政を執る」とある。「大倭」は漢語であろう。しかし、「大倭」字を欠く写本があったり、整合性に問題があり、岩波版ではここの「大倭」を削除している。筆者は百済関連記事であるから漢語であり、読み方の節で示した(1)「「大倭(たいゐ)」の例に分類する。時代的に「大倭=九州倭国」である。

D 雄略二年に「大倭国造吾子籠宿禰」とある。元は「「大倭(やまと)直(あたひ)」と称したとあり(仁徳紀)、「やまと」→ 「倭(やまと)」(天武以降) → 「大倭(やまと)」の当て字変化、前節(4)の例と考えられる。遡及表記である。「大倭(やまと)」の例である。

E 雄略紀五年に「百済新撰に云ふ、、、大倭に向かい天王に侍し」とある。この漢語「大倭(たいゐ)」は前々節で検証した。百済新撰引用だから、漢語「大倭(たいゐ)」で九州倭国の自称名である。

F 安閑紀元年に「都を大倭国勾金橋に遷す」とある。福岡県香春町勾金か。継体は「筑紫君磐井の乱」を制圧して磐井遺領を得たので、次の安閑は豊国勾金橋に遷都したのである。和語読みするときは「大倭(たい)」だが、これは外交用語なので民間では通称「大倭(つくし)」(前節(2)の例)だった可能性がある。いずれにしてもこの「大倭国」は九州である

G  安閑の次、宣化紀四年「天皇を大倭国身狭桃花鳥坂上陵に葬る」とある。前項の「安閑の大倭国」と異なる理由が無いから「大倭(つくし)」とする。

H 孝徳紀645年に「欽明天皇十三年(552年)に百済の明王(聖明王)が仏法を我が大倭に伝え奉る、、、而(しか)るを蘇我稲目宿禰独り其の法を信ず」とある。552年は「仏教大和初伝」である。欽明紀の引用風であるが、欽明紀に無い「大倭」を出している。欽明紀が使用した元興寺伽藍縁起の「大倭国仏法創めて百済より渡る(538年)」の「大倭」を孫使用したと思われる。こちらの「大倭国」は九州倭国である(FG)。引用に混乱がある。紀・縁起の「仏教伝来譚」には共に多資料の引用混在・作文・勘違い・時代の再編などあるようだが、源は「百済王の表(ふみ、漢文、欽明紀)」にあった可能性がある外交漢語「大倭(たいゐ)」に始まったと考える。背景はいろいろあるが、ここの「大倭」は538年の大倭(九州)でなく、「「大倭(やまと)」の遡及表記である。

I 斉明紀661年に「伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこのしょ)に云ふ、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い近し云々」とある。この文章の解析は複雑だが、倭国と日本が対で出てくる文章だから九州倭国のことで、大和人の噂話であるから「大倭(つくし)」と振り仮名するのが妥当である

J 天武紀675年に「大倭国瑞鶏を貢(たてまつ)れり」とある。倭国滅亡前に当たり、「大倭(やまと)」(遡及使用)、「大倭(つくし)」どちらとも取れるが、実はどちらも「宗主国が貢する」という、あり得ない内容となる。「「大倭(つくし)」が大和王権に貢した」と誤読誘導する文章、と考え筆者は後者を取る(大倭(つくし)の個人が天武天皇に瑞鶏を奉った些事の針小棒大譚か)。

K 天武紀675年に「大倭、河内、、、(他十三国列挙)に勅す」とある。これは「やまと」へ「大倭」字を当てた683年以降の改字の遡及表記「大倭(やまと)」である。

L 天武紀685年「大倭(やまと)連(むらじ)」がある。「倭(やまと)連(むらじ)」の改字である。

M 持統紀686年「美濃の軍将等と大倭桀豪、共に大友皇子を誅し云々」とある。人名「大倭(やまと)桀豪(いさを)」か「大倭(やまと)の豪傑」の意か不明だが、「大倭(やまと)」の例である。

N 持統紀692年「四所、伊勢、大倭、住吉、紀伊」とあり「大倭(やまと)」の例である。

O 持統紀692年「五社、伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足」とあり「大倭(やまと)」の例である。

以上、まとめると「大倭=九州倭国・つくし」は8例(@BCEFGIJ、この内漢語系はBCE)、他の8例は「大倭=やまと」である。即ち後世写本のように、16例すべてに「大倭(やまと)」と振り仮名するのは正しくない。この誤り(あるいは誤読誘導)の結果「大和王権の九州遷都」という正しい認識が失われ、日本書紀の後世解釈が史実から遊離し「不整合だらけ」となる結果を招いた。日本書紀の誤読が糺(ただ)されなければならない所以(ゆえん)である。「後世の、誤読誘導の振り仮名」から解放されれは、日本書紀の上述した検証により、「三種類の読み方」が正しいことが判る。正しているのは「振り仮名以前の日本書紀原文」である。

 

● 「大倭」が「九州倭国」である、と論証できる例

 雄略紀に「大倭」がでてくる。

 

雄略紀五年条(461年)

「百済の加須利君、、、其の弟の軍君に告げて曰く、汝宜しく日本に往き、天皇に仕えよ」

「加須利君の婦が、、、児を産めり、仍ち児の名を嶋君と言う、、、是れ武寧王と為る」

百済新撰に云う、、、蓋鹵王(がいろおう)、弟の昆攴君を遣わし、大倭に向かわせ天王に侍らし、以って先王の好を脩(おさ)むる也」

 

要約すると、「百済の君が弟を日本の天皇に仕えさせた。百済新撰には『百済王が弟を大倭の天王に仕えさせた』とある。」と二文が並記されている。その間に「加須利君の子嶋君は後に武寧王となる」という挿話が記されている。系図風には次のようにまとめられる。

 

雄略紀                 

┏兄 加須利君(百済の君) ━ 嶋君(=武寧王)  

┗弟 軍君  日本の天皇に仕える    

 

百済新撰

┏兄 蓋鹵王 (百済王)

┗弟 昆攴君 大倭の天王に仕える 

   

従来、この「二文並記」は「日本側の記録を外国資料で確認するという丁寧な記述」と考えられてきた。その結果「二国の記録が同一内容だから事実が確認できた」と考えられた。以下ではこれを「二文同一」と称することにする。これにより、

「加須利君=蓋鹵王」

「弟の軍君=弟の昆攴君」

「日本=大倭」

「天皇=天王」

と見事に対応する、と認められ、「大倭=日本」「天王=天皇」が定説化されてきた。

しかし、この二文に次の文献を合わせ読むと、「二文同一」ではないこと、逆に「大倭≠日本」を証明している、と坂田隆が著書「日本の国号」(青弓社 1993 年) の中で論証している。

 

武烈紀四年条

「百済新撰に云う、、、武寧王立つ斯麻王と諱(い)う。是れ混攴王子の子なり」

 

即ち、先の二文にこれ(下線部)を加えて合わせ読むと、次のようにまとめられる。

 

雄略紀+雄略紀百済新撰+武烈紀百済新撰

┏兄 蓋鹵王

┣弟 加須利君(=昆之君)━ 斯麻王(=嶋王)=武寧王

┃           大倭の天王に仕える

┗末弟 軍君  日本の天皇に仕える

 

坂田の結論は「百済王は三兄弟だった。兄蓋鹵王は弟の昆支君を大倭の天王に仕えさせ、この昆支君(=加須利君)は末弟の軍君を日本の天皇に仕えさせた」と言う、極めて明快な記述、とする。すなわち、「二文同一」と全く逆の結論が導出される。

「加須利君≠蓋鹵王」

「弟の軍君≠弟の昆攴君」

「日本≠大倭」

「天皇≠天王」

すなわち、「大倭≠日本」であり、「天王≠天皇」だ。これは、日本書紀(引用の百済新撰を含む)だけで読み取れる論理であって「推測」ではない(詳論はこちら)。

これによって「大倭≠日本」が「史実」と確認できた。この論証を基点として、次々と確認できることがある。

(1)「百済の蓋鹵王が二人の弟を(人質のように)大倭と日本に送り込んだ」とあるから、大倭と日本は同格だったのだろうか。しかし「大倭の天王に仕えた昆之君が末弟軍君に日本の天皇に仕えさせた」とあるから、「大倭>日本」である。合わせると「ほぼ同格ながら、大倭が格上」、即ち「大倭≧日本」のような関係であろう。

(2) 「大倭」は「日本」の格上の国だから、遣宋使を送った列島宗主国「倭国」は「大倭」である。

(3) 「日本」はこの頃「国内で使われた形跡のない国名」であるが、「半島で倭国(軍)に従った近畿・東方諸国連合(軍)」を指した「見做し国名」であり、その連合軍が自称として半島で「日本」を使い、使わせたと考える。その代表が「日本の天皇=大和天皇」であるが「日本=大和」ではない。

(4) 「天皇」の称号は国内では推古期以降とされ、それまでは「大王」だったと考えられている。しかし、半島関連記事では神功紀にも「天皇」が出てくる。海外征戦地でのみ使われた「格上げ称号」として使われ、使わせたと考える。

(5)  雄略紀の天皇は雄略である。その時期の倭国王は宋書から「倭国王興」である。二人は別の王である。「大倭の天王」と「大和の天皇」は別の国、別の王である。

以上からこの雄略紀の「大倭」は「九州大倭国(=九州倭国)」である。

 

  「大和王権が大倭に遷都した」  (検証)

安閑紀元年(531年、雄略紀から70年後)に「都を大倭国勾金橋(まがりのかなはし)に遷す」とある。この「大倭国勾金橋(まがりかなはし)」はどこか、をここで検証する。通説は「大倭(やまとのくに)」と振り仮名されているように、「奈良県橿原市曲川(元金橋村)か」とされている。しかし、上述したようにこの時代の「大倭」は「九州倭国」である。九州に地名「勾金」(福岡県香春(かわら)町勾金)がある。ここから「大和王権が九州に遷都した」という解釈が提起される。突拍子もない解釈と思われるが、実は長年の歴史的積み重ねでこの遷都が実行されたのである。

(2) 「大倭」で「筑紫君磐井(いわい)の乱」が起こった。磐井は大和孝元天皇(8代)の皇子大彦命の子孫で、前項に協力した大和の将軍として活躍し、九州に定着した「大和系九州豪族」であろう。大和から「筑紫君」と呼ばれたようだ。もちろん倭国王(筑前)ではない。本拠が筑後だからである(磐井の墓(岩戸山古墳)に類する石像分布から)。磐井は「(自分が大和系だから)大和王権の継体と連携して大和連合を組めば、倭国王家を倒せるかもしれない」と考えたかもしれない。しかし、倭国の支援で即位した継体/物部麁鹿火(大臣)は一転して磐井と戦い国運を賭してこれを征伐した。これが「大和王権が大倭に対して対等を取り戻した瞬間」である。

(3) 次の安閑は継体の長子として即位。安閑/物部麁鹿火は九州の筑紫君磐井の所領を着々収奪して大和王権の屯倉とした。安閑紀535年に「筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉、豊国の膜碕屯倉始め5屯倉、火国の春日部屯倉などの他、播磨・備後・阿波・紀・丹波・近江・尾張・上毛野・駿河に各1〜2の屯倉を設けた」とある。大彦系七族から差し出させたのであろう。

(4)  安閑はこれら屯倉の最も多い豊国に遷都した。安閑紀534年「大倭国の勾金橋(まがりのかなはし)に遷都す」とある。「大倭国」は九州倭国であることは前節で論証した。勾金橋は現福岡県田川郡香春町勾金か、これを以下確認する。安閑天皇は遷都すると大和の皇后(仁賢天皇の女(むすめ))とは別に三妃を立て、それぞれに小墾田(おはりだ)屯倉(みやけ)・桜井屯倉・難波屯倉を与えたという(安閑紀)。小墾田(おはりだ)屯倉は「向原に近い小墾田」(欽明紀552年)とあるから、現鳥栖市向原(むかいばる)川付近であろう。桜井屯倉は「向原に近い桜井」(元興寺縁)とあるから、これも近くであろう。難波屯倉は「媛嶋がある難波」(安閑紀二年条)とあるから、現大分姫島比売語曽(ひめごそ)社付近か。「比売碁曽(ひめごそ)社のある難波」(応神記)、「大隅嶋・媛嶋がある難波」(安閑紀二年条)、「大隅宮がある難波」(応神紀二二年条)などから豊前難波と考えられる。

以上から、「大和王権安閑が遷都した大倭国は九州豊国である」と結論される(詳論はこちら)。その後、敏達・用明・崇峻・推古は肥前に宮を置いた。推古の後半は大和小墾田宮に遷ったが(推古紀603年)、舒明・皇極は肥前に戻り、孝徳以降は大和に定着した。このような史実が「大倭」に「やまと」と振り仮名することで「すべてはやまと」と誤読されてきたのである。

別説に「豊前王朝説」がある。「神武から天武まで一貫して豊前に都した豊前王朝」とする説であるが、相当無理がある( 「豊前王朝説」批判 )。

以上、「大倭」16例中8例が「大倭(つくし)」の可能性があること、少なくも九州であることが論証された。日本書紀の後世版が16例とも「大倭(やまと)」と振り仮名していることは原文に忠実でない誤読・誤読誘導である。この解明により、「大和王権が大倭国(九州)豊前勾金橋に遷都した時期があった」とする根拠が得られた。それにより、第三章(蘇我氏も九州)、第四章(物部氏宗家も九州)など定説の「誤読」が次々と解明される。そのプロセスをお楽しみいただきたい。

 

 

 

このページトップへ _____ 第二章へ

 

 

はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷