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三著 「千年の誤読」 公開中 ________________

 

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日本書紀が正す「千年の誤読」

 

はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷

 

 

第二章  目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

( 更新 2021.12  2020.2  ) 

 

 「飛鳥(あすか)」は日本人にとって、ロマンあふれる古代史に近づく原点である。万葉集の手引きによって、現地(大和明日香)で古代を体感できるからだ。「飛鳥」が輝いていた時代の重みを考えると、それは納得できる。

日本書紀に登場する「飛鳥」時代は前期(5世紀〜)・中期(6世紀末〜)・後期(7世紀後半〜に分けられる。その前期と後期は大和の飛鳥であることが確認できる。「だから中期の飛鳥も大和だ」とするのが平安時代以来の定説だ。この「中期の飛鳥」が日本書紀の中で「最も輝いていた飛鳥」なのだ(飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)・乙巳の変(いっしのへん、蘇我入鹿暗殺)・皇極紀・斉明紀など)。

しかし、この定説には不審・不整合が多い。だから「飛鳥は謎」ともされる。ここではこの「中期飛鳥」を中心に検証する。その結果、この「飛鳥」は驚くなかれ「大和ではない、九州肥前飛鳥」である。そして、この中期「肥前飛鳥」の地名は古く、前期「大和飛鳥」も後期「大和飛鳥」もこの古い「肥前飛鳥」を源(みなもと)としていることが検証される。「なぜ中期だけ違うのか?」「なぜ九州なのか?」「なぜ肥前なのか?」「なぜ飛鳥と書くのか?」、その理由も含め検証する。これらを理解しないで「飛鳥」を語ることは「歴史の醍醐味」をみすみすのがすことになる。

これは「日本書紀の誤読」の一例である。そして、その誤読の一因は平安時代に定着した振り仮名「東漢(やまとのあや)」に由来することを検証する(正しくは「東漢(とうかん、漢語)」)。いわば「千年の誤読」の一例である。第一章では「この誤読の典型例『倭』字の振り仮名誤読」を検証した。この章ではその鍵で「飛鳥」を解明する。、第三章では「蘇我氏の誤読」・第四章では「物部氏の誤解」を解く。これらは次著「一図で解ける『千年の誤読』」への扉を開く。その中の「 一図で解ける『千年の誤読 飛鳥』」を参照されたい。

 

● 「飛鳥」の初出  

記紀の「飛鳥」の初出は古事記では履中記の「飛鳥地名由来譚」である(履中天皇は仁徳の次)。

 

履中記(古事記) (要旨)

「難波宮に居た履中天皇を殺そうと、同母弟が反逆した、、、阿知直(あちのあたひ)が履中を馬に乗せて大坂山口(大阪と奈良の境の山道)を経て救い出した。履中の別の弟(のちの反正(はんぜい)天皇))は反逆者を殺させたあと、明日(あす)(大和に)上ろうと言った。そこでその地を『近つ飛鳥(あすか)』という。その翌日、倭(やまと)に上り『明日(あす)天皇の居る石上神宮に参ろう』と言った。そこで、その地を『遠(とほ)つ飛鳥』という。」

 

履中の弟が「明日(あす)行こう」と言った所を「近つ飛鳥(あすか)」、次の日「明日行こう」と言った所を「遠つ飛鳥」と名付けた、という「地名由来譚」である。ただ、この由来譚は「明日香(あすか)」の地名由来であって「なぜ飛鳥と書くか」の疑問を解く話にはなっていない。後述する(非枕詞説)。

日本書紀での初出は同じ事件を扱った履中紀にある(文中の番号@〜は筆者、以下三節、中期の「飛鳥」例〜Jまでつづく)。

 

履中前紀399
「倭漢(やまとのあや)直(あたひ)・阿知使主(あちのおみ)ら三人が、、、太子(履中天皇)を扶(たす)け馬に乗せしめこれを(履中の弟の反逆から)逃がす、、、太子、河内国埴生坂に到り、、、難波を顧望せり、、、大坂より倭(やまと)に向かい、@飛鳥山に至る」

 

ここに出てくる「@飛鳥山」は二文の路程から「難波 → 河内 → 大坂山口 → 近つ飛鳥 → 飛鳥山 → 倭(やまと) → 遠つ飛鳥 → 石上神宮」と読み取れる。注目すべきは「飛鳥の地名は複数あった」という点である。

 

● 阿知と飛鳥

もう一つの注目点は記紀の「飛鳥」地名由来譚(上掲)に漢人「阿知」の名がでてくることである。「阿知」の紀初出は応神紀二十年条に「阿知、、、己の党類十七県率いて来帰す」とある。漢史書によれば、阿知王は後漢献帝の玄孫(孫の孫)の劉阿知と考えられ、その阿知であれば後漢末の混乱期に渡来したと考えらる(280年頃)。履中紀399年の阿知は阿知本人ではなく子孫であろう。それらをまとめると、卑弥呼の次代女王台与(260年頃)からしばらくして、混乱の帯方郡(魏の半島領)から阿知王は漢人二千余人を引き連れて渡来した。まずは九州に入植したであろうが(後述)、その一部が移り住んだのであろう、河内・大和で活躍している(履中紀)。その60余年のちにも漢人移住譚がある。

 

雄略紀463

「天皇、、、東漢直掬(やまとのあやのあたひのつか)に命じて新漢(いまき(今来)のあや)の陶部、、、鞍部、、、画部、、、等を上桃原、下桃原、真神原の三所に遷し居らしむ」

 

雄略紀465

「河内の国に言う、A飛鳥部郡の人田邉史が女(むすめ)は云々」

 

雄略紀470

「漢織・呉織・及衣縫兄媛・弟媛等、住吉津(すみのえのつ)に泊まる、、、漢織・呉織・衣縫、是れ B飛鳥衣縫部(きぬぬいべ)・伊勢衣縫の先(祖)也」

 

これら雄略紀は後述するように「漢人技工の招聘譚」である。東漢とは阿知の子孫と考えられている。有力漢人に招聘漢人(新漢)の居住地を任せたのである。取敢えず上桃原など(後述)に住まわせ、のちに住吉津(兵庫)を経て「B飛鳥」に定着している(雄略紀470年条)。それ以前から河内に「A飛鳥部(あすかべ)郡」があったからだ(465年条)。このB飛鳥は河内の「近つ飛鳥」だろう。今の大阪府羽曳野市飛鳥(太子町の隣)と考えられており、「新撰姓氏録」によると、中国系、新羅系、百済系(飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)などの渡来系氏族が居住していたという。今でも飛鳥戸(あすかべ)神社がある。

これに続いて「C飛鳥八釣宮で天皇即位す」(顕宗紀485年)があり、ここまでに紀に「飛鳥」は四例出てくるが、いずれも大和関係である。「前期飛鳥」としておく

 

● 中期飛鳥の七例

雄略紀の「飛鳥」から140年経って紀に「飛鳥」が再頻出する(D〜J、七例)。これを「中期飛鳥」としよう。まず三つの記事を検討する。

 

用明紀587

「蘇我(馬子)大臣、本願(物部守屋討伐祈願)に依りD飛鳥の地に法興寺を起こす」

 

崇峻紀588

「(蘇我馬子が)E飛鳥衣縫(きぬぬい)造(みやつこ)の祖樹葉の家を壊して始めて法興寺を作る、、此の地をF飛鳥の真神原と名づく、亦の名をG飛鳥苫田という」

 

推古紀626

「大臣薨ず、乃ち桃原墓に葬す、大臣とは則ち稲目宿禰の子(蘇我馬子)也、、、家は H飛鳥河の傍、、、」

 

三つの記事に「馬子と飛鳥」の関係が記され、内二つの記事に「馬子が飛鳥に法興寺を建てる」とある。「馬子の飛鳥法興寺」はどこか。前期飛鳥は大和であった。定説では「だから中期飛鳥も大和だ」とされる。だがそれは推測であって、根拠ではない。根拠がない限り「中期の飛鳥は大和ではない」とする以下の説を否定できない。

(1) これら用明紀・崇峻紀・推古紀にある「飛鳥」はどこか?。崇峻を継いだ推古は「豊浦(とゆら)宮」で即位したとあるが(崇峻紀593年)、その推古紀は「豊浦宮は九州」を示唆している。

 

推古紀603

「二月、、、来目皇子、筑紫に薨す、よりて駅使(はいま)して奏上す、(豊浦(とゆら)宮に居た推古)天皇大いに驚き云々」

 

ここで「駅使(はいま)」とは「騨馬(はいま、欽明紀三二年条)・「駅馬(はいま、大化二年条)」・「馳駅(はいま、皇極紀二年条)」・「駅(はいま)に乗り(斉明紀四年条)」などと表記され、いずれも「馳馬・早馬(はやうま)」の約である(紀岩波版頭注)。「駅馬(はいま)」は筑紫はじめ九州北半分に整備された倭国の制度であった。大和・畿内の駅馬制度は大化の改新(大化二年646年)以降に整備されたから、この時代に大和に駅馬制度は無い。

 

孝徳紀646

「(大化二年、改新の)その二に曰はく、初めて京師(孝徳難波宮)を修め、畿内国の司・、、、・防人 ・駅馬・伝馬を置き、鈴契(すずしるし)を造り云々」

 

ここの「駅」字が大和関連記事では紀初出である。陸路の駅馬・馳馬に対して海路では対馬海峡(200q強)の軍令などに使われた「馳船(ときふね)」の語があり(欽明紀十四年条)、対馬海峡より長距離の九州・大和間(500q)にも早船が使われたと考えられる。

そうであれば推古紀603年の「筑紫からの駅使」とは「駅馬による使い」であり、まさに「筑紫から馬で行ける範囲、九州内」を意味する。即ち「推古の豊浦(推古紀603年)は九州内」である。この解釈から崇峻紀の「飛鳥の法興寺は九州」が次のように導かれる。

推古の即位の宮「豊浦宮」が九州であれば、推古の祖父蘇我稲目が「使われなくなった推古皇女時代の宮を仏堂に転用した」とされる「向原(むくはら)の仏堂」(元興寺縁起)も九州であり、その「向原」は稲目の本拠である。なぜなら「稲目の小墾田の家は向原の近く」(欽明紀552年)とあるからだ。この仏堂をめぐり「稲目が祀った牟久原(むくはら)の仏堂を尾輿の子守屋が焼いて仏像を難波江に捨てた」と記された蘇我稲目と物部尾輿の「仏教論争」となり、のちの「物部守屋討伐譚」に結びつく。この討伐戦の戦勝祈願に馬子は「法興寺建立」を誓願し、戦勝して「飛鳥の地に法興寺を建立」につながるのである。「これらはすべて九州のできごと」と「駅使」の一語から解釈されるのである。即ち「用明紀587年・崇峻紀588年・推古紀626年の飛鳥は九州」と解釈される。

(2) 蘇我馬子の本拠は大和ではない。その根拠は、「 筑紫の将軍達に馬子が駅使(はいま)で指令を出している」(崇峻紀592年)とあるから、馬子の本拠は前項と同じ理由で「九州内」である。その馬子の将軍達の名は肥前の地名として残っている(崇峻紀591年)。従って「馬子の本拠は九州肥前」である。「馬子が建てた飛鳥の法興寺(D〜G)は九州肥前」であろう。では「肥前のH飛鳥河」はどこか。やや時代は下るが「飛鳥」に「川原」がある。「飛鳥板蓋(いたぶき)宮災(ひつけ)り、飛鳥川原宮に遷居す」(斉明紀655年)とある。宮名に使うのだから「川原」はただの河川敷ではない、れっきとした地名である。明治期に「肥前三養基(みやき)郡川原地区」があったという。現寒水川(しょうずがわ)中流である。そこには現「川原橋」もある(筆者確認)。「馬子の飛鳥河」は「現佐賀県三養基郡寒水川中流川原地区」であろう。そこは稲目の本拠のあった「現鳥栖市向原川」(前出(1))の10q程西である。佃收(つくだおさむ)説を参考にした(「古代史の復元」E 佃收 2004年 星雲社)。

(3) 「飛鳥河とは寒水川の支流の山ノ内川」と佃は比定するが、山ノ内川は矮小な川で、飛鳥板蓋宮・飛鳥川原宮・飛鳥岡本宮(次項)などを建てる地相ではない。「河」字の元義は「大河(黄河)及びその支流」を指す(講談社大字典)。ここでは「大河(筑後川)及びその支流(寒水川=飛鳥河)」であろう。「佐賀県みやき町寒水川が飛鳥河H」と筆者は考える。大和には筑後川に匹敵する大河は無い。その支流「飛鳥河」は大和ではない。「法興寺の飛鳥河とは大和飛鳥川」は誤説である。

(4) 推古の次、舒明紀630年に「天皇、I飛鳥岡の傍に遷る、是れを岡本宮と謂う」とある。その次の宮は「百済川を宮処となす」(舒明紀639年)とある。「宮処」は「肥前神崎郡宮処郷」(肥前風土記)であろう。「百済川宮処も飛鳥岡本宮も肥前」と考えられる。舒明が崩ずると「臣下が筑紫より馳騨(はいま、駅馬)で(舒明の)葬に駆けつけた」(皇極紀元年642年)とある。舒明の本拠「飛鳥岡本宮は九州肥前」を示唆している。

(5) 舒明の次、皇極紀643年に「四月、権(かり)宮より J飛鳥板蓋新宮に移幸す、、、六月、筑紫大宰が馳騨(はいま、駅馬)で奏して曰く、高麗遣使来朝す云々」とある。同じ理由で「飛鳥板蓋宮Jは九州内」である。

ここまで用明紀から舒明紀までの50年間に出てくる「飛鳥」を仮に中期飛鳥とすれば、「中期飛鳥は大和ではない、すべて九州内、特に肥前」と解釈される。

 

● 蘇我氏の飛鳥進出

では、なぜ蘇我氏が肥前に本拠を持ち、大和天皇の宮が九州内にあったのか。第二章で検証するが、大和王権の継体/物部麁鹿火(あらかい)は「筑紫の君磐井(いわい)の乱征伐」(継体紀527年)に成功し、豊前の磐井の遺領を収奪して筑紫に仮宮(難波祝津(はふりつ)宮)・豊前に宮を持つに至り一時的に「大倭国勾金橋に遷都した」(安閑紀534年)。この「大倭」に紀岩波版を含む写本は全て「やまと」と振り仮名しているが、これでは「大和朝廷の九州遷都」は読み取れない。正しくは「大倭(たいい、たい、またはつくし)」である(論証は第三章)。先んじて九州に定着していた蘇我氏がそれを支援し、大和王権大臣に取り立てられた(第三章)。乱で弱体化した倭国に代わり任那回復戦略を任され(任那日本府)、その責任者とされた大和王権の物部麁鹿火・蘇我稲目が倭国朝廷にも参画して半島戦略を論じ(欽明紀元年条)、倭国大連尾輿らと主導権争いをしたようだ(第三章で詳述)。

蘇我稲目は肥前向原(むくはら、現鳥栖市向原(むかいばる、現地現在呼称)川付近か)を本拠とし、子の馬子とその子蝦夷はその10q西の肥前飛鳥河傍(ほとり)(現佐賀県みやき町寒水(しょうず)川中流域川原地区か)を本拠とし、蝦夷はその10q西の肥前神崎郡宮処百済川付近(現佐賀県諸冨(もろどみ)町城原(じょうばる)川か)も領して、大和王権の用明〜推古〜舒明・皇極に(恐らく豪勢な)宮を提供した。大和王権の本領は大和であり豊前であり、各地に屯倉を領有したが、その管理は蘇我に任せ、蘇我系の妃は提供された蘇我領の豪勢な宮で皇子を育てたと思われる。皇子は次代の大和天皇となるが蘇我領に提供された宮を大和朝廷とし、蘇我大臣が専横した、と考えられる。このような外戚戦略は倭国の物部氏に学んで模倣したと思われる。そのような「大和王権の九州遷都」が一時的とはいえ、安閑〜推古まで70年余り続いた。

この結論は日本書紀の「最も面白いドラマの舞台『飛鳥』が実は大和でなく九州だ」、という「これまでの常識では受け入れ難い認識変更が要求されている」ということを意味する。それは「常識」が誤読に基づいてきたからで、「新たな認識」は日本書紀の殆どの記述と整合する、即ち「新たな認識は日本書紀原文によって裏書きされている」のである。その背景を、第二章で「大和王権の一時的な九州遷都時代があった」こと、この第三章で蘇我氏の本拠が「大和(前期) → 九州(中期) → 大和(後期)」の流れに在ったことを論証する。第四章で蘇我氏と対抗した物部氏の本拠が九州であったことを論証する。

それはそれとして、ここでは「飛鳥」について更に検証を進める。

 

● 前期「大和飛鳥」と中期「肥前飛鳥」の関係

 「馬子の法興寺は飛鳥真神原」(崇峻紀)・「飛鳥の馬子桃原墓」(推古紀)が「肥前飛鳥」であった、と検証したが、これらの地名が前述した雄略紀にもあった。再掲すると、

 

雄略紀463

「天皇、、、東漢直掬(やまとのあやのあたひのつか)に命じて新漢(いまきのあや、中国から招聘した技工のこと)の陶部、、、等を上桃原、下桃原、真神原の三所に遷し居らしむ」

 

この「上桃原、下桃原、真神原」と崇峻紀・推古紀の「真神原」「桃原」と同一地だろうか。組み合わせの希少性から、同一地と考えられる。もしそうであるなら、ここの地名は肥前である。では、雄略はこの時代に肥前を支配していただろうか。否、この時代は倭国王興が宋に遣使して列島宗主国と認められた時代である。それは倭国/大和王権の連合軍が外征し、半島支配を強めたからに他ならない。倭国と大和は百済王の二兄弟を人質として分け取りしている(雄略紀五年条)。また、「漢人技工招聘事業」で協力している。上掲文はその記事である。九州は肥前も含めて倭国(筑紫国)の支配下にあった。大和はその倭国から兄弟国扱され、任那戦略を任された倭諸国筆頭だったのである。

そのような背景から、上掲雄略紀は「九州肥前を支配する倭国王は肥前飛鳥の東漢(阿知子孫)に招聘漢人の飛鳥桃原・真神原への入植を管理させた。その招聘漢人の一部を雄略が分け取りして住吉津(すみのえのつ)経由で大和飛鳥(恐らく近つ飛鳥)に入植させた」と解釈することができる。前掲崇峻紀588年から「新漢の内、樹葉(衣縫の祖)は肥前飛鳥に残り、一部は大和に移り衣縫部となった」と読み解ける。そう解ってみるとこの「東漢に新漢を三か所に遷し居らしむ」の主語は雄略ではなく、倭国王であること、「三か所」は大和でなく九州であること、「雄略は三か所の新漢の一部を貰い受けて大和飛鳥に移住させた」と解る。「東漢」は九州であるから従来の読解は誤読である。

 

● 誤読の原因は「振り仮名」

そうであれば、「東漢」に「やまとのあや」と振り仮名したのは「正しくない振り仮名」であり、誤読「中期飛鳥もやまと」の原因の一つである。これは「倭」に「やまと」と振り仮名したり、「日本、これをやまとと読め」と後代注した流れと同じ、結果的には「日本書紀を誤読誘導」した「振り仮名誤読」の一例である。

上掲雄略紀の振り仮名は日本書紀岩波版の例であるが、この書は「訓読・振り仮名」について冒頭の「訓読解説」で「奈良時代、1000年頃の確からしい最古の訓読文献に従う」としている。即ち、岩波版は「訓読」に関する限り「史実(600年頃)の検証よりも、また日本書紀(〜750年頃)の編集意図よりも、後世(1000年頃)の文献の再現」を優先しているのである。してみれば、この「東漢(やまとのあや)」も史実や紀の意図ではなく「1000年の誤読」に由来するものである。

この解釈によって「阿知と飛鳥」の関係は次のように正される。「280年頃阿知一族が渡来して一部は肥前(佐賀県三養基郡みやき町付近)に定着して『飛鳥』と名付けられた。400年頃その一部は応神・仁徳(履中の父)に従って九州から河内・大和に移住定着し、肥前の地名『飛鳥』を大和に地名移植した(河内飛鳥)。460年頃新漢が大陸(中国または半島)から肥前飛鳥に招聘され、この一部は河内飛鳥に入植した。肥前飛鳥に残った新漢子孫の痕跡(樹葉の廃屋)は100年後にも肥前にあった(崇峻紀588年)」と解釈される。

そもそも「東漢」は後漢王族の流れをくむ「東方の漢」を意味する200年続いた漢一族の自意識・自称であり、漢語であろう。またそうであれば「飛鳥の東漢」の「飛鳥」も東漢の自称漢語地名の可能性がある。彼らは本国漢から東の半島へ移住して「東漢」を自称し、更に九州に移住して(その一部)は肥前に土地を与えられ、そこで本国から遠く海をこえた自分たちを渡り鳥になぞらえて地名を「飛鳥(ひちょう、漢語)」と自称した可能性がある。「東」字は「九州から見た東=やまと」の意味でなく「故郷漢の東=半島」の意味であろう。その根拠の一つは上掲推古紀に「飛鳥河」とある。「河」字は元来「黄河及びその支流」を指し(大字典、講談社)、「大河好みの中国人漢語」と考える。「飛鳥河」も漢語であろう。「飛鳥」は漢人入植地の漢語名と考えられる。

 

● 「飛鳥」 → 「明日香(あすか)」への経緯  (筆者推測)

ではなぜ「飛鳥」は「あすか」と読まれるのか。「飛鳥」は渡来漢人の漢語自称、と推測した。渡来漢人は「飛鳥(ひちょう)」と読んだであろう。渡来人は(漢人も韓人も)一か所に集まる(集められる)傾向がある。渡来した「韓人」の場合、まず九州の漢人入植地(例えば肥前飛鳥)の一角に集められ、村を作り韓語の「安宿(あんすく)」と名付けた、としよう。「飛鳥の安宿」である。これが倭人には「あすか」と聞こえ「明日香」と書いた(和語表音漢字表記)。漢文では漢人の時代の名残でこの地域を「飛鳥」と書いたが、訓読が普及した推古期以降「飛鳥(あすか、漢語の和語読み・訓読)」が定着した、と考える。例えば、「河内の近つ飛鳥」(現飛鳥戸神社付近)には古来「飛鳥戸(あすかべ」一族」が住み着いたがこれは百済系の一族である(新撰姓氏録、渡来は雄略期か)。漢人系の百済人であろうか、漢人渡来が減って百済渡来人が増えたのであろうか。そうであれば、雄略期以後の「あすか地名由来譚」が「履中紀に遡及記述された」と考えられる。

まとめると「漢人の漢語地名『飛鳥(ひちょう)』の一角に韓人が韓語地名『安宿(あんすく)』村を作り、それを倭人が『あすか』と呼んだ。後世漢文の『飛鳥』の訓読(普及は推古期以降)として『飛鳥(あすか)』が定着した」と筆者は推測する。別説に「明日香の枕詞『飛ぶ鳥』に由来する」とする説もあるが、由来が忘れられたのちの「枕詞の普及後のあと知恵」ではないか。

 

●  後期の飛鳥

「乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)」で蘇我宗家が滅亡すると、皇極は孝徳に譲位した。孝徳は本拠を九州飛鳥から摂津難波に遷した。難波宮である。蘇我氏の反撃を恐れたのだ。推古の大和小墾田宮を依然として領有していたようだが、大和小墾田宮の周りは蘇我領(山田寺など)で蘇我大和支族が居たので距離を取ったのであろう。これに対して、中大兄皇子が難波から大和への遷都を主張した。

 

孝徳紀653

「太子(中大兄皇子)奏請して曰く、倭京(やまとのみやこ、大和小墾田宮を指す)へ遷らんと欲す、(難波宮の孝徳)天皇許さず、、、皇太子乃ち皇祖母尊(皇極上皇)、間人皇后を奉り、并(あわせ)て皇弟(大海人皇子)等を率い、往きてK倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかかわべのかりみや)に居す」

 

この「飛鳥」はわざわざ「倭(やまとの)飛鳥」と断っているから「大和飛鳥」である。「やまと」に「倭」字を当てたのは天武時代であるから、孝徳紀で使っているのは遡及表記である(次話で検証する)。「飛鳥河」ともあるが、肥前飛鳥・飛鳥河の地名移植であろう。蘇我蝦夷・入鹿が大和蘇我領の拡大を狙い、本拠肥前飛鳥の地名を大和蘇我領に地名移植したと考えられる。馬子が推古に提供した(大和)小墾田宮も肥前小墾田の地名を宮名に使っている。これら肥前飛鳥も大和飛鳥も乙巳の変後に中大兄皇子が蘇我氏から奪ったのであろう。「履中紀の大和遠つ飛鳥」とは別の場所である、と前述した。

孝徳天皇が崩御すると、皇極上皇は再び即位した(斉明天皇、重祚)。

 

斉明紀655

「天皇L飛鳥板蓋宮に於いて即位」

 

この「飛鳥板蓋宮」は「倭」の注もないから前出の「肥前飛鳥板蓋宮」の再出である。斉明は大和飛鳥から生まれ育った肥前飛鳥に戻って即位している。大和飛鳥宮は「行宮(かりみや)」だからであろうか。自分の血統(九州上宮王家系)に拘ったのかも知れない。

以後の変遷は、

 

斉明紀655

「是冬、M飛鳥板蓋宮(肥前)災(ひ)つけり、N飛鳥川原宮(肥前)へ遷居す」

 

宮名に使うのだからこの「川原」は河川敷ではない、れっきとした地名である。肥前三養基(みやき)郡川原地区であろう(明治期地名)。現在も「川原橋」が近くにある(筆者確認)、と前述した。これらLMNは肥前であるが、即位に使っただけの過渡的な再出である。

 

斉明紀656

「O飛鳥岡本(大和)に宮地を更定す、遂に宮室を起す、天皇乃すなわち遷うつる、号して曰く、P後飛鳥岡本宮」 

 

この「飛鳥岡本」は肥前のように見えるが、K・O以降は「大和飛鳥」(肥前からの地名移植)である。九州倭国が唐と険悪になりつつあり、危険な九州から離れたいと大和に戻ったのであろう。「飛鳥岡本宮(舒明の宮、肥前)」と紛らわしいので「P飛鳥岡本宮(やまと)」と命名したという。

 

天武紀元年672

「宮室を岡本宮の南に営る、即ち冬に遷りて居す、是をP飛鳥浄御原宮と謂う」

 

後飛鳥岡本宮はのちには単に岡本宮と呼ばれ(672年)、その南に「飛鳥浄御原宮」が造られた。これが「大和飛鳥」であることは疑問の余地がない。

上述のように、斉明天皇は肥前飛鳥から大和飛鳥へ遷都した(656年)。火災も一因かもしれないが、両王権統合の進展(大和王権と上宮王権はニニギ系同族王統として融合しつつあった)、倭国の外交危機からの避難など、これも複雑な事情が推測される。この「後飛鳥岡本宮」は大和の「飛鳥浄御原宮」として続く。以後、飛鳥と言えば大和飛鳥を指すようになる。

付言すると、日本書紀は肥前と大和の飛鳥を一見区別していないように見える。このことが、「飛鳥は大和」とする通説と、「日本書紀はすべての飛鳥が大和であるように造作している、捏造している」とする九州王朝説の論争を呼んでいる。しかし、注意深く読むと日本書紀は二つの飛鳥が混同しそうな時は「飛鳥岡本」としたり「飛鳥」として区別している。読者の混同・誤読の責めを負わないような布石を打っている、といえる。通説も九州王朝説も正しくない。日本書紀は「二つの飛鳥」を明言していないが否定もしていない。

以上、記紀の「飛鳥」について前期(大和)・中期(肥前)・後期(大和)を見てきた。

  

● 飛鳥寺

 紀には後期の「大和飛鳥」は30回出てくる。その内「Q飛鳥寺」(大和飛鳥)が斉明紀以降19回を占める。その大半が一行の祭祀記事である。ただ、この飛鳥寺記事は後世誤解が多い。

飛鳥寺は現在奈良明日香村にある。飛鳥大仏で有名である。元は「丈六仏」を安置する元興寺として推古紀に出てくる。

 

推古紀605

「天皇、皇太子・大臣及諸王・諸臣に詔す、共同して誓願を発す、以って銅・繍丈六仏像、各一躯を造り始める、鞍作鳥に命じ、造仏の工(たくみ)と為す、是の時高麗国の大興王、日本国天皇仏像を造りまつると聞きて黄金三百両を貢上す」

 

推古はこの時大和小墾田(おはりだ)宮に居る(603年豊浦宮(九州肥前または豊国(筆者説))から遷っている)。ここで「共同誓願」とある。従来「推古天皇と聖徳太子の共同誓願」と誤読されているが、「天皇が皇太子に詔して」いるのだから、これは命令であって「共同誓願」の相手は皇太子ではない。相手は対等の誰かであろう。推古は大王である。対等の相手も大王であろう。当時、推古天皇の他に大王が居た、とは定説に無い。ただ、九州王朝説では他に倭国王が居た、とする。「大王二人説」である。大王は元号を発令するが、当時元号は三つあり、大王は三人いた。三王権あったのだ。大和王権と倭国王家と上宮王権である。推古と対等なのは上宮王(大王、法隆寺釈迦三尊光背銘では上宮法皇)か倭国王(天王、雄略紀)である。推古と上宮大王は王権は異なるが共に北朝仏教派、共に蘇我が大臣を務めた。倭国王は南朝仏教だから共同で寺は造らない。推古の共同誓願の相手は上宮王である。

そうであれば、この計画は共同とは言え、仏教に熱心な上宮王の主導であろう。なぜなら、上宮王は大和に拠点寺を持ちたかった。皇太子は斑鳩に移っているし、北朝仏教は九州肥前には法興寺が既にあるが大和にはまだ無い(斑鳩寺の初出は一年後、推古紀606年)。上宮王は大和・大和王権(ニニギ/神武系)・その再興にも興味がある(上宮王は倭国内ニニギ系、次著「一図の応神天皇」参照)。そこで推古と共同誓願寺を計画した。即ち「二天皇」の共同誓願である。推古紀は「二天皇」とは書けない。だから、前掲文は「天皇(推古・上宮王の二天皇)は、(上宮王の)皇太子、(二王家の大臣を兼ねる蘇我馬子)大臣及び諸王諸臣に詔して(推古・上宮王の二天皇の)共同誓願を発す、、、」のように、括弧を加えた意味であろう。紀では括弧を伏せたから「共同誓願」は「推古天皇と皇太子の共同誓願」と誤読されている。紀の読者(昔から現代に至るまで)には「二天皇」の発想は全く無いから、誤読も止むを得ない。

後半に「日本国天皇」とあるのは「推古天皇」である。「日本国」は近畿を指し、大和王権を必ずしも意味しないが(見做し国名、前著)、近畿にいる「天皇・大王」は推古しか居ない。高麗国の関心は東方軍(近畿軍)であって、推古に「対隋戦に東方軍の支援」あるいは「争っている百済に援軍を出さないように」を期待して黄金で歓心を買おうとしたのであろう。

 

推古紀606

「銅・繍(ぬひもの)丈六仏像並びに造り竟(をは)りぬ、、、丈六銅像、元興寺金堂に坐す」

 

元興寺の場所は推古の大和小墾田宮の近く、現「飛鳥寺」のある明日香村である。大和蘇我領が近い(山田寺)。蝦夷・入鹿は明日香の甘樫丘に御所風の邸宅を造って大和本拠としようとした。「飛鳥」の地名は恐らく蘇我蝦夷・入鹿が大和蘇我領拡大に力を注いだ時期、肥前本拠の地名「飛鳥」を大和に地名移植したのであろう。元興寺はのちに飛鳥寺と呼ばれた(紀初出は斉明紀三年657年)。

 

● 法興寺と元興寺の混同

定説では「この元興寺は別名法興寺(元興寺=法興寺)」とされる。しかし、法興寺は「蘇我馬子が物部守屋討伐に戦勝祈願して建立を約した寺」で、肥前飛鳥に建てられた。

 

崇峻即位前紀587年(再掲)

「是の時、廐戸皇子、、、誓いを発して言ふ、今若し我を敵に勝たしめれば、必ず護世四王に寺塔を起立して奉ぜん、、、蘇我馬子大臣も又誓いを発して言ふ、凡そ諸天王・大神王等、吾を助衛せば、、、利益を得させれば、願はくは寺塔を起立して三宝を流通せむ、、、(物部守屋)大連を枝の下に射墮、、、而して大連並びに其子等を誅す、、、乱を平の後、摂津国に四天王寺を造る、、、蘇我大臣また本願により、飛鳥の地に法興寺を起てる」

 

「法興寺は飛鳥に建てられた」とある。肥前飛鳥である、と検証した(上述)。建立は「物部守屋討伐戦勝祈願」が成就したからで、「反排仏派」「反物部」で結束した蘇我氏と上宮王の「法(北朝仏教)興(隆を願った)寺」である。一方、「元興寺は大和飛鳥(明日香)」である。推古と上宮王の共願寺であるが、推古にとっては「皇女時代の自分の宮を仏堂にしたが、その仏堂が守屋によって焼かれた」、その「(私の仏教の)元(となった宮の再)興(の)寺」である。二寺は場所も施主も異なるが、定説も諸研究も「法興寺=元興寺」と混同・迷走して誤解から抜け出せていない。混同の原因は後世(天智以降)にある。@大和飛鳥から平城京へ丈六仏を残して移転(元興寺)、A丈六仏を除いて焼失(本元興寺)、B九州飛鳥から大和飛鳥への移転(法興寺)、C寺名の変遷(飛鳥寺)、Dそれぞれの盛衰、など様々な変遷があったからであろう。だが、それは後世のこと、まだこの時代は「法興寺は肥前飛鳥真神原の蘇我氏私寺」であり、一方「元興寺は大和の大和王権・上宮王家共同誓願官寺」である。

丈六仏元興寺と法興寺が同一だとする誤解は次の文からも来ているようだ。

 

皇極紀644年  

「剣池の蓮の中に、一茎に二つの花有り、豊浦大臣妄推して曰く、是は蘇我臣の将に栄える瑞なり、即ち金墨書して、献大法興寺丈六仏とした」

 

「法興寺丈六仏」とあるのはここだけだが、前項「丈六銅像は元興寺金堂に坐す」と合わせて「法興寺=元興寺」と昔から誤読されている。しかし、この文の前後には「猿」「茸」「胆駒山(生駒山)」などが出て、豊浦大臣(蘇我蝦夷、馬子の継嗣)の大和訪問時、即ち「丈六仏の元興寺」訪問時の描写と考えられる。即ち「丈六仏の元興寺は大和」に建てられたことの傍証となっている。これに対して大臣は、「献大法興寺丈六仏」と金墨で大書して元興寺丈六仏に献上したようだ。「元興寺は法興寺」と「妄推」しているのである。それには次の理由があると考えられる。蘇我氏は肥前だけでなく大和にも「私寺法興寺」を持ちたかったのだろう。大和推古王権の大臣であり、大和蘇我領が拡大しつつあったからだ。ところが、その前に「共同誓願寺元興寺」が実現してしまった。この計画に蘇我馬子が相当の寄進を出したに違いないが、それから40年も経って子の蝦夷の代から見ると、「第二の蘇我氏私寺、大和法興寺であったら良かったものを」の思いは日頃からあったのであろう。この年は蘇我氏の絶頂期で、蝦夷の子入鹿が山背(やましろ)大兄王一族を生駒山に追い、斑鳩で滅亡させた翌年である。ここで「妄推」という特殊な用語がでてくる意味を理解しなければならない。蘇我氏の専横ぶりを非難した言葉であるが、「花を見て蘇我氏が栄えるだろうと妄推する」などは専横とする程のことではない。「上宮王家と大和王権の共同誓願官寺元興寺(大和)」を「大和の蘇我私寺法興寺」と見做して憚らない、それが妄想・専横なのだ。この一年後、乙巳の変が起こり、肥前板蓋宮大極殿の皇極天皇の目前で入鹿は暗殺され、蝦夷も自害する。

「元興寺=法興寺」の誤認のもう一つの遠因は、紀の「倭国不記載」だ。「崇仏・排仏論争」「難波江に仏像を投棄」「九州飛鳥の法興寺建造」は全て九州での事績だが、「大和の事績」と記されていないにも関わらず「倭国不記載」と「後世の振り仮名」に依って「大和の事績」と誤認されているからだ。「法興寺は九州」「元興寺は大和」が史実であって、「法興寺=元興寺」は誰も肯定しなかったが、誰も(特に皇室が)否定しないが故に記紀の定説的解釈となっていった。後世の「法興寺が九州から大和へ移転」で否定の意味も薄くなったが。

 

● まとめ

以上の検証で記紀の前期・中期・後期の「飛鳥」が以下の様にまとめられる。

原初の飛鳥は300年頃漢人阿知らが渡来し、肥前に入植して飛鳥(漢語地名)と命名した。記紀には出て来ない。

前期飛鳥(400年頃)は「阿知子孫らの一部が河内・大和に移住し、飛鳥の地名を移植した地」。文化的に見るべきものは特にない。

中期飛鳥(580650)は「肥前飛鳥に一時遷都した大和王権の宮地」。文化的には「仏教論争と北朝系仏教の興隆で飛鳥文化が花開いた」。政治的には「倭国と大和王権、物部氏と蘇我氏の競合で激しく多彩な事件があった」(物部守屋討伐譚)。

後期飛鳥(650年〜)は「大和朝廷が大和南部に帰還遷都して新たに地名移植した大和飛鳥」。紀では「明日香村の飛鳥寺」記事が大半だが、この地には九州の古寺が多く移築されて肥前飛鳥文化の継承地となった。

以上により「飛鳥」の不思議はほとんど解明される、と考える。「解明」が時として「夢とロマン」を消し去ることもある。しかし、「解明」は「正しい理解、という安心感」と「更なる次の夢とロマン」を与えてくれるに違いない。

 

 

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はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷