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三著 「千年の誤読」 第三章  ________________

 

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日本書紀が正す「千年の誤読」

 

はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷

 

 第三章 誤読されている「蘇我氏」 

   

日本書紀では、蘇我氏は「大和王権の大臣」と読まれている(定説)。だが、詳しく読むと、「蘇我氏の先祖は大和系だが、九州に定着した。そこへ大和王権が一時的に九州遷都し(第二章)、初代蘇我稲目はこれを助けて大臣に任じられた。その稲目は大和王権(九州)をバックに倭国朝廷にも参画して大臣と呼ばれ(あるいは任じられ)、倭国大連の物部尾輿と仏教論争で争った。尾輿も大和朝廷に取り入り、子の守屋は天皇後継選びに口を出した。倭国朝廷を舞台に二王権の重臣が覇を競ったのだ。しかし、大和王権は次第に両王権重臣の狭間で翻弄された。結局、稲目の子馬子は「物部守屋討伐」で激突して物部宗家を滅ぼした。しかし蘇我氏が倭国王権で覇権を握ることはなく倭国王が実権を握った(王政復活)。これを機に倭国王族の非主流の上宮王が独立すると蘇我馬子は倭国を離れ、大和王権と上宮王権の大臣を兼務した。蘇我馬子は大和にも自領を拡大し、推古の大和帰還遷都を支援し、以後、馬子・蝦夷・入鹿の三代に亘って大和王権を支え、専断し、専横した。並行して「蘇我氏の大和帰り」の流れが続く。それらの結末が「乙巳の変」であり、蘇我氏宗家は滅亡した。

日本書紀は「倭国不記載」「二王権不記載」の方針で編纂されているから、蘇我氏の事件譚「仏教論争譚」「天皇継承指名譚」「物部守屋討伐譚」がすべて「大和王権内の事件譚」と誤読されている。それら「不記載」の裏を読み解けば「蘇我氏は三王権すべてに大臣として関わっている」という瞠目の解釈が日本書紀にから読み取れる。これを理解しないで「蘇我氏」を論ずることはできない。本話をもとにした新編「一図に見る蘇我氏」も参照されたい。

 

● 蘇我氏の出自は大和だが、九州に定着した  (検証)

蘇我氏の祖は武内宿禰の三男蘇我石川宿禰(新撰姓氏録)、本拠は大和(葛城?)であった。記紀に登場するのは、石川から四代目の蘇我稲目→馬子→蝦夷(えみし)→入鹿(いるか)である。これら四代の本拠は大和とされている(定説)。しかし、これら四代の本拠は正しくは肥前である。四代の間大和に旧領を保持していたかは不詳だが、三代蝦夷・四代入鹿の代で(肥前に続く)第二の拠点を大和に再構築しようとしたことは後述する。ここでは石川〜稲目までの本拠移動の経緯を推定する

(1) 一族の祖石川宿禰(武内宿禰の子)は「仲哀/神功/武内宿禰の熊襲征伐〜新羅征戦」に従ったと推測される。その根拠は、子孫の名前に子「満致(まち)」(百済系の名)・孫「韓子(からこ)」・曽孫「高麗(こま)」が居る。このことから「蘇我氏は渡来系」と推測する説もあるが、子孫に「いがみあっていた三韓に因む名」をつけているから、三韓のどれかから渡来したとは考えられない。逆に石川一族は「三韓征戦に携わった」と推測する方が妥当である。

(2) 石川の子満致(まち)は時代的に「三韓征戦後の応神・仁徳の大和帰還/東征」に従い河内に移った、と考えられる。九州倭国将軍の一部が仁徳に従った。その結果、河内大和王権には三系統の家臣が混在することになった。第一は「九州から河内に移った九州系将軍(物部麁鹿火(あらかい)など)」、第二は「元は大和だが、九州遠征から河内に戻った大和系将軍(石川二代目満致(まち)など)」、第三は「大和から河内に従った大和系物部氏(物部印葉(いにば)など)」などで、順位は上記の様に見える。

(3) 石川の孫蘇我韓子(からこ)の名が雄略紀465年の「新羅経略譚」にみえるから、「倭国(倭王興)・日本(雄略)連合軍の百済・新羅の経略」に従った、と考えられる。

(4) 石川の曾孫蘇我高麗(こま)は時代的には「継体の筑紫君磐井(いわい)の乱討伐」(物部麁鹿火(あらかひ)が主導)に従い、「麁鹿火を大将軍とする任那遠征」にも加わった可能性があり、この時代に蘇我高麗は九州に定着したと考えられる(次項)

(5) 継体の次、安閑天皇/物部麁鹿火大連は磐井の九州遺領を収奪して屯倉(みやけ)とした(豊国が最も多い、安閑紀二年条)。その一つを本拠として、安閑は大倭国勾金橋(豊国、現福岡県香春町勾金)に遷都した、と安閑紀元年条にある(前話「大倭」参照)。屯倉を整備し、遷都を準備したのは蘇我高麗であろう。なぜなら、高麗の子蘇我稲目は大臣に抜擢され、再任大臣(大伴金村・物部麁鹿火、いずれも本拠は河内)に並んで屯倉の管理を任されている(宣化紀元年条536年)。

以上、蘇我稲目の父祖は「倭国/日本(大和+近畿東国)の半島経略」に従事しながら、「大和王権の九州拠点獲得」で成果を上げて大和朝廷に重用されるきっかけをつかんだと考えられる。情報が限られているから状況証拠に基づく推測に留まるが、「稲目の活動拠点は定説の大和でなく、九州である」の背景を推測した。

  

● 大和朝廷と倭国朝廷の接近

安閑天皇は九州豊前に遷都した、と前節で述べた。このような解釈はこれまで定説に無かった。その史的背景は長い。

(1) 「継体即位」から始める。「応神系の武烈に継嗣が無く、応神五世孫の継体が立てられた」とある(継体紀)。応神は九州系で、倭国・日本連合の半島征戦で大戦果を挙げている(広開土王碑)。それ故「応神の即位には九州倭国の後ろ盾があった」と推測される。それならば、「応神の同族である継体の即位にも倭国の支援があった。継体は倭国に恩義を感じていた」と推測される(次項)。

(2) 「倭国王に対する筑紫君磐井の乱」が起こった。磐井は「自分の先祖は大和系大彦だ。大和の継体と手を組めば倭国を倒せるはずだ」と考えたに違いない。しかし、継体は倭国側に立った(前項)。物部麁鹿火大連を大将として国運を賭して討伐に当たらせ、難攻の末征伐に成功した。これにより、継体/物部麁鹿火は磐井の豊国遺領を収奪して、「東方軍の任那攻略の為の中継基地」とし、一方倭国はより豊かな筑後の磐井遺領を収奪したようだ。継体には「倭国への譲歩と奉仕の姿勢」が見える。

(3) 倭国はこれを機に内政重視に転換し、半島経略は物部麁鹿火(継体の大連)を総大将とする東国軍(日本軍)が主体の倭国・日本連合軍に任せた。 これに伴い、継体の次安閑・宣化天皇は任那奪回軍を統括すべく、「東国と半島の中継地」の意味もある磐井遺領の一つ、豊国の勾金橋に遷都した。麁鹿火の半島経略は必ずしも成果を挙げられなかったが、磐井遺領の収奪により九州のみならず各地に多くの屯倉を得るなどの成果を挙げた。磐井の同族(大彦七族)に屯倉を差し出さたりしたのであろう。

(4) 磐井討伐の将軍物部麁鹿火の父祖は仁徳の河内東征に従った「九州物部氏の河内支族」であった。麁鹿火は討伐に成功し、更に九州に大軍を集めた任那回復軍の総大将として権勢は九州物部氏(宗家)を上回る程であった。例えば、九州物部氏の当主物部尾輿大連は九州の宮に遷った安閑皇后に土地を献上したりしている(安閑紀元年条)。大和が倭国を宗主国としながらも、実力では倭国を凌駕した一時期であった。

(5)  倭国は高い文化を持っていたが、権威が低下していたから、同族的な大和王権が支えてくれることを歓迎した可能性がある。一方、大和王権は同族倭国の権威に支えられてきたから、倭国朝廷に参画して存在感を高めたことに満足していた節がある。お互いに持ちつ持たれつであった。

 以上、大和王権が九州に遷都した背景をまとめた詳論。その論証の詳細はこちら

 

● 蘇我稲目の本拠は九州肥前小墾田である  (論証)

記紀に登場する稲目の本拠を検証する。

(1) 稲目の本拠は九州である。なぜなら、安閑の遷都した「大倭国勾金橋宮」は九州であった(前話)。安閑(在位2年)の次宣化天皇も大倭国を本拠にしたことは「陵は大倭国にある」(宣化紀四年)から解る。安閑紀の「大倭国」と宣化紀の「大倭国」が異なる根拠は見出せないから、宣化の本拠は安閑と同じ九州である。その宣化は稲目を大臣にしている。即ち「物部麁鹿火大連が再任され、稲目は大臣に任ぜられた」(宣化紀元年条536年)とある。「稲目」の紀初出・初任である。稲目の本拠は宣化天皇と同じであろう。従って、蘇我稲目の本拠は九州である(論拠1)。

(2) 稲目の本拠は九州「小墾田」である。その根拠は「稲目の小墾田の家は向原(むくはら)の近く」(欽明紀552年)とある。「小墾田屯倉」は安閑妃に与えられていた(安閑紀元年条534)。安閑の本拠は九州だから、その妃も九州であろう。小墾田は九州、従って「稲目の小墾田の家」は九州であろう(論拠2)。 

(3) 稲目の本拠「小墾田」は九州肥前である(前項)。小墾田が九州であるから、「九州の向原」は「現佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川」の近く(肥前)であろう。従って「稲目の小墾田の家」は「九州肥前」である(論拠3)。

(4)  安閑紀に「物部尾輿大連」が初出している。「物部尾輿大連(初出)が、ある盗難事件に関連して安閑皇后に筑紫国の土地などを献ずる事件」(安閑紀元年条)がある。安閑天皇・皇后が九州に遷都した時期である。任命記事が無いのに大連として初出しているから、これは「尾輿大連は他国の大連」を示唆している(考証)。大連を持つような九州の他国とは「筑紫の倭国」しかない。別の史料からも「物部尾輿は九州物部氏」が示唆されている(先代旧事本紀)。即ち、「物部尾輿は九州倭国の大連」であった。安閑(二年)・宣化(二年)の次、欽明天皇はしばしば九州の「難波祝津宮(はふりつのみや)」に来て任那回復軍を指揮した(欽明紀元年条)。「物部尾輿大連を大連と為す、故(もと)の如し」(欽明紀元年条554年?)とある。「初任」記事なのに「故の如し」とは「初任の前から大連であった」、即ち「尾輿は既に大連であったが、初めて大和大連と為す」を意味する。上述の「初任記事がないのに大連として初出」(安閑紀)と整合する。「難波祝津宮(はふりつのみや)は九州」の根拠は欽明がここに来て「新羅を伐つにはどれ程の軍が必要か」と聞いている。「新羅征戦に詳しい土地柄」は九州である。「そう簡単ではない」と率先して答えているのは物部尾輿である。尾輿は倭国大連である。これらから「難波祝津宮」は九州難波である(「三つの難波」参照)。

(5)  欽明天皇はしばしば九州に来た((4)) 。稲目は更に九州に留まるよう欽明天皇に娘(堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ))を妃として送り込んでいる。堅塩媛の皇子・皇女は用明天皇・推古天皇となっているから蘇我氏は大和王権の外戚となったのであるが、それはのちの話。

即ち、「物部尾輿は九州倭国の大連として、九州に遷都した大和王権(安閑・宣化・欽明)と接点を持ち、大和王権大連にもなっている。一方、蘇我稲目は宣化の大臣となっている。尾輿大連と稲目大臣は倭国の北朝仏教導入で論争している(後述)。また、大和王権の次代天皇(用明)氏名で争っている(詳論)。稲目の本拠は九州である(論拠4)。

以上、「蘇我稲目の本拠は九州肥前三根郡向原(現佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川)近く」が確認できた。

 

● 仏教初伝

稲目の最も注目される業績は「仏教初伝」である。これを示す重要文献は二つある。一つは戦前に定説の基とされた欽明紀552年の「仏教公伝」である(以下「欽明紀」)。もう一つは戦後に定説とされた「元興寺伽藍縁起」(以下「縁起」)がある。

 

元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳 (要旨、番号は筆者)

「@大倭国仏法、創(はじ)めて、百済から度(わた)り(戊午538)A天皇が群臣に諮ったところ神道派が反対し、独り蘇我稲目が勧めたので、天皇は試みとして稲目にだけ崇仏を許した。Bその後、排仏派と崇仏派蘇我稲目の論争が続く。C稻目大臣が死去(已丑年、569年)すると、D神道派等は天皇の許しを得て堂舎を燒き、仏像・経教を難波江に流した」

 

注目部分は@である。「大倭国仏法、創(はじ)めて、度(わた)り来る(538年)」とある。この縁起は「仏教初伝は538年」とする教科書の根拠とされる文献である。信頼性に欠ける部分も指摘されるが、ここに挙げた部分は次の欽明紀と一致する内容があり、検証の価値がある。

戦前は記紀を至上とする時代背景から欽明紀の「仏教初伝は552年」が定説とされていた。

 

欽明紀552年 (要旨、番号は縁起の番号と類似内容に対応)

「@百済王から仏像・経典などの贈り物に天皇がこれほどの妙法は聞いたことが無い、と歓喜踊躍した、、、Aしかれども朕自ら決めず、、、群臣に歴問す、、、蘇我稲目が受け入れを奏し、物部尾輿・中臣鎌子が反対した、、、天皇、稲目に試みに拝ましむべし、、、B後に、国に疫気おこりて、、、D物部尾輿ら奏す、、、天皇曰く奏すままに、、、仏像を以て難波の堀江に流し棄つ、、、」

 

これらの文献から、「仏教初伝」「仏教論争」が次のように読み解ける。

(1) 縁起@に「大倭国」とある。従来「大倭(やまと)国」と読まれてきた。しかし、縁起が「戊午538年」と明記するこの年には大和には仏教が伝わっていない(「欽明紀」)。従って、従来の読み方は問題がある。この読み方は第一章で検証した「大倭国(たいのくに)」または「大倭国(つくしのくに)」と読むべきだったのではないか。即ちここの「大倭国」は「九州倭国」の意味である。実は、この時代に九州倭国では既に仏教が伝わっていた。九州倭国の年号とされる「九州年号」に「僧聴」(536-549年)があるから仏教初伝は536年以前である。倭国の前身は「宋書倭の五王の倭国」であることは既に検証している。宋は南朝であるから、その仏教は南朝仏教である。従って「倭国に南朝仏教が初伝したのは536年以前」と考える。

(2) 縁起@の次に「仏法創(はじ)めて百済から度(わた)り来る」とある。「仏教初伝」とされる所以(ゆえん)である。しかし前項からこれは正しくない。では、これをどう解釈すべきか。百済は471年以来、北朝系の北魏に朝貢しているから、その仏教は北朝仏教である。従って、ここの意味は「倭国に創(はじ)めて本当の仏教(北朝仏教)が度(わた)り来た」と元興寺が主張している、と解釈すれば整合する。

(3) 百済王が新興の北朝仏教を勧めた相手は倭国王である。百済自身、南朝仏教から北朝仏教に移った経緯があったと考えられる。まだ南朝仏教に留まる隣国(倭国)に勧めたかったのだろう。それを仲介したのは大和王権の物部麁鹿火や蘇我稲目であった。「磐井の乱」以後倭国に代わって百済との外交を担ったのは麁鹿火の日本軍だったからだ。縁起Aでは「天皇」と記されているが、元の記述は「大倭国の天王」だったと考えられる(雄略紀5年条の「大倭国の天王」と同じ)。

以上、「倭国に北朝仏教が初伝したのは538年」である。

(4) 欽明紀@に「天皇がこの妙法に歓喜踊躍した」とある。「大和へ仏教初伝」の表現としてふさわしく、この天皇は欽明天皇としてよい。 (2)項 と同じく「百済から」だから「北朝仏教」である。倭国の北朝仏教初伝より14年遅いが、「大和へ」の限定付きならば「大和への仏教初伝(公伝)は552年」が正しいと考える。

以上、仏教初伝は「倭国の(南朝)仏教初伝は536年より前」「倭国の北朝仏教初伝は538年」「大和の(北朝)仏教初伝は552年」の順で、「大和と倭国」「南朝仏教と北朝仏教」の違いを認識すれば、どれも「初伝」として正しい。

では、稲目の寄与はどこにあったのか、仏教論争からそれが解る。

 

● 仏教論争

 前節で「仏教初伝譚」を検証したので、「蘇我氏と仏教論争譚」も以下の様に解釈される。蘇我稲目は倭国王に百済の北朝仏教を仲介した。その経緯を想像する。

(1)  「磐井の乱討伐」の為、北九州には大和軍が大挙した。数少ない九州在住大和系として、蘇我氏は大和朝廷(九州遷都)の大臣に任じられ、倭国との仲介や交渉で大活躍したと考えられる。

(2)  大和は任那回復戦略を任され、大規模な日本軍が九州に駐在した。代々半島経略に携わった蘇我家は、百済王家との交渉力もあったと考えられる。「百済王からの仏教仲介」を機に蘇我家は仏教のみならず先進文化の先導役として両朝廷で欠かせない存在となったであろう。倭国朝廷でも「大臣」と呼ばれた様だ(縁起)。大和王権大臣だからそう呼ばれただけか、倭国大臣にも任じられ兼務したか不明だが、その扱いを受けていたことが「仏教論争」から伺える。

(3)  蘇我稲目は自ら仏教に帰依することで「倭国と百済の懸け橋」となり、対抗する倭国物部尾輿大連、大和物部麁鹿火大連に競り勝とうとしたと考えられる。

(4)  倭国朝廷内では「南朝仏教派(倭国王)」「仏教排斥神道派(九州物部尾輿ら)」「北朝仏教派(蘇我稲目)」の三つ巴の論争となった、と解釈すると全て整合する。

以上、稲目の仏教導入は「倭国・大和への先進的北朝仏教導入を目指し、その先に北朝(北魏)の先進的律令制度を導入して国を富ませよう、その先導役で権力を握ろう」としたと考えられる。しかし、稲目が没すると「南朝仏教派(倭国王)」と「排仏派(物部尾輿)」の反撃によって、稲目の寺と仏像は破棄された(仏像の博多難波江投棄譚)。「稲目は仏教論争に敗退した」と考えられている。しかしそれは「倭国朝廷では」の条件が付く。蘇我氏としては「崇仏」を続けている。

 

● 稲目以後

稲目が没すると(569年)、天皇(倭国王)が北朝仏教排斥を許したので、排仏派物部守屋(物部尾輿の後継者)が仏教論争に勝利した。その結果、倭国朝廷内で物部守屋の専横が続き、それがひどくなったので倭国王家諸皇子(大委国上宮王の厩戸皇子)と諸王族皇子(倭国朝廷で王族扱いを受けた敏達天皇の竹田皇子など)、反守屋派豪族(蘇我稲目の子馬子ら)による「物部守屋討伐」(567年)が起こされ成功した(主導は馬子)。

倭国内で物部氏宗家は没落したが、蘇我馬子が主流となった訳ではない。倭国王が権力を掌握したのだ。それが隋書「阿毎多利思北孤の遣隋使」の記述に表れている。相変わらず南朝志向であり、北朝隋には対等外交を目指している。倭国では北朝仏教は許されなかった。

 

● 蘇我氏の本拠  大和 → 肥前 → 大和へ

蘇我氏の出自は大和であったこと、初代石川宿禰から蘇我稲目までに本拠は大和から九州肥前小墾田に移った、と前述した。この先を検証する。

(1) 馬子(稲目の子)の本拠は、結論を先に示すと「九州肥前飛鳥河の傍(ほとり)、現佐賀県三養基(みやき)町寒水(しょうず)川中流域」である。

まず、九州である根拠は「馬子は天皇(崇峻)を弑(しい)し、駅馬(はいま)を筑紫の将軍に遣わし、内乱により外事を怠るなかれ、という」(崇峻紀592)、とある。この記述から「筑紫に駐留する将軍に陸路駅馬を派遣できる馬子の本拠は九州である」といえる。

では九州のどこか。直前の記事に「紀・巨勢・葛城を大将軍とし、二万餘の軍を領(ひき)いて筑紫に出て居す」(崇峻紀591)とある。「将軍紀・巨勢・葛城」はそれぞれ「肥前基肄郡基肄(きい)・肥前佐嘉郡巨勢・肥前三根郡葛木」の将軍であろう(いずれも明治期肥前地名)。これら「肥前の将軍に指示をだしている馬子の本拠も肥前であろう。

では、九州肥前のどこか。「(馬子は)飛鳥河の傍(ほとり)に家せり」(推古紀626年)とある。九州肥前にも「飛鳥」の地名があったのだ(第一章)。

では「肥前の飛鳥河」はどこか。「飛鳥」の近くに「川原」がある。「飛鳥板蓋(いたぶき)宮災(ひつけ)り、飛鳥川原宮に遷居す」(斉明紀655年)とある。宮名に使うのだから「川原」は河川敷ではない、れっきとした地名である。筑後川に注ぐ現寒水川(しょうずがわ)の中流に明治期「肥前三養基(みやき)郡川原地区」があった。現在も「川原橋」が近くにある(筆者確認)。佃收は寒水川の支流の山ノ内川を飛鳥川に比定している(「古代史の復元」E 2004年 星雲社)。参考になるが山ノ内川は矮小な川で、飛鳥岡本宮・飛鳥川原宮・飛鳥板蓋宮などを建てる地相ではない。筑後川の支流「寒水川が飛鳥河」と筆者は考える。「飛鳥」のそもそもは漢人入植者が開いた地で、漢人が漢語地名「飛鳥」と共に諸方に移動したようだ(第一章)。「飛鳥」地名も漢人伝承と共に諸方にある。有名なのは仁徳紀の「近飛鳥(河内)・遠飛鳥(石上神社近くか)」である。大和飛鳥(明日香村)とは異なる場所である。九州の飛鳥の一つ「飛鳥河」は「寒水川」であろう。馬子の本拠飛鳥河は肥前三養基(みやき)郡川原(寒水川)付近であろう。

馬子はどこからこの「飛鳥」に移ってきたのか。寒水(しょうず)川の西10qには鳥栖市向原(むかいばる)川がある。「稲目の小墾田の家は向原の近く」(欽明紀552年)とあるように、馬子の父蘇我稲目の本拠である。この「向原」の近くに「小墾田」があることは「稲目宿禰、、、(仏を)小墾田家に安置す、、、向原の家を浄めて寺と為す」(欽明紀十三年)とあることで解る。「小墾田宮に遷る(注に仮宮(かりみや)とも)」(皇極紀元年)とあるから、蝦夷(馬子の子)の時代にも「肥前小墾田」を領有していたことが判る。この小墾田宮は推古の「大和小墾田宮」ではない。馬子は大和領拡大を進めるべく、「推古の大和帰還遷都」を勧め、「大和葛城」の近くに本拠肥前小墾田に因んだ名の「大和小墾田宮」を造営して提供した。推古は603年これに遷った

また、馬子は岡本宮を建て上宮王(大王、聖徳太子の父)に提供している(推古紀606年)。これも「飛鳥岡本」である。子の蝦夷の時代に「天皇、飛鳥岡の傍の岡本宮に遷る」(舒明紀630年)とある。馬子の子蝦夷は飛鳥に皇極の宮「飛鳥板蓋宮」を提供している(皇極紀二年四月)。その二か月後の記事「筑紫太宰、駅馬(はいま)して奏して曰く云々」とあるから、「飛鳥板蓋宮」も九州である。

以上九州飛鳥は、佐賀県寒水川中流付近、三養基町の旧川原地区であろう。寒水川の傍にかつて「馬子の家」があり舒明の「飛鳥岡本宮」、皇極の「飛鳥板蓋宮」があった。その東10qには佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川があり、かつて「稲目の家・小墾田の家」があり、皇極の「小墾田(仮)宮」があった。稲目・馬子・蝦夷はこの一帯を本拠にしていたのだ。

(2) 馬子のもう一つの拠点は豊浦である。これには奈良明日香村豊浦説、肥前説があるが、筆者は前述したように「豊前説」を提案する。この地は瀬戸内海に面した豊前推古領であったものを、馬子が肥前葛木(又は大和葛城)と交換して得、そこに自邸と港と豊浦宮を造り、推古に宮を提供したと推測する。蘇我氏は大和の蘇我領拡大を急いでいる時期であり、肥前本拠と大和自領を結ぶ拠点として、豊国に拠点と港が欲しかった。その数年後に馬子は大和蘇我領に「小墾田宮」と名付けた宮を造り、推古は大和に遷った(推古紀603年)。推古治世の大半はこの「大和小墾田宮」である(宮名であって大和に小墾田の地名は無い)。隋使文林郎裴世清(608年)を迎えたのもここである。馬子は倭国から独立した上宮王(大王)に仕える一方、推古の大臣として時々大和推古天皇を訪問している(二人の大君)。また、上宮王と推古は大和飛鳥に共同誓願寺「元興寺」を建て、二王権の大臣である馬子はそこを訪問している。子の蝦夷も大和の蘇我領拡大を急いでいる。肥前と大和を往復する際の経由港豊浦を拠点にして「豊浦大臣」と呼ばれている(推測、斉明紀)。

(3)  蝦夷の本拠は、西は肥前飛鳥((1)と同じ)。その更に西に舒明の宮を提供した。「大宮及び大寺を造作す、則ち百済川を以て宮処と為す」(舒明天皇639年)とある。宮処は地名として残っている。「肥前国神崎郡 蒲田、三根、神崎、宮所」(和名抄)、「神崎郡宮処郷、郡の西南にあり」(風土記)。場所は前出飛鳥の寒水川の西10q程に並行して筑後川に注ぐ現城原川(じょうばるがわ、現佐賀県諸冨町、恐らく前出の百済川であろう)。この辺りから「宮殿」とヘラ書きがある奈良時代の土師器が出土しているという。皇極もこの百済大寺造営に注力している。舒明・皇極は飛鳥の岡本宮・板蓋宮も使っているが、蘇我領の飛鳥であろう。

舒明紀630年

「天皇飛鳥岡の傍に遷る、是れ岡本宮と謂う」

舒明の飛鳥岡本宮が九州であることは、同年の皇極紀から解る。

皇極紀元年

「舒明崩御を聞き、阿曇(あずみの)比羅夫が筑紫から駅馬で駆け付けて葬に出た」

葬は本拠で行われる。筑紫から馬で駆け付けられるのは九州内だからである。従って、舒明の本拠である飛鳥岡本宮は九州肥前である。舒明を継いだ皇極が翌年に遷った「飛鳥板蓋新宮」も肥前飛鳥と考えられる。

皇極紀643

「四月二十一日、筑紫太宰の早馬が奏上して曰く、百済国王子が調使と共に来る、二十八日、権宮(かりみや)より飛鳥板蓋新宮に遷る」

大宰府から早馬が来る地だから、この飛鳥板蓋宮も肥前である。

蘇我氏は「筑紫君磐井討伐」で筑後の磐井領を奪ってそこを拠点にし、「物部守屋討伐」後に肥前に進出し、現鳥栖市から佐賀市方面へ、西へ西へと拡張していた。その度に本拠を西に移し、宮を提供して大和王権・上宮王家を引き寄せ、朝廷を取り仕切ったようだ。蝦夷の本拠も肥前飛鳥である。

(4)  蝦夷のもう一つの拠点は豊浦である。前述したように、この豊浦は豊前の海沿いと考えるが、東方支配にこの豊浦を多用したのだろう、豊浦大臣と呼ばれている(斉明紀)。

推古崩御で大和王権を継いだ舒明・皇極は本拠を大和小墾田宮から九州に戻した。では大和の大和王権領はどうなったか。大和王権領そのものは蘇我蝦夷が代官として治められるが、大和諸豪族を抑える権威は蘇我氏に無い。それを持っている人物の一人が斑鳩に居た聖徳太子の継嗣山背(やましろ)大兄皇子であった。皇子は大和王権天皇となった皇極のいとこに当たり、皇極の次の天皇候補の一人であるから、大和豪族を抑える資格はある。蝦夷・入鹿は皇極の次には山背を担げば良かったが、そうしなかった。入鹿は山背を生駒山に追い、斑鳩で山背一族を滅ぼした。

(5) 入鹿の本拠

入鹿の本拠は肥前飛鳥である。飛鳥板蓋宮(肥前)で皇極の前で中大兄皇子に暗殺されている。宮の近くに本拠があったと考えられる。入鹿のもう一つの本拠は「大和飛鳥」(現明日香村)である(次節)。

まとめると、稲目・馬子・蝦夷・入鹿は「肥前飛鳥」と「豊前豊浦」と「大和飛鳥」に拠点を持っていた。その新設や重点の置き方は前述のように変化しているが、「九州から大和への進出(=里帰り)」の動機と流れがあったようだ。

以上、蘇我氏の本拠を見てきたが、大和王権天皇の宮の多くと重なる。それは蘇我氏が自領に宮を提供したからだ。しかし、乙巳の変で蘇我宗家が滅亡すると、宮は天皇領になったようで、そのまま使われている(肥前板蓋宮で斉明即位、など)。

 

● 蘇我氏の滅亡

推古崩御で大和王権を継いだ舒明・皇極は本拠を九州肥前に戻した(肥前岡本宮・肥前飛鳥板蓋宮)。では大和の大和王権領はどうなったか。大和諸豪族を抑える権威は蘇我氏に無い。それを持っている人物の一人山背(やましろ)大兄皇子一族を滅亡させたことは上述した。

入鹿は大和の拠点として大和小墾田宮近くに壮大な山田寺を建造しつつあった。蝦夷自身も大和飛鳥の元興寺を訪ねている(法興寺と元興寺の混同)。更に、王権権威の空白を埋めるべく自らが天皇を装った。「蝦夷・入鹿は甘檮岡(あまかしのおか)に家を起こし、大臣の家を称して曰く宮門、入鹿の家を谷宮門と曰ふ」(皇極紀644年)、とある。この甘檮岡は「大和飛鳥」と言われている。肥前の蘇我本拠「飛鳥」の地名移植であろう。これら専横の結果が「肥前飛鳥板蓋宮での乙巳の変」につながった。これにより、入鹿は暗殺され、蝦夷は自害した。

甘檮岡(あまかしのおか)の南隣にある小山田古墳跡(一辺70mの大王並の方墳、7世紀前半)の発掘がこの数年続いている。完成後にすぐ破壊された痕跡がある、とされている。筆者はこれを「蝦夷の寿墓(じゅぼ、生前造築墓、蘇我墓は方墳)」と考える。乙巳の変で(肥前で)自害したので、(大和で)完成していた墓に埋葬されずに墓は破壊されたのであろう。

近くの「石舞台古墳(方墳)」は馬子の墓の暴かれたもの、と言われている。しかし、馬子の本拠は肥前飛鳥であり、大和に埋葬される程の理由も墓を破壊される程の大和での悪行(あくぎょう)も見当たらない。筆者はこれを「入鹿の未完成寿墓」と考える。入鹿は大和に骨を埋める覚悟と権力誇示で生前墓を造り始め、斑鳩の山背(やましろ)大兄皇子一家殺害を決行したが、恨みを買い乙巳の変で暗殺された。この墓は未完成で放置されたと筆者は考える。

要すれば、蘇我氏四代の墓はすべて九州と考えられる。稲目の本拠は肥前小墾田である。欽明の崩御記事に「駅馬」の記事があり第一章から九州である。欽明は大和を本拠としながら、しばしば九州で任那回復軍を指揮した。欽明の大臣でありその前年に没した稲目の墓も九州であろう。「馬子の墓は肥前飛鳥」と第一章で論証した。蝦夷は「乙巳の変」で肥前で自害し、大和の寿墓は使われないまま破壊されたと考えられる、と上述した。入鹿は飛鳥板蓋宮(肥前)で暗殺され墓は不明であるが肥前であろう。大和の寿墓は未完成で放置された「石舞台古墳」と考える。

 

● 蘇我氏 まとめ

以上、蘇我氏の活躍時期を四期に分けると、

(1) 大和出身ながら九州に定着し、蘇我稲目の代で「九州に一時遷都した大和王権」を援けて大和王権大臣に任じられた時期。

(2) 大和王権を代表する立場で倭国朝廷で活躍し、倭国王から「大臣」と呼ばれ(あるいは任じられ)、倭国大連物部尾輿と覇を競う時代。

(3) 尾輿の子「物部守屋討伐」を果たした蘇我馬子は、しかし倭国で覇権を握れず(王政復活)、倭国王族の上宮王を担いで新王権「上宮王権」の独立を援け、大臣兼務となった時期。

(4) 大和王権と上宮王権の大臣を兼務しながら、二王権を近づけ、融合させ、大和王権に合体させた時代。大和王権の大和帰還遷都を助けつつ、大和に蘇我自領を拡大しようとした。その大和王権で専横したが、「乙巳の変」で蝦夷・入鹿が討伐されて蘇我宗家が滅亡した時代。

後半期では、稲目・馬子・蝦夷・入鹿は「肥前飛鳥」と「豊前豊浦」に拠点を持ち、「大和飛鳥」に拠点を造りつつあった。その新設や重点の置き方は前述のように変化しているが、「九州から大和への進出(=里帰り)」の動機と流れがあったようだ。蘇我氏の本拠は大和王権天皇の宮の多くと重なる。それは蘇我氏が自領に宮を提供したからだ。しかし、乙巳の変で蘇我宗家が滅亡すると、宮は天皇領になったようで、そのまま使われている(肥前板蓋宮で斉明即位、など)。

 この様な複雑な歴史を、日本書紀は「倭国不記載」「二王権不記載」の方針で記しているから、蘇我氏の他二王権での活躍譚がすべて「大和王権内の事件譚」と誤読されている。しかし、不実記載や否定はしていないから、紀から上記のように解読することができる。これを理解しないで「蘇我氏」を論ずることはできない。

 

 

 

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はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷