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四著「一図でわかる日本古代史」 第六図 _________
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「一図でわかる日本古代史」
第六図 「蘇我氏」の流れ>
第六図 「蘇我氏」の見えざる二面
蘇我氏は倭国王権・大和王権・上宮王権の三王権の大臣を務めた稀有な存在である。しかし、日本書紀が「倭国不記載」・「上宮王権不記載」の方針で編集されたため、「わかったようでわからない存在」に留まっていた。
蘇我氏については筆者は前著* で詳論した。小論ではあるが、「記紀・海外史料とも整合する検証・論証」と自負する。この欠点は従来説・定説と多くの点で異なるので、論理的に正しくても、感覚的になじめないかもしれない点である。 *筆者第三著「千年の誤読」第三章「蘇我氏は九州の豪族」 → こちら
そこで、ここでは論理的検証は前著にまかせ、「一図」の中の位置付けによって、視覚的・直観的にご理解いただこうという試みである。お楽しみ頂けたら幸いである。
蘇我氏は大和王権の傍臣として雄略紀にも出てくるが、代々海外征戦に加わるうちに九州に定着して交易豪商となった。その面で倭国朝廷にも喰い込み、大和王権の九州遷都を支援したことから大和朝廷の大臣として重用された。
ここまでを予備知識として以下「一図」に入っていただきたい。要点を赤ボタンで示したので、クリックすると解説文が現れるのはこれまでと同じです。
第六図 「蘇我氏」の見えざる二面 解説文 (ボタン解説と重複)
●761 ❶ 蘇我氏の祖は蘇我石川宿禰(大和)
蘇我氏の祖は蘇我石川宿禰(武内宿禰の三男、新撰姓氏録)、本拠は大和(葛城?)であった。「蘇我氏は渡来系」と推測する説もあるが、子孫の名前に子「満致(まち)」(百済系の名)・孫「韓子(からこ)」・曽孫「高麗(こま)」が居る。このことから子孫に「いがみあっていた三韓に因む名」をつけているから、三韓のどれかから渡来したとは考えられない。逆に石川一族は「三韓征戦に携わった」と推測する方が妥当である。
●762 ❷ 二代 満致(まち)三韓征戦に
二代 満致(まち、百済系の名)は時代的に「三韓征戦後の応神・仁徳の大和帰還/東征」に従い河内に移った、と考えられる。仁徳の次履中紀(河内)に蘇我満智の名が見える。
●763 ❸ 三代 韓子(からこ)。 新羅征戦に
三代 韓子(からこ)。 雄略紀465年の「新羅経略譚」に韓子の名がみえる。倭国と雄略の新羅経略に参加(雄略紀)。本拠は次第に筑紫に移ったようだ。
●764 ❹ 四代 高麗(こま) 筑紫から肥前に
四代
高麗(こま) は「筑紫君磐井の乱」の討伐に参加した功績で磐井の遺領肥前向原を得たようだ(次項)。
●765 ❺❺’❺“ 五代 蘇我稲目(いなめ) 肥前向原を本拠に
五代 蘇我稲目❺は代々半島征戦に関わって百済朝廷とも人脈を得た様で、百済王の勧める北魏仏教を倭国王に仲介した。豪商として倭国朝廷にも出入りしていたのであろう。しかし、宋の南朝仏教を既に導入していた倭国王、神道を主張する物部尾輿と仏教論争をしている。
磐井の乱で弱体化した倭国に任那外交を任された欽明天皇・物部麁鹿火が九州に滞在すると、稲目は欽明に大和大臣に任じられ❺“、倭国王との仲介から倭国大臣にも任じられた(兼務)❺’。
●766 ❻❻‘❻“ 六代 蘇我馬子(うまこ) 肥前飛鳥に
稲目が歿すると子の馬子が大和大臣・倭国大臣(兼務)を引き継いだ(敏達紀、大安寺縁起)。推古天皇の大臣を務めながら❻‘(推古紀)倭国王大臣を務めた(兼務)❻“。
この裏には倭国王が物部尾輿の力を削ごうとした為と見られる。そこから起こる物部氏と蘇我氏の対立は最終的に「物部守屋討伐譚」となり、物部宗家(九州)は滅亡した。
では、馬子は倭国で筆頭大臣になれたか? 否、である。それは倭国王が「親政体制」をとったからだ。倭国王は倭国王族の上宮王や蘇我馬子が主張する「北朝仏教導入」を認めなかった。馬子は倭国内での覇権を諦め、上宮王をかついで倭国を飛び出し、「上宮王権」を確立した。上宮王家はニニギを祖とし、神武・崇神・景行・応神・継体を送り出し、何度か大王を称した名門だから、「大王」となる資格があったのだ。
馬子❻は「三人の大王(おおきみ)」に仕えた稀有な存在なのだ。大和天皇(敏達〜推古)の筆頭大臣❻‘でありながら倭国大臣を兼務し❻”、上宮大王が独立すると(倭国大臣は辞したが)推古大臣を続投しながら上宮大王の筆頭大臣を兼務したからだ❻”’(筆者ブログ第23話「三人の大王」参照)。
●767 ❼ 七代 蝦夷(えみし)
馬子の子蝦夷は推古大臣を引き継いだが、推古崩御の次期天皇には田村皇子(敏達孫)を推した。その対抗候補は山背(やましろ)大兄皇子(聖徳太子の嫡男)であった。その狙いは複雑である。
蘇我氏の祖地(葛城?)は大和だったので、馬子以来大和に自領を広め、蝦夷はしばしば豊国豊浦の港を拠点に大和に出向き「豊浦大臣」とも呼ばれた。
田村皇子は上宮大王孫宝皇女の夫であり、皇女の大王即位までの中継ぎ大王(第三代)であった。これを推古のあとの候補に推挙すると同時に、宝皇女(田村后)を第四代上宮大王に据える積りだった。上宮王家の本拠は肥前だから、宝大王は肥前に留まり、その夫が大和天皇に即位しても夫妻は肥前に留まるであろう。
蝦夷は肥前百済川に豪壮な宮を提供し、近くに百済寺建設を支援した。百済寺は聖徳太子の熊凝(くまごり)寺の移転寺で、上宮王権の官寺である。宝大王・舒明天皇がそこを離れるはずはない。そうなると、推古のあと大和は大王不在になる。蝦夷の狙いはそこであった。大王の居ない大和を大臣として代管理すると共に、蘇我氏が大和で大王の振る舞いをしてもそれに文句をつける資格者は聖徳太子の継嗣山背王(斑鳩)だけであった。
●768 ❽❽’ 八代 入鹿(いるか) 蘇我氏の滅亡
蝦夷の子入鹿❽は大臣にならなかったが父大臣を笠に着て横暴に振る舞い、聖徳太子の遺族(山背(やましろ)王一族を殺害したことが命取りになり、「乙巳の変」(肥前飛鳥板蓋宮大極殿の事件)で殺された。蝦夷はこれを聞いて自死し、蘇我氏は滅亡した。
入鹿の暴挙は、推古のあとの舒明・皇極が都を肥前に戻したので、空白の大和で大王の振る舞いをし、山背(やましろ)王が大和大王になるのを恐れて一族を殺したのだ❽’。
第六図 了
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