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四著「一図でわかる日本古代史」 第三図  _________

 

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「一図でわかる日本古代史」

 

はじめに

元 図 「一図でわかる日本古代史」 

第二図  三つの流れ

第三図 「倭国不記載」とその理由   

第四図 「倭」字の読み方の変遷

第五図 「物部氏」のすべて

第六図 「蘇我氏」の流れ

第七図 白鳥の「飛鳥」

第八図 陰の主役「上宮王権」

 

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第三図 「倭国不記載」とその内容

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日本書紀は「倭国不記載」の方針で編纂されている。その動機は「対唐外交への配慮」だと考えられる。

倭国滅亡後、日本国を建国した文武天皇は遣唐使を派遣して「朝貢外交」を願い出た。唐の反応は「倭国は唐と戦った敵だ(白村江戦のこと)。日本国は倭国と同じ国か、もしそうなら敵だ。そうでないと言うなら、そのような国史を提出せよ」と迫られた様だ(旧唐書)。倭国と日本の関係、大和・日本の(及び腰ながらの)参戦を知り尽くした上での唐の建前論である(遠交近攻策)。

「倭国など無かった」も「倭国と日本は敵対した」も不実記載となる。唐はそれを知っていた。だから「倭国不記載」とするしか無かったのである。では何が不記載とされたのか、後世の我々は何を補完して日本書紀を読めば良いのか。次図で点線左側の半白部分がそれである。そこの赤ボタンクリックで「何が不記載とされたのか」の解説文が示されます。@ クリックから始めてみていただきたい。

 

 

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第三図 「倭国不記載」とその理由 解説文  (ボタン解説と重複) 

 

711  ❶ ホアカリ倭国不記載の理由

日本書紀は「倭国の祖、ホアカリ」を不記載としている。 ニニギの兄として名は一二回出てくるが、「倭国の祖ホアカリ」とは記せない。「日本国の祖は神武、その祖はニニギ」とする以上、「倭国と日本は兄弟国」とは言えないからだ。唐にとって「敵であった倭国の兄弟国は敵」となるからだ。

朝貢遣唐使(701年、粟田真人)に対する唐の査問は「日本国は(白村江で戦った)倭国と同じ国か、違う国か? 同じなら敵だ。違うならその国史を提出せよ」であったと考えられる(旧唐書)。

唐は長年の交流で「倭国と大和は同祖・同族」「倭国は宗主国、日本は国内諸国だが筆頭友好国」など承知の上だった。長年両者を遠交近攻策で離反させようとしていた位だから(孝徳紀・斉明紀)。

当時、唐は内政重視政策に転じていたから、日本と揉める積りはなかったが、戦った倭国の仲間だから建前上「別の国」とする必要はあったのだ。

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712  「卑弥呼の倭国」(魏志倭人伝)不記載

唐への提出を想定した日本書紀編者は不用意に中国史書に触れるのは避けている様だ。唐の学者の知識には敵わぬからだろう。奈良時代の後代注に「魏志に曰く、、、」「晋の起居注に云う、、、」などあるが、むしろ奈良時代の方が不勉強に対する自覚が足りない。倭国の忘却などがあり、「倭国不存在」「倭国=大和」などの「不実記載」の和読(振り仮名)を平気で容認していく。

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713 ❸❹❺ の熊襲征伐・新羅征戦

 景行紀・仲哀紀は九州熊襲征伐を記し、神功紀〜応神紀は新羅征戦を記している。それらには倭国は出て来ない。しかし、記紀と海外史料(三国史記など)の検証から「これらの主役は倭国であって、大和はこれに協力した脇役に過ぎない。しかし、日本書紀は主役の倭国を出せない立場(倭国不記載)。書紀は不記載・不説明だが不実記載・捏造ではない、とわかる。

 景行〜ヤマトタケル〜仲哀が倭国・豊国に長期協力した理由は、景行が倭国(ホアカリ系)とその一部となった豊国(ニニギ系)から第三次東征として派遣され、その結果東方で大王になれたことへの恩返しの側面が景行紀から読み取れる。

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714  「倭の五王」不記載    

宋書「倭の五王」には大和も大和天皇も出て来ない。他方、日本書紀も「倭の五王」についての記載が無い(後述)。その理由は、「この時代、両者で列島を統一したが、両者の実力は拮抗していた」と考えられる。

倭国は宋に認められた宗主権によって強くなり過ぎた大和を支配下に置こうとし(遣宋使に大和を入れず?)、大和はそれを認めつつも東国の自由支配を倭国に認めさせたと考えられる。

雄略紀五年条に百済新撰引用の形で「日本」・「大倭」、「天皇」・「天王」が並記されている。これが「倭国・倭国王」「日本国・日本天皇」が並記されている正しい唯一の例だが、雄略紀は「並記した両者は同一、雄略は唯一の大王」と誤読誘導するような書き振りである。後世は更に両方に「やまと」「おおきみ」と振り仮名してはっきり誤読させている。

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715  「倭国天王」を「天皇」と記す奇手

 この時代、倭国は衰退して、大和王権に任那回復を任せた関係で、大和王権が九州に遷都した。その為に「倭国朝廷」と「大和朝廷」が接近・オーバーラップした。倭国大連の物部尾輿・守屋が大和大連を兼ね、大和大臣蘇我稲目・馬子が倭国朝廷からも大臣扱いされた。そこでの事件「仏教論争」や「物部守屋討伐事件」は「ほとんど倭国朝廷の事件なのに、大和朝廷関係者も関わっている為書紀に記されている。どうやって「倭国不記載」と整合させているのか。

これら事件では「倭国大王」を「天皇」と記して胡麻化している。「当時、複数の大王がいて、様々な呼ばれ方をしていた(大王・天王・天皇・おほきみなど)。だから『天皇』表記に統一した」という言い訳を用意したのだ(欽明紀・敏達紀など)。

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716 ❽ 上宮王権不記載               

日本国遣唐使が「唐に日本国列島宗主権を認めてもらう」為に、「大和王権はこれまでも列島唯一の王権」と主張する上で、「上宮王権もあった」とは言えないのだ。そこで前項の手法は「上宮大王」を「天皇」と記す例にも使われている(推古紀)。たしかにこの時代「三人の大王(おほきみ)」が並立していたから、日本書紀編纂者は隠すのに苦労した訳だ(次著ブログ第23参照)。 

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717 ❾ 遣隋使記事の倭国不記載             

「遣隋使」に関する史料は二つしかない。「隋書」と「推古紀」である。二つの記事は「一致する記述」と「一致しない記述」がある。一致するから「二つの文書は同一事績を記している」と考えられている。古来の「定説」でも、新しい「九州王朝説」でもその点は異論ない。しかし、一致しない部分については「中国側の誤解」「日中の立場の違い」「推古紀の不実記載・捏造・当用」など様々な解釈がある。定説は「隋書には倭国王は男帝とあり、女帝推古ではなく聖徳太子のことだ」とし、他方、九州王朝説は「遣隋使は九州倭国王(男王)の派遣である。推古紀は倭国史の盗用だ」とする。

しかし、二つの史料を論理的に読むと、二つの史料はそれぞれの外交原則に基づく立場の違いはあるが極めて論理的に書かれており、立場の違いはあって不記載はあっても不実記載は無い、と読める。不一致に見えるポイントは、隋書は「裏外交不記載」の原則に則り、倭国との公式外交だけを記し、推古との裏外交は伏せている。推古紀は「倭国不記載」の対唐外交原則に則り、遣隋使派遣者倭国王と主使を伏せ、推古の派遣した小野妹子随行使だけを記している。それらを理解すれば、二史料だけで全体像が整合性良く把握できる。検証は筆者三著第五章こちら。

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718 ❿ 「倭国滅亡不記載」

 日本書紀は倭国滅亡を記していない。「倭国不記載」が編集方針だからである。そして唐はそれを不審に思ってはいない、自分たちが滅亡させたのだから。博多付近に駐留したと思われる唐軍は680年頃、本国事情により撤退した。その時をもって、倭国・倭国王族の消息は途絶えた。なにがあったか推して知るべしある。百済を滅亡させた際の唐軍は百済財宝を一切合切さらい、百済人捕虜1万人を中国に連行した。だから、想像する、、、

681年のある夜、博多湾の迎賓館で唐駐留軍の最後の撤退軍船団を送る送別の宴が開かれた。これには傀儡倭国の倭国王・王族・大臣・将軍らがこぞって参加した。明日からは独立を回復する、との期待を込めての歓送会でもあった。

翌日の朝には博多湾の唐軍軍船の船影はまったく消えていた。出港したのだ。そして、、、前夜の宴からは付き添いも含めて誰も帰らなかった。行方不明である、迎賓館の警備員も料理人も、、、。そして、どこからか噂が流れて来た。この不審事について口にする者がいたら、彼らは生きて帰らない、と。それは唐軍のいつもの緘口令と同じだった。残された者はなにがあったか想像できた。そして黙って、生きていること、帰ってくることを祈り待った。しかし、だれも帰ってこなかった。後世、唐の資料にも情報は全く無い、、、 

 

 

第三図  解説文   了

 

 

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第二図  三つの流れ

第三図 「倭国不記載」とその理由   

第四図 「倭」字の読み方の変遷

第五図 「物部氏」のすべて

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第七図 白鳥の「飛鳥」

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