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四著「一図でわかる日本古代史」 第八図 _________

 

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「一図でわかる日本古代史」

 

はじめに

元 図 「一図でわかる日本古代史」 

第二図  三つの流れ

第三図 「倭国不記載」とその理由

第四図 「倭」字の読み方の変遷

第五図 「物部氏」のすべて

第六図 「蘇我氏」の流れ

第七図 白鳥の「飛鳥」

第八図  陰の主役「上宮王権」   

 

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第八図  「上宮王権」はニニギ系

日本書紀は「大和王権が唯一の王権」の立場から「倭国不記載」「上宮王権不記載」である。しかし、その日本書紀から「書紀の百年前、二つの王権・大王がいた」と検証できる(推古紀二十年条)。更に、隋書を加えれば「三人の大王」がいたと検証される(いずれも筆者ブログ第23話「三人の大王」 )。「倭国天王」「大和天皇」「上宮大王」である。

「上宮大王」の存在を認識した先達史家は数人いたが(古田武彦・佃收ら)、その認識すら混乱して説得力に欠ける。その理由は「豊国を本拠とした上宮王家」が様々に変化したからだ。ある時は「倭国」に属し、ある時は「倭国」から独立して並立し(景行紀)、ある時は「大和に遷都」して(応神・仁徳紀)残った支族は倭国に属し(敏達紀)、ある時「倭国から独立」して王権を再興し(崇峻紀)、その後「大和王権と合体」するなど、日本書紀からその複雑な変化を読み取ることができる。 「上宮大王」の存在を認識した先達史家は数人いたが(古田武彦・佃收ら)、その認識すら混乱して説得力に欠ける。その理由は「豊国を本拠とした上宮王家」が様々に変化したからだ。ある時は「倭国」に属し、ある時は「倭国」から独立して並立し(景行紀)、ある時は「大和に遷都」して(応神・仁徳紀)残った支族は倭国に属し(敏達紀)、ある時「倭国から独立」して王権を再興し(崇峻紀)、その後「大和王権と合体」するなど、日本書紀からその複雑な変化を読み取ることができる。

この複雑な変化を視覚的・直感的に把握するのが本図の目的である。要点を赤ボタンで示したので、クリックすると解説文が現れるのはこれまでと同じです。

 

 

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第八図  陰の主役「上宮王家」 解説文  (ボタン解説と重複) 

 

781 ❶❶’ ホアカリとニニギの仲

アマテラスの孫は二人(天孫)、ホアカリとニニギは20才位離れた兄弟であった。二人の仲を解説する。

ホアカリが軍を率いてアマテラス高天原(南韓高興)から海を渡り遠賀川あたりからスサノヲ軍を攻め、勝って「国譲り」を受けた。そこで幼いニニギを呼び寄せて祭事王として先祖イザナギの故地(筑紫日向小戸、現関門域彦島小戸)を守る祭事王に据えた。主臣にはアマノコヤネ(のちの中臣氏)を付けた(記紀)。末子が親の老後を守り、先祖を祀り、家を継ぐ慣行が当時はあった。

ニニギが成人したころ、戦いが始まり(恐らく卑弥呼の狗奴国戦)ホアカリは主戦場(筑後川あたり)へ(記紀は不記載)、ニニギは背後を突くべく東沿岸を宮崎日向に陸行した。_

この南征出発に当たりホアカリは子のカグヤマ❶’(ニニギと叔父甥の関係だがほぼ同年代)に物部軍の一部をつけてニニギに与えた。その子孫は神武東征に従い、のちのカグヤマを祖とする尾張物部氏となる(先代旧事本紀)。

 注目すべきは「子のカグヤマを与える程のホアカリとニニギの仲」であった。

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782 ❷❷’ 神武東征と一族の豊国残留

神武は宮崎日向から東征に出発し、ニニギの育った関門域で残留ニニギ一族と思われる協力を得て(古)吉備・(古)安芸で船の調達など東征の準備をした

東征に当たっては、一族の一部を九州に残した❷’。アマノタネコ(ニニギの主臣アマノコヤネの孫)は神武に従い東征したが、その子ウサツオミは九州宇佐に残った(神武紀、23)。その子孫が後世の中臣氏である。豊前直入(なおり)中臣(景行紀)・中臣鎌子(倭国神祇司、敏達紀)・中臣彌氣(みけ、鎌足父)・中臣鎌足(肥前飛鳥)を輩出してる。いずれも九州である。_

中臣氏の主要一族が九州に残っている理由は、中臣氏の主筋であるニニギ系・神武系の一部も九州に残った、と考えられる。なぜならニニギ一族には「イザナギの禊の祭場」である筑紫日向小戸(現下関市彦島小戸)で祭祀する祭事王の任務があったからだ。

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783 ❸ 崇神 東征第二陣

崇神は「神武の子孫」とされているが、定評ある記紀の年代修正法 * で修正すると、「神武〜欠史八代(三兄弟三世代)」と「崇神・垂仁」・「景行〜仲哀」の三系は並立だった、となる**

* 記紀の年代修正「古事記崩年重視(下図青数字)・在位崩御年令の二倍年歴修正(赤数字)・神功紀の干支二巡繰り上げ・一世代平均23年差」

** 神武の在位270300年頃、崇神の在位は288318年、景行の在位は300332年と重なるから

 

年代修正後の大和天皇 三系は並立

 

従来、神武国(橿原〜葛城周辺)・崇神国(桜井周辺)は拡大(あるいは移動)とされたが、並立なら別の国である。争っていないから同族別系統であろう。同族が10年を経て別の国を作るとは、どういうことか。

「神武東征の成功を確認した送り出し側(豊国ニニギ系)は、同族の崇神を東征第二陣として送り出した、崇神は神武の隣に同族国を建てた、と考えられる。そうならば記紀が二人を「はつくにしらす=建国者」と讃えてもおかしくない。

記紀で「京」字が初出するのは崇神紀十年で、四道将軍派遣譚の後である(下図@崇神紀)。神武紀にない「京」字が出るのは漢人が居た証拠だ。漢人にとって京は大王の都である。_

崇神は四道将軍派遣で複数の王を影響下に置く大王と(ホアカリ系)倭国にも認められ、神武国とは(同系ながら)別の国を建国したと自認したのだろう。

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784 ❹ 景行 東征第三陣

景行も万世一系とされるが、同時代並立である。10年遅れだ。そうであれば、豊国ニニギ系は崇神の東征第二陣の成功を見て、第三陣景行を宇治域に送って領地獲得に成功した、と考えられる。

崇神時代の飛鳥「近飛鳥」(前期飛鳥)

実は、崇神・景行系には渡来系が含まれている。それは280年頃台与倭国が受け入れた半島漢人2000人(韓人を含む、応神紀)の分与を受けた可能性がある(応神紀)。これを仲介したのは台与を共立していたホアカリ倭国王であろう。豊国ニニギ系王族家は祭事ではホアカリ王家の上格でも、政事では格下、そんな関係だと考えられからだ(卑弥呼(祭事王)/倭諸国王(政事王)の関係が参考になる)。

景行紀の熊襲征伐譚に二回「豊前の京」が出る(紀次出)。景行天皇はそこに滞在して、南征して日向を取り戻し、「大和の京」に帰還している(紀三出)。

これは、景行の熊襲征伐前から「豊前に京」があったことを示している。豊前(関門域を含む)の王はニニギ系だった。「神武が関門海峡域に残した一族」が大王になっていたことを示唆している。それは、第二陣崇神の東征が成果を挙げて、派遣元のニニギ系王も大王に昇格したからだろう。

崇神東征が成功して、ニニギ系大王は直ちに第三陣として景行を派遣し、景行/ヤマトタケルが東征・征西に大活躍したと考えられる。

景行は西征で熊襲征伐・日向奪還(ニニギ南征ルートとほぼ同じ)に成功した、派遣元がニニギ系大王だったことを示唆している。

その成功で景行も大王となり、大和の都を「京」と称している(「京」、景行紀)。

景行が大王になり自都を「京」と称し、彼を派遣したニニギ系大王がいて自都を「京」としているならば、その兄弟国(兄国)のホアカリ系王も大王となり自都を「京」としていないはずがない。のちに九州年号(倭国年号とされる)「倭京(わきょう、漢語、618622年)」がある *

* 孝徳紀に「倭京(やまとのみやこ、和語)」があるが、こちらは天武の和語新当て字令(680年頃、山常 → 倭(やまと)など)による遡及表記である。

景行の西征(320年頃か)の終わった頃に、ホアカリ系王・ニニギ系王は「台与系九州倭国」を再統一して、ホアカリ系王は九州倭国大王となり、ニニギ系王は豊前〜日向(宮崎)を治める大王となったと考えられる(仮に前期 豊前大王とする)。大和景行の大王を含めて「三人の大王」が居た、と解釈できる。これが「三人の大王(おほきみ)」(第五著第23話)の始まり、とできる。_

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785 ❺ 応神 東征第四陣

応神・仁徳の出自は豊前ニニギ系で、神功皇后の皇子とは別人である(筆者ブログ第23話)。半島征戦で大活躍し、戦後には凱旋帰還兵、半島人捕虜、渡来人を引き連れて東征し、乱れた大和の三王権を継承する形で大和を再統一した(東征 第四陣)。応神・仁徳大王国の都は(仁徳の半ばまで)豊前京、その後(410年頃)仁徳が河内に遷都したと考える。_

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786  継体 東征第五陣  

応神系が拡大大和を統治して繁栄したが、武烈で血統が途絶えた。これを機に倭国/豊前ニニギ系が応神五世孫継体を押し込んだ。 応神が豊前ニニギ系王族なら、継体も同じだと言え、それは続いた倭国/豊国の東征の第五陣を意味する。

倭国内で大和系豪族磐井(大彦末裔)の乱が起こった時に、継体が死力を尽くしてその討伐に当たったのはその恩返しと考えるのが妥当だろう。この頃の豊前は倭国内分国のような立場で、倭国朝廷仏教論争に中臣某が出てくる。中臣の主筋はニニギ系であったから、倭国の中にニニギ系王族がいた可能性が高い。継体の同族であろう。_

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787  上宮王権独立

上宮王もニニギ系であった。その根拠は幾つかある。

「大委国上宮王」と署名のある史料がある。正倉院御物「法華義疏(ほっけぎそ)写本」(南朝仏教系)である。大委国は大倭国の佳字だから、上宮王は大倭国の王族であった。上宮王は南朝仏教に興味があったことになる。

上宮王の子上宮太子(聖徳太子)の史料に「「上宮聖徳皇子が建てた碑文に、法興六年(596年)、、、我が上宮大王、、、云々」(伊予風土記逸文)がある。上宮王は大王になったのだ。九州年号と異なる法興年号を使っているから倭国大王ではない。倭国から独立したのだ。「上宮王権」とする。大王(おおきみ)と名乗った例は「ホアカリ系倭国大王・景行天皇(ニニギ系)・豊前国(ニニギ系)大王」の前例があるだけだ(前述、こちら)。この頃では倭国天王(阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)・推古天皇・上宮大王だけだ(五著「ブログ千年の誤読」第23話「三人の大王」)。そうであれば、大王を名乗る資格がある上宮大王とは「豊前ニニギ大王の子孫」としか考えられない。

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に「法興三一年、、、上宮法皇、、、」とある。元号・法皇(大王格)から法隆寺(北朝仏教様式)は上宮大王菩提寺と考えられる。上宮大王は北朝仏教帰依に転じたのだ。これを証する史料がある。「天皇(上宮大王)、皇太子(聖徳太子)に請い勝鬘経(北朝仏教系)を講ぜ令」(推古紀606年)。日本書紀は基本的に「倭国不記載」「上宮王家不記載」だが数か所で「天皇」と記しながら内容が「倭国天王」「上宮大王」を意味している例がある(敏達紀・推古紀)。_

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788 ❽ 大和王権への接近

上宮大王が崩ずると、聖徳太子が既に薨じていたので弟(殖栗皇子か)が第二代大王に就いた(大安寺伽藍縁起)。第二代が崩ずると子の宝皇女までの中継ぎとして宝皇女の夫田村皇子(敏達孫、ニニギ系)が第三代に就いた(同)。上宮王家(ニニギ系)は同祖の大和王族を迎えたのだ。_ 

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789 ❾ 大和王権との合

推古天皇が崩ずると、田村皇子が上宮大王を辞して舒明天皇に即位した。上宮大王位は宝皇女と山背(やましろ)大兄皇子(聖徳太子継嗣)が争ったが宝皇女が第四代に就いた(舒明紀)。舒明天皇と宝大王(舒明皇后宝皇女)は同じ宮(肥前百済宮)で二王権の二大王を務めたのだ。大臣は蘇我蝦夷が兼ねた。舒明が崩ずると、宝大王が皇極天皇に就いた(兼務)。二人の継嗣中大兄皇子までの中継ぎとはいえ、二王権の大王を兼ねるとは、「二王権の合体」を意味する(形式的には大和王権が上宮王権を吸収)。皇極は飛鳥板蓋宮(肥前)を宮とした。上宮大王が本拠とし法興寺を建てた地である。_

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790 ❿ 上宮王家主導の大和王権

「乙巳の変」が起ると皇極は退位して豊前京(みやこ、豊前ニニギ系王家の本拠か)に遷ったようだ。紀から「飛鳥板蓋」が10年近く消えて代わりに「京」が出てくる。肥前飛鳥は蘇我氏の本拠でもあるから、蘇我支族の反撃を避けたのだろう。

次の孝徳天皇が難波宮で崩ずると、皇極上皇が肥前飛鳥板葺宮に戻り即位し斉明天皇となった(重祚)。しかし、倭国が唐と戦う戦火を避ける為、更に大和に遷り飛鳥と地名移植した(のちの大和飛鳥浄御原宮)。

斉明は大和天皇となったが上宮王家の血筋、即ち豊前ニニギ系の血筋だ。そのせいか、倭国と大和をつなぐような政策が多い。倭国との融合・或いは上宮王家主導の合体を夢見たのではないか。なぜなら、天智(大和王権皇太子)の弟とされる天武を幼い頃から倭国の名門大海氏(倭国の祖ホアカリの末裔、新撰姓氏録)に養育を任せている。

豊国ニニギ系は結局、斉明自身を入れて陰に陽に数次にわたる東征を成功させ、結局大和王権を主導し、次にはホアカリ系倭国を主導して列島を支配しようとした、と考える。それは倭国の滅亡と、九州の吸収によって日本国建国に結びついたのだ。それが筆者のたどり着いた結論「上宮ニニギ系は『倭国と日本』『倭国から日本へ』の流れを作った影の主役だった」である。

その陰の主役「上宮王〜斉明天皇〜天智〜」を支えたニニギ以来の陰の主臣「アマノコヤネ〜中臣氏」の関係は昭和まで続く「ニニギ系日本国天皇家」とその主臣「中臣〜藤原〜五摂家」の関係へと続くことになった、と考える。

 

第八図  解説文   了

 

 

はじめに

元 図 「一図でわかる日本古代史」 

第二図  三つの流れ

第三図 「倭国不記載」とその理由

第四図 「倭」字の読み方の変遷

第五図 「物部氏」のすべて

第六図 「蘇我氏」の流れ

第七図 白鳥の「飛鳥」

第八図  陰の主役「上宮王権」   

 

 

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