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四著「一図でわかる日本古代史」 第七図 _________

 

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「一図でわかる日本古代史」

 

はじめに

元 図 「一図でわかる日本古代史」 

第二図  三つの流れ

第三図 「倭国不記載」とその理由

第四図 「倭」字の読み方の変遷

第五図 「物部氏」のすべて

第六図 「蘇我氏」の流れ

第七図 白鳥の「飛鳥」   

第八図 陰の主役「上宮王権」

 

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第七図  「飛鳥」前期・中期・後期を一図で見る

蘇我氏は倭国王権・大和王権・上宮王権の三王権の大臣を務めた稀有な存在である。しかし、日本書紀が「倭国不記載」・「上宮王権不記載」の方針で編集されたため、「わかったようでわからない存在」に留まっていた。

蘇我氏については筆者は前著 で詳論した。小論ではあるが、「記紀・海外史料とも整合する検証・論証」と自負する。この欠点は従来説・定説と多くの点で異なるので、論理的に正しくても、感覚的になじめないかもしれない点である。 筆者第三著「千年の誤読」第三章「蘇我氏は九州の豪族」 → こちら

そこで、ここでは論理的検証は前著にまかせ、「一図」の中の位置付けによって、視覚的・直観的にご理解いただこうという試みである。お楽しみ頂けたら幸いである。

蘇我氏は大和王権の傍臣として雄略紀にも出てくるが、代々海外征戦に加わるうちに九州に定着して交易豪商となった。その面で倭国朝廷にも喰い込み、大和王権の九州遷都を支援したことから大和朝廷の大臣として重用された。

ここまでを予備知識として以下「一図」に入っていただきたい。要点を赤ボタンで示したので、クリックすると解説文が現れるのはこれまでと同じです。

 

 

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第七図  「飛 鳥」 解説文  (ボタン解説と重複) 

 

771 ❶  漢人阿知一族の渡来 肥前飛鳥入植

漢王族の子孫で朝鮮半島に移住した一部の阿知一族2000人が渡来した(280年頃、後漢献帝玄孫劉阿知)。台与倭国は渡来人疫病を恐れて博多付近から山ひとつ向こうの肥前山裾に入植地を与えたと考えられる(のちの肥前飛鳥、佐賀県基山町付近)。その地を渡来人は自らを渡り鳥白鳥になぞらえて「飛鳥」(ひちょう、漢語)と名付けたようだ。この渡来集団には韓人も含まれ、この飛鳥を「あんすく」(安宿、韓語)と呼んだようだ。それが「飛鳥(あすか)」の和語読みの由来であろう。

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772 ❷❷’  前期大和飛鳥

肥前飛鳥の漢人の一部は崇神(東征第二陣、豊国ニニギ系王族)に率いられて大和盆地東部に移り住んで飛鳥と地名移植した(飛鳥、奈良天理市付近)

更に一部は景行(東征第三陣、同)に率いられて河内に移り住んで飛鳥と地名移植した(飛鳥、大阪府古市市、景行紀)❷’

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773 ❸  漢人技工の招聘事業

河内飛鳥が雄略紀に出てくる。倭国は百済を介して遼西百済(北百済)の西隣の呉国(三国志の呉国王末裔小王国)から漢人技工を招聘し、これを肥前飛鳥に住まわせた。 

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774 ❹  漢人技工の一部を河内飛鳥分置

雄略天皇は倭国の招聘事業に参画して、肥前飛鳥の漢人技工を分与してもらい、河内飛鳥に住まわせた(近飛鳥、雄略紀)。ここはその後も渡来系の移住地となり、韓人も多く、いまでも飛鳥神社がある。

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775 ❺❺’  肥前飛鳥を蘇我稲目が領有 

「磐井の乱」を討伐した継体/物部麁鹿火(あらかい)が磐井の遺領(豊前・肥前の一部)を得て、任那奪還を任されると、継体の継嗣安閑天皇が九州豊前に一時遷都した。倭国に通じていた蘇我稲目は肥前の一部(鳥栖市付近)を安閑に与えられ、のちにそれ広げ肥前飛鳥領有した。しかし、日本書紀の「上宮大王不記載」・「大和朝廷九州遷都不記載」から、この頃の「飛鳥」も「大和明日香」が定説(誤説)となっている❺’

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776 ❻  馬子の飛鳥は肥前飛鳥

馬子は肥前飛鳥に法興寺を建造し、皇女時代の推古の館や、のちに倭国から独立した上宮大王に岡本宮を、皇極に飛鳥板蓋宮を提供するなど、当時の日本書紀の栄華譚の中心となった。しかし、日本書紀の「上宮大王不記載」「大和朝廷九州遷都不記載」から、「飛鳥」は「大和明日香」が定説となっている❻’ 

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777 ❼❼’  斉明が大和に遷都し「飛鳥」を地名移植

皇極の皇太子(中大兄皇子)が肥前飛鳥板蓋宮で入鹿を殺害し(「乙巳の変」)、皇極が退位して孝徳が大和に遷都して難波宮で即位した。皇極は肥前飛鳥板葺宮を去って、豊前上宮王家領に隠居したと思われる(皇極上皇)。上宮大王を続けている積りだったのだろう(兼務の宝大王を継続)。孝徳が崩御すると継いで斉明は豊前飛鳥板蓋宮で即位した。斉明天皇である(重祚、大和大王))。孝徳の皇太子とされた中大兄皇子がつぐべきところ、恐らく影から倭国の対唐戦準備にどう対応するか謀略を計っていたと思われる。戦えば豊前はおろか九州が危ない。斉明を大和に退避させるべきと、同年大和に宮を造り、「倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかかわべのかりみや)」を経て、「後飛鳥岡本宮(あとあすかおかもとのみや)」に遷都させた。のちの「飛鳥浄御原宮」だ。肥前飛鳥の地名にこだわった地名移植だ❼’

以後、「飛鳥」と言えば「大和明日香」を指す。日本書紀は「肥前飛鳥」を明記しないが、以上の解釈を否定していない。

 

第七図  了

 

 

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第三図 「倭国不記載」とその理由

第四図 「倭」字の読み方の変遷

第五図 「物部氏」のすべて

第六図 「蘇我氏」の流れ

第七図 白鳥の「飛鳥」   

第八図 陰の主役「上宮王権」

 

 

 

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