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三著 「千年の誤読」 第四章  ________________

 

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日本書紀が正す「千年の誤読」

 

はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷

 

第四章 誤解されている「物部氏」

 

物部(もののべ)氏もまた誤解されている。定説では「神武東征より前に河内に天降った饒速日(ニギハヤヒ)命が祖先と伝わる天神系の氏族」とされ、「大和〜河内で栄枯盛衰はあったが、神武〜天武まで一貫して天皇家の有力な重臣であった」とされている。

しかし、日本書紀と先代旧事本紀の検証から、物部氏は歴史的に四系統あり、ニギハヤヒ系は第二の系統だけであり、最も活躍したと目される第四の系統(物部尾輿・物部守屋)は「倭国王家の外戚と続いた九州物部氏」であった。日本書紀の「倭国不記載方針」から大部分は記載されていないが、大和王権(九州)が関わった部分「仏教初伝譚・仏教論争譚・物部守屋討伐譚)」が記載されている。その結果、それらが「大和朝廷の事件譚」と誤読されている。これを理解しないと、物部氏を正しく理解できず、従って日本書紀を誤解したままとなる。その誤解を正しているのは日本書紀自身である。本話をもとにした次著の「一図に見る九州物部氏」を参照されたい。

 

● 物部氏の系譜 先代旧事本紀から  (系図検証)

「物部氏」は記紀にそれほど詳しく記されていない。記紀より200年も後に出た「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」(以下「同書」)の方がよほど詳しい。同書は「記紀を補う」という形を取りながら「偽説」とも解釈されている幾つかの「独自情報・主張」を含んでいる。総じて「物部宗家の家伝的自己主張の書」とされている。

以下では同書を基に、その不審点を修正する形で真相に迫りたい。参考にしたのは安本美典作成の系図である[1]。これは、同書の物部氏系譜(第五巻天孫本紀)に記紀を加味したものである。下図はこれの要点であり、筆者の独自解釈は入れていない(ただし、図中番号とその系列名は筆者による)。 筆者検証は次節以下で示す。  

 

物部氏系図  (安本美典による)

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ここで、縦線は物部氏当主の交代を示すもので、親子を示すものでは必ずしもない。また、括弧の天皇は同時期の天皇を参考までに示す。「<」「>」は天皇との主従関係を示す。同書は「物部氏はすべてニギハヤヒ(=ホアカリと同一神)の子孫で、神武を始めとして代々大和王権に仕えた」と主張している。確かに、これが正しければ系図上は総てニギハヤヒの系列で、それぞれに大和王権と関係する記述が記紀にもある。

細かく見ると、同書系図は物部氏に四系統@ABCあったことを示している。

@はニギハヤヒの子ウマシマジを祖とする大和物部氏本流である。ニギハヤヒは神武に先行して河内・大和に天降ったとされ、記紀と同書は一致する。「伊香色雄(いかがしこを、崇神紀)・物部十千根(とちね、垂仁紀)・胆咋(いぐい、仲哀紀)」は記紀にも出てくる。物部印葉(いにば)は姉を応神妃に出し、その皇子は太子とされた程の物部主流であった。

Aはホアカリ(=ニギハヤヒ、同書)の子カグヤマを祖とする尾張氏/尾張物部氏である。これも記紀の記述「ホアカリの児天香山(かぐやま)は是れ尾張連の遠祖なり」(紀神代九段一書六)と部分的に一致する。部分的という意味は、記紀は尾張氏と尾張物部氏の関係には触れないが、同書はカグヤマを尾張物部氏の祖である様な扱いをしている。

B河内物部氏は筆者仮称であるが、@の子孫物部胆咋(いぐい)宿禰(仲哀紀)以下の系統(特に物部麁鹿火)である。麁鹿火は継体天皇の重臣で、筑紫君磐井(いわい)の反乱を討伐したことで知られる。河内物部氏とする訳は、応神・仁徳の河内東征以来の重臣物部麁鹿火に代表される物部支族で、物部印葉主流が仁徳に遠ざけられた後に主流になったと考えられる。

C九州物部氏は筆者仮称であり、その根拠は後述する。この系列の物部尾輿・守屋は安閑紀〜敏達紀の「仏教初伝譚」「仏教論争譚」「物部守屋討伐事件譚」に出てくることで知られる。記紀でも「物部氏の主流」と目されているから、即ち「大和物部氏の本流」と解釈されている。

  

● ニギハヤヒの天降り  先代旧事本紀  (記述検証)

ここからが筆者の新たな検証と論証である。まず、先代旧事本紀の「物部氏の祖ニギハヤヒの天降り譚」部分を確認する。分析の都合で番号数字(1)(5) まで筆者が付けた。

先代旧事本紀 巻第三 天神本紀 

(1) 天照太神(あまてらす)詔して曰く、豐葦原の瑞穂の国は、吾が御子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと、以下オシホミミと略す)の治めるべき国、、、(オシホミミの子)天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと、以下でホアカリニギハヤヒと略す)が生まれた、、、オシホミミ奏して曰く、將に降りようとしている時、児が生まれた、此を降すべしと、(アマテラス)詔してこれを許す、、、天神、天璽瑞寶十種を授く、、、

(2)  三十二人に防衛の為に天降りの供奉を令す、、、 

天あまの香語山かごやまの命みこと(尾張物部連等祖、以下記紀に合わせてカグヤマ)、、、

天児屋あまのこやねの命みこと(中臣連等祖、以下アマノコヤネ)、他三十人(命がつくから神扱い(王族扱い)である)。

(3) (更に)五部(いつとも)の人(神扱いでないから臣下クラス)を副えた。物部造(みやつこ)等の祖天津麻ら(アマツマラ)、以下四人、、、

(4) (更に)五部の造(みやつこ)、、、(更に)天あまつ物部もののべ二十五部人、、、

(5) (更に)船長同じく共に梶取等を率いて天降り供奉した、饒速日尊(ニギハヤヒ)は、、、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す」

以上の文を解析する。括弧番号は対応させた。

(1) 冒頭部は「紀記のニニギ天降り譚」とそっくりである。違いは、記紀の「ニニギ」が「ホアカリニギハヤヒ」に変わっているだけだ。紀記を真似た後世の盗作まがいである。

(2)  それに続く「ホアカリニギハヤヒに供奉した三十二人」は、すべて命(みこと)が付き王族と思われる。列島各地の直(あたい)・連(むらじ)・国造(くにのみやつこ)らの祖とあり、アマテラス系の、あるいは倭国王家系の一族と言えそうな名が続く。筆頭はカグヤマである。カグヤマは紀ではホアカリの子とされているから仮に「ホアカリ天降り譚」が有ればそこに入る部分である。次のアマノコヤネは記紀の「ニニギ天降り譚」に出てくる筆頭重臣である。

(3) 次の「五部(いつとも)の人」ら五人の筆頭は「天津麻良(アマツマラ)で物部造(もののべのみやつこ)等の祖」、である。「物部」の初出である。

(4)  この「五部(いつとも)の造(みやつこ)」ら五人は「天(あまつ)物部」を率いた、とあるから天津麻良の一族・家臣であろう。次の「天物部ら二十五部」は更にその下であろう。九州地名を冠した物部が多いから、多くが九州に天降ったようだ。物部氏の主流は九州物部氏であろう。

(5)  は「ニギハヤヒ天降り譚」である。ここでは「ニギハヤヒホアカリ」でなく、記紀と同じ「ニギハヤヒ」としている。記紀の「ニギハヤヒ天降り譚」とほぼ同一の河内天降り譚である。

以上の様に、記紀及び天神本紀の天降り譚は三つの要素、「ニニギ天降り譚」・「ホアカリ天降り譚」・「ニギハヤヒ天降り譚」に分けられる。元来一体の「アマテラス一族天降り譚」だったかあるいは三譚別々だったものを、記紀は「ニニギ天降り譚」を切り分け「ニギハヤヒ」部分に少し言及し「ホアカリ譚」を不記載としたように見える(倭国不記載方針)。先代旧事本紀は、記紀で不記載とされたホアカリ・九州物部天降り譚を復活させるために、「ホアカリ=ニギハヤヒ」の言い訳を創り、ニギハヤヒ(=ホアカリ)譚の中にホアカリに供奉した九州物部一族を復活させている様に見える。

 

● 物部氏の系譜 修正一

以上の定説にはいくつかの不審点(内部不整合)があり、それを解消する筆者の系図案を示す(上図)。以下の括弧番号は前節とは対応しない。

(1) 不審点一。同書の「ニギハヤヒとホアカリは同一」には疑問がある。「同一」は同書だけが主張する新説で、記紀では別の神である。同書も前半で「ホアカリニギハヤヒ」としながら、後半では「ニギハヤヒ」と別名で記して別の神であることを漏らしている。

また、「カグヤマはニギハヤヒの子」にも不審がある。カグヤマはニニギの九州南征に合流したと思われ(高倉下戦記、後述)、その子孫(高倉下)は神武に従って東征し、最終的には尾張に定着した(天武紀)。従って「カグヤマ系の出発地は九州と考えられ、ニギハヤヒの天降った河内ではない」から「カグヤマはニギハヤヒの子ではない」が導かれる。また、記紀でカグヤマの父とされるから「ホアカリの天降り地も九州」と考えられる。ニギハヤヒとホアカリは天降り地が異なるから同一神ではない。

以上から、「同一」説には疑問があり、「倭国不記載方針」によって記紀から排除された「ホアカリと九州物部氏」を「排除されていないニギハヤヒと同一」とすることで復活させるための偽説ではなかろうか。この偽説で「九州物部氏は実は大和王権に臣従したニギハヤヒの子孫」となるから、「倭国不記載」の対象からはずれ、大和王権の「禁書」(続日本紀708年、倭国関係書?)の対象からもはずれる。

(2) 修正点一。そこで、系図の「ホアカリ=ニギハヤヒ」を切り離した。これに伴い、「カグヤマはニギハヤヒホアカリの子」を「カグヤマはホアカリの子」に修正した(上図)。また、ニギハヤヒの天降り先は河内だが、「ホアカリの天降り先はカグヤマのニニギ南征随行から九州」とすることができる。

(3)  系譜@「大和物部氏」の新解釈  大和に先住し、神武に臣従したニギハヤヒの子ウマシマジの大和物部氏。大和王権の大臣として記紀に登場し、大和王権に后妃を送り込んでいる。物部印葉連公で途絶えた系列。印葉連公の姉、物部山無媛連公(やまなしひめ)は応神妃となっている(応神紀)。応神〜仁徳系(九州系)が大和天皇となったので大和物部氏が改めて臣従した証として姉を妃として差し出したのであろう。しかし、その皇子は応神の太子となるも天皇にならず(なれず)代わりに仁徳が即位した(仁徳紀)。滅ぼされたか、格下げされたか、系図では途絶えている。「物部氏はニギハヤヒの子孫 @ 」は少なくもここまでは史実である。印葉系は途絶えたが、同書は「胆咋(いぐい)系が大和系の主流として続いている」としている。これについては次節で検証する。

(4) 系譜A「カグヤマ系」の新解釈  ホアカリの子カグヤマ軍がニニギ軍に加わり南征した(高倉下戦記の元譚)。その子孫高倉下が神武東征に従い、最終的に尾張で定着し、ホアカリ・カグヤマを祖とする尾張氏/尾張物部氏となった。壬申の乱で活躍した。天武紀に登場する。このカグヤマ系物部氏はホアカリ系物部氏としても良く、大和系物部氏とも言えるがニギハヤヒ系ではない。ただ、@「ニギハヤヒ系大和物部氏」と合わせ読めば「ニギハヤヒ=ホアカリ(同一説)」の誤解を誘導している。

 

● 物部氏の系譜 修正二

(1) 不審点二。同書の物部氏系譜(系図)に天津麻良が出てこないのは不審だ。同書天神本紀冒頭天降り譚に「天津麻良は物部造(みやつこ)の祖、その物部造は天孫を守る中核、その多くが九州物部氏」としているのに、物部氏系譜系図に天津麻良が出てこない。その子孫系譜も示していない。

そこでアマツマラの子孫について考察してみる。 a) 同書では「物部造(みやつこ)の祖である天津麻良(アマツマラ)はホアカリニギハヤヒに供奉天降りした」とある。しかし、前節の修正(2) から「ホアカリとニギハヤヒは別の神、天降り先は別の地(河内と北九州(前節))」が導出された。そこで次の疑問が生ずる。「アマツマラの供奉したのはニギハヤヒかホアカリか」と。 b) もし、「アマツマラが供奉したのは河内に天降りしたニギハヤヒ」なら、「アマツマラの子孫に九州物部氏が多い」(同書)は整合しないから不審である。他方、「アマツマラが供奉したのは九州に天降りしたホアカリ」なら、系図の「九州物部氏は大和物部氏@の支族」は整合しないから不審である。なぜなら、同書の物部諸族名と九州地名の一致が多く、大和地名との一致は少ないから「アマツマラは河内に天降りし、その子孫諸族は大和から九州に移った」とは考えられない。以上から「アマツマラはホアカリに供奉して九州に天降りした。九州物部氏は大和物部氏とは別系統である」としなければ不審が解消しない。別系統ではあるが、天降り前の高天原では物部諸支族としてアマテラス諸王族に仕えていた、と考えられる。

(2) 修正点二。以上から「九州物部氏系」を「同書で大和物部氏系とされる胆咋(いぐい)」から切り離し、「天津麻良(物部造(みやつこ)の祖)」に繫(つな)げる(前図再掲、下図)。それを系図修正点二とする。胆咋(いぐい)自身は物部十千根(とちね)との共通点も多いので大和系に残した。物部氏の祖天津麻良までの数代は不明。

 

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(3) 九州物部系の新解釈   修正の結果、「天孫ホアカリに供奉して九州に天降りした天津麻良(あまつまら)は九州物部氏の祖となった」となり、同書と整合し、記紀の「カグヤマ/高倉下の南征/東征譚」とも矛盾しない。このホアカリ系列はカグヤマに九州物部支族を分与してニニギを南征に送り出し、その子孫は神武に九州物部氏を分与してニギハヤヒ大和物部氏に合流するも、更に尾張に移った(A系)。

また、この系列は九州で生まれた応神に物部支族を分与して共に新羅征戦を戦い、仁徳はその支族を率いて河内東征した。物部木蓮子(いたび)・物部麁鹿火(あらかい)が記紀・同書に記されている(B系)。記紀に継体の重臣として記録され、大和系物部氏@と誤認されている。また誤認を補強するように同書系図では胆咋(いぐい)に接続されている。

ホアカリ系本流の九州物部氏Cは、「物部氏の宗家」と思われる人材とその後の列島各地の支配者を輩出したことが同書で初めて明らかとなった。列島の中心的豪族物部氏の中心が九州物部氏であることは、その主筋が倭国王であることを傍証している。記紀はなぜ明記しないのか、それは記紀の「倭国不記載方針」であろう。安閑紀〜用明紀に出てくる物部氏(物部尾輿・守屋)が例外的に出てくる理由は、この時期、筑紫君磐井の討伐や遺領収奪で大和王権が九州に領地を得、宮を持ち、大和天皇が倭国朝廷に参画して磐井遺領分配問題・任那問題を議したりした為だ。その記事に九州物部氏が出てくる。倭国不記載方針に抵触するから、「大和朝廷大臣」と読めるように記されている。大和天皇の後見役として大和朝廷大臣の任命(兼任)が実際あったかも知れない。

以上、定説の二つの不審点を修正することで、筆者仮説「カグヤマ系A・河内系B・九州系Cはホアカリ系であって、ニギハヤヒ系ではない」の整合性が得られた。結論として、同書の「ホアカリニギハヤヒ系」説は検証の結果「河内天降りのニギハヤヒ系」と「ホアカリに供奉して北九州に天降りした天津麻良系の九州物部氏」に分離される。九州物部氏の主筋は天津麻良以来九州倭国王であり、それはホアカリ系倭国王である。以上、「九州物部系の主筋はホアカリ系」が導出された。

 

● 物部氏の系譜 修正三

(1) 不審点三。前節の修正二によっても、なお不審点が残る。前節で「物部尾輿・守屋の系列は同書では大和物部氏とするが、正しくは九州物部氏」と修正したが、同書は更に「その支族の祖を物部目連」としている。物部目連は雄略紀にしばしば具体的な事績に登場する。雄略天皇は河内〜大和を拠点とし、九州倭国王興(倭五王)と並立したが九州に居たという記述は雄略紀に無い。その重臣物部氏は応神以来九州物部氏の支族「河内物部氏」である。同書は別所で「物部目連は河内物部の物部麁鹿火の叔父」としているから、河内物部系であろう。同書は九州物部氏を称揚する家伝書と考えられるから、その支族の祖を間違えるはずはない。これは意図的な改変で、雄略紀と合わせ読むことで「九州物部氏は河内物部氏の支族(雄略紀)、その河内物部氏は大和物部氏の支族(継体紀)」の偽説を装う造作であろう。

(2) 修正点三。その修正は単に「物部目連は河内物部氏」(修正系図)とすることで足りる(前図)。それは「河内物部氏は九州物部氏の支族」とする解釈に含まれる。従って、以下の扱いではこの修正点三は修正二の中に含めて扱う。

 

●  先代旧事本紀の目的

同書は偽説「ニギハヤヒ=ホアカリ」と「九州物部氏系譜を大和物部氏に接ぎ木」という「僅か二点余の偽装」「たった二本の系図結線の移動(ホアカリと胆咋(いぐい)の系譜)」によって「倭国不記載」に逆らわずに九州物部氏を公(おおやけ)にし、(不完全ながらの)名誉回復」を果たした。大和王権も、自ら「倭国不存在」という虚偽を言うことなく、そのように誤読誘導する同書の偽説に敢えて咎めだてしなかったのだろう。

この偽説にはもう一つの狙いがある。物部氏三系統を「ニギハヤヒ=ホアカリ」によって「物部氏の祖は天孫(=ホアカリ=ニギハヤヒ)」としている。これは考え抜かれた「奇策」と言える。なぜなら、「物部氏の祖は天孫」が正しいのは傍流となった天孫ホアカリの子カグヤマ系だけである。宗家九州物部氏の祖は天津麻良であるから「祖は天孫」とする資格は無い。ニギハヤヒ系は応神の代で系図上断絶しているから資格は無い(同書)。しかし、それらを一体化することにより「すべての物部氏の祖は天孫」「ニギハヤヒ系は断絶していない」「九州物部氏は大和系」の偽説を誘導している。しかも、「倭国不記載方針」に抵触することなく「九州物部氏」だけを「不記載」から救出し「大和王権に臣従」と誤読させた上で「家格の格上げ」を果たしている。「奇策」でなくて何であろう。

 

● 物部氏の諸系列   まとめ

以上から、物部氏諸系列は以下の様に解釈される。

(1) 冒頭で「物部氏は四系統あるように見える」と述べた。これは「高天原から天降りしたアマテラス一族は少なくも三波あり(天孫ホアカリ・天孫ニニギ・ニギハヤヒ)、それぞれに物部支族(物部軍)が供奉・天降りした」ことに由来するようだ。

(2)  ホアカリ系   まず、アマテラスの天孫ホアカリが主力軍(中心は物部軍)を率いて天降りした(同書、同書は「ホアカリ=ニギハヤヒ」としている)。主力軍のトップは天津麻良(あまつまら、以下アマツマラ)、物部造(みやつこ)の祖とされる(同書)。天降った地域は遠賀川流域であろう(同書、九州物部氏)。この主力軍はスサノヲ系から「国譲り」を勝ち取って(紀)、北九州の「倭国大乱」に一つの区切りを付け、卑弥呼が魏に倭国統一を報告するに至った(魏志)。ホアカリは卑弥呼を共立する倭諸国王の主要な一人にのし上がったと思われる。これを「ホアカリ倭国」と呼ぼう。この「ホアカリ倭国/九州物部氏」は記紀には記載されていない(記紀の「倭国不記載」方針)。

(3)  ニニギ系  「アマテラス一族の国譲り獲得」を受けて、アマテラスは筑紫の日向(関門海峡、イザナギ/アマテラス系の聖地)に祭事王として天孫ニニギを天降りさせた(神代紀)。ニニギに供奉天降りした五部神(筆頭は中臣氏の祖)に物部氏の名は無い。恐らく、天降った日向は既にスサノヲ軍を駆逐したホアカリ系物部軍に守られていたのだろう。

卑弥呼は大乱収拾の後、対立する狗奴国戦を決行した(魏志)。ホアカリは卑弥呼の号令に従い筑後方面で戦ったと思われる。その一翼として、本来は「ホアカリ倭国の祭事王となるべく天降った弟のニニギ」も南征(宮崎方面)に送り出された。狗奴国の背後を突かせる一翼軍だろう。定説ではこれも「天降り(のつづき)」とされている。この時ホアカリは子のカグヤマと物部軍の一部をニニギに付けたと考える(後述)。アマテラス一族の「葦原中つ国支配」は順調とはいえない状況変化だった。

「ホアカリの子カグヤマがニニギ南征(北九州から南九州へ)に従った」ということは、「カグヤマの父ホアカリが天降った場所は九州」(前項)を傍証している。即ち「ホアカリ(遠賀川)≠ニギハヤヒ(河内)」の傍証となる。しかし「ニニギ/カグヤマ/物部支族の南征」は大した成果が得られず、ニニギ子孫の神武はタカクラジ(カグヤマ子孫、同書)/物部支族を率いて東征した(神武紀高倉下戦記)。この物部支族は後に尾張氏/尾張物部支族として尾張に定着している。尾張氏はカグヤマを祖としている(神武紀)。その意味では「尾張物部支族は元を糺せばホアカリに供奉天降りした天津麻良系物部氏(ホアカリ系物部氏)」である。

(4) ニギハヤヒ系   同書の「ニギハヤヒ=ホアカリ」が偽説としても、「ニギハヤヒの天降り」は「葦原中つ国支配の拡大の不調」を受けて、「アマテラスがニギハヤヒを第二陣として天降らせた」と考えられる。その根拠は「ニギハヤヒはホアカリと同世代ではなく、ニニギと神武の間の世代と考えられる。なぜならニギハヤヒの子ウマシマジと神武が同世代である(記紀)」、またそうであるなら「ニギハヤヒは、まずはホアカリ系の基地(遠賀川周辺)に天降って、そこで数年の準備をしてから河内東征をした」と考えられる。後の例として「神武は関門海峡吉備で東征準備に七年をかけている」という例があるからだ。また同書が「ニギハヤヒの東征(天の岩船譚)がホアカリ天降り譚の続編であるかのように、追加的記述している点」などである。

神武が東征時にニギハヤヒ/ウマシマジ/ナガスネヒコ一族を降し、大和物部氏として従えたことは神武紀に詳しいし、同書の記述と一致する。史実であろう。崇神系・景行系・仲哀系にも物部氏が出てくるのは、神武系を受け継いだか、ニギハヤヒ系の支族か不詳だが、いずれにしてもニギハヤヒ系と考えて良いだろう。

(5) 河内系   応神天皇は九州出身で、記紀では仲哀・神功皇后の皇子とされているが、信頼性の高い海外史料の新羅征戦の年代・記紀の即位年代・崩御年代の検証から神功皇后より年長か同世代と考えられる()。応神は倭国軍(広開土王碑)と日本軍(東国軍、神功紀)の連合軍を統括し、双方から信頼されたと考える。それが可能な「九州出身で、後に大和天皇即位が大和に受け入れられる出自」とは「倭国内ニニギ系王族」と検証した()。かつて、神武は東征に際し、関門海峡域に一族の一部、例えば「ニニギに供奉天降りしたアマノコヤネ(後の中臣の祖)の子孫」を残している(神武紀)。残った理由は主筋のニニギ系王族が残ったから、とするのが妥当である。神武の皇子は残らなかったが(神武紀)、皇孫が残った可能性は否定できない。いずれにしてもニニギ系王族の一部が残ったようだ。後世、応神の王統が武烈で絶えた時応神五世孫の継体が立てられたように、仲哀の皇統が混乱した時応神が立てられた理由は「応神が九州に残っていたニニギ五世孫あるいは神武三世孫だった」という可能性が考えられる。もちろん、始めからそれを想定してそのような血筋の応神が新羅征戦連合軍の総帥(王、海外では大王・天皇と自称させた)に任命され、それが成果を挙げたから、予定通り大和天皇に推挙されたのかもしれない。推挙し後ろ盾となったのは倭国王であろう。倭国王は九州物部氏を応神・仁徳に分与したと考えられる。

以上、河内系物部氏の元は九州物部氏、その元はホアカリ系物部氏(1)である。

(6) 九州系   既に述べた様に、ホアカリは天津麻良の物部軍を率いて遠賀川周辺に展開してスサノヲ系から「国譲り」を勝ち取った。この子孫が九州で卑弥呼・台与系の倭国を再統一し(360年頃)、以後「倭の五王」の時代に列島宗主国の地位を確立した。これを支えたのが九州物部氏である。物部氏は倭国王に妃を送り込み、皇子が生まれると妃の里である物部領に宮を提供して皇子もろと自領に囲い込み、次代天皇に押し上げることで外戚となり、王権政事に影響力をもったと考えられる。その根拠は蘇我氏も藤原氏もそれを模倣してそうしているからだ。物部系倭国王にとって、王家と物部家の区別があいまいとなったようだ。例えば、倭国王に献上された百済王の七支刀(公の宝物)を倭国王が母方の物部神社(私)に奉納(後に石上(いそのかみ)神社に秘匿)するなどは絶頂期の公私混同であろう。そのような物部氏の専横は王家・他豪族の反発を招き、物部守屋の代で倭国諸皇子・倭国大臣蘇我馬子らに討伐された。注目すべきは、前話で述べた様に「物部守屋討伐を主導した蘇我馬子は大和王権を代弁する倭国朝廷の大臣」であった。しかし、蘇我氏が物部氏に代わって実権を握ったのではなく、王権は王家に帰し阿毎多利思北孤(隋書遣隋使記事)の時代に倭国王権の絶頂期が実現した。物部氏宗家は滅びたが、支族はその後も倭国政権の一角に残り、白村江の戦いでも物部軍は主力の一端であったと考えられる。

以上から、物部氏の祖はホアカリに供奉して九州に天降ったアマツマラである。同書は「アマツマラはニギハヤヒの船に供奉して河内に天降った」と追記しているが「ホアカリ=ニギハヤヒ」に合わせた偽説であろう。なぜなら「アマツマラはホアカリと同世代(同書)だから、三世代程後のニギハヤヒ(子のウマシマジは神武と同世代)には供奉していない」と考えられる。以後、300400年間倭国王権に、支族は大和王権に臣従したと考えられる。特に九州系物部氏は外戚として倭国王家を支えた列島第一の豪族であった。

九州物部氏から仁徳と共に河内に分かれた物部麁鹿火は九州に戻って宗家の中でのし上がったが死没。物部麁鹿火の隆盛を引き継いだ物部尾輿が物部氏宗家当主になった。その後、倭国の本拠が博多難波津から遠賀川中流の鞍手に移動したのは、物部氏が外戚として倭国皇子を后妃の里に囲い込み、宮まで提供したからと、と解釈することができる。「百済肖古王から倭王に贈られた七支刀(公宝)が物部氏神社(私)奉納されている(のちに大和石上神社に秘匿)」という史実は「物部系倭国王が王家と物部氏を同一視(公私混同)していた」という可能性すら示唆している。但し、これを「物部王権」とすることができないのは、物部守屋討伐譚(次節)が示している。臣下が一線を越えると王家・豪族が一致してこれを阻止している。

 

●  物部氏と蘇我氏の覇権争い  用明・崇峻・推古    

530600年頃の記紀には「物部氏と蘇我氏の対立譚」があふれている(継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古の各天皇紀)。定説は「それらは大和朝廷内の覇権争い」としている。そう誤読されるような流れになっている。しかし正しくは「それらは倭国朝廷内の覇権争い」である。

その背景には第二章の「安閑の大倭国遷都(豊国)〜推古の大和小墾田帰還遷都」の「大和朝廷九州時代」がある。そこでは「大和朝廷が九州倭国朝廷に参画して、磐井の遺領配分・任那派遣軍協議などで両朝廷の大臣が同席したり、仏教論争したり、相手朝廷から兼務大臣を委嘱されたりしている」のである。これまで論じられたことも無い意外な時代である。しかし、その理解によって、両者の覇権争いは「倭国朝廷内の第一豪族と第二豪族の覇権争い」であり、「近づいた大和朝廷をどちらが抱き込むか」の争いであり、「筑紫君磐井の遺領配分に関する大和・倭国の代理争い」であることが理解される

(1)  当時、大和朝廷は磐井の乱討伐で初めて九州に領土を得た。全国の磐井一族(大彦七族)から屯倉を得たり、任那派遣軍を任されたり、日が昇る勢いであった。九州の方が軍務には便利、海外物資も豊富なので生活面でも文化が高く快適だったのであろう、大和天皇は宮を設けて行幸したり(欽明紀)、長期滞在したり(宣化紀)、朝廷を遷したりした(安閑紀)。

(2) 九州物部尾輿大連(物部宗家)は、大和朝廷が九州に重点を移しつつあるのを機に、物部麁鹿火大連(物部河内支族)に近づき、便宜を図り、協力し、麁鹿火が委任された倭国軍/日本軍の軍事にも口を出し、倭国朝廷内での自身の立場を強化した。

(3)  蘇我氏については第二章で解説した。九州に定着していたが、元は大和出身であるから継体/麁鹿火軍の九州活動を支援して商業的に成功。その後大和朝廷の九州進出を支援したり、倭国朝廷との間を取り持つことで双方の信頼を得た。宣化紀に「蘇我稲目が大臣に任じられた」と初任記事がある(536年)。その後、仏教論争譚で倭国王から「蘇我大臣」と呼ばれているが、「大和大臣が倭国朝廷内でもそう呼ばれた」だけなのか、「倭国大臣にも任じられた」のか不詳である。しかし、後に「物部守屋討伐を主導し、倭国王族と協力」しているから「倭国大臣にも任じられた」と考えるのが妥当である。蘇我稲目は麁鹿火亡きあとの大和朝廷筆頭大臣に昇りつめ、同時に倭国朝廷では大和朝廷代表大臣とみられ、実際に大臣職(倭国朝廷に無かった職位)に任じられた可能性がある。

(4) 「物部・蘇我の覇権争い」は記紀には「仏教論争」と「大和天皇選任争い」が記述されている。前者「仏教論争538年」については第二章で詳述した。蘇我稲目は安閑の九州遷都(534年)から二年目に大臣に任じられた(宣化紀元年536年)。物部尾輿大連が初出するのも安閑紀534年であるが、尾輿の関係者が安閑皇后に迷惑をかけたことで土地を献上している。尾輿の大連初任記事は欽明紀539年である。初任記事の前に大連として初出しているから、「534年に倭国大連であったが、539年に大和大連にも任じられた」と考えられる。

一方、稲目が長女・次女を欽明天皇に妃として送り込んでいるのが541年である。この長女妃が後の用明天皇・推古天皇を生んでいる。次女妃が後の崇峻天皇・穴穂部皇子を生んでいる。蘇我氏は大和天皇家の外戚となったのである。ただし、それは後のはなし、用明が即位したのは586年、崩じた跡の皇位推挙争いは587年であるから、尾輿・稲目が仏教論争(538年、縁起)してから50年も後であるが対立は続いている。すでに尾輿・稲目は物部守屋大連・蘇我馬子大臣に代替わりしていた。その守屋が崩御した用明の跡に穴穂部皇子を推したことで馬子勢が穴穂部皇子を殺した。

皇位をめぐる覇権争いのように見えるが、そもそも物部氏は既に倭国王位選考を独断していたと思われる。その問題で「よそ者」の蘇我氏には出る幕がない。他方、物部氏はそれに加えて、新たに倭国朝廷に参画した「大和朝廷の皇位継承」にも口出しを始めた。それに対して稲目以来大和天皇家に深く食い込んで外戚となっていた蘇我氏にとっては、「穴穂部皇子暗殺」はいわば「大和王権内の事件」であって、それに倭国守屋大連がちょっかいを出すのは自領を侵されるようなもの、決して口出しは許さない覚悟があったのであろう。

こうした対立に馬子は更に先手を打って「物部守屋討伐事件」を起こした。これにより物部宗家は滅ぼされたとされる。

 

● 物部守屋討伐譚  倭国王権の復活

物部守屋(筑紫難波)は物部尾輿の子で倭国の大連(上述した)。物部麁鹿火の成果を引き継いで勢力を拡大し、次第に倭国朝廷内で専横した。倭国王家がこれに反発した。崇峻紀587年に物部守屋討伐譚がある。

崇峻紀587

「蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣に勧め、物部守屋大連を滅ぼすことを謀る、泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子、蘇我馬子宿禰大臣、(他11群臣名列挙)、、、ともに軍兵を率い、、、」

この事件によって物部守屋とその子らは殺された。従来、この事件は「物部氏と蘇我氏が大臣として張り合って、蘇我氏が競り勝った」と解釈されている。

しかし、だからといって、倭国王家の足元で「倭国守屋大連討伐」まで進む程の理由とは言えない。進んだ背景には、守屋の倭国内専横に日頃から反発していた倭国王族や他の豪族が、「蘇我氏が暴走して守屋討伐をしても、倭国王家や他豪族が見ぬ振りをするだろう」の読みが馬子にはあった、と考えられる。事実、討伐の呼びかけに倭国王族の上宮王が継嗣聖徳太子を参加させたり、倭国朝廷の客分的大和大王敏達天皇が竹田皇子を参加させている。参加の理由はそれぞれ別だった。上宮王は馬子と共に「北朝仏教推進派として反物部で一致(仏教論争)」、敏達と馬子は共に「大和王権の継承問題に倭国の口出しは許さない、で一致(天皇位継承問題)」であった様だ。

以上の事件を経て、蘇我宗家は滅亡したが、物部氏はその後も倭国王家大臣としての地位を保ち、蘇我系大臣が主流となることは無かった。蘇我氏がそれをも狙ったとしても、倭国王家にはそれを許す気は元々無かったと見て良い。それは「倭国はその後も北朝仏教容認に転じた訳ではなく、蘇我氏が倭国大臣を辞して上宮王の独立に加担している」からだ。倭国主導権は倭国王自身が取り戻し、後の?(たい)国王阿毎多利思北孤の遣隋使につながる。

倭国は大和の力を借りて磐井の乱を克服し、蘇我氏の力を借りて物部の力を減殺した。倭国王権は復活したようだ。記紀では物部氏は物部守屋討伐事件で消えている。「討伐されたから当然だ」と考えられている。しかし、倭国の最後の戦争「唐との白村江戦」から考えると、「物部氏の倭国内指導力は衰えたが、その軍事力(物部軍が中核)はなお健在だった」と考えるべきであろう、それも敗戦で失われたが。

 

● 物部氏 まとめ

物部氏は記紀の記するような、「ニギハヤヒ後裔一本」ではない。複数の天降りに従った「複数の系列、四系列」があった。特記すべきは「九州物部氏」があり、記紀で「倭国不記載方針」で不記載とされたが、この一部「物部尾輿・守屋」が特殊事情で詳記されている。その事情とは「大和王権の一時的九州遷都」である。「仏教論争譚」「物部守屋討伐譚」などが詳記され、当然「倭国王・大和天皇」が登場するが、両者を「天皇」と表記してなんとか「倭国不記載」を取り繕っている。これが「倭国不存在」「九州物部氏不存在」の誤読を招き、日本古代史の解明を混乱に陥れてきた。

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はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷