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三著 「千年の誤読」 第五章  ________________

 

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日本書紀が正す「千年の誤読」

 

はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷

 

 

第五章 誤読されている「遣隋使」

    

「遣隋使」に関する史料は二つしかない。「隋書」と「推古紀」である。二つの記事は「一致する記述」と「一致しない記述」がある。一致するから「二つの文書は同一事績を記している」と考えられている。古来の「定説」でも、新しい「九州王朝説」でもその点は異論ない。しかし、一致しない部分については「中国側の誤解」「日中の立場の違い」「推古紀の不実記載・捏造・当用」など様々な解釈がある。定説は「隋書には倭国王は男帝とあり、女帝推古ではなく聖徳太子のことだ」とし、他方、九州王朝説は「遣隋使は九州倭国王(男王)の派遣である。推古紀は倭国史の盗用だ」とする。

しかし、二つの史料を論理的に読むと、二つの史料はそれぞれの外交原則に基づく立場の違いはあるが極めて論理的に書かれており、立場の違いはあって不記載はあっても不実記載は無い、と読める。不一致に見えるポイントは、隋書は「裏外交は記せず」の原則に則り、倭国との公式外交だけを記し、推古との裏外交は伏せている。推古紀は「倭国不記載」の対唐外交原則に則り、遣隋使派遣者倭国王と主使を伏せ、推古の派遣した随行使小野妹子だけを記している。それらを理解すれば、二史料だけで全体像が整合性良く把握できる。

この章では二書の「遣隋使」の誤読をただす。正しているのは筆者ではない。二書である。まず、初節で結論を示し、それを以下の節で論証する。内容は初著と重複するが、次話につながるのでここに再掲したい。 

更に、後半に「倭国女王台与以来の随行使の慣例と歴史」について検証する。大和王権は倭国の遣中国使のほとんどに随行使を出している。

 

● 「遣隋使」の真相 

まず最初に、検証(次節以降)の結論を先に示す。

(1)  倭国は「俀(たい、イ妥)」と自称して第一次遣隋使を送った( 隋書600 )。このことは推古紀には記されていない。大和推古天皇は当事者でなかったからだ。遣主だったら記さない訳がない。

(2)   俀(たい、イ妥)国は第二次遣隋使を送った(隋書607年 )。この時俀(たい、イ妥)国王は国書「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々」という対等外交の国書を送ったので、隋の文帝が怒った、と隋書にある。隋書は第一次と第二次の送り主を同一と見做している。従って、第二次の遣主も推古ではない。

(3) しかし、第二次と同年の推古紀607年に「小野妹子を大唐に遣わす」とある。遣わしたのは推古天皇である。では、この派遣は(1)(2) の俀(イ妥)国遣隋使とは別の遣隋使だったのだろうか。次項からわかるように、別の遣隋使ではない。小野妹子は推古の命で俀(イ妥)国遣隋使に加わった一員「随行使」である。

(4)  怒った隋の文帝は俀(イ妥)国に調査使「裴清」を派遣する(隋書608年)。小野妹子は裴清(裴世清)と共に隋(大唐)より帰る(推古紀608)。即ち、隋書の遣隋使と推古紀の遣隋使は同一である。即ち、遣隋使の遣主は倭国王である。小野妹子は「俀(イ妥)国王(遣主)の遣隋使に随行使として参加」するよう推古に命じられたのである。

(5) 裴清は6084月に筑紫に着いて二か月筑紫に滞在し(推古紀)、その間に俀(イ妥)国王に会った(隋書)。俀(イ妥)国王は一転して「対等外交と俀(イ妥)国自称を撤回し、朝貢を約束した」(隋書)。

(6)九州に二か月滞在した後、 6月(摂津)難波に着いた裴清は推古と会う前に更に二か月かけて(推古紀)東端の海(難波の東=東海)まで調査した(隋書)。後に「海岸(東海)に達す、竹斯(つくし)より東、(大和も東海も)皆イ妥に附庸す」と報告した(隋書)。

(7) 二か月の東海調査を完了して8月、推古は(東海より戻った)裴清を京(大和小墾田宮)に迎えて隋帝の書を受け取った。そこには「倭皇(推古)の朝貢を喜ぶ」とあった(推古紀)。倭国は俀(イ妥)国を自称して朝貢を拒んで天子を自称したので、唐帝煬帝は推古を「俀(イ妥)国(つくし国)を除いた倭国の王」と認め、朝貢権を推古に与えたのである。これが「倭皇の朝貢を喜ぶ」の意味である。倭国王に「列島代表権を取り上げて大和に渡すぞ」と圧力をかける為の「予め用意した裏外交」であろう。

(8) それを示唆された倭国王は、裴清が推古に会う前に折れて「俀(イ妥)国改号・天子自称・平等外交を撤回し、朝貢を約束した」(隋書)。その結果、隋帝の国書「推古に対する倭国代表権・朝貢権」は推古に渡される前に反故にすることが予め決まっていたのであるが、形式上推古に渡された。隋書は公式史書として倭国だけを記して、裏外交である推古紀の内容はカットしている。隋帝の二股外交の完勝である。

(9) 聖徳太子は二書の遣隋使譚に登場しない。しないでも、上項のように整合する解釈が可能である。これは定説「多利思北孤は聖徳太子」の不成立を示す(九州王朝説(盗用説)不成立)。 

以上、隋書と推古紀はすべて合理的に整合していると、解釈できた。隋書は「裏外交は公式史書に載せない」の原則を貫き、推古紀は「倭国不記載」の原則は貫いているが、隋が滅んだ紀編纂時点で「隋との裏外交を隠す必要」は無い。むしろ「大唐(隋)との友好外交」を強調している 。

 

● 検証 倭国の改号 俀(たい、イ妥)国

ここから10数節は上記結論「遣隋使の真相」の元となった検証と論証である。冒頭で言及したが初著「倭国通史」242258の再掲である。

6世紀、混乱を極めた中国は隋(581年〜)によって統一された。倭国は南朝(宋・斉・梁・陳)に朝貢してきたが、南朝が滅んで20年もたってからようやく北朝系の隋に遣使した(600年)。この前後に、倭国は「俀(イ妥)国」と国号を改めた様だ。その記事が隋書にある。この内容は推古紀には無い。

 

隋書列伝俀(妥)国条冒頭

「俀(イ妥)国は百濟新羅の東南に在り、水陸三千里、大海の中、山島に依りて居す、魏時譯を中國に通ず三十餘國、皆王を自稱す、、、其の国境東西五月行、南北三月行各海に至る、、、邪靡堆に都す 、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり。古にいう、楽浪郡より、、、1万2千里、會稽の東にあり 、、、安帝の時又遣使朝貢す、之を俀(イ妥)奴国という、、、魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず、、、

 

「俀(イ妥)国は、昔の俀(イ妥)奴国、魏や梁に遣使した国」と言っている。魏に遣使したのは「倭国」の卑弥呼、梁に遣使したのは「倭国」の武であるから、「俀(イ妥)国」とは「倭国」からの国号変更があったと解釈される。過去の別名の国「倭奴国」まで「俀(イ妥)奴国」に変えているから、「単なる国字の変更」とも考えられる。7年後に再び「倭国」に戻っていることも、その傍証となる(後述)。

 

  俀(イ妥)王阿毎多利思北孤、和名で通す 

隋書俀(イ妥)国条には和語の漢字表示が多用されている。

 

隋書  (続き1)

「開皇20年(600年)、俀(イ妥)王、姓は阿毎(あま、あめ?)、字は多利思北孤(たりしほこ、たらしひこ?)、阿我輩雞弥(おおきみ?)と号し、使いを遣わして(朝貢となっていない)、、、は雞弥(きみ)と号し  、、、太子を名づけて利歌弥多弗利となす、、、

 

宋時代には倭の五王の姓名は倭讃・倭武のように漢風の一字姓、一字名だった。しかし、俀(イ妥)王は和名を用いている。これを「姓が変わっている。王統が変ったからだ。倭の五王の倭王家は滅びた。磐井倭王家は滅びた」とする解釈がある。しかし筆者は王統が変わっていない、と考える。「南朝には敬意を表して漢風名を用いたが、新参の北朝に対してそれは媚になる。自分には堂々たる和名がある。」として和名「アメノ□□□タラシヒコ」で通した、と解釈するのが自然だ。「日出ずる国の天子」(後述)と外交姿勢で一致している。前章でのべたように、倭国王家では物部氏の外戚戦略で主流・傍流の交代はあったかもしれないが、倭国王家(アマテラス系)自体は継続している。

 

● 俀(イ妥)は内政重視で大国に

隋書は続いて、俀(イ妥)国について詳細に記述している。訪倭した隋使の報告書に基づいたようだ。中国からの国使は卑弥呼の時代の魏使以来である。

 

隋書 (続き2

「城郭無し、内官12等あり、、、軍尼(くに)120有り、中国の牧宰のごとし、、、冠制を始む、、、兵有りと雖も征戦なし、、、五弦の楽有り、、、仏法を敬い、、、阿蘇山あり、、、新羅・百済は皆俀(イ妥)を以って大国となし、珍物多く、並(みな)敬仰し、、、

 

「城郭無し」とは、朝鮮と違って城の伝統がなかったのかも知れないが「磐井の乱」(第六章)を克服して敵対する勢力が居ないことを示している。官僚制度「内官12等」や牧宰(中国の地方国の長官)に似た地方行政制度「軍尼(くに、「国造」のこと?)」を整備したようだ  。「兵有りと雖も征戦無し」とは、「倭王武の上表文(前出)のような征戦の連続」と大いに異なり、半島の拠点を失ったが、国内征戦も無かった(終わった?)ことを示している。一方で、文化に力を注ぎ仏教を敬い、隣国から大国と看做されている、とある。俀(イ妥)国は内政を充実させ、文化を興隆させることによって、倭諸国の求心力を回復した様だ。

 

● 対等外交

俀(イ妥)国は外交でも積極策に出た、と隋書にある。

 

隋書 (続き3

「大業3年(607年)、其王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰く、『聞く、海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝拜し、兼(あわ)せて沙門數十人來り佛法を学ぶ』と。その国書に曰く、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々』帝は覧て悦ばず、、、『蛮夷の書、無礼有るは、復(また)以って聞(ぶん)するなかれ』と。

明年(大業4年 608年)、文林郎(ぶんりんろう、役職 文書係?)裴清を使いとして俀(イ妥)国に遣わす」

 

ここで、「朝貢」と記されている。天子を自称する多利思北孤が朝貢するはずはなく「方物を献ず」位が妥当だが、後述するように後に隋は多利思北孤に「あれは朝貢でした」と言せたので、隋はここを「朝貢」と記している。「重ねて仏法を興す」とあるのは「南朝仏教があるのに、重ねて北朝仏教を興す」の意味で、南朝仏教の守護者を自認する多利思北孤が新興仏教を「暖かく見下している言葉」、と筆者は解釈する。しかし、それとは裏腹にこの遣隋使に多くの学者・僧が同行して新興の北朝仏教を学ぼうとする別の勢力(蘇我氏や推古朝)が混じっていたと考える。

さて、注目の「日出ずる処の天子云々」で始まる「対等外交国書」を送ったこと対して煬帝が怒った、とある。煬帝一度怒ったものの、直ちに調査団を俀(イ妥)国に派遣した。場合によっては戦争になるかもしれないので、敵状偵察を命じたという解釈もある。

 

● 小野妹子の遣隋使 推古紀 

この隋書俀(イ妥)国伝の記事に対応する記事が同年の推古紀にある。

 

推古紀15年(607年)「大礼小野臣妹子を大唐に遣わす」

推古紀16年(608年)「四月、小野妹子、大唐より帰る、、、大唐使人裴世清、、、筑紫に至る、唐客の為に、更に(摂津)難波高麗館に新館を造る、、、六月、、、客等(摂津)難波津に泊まる、是日、飾船三十艘を以って客等を迎え新館に安置す、、、八月、、、唐客入京、、、時に使主裴世清、みづから書を持ちて両度再拝して、使いの旨を言上して立つ、その書に曰く、『皇帝、倭皇に問う、使人、長吏大礼蘇因高等(小野妹子)至り、皇(倭皇のこと)、、、遠く朝貢をおさむるを知る、、、朕嘉(よみ)するあり、、、故に鴻臚寺の掌客裴世清を遣わして、、、、、、と」

 

定説では「隋書と推古紀は見事に一致し、同一事績を記述したものに間違いない。隋の使い『裴清』(隋書)と『裴世清』(推古紀)も2字まで一致し、完全に対応している。『倭皇』とは当然推古天皇のこと、多利思北孤は男王だから、摂政の聖徳太子のことだろう。隋書607年の多利思北孤の『朝貢す』という記事と推古紀の隋帝国書にある『朝貢』も一致する。朝貢を承認されたのだから、『倭の代表』と認められている。だから『俀(イ妥)』は『倭』の誤りで大和朝廷のこと。対等外交は結果的に成功した」とする。

しかしこの定説には女帝推古と男王多利思北孤が対応しないなど無理が多い。更に前章までに述べた様に、倭国と推古天皇の大和王権は王権が異なり、本拠も九州と大和で異なる。国書の差出人も異なるはずだ。同一事績ではない。「別の年の別の事績」とする解釈もある 

筆者も「別の事績」とするが、「同一年の事績」、と解釈する。なぜ同一年に異なる王権が同じ相手に国書を送っているのか。隋書の記述と日本書紀の記述は「同一事績」と「同一でない事績」の二面性を持っていて、後世の史家を惑わしてきた。それを次節以下で解析する。

 

● 小野妹子は俀(イ妥)国遣隋使の随行使

隋書と推古紀を整合させ得る筆者の解釈について、結論から先に示す。「607年、俀(イ妥)国は遣隋使を送った。その国書は『日出ずる国の天子、、、』で始まる『対等外交』だった。この遣隋使に、大和推古天皇は小野妹子を随行させた(小野妹子と上宮王の関係はこちら) 。最先端の文化・文明を得る目的で倭国王の同意の下に、推古天皇の信書と献上品を携えて小野妹子は参加した」と考える。ここまでは倭国の遣隋使としての「同一事績」だ。

「随行」と述べたが、その理由の一つは当時外交権を握っていたのは倭国であって、外交問題では大和王権は従属国に過ぎない。大和からの遣中国使は初めてであり(新唐書)、当時まだ独自の公式外交ルートを持っていなかった。有力な倭諸国は推古に限らず随行使を送り込んでいたのではないだろうか。費用分担と引き換えに文化・珍宝を求めて。特に、百済が早くから北朝仏教に転向したのを知って、これを学ぼうとする勢力は国内に多かったようだ(上掲に「佛法を学ぶ数十人が随行」とある)。上宮王家の聖徳太子・大和王権の推古天皇・蘇我氏などだ(前章)。これら勢力が俀(イ妥)の遣隋使に随行使を送る大きな動機となった、と考える(俀(イ妥)国は南朝仏教に固執)。

ところが、主使である俀(イ妥)国使が煬帝を怒らせた結果、煬帝は俀(イ妥)国に断交を突きつける一方、随行する大和使に倭国代表権の誘いをかけた。煬帝の「遠交近攻策」だ。「隋と俀(イ妥)」と「隋と大和」の「別の事績」に変化した。隋国側が「俀(イ妥)国を相手にせず、随行の小野妹子を倭国朝貢使と認める」と急変したか、あるいは随行使小野妹子が急遽独自倭国代表(俀(イ妥)国を除く)として朝貢を申し入れたか、どちらの可能性もある。

 

 

● 隋使裴清の訪倭 「海岸に達す」は東海    

煬帝一度怒ったものの、直ちに調査団を俀(イ妥)国に派遣した。

 

隋書 (続き4

「明年(大業4年 608年)、文林郎(ぶんりんろう、役職 文書係?)裴清を使いとして俀(イ妥)国に遣わす、、、都斯麻(つしま)国を経て大海中に在り、、、竹斯(ちくし)国に至る、又東秦王國に至る、、、又十餘国経て、海岸に達す。竹斯国より東、皆俀(イ妥)に附庸す。俀(イ妥)王、、、來迎し、、既に彼の都に到る、、、

 

隋使は俀(イ妥)国を端から端まで調査した、とある。

ここで「海岸に達す」について、従来から種々論争がある。定説の「倭国=大和」説では「隋使裴清が難波に来ている(推古紀、前掲)。だから『竹斯国に到る、、、十餘国を経て海岸に達す』とは、瀬戸内海を経て海から海岸に達することで『摂津難波』のことだ。その後の文章に難波での歓迎と俀(イ妥)王の応接記事が続くから、隋使裴清は難波から上陸して大和に到り俀(イ妥)王(推古天皇)と面接した、と解釈できる。従って、『倭国=大和』であり、『竹斯より東は、皆大和に附庸す。』が成り立つ」としている。俀(イ妥)は倭の誤字と解釈している。

一方「九州王朝説」では、「『海岸に達す』は『陸路で十餘国を経て九州東端の海岸(豊前)に達す』の意味だ。『十餘国』はすべて九州内で、『皆俀(イ妥)に附庸す』は九州内が俀(イ妥)国であることを示している。推古紀の隋使裴清が来た難波とは筑紫難波津だ。隋使裴世清は大和に行っていない。推古紀は捏造だ。」とする。

しかし筆者は、この「海岸に達す」は九州東端ではなく、また大和難波でもなく、更に東の伊勢湾あたりあるいは東海だろう、と考える。その根拠を示す。

(1)   まず、九州王朝説の豊前海岸ではない。なぜなら、筑紫から豊前は約50km、たかだか23日の道のりだ。皇帝に命じられ、長安から2000km近くを要した「敵情視察の大調査旅行」を、中国人からみれば「隣村」程しかない豊前海岸に至ってその海の向こう(東)も見ずに「東は全部判った」と報告することは考えられない。中国は九州の東に大和があることは知っている(雄略紀)。

(2)   煬帝の狙いは俀(イ妥)国を牽制する為の「遠交近攻策」である。このことは出発前から用意した大和推古天皇への国書が証となる。裴清は大和を俀(イ妥)国に対抗できる国として訪れ「魏時、、、邪靡堆(やまと)に都す 、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり。」(隋書冒頭文、前掲)と理解した、と考えられる。大和が倭国の強力な同盟国であることは宋書以来の中国の理解だ。小野妹子は中国でその様に強調しただろう。隋使はその認識を確かめる調査使である。

(3)   しかし「海岸に達す」は「(摂津)難波」でもない。「海岸に達す」が「難波」のことでは、難波の「西側」を見ただけ、大和の「東側」を見ないで「東、皆俀(イ妥)に附庸す」と判断したことになり、これまた怠慢のそしりを免れない。隋書俀(イ妥)国伝冒頭に「俀(イ妥)国は、、、其の国境は東西五月行、南北三月行、各々海に至る」とある。そこで俀(イ妥)国を端から端まで、すなわち「海を渡り竹斯から秦王国(豊前)や(大和を含めて)十餘国を経て反対側の海まで、西端から東端まで全部実地に見た」という調査範囲報告「海岸に達す」が意味を持つ。それがあって初めて「竹斯国(西端)より東、皆(東端まで)俀(イ妥)国に附庸す」という結論が得られたのだ。

(4)  その全体把握の披歴の後に、具体的行事「俀(イ妥)王と会った」と述べている。実際の行程の順序ではなく、報告の根拠を先に示した文章の様だ。なぜなら、日本書紀によれば、裴清が筑紫に着いたのが6084月、(摂津)難波津に着いたのが6月、この2ヶ月間筑紫で俀(イ妥)王と会っていたと推定される。(摂津)難波に着いてから2ヶ月後の8月入京(大和小墾田)、この間に更に東端海岸まで調査していたと推定される。9月帰国する客を推古天皇は(摂津)難波で饗応している(推古紀、後述)。

 以上結論として、「裴清は筑紫で俀(イ妥)王に会い、東海の海岸に行った後大和に入り推古天皇に会っている」。

 

● 難波津や海石榴市(つばきち)は倭国接待施設     

九州王朝説は「裴清が大和に行った、というのは推古紀の捏造だ。なぜなら書かれているのは倭国の筑紫接待施設だからだ。裴清は大和には行っていない」とする。

しかし、煬帝の隋使裴清は、帰国する倭国遣隋使と大和の随行使小野妹子と共に筑紫に着いた。難波津(筑紫)や海石榴市(つばきち)など九州の倭国接待施設で客人が歓迎されたに違いない。出迎えたのは倭国役人(主使側)と大和役人(随行使側)が一緒に裴清を歓迎している。推古紀に九州倭国の接待設備・行事がでてくる理由はある。

ただ、大和は筑紫の外交施設と同名の同様施設(難波津・難波高麗館)を摂津難波に作り、同様の歓迎行事(飾り船、飾り馬)を再度大和で繰り返した。「海石榴市」すら真似た可能性がある。これは裴清の為、というよりは日頃から九州風の地名や行事も近畿に持ちこんでいた可能性が高いからだ。これも後世読者の混乱と誤解を招いたようだ。

 

   「三つの難波」 筑紫・摂津・豊国   

「難波」は二か所あって頻出し、分かり難いが書き分けられている。これを検討する。実は三か所目があり、これも含めて説明する。

「筑紫難波」は朝鮮半島からの外交使節の到着港であり(福岡市東区の多々良川河口付近か)、筑紫の人物と共に日本書紀に登場する。

 

欽明紀540年「難波祝津宮に幸す、、物部大連尾輿(本拠は筑前鞍手郡、遠賀川中流)等従う」

欽明552年「稲目宿禰に試みに(仏像を)礼拝させる、、、大臣よろこんで小墾田(肥前三根郡、鳥栖市近く)の家に安置す、、、向原(肥前養父郡、鳥栖市西の向原川近くか)の家を浄めて寺と為す、、、後に国に疫気がはやり、、、天皇(倭国王、前章参照)曰く、、、仏像を難波(筑前)の堀江に流し棄てる」

敏達紀585年「物部守屋(筑前鞍手郡)が仏像を焼き難波(筑前)の堀江に棄てた」

 

一方、「摂津難波」は「神武東征」「神功〜仁徳東征」「孝徳遷都(難波宮)」に頻出する。神武紀では「『浪速』が訛って今(日本書紀編纂時)『難波』という」としている。「難波」が神武より後世の名称と示唆されている。神功皇后東征後に筑紫難波の地名を摂津へ移植したと思われる。

三つ目の「豊国難波」については第六章「難波屯倉は豊国」で検証した。「豊国に三つ目の難波があった可能性が高い」というのがその結論だ。その要旨は「応神天皇の頃、日本貴国は北肥前から豊国大隅に遷り宮とした(応神紀)。また、大和との連携に好都合の豊国海岸に津を設け、筑紫難波を地名移植して「豊国難波」とした。その後摂津難波に遷った日本貴国(日本)は仁徳朝〜継体朝の間、豊国難波を半島との主要中継地として活用した可能性がある。この間のいずれかの時点で、豊国は日本貴国の流れを汲む筑紫君磐井の所領となった(豊前・豊後の点在所領)。その磐井の所領を奪った安閑/物部麁鹿火は豊前勾金橋に遷都した。応神五世継体の子である安閑天皇は「豊国難波」を祖応神天皇ゆかりの地として大切にした(安閑紀)。」

日本書紀は三つの難波を説明なしに並記するから、弁別が難しい。日本書紀編纂時にすでに豊国難波の記憶・情報が失われた可能性、意図的に畿内への移植地名だけを記述した例など虚偽記載とは言えないが、大和一元政策に沿った編集が感じられる。応神紀〜敏達紀は「三つの難波の並存」を認めて初めて無理のない解釈が可能となる。

 

● 俀(イ妥)国の対等外交の放棄

本題の隋書に戻る。前述の隋書に続く記述には、「隋使裴清が俀(イ妥)国に行き、俀(イ妥)国王は対等外交をあっさり放棄し、朝貢を認めた」とある。文中括弧に筆者解釈を付記するが、付記を合わせ読むことで整合性が理解されると考える。

 

隋書 (続き5 俀(イ妥)国伝末尾)

「その王(俀(イ妥)王多利思北孤)は清(裴清)と相見え、大いに悦んでいわく、『我聞く海西に大隋礼義の国ありと、故に遣わして朝貢す(前回の遣隋使、あれは朝貢でした、俀(イ妥)国王の天子自称はなかったことにしてください)』 と。清答えて曰く、『皇帝の徳は二儀(天地)に並び、、、王の化(おしえ)を慕うを以って、故に行人を遣わし来りここに宣諭す(朝貢するなら許す、その確認に来た)』と、、、その後、(帯方郡に留まり報告書を長安に送って皇帝の許可を得た)清は(帯方郡から俀(イ妥)に)人を遣わしてその王に謂いて曰く、『朝命は既に達す(天子の自称をやめたことの確認と報告は終わった)』 と、、、復(ま)た(俀(イ妥)の)使者をして(長安に帰る)清に従い方物(宝物)を来貢しむ(俀(イ妥)の使者が裴清に従って長安に行き朝貢した)。この後、遂に絶ゆ (俀(イ妥)国は再度改号して倭国に戻った、俀(イ妥)国としての使は二度と来なかった)」

 

多利思北孤は天子を自称したが、中国の反応が厳しく1年でそれを撤回した。「多利思北孤の対等外交の試みは煬帝によって潰された」と解釈できる。煬帝は「俀(イ妥)国はあったが私が潰した」と勝ち誇ってわざわざ隋書に「俀(イ妥)国伝」を立て、俀(イ妥)王の「あれは朝貢でした」の言を取って607年記事を「朝貢」とした(前述した隋書つづき2の疑問への答え)。その上で「遂に絶ゆ」として「俀(イ妥)国」が潰れた事実を記録に残した(実際の隋書編集は後世だがそのような当時の史料に基づいたものと思われる)。そして、国号を旧に戻した「倭国」が2年後に朝貢したことを次の様に確認している。

 

隋書帝紀煬帝上(俀(イ妥)国伝の中でないことに注目)

「大業6年(610年)、倭国(俀(イ妥)国ではないことに注目)、使いを遣わして方物を貢す(朝貢再開の確認)」

 

● 隋の二股外交

前節の隋書によれば608年に裴清は竹斯に到り、俀(イ妥)国の多利思北孤と会って「天子自称・俀(イ妥)国改号の撤回、朝貢の実行」を引き出した。それに日本書紀608年をあわせ読めば、裴清はその後に大和を訪ね、出発前に用意した煬帝から推古天皇宛の国書「倭国の代表として朝貢を認める」を伝達した。結果的に倭国代表を多利思北孤と推古天皇の二者に認めたことになる。隋使が隋を出る前から想定した公式と非公式の二股外交と考えられる。隋書と日本書紀では使者の身分が異なる。隋書は「文林郎(ぶんりんろう)裴清」とあり、日本書紀では「鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)裴世清」とある。隋が公式と非公式で使者の肩書きを変え、公式での二股を避けたとも考えられる。

裴清は列島の西端の海から東端の海岸まで実地検分し、竹斯国より東は皆(大和も含め)俀(イ妥)に附庸している実態を把握した。その結論として「今回、俀(イ妥)国の多利思北孤の代わりに推古天皇を倭国の代表に認める煬帝の国書を渡したが、実態を見ると大和は俀(イ妥)国に附庸している。多利思北孤も朝貢を受け入れたのであるから多利思北孤を代表に戻すべき、そう煬帝に報告しよう」としたのであろう。それが隋書にあるように「その後、清は人を遣わしその王(多利思北孤)に謂いて曰く、『朝命は既に達す、、、』」となったと考えられる。

 この外交騒ぎは俀(イ妥)国の譲歩で収まり、以後の正式遣唐使は再び倭国からとなり、中国史は、倭国遣唐使のみを記録している。一方、日本書紀は大和の遣唐使のみを記録している(隋は618年に唐に代わった)。 

 

● 推古天皇は「倭国王認定」を反故(ほご)にされた

注目すべきは、前節の推古紀に「その書(国書)に曰く『皇帝、倭皇に問う、、、、、、遠く朝貢をおさむるを知る、、、朕嘉(よみ)するあり』」とある点である。この「倭皇」の記述から、小野妹子が持参したであろう推古天皇の書は(俀(イ妥)ではなく)「倭国」の立場を取り、「天皇」と自称したと思われる(もちろん「天子」自称ではない)。また、献上品は朝貢品ではない。その時点では推古に朝貢の権限はないからだ。それに対して煬帝は、「倭皇の朝貢を嘉する」として推古天皇を「倭国の朝貢の主、倭国代表者」と持ち上げている。推古天皇は「倭国王」と認定されたのだ。

裴清が帰国するに当たり小野妹子を再度送り推古天皇は書を託した。

 

推古紀(608年)

「天皇唐帝に聘(あと)ふ。其の辞に曰く、東の天皇、西の皇帝に敬白す、、、」

 

 再度「天皇」を自称している。秦の始皇帝がそれまでの「三皇(天皇・地皇・人皇)」の上に「皇帝」を新設したから「天皇」は「皇帝」の下である(史記秦始皇本紀)。その点は俀国のような「天子」自称問題を起こさなかったようだ。しかし、隋書には裴清が大和に行ったことも、推古宛国書のことも記されていない。それは公式化されたり、史書に載ることは無かった。推古天皇への「倭国王認定」はほごにされたのだ。それは、多利思北孤が譲歩して「俀(イ妥)国改め倭国」とし、600年の対等外交を「朝貢」であったと認めたことにより、再び「倭国代表者」と認められたからである。こちらは隋書に記載され公式史実とされた。煬帝の二股外交の完勝である。

 隋帝と推古天皇のやり取りはどちらにとっても「裏外交」だ。隋は二股の一方が成功したから推古帝とのやり取りは明かしていない。倭国との公式外交だけを記している。推古帝にとって結果は失敗だったが、倭国滅亡後の日本書紀は隠す必要が無い。隋帝と推古天皇の友好外交と表現されている。両書を併読すると読者は誤読(多利思北孤と推古の混同)に誘導され易いが、なんら隠されていないからよく読むと全てがわかる。

 

 「邪馬台国=邪靡堆(やまと?)=大和」説   

隋書俀(イ妥)国伝の冒頭には「邪馬台」について重要な記述がある(下線部)。

 

隋書列伝俀(妥)国条冒頭

「俀(イ妥)国は、、、魏時、、、邪靡堆に都す 、即ち魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり、、、

(再掲)

 

この記述は「倭国=大和朝廷」説(定説)が強力な根拠としてきた史料だ。その根拠とは「隋書の内容(裴清、608年など)が推古紀と一致していること」「隋使が大和に来た上で邪馬台国は邪靡堆だ、としていること」「邪靡堆の読みは『やまと』だろう」などだ。その結果「倭国の都=邪馬台国(魏志)=邪靡堆(隋書)=大和(推古紀)」が史料で確認された、と解された。これについて検討する。以下で「大和」は地域を指し、発音は「やまと」などで表記する。

(1)  隋使の目的の一つは「俀(イ妥)を抑える為の遠交近攻策として大和を研究すること」だ。そこで隋使は「過去・現在の倭国・俀(イ妥)国・邪馬台国・大和」について貪欲に訪問先の九州と大和の人々に聞いたはずだ。九州と大和で答えは違ったかも知れない。特に大和は隋使に「卑弥呼=神功皇后説」や巨大墳墓を紹介して「邪馬台国=大和論」を繰り返したに違いない。

(2)  隋使が「大和」を訪問した後に「邪靡堆」と表記している。「大和」の発音は当時の表記「夜麻登(古事記)、夜摩苔・野麻登(日本書紀)など」から現在と大差ない「やまと」だったと考えられている。従って、「邪靡堆」の発音も「邪靡堆=やまと」だった可能性がある。

(3)「邪馬台国」を紹介しながら表記を「邪靡堆」に変えている。変えた理由の一つは「邪馬台と邪靡堆の発音が違う」からだろう。もし「邪馬臺=邪靡堆=やまたい≠やまと」だったら表記は変える必要がない。しかしそれでは「魏時の都邪靡堆=邪馬台国はどこか?」の中国の疑問に隋使は答えたことにならず、調査怠慢のそしりをまぬかれない。

(4) 中国も「邪馬台国は不詳」と思っていたようだ。隋書の「魏志の謂う所の邪馬臺なるものなり」という表現には「魏志の謂う『邪馬台』がよくわからなかったが、大和の説明でよくわかった。『いわゆる邪馬台は邪靡堆(やまと=大和)のことだ』」と納得したような感じが出ている。

 結論として、隋使は「魏志の謂う邪馬台国は地域としては大和、その発音はやまと、その表記は邪靡堆がより近い」との認識に至ったと考えられる。

ただ以下のように、魏以外の時代は倭国の都が大和でないことを中国は知っていた。

(1)  隋書文中の「俀(イ妥)奴国」は委奴国であり、この1世紀時点で当然大和は都でなかった(金印「伊発掘から北九州)。

(2) 「宋」「梁」は倭王が大和を統治下に入れたことで倭国王と認め、大和を統治し切れないから倭王と格下げしたのだから、倭国の都が大和でないことを知っていた(第六章)。

(3)  隋使は「倭王と大和天皇の両方に会って倭王を代表と報告した」(上述)。倭国の都が大和でないことを隋は知っていた。

(4) しかし、大和朝廷は「魏志倭人伝の『邪馬台国、女王の都する所』は大和のこと」と主張し、隋使も「少なくも魏の時のみはそうかもしれない」と考えたようだ。

その結果、「魏の時(のみ)倭国の都は大和」と、括弧の補足を加えた様な表現になったと考える。実は、魏の時の倭国の都は九州(第二章)だからこの隋書の文章も依然として誤解だ

もう一つ、この文章は「608年、推古天皇が大和にいたことを示す重要な史料」として価値がある。「小墾田」はそもそも肥前の地名、蘇我稲目の本拠であったが、推古紀603年の「小墾田宮に遷る」は蘇我馬子が提供した「大和小墾田宮」である。

 

● 随行使の歴史

以上で「推古派遣の小野妹子は倭国遣隋使の随行使であった」ことを検証した。隋から唐へ代わった後も「倭国の遣唐使への随行使」を舒明・孝徳・斉明が送っている。実は「倭国の女王台与にも倭国外(邪馬台国?やまと?)の随行使が居た」と晋書から読み取れる。この様に倭国は建国(西暦80年頃)から滅亡(701年)まで、倭国遣中国使に分国・周辺国の随行使を許し続けてきたようだ。このこと、「日本書紀の遣中国使記事は倭国遣使への大和王権随行使の記事である」ということを歴史の先達の誰も指摘してこなかった。

ここではそれら五例を検証して、そこから導かれる「倭国とやまとの関係」を明らかにする。

 

● 推古紀の遣隋使 その後

前話で検証した「隋書イ妥国伝」は608年の「此後遂に絶ゆ」でイ妥国伝自体が終了している。倭国は「イ妥国への改号と天子自称」を煬帝に反対され、「倭国へ復号し、天子自称を止めて朝貢を誓ったのだ」(前話)。それが隋書自身から確認できる。

 

隋書帝紀煬帝

「大業6年(610年)、倭国遣使して方物を貢す(朝貢開始の確認)」

 

ここで「倭国」とある。イ妥国が倭国に復号したと考えられる。その倭国が朝貢した、とある。これが推古の朝貢なら、この610年の朝貢記事を推古紀が書かないはずはない。推古は隋帝に「朝貢をよみする」と言われたことを推古紀が大書しているのだから。しかし、この610年の遣隋使記事は推古紀に無い。この遣隋使の遣主は推古ではない。随行使も出さなかったのであろう。前年609年に小野妹子が帰国しているが大唐(隋)から「倭国が朝貢を誓ったので、煬帝が一旦認めた『推古の朝貢承認』は撤回する」と言い渡された(反故にされた)であろうから、「倭国の朝貢遣唐使」に付き合う気は無かったのだろう。

しかし、推古は614年に遣唐使を出している。これも随行使であろう。

 

推古紀614

「八月、犬上君御田鍬(みたすき)、、、を大唐(隋)に遣わす」

 

次の年に帰国記事があるが、これも素っ気なく一行ですませている。「随行使」と推測する訳は記事が素っ気ないこともあるが、ほぼ同じ次の遣唐使記事(舒明紀、次節)が「随行使」と検証できるからだ。

 

● 舒明紀の遣隋使 

隋が唐に代わると(618年)、前遣隋使と同じ人物を唐に遣わしている。推古に代わった舒明の遣唐使の初出である。

 

舒明紀630年「八月、犬上君三田耜(みたすき)、、、を大唐(唐)に遣わす」

 

この遣唐使については旧唐書に詳しい。

 

旧唐書倭国伝631

「(倭国)遣使方物(宝物)を献ず(貢・朝貢ではない)、大宗(唐帝)その道の遠きを矜(あわれ)み、所司(役人)に歳貢を無くすよう勅令した、又新州刺史高表仁を遣わし往きて之(倭国)を撫(なだめ)させた。表仁綏遠の才無く、王子と礼を争う、朝命を宣(の)べず還る」

 

630年発、631年着の同一遣唐使である。「倭国伝」であるから「倭国の遣唐使」である。だが、「献ず」とあるから「朝貢使」ではない。「隋には対等外交を拒否されて朝貢に転じた」が、唐になると「遣使はするが朝貢せず」に戻り、再び対等外交を目指している。遣隋使と同じ姿勢である。「唐帝は矜(あわれ)んで、もう来なくてよい、と命じた」とあるが、隋帝と同じように怒って同じように「詰問使」を送ったのであろう。案の定、唐の使い表仁と倭国は礼で争っている。友好外交ではない。朝貢を目指した推古路線、それを受け継いだであろう舒明の路線ではない。このことから、「舒明の初遣唐使は遣主ではなく、随行使」と考えられる。

「倭国訪問不和」の後に、舒明は高表仁を丁重に大和に迎えている。推古と同じ裏外交であろう。

 

舒明紀632年「十月、唐国使人高表仁等、難波津に到る、、、江口に迎えさせた、船三十二艘及鼓・吹・旗幟、皆具え整え飾った、高表仁等に便告げて曰く、天子の命ずるところの使が天皇の朝(みかど)に到ると聞き、これを迎える、高表仁対(こた)えて曰く、風寒の日に船艘を飾り整え、以って迎えを賜る事、歓愧なり(うれしく恐れ入る)、、、客等を館に引き入れ、即日神酒を給わった」

 

ここで、難波津・江口・飾船三十艘は「推古の隋使裴世清に対する摂津難波での歓迎記事」と殆どおなじである(推古紀608年)。舒明は推古の親中国路線を踏襲している。舒明の本拠は推古の大和小墾田宮を継がず、再び九州の肥前飛鳥岡本宮としたが(舒明紀630年)、この唐使高表仁を迎えるには倭国との違いを強調すべく推古に倣い、摂津難波と大和小墾田宮での歓迎を踏襲したものと思われる。高表仁は大和で三か月滞在して帰国した(舒明紀633年)

 

● 孝徳紀の遣唐使

孝徳紀にも遣唐使記事がある。

 

孝徳紀653

「五月、大唐に大使、副使、学問僧(定恵(鎌足長子)ら)、学生など121人(第一船)、他に120人(第二船、七月遭難)を遣わす」

 

孝徳紀654

「二月、大唐に押使大錦上高向史玄理(たかむこのふひとげんり)、大使、副使他、、、分乗二船。数月を連ね、新羅道を取り、、、遂に京奉に到り、天子に会う、是に於いて東宮監門郭丈挙、日本国の地里及国の初めの神の名を問うた、皆問に答えた」

 

とある。海外史書もこれを伝えている。

 

唐会要倭国伝

「永徽五年(654年)、遣使して琥珀瑪瑙、琥珀大如斗、瑪瑙大如五升器を献ず、高宗書を下し、、、新羅素(もと)より高麗百濟を侵す、若し危急有ら、王宜しく兵を遣わしこれを救う(王宜遣兵救之)」

 

新唐書東夷伝 日本条

「孝コ即位し、白雉と改元す 、虎魄大如斗、碼碯若五升器を献ず、時に新羅は高麗・百濟の暴す所、高宗璽書を賜り、出兵して新羅を援け令(し)む、孝徳死に、、、

 

献上品が同一と思われ、同一事績とされるが、微妙に異なる。

(1) 唐会要倭国伝の記述だから、倭国遣唐使であろう。654年当時倭国未だ健在であった。一方の新唐書日本伝は建国後の日本遣唐使の報告を参照しているから、日本の公式の主張であって、孝徳紀は捏造でも盗用でもない。孝徳は遣唐使を送ったと確認できる。同一の遣唐使に倭国と日本の使いが居るとしたらどちらが主使で、どちらが随行使であろうか。当時の関係から、「倭国遣唐使に大和随行使」の組み合わせであろう。

(2) どちらも「献ず」となって「貢」でないから、倭国が遣主で大和が随行使だろう。なぜなら、倭国は唐に対して「遣使はするが朝貢せず」の対等外交に固執していた。

(3) 唐の役人が「日本」について詳しく聞いている(孝徳紀654年)。「日本」の呼称は四世紀ころから半島が列島東部の諸国を指す「見做し国名」で、東諸国軍も半島で「日本軍」を自称した。中国の公式史書は総国「倭国」は記すがその属国・分国は記さない。まして「見做し国名」は使ったことがない。唐が「日本」を使うのは初めてで、新羅が使う「日本」に倣(なら)ったのであろう。その背景にはこの頃「唐が新羅と連合し始めた」がある(648660年)。「百済・倭国連合の背後の日本に接近・牽制する」ことが、新羅・唐連合の共通の関心事となったようだ。「日本」には「やまとを含む東国諸国」を総括する「見做(みな)し国名」の意味合いがあり、「大和王権を広域日本の代表と見做(みな)すから、取り纏(まと)めて倭国に離反してくれ」という中国の狙いがある(遠交近攻策)。

(4) 皇帝が倭国には「書を下し」て「新羅援軍派兵を希望」しているが、外交関係の無い日本に皇帝の「璽書」を賜り「新羅救援を命令」している。「これを実行すれば列島代表と認めよう」と持ち掛けたと思われる。これには孝徳は窮したと思われる。唐皇帝の直接の命令、百済に敵対せよ、との命令である。朝貢を願いながら命令を無視すれば長年の努力も水泡に帰する。さりとて宗主国倭国の友好国百済を攻めることはもっとできない。孝徳は病になって崩御してしまう。

以上、孝徳紀の遣唐使記事は「随行使」記事である。

 

● 斉明紀の遣唐使

 斉明紀にも遣唐使記事はあるが、重要なのは後年加えられた注の部分である。

 

 斉明紀659

「唐国に(石布某と吉祥某を)遣使す、(唐の)天子に陸道奥蝦夷男女二人を示す、〈(以下注)伊吉連博徳(いきのむらじはかとこの)書に曰く、(遣唐使、摂津)難波、、、より発す、、、(唐)天子相見て問訊し『日本国の天皇、平安なりや(天子相見問訊之日本国天皇平安以不)』と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あら(戦争となるだろう)、汝ら倭の客東に帰ること得ざる(抑留)、と、、、〉」

斉明紀661年「〈伊吉連博徳書に曰く、(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな〉」

 

ここで日本書紀は「日本国」と「倭」と「大倭」を書き分けている。文中の「勅旨」の相手は正規外交相手の「倭(国)の主使」だろう。皇帝が話しかけているのは「日本国の客」だ。正規外交相手でない「日本国」(見做し国名、前節)の「客」に皇帝自身が会う、ということは異例のことだ。両方(汝ら)を「倭の客」として「留め置く」と言っている。大和の僧や学者らが倭国遣唐使船に随行・便乗していたのであろう。その「両方」を「留め置く」の理由は倭と中国の外交問題と示唆されている。留め置かれた博徳の帰国は唐帝の意向(日本を味方に引き入れる密約)を斉明天皇に伝える為に特別に帰国を許されたのではないだろうか。「大倭」は九州倭国の自称、ここでは国内での通称。「大倭の天の報い」とは中国外交筋の怒りを博徳から漏れ聞いた倭国外交に批判的な人々(斉明朝)の見解であろう。

唐から日本に百済復興に協力しないよう何らかの働きかけがあったとしてもおかしくない時代背景である。同じような働きかけは過去孝徳天皇にあった。斉明天皇は孝徳天皇の後継者である。唐帝は同じ命令を繰り返したかもしれない。それを斉明天皇が受け取ったのが前述の博徳書である。「斉明天皇が朝倉宮で急に崩御される直前、伊吉博徳が唐から帰国して朝倉宮で斉明天皇に唐の強硬姿勢を報告している」(斉明紀661年)。崩御偽装の可能性もある。

唐の天子が「日本国の天皇」と呼びかける文章は紀の造作ではない。唐の常套「裏外交」である。反抗的な倭国に「来年戦争になる」と脅し、随行使に裏外交で「日本国の斉明天皇によろしく」と伝えたのである。孝徳紀にも出て来た「唐の日本国号使用例」と同じである(前述)。唐は公式には「やまと」を相手にしていないが、この頃から半島に倣(なら)って見做(みな)し国号「日本国」を使って孝徳・斉明に裏外交で呼び掛けている。

大和王権は「推古以来、倭国遣唐使に随行使を出し、密かに朝貢請願をしている」前天皇孝徳は朝貢を願いつづけたが、唐は「それを願うなら、まず(倭国と手を切り、唐側について)百済を攻めよ」と命じた(孝徳紀)。百済は倭国の友好国である。孝徳は窮して病になって崩じてしまう。大和王権の「随行使としての朝貢請願戦略」は破綻したのだ。

以上、推古・舒明・孝徳・斉明の「倭国遣唐使への随行使」を検証した。結果的にそれは「隋・唐の遠交近攻策」に利用されることになった。しかし、「随行使」を許した倭国は伝統的にそれを宗主国の義務と思っていた節がある。

 

● 台与の遣晋使と随行使

 神功紀には「神功皇后は卑弥呼又は台与」を示唆するような次の編者注を載せている。

 

神功紀 

「晋の起居注(皇帝日誌)に曰く、『武帝の泰始2年(266年)、、、倭の女王、訳を重ねて貢献しむ』と」

 

この記事に関連して注目されるのは同年の別の史料、晋書武帝紀だ。起居注と比べてみよう。

 

晋書武帝紀

「泰始2年(266年)、、、倭人来たりて方物を献ず」

 

神功紀の引用と同年で同じ晋の武帝関連記事だから、二文は同一事績だとするのが定説だ。しかし晋書は倭でなく「倭人」、朝貢とは異なる「献ず」である。「献ず」となっているのは、晋とまだ朝貢関係を持っていないか、これから持とうとする使節と考えられる。中国は誇示の意味もあって冊封体制の朝貢使には「貢朝貢す貢献す」と書き分ける(「献ず」・「貢」・「奉献す」の使い分けについては第五章で述べる)。すなわち晋書の「倭人来り方物を献ず」は台与の「朝貢」遣晋使ではない。「同年の別の遣使」だ。では「倭国と別の倭人国が遠く危険を冒して別々に遣使」したのだろうか。そうではなく「朝貢する倭(国)女王(台与)の遣使」に「倭国とは別の、未だ朝貢していない倭種の国の遣使」が「随行」した、と考える方が自然だ。その根拠は、卑弥呼が魏の皇帝に「其れ(倭)種人を綏撫(すいぶ)し、、、」(魏志倭人伝)と、倭諸国・倭種の指導者として倭国外倭人の面倒を見ることを諭されているからだ [10]

倭国の周辺には倭種の国は多いが、武帝紀に記される程の国となると「倭種で最大の人口を誇る邪馬台国」(魏志倭人伝)の可能性が高い(初著第二章「倭国女王卑弥呼と邪馬台国女王は別の国、別の女王」参照)。この推測が正しければ「晋は邪馬台国の遣使に直接接した」ことになる。魚豢が「魏略」を編纂していた270年頃には魚豢はそれを知っていた可能性がある。それでも魚豢は魏略の記事(倭(国)伝)に邪馬台国を採用しなかった。即ち「女王の倭(国)(九州、『帯方より万二千里』翰苑所引魏略)から海を度(わた)と倭種の国有り」(漢書地理誌顔師古注所引魏略)とあり、「(九州から)海を渡る邪馬台国は倭国外」と認識し、「倭(国)伝」には入れなかった。しかし、魏略の「倭国伝」を種本にした魏志「倭人伝」は国に拘らず広く倭人・倭種を総ざらえして倭種の「邪馬台国」を入れたのだ(初著第二章)。

この様に、倭国は卑弥呼・台与の時代から倭人の宗主国として「遣中国使に分国・周辺国の随行使を許す慣行」があった様に思われる。

 

  

 

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はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷