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初著「倭国通史」 高橋 通  原書房 2015

  [] 引用抜粋   11011910

 

倭 国 通 史

日本書紀の証言から

 

高橋 通

 

はじめに 目 次 概 要 ____

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第一章 半島倭人の「倭国統一」、列島へ移動で「倭国大乱」 

第二章 「倭国女王卑弥呼」と「邪馬台国女王」は別の国、別の女王

第三章 纒向・神武・崇神・仲哀 それぞれの倭国との関係 

第四章 仲哀皇子/応神、仲哀皇子/仁徳を同一人視

第五章 日本書紀の証言「倭国≠日本」と「倭国≧日本」

第六章 「磐井の乱」と「大和王権の九州遷都(副都)」

第七章 上宮王と倭国多利思北孤と大和王権推古

第八章 上宮王家の大和合体と倭国白村江の戦

第九章 天智の「日本」と天武の「大倭」

第十章 倭国の終焉と日本建国 

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地図・年表 参考文献 リンク 解 説 ____

 

 

 

 

  

第一章 半島倭人の「倭国統一」、列島へ移動で「倭国大乱」

 

  最近の更新 2014.8  (呉の倭人移動説 加筆)

 

 

1101 「論衡」(ろんこう) 王充(おうじゅう 25年〜1世紀末) 編。自然観、人文、歴史、政治思想などが論じられている。

 

1102 「倭」 漢書地理誌(後出)に「倭」に対する注(魏代の如淳による)として「如墨委面」とある。

 

1103 「倭人」  鳥越憲三郎「倭人・倭国伝全釈」 中央公論社 2004年 4P参照

 

1104 「旧唐書」  唐(618年〜907年)の290年間の史書。北宋 欧陽脩・宋祁編(945年) 倭国伝に並んで、「日本国伝」が初出する。官撰書 後晋の宰相となった劉陶の撰修とされている。

 

1105「倭の解釈」  倭(わ、ゐ)=したがう、ちいさい、みにくい、醜面。これを「匈奴」などと同様、蔑んで卑字を当てたとする解釈がある。

 

1106  「史記」 前漢武帝の時代(前91年頃)に司馬遷によって編纂された歴史書。

 

1107  「三国志」西暦280年〜290年頃  陳寿により編纂され、後漢から西晋による三国統一までの三国時代の史書。「魏国志(魏志)」「蜀国志」「呉国志」から成る。

 

1108  「説文解字(せつもんかいじ)」西暦100年 後漢の許慎(きょしん)の作。最古の部首別漢字字典。略して説文ともいう。

 

1109  「漢書」 前漢(前202年‐8年)の史書。後漢時代に班固(32年‐93年)が撰録。「地理志」に倭のことが1行だけ記録されている。極東倭人の初出記事として、注釈なしに倭人と言っている。

 

1110  「楽浪郡」 現北朝鮮ピョンヤン付近の中国領、前108年設置。

 

1111  「後漢書」(ごかんじょ) 後漢(25-220年)の約200年間、5世紀南朝宋の范曄(はんよう)の編。倭国については魏志倭人伝を基にしている。

 

1112  「漢委奴国王」の印  「漢の倭の奴国」ではなく「印」の慣習から「漢の委奴国」だ、との説に従った。「倭」の字ではなく、「委」の字を使っている。卑字を避けた中国側の配慮という解釈もある。「委」の字が再出する唯一の日本の文献は、正倉院御物で聖徳太子筆と言われる「法華義疏(ほっけぎそ)」写本の中にある「此是大委国上宮王私集非海彼本(これは大委国上宮王の私集(写本?)であって、海外本ではない)」という書き込みである。大委国上宮王とは多利思北孤とする古田説があるが別人である。

  

1113  『三国史記』(さんごくしき)は、朝鮮半島に現存する最古の歴史書で1145年完成、全50巻。高麗王の命により金富軾らが編纂。三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。 南韓百済寄りの修飾をしているので、第三者的客観性では日本書紀の方が勝るとする史家もいる。百済三書(日本書紀に引用がある百済記・百済新撰・百済本記)が失われたので、それらを基にしたと思われる三国史記が朝鮮の史書の標準とされている。

 

1114  「倭国王」 後漢書では「倭国王」だが、『翰苑』に引用されている後漢書には「倭面上国王」とあり、諸本により「倭面土国」「倭面土地王」「倭面国」などがあるなど議論が残っている(「倭人伝の用語の研究」 三木太郎 多賀出版 1984年)。ただ、西嶋等は「当初から倭国王であった」と結論している(「倭国の出現」西嶋定生)。次に中国史書に出てくる「倭国王」は宋書の「倭国王珍」である。

 

1115  「魏志倭人伝」 中国の正史『三国志』中の「魏書」の東夷伝倭人条の略称 280-290年頃陳寿の編、史実に近い年代に書かれた。

 

1116   「統一年代」 後漢桓帝(147年〜167年)・霊帝(168年〜189年)の「桓帝の例えば中ごろ157年から大乱が開始した」とすると、その前、7080年間が男王の統一時期だから、統一年代は、「157年の7080年前、即ち77年〜87年」だ。倭国王帥升(107年遣使)は数代後の倭国王だ。

 

1117 「日本書紀」   続日本紀720年条に「一本舎人親王(天武天皇第3皇子)勅を奉り日本紀を修す」とあり、正式名称は「日本紀」。詳細は「参考文献」の項参照。

 

1118 「倭人のルーツと渤海沿岸」 佃収 星雲社 1997年】。

 

1119 「契丹古伝」 浜名寛祐 1926年 奉天ラマ教寺秘蔵の古書を写書研究した書「日韓正宗遡源」のこと。内容の信憑性には疑義も持たれている。 10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の史書。文中に「耶摩駘記(773年に来日した渤海国使の報告書らしい)に曰く、、、上古を探り先代を観、、、一に秋洲と曰ふ、読むで阿其氏末(あきしま)と做す」とあり古事記序文にある「探上古、、、明覩先代」と一致する部分があり、古事記・日本書紀を入手していた可能性がある。

 

1120 「山海経(せんがいきょう)」 中国古代の地理書。戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に執筆加筆されて成立した最古の地誌とされる。

 

1121 「水経注」 北魏代の地理書、515年頃の成立

 

 

 

第二章  「倭国女王卑弥呼」と「邪馬台国女王」は別の国、別の女王

 

 2012.1 一部加筆   2010.7 改編  2007公開)

 

1201「里」 帯方郡から九州北岸まで海上1万里は、現在の地図上で約800km、従って1里=約80m。この里制度は「短里=80m/里」と呼ばれ、古代中国の一部・極東で使われ遺存したが、後世の「長里=430m/里」の標準化と共に忘れられた、という。

 

1202「狗奴国」 九州王朝説の多くは狗奴国を筑後とするが、魏志倭人伝は筑後も女王国の一部としている。

 

1203 「邪馬台国」 現存する最古魏志版本に「邪馬壹国」とあり、これが正しいとする説と詳しい分析から「邪馬臺国」が正しいとする説が争われたが、後者が正しいとするのが定説となってきた。ここ及び以下では「邪馬臺国」の慣用略記である「邪馬台国」と記す。

 

1204「邪馬台国は二ヶ所あった」大和岩雄 大和書房 2000

 

1205「女王卑弥呼の『都する所』」上野武 NHK出版 2004年 この説の基となる説として、喜田貞吉(1917年)、橋本増吉(1932年)らの説「里程情報と日程情報は原典が異なる。これらが混同されている」や、久米雅雄の「九州女王国卑弥呼と畿内邪馬台国(卑弥呼の弟が佐治する)が並立していた」とした説がある。

 

1206「魏略」 魚豢(ぎょかん)編纂の「魏」を中心に書かれた歴史書。成立は魏末から晋初の時期(270年頃) 

 

1207「 翰苑(かんえん)」 唐代660年頃 張楚金による類書(文例集)。写本の一部が大宰府天満宮にのみあり、中国を含め他に無い。

 

1208「隣接国」 魏略逸文に出てくる隣接国は「東、千里復国有り(漢書注)」「南の狗奴国(翰苑)」「侏儒国(法苑珠林 ほうおうじゅりん 唐代の仏教百科辞典で、一行の魏略引用がある。 ただし女王国の南4千里の遠方としている )」である。いずれも「隣接国」扱いだ。「邪馬台国も隣接国か?」との疑問に対して「海(国境)を渡り投馬国を経て5千里以上あり、隣接国とはいえない」として魏略は邪馬台国を倭国伝から除外した、と解釈できる。残念ながら残された逸文だけで判断せざるを得ない。

 

1209 「那珂通世」(なかみちよ)1851- 1908年 明治時代の歴史学者。東洋史の概念を初めて生んだとされる。「支那通史」や日本の紀年問題を研究した「上世年紀考」などを著す。

 

1210 随行使  似た事例は「今使訳通ずる所三十国」(魏志倭人伝)だろう。三十国が別々に遣使したとは考えられない。随行使、連名の遣使や献上物と信書の預託などが多かった、と考えられる。 

578章で述べるが、倭国は後年も中国遣使に雄略朝・推古朝・孝徳朝の随行使の同行を許したようだ。晋書はその嚆矢となる記事と解釈できる。この寛容な外交指導力が倭国の長年の宗主国継続の原動力だろう、と考える。

 

1211 「隋書」 636年 魏徴によって本紀5巻、列伝50巻が完成。656年長孫無忌によって志30巻が完成

 

 

 

 

第三章 纒向・神武・崇神・仲哀 それぞれの倭国との関係

 

1301 「王権誕生」 寺沢薫 2000年 講談社 p332「大和の古墳の多くは各地の首長の墓である。王達の奥津城(墓)は本拠地(地方)に造られるという常識は、こと初期の王権中枢に関しては考え直さなければならない」と述べている。定説の「大和(天皇)の諸豪族支配」はまだ無かった。

 

1302 大和の諸王権 「神武・崇神と初期やまと王権」 佃収 星雲社 1999

 

1303  記崩年  古事記の天皇崩年は記されていないものと、干支で記されたものが下記のようにある(西暦で表記)。記されたものは海外史書との整合性が高く、信頼できるとされている。

1      神武天皇        

2          綏靖天皇        

3          安寧天皇        

4          懿徳天皇        

5          孝昭天皇        

6          孝安天皇        

7          孝霊天皇        

8          孝元天皇        

9          開化天皇        

10        崇神天皇         318(記崩年、以下同じ)

11        垂仁天皇        

12        景行天皇        

13        成務天皇         355

14        仲哀天皇         362

15        応神天皇         394

16        仁徳天皇         427

17        履中天皇         432

18        反正天皇         437

19        允恭天皇         454

20        安康天皇        

21        雄略天皇         489

22        清寧天皇        

23        顕宗天皇        

24        仁賢天皇        

25        武烈天皇        

26        継体天皇         527

27        安閑天皇         535

28        宣化天皇        

29        欽明天皇        

30        敏達天皇         584

31        用明天皇         587

32        崇峻天皇         592

33        推古天皇         628

 

 

 

1304  神武と崇神の在位  まず、神武紀に「東征開始は48歳、崩年年齢は127歳」とあるのを「@二倍年暦説」で24歳、64歳と修正する。東征の開始を「台与の共立で再度平和となり、神武一族の領土獲得の機会が遠ざかった頃(260年頃)」とする(私見)。東征の期間が「紀では6年、記では16年強」とあるのを中を採って10年とする。その結果、東征の完了と即位が34歳、崩年64歳と合わせて在位は34歳−64歳、270-300年となる。 崇神天皇は、崇神紀の即位年齢60歳、崩年年齢120歳を「@二倍年暦説」で30歳、60歳と修正し、「A 紀崩年より信頼性高いとされる記崩年を採用する」。崇神の記崩年は318年で、在位は288-318年となる。

両天皇の即位元年干支を採って近い年代と組み合わせると、神武辛酉(241271年)、崇神申甲(264-294年)となるが、崇神の記崩年が合わない。記崩年を優先し、神武の辛酉も辛酉革命論の影響があるとみて、両者とも干支を採用しない、とすると上述のようになる。いい加減な根拠と思われようが、今のところこれ以外の根拠は無い。

 

1305  垂仁崩年・景行崩年  垂仁天皇の記崩年は残っていないので、一世代23年として前後世代の記崩年から331年頃と計算した。景行天皇の崩年も次代成務天皇の記崩年355年の23年前とすると332年頃と推定される。これら推定は共に、実子継承か同族継承で誤差が生ずるが、同世代である確率は高い。

 

1306 「やまと」  「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993年 参照

 

    

 

第四章 仲哀皇子/応神、仲哀皇子/仁徳を同一人視

 

1401    「三国史記」 朝鮮に残る歴史書には、12世紀にできた「三国史記」と13世紀にできた「三国遺事」、更に「三国史記」の基になった「旧三国史」の逸文がある。これより古い史書は遺されていないが、百済の武寧王陵が発掘され、そこから出土した墓誌とこれら史書の内容が一致したことから、これらの史書の正しさが見直された。

 

1402    「広開土王碑」(こうかいどおうひ) 高句麗の第十九代の国王・広開土王の功績を編年体に叙述した石碑で、広開土王の息子の長寿王(ちょうじゅおう)が、414年に建てたもの。この親子二代が高句麗を極盛期に導いた。

 

1403    貴国について  「四世紀の北部九州と近畿」 佃収 星雲社 2000

 

1404    日葉酢媛陵古墳  「四世紀の北部九州と近畿」 佃収 星雲社 2000

 

1405    「応神天皇の生年」  応神天皇の記崩年394年、その時の記崩年年齢百三十歳を「2倍年暦」で修正すると、65歳である。従って、生年は329年となる。紀が生年とする362年には33歳である。

 

1406    「神功皇后の崩年年齢」 神功皇后の崩年二六九年を「干支2巡修正」で修正すると389年だ。この時の紀崩年年齢百歳を「2倍年暦修正」で50歳崩御とする。その年の応神天皇の年齢は前注から5060歳だ。

 

1407    新羅支配  三国史記418年に「人質未斯欣が倭国から逃亡」とあり、逃亡はあったが外交状況が変わっていない。また、宋書438年条に「倭王珍が倭・百濟・新羅など六国諸軍事の称号を求めた」、同じく宋書451年条の「倭国王済が倭、新羅など六國諸軍事に叙せられた」とあるから、中国は倭国に新羅の支配を認めている。

 

1408 古代の韓と日本 坂田隆 新泉社 1996

 

1409 百済三書(百済記・百済新撰・百済本記)は日本書紀に引用されている以外は写本も含め現存しない。三国史記は12世紀に二系統の史書を統合して編纂されている。建国譚・王名・即位年は百済三書に依拠、これに中国朝貢記事だけ中国史書に依拠したと思われる。これが現存する唯一の百済史書なので、中国史書との不一致は不問に付されている。「建国譚の違いは古い伝承によくある話」、「王名は中国風の別名だ」などと。

 

 

第五章 日本書紀の証言「倭国≠日本」と「倭国≧日本」

 

1501   「 宋書」 503年沈約によって完成。宋は479年までだから、同時代的史書。

 

1502   「倭讃」  倭の五王の初出。倭は姓、讃は名と言われる。冊封体制を意味する「貢」の文字があるのに、見返りの叙位は未だ無い。「百済王」がすでに「鎮東大将軍」に任じられた時代(武帝紀)であるから、出遅れの感が強い。

 

1503    「百済新撰」 日本書紀に引用されるのみで、原本・写本・他の引用などは無いという。

 

1504 「大倭」「天王」「日本」「天皇」について  「日本書紀の謎を解く」森博達 中公新書 1999年 (162頁)で森は「雄略紀五年条(前掲)で『我が(之)孕める婦』の『之』は正格漢語の誤用で、編者(中国人続守言としている)

であったら訂正したであろうが、引用扱いとしてあえて改変していない。」として、日本書紀編者の改変が加えられていない「準引用文」の例としている。本文の例は朝鮮の王等の言葉の引用であるから、「大倭」「天王」は蓋鹵王の発言のまま、と考えられる。

 

1505  漢語の「やまと」   漢語に出てくる「邪馬台国」(魏志倭人伝)と「邪靡堆」(隋書)はいずれも「国都名」であって国名ではない。すなわち「邪馬台国に至る、(倭(国)の)女王の都する所」(魏志倭人伝)「俀(たい)国は、、、邪靡堆に都す」(隋書)とある。「倭(やまと)」は海外に通じない訓読であって、訓読の普及した推古時代以降と考えられている。まして、その由来は和語「やまと」に表意文字「倭」を当てた当て字である。訓読より更に時代が下がり、天武期と考える(第十章)。

 

1506  「天王」     雄略紀五年条のここの「天皇」について、卜部本は「天皇」とするが、それより古い前田本・宮内庁本は「天王」とし、特に前田本では「皇」と書いた上から「王」と訂正しているなどから、「天王」が原型とされる。上掲の引用文「日本書紀原文朝日新聞社版」では「天皇」となっているが、「天王=天皇」が定説となった後の版と考えられるので、ここでは「天王」を採用した。「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993年参照

 

1507       「こにきし」    「こんきし」とも言う。「こにき」とする史家もいる。 「王」を「きし」、「国王」を「こにきし」と振り仮名するともいうが、「軍君」に「こにきし」と振り仮名する理由にはならない。「二文同一」から来る混乱、と考えられる。  「釈日本紀」 は鎌倉末期(13世紀末)成立の「日本書紀」の注釈書。著者卜部兼方

 

1508      「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993

 

1509 「最終編者」 「日本書紀の謎を解く」森博達 中公新書 1999

森によれば、雄略紀巻14、武烈紀巻15から〜巻21までは持統五年(691年)頃、倭化漢語の原稿を中国人続守言が正格漢語(唐代北方音)で書き直したという。その際、引用は原稿通り、地文は倭化漢語を修正し、編者が疑問とする所を注釈したという。この場合、最終編者は原稿の隠れた意図「二文同一」までは関らず、文章の推敲に留まったと考えられる。「今案ずるに、、、」はその際生じた疑問であろう。別の解釈として「編者は二文同一を企図した天皇の指示に従ったが、武烈紀に正しい解釈のヒントを残した」も有り得る。

 

1510            「順帝紀」   宋書の倭国に関する記述は「夷蛮伝」のほかに「帝紀(文帝紀・孝武帝紀・順帝紀)」にあるが、ここでは論旨に関係する「順帝紀」のみ示した。他は数件で、ほとんど夷蛮伝と重複。

 

1511          「倭人伝の用語の研究」三木太郎 多賀書房 1984年  三木は「沈約『宋書』帝紀に、倭国・倭国王・倭王の記事が散見するが、倭国王・倭王の表記に区別は認められない。倭国王.倭王の無差別な用法は、同倭国伝でも同じである。一例をあげると、倭国伝に世祖大明六年の詔が記緑されているが、それには『詔曰、倭王世子興、奕世載忠、作藩外海』と、興を倭王の世子と記しているが、孝武帝紀大明六年三月壬寅の記事では、『以倭国王世子興、為安東将軍』の様に、倭国王の世子と記している。こうした例はほかにも散見する。姚思廉『梁書』では、宋書が倭国王としている個所を、倭王と記している、などである。」としている。ただ、この例は死んだ倭国王をどう呼ぶか、という例外的文例だが。

 

1512         「梁書武帝紀」  502年条に、「鎭東大將軍百濟王餘大を征東大將軍に進める。鎭東大將軍倭国王武を征東將軍に進める。(注に、「倭国王武を南史は征東大將軍と作る」)」とある。百済王の前称号と倭王武の前称号が重複していて変だ。注記も、南史には確かに「502年、、、武を征東大將軍に進める」とあり、百済王の新称号と重複する。要は、梁書帝紀のこの部分は、混乱だらけで信用できない。新王朝梁が発足に当たって宋の称号の追認をしたのだろうが、宋書帝紀の「倭国王武(自称)」を採用したのだろう。

 

1513          「雄略天皇」  大王と称し(熊本江田船山古墳鉄剣銘・埼玉稲荷山古墳鉄剣銘)、暦を新たにし(中国元嘉歴)、万葉集の冒頭歌を恋歌で飾り、半島に派兵(日本書紀)を行う隆々たる英雄であった。

 

1514  呉=百済  古代の韓と日本 坂田隆 新泉社 1996

 

 

第六章 「磐井の乱」と「大和王権の九州遷都」

 

1601   「国造(くに の みやつこ)」 全国に痕跡が見られる古代の制度。 律令制が導入される以前の大和王権の職種と言われるが、大和以前に出雲に国造制度があったとされ(出雲風土記)、よくわかっていない。次章で述べる様に、倭国には大和に先立って年号・冠位制度・評制度(郡県制)があり、倭諸国が採用した。倭諸国を統括する支配組織だけがなかったとは考え難い。国造も倭国の制度の可能性もあると言われる。隋書俀(イ妥)国伝に「軍尼一百二十人あり。なお、中国の牧宰(地方長官)のごとし」とある。「軍尼はクニ=国で、国造のことだろう。『中国正史日本伝(1)』石原道博著:岩波文庫」とある、という。ただし、中央からの派遣長官ではなく、地方豪族への叙位に近いのではないか。世襲が普通とも言う。

 

1602 「官軍」   筑後国風土記 逸文(釈日本紀)に「、、、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、、、俄かにして官軍動発おこりて襲わんとするの間に、勢の勝つまじきを知りて、、、終はてぬ」とある

 

1603 「竹斯」  隋書俀(イ妥)国伝に 「大業4年(608年)、文林郎裴清を遣わして俀(イ妥)国に使いす、、、竹斯(ちくし)国に至り、又東して秦王国に至る、、、又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆俀(イ妥)国に附庸す」

 

1605  九州年号とは別の年号   九州年号の「殷到(531-535)・僧聴(536-540)・明要(541-551)」とは別の「定和(531537)・常色(538-543)教知(544-548))で、一書「和漢年契」のみにある。この時期、倭国の九州年号以外に年号を立てられるのは「治天下」(532年〜538年〜)を唱えた大和王権しかない。ただし、大和天皇の即位年と連動していない。さりとて、麁鹿火の没年(356年)とも連動していない。

 

1606  巨勢男人    正しくは「雀部男人大臣」だと子孫が主張している。

続日本紀751年「雀部(ささきべ)朝臣真人等言う、磐余玉穂宮(継体天皇)・勾金椅宮(安閑天皇)御宇大皇の御世、雀部朝臣男人は大臣となり、供え奉(たてまつ)る、而るに誤りて巨勢男人臣と記す、、、望み請う、巨勢大臣を改めて雀部大臣と為し、名を長き代に流(つた)え、栄えを後胤に示すことを、という、大納言従二位巨勢朝臣、、、その事を証明す」 

また、継体紀529年に「巨勢男人大臣薨ず」とあり、安閑天皇(534-)に仕えた雀部男人は別人であろう。雀部は肥前の豪族と見られる。

 

1607  豊国難波   「豊前王朝」 大芝英雄 2004年 同時代社  大芝は「筑紫難波も摂津難波も誤認であって、すべて豊前東海域の豊前難波」としている。参考になるが無理が多い。「豊国難波」から「豊前難波」への更なる絞り込みは、妥当な推測ではあるが推測の域を出ない。筆者は本文の論拠から「豊国難波の存在の可能性が高いとするのが限度であろう」と考える。筑前の難波の地名を神功皇后が摂津に移植し、応神天皇が豊国に移植したと考えるが、筑前の難波の紀初出が欽明紀と遅いので、筑紫難波が元かどうかは断定できない。

 

1608 「任那」 「謎の五世紀」共著 学生社 1991年 四章 任那と日本 坂元義種 を参考にした。

 

 

 

 

第七章 俀(イ妥)国多利思北孤と上宮王と大和推古天皇

 

 1701  各天皇の大臣一覧 を参考に示す。下線部は倭国大臣

武烈紀 平群真鳥大臣 物部麁鹿火大連 大伴金村連 大伴室屋大連

継体紀 大伴金村大連 物部麁鹿火大連 許勢男人大臣

安閑紀 大伴金村大連 物部麁鹿火大連 (物部尾輿大連が挿話のみに登場)

宣化紀 大伴金村大連 物部麁鹿火大連 (→ 没) 蘇我稲目大臣

欽明紀 大伴金村大連 (→ 失脚) 物部尾輿大連 蘇我稲目大臣 

敏達紀 物部守屋大連 蘇我馬子大臣

用明紀 物部守屋大連 蘇我馬子大臣

崇峻紀 物部守屋大連 (→ 討伐される) 蘇我馬子大臣(後半は倭国を離脱)

推古紀 聖徳太子   蘇我馬子大臣

舒明紀 蘇我蝦夷大臣 

物部尾輿は欽明紀から大連に任命される。それ以前、任命されていないのに安閑紀に尾輿が大連として登場する(初出)。尾輿は倭国大連だった、と解釈される。このことは、欽明紀の「物部尾輿は大連」の記事も「倭国朝廷の大連」を意味している可能性を示唆している。

 

1702 「釈迦三尊像光背銘」  「古代は輝いていたV」古田武彦 1985年 朝日新聞社 に拠った。

 

1703 「法皇」 秦始皇帝はそれまでの最高位である三皇(天皇・地皇・人皇)の上位として皇帝を自称した。法皇は三皇と同等と考えられが、大后・王后などの呼称から、天子を自称したとも解釈できる。法興年号が続いているから上宮王が譲位したのでなく、上宮法皇となって皇位を継続したものだろう。

 

1704 上宮王家について  「物部氏と蘇我氏と上宮王家」 佃収 星雲社 2004

 

1705    「大委」 「法隆寺論争」家永三郎・古田武彦 新泉社 1993年 「大倭」は古来九州倭の別称として雄略紀5年条(461年)、斉明7年条(661年)に記載あり。いずれも引用中にあり、日本書紀撰者の恣意的な用字ではないと思われる。それに対し、倭の字の代わりに「委」の字を使う「大委」は唯一、正倉院御物の聖徳太子筆と言われる法華義疏にある書き込み「此是大委国上宮王私集非海彼本」に見られる。この法華義疏の内容は南朝系仏教であり、従って写本の筆者は北朝系仏教に帰依する聖徳太子ではなく、南朝系仏教を奉ずる多利思北孤だとする解釈がある。

 

1706  「王族か否か」 物部守屋討伐譚に厩戸皇子(上宮王の皇子、のちの上宮聖徳太子)・竹田皇子(推古天皇の子)が参加していることは史実とみる。その理由は、各天皇紀冒頭の系脈は万世一系の編集に影響されているから史実としては採用できない。しかし、物語部分は誤読誘導はあってもあからさまな虚偽捏造は慎重に避けている、というのが筆者の理解だ。

 

1707  「大唐」 ここで、「隋」が「大唐」となっているのは「唐の始祖高祖は隋帝から禅譲を受けた」とする建前から唐の「隋は唐の前史」の立場を尊重したからであろう(紀の編纂は唐時代)。

 

1708  「別の事績」 多利思北孤の遣隋使と推古の遣隋使は別の事績、とする解釈。そのひとつに古田武彦の「12年ずれ説」がある。「日本書紀のこの記述には12年の錯誤があり、607年小野妹子の遣隋使は実は618年に隋が唐に代わった後の619年遣唐使だ。それが推古紀の『大唐』の表現となっている。」とする。妥当と思われる論点がある一方、12年ずれて「唐の遣大和使」だとすると遣使の理由や中国史書に現れない理由が不明など、無理もある。後述するように、唐初期に倭国は再び唐と対立し朝貢を止めていたから「大和朝貢」があったら中国史書に載らない理由が無い。ところが、その時期も唐史には倭国しか出てこない。「古代は輝いていた」古田武彦 朝日新聞社 1985 

 

1709 秦王國 秦の末裔を自称する渡来人(実際は漢人系新羅人が多い)の居住地。地名・伝承の豊富な豊前(香春岳付近)が比定されている。倭国役人と共に小野妹子らが裴清を漢人密度の高い豊前地域に案内して、大和王権推古天皇と豊前秦氏(漢人系と信じられていた)の緊密な関係を強調した可能性はあるだろう。豊前は肥前大和王権天皇達の故地であり、当時も支族や領地が残存していたことが考えられる。列島横断の10余国の中に秦王國が特記されているのは、そうした案内が奏功したからだろう。豊前秦氏・製錬技術・新羅仏像・蘇我馬子・肥前大和王権推古・上宮王家・聖徳太子・秦河勝などの連想が浮かぶ。

 

第八章 上宮王家の大和合体と倭国白村江の戦

 

1801 上宮王二代目  「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004

 

1802   譲位から遷都  諸説ある。

(1) 従来の定説は「大和朝廷の飛鳥板蓋宮で乙巳の変があり、皇極が譲位して孝徳が継ぎ、難波に遷都した」とする。

(2) 佃収は「肥前飛鳥板蓋宮で上宮王家の乙巳の変があり、近くの肥前にいた蘇我系豊王権の孝徳は上宮王家中大兄の襲撃を恐れて大和難波に遷都した」とする。

(3) 筆者はかって「肥前飛鳥板蓋宮で上宮王家の乙巳の変があり、大和小墾田宮に都していた大和王権の孝徳天皇は蘇我宗家の滅亡に乗じて難波蘇我宗家領を奪って遷都した」と解釈した。現在は本文のように解釈している。

 

1803  倭京  九州年号に倭京(わきょう、漢語年号、618622)があるが、ここは「わきょう」ではなく「やまとのみやこ(和語)」であろう。その根拠はつづく文章に「倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかかわべのかりみや、和語)」とある

 

 

1804 「大倭」「天王」「日本」「天皇」について  「日本書紀の謎を解く」森博達 中公新書 1999年 (162頁)で森は「雄略紀五年条(前掲)で『我が(之)孕める婦』の『之』は正格漢語の誤用で、編者(中国人続守言としている)の文章であったら訂正したであろうが、引用扱いとしてあえて改変していない。」として、日本書紀編者の改変が加えられていない「準引用文」の例としている。雄略紀五年条には「大倭」「天王」があるが、蓋鹵王の発言であるから、朝鮮王の言葉の引用として改変ない例と考えられる。

 

1805 「額田王(ぬかたのおおきみ)」と考えられている人物は3人いる。その一人が本文のように「額田王(万葉集)=斉明天皇」である。もう一人は斉明崩御後の万葉集の「額田王」だ。こちらは「天智天皇の后、倭姫王」の万葉集での別名で、天智への恋歌を歌い(巻四、四八八番)、天武から「人妻ゆゑに」と歌われ(巻一、二〇番)、天智のもがりの歌を締めくくり(巻二、一五五番)、「類聚歌林」が「御覧・御歌」と尊称する。古人大兄皇子の娘である(日本書紀)。おそらく斉明の別名「額田王」を継承したのであろう。三人目は天武天皇妃「額田姫王」で、鏡王の娘である(日本書紀)。通説は「額田姫王=額田王」として天武・天智との三角関係を取り沙汰する。しかし、「額田姫王=額田王」の根拠は日本書紀にも万葉集にもなく、また父が違う別人である。天武の妃が天智の后になったのではない。(「人麻呂は誰か」坂田隆 1997 新泉社)

 

1806 「『白村江』以後」 森 公章 講談社選書メチエ 146P など。

 

 

第九章 天智の「日本」と天武の「大倭」

 

 

 

第十章 倭国の終焉と日本建国 

1901「大極殿」 実は日本書紀の初出ではない。皇極紀645年条に乙巳の変(上宮王家)の舞台として一回だけ出てくる。上宮王は天子を自称していたから宮殿を「大極殿」と呼んでいたと思われる。大和王権孝徳天皇の難波宮にも「大極殿」があったらしい(長岡京へ移築)。これら王権は中国との公式外交権がない地方政権だから天子の象徴「大極殿」と名づけても中国ともめる事が無かった、それでも次第にその呼称を止めたようだ(朝貢外交を模索)。

「大極殿」は九州大宰府に遺存する(第7章で述べた)。倭国王の天子自称の名残りだ。倭国の場合は外交関係があるから中国と対立した。その結果が白村江の敗戦となった。大宰府は敗戦後に倭国の本拠地(筑前鞍手郡、遠賀川中流か)から現在地に移された可能性もある(考古学調査などから)。敗戦後も唐との対決姿勢を変えなかったようだ。その結果が唐軍の駐留と倭国の傀儡化となり、これら名称は廃止されたに違いない。唐軍撤退後、天武が「藤原京(首都)・大宰府(副都)」の両方に「大極殿」の名称を復活させたのだろう。天武は唐との対立覚悟でそれを復活したのだ。

 

1902 倭(やまと) 古事記では時代に関係なく、一括して「やまと」に「倭」を当て字している一方、歌は当て字していない。このように、あるルールに従って一括して替えていることは編纂時の新方針があった、天武の政治的意図があったことを示唆している。

 

1903 倭国王権の継続性  中国史書は隋書・旧唐書・新唐書共に倭国の倭奴国以来の倭国継続を認めている。倭国王家中枢の王族(上宮王・多利思北孤)は「漢委奴國王印」の「委」の用字にこだわっている(第8章)。また、アマテラス以来と思われる和風姓「アマ(アメ)」を名乗る王統(隋書)が継続している。

 

1904  「新たな秩序の約束事」 スサノヲの国譲りを神話に押し込むことで、この秩序は神々の約束事、人代が変えることができない秩序とされた。万世一系もそのようにしたかったのだろう。 神と人との約束事・先祖のした約束の拘束力・臣従の暗黙の契約などに類似の観念がある。キリスト教では「新約聖書」をNew Testament (新しい契約書)と呼び、神と人との「契約」とする考えがある。これは歴史書ではない。

 

1905   「大倭」  701年に大和地区を「倭(やまと)」から「大倭(やまと)」に当て字変更した。これより前の天武紀4年(675年)に飛鳥地区を「大倭(やまと)国」と呼ぶ例が出てくるが、これは日本書紀の編纂時の遡及改変だろうとされる。「大倭(やまと)」は後に「大和(やまと)」に変更された。「日本の国号」坂田隆 青弓社 1993

 

1906  「続日本紀」 797年完成の勅撰 撰者菅野真道

 

1907 「新唐書」 唐年代の別の正史 1060年 北宋の欧陽脩らの勅撰

 

1908 法隆寺 「建築から古代を解く」 米田良三 新泉社 1993

 

1909 「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004

 

1910 尺度A=27.1p 尺度B=27.0cm 尺度C=26.85p AとBの違いはわずかだが、建築学上別系統と言えるという。 平井進『法隆寺の建築尺度』「古代文化を考える」40

 

倭国通史 了

   

 

 

 

 

 

 

 

次著「高天原と日本の源流」高橋 通 原書房 2020

 [] 引用抜粋   21012811

 

       

第一章 古事記の証言「イザナギの高天原はここだ」

 

 

411 第一章 1注】

 

2101  魏志倭人伝  中国の正史『三国志』中の「魏書」の東夷伝倭人条の略称 280-290年頃陳寿の編、史実に近い年代に書かれた。「魏略」を原典としている、とされる。「魏略」 は魏末〜晋初(270年頃)に編纂された同時代的な史書だが、散逸して完全本は写本も残っていない。

 

2102  原文 古事記島生み神話第三段原文       

 「然る後、還り坐す時、

(1)吉備児島(きびのこじま)を生みき、亦の名を建日方別(たけひかたわけ)と謂う、

(2)次に小豆嶋(あずきじま)を生む、亦の名を大野手比賣(おほのでひめ)と謂う、

(3)次に大嶋(おほじま)を生む、亦の名を謂大多麻流別(おおたまるわけ)と謂う、

(4)次に女嶋(ひめしま)を生む、亦の名を天一根(あめひとつね)と謂う、

(5)次に知訶嶋(ちかのしま)を生む、亦の名を天之忍男(あまのおしを)と謂う、

(6)次に兩兒嶋(ふたごのしま)を生む、亦の名を天兩屋(あめのふたや)と謂う」

 

2103  「六島」の通説比定地はバラバラに以下とされてきた。

(1) 吉備児島=岡山県(吉備)南部の児島半島

(2) 小豆島(あずきじま)=香川県の小豆島(しょうどしま)

(3) 大島(おほしま)=山口県周防大島町

(4) 女島(ひめしま)=大分県姫島(ひめしま)

(5) 知訶島(ちかのしま)=五島列島宇久島

(6) 両児島(ふたごのしま)=五島列島小値賀島

 

2104  「六島は関門海峡北西」比定説  三つを挙げる。 

@「山口県風土誌」全13巻 明治37年、「蓋井島」の項に「古事記六島の両児島・天両屋(別名)は蓋井島」とある。根拠は先行考証(本居宣長考証・「長門国志」など)を挙げているが、視点が神功皇后に偏り本論にとって充分でない。

A西井健一郎説 「私考・彦島物語 III」古田史学会報No71号(2005)〜」。説の中心は「イザナギ〜神武までの活躍の中心地は下関市彦島である」とするもので、その他広範囲の考察を上記会報に多数回発表している。「筑紫の日向の小戸」の解釈に「彦島/小戸も筑紫の一部」とするのは卓見だが、「彦島=日向」とするのは無理がある。「彦島は日向の一部」が限度であろう(次章参照)。

B 前原浩二説  「http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-1/1-1-4.pdf」に記されている。前原浩二説は西井健一郎説を発展させて、「島生み第二段大八島、第三段六島の比定を具体的に提案している。第二段の「淡路島」「伊予二名嶋」及び「第三段の六島」の比定は参考になった。しかし、全体としては根拠・論証の無い仮説の積み上げが多く、説得力は必ずしも充分でない。

 

2105  蓋井島  前注 「山口県風土誌」全13巻 明治37年、9巻「蓋井島」の項に「古事記の両児島・天両屋(別名)は蓋井島」)とある。

 

2106  応神の難波大隅宮    河内に応神陵があるから応神が河内で崩御(記崩年394年)と考えられ易いが、応神陵は仁徳東征(405年以降、九州から河内へ、仁徳紀)後の築造(改葬)と考えられる。「難波」には摂津難波説(通説)・博多難波津(九州王朝説)・豊国説があるが、応神紀の難波は大隅宮のある難波であるから、次の資料と同じ難波であろう。「大連に勅して云う、難波の大隅嶋と媛嶋の松原に牛を放ち、名を後に残す」安閑紀二年(535年)。この「媛嶋」は豊国姫島(大分市)であると言われ、比売語曽社で有名である。比売碁曽社は姫島の前は難波にあった、とされる。垂仁紀に「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、、、海を越えて日本国にいたる、探し求めた童女(おとめ)は難波に至り比売語曽(ひめごそ)社の神となった、また豊国の国前郡に入って比売語曽社の神となった」とある。応神ゆかりの難波大隅宮は豊国媛嶋と関係深い。

更に応神五世孫とされる継体の継嗣安閑天皇は豊国に多くの屯倉(筑紫君磐井遺領)を得て、豊国勾金橋(まがりのかなはし)に遷都した(安閑紀534年)。その屯倉の一つ難波屯倉を妃宅媛(やかひめ)に与えたという(同)。与えたのは宮の近くの自領であろうから難波屯倉は豊国(豊前)と推定される。応神の難波は企救半島周防灘側と考えられる  。詳細は前著第六章参照。

 

2107  仁徳の難波高津宮   九州を出ていない応神天皇が難波大隅宮で崩じ、その直後の仁徳即位元年条の難波高津宮は摂津難波でなく、豊国難波である。仁徳記の歌に「なにはのさきよ、いでたちて、わがくにみれば」とある。難波の岬が自領を国見するに適していることは、企救半島の東西に自領があったからであろう。西側に吉備の国や諸島があり、東側(周防灘側)に難波の宮があった、とするのが妥当な解釈であろう。 仁徳は祖先の伝承「島生み神話」も「神武東征の吉備と難波」も知った上で関門海峡を幸行しているはずだ。「淡道嶋」「なにはのさき」「あはしま」「おのごろしま」「吉備」が近くに視認できることに納得し、満足している(仁徳記の歌、上掲)。

 

2108 伊予二名島  古事記島生み譚第二段では、まず「淡路之穂之狭別島」次に「伊予之二名島、この島は身一つにして面(おも)四つあり、面ごとに名あり、かれ、伊予の国を愛比売(えひめ)と謂ひ、讃岐の国を飯依比古(いいよりひこ)と謂ひ、粟国を大宜都比売(おおげつひめ)と謂ひ、土左国を建依別(たけよりわけ)と謂ふ。」とある。日本書紀ではこれら四つの国の事は触れられていない。

 

2109 彦島  彦島とはどんな島か。日本書紀に一か所「穴門の引嶋(ひこしま)」(仲哀紀、読みは岩波版による)と出てくる。大きさは2km四方ほど。下関とは環濠のような狭く曲がりくねったS字を裏返したような形の海峡(幅50300m、長さ4km程)で隔てられている。関門海峡を大瀬戸、この海峡は小瀬戸(又は小門(おど)・小戸(おど))とも称される。海峡の片方の口(逆S字の南方)は関門海峡の中程(巌流島がある)に通じ、幅30m程で狭く潮流は速い(上瀬、現在彦島水門がある)、他方の口は日本海の響灘(ひびきなだ)に面して幅300m程で広く潮流は遅い(下瀬、現在彦島大橋がある)。中程(中瀬)に現在小戸公園がある。彦島水門はパナマ運河形式で漁船程度は通れるが、潮流は現在は遮られ、海峡は港として使われている。下関側は埋め立てがあり、当時の岸がどの辺か不詳。

 

2110 西井健一郎説 「伊予二名島(いよふたなじま)は現彦島」とする価値ある一説 西井健一郎「私考・彦島物語 I 筑紫日向の探索」古田史学会報No71号(2005

 

2111 地名・国名移植 移植の動機は幾つもある。@ある土地の一族が集団移住した場合、例えば仁徳時代の九州飛鳥の漢人が難波飛鳥(近つあすか)、奈良(遠つあすか)に移住した例、蘇我氏が肥前飛鳥を大和飛鳥に地名移植した例。Aある土地の氏族が地方の領主に任命派遣された場合、例えば「崇神朝の吉備津彦 → 派遣先で吉備王国 → 吉備国。B 九州古代国名の列島拡散、例えば多利思北孤の律令制、「軍尼(くに、国造か)120有り」(隋書)、国があれば国名の命名がある。C倭国の令制国(豊前・豊後など?)。E日本国の令制国(702年大宝律令?〜明治まで殆ど不変)。また、多段階の移植経緯もある。例、例えば「吉備」については「関門海峡吉備 (地名)→ 神武東征に従った吉備出身者(人の移動) → 吉備津彦(四道将軍、地名の人名化) → 吉備津彦の西征(人の移動) → 岡山の地名「吉備」(征服、人名の地名化)」など。この様に、国名移植の前に地名移植が有り得、地名移植があったとしても、元の地名が遺存されて複数の同名が並存する場合もあるなど複雑だ(複数の飛鳥、複数の難波など)。ここでは表記の不統一は原典に従った。地文と歌の万葉仮名の違いなど。「淡道嶋」=「淡道之穂之狭別嶋」、「阿波志摩(万葉仮名、あはしま)」=「淡嶋」、「淤能碁呂志摩(万葉仮名、おのごろしま)」=「淤能碁呂嶋」とした。

 

2112  他の可能性  「高天原」の比定候補として沖ノ島を経由地とする関門海峡の「対岸」として「釜山」付近も地理的には可能性がゼロではない。しかし、次章に登場するサルタヒコ船団の拠点が対馬であること、対馬国神サルタヒコとニニギの関係が「仕え奉(まつ)る」と主従関係であること、ニニギの祖イザナギの関門海峡への渡海にサルタヒコの祖が関係した可能性が高いこと、ニニギの祖アマテラスが選んだ「もう一つの高天原」が釜山でないこと(第二章)、などとの整合性を考慮すると、イザナギの高天原が対馬以外である可能性、特に釜山である可能性は無い。それは同時に「イザナギ〜アマテラス一族は海照らす神を祀る海族であること」、「新羅系・高句麗系である可能性は無い」ことを証している。「イザナギの高天原はアマテラスの高天原と違う」については第二章で検証する。

 

2113  同一領域視   筑紫の範囲は彦島も含んでいた別の視点がある。古代の國は面する海で区分されていたようだ。「筑紫島は四面にそれぞれ筑紫國・豊國、、、がある」(古事記島生み神話第二段)とある。これに依れば「小倉・門司まで筑紫国」としてよい。彦島も筑紫に分類されていた可能性もあろう。なぜなら、関門海峡の両岸を一体として見る見方がある。仲哀紀に「穴門より向津野大済(むかつのおおわたり、豊国宇佐)を以ては東門(関門海峡瀬戸内海側)とし、名籠屋大済(戸畑名籠屋崎)を以て西門(関門海峡日本海側)とす、、、」(括弧は紀岩波版頭注)とある。二つの見方を合わせた「戸畑〜彦島」が筑紫の一部に分類された時代があってもおかしくない。

後年になると、企救半島の東西両側を豊国とされている。即ち、応神紀・仁徳記では「豊国難波大隅宮」「豊国難波高津宮」が出てくると共に天皇御幸の歌として小豆島(あずきしま)など関門海峡北西側が出てくる。小倉・門司が応神・仁徳の所領となり、豊国に区分されるようになったのはそれ以来、と思われる。応神が貴国(大和軍・東方軍の半島征戦の後方基地)を肥前北から豊国に移したことと関係あるだろう。この区分は多利思北孤の頃、倭国令制国として確定し、大宝律令に引き継がれたと推測する。以後、明治まで小倉・門司は「豊国・豊前」に含まれる。筑紫国ではない。

要すれば「ニニギ〜仲哀の時代は筑紫〜小倉(葦原中つ国)〜門司(日向)〜(彦島(小戸)まで筑紫国であった可能性があり、応神以降は海峡を重視して企救半島の日本海側〜彦島〜半島瀬戸内海側が豊国に編入された可能性がある、と考える。


 

 第二章 内外史書の証言「アマテラスの高天原は別」

 

  

 

423 第二章 

 

2201  漢字フルネーム 記紀共に複数表記ある場合あり 

イザナギ ()()()()(のかみ)(古事記) ()()(なぎ)(のみこと)(日本書紀

イザナミ ()()()()(のかみ)(古事記) ()()(なみ)(のみこと)(日本書紀

アマテラス(あま)(てらす)大御神(おおみかみ)(古事記)  (あま)(てらす)大神(おおみかみ)(日本書紀

スサノヲ 建速須佐之男(たけはやすさのお)(のみこと)(古事記) 素戔鳴(すさのを)(のみこと)  (日本書紀

ツクヨミ 月讀(つくよみ)(のみこと)(古事記)月読(つくよみ)(みこと)(日本書紀

オシホミミ 正哉吾勝勝速(まさかあかつかちはや)日天忍穗(ひあめのおしほ)(みみ)(のみこと)(日本書紀)(まさ)(かつ)()(かつ)(かち)(はや)()(あめ)()(おし)()(みみ)(のみこと)(古事記

ホアカリ(兄) (あめの)()(あかり)(のみこと)(古事記) (あま)(てる)(くに)照彦(てるひこ)()(あかり)(のみこと)(日本書紀) 

ニニギ(弟) (あま)()()()()()()()()()()(のみこと)(古事記) (あま)()(ひこ)(ひこ)(ほの)()()()(のみこと)(日本書紀) 

 

2202 ホアカリに供奉した五部人  先代旧事本紀天神本紀には「ホアカリクシタマヒニギハヤヒに供奉」とある。筆者はこれを「ホアカリとニギハヤヒは別人。そのホアカリに供奉」と解釈した(第四章で論証予定)。

ホアカリが最初に天降りした場所は国譲り以前に諸将が何度も派遣されている葦原中つ国だったかもしれない。ただ、遅くも国譲りが完了して、ニニギが日向に天降ってその支配を任された頃にはホアカリの本拠は博多であったと思われる。

 

2203 「日向小倉説」  前原浩二サイトに示唆を受けた。ただ、論証無しの仮説が多く、試案の域に留まると考える。「http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-1/1-1-4.pdf

 

2204  二上峰   ニニギの南征の出立地として出てくる。日本書紀に「ニニギは日向の襲の高千穂の峰に降った、その後の遊行の状は、二上峰・天浮橋、、、頓丘覓国行去(くにまぎとほりて、国探し)を経て、吾田長屋(あたのながや)の笠狭之碕(かささのみさき)云々」日本書紀神代下九段本文・一書二・四・六(要旨) とある。「二上峰」はニニギの南征行路の最初だから日向(門司)の近くであろう。「戸の上山と足立山」ではないか。二つとも瀬戸の上の山だから「二上」であろう。「戸の上山」が大瀬戸(関門海峡)に近いから「上」の代表格であり、「高千穂峰」の第一候補となろう。そうであれば、日向の比定第一候補は戸の上山(高千穂峰)の下、門司となる。比定論拠の傍証となろう。

 

2205  『三国史記』(さんごくしき) 朝鮮半島に現存する最古の歴史書で1145年完成、全50巻。高麗王の命により金富軾らが編纂。三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。 南韓百済寄りの修飾をしているので、第三者的客観性では日本書紀の方が勝るとする史家もいる。百済三書(日本書紀に引用がある百済記・百済新撰・百済本記)が失われたので、それらを基にしたと思われる三国史記が朝鮮の史書の標準とされている。

 

2206 半島倭国の位置比定   前著「倭国通史」第一章で詳細に論証した。その結果(P19図)を再掲する。

 

2207 「呉太伯の後」  列島複数個所に「祖は呉太伯の後(子孫)」の伝承が存在する。これについては前著第一章、P4349で紹介した。諸説いずれも原典の由来に疑義があり、一説に留まる。



第三章 記紀の証言「天孫ニニギ南征(宮崎)と神武東征」

 

435  第三章

 

2301  二上峰   ニニギの南征の出立地として出てくる。日本書紀に「ニニギは日向の襲の高千穂の峰に降った、その後の遊行の状は、二上峰・天浮橋、、、頓丘覓国行去(くにまぎとほりて、国探し)を経て、吾田長屋(あたのながや)の笠狭之碕(かささのみさき)云々」日本書紀神代下九段本文・一書二・四・六(要旨) とある。「二上峰」はニニギの南征行路の最初だから日向(門司)の近くであろう。「戸の上山と足立山」ではないか(□頁の写真参照)。二つとも瀬戸の上の山だから「二上」であろう。「戸の上山」が大瀬戸(関門海峡)に近いから「上」の代表格であり、「高千穂峰」の第一候補となろう。そうであれば、日向の比定第一候補は戸の上山(高千穂峰)の下、門司となる。比定論拠の傍証となろう。

 

倭国の祖はニニギ説  「古代史の十字路―万葉批判」古田武彦 東洋書林 2001年 

 

 

2302 「祭事王ニニギ/政事王ホアカリ」   根拠は「ニニギ天降りに供奉した筆頭が神祇司中臣氏の祖天児屋命(アメノコヤネ)」(記紀)、「ホアカリ天降りに供奉した筆頭が軍事司物部氏の祖天津麻良(アマツマラ)」(先代旧事本紀、第四章参照))である。

 

2303 菟田(うだ) 「天皇が菟田(うだ)縣の兄猾(えうかし)弟猾(おとうかし)兄弟を呼び出したところ、弟猾が告(まう)して曰く、兄猾が天孫到ると聞いて即ち兵を起して襲はむとす、、、」とある。

 

2304 伊勢國風土記   『仙覚註釈』所引の伊勢国風土記逸文として「伊勢國風土記に云う、それ伊勢國は、、、天日別命の平治する所、天日別命は神倭磐余彦天皇(神武天皇)西宮より東州を征する時、天皇に隨(したが)い、、、紀伊國熊野村に到る時、、、金鳥の導きに隨い、、、到於菟田下縣に到る、天皇、、、天日別命に命じて曰く、天津の方に國有り、宜しく其の国を平らげよ、、、天日別命、勅を奉じて東に數百里入る、其の邑(むら)に神有り名を伊勢津彦と曰う、、、天日別命問うて曰く、汝の國を天孫に獻ぜよ、答えて畏れ伏して啓して云う、吾國を悉く天孫に献ずる、、、」とある、という。この文献では「倭磐余彦天皇」とあり、日本書紀の「神日本磐余彦天皇」と古事記の「神倭伊波礼毘古命」の表記が混淆している。ここの「天孫」も参照した古書(古伊勢国風土記=九州内風土記か)を参照・編集して、かつ記紀に合わせた結果出来た「新風土記」と思われる。

 

2305 神武大和東征の証拠  神武東征譚の後半のニギハヤヒ一族が河内一帯にいたことは多くの伝承から確かめられる。更に、神武一族と三輪一族の関係は大和の事績であることは否定できない。

 

2306 ニニギ一族の故地  関門海峡は大和王権の始祖歴代の故地である。即ち、イザナギ・イザナミの島生み巡りの完了した地であり、オノゴロシマへの帰還拠点であり、特に彦島はイザナギの禊の地であり、おそらくイザナギのアマテラス・スサノヲを生んだ地である。ニニギは高天原(半島倭国、論証U)から彦島を含む日向の地に天降りし(上述)、神武はこの地の同族(吉備・安芸)の支援で軍備を整え東征に向かった。

 

2307  環濠  その日暮らしの縄文人は襲っても襲われても蓄えなど少なかったから、縄張り争いはあっても強奪は多くなかっただろう。しかし、農作弥生人は一年掛かりの収穫を強奪されたら一年間食べるものがなく、飢死するしかない。だから命がけの守り、環濠集落を作った。海原倭人は半農半漁で、飢えれば強奪する側だっただろう。倭人が朝鮮半島沿岸をしばしば襲う記事がある(三国史記AD14年条)。強奪する側も奪回から守るために環濠が必要だ。イザナギの時代がそうだろう。ニニギの時代は既に農業指向だから、天降りしたのは農業に適した「葦原中つ国」である。環濠の彦島ではない。神武は更に広い農地を求めて東征した。それぞれの時代で環濠の必要性は変わったにしても、環濠にかこまれた形「蜻蛉のトナメ」はイザナギ以来の「安全と繁栄の象徴」だっただろう。


    

第四章 先代旧事本紀の証言「倭国王は天孫ホアカリ系」

 

 

447 第四章 

 

2401 倭王武の上表文 倭の五王(讃・珍・済・興・武)は遣宋使を送った(413478)。その最後倭王武は、宋最後の皇帝8代順帝にみごとな駢儷体(べんれいたい)の格調高い漢文300字程の上表文を送った。その中に、倭国統一について述べた部分が本文の引用部だ。その記述内容から、東に西に征戦を繰り返したがそれはすでに完了し、行政体制を整え(開府)、上下を整え(仮授)云々とあり、列島を統一した過程が十分推測される。 

 

2402 倭国の始祖  九州王朝説の創唱者古田武彦はその著「古代史の十字路―万葉批判」古田武彦 東洋書林 2001年 の中で「九州王朝の始祖は、ニニギノミコトである。九州王朝の分流である近畿天皇家は、この倭国神話を借用・盗用した。古事記・日本書紀は、この神話を、本来の近畿天皇家の神話として、人々に信ぜしめようとして、今日に至った。」としている。 古田のこの認識は終生変わらなかったようだ。

 

2403 先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)  天地開闢から推古天皇までを記述  9世紀の成立 記紀や古語拾遺を切り張りした偽書ともいわれるが、古い独自資料を多く含み、物部氏の家伝的史書を基にしているとみなされている。

 

2404 「倭国始祖はホアカリ系」の提案  筆者前著(「倭国通史」高橋通 原書房2016年)第三章で「倭国王はホアカリ系の可能性がある」と提案した。ホアカリとは「天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト、以下ホアカリと略す)」のこと。 記と紀神代九段一書六・八ではオシホミミの長子ホアカリとして出てくる。アマテラスの孫でニニギの兄(天孫)。一書六では「天火明命(ホアカリ)の児天香山(カグヤマ)は是尾張連らの遠祖なり」としている。紀九段本文では天孫はニニギのみでホアカリの記述が無い。別伝承として、「ニニギの子ホアカリ」(紀九段一書二・五)が「ニニギの南征譚」に挿入されいるが、同名の別伝承であろう。

 

2405 ウマシマジ  宇摩志麻遅命(記)・可美真手命(紀)・味間見命(同書)の通称。物部氏の祖とされる。饒速日命(ニギハヤヒ)と三炊屋媛(みかしきやひめ、長髄彦の妹)の子。

 

2406 ニギハヤヒ・ホアカリ同一論  同書はニギハヤヒを「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)」としている。ホアカリとニギハヤヒの二人の名をつなげて同一人だとしている。形式的には「物部氏の祖ニギハヤヒの名はこれこれだ」という内容で、「物部氏の祖は天孫ホアカリだ」と言っている訳ではない。そうすることで、倭国不記載・禁書を免れたのだろう。

 

2407 天香山  「天孫降臨の謎」関裕二 PHP研究所2007年 から再引用。

 

2408 「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」安本美典 2009年 の系図6「先代旧事本紀巻五所載の物部氏系譜」を参考にした。

 

2409 物部(いに)()連公  同書には「物部印葉連公(10代)は軽島豊明宮で統治された天皇応神天皇の御世に大連となって神宮に斎仕えた。姉の物部山無媛(やまなしひめ)連公を天皇が立てて妃とし太子の兔道稚郎(うじのわきいらつこ)皇子を生む。」とある。しかし、この系統は印葉の代で途切れ、太子兔道稚郎皇子も天皇になっていない。この系統は大和物部氏の系統で、応神が大和天皇に即位した時点で応神に妃を出したが、勢力を失ったのであろう。以後、九州物部氏の系統(物部胆咋(いぐい)宿禰(8代)系から出た河内物部氏(九州支族、物部麁鹿火系)と九州倭国物部氏(尾輿、13代)以下の系譜のみが記されている。    

 

2410  物部()大連 ←→ 物部()()久留(くる) は逆か? 目大連は紀に出てくるから河内支族かもしれない。布都久留連はでてこない。同書の取り違いか入れ替わり誤記かも知れない。

 

2411 倭国王権の継続性  中国史書は隋書・旧唐書・新唐書共に倭国の倭奴国以来の倭国継続を認めている。倭国王家中枢の王族(上宮王・多利思北孤)は「漢委奴國王印」の「委」の用字にこだわっている(第8章)。また、アマテラス以来と思われる和風姓「アマ(アメ)」を名乗る王統(隋書)が継続している。中国自体は王統が変われば国名が変わる。しかし、周辺弱小国は王統が変わっても、冊封体制の取り直しは大変だから王統を取り繕うことで国名を変えない事例が多い(例:百済の南北百済の交代、万世一系とする理由の一つ)

 

2412  万世一系  天皇が親から子へ引き継がれる世襲制が定着したのは17世紀以降だったという。それまでは親子・兄弟継承など一族継承。国士舘大学藤森馨教授は「皇統はもともと天皇家同族一系ではあっても厳密には万世一系ではない。天皇の皇位継承に『万世一系』という言葉が使われたのは17世紀以降、頻繁に使われるようになったのは明治以降」としている。そもそも「大和王権の王統継承が万世一系はもとより、父子相続・男子相続が厳密に守られた」などとは誰も信じていない。同族一系すら疑わしいケースが幾つもある。

 

2413  百済の万世一系  百済は200年頃宗主国(北百済)と宗家(南百済)に分裂したが、500年頃再合体した(武寧王の統一)。その歴史書(百済三書)は途中の分裂・合体を記さず、北百済の王名・中国朝貢をない混ぜながら、南百済の王統を万世一系(同族一系)としている。

 


 

 

 第五章 応神・上宮王の出自は「倭国内ニニギ系王族」

  

 470 第五章

 

2500  中臣連の祖  天児屋命の孫天種子(あまのたねこ)命は神武東征に従った。その子宇佐津臣命は筑紫に残り、その子孫が中臣姓を賜った。その関係で、上記三命はいずれも「中臣連の祖」とされる。中臣氏の三代目が倭国ニニギ王族上宮王に従って倭国を出、四代目が中臣鎌足である。いずれも筑紫である。

 

2501  応神と神功はほぼ同年齢   応神天皇の記崩年394年、その時の記崩年年齢百三十歳を「2倍年暦」で修正すると、65歳である。従って、生年は329年となる。一方、神功皇后の崩年二六九年(修正前)を「干支2巡修正」(神功紀に有効)で修正すると389年だ。この時の紀崩年年齢百歳を「2倍年暦修正」で50歳崩御とする。その年の応神天皇の年齢は上記から60歳だ。二人は親子でない可能性が高い。

 

2502      欠史八代の系図   佃收説を参照した(「古代史復元 神武・崇神と初期ヤマト王権」佃收 星雲社 1999年)。 佃收説は「記紀の一書を含む皇后名の解析」、天皇親子・兄弟関係、墓陵、などを基にしているが、更に紀年修正法、一世代平均23.5年などを加え確認した。確たる否定史料も無いから、「当らずとも遠からじ」であろう。要すれば、神武(270年〜300年頃)〜第9代開化(360380年頃)までは約100年である。

 

2503 三系の並立   かなり信頼できるとされる記崩年(古事記天皇崩年、崇神318年・仲哀362年)を重視し、天皇崩年年齢を「二倍年歴説」に従い修正し、父子継承の場合は一世代平均23年を採用などから、修正在位は「神武〜開化は270380年頃」、「崇神・垂仁は288340年」、「景行〜仲哀は316362年」である。三系は時代的な重複があり、一系でなく並立していた可能性がある。

 

2504 大和系物部氏  先代旧事本紀によれば、応神天皇は大和系物部印葉連公(10代)の姉物部山無媛連公を妃とし、皇子兔道稚郎(うじのいらつこ)を太子とする。しかし、太子兔道稚郎皇子は天皇即位を辞退し(辞退させられ)仁徳が天皇になっている。この大和物部系統はこの代で消え、以後、九州物部氏の系統、及びこの系統から出た河内物部氏(九州支族、麁鹿火系)の系譜のみが記されている。九州系仁徳天皇によって大和系物部氏が滅ぼされ、九州系物部麁鹿火(あらかい)が大連になっている。 

 

2505  川原地区  寒水川(しょうずがわ)中流に川原地区がある。 佃收 「古代史の復元」E 2004年 星雲社 佃は寒水川の支流の山ノ内川を飛鳥河に比定しているが、山ノ内川は矮小な川で、飛鳥岡本宮・飛鳥川原宮・飛鳥板蓋宮などを建てる地相ではない。「寒水川が飛鳥河」と考える。飛鳥のそもそもは漢人入植者が開いた地で、漢人が地名(飛鳥)と共に諸方に移動したようだ。「飛鳥」地名も漢人伝承と共に諸方にある。有名なのは仁徳紀の「近つ飛鳥(河内)・遠つ飛鳥(石上神社近くか)」である。大和飛鳥とは異なる場所である。

 

2506 天皇  ここで「天皇」とあるが「上宮王家二代目大王」を指す。田村皇子が三代目大王に指名された経緯を示している。田村大王が更に数年後、推古崩御に伴って大和天皇(舒明)に即位したので他も含めて天皇と書き換えた。その為にこの記事は「不審」とされているが、書き換えたおかげで焚書に会わずに生き残っている。 「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004

 

2507   熊凝(くまごり)寺  『三代実録』880年条に「聖徳太子(肥前)平群郡熊凝(くまごり)道場を創建す。飛鳥の岡本天皇(舒明)、(肥前)十市郡百済川辺に遷し建て、封三百戸を施入し、号して百済大寺と曰う、、、聖武天皇、、、平城に遷し造らしめ、大安寺と号す」 

 


 

第六章 推古紀の証言「上宮王と聖徳太子」

  

 

 

491  第六章 

 

2601  「聖徳太子は上宮王の太子」説  佃収「物部氏と蘇我氏と上宮王家」(星雲社 2004年)など。

 

2602   伊予風土記逸文   釋日本紀 卷十四・萬葉集註釋 卷第三 伊予風土記逸文 筆者抜き書きと括弧

「伊予國風土記に曰はく、湯の郡、、、天皇等の湯に幸行降りまししこと、五度なり、(景行)天皇、、、(仲哀天皇と神功皇后)天皇、、、上宮聖コ皇子を以ちて(皇子なので天皇でないが)一度と為す、(聖徳太子に)侍するは高麗(こま)の惠慈(ゑじ)の僧・葛城(かつらぎ)臣等なり。時に、湯の岡の側に(聖徳太子は)碑文(いしぶみ)を立つ、、、記して云へらく、(以下、碑文詞書)法興六年、、、我が法王大王と惠慈法師及び葛城臣と、夷與(いよ)の村に逍遙し、正(まさ)しく~の井を觀て、世の妙(くす)しき驗を歎(たた)ふ、意(おもひ)を敍()べ欲()くして、(法王大王は)聊(いささ)か碑文一首を作る、(改行、法王大王の一首主文)惟(おも)ふに、夫れ、日月(ひつき)は上に照りて私せず。~の井は下に出でて給へずといふことなし。萬機(まつりごと)はこの所以(ゆゑ)に妙に應(あた)り、、、(以下、何人に偏ること無い湯浴・薬効を称賛する一首文)、、、(舒明)天皇、、、(斉明)天皇、、、此れを行幸五度と謂ふなり」とある。 

 

2603 上宮聖徳皇子  伊予國風土記のこの「上宮聖徳皇子」とは「初め上宮に居り、後に斑鳩に移った厩戸皇子」(用明紀元年条)、「厩戸豊聡耳皇子を皇太子に立てる」(推古紀元年条)、「高麗の僧、慧慈、、、すなわち皇太子は師としたまふ」(推古紀二年条)とある後世「聖徳太子」と呼ばれた厩戸皇子であろう。

 

2604  伊予温泉  この伊予温泉は四国の温泉ではない。関門海峡彦島(古名「伊予二名島」)の温泉である(古事記島生み神話第二段、第一章)。今でも小門(おど)海峡の下関側に温泉(ほとんど鉱泉だが)がある。霜の関元明天皇の風土記編纂令で「四国伊予風土記」が編纂された時に「古伊予(彦島)温泉譚」が取り込まれたのであろう。この古伊予温泉は天武期の地震で枯れてしまった「大いに地震い、、、伊予温泉没して出ず、、、」(天武紀684年)とある。天武紀編纂終期(720年頃、即ち数十年後)にも温泉が復活していないからこの記事が否定されていない。枯れたまま碑も失われたのであろう。四国伊予温泉が枯れたという伝承は無い。四国の伊予温泉に天皇の御幸が五度もあった、とするのには疑問があるが、関門海峡の温泉にあった可能性は高い。なぜなら、御幸したとされる景行・仲哀・神功にはその近辺の御幸記事があり、聖徳太子・斉明に九州〜大和の往還事績があり、関門海峡滞在の可能性が高い。舒明には「神武の蜻蛉島(あきつしま=彦島)を歌った歌」の引用歌(万葉集二番歌)がある(本補論参照)。

 

2605 天王の例   雄略紀五年条、百済新撰引用部、前田本・宮内庁本、「四天王」の用例は除く、「倭国不記載」の例外の一例、前著「倭国通史」145頁)

 

2606  三王権並立  595年当時、王権が九州に三つ並立したことは王権の象徴である年号から確認できる。倭国年号は九州年号「吉貴」(594-600)が該当すると考えられる。次に、襲国偽僭考に「三年(595年)を始哭と為す」とあり、推古三年(豊前豊浦宮)に該当するから大和王権の年号と考えられる。大和王権の数少ない年号例だ。三つ目の年号は595年を含む上宮王家の法興年号(591-623)で、王権存在の証拠とされる(法隆寺釈迦三尊像光背銘、伊予風土記逸文)。

 

2607  元明風土記  元明天皇713年に令制国毎の風土記編纂令が出された。令制国は恐らく大宝律令(701)で改定された(仮に新令制国とする)。その前は倭国の令制があったと考えられる(仮に古令制国とする)。伊予は新令制では四国だが、古事記のイザナギ譚に出てくる「伊予」「粟(あわ)」「土左」は関門海峡域と考えられる(第一章)。それらの名が古令制で四国に移されたか、新令制で移されたか、移されたにしても古名として旧地(関門海峡域)で使われた続けた可能性があり、伊予風土記逸文の「夷與(いよ)村」「伊予郡温泉」は旧地(仮に古伊予とする)と考える。これらの古記録(仮に古伊予風土記とする)が元明風土記(編纂開始は713年だが、奈良時代以降も改定が続いたと考えられている)に含まれたようだ。少なくも、上掲文は日本書紀を参考にした修正のようだ。四国現地では「二王権」の時代があった知識が無く、法王大王を天皇と区別はしている碑文を、書写してはいるがそれが誰か分かっている節は無い。ただ、「聖徳太子は天皇ではないが、天皇と見做して一度に数えよう」とした背景には「法隆寺の釈迦三尊像光背銘にある上宮法皇は聖徳太子」という後世の解釈(誤解)も影響した可能性はあるだろう。

 

2608 日本書紀の史書としての問題記述の種類  

(1)  最大の問題は「倭国不記載」である。史書は通常隣国までは触れるものだ。少なくも国交があり、まして友好国については中国史書も別項を建てて詳述する。記紀も初稿ではある程度触れていただろう。しかし、「倭国不記載」には特別の理由、外交的配慮があったと思われる。日本建国直後の遣唐使が唐に「日本は倭国の同種か? 同種なら倭国同様に唐に弓引いた罰を受けるべき」と脅された、と推測された(祢軍(でいぐん、人名)墓誌、第八章「天武は日本の残党」参照)。この時唐は「日本国は倭国の別種(別国)であり(旧唐書)、倭国に強いられた白村江戦参戦を不問とする」と認定した(推定)。それを受け入れた以上、日本国は紀の編纂過程で「唐に弓引いた倭国については触れない、倭国不記載、倭国物部氏・倭国内ニニギ系王族であった上宮王、天子を自称した上宮王を不記載」とせざるを得なかった、と解釈した。ここまでは、「不記載・不説明」で納得できる(第一段階、不記載)。不実記載ではない。

(2)  第二に「誤読誘導」がある。「倭国不記載」の方針のもと、記紀には倭国王は原則記載されない。だが、天皇紀に倭国王を記載せざるを得ない時に「倭国王」とせずに「天皇」とすれば、当該天皇と誤読してもらえる。そうすることで「記して記さない形にする」という方法である。敏達紀の「仏教論争の天皇」は殆ど倭国王である。敏達紀は「蘇我馬子と物部守屋の対立」を記す必要から「仏教論争の倭国王」を「天皇」と記している。「敏達紀だから天皇とあれば敏達天皇、と誤読するのは読者の勝手、不実記載はしていない」との言い訳が用意されている。

  (3)  第三は各天皇紀冒頭の系譜記事の「万世一系化」による「不実記載」がある。これには勿論従来説の「万世一系化は記紀編纂の最終段階の意図的改変」との考え方もあるが、「中国周辺諸国の史書の普遍的形式」との見方とあると考える。中国史書は王統の交代は国名変更に繋がる大事件として明記するが、王統内の同族内主流傍流の交代などあまり詮索されない。周辺諸国では、王統の交代があっても国名も変えず万世一系の形で中国に対し続ける例が多い様だ。冊封体制の認証の取り消しに繋がりかねないからだろう。百済の王統交代(武寧王の南北百済統一時)も中国に対しては万世一系の形を取った様だ(前著第四章)。「記紀の万世一系」については更に細かく次章で検証する。

 

2609  法隆寺の元の場所  法隆寺が斑鳩に移築する前の場所として、筆者はこれまで上宮王の宮の在った肥前飛鳥岡本と推測した。しかし、この宮は蘇我氏が肥前蘇我領に提供した宮であろう。病気治癒祈願寺は自領本拠に建てるであろうから、上宮王家の本領、恐らく豊前京(みやこ、福岡県京都郡)付近であろう。根拠は「上宮王が倭国を出る前の自領は倭国内ニニギ王族が永年託された豊前であろう」「乙巳の変後の中大兄は肥前飛鳥板蓋宮(蘇我領)を避け、豊前京(みやこ)を拠点としたようだ(孝徳紀)」などの推測である。「法隆寺の元の場所は比前飛鳥でなく、豊前京の近く」と筆者推測を変更する。

 

2610 誤読誘導の前例  敏達紀585年の「天皇、物部尾輿等の排仏奏上を許す」の天皇は倭国王だ、と前著第六章で論証した。編者は「敏達紀に天皇とあれば敏達天皇だ、と誤読するのは読者の勝手、そのような不実記載はしていない」としたのだろう。そうすることで、倭国王のことを記述しながら、倭国不記載の方針を守る、という苦肉の策だったようだ。

 

2611 誤読誘導の他の例 推古紀606年に「天皇、皇太子に請い勝鬘経を講ぜ令む、、、皇太子また法華経を岡本宮に於いて講ず、天皇これを大いに喜ぶ、播磨国水田百町を皇太子に施す、よって斑鳩寺に納める」とある。斑鳩寺と関係がある皇太子とは聖徳太子だ。聖徳太子の天皇は岡本宮に居る。岡本宮は肥前飛鳥岡本であろう(舒明紀630年参照)。推古天皇は603年に大和小墾田宮に遷っているから、岡本宮の天皇は推古ではない。聖徳太子の父上宮王であろう。「上宮王/聖徳太子」の記事を推古紀に挿入した、と考えられる。これが「推古/聖徳太子」と誤読されている。「誤読させること」が目的ではない。「上宮王事績を紀に記述すること」が目的なのだ。「天皇(推古)は岡本の宮に居なかった、不実記載だ」と糾弾された時に「天皇(上宮王)を推古と読むのは読者の勝手な誤読だ、不実記載ではない」という言い訳を用意したところが編者の工夫なのである。

 

2612  最後の編者  「日本書紀の謎を解く」森博達 中公新書 1999年  森は最後の編者の一人として中国人続守言を挙げ、正格漢文に改める為の作業に当たったとしている。

 

2613 推古紀の「皇太子」記載記事    

@ 推古元年593年「(天皇は)厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす、よりて録(まつりごと)摂政とし、萬機を以て悉(ことごと)く委ねる、(太子は)橘豊日(用明)天皇の第二子なり、母は皇后穴穂部間人皇女 (欽明天皇 の皇女 )である。皇后は懐妊開胎の日、、、(以下誕生伝承)」

A 594年「二年春、、、皇太子及び大臣(蘇我馬子)に詔して、三宝(仏教)興隆さす、、、」

B 594年「二年、、、高麗の僧、慧慈が帰化す、すなわち皇太子は師としたまふ、、、」

C 601年「九年春二月、皇太子初めて宮室を斑鳩(奈良県生駒郡)に興す」

D 603年「十一年春、、、来目皇子、筑紫に薨す、、、天皇聞きて大いに驚きて、皇太子 ・蘇我大臣 (馬子)を召されて云々」

E 603年「皇太子は、、、我、尊き仏像を有す、誰か、、、秦造河勝進みて曰く、臣拝み祀らむ、、、」

F 604年「十二年、、、皇太子親(みずか)らはじめて憲法十七条を作りたまふ、一に曰く、、、」

G 605年「十三年夏、天皇、皇太子・大臣及び諸王・諸臣に詔して共同誓願をたてて、始めて銅縫物丈六尺の仏像各一体を造る、、、すなわち鞍作鳥に命じて造仏の工とす、このとき高麗国の大興王、日本国の天皇が仏像を造りたまふと聞いて、黄金三百両を貢上す」

H 605年「冬十月、皇太子斑鳩宮に居す」

I 606年「是の歳、皇太子又法華経を岡本宮に講ず、天皇大いに喜び、播磨国水田百町を皇太子に施す、よりて斑鳩寺に納む」

J 607年「十五年春、、、皇太子と大臣は、百寮 を率 いて神祗を祭り拝された。」

K 613年「二十一年冬、、、皇太子は飢えた者が道のほとりに倒れていた、、、皇太子は飲食を与え、すなはち衣裳を脱ぎて飢えた者に覆(おほ)ひて、安らかに眠れといわれた」

    L 621年(要旨)「二十九年春 二月五日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去す、、、上宮太子を磯長(しなが)陵に葬(はぶ)る、、、このとき高麗の僧慧慈は帰還していたが、太子の薨去を聞き、、、誓願して曰く、日本国 に聖人有り、上宮豊聡耳皇子と申す、、、来年の二月五日には、自分もきっと死ぬだろう、と、、、そして慧慈 は定めた日に正しく死んだ、、、時の人たちは誰もが、上宮太子だけでなく、慧慈もまた聖人である、といった」している。

 

2614  推古紀の、「皇太子無し」だが関連ありそうな記事

M 594年「二年、、、秋七月、将軍たちが筑紫 から引き上げた、、、」

N 596年「四年冬十 一月、法興寺が落成 した、、、慧慈、慧聡、法興寺に住み始む」

O 602年「十年春 、、、来日皇子を新羅攻略 の将軍 とした、、、多く の神職および国造・伴造らと軍兵 二万五千人を授けられた、、、夏四月 一日、将軍来目皇子は筑紫 に赴 いた、、、六月、、、来目皇子は病にかかり、征討の役を果たせなくな った」

P 602年「夏四月一日、さらに来目皇子の兄、当摩皇子を新羅を討つ将軍とした、、、秋七月二日、当摩皇子は難波から船出した、、、播磨についた、そのとき従っていた妻が薨じ、、、当摩皇子はそこから引返し、ついに征討はやめになった。

Q 603年「十一年、、、はじめて冠位を施行した。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小、全部で十二階である、、、」

R 606年「十四年夏四月、、、丈六の仏像がそれぞれ完成した、、、元興寺の金堂 の戸より高くて、堂 に入れることができなか った、、、(戸を壊さずに入れた、という挿話)、、、五月、鞍作鳥 に詔して、、、おまえの祖父 の司馬達等が、即座 に仏合利を献上してくれた、、、また国内 に僧尼がなかったとき、おまえ の父多須奈が用明天皇 のために出家 して仏教を信じ敬った、、、仏像 が完成 し、堂に入れるのが難しく、多くの工人は戸をこわして入れようかと いうとき、おまえはよく戸をこわさず入れることができた。 これらはみなおまえの手柄 である、といわれた」

S 614年「二十二年十一月、、、高麗の僧慧慈が本国に帰った」

 

2615 小野妹子 遣隋使の随行使として推古紀に登場するが、娘が(倭国時代の)聖徳太子の乳母の一人だったと伝えられるから、上宮王が推古天皇に小野妹子を随行使として推薦したのではないだろうか。

 


 

第七章 「倭」を「やまと」と読む由来

  

502 第七章  

 

2701  「やまと」の表記   「やまと」には「夜麻登・山跡・倭・日本」など様々な表記があり、時代により、文書(記紀)により、文体(本文・歌)により使い分けられてきた。筆者はこれまで「大和地方にあった国」として後世の「大和」を敢えて標準的に採用し、特に意味のある時だけ「やまと」とした。

しかし、ここでは表記そのものを課題とするので、「大和地方にあった国」を「やまと」から始める。文字の無い時代には発音として「やまと」が使われ、その後漢字が入ってきて「夜麻登」などの当て字(仮名・万葉仮名)が使われた。その変遷が本章の課題である。

 

 2702 「倭国」の初出  後漢書57年に「倭奴国、貢を奉りて朝賀し、使人は自ら大夫と称す、倭国の極南海也、光武は賜うに印綬を以ってす」とある。

 

2703 倭(わ)  読み方の例、「倭我伊能致(わがいのち)」(雄略紀十二年条)の様に万葉仮名として「わ」と読まれていた例がある。

 

2704 「大倭(たいゐ、漢語名)」は百済・新羅に対して使った   紀に百済記・百済新撰の引用文としての使用例が出てくる。「百済記に云はく、、、加羅国の王の妹既殿至(けでんち、名)大倭に向(まうで)きて啓(まう)して云ふ云々〉」(神功紀六十二年条420年頃か)とある。また、「百済新撰に云う、、、蓋鹵王(がいろおう)、弟の昆攴君(こんしくん)を遣わし、大倭に向かわせ天王(前田本に依る。卜部(うらべ)本以降は天皇と写すが誤り)に侍らし、以って先王の好を脩(おさ)むる也」(雄略紀五年条461年)とある。紀には「海外史書の原文尊重方針」があり、ここの大倭・天王は当時の使用例と解釈される(「日本書紀の謎を解く」森博達 中公新書 1999年) 。しかもこれらの前後に近畿を意味する「日本」が書き分けられているから、ここの「大倭」は「倭国」を指す。紀にはこれとは別に後年の「大倭(やまと、683年頃の新当て字)」の遡及表記がある。例えば垂仁紀二五年条であるが、こちらは直後に「箸墓」が出てくるから「やまと」である。この混在を弁別しないと惑わされる。

 

2705 「大倭国」は中国に対しては使わなかった   宋に対しては倭国・倭国王を自称している(宋書夷蛮伝451年など)。 隋に対しては「大倭」は使っていないが、それは更に好字を選んで「俀(たい)」と自称しているからだ。これが隋帝に嫌われ「俀」も「倭国」に戻している(隋書608年)。唐に対しては「大倭」を使った情報が無い。斉明紀659年に唐から帰った伊吉連博徳関連記事に「大倭」が出てくるが、これは斉明関係者の噂話(和語)であって、倭国が中国に対して漢語「大倭」を使った、とは解釈できない。

 

2706 古来の国名  古来は漢字も「総国」の概念も無かったから、筑紫の人は「つくし」「つくしのくに」と口語自称し、大和の人は「やまと」「やまとのくに」と口語自称したであろう。つくしはやまとなどを「ひもと(東方)」と他称したようだ(次章)。「筑紫」「筑紫国」「夜麻登」「日本(ひもと)」などの漢字当て字表記(表音当て字・一部表意当て字)は国内では4世紀後半(半島征戦)以降か(外交はもっと早い)。表音当て字はもちろん中国史書が先で魏志倭人伝(3世紀)に「伊都(いと)国」などが出てくる。総国の概念も中国がもたらした他称「倭」「倭国」(13世紀)が先で、自称「大倭」が45世紀である。

 

2707 朝貢せず   例外は、白村江敗戦後の「傀儡倭国」は朝貢した。唐会要倭国伝に「咸亨元年(670年)3月、使いを遣(つかわ)し高麗を平らぐを賀す。爾後、継(つづけ)て來りて朝貢す」とある。

 

2708 「倭(つくし=九州)」 古田武彦は「古代は輝いていた III 」(ミネルヴァ書房)の「あとがき」で、「史料に『倭』とあれぽ、それは『チクシの倭』か、『ヤマトの倭』か、これを判定しなければならぬ」と、問題提起している。更に「記紀は倭(やまと)と読ませているが、倭国=九州である以上『やまと=九州』である。あるいは『やまと=倭(チクシ)』が正しい」としている。これに対し、坂田隆は「日本の国号」青弓社 1993年 147p でこれに逐一反論し、「倭(やまと)=大和」が正しい、としている。筆者は「ある時代までは古田説が正しく、有る時代以降は坂田説が正しい」と考える。「倭国滅亡(680年頃)」までは「倭の本拠は筑紫」だから、漢語の「倭」を訓読(同意和語読み)すれば「倭(つくし)」として良い。同じ理由でその時代までは「倭(やまと)」の訓読は成り立たない。なぜなら、この頃までの大和は倭国(つくし国)を宗主国とする倭諸国の一つ「やまと国」だから、「倭」と「やまと」は同意語ではない。従って「倭(やまと)」は訓読(同意和語読み)としては成り立たない。しかし、時代が進み「倭国滅亡」によって事態は逆転する。「倭(国)」の実体が無くなったのだから「倭」字を別の意味に使っても「倭国」の権威侵害には当たらない。天武は「自分は倭国(総国)を継承し、宗主国を筑紫から大和に移したのだから『倭(つくし)』を『倭(やまと)』と改訓した」としたのだろう。

 

2709「ちくし」読み  古田武彦は「筑紫」を「つくし」でなく「ちくし」と読むべき、と主張する。漢音・呉音とも「ちく」であることは間違いないが、漢字の無い時代から「つくし(和語)」が先に在り、漢字表記の必要性から、「筑紫(つくし、表音当て字)」が当てられた、と考える。その後、筑前(ちくぜん)などの造語・漢語読みが加わった。遣隋使が「ちくし」と報告しているから、その時期はかなり古いだろう。現地では現在も筑紫(ちくし)と読まれている。筑前からの伝統であろう。現地以外では古形の「つくし」が残ったのではないかと筆者は考える。引用は、古田武彦「古代史再発見(第2回)」王朝多元ー歴史像 1998年「倭」を筑紫と読むか大和と読むか、の議論の一部。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen4.html 前項も参照されたい。 

 

2710 大倭(たい) 安閑紀534年(6世紀)に「大倭国勾金橋(たいの(またはつくしの)まがり(の)かねはし)に遷都す」とある。記紀編纂時の「倭国不記載」の方針があり、通常は当時の倭国の自称名「大倭国」は記さないが、大和王権領となった豊国勾金橋を含む「大倭国(つくし、通称)」なら倭国記載ではない。更に、天武の時代に「大倭国」の改訓「大倭国(おおやまと)」が既にあったから、紀の読者は「やまとの勾金橋」と誤読してくれるから使ったのだろう(誤読誘導)。

 

2711「大倭(つくし)」の別例   斉明紀659年に「(遣唐使に対して唐の)天子相見て問訊し、日本国の天皇、平安なりや、と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あらむ(戦争となるだろう)、汝ら倭(ゐ)の客東に帰ること得ざる(抑留する)」。同661年に「(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな」とある。

この遣唐使は「倭国(九州)」の派遣であるが、唐に対して再度「対等外交」を主張していて「遣使すれども朝貢せず」の方針を取っていた。倭国は対応を和らげる為、自称国号「大倭」を唐には使わず「倭国」を使ったが、更に親唐派の斉明の使い伊吉連の随行を許した。これは孝徳時代からの同じ「大和の随行使」形式であるが、唐は「遠交近攻策」を取り、伊吉連に「唐帝から斉明天皇宛ての親書」を託した。曰く「日本国の天皇、平安なりや」と。「遠交策」である。逆に「倭」に対しては「来年は必ず戦争になるだろう」と脅している。「近攻策」である。「大倭に天罰が下るだろう」と噂したのは大倭(つくし)の人ではない。他人事の様な口調だから斉明朝の人である。大和の人だ。「大倭(たい)」などと言っても大和の人々には通じないから、「大倭(つくし)」と言い慣わしただろう。日本は形式的には大倭の一分国(近畿)である。しかし、唐は意図的に独立国扱いしている。唐の斉明宛てには「やまと」より広い見做し国号「日本国」を使っている。しかし、これは裏外交であって、公式中国史書の「日本」初出は「日本建国、遣唐使」以後の旧唐書日本伝からである。

 

2712  国都「やまと」  議論がある三例を挙げる。魏志倭人伝の「邪馬台国」は「女王の都する所」だから国都名であり、その場所は不詳だが大和とする解釈がある。また、隋書に「俀国(倭国)は魏の時、邪靡堆(やまと?)に都す」とある。これも国都である。しかし、誤解もありいずれも一説に留まる。舒明は万葉集二番歌で国都「山常(やまと)」と豊国を含む拡大国名「八間跡(やまと)」を書き分けている。天智は傀儡倭国からの独立を宣言し「日本国」と称した(三国史記670年)。しかし、その国都は「近江」であって国都「やまと」の例ではない。天武は国都「倭(やまと)」・総国「大倭(おおやまと)国」を制定した。後者はほとんど使われなかったようで、後に国都「倭(やまと)国」が「大倭(やまと)国」と表記され、更に「大和(やまと)国」に至る。

 

2713  百済人祢軍墓誌   2011年に中国で見つかった百済人祢軍(でいぐん、人名)墓誌拓本である。祢軍は中国系百済人で百済朝廷高級官僚、対唐戦で捕虜となったが抜擢されて傀儡百済政権の高級官僚となり、唐の対倭国交渉にも加わった。678年ごろ没し、墓誌の拓本のみが2011年に中国で見つかった(その後墓標もみつかった)。全文884字、注目ヶ所は「、、、去る顕慶五年(660年),官軍(唐軍)本藩(百済)を平らげる日、、、于時(ときに)日本の餘噍(よしょう、残党)は扶桑(近畿)に拠りて以って誅(罰)を逋(のがれ)る」(百済人祢軍墓誌678年頃)。 678年とは壬申の乱(672年)後、天武の時代である。「日本の残党」の代表は天武である。倭国は罰せられた(消滅した)が、天武は「近畿に拠りて罰をのがれる」と唐が見ている。白村江戦の戦犯と見られているのだ。

 

2714  「大倭(やまと)国」改号の時期  天武の古事記は「大倭(おおやまと)」と読ませていたことが、日本書紀との比較から解っている。同じ天武が「倭(やまと)」の一部である国都「倭(やまと)」を「大倭(やまと)」と改号(改字)した。坂田隆は「日本の国号」青弓社 1993年 の中(127p)で、国名変更に由来する役職氏名変更記事(倭直氏→大倭直氏など)の解析から「倭(やまと)国」から「大倭(やまと)国」への改号は683685年の間に成立した、と結論している。これは天武の崩御近くであるが、天武の事績である。

 

2715  古事記の大倭(おおやまと)  古事記は「大倭(おおやまと)」を総国・列島の意味で1回(「大倭豊秋津島を生む)、他には「天皇和名の頭に冠している例」がある(二代・四代懿徳(大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと))・孝安・孝霊・孝元・清寧)。極めて少ない。それに比べて、「倭(やまと)」は国都「倭(やまと)国」・地名・地名からくる姓名など多様に多量に出てくるが、大半が大和と思われる。「夜麻登」などから改字で「倭」となったもの、筑紫の「倭」姓の移住なども含まれる様で一様ではない。

 

2716  遡及表記  「やまと」の表記が万葉仮名から「倭」字に変わったのはある時点だが、記紀が神話にまで遡って「倭」と記したり、古代天皇名を「大倭(おおやまと)云々」と記すのは厳密に言えば遡及表現である。しかし、当て字などの変更で、あるルールに従って一律に適用されている場合は除き、改号など歴史時点を遡ってルール外の改字をしたりする例を遡及表現として注意を要する。例えば、雄略紀二年の「大倭国造吾子籠宿禰」は例外的遡及表記と思われる。この宿禰は大和の宿禰で、「倭(やまと)国造」が妥当と思われるからだ。遡及表現の理由でここを「大倭(やまと)」としておくと、つづく雄略紀五年に「〈 百済新撰云はく、、、蓋鹵(けろ)王、弟昆攴(こんし)君を遣して、大倭に向かいて天王に侍(つかえまつ)らしむ、、、〉」とある「大倭」を「大倭(やまと)」と誤読してもらえるからだ。しかし、実はこの大倭は海外文献であって、紀では原文尊重の対象とされる( 「日本書紀の謎を解く」森博達 中公新書 1999年 (162頁))。従って「大倭」「天王」は蓋鹵王の発言のまま、即ち漢語「大倭(たいゐ、倭国のこと)、天王(倭国王)」と考えられる。ではなぜ紀はここを誤読誘導したいのか、それは上掲百済新撰記事の数行前に「百済の加須利君(かすりのきみ)、、、其の弟軍君に告げて曰はく、汝日本に往(まう)でて天皇に事(つか)へまつれ」とある記事と整合させるために、百済新撰の「大倭(たいわ、倭国)、天王(倭国王)」を「大倭(やまと)、天皇(大和天皇)」と誤読させるのが目的である。付言すれば、ここの「日本」「天皇」は「紀の遡及表現」説が正しいのでなく、当時の海外王族が「やまと」「大王(おおきみ)」の意味で使った歴史的用語なのである(漢語表現)。当時、「やまと」は対応する漢語名が無かったので、倭国が海外でやまとを意味する漢語他称名「日本(じつほん?)」をやまとも自称し、「大王(だいおう)」を百済新羅に対する時は一段格上げした漢語表記「天皇」を使った。いずれも国内使用は後年であるが、海外、特に海外王族の会話・書の中に使われた史実の忠実な引用と考えられる。

 

2717  大倭(やまと) 坂田隆は「日本の国号」青弓社 1993年の中(128p)で、倭直(やまとのあたい)氏・倭国造(やまとのくにのみやつこ)氏の氏名変化(大倭直氏・大倭国造)の記事年代分析から、倭(やまと)国→大倭(やまと)国の国号変更を683年〜685年の間、変更理由は「国都冠字『大』の追加」と推定した。天武崩御(686年)の直前である。

 

 


 

第八章 国号「日本」の二つの源流とその合体

 

515 第八章 

2800  当て字   「夜麻登」は単純な表音漢字表記であるが、「山常(やまと)」は正確にはそうでない。「山(やま)」が既に訓読(漢語同意和語読み)であるから、「山常(やまと)」は訓読由来の当て字と表音当て字の混合である。この様に、八世紀までにはそれぞれの時代の、それぞれの地域の、それぞれの分野によって、より高度化した訓読が当て字として混用されたと考えられる。「日本(やまと)」も正確には訓読ではないのでここでは「当て字」とした。「訓読=漢語の同意和語読み」とすれば、「日本」は「やまと」を含む広域の、国境もあいまいな地方名であるから「同意」ではない。従って訓読でもない。

 

2801  「この国」の複数の表現   神武紀三十一年条には次の表現が紹介されている。

(1) イザナギが「日本(ひもと)と名付けた」、とある(本文)。岩波版は「日本(やまと)と読ませているが、九州視点から「瀬戸内海を『東の地、日の出のもと、ひもと』と名付けた」の意である。従って、この用字は本文で「その二」と名付けた漢語の流れであって、古代には和語としてあったことが、次項 から解る。

(2) 大己貴(おおあなのむちの)大神、目(なづ)けて曰く「玉牆(たまがき)の内つ国」とのたまいき、とある。これは「やまと」の意味である。

(3) 「ニギハヤヒは天磐船に乗りて、虚空(そら)見つ日本(ひもと)の国、と曰ふ」とある。ニギハヤヒ一族の落ち着き先「河内」を含むから「日本=大和」ではなく、「日本=東方=近畿方面」(九州視点の表現)であろう。

 

2802 「浦」を含む「やまと」の例  万葉集二番歌(舒明)には「山常(やまと)」の歌に「かもめ」が出てくる。これは後世の「豊国」を「国都やまと」とした舒明が香山(かぐやま)から瀬戸内海を遠望した歌で、唯一の特殊例である。本補論の一節で論証したので参照されたい。

 

2803 イザナギ自身の言葉  「記紀のイザナギ像」は「特定のあるいは複数の先祖像」に「神話のイザナギ」を当てた表現であろうから、「神武の先祖達が『日本』と名付けた地方」が妥当な解釈であろう。

 

2804 「日向(ひむか)」と「日本(ひもと)」  イザナギは対馬から「筑紫の日向の小戸(関門海峡彦島)」に進出した(記紀、第一章)。子孫のニニギはその「日向」(関門海峡)を「海から出る朝日を拝める地」として褒め称えた(記、第二章)。「日向(ひむか)」の読みは「宇摩奈羅腰、讐武伽能古摩、うまならばひむかのこま」(推古紀二十年条)で確認できる。神武紀三十一年条は神武が大和盆地を「蜻蛉(あきつ)のトナメ(交尾、二匹が組んで飛ぶ形(ハート型))」から山々に囲まれた大和盆地の表現として「秋津洲(あきづしま)」と命名したことを紹介している。紀は続いて「イザナギが日本と名付けて褒め称えた地である」と述べている(神武紀末尾)。即ち「昔、伊奘諾尊(イザナギ)、この国を目(なづ)けて曰く、日本は浦安の国、細戈(くはしほこ)の千足(ちだ、千もある)る国(云々)、とのたまいき」(神武紀三十一年条)。ここで「浦安」とは日向(関門海峡)から見た朝日の出る海のその先(瀬戸内海)に穏やかな浦(入り江)が多いこと(換言すれば自分達海人族の進出に適した地であること)、銅戈(ほこ)の多い国であること(換言すれば自分達が韓国(からくに)から輸入交易している鉄剣が多く売れる、或いは鉄剣で征服できる地であること)、を高く評価している。

上記では「日本(ひもと)」とした。「ひのもと」の可能性もあるが、ここでは「ひむか」との対比から「ひもと」を採る。

 

2805 「日本(ひもと)」は他称   西の人々が朝日の東方を「ひもと」と呼んだが、その人々が東征で「やまと」住み着いた、その地を「日本」と呼んだとは思われない。そこから朝日が出る訳ではないからだ。

坂田隆は著書「日本の国号」(青弓社1993年) の中で、記紀及び内外史料の「日本」と表現している人物をすべて検証し、例外なく「日本外」の要素を持っている人々、としている。即ち「『日本』は他称」を意味している、としている。

 

2806  半島諸国の「日本」認識  例えば「意富加羅(おほから)国の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、日本国に聖皇ありと聞きて、、、」(垂仁紀二年条、340年頃)・「天日槍(あめのひほこ、新羅王子)、日本国に聖皇ありと聞きて、、、」(垂仁紀三年条)・「新羅王、東に神国あり、日本と謂う」(神功摂政前紀)など。

 

2807  日本貴国   神功皇后が肥前に日本貴国という国を建国する。神功軍は熊襲征伐に続いて倭国の新羅征戦に協力しようとしている。「火前国松浦県(佐賀県唐津市か)に到る、、、躬(みずから)西征することを欲し、神田を定め、儺河(福岡県那珂川)の水を引き、神田を潤さんと欲して溝を掘る」(神功紀 仲哀九年362年)とある。神功軍は西征する為に肥前で食料を自給しようとしている。遠方から来ている大和軍の兵站基地と思われる。これが「日本貴国」として整備されたようだ。。「日本貴国」は百済王の言葉に出てくるから漢語であろう。

 

2808  雄略紀五年条  雄略紀五年条(461年)に「百済の加須利君、、、其の弟の軍君に告げて曰く、汝宜しく日本に往き、天皇に仕えよ、、、百済新撰に云う、、、蓋鹵王(がいろおう)、弟の昆攴君(こんしくん)を遣わし、大倭に向かわせ天王に侍らし、以って先王の好を脩(おさ)むる也」とある。要旨は「百済の君が弟を日本の天皇に仕えさせた。百済新撰には『百済王が弟を大倭の天王に仕えさせた』とある。」と二文が並記されている。これは百済王の二人の弟(別人)についての別の記事(二文)である。詳細は前著第五章に譲るが、「百済王は三兄弟だった。兄蓋鹵王は弟の昆支君を大倭の天王に仕えさせ、この昆支君(=加須利君)は末弟の軍君を日本の天皇に仕えさせた」と言う、極めて明快な記述である。すなわち、「大倭≠日本」であり、「天王≠天皇」だ。これは、日本書紀(引用の百済新撰を含む)だけで読み取れる論理であって「推測」ではない。定説は「この文章は『倭国=大倭=日本=大和朝廷』、従って『倭の五王=大和天皇』を証している」としているが、誤りである。

 

2809  大倭と日本の書き分け例   斉明紀割注所引伊吉連博徳書659年条「(遣唐使に対して唐の)天子相見て問訊し、日本国の天皇、平安なりや、と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あらむ(戦争となるだろう)、汝ら倭(ゐ)の客東に帰ること得ざる(抑留する)」」。同661年条「(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな」とある。

この遣唐使は「倭」の派遣であるが、倭国は唐に対して再度「対等外交」を主張していて「遣使すれども朝貢せず」の方針を取った。倭国は総国であることを示す為、大和王権斉明の随行使伊吉連の随行を許した。これは孝徳時代からの同じ「大和の随行使」形式であるが、唐は「遠交近攻策」を取り、伊吉連に「唐帝から斉明天皇宛ての親書」を託した。曰く「日本国の天皇、平安なりや」と。「遠交策」である。逆に「倭」に対しては「来年は必ず戦争になるだろう」と脅している。「近攻策」である。斉明朝の時の人(評論家)は「大倭に天罰が下るだろう」と噂した、という。この「大倭」は漢語ならば「百済新羅向けの倭国の自称名」であるが、国内で和語として使われる時は「大倭(つくし)」と言ったであろう。「大倭(たい)」などと言っても大和の人々には通じないからだ。日本は形式的には倭国の一分国(近畿)である。しかし、唐は意図的に独立国扱いしている。大和をより広い「日本国」と見做して抱き込もうとしている。これは裏外交で、公式中国史書の「日本」は「日本建国、遣唐使」を記した旧唐書日本伝が初出である。

 

2810  百済人祢軍墓誌  百済人祢軍(でいぐん、人名)墓誌拓本である。祢軍は中国系百済人で百済朝廷高級官僚、対唐戦で捕虜となったが抜擢されて傀儡百済政権の高級官僚となり、唐の対倭国交渉にも加わった。678年ごろ没した。墓誌の拓本のみが2011年に中国で見つかり、その後墓石も見つかった。注目ヶ所は、「(白村江で百済敗戦後)、、、于時(ときに)日本の餘噍(よしょう、残党)は扶桑(ふそう、近畿)に拠りて以って誅(ちゅう、罰)を逋(のがれ)る、、、」、 当時の唐の倭国滅亡前後の対日本政策が示唆されている。

 

2811  旧唐書  「倭国は、、、」で始まる旧唐書倭国伝には「献方物」しか現れず「朝貢した」とは一度も現れない。「太宗その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし」と「朝貢免除」とある。しかし実態は倭国が朝貢を拒否していたのだ。一方、日本の遣唐使を受けて旧唐書は初めて日本国伝を立て「日本国は、倭国の別種也、、、朝臣真人来りて方物を貢す、、、又遺使朝貢す」と最初から「朝貢」の文字が繰り返されている。

 

                    

「高天原はここだ」  了

 

 

 

 

 

 

 

本著「日本書紀が正す『千年の誤読』 []3101

 

 

    「倭国通史 V 」の注

 

3101 日本書紀の「倭(わ)」   神功紀四十年条「〈 魏志に云はく、正始元年(240)。(魏は使いを)遣わし、、、倭国に詣(いた)らしむ也。 〉」とあり、神功紀四三年条「〈 魏志云はくj、正始四年(243年)倭王復た(使いを)遣わし、云々〉」とある。いずれも魏志の引用であるから「倭」は「ゐ」と振り仮名すべきであるが、岩波版では「わ」としている。さすが「やまと」とはしていない。

 

3102 古事記の「大倭(おおやまと)」

@ 初出は、古事記冒頭の島生み譚に「大倭豐秋津嶋を生む」とある。「大倭」を何と読むか古事記には指示が無いが、日本書紀の島生み譚に「大日本豊秋津島<日本、これを、、、>との比較から「大倭(おおやまと)」と読ませていたことが検証されている[363]

A 景行記に「熊曾建曰く、なるほど西方に於いては吾二人(熊襲兄弟)を除いては建強の人無し、しかるに大倭国に吾二人に益(まさ)りて建(たけ)き男はいませり、是を以って吾は御名を献(たてまつ)らむ」とある。ここの「大倭国」は「西方」の対語であるから東方の「やまと」を指している。「西方の九州倭国」の意味ではない。「大倭(おおやまと)」と振り仮名してよい(@と同じ)。

B 残りの11か所は欠史八代の天皇名で、「大倭日子鉏友(すきとも)(みこと)」(四代懿徳天皇)を含む「大倭日子□□命(みこと)」、「大倭根子日子□□命」など六代の天皇名11か所である。「倭()国(大倭国と自称)」滅亡後に大倭国を引き継いだ、と自認した天武が古事記で「やまとのおおきみ」に新総国名「大倭(おおやまと)」字を奉って当てた遡及表記であろう[329]

以上、古事記の「大倭」十三か所はすべて「大倭(おおやまと)」としてよく、その意味は「大和」の意味である(後世の当て字、[332])。

 

3201  元興寺・元興寺縁起   ここでは特に「元興寺伽藍縁起并(ならびに)流記(るき)資財帳」を指す。推古の建てた「大和飛鳥元興寺」に伝わる「仏教伝来譚」「蘇我稲目崇拝仏・物部尾輿排仏論争」「尾輿らによる仏堂焼却・仏像難波江流棄譚」などを記す。

元興寺は推古天皇と上宮法皇の共願寺として発願され(推古紀605年)、「大和飛鳥」に建てられた金堂に丈六銅仏像が安置された(推古紀606年)。陰には蘇我馬子の支援があったと思われる。馬子の父稲目は北朝仏教を倭国に導入しようとして最初の仏堂(皇女(稲目の孫、のちの推古)の宮の転用)を建てた、仏教論争から物部尾輿・守屋によってが仏堂が焼かれ、仏像を難波江(博多)に投棄された。その元点の再興の意味を込めた「元興寺」を推古の大和小墾田宮の近く大和飛鳥(のちの呼称)の地に建てたのが元興寺である。のちに平城京へ移転したが(718年)、大仏は残った。この跡地に「肥前飛鳥」の法興寺を九州から移転したようで、飛鳥寺と呼ばれて存続している。1200年頃安置金堂が焼失したと伝わるが、飛鳥大仏として残っている。

「法興寺」は蘇我馬子が物部守屋討伐を祈願成就して建てた蘇我氏私寺で「肥前飛鳥」に建てられた。これが奈良時代に元興寺跡地に移転したようで、元興寺と法興寺が混同されている(筆者推測)。

 

3301  系図 「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」安本美典 2009年 勉誠出版) の系図6「先代旧事本紀巻五所載の物部氏系譜」を参考にした。

 

3302  物部印葉(いにば)連公  同書には「物部印葉連公(10代)は軽島豊明宮で統治された天皇[応神天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。姉の物部山無媛やまなしひめ連公を天皇が立てて妃とし太子の兔道稚郎うじのわきいらつこ皇子を生む。」とある。しかし、この系統は印葉の代で途切れ、太子兔道稚郎皇子も天皇になっていない。この系統は大和物部氏の系統で、応神が大和天皇に即位した時点で応神に妃を出したが、勢力を失ったのであろう。以後、九州物部氏の系統(河内物部氏(九州支族、物部麁鹿火系)と九州倭国物部氏(尾輿、13代))以下の系譜のみが記されている。 

 

3303 カグヤマ  「ホアカリの子天あまの香山かぐやま(以下カグヤマ)は尾張物部氏の祖」(紀神代九段一書六)とされる以外紀記には殆ど出てこない。神武東征譚に高倉下(たかくらじ)戦記があり(前章)、先代旧事本紀は「高倉下はカグヤマの後の名」としている。天香山そのものは豊国にある山の名で(次節)、「イザナギがイザナミの死を悼んで流した涙から成った泣沢女神(なきさわめのかみ)が居る所(天香山の畝尾)」(古事記)とされる。だからイザナギの子スサノヲ・アマテラスの両系子孫にとって神聖な山だ。スサノヲ系は「先住して国々を造り巡った」のだから、その中に神聖な天香山が含まれていて、スサノヲ系がそこを支配していた可能性は高い。だから倭国大乱では、争奪戦の対象になったはずだ。子に天あまの香山かぐやまの名を付けたのは、ホアカリが天香山をスサノヲ系から奪取した記念だろう(次節)。そして国譲りへ進んだ。のちにカグヤマは夢で得た「国譲り戦の剣」を「天孫(ニニギ)」に奉っている(前章「高倉下戦記」)。だから、ホアカリとカグヤマは国譲りと関係が深いことが分かる。

神武東征に参加した高倉下(タカクラジ、ホアカリの子カグヤマの子孫)が物部支族を率いて最終的に尾張に落ち着いたようだ。記紀では別神とされる「天孫ホアカリ」と「天神の子ニギハヤ」を同書は同一神「ホアカリ=ニギハヤヒ」としている。これは記紀と合わないので「偽説」とする解釈が昔から根強い。「すべての物部氏は大和物部氏と同根」とする家伝的主張のように見える(尾張氏と尾張物部氏の関係はこちら。先代旧事本紀は「物部氏の祖ニギハヤヒ=ホアカリ」とし、だから「尾張連/尾張物部氏の祖はカグヤマ、その父ホアカリ=ニギハヤヒ」だから「すべての物部氏の祖はニギハヤヒ」と主張している。しかし、尾張氏と尾張物部氏の関係を明示する資料は無いが、尾張氏はカグヤマ子孫として長らく王族扱いだが、物部氏は歴代王族に供奉する臣下である。ただ、王族の一部が臣籍降下したり、王族の血筋を受けた臣下が居たり、その境界は混然としたと考えられる。その意味で、「尾張物部氏の祖はカグヤマ」と見做されるのであろう。恐らくカグヤマ・高倉下の子孫「尾張氏」とその血筋も一部受けた「尾張物部氏」が尾張に落ち着いたのであろう。

 

3304  ホアカリの天降り  遠賀川・博多 (仮説)

「ニニギの天降り先日向は門司」を比定基点として「アマテラスの高天原」を比定論証した。そのアマテラスは葦原中つ国を奪うために一族諸将を派遣して「国譲り」を勝ち取った(記紀)。記紀には書かれていないが、その中心に「天孫ホアカリ」が居たと考える。なぜなら、国譲りが成功すると、アマテラスは「太子オシホミミ」(ホアカリの父)を支配者として高天原から派遣する指名をしている。これは、アマテラスが一族諸将を次々に派遣した総力戦であった証拠である。即ち、太子は後方の総指揮者だった、と解釈される。そうであれば、アマテラス軍の最右翼として対スサノヲ戦の最前線で戦い、スサノヲに勝って「国譲り」を受けた中心は「太子の嫡子天孫ホアカリ」である可能性が高い。もしホアカリがまだ高天原に居たら、オシホミミに代わって指名されたであろう。居なかったから結局次子の天孫ニニギが派遣されたと考えられる。ニニギは生まれたばかりであるから、居ればその兄ホアカリの方が派遣されてしかるべきだ。ここでは「この時点では、ホアカリは先行して天降りしていた」と仮説しておく。

ホアカリは天降って「国譲り」を戦ったと考えられる。そのホアカリの天降り先はどこか。「小戸(彦島)・日向(門司)」はスサノヲ系が支配し続けていただろうし、葦原中つ国の小倉に領地を相当広げていたと思われる。「スサノヲとアマテラスは仲が悪かった」とあり、アマテラスは「葦原中つ国を奪え」としたのだから、そこから遠すぎず近すぎない地であろう。ホアカリもニニギと同じくサルタヒコ船団を使っただろうから、得意の河筋(かわすじ)溯上(そじょう)が使える遠賀川周辺が第一候補となろう(急襲上陸の可能範囲が広い)。その根拠は「ホアカリに供奉天降りした物部造(もののべのみやつこ)の祖天津麻良(あまつまら)の子孫九州物部氏の分布は遠賀川周辺が最も多い」(先代旧事本紀)。だから、その主筋のホアカリの天降り地も遠賀川周辺であろう。そこを根拠に北九州最大の良田適地の筑紫(博多)周辺を狙ったであろう。ここでは仮説とし、論証は第四章に譲る。

遠賀川周辺を拠点に博多へ、葦原中つ国へと平定を広げ、日向・小戸を征してスサノヲ系を出雲に追いやったと考えられる。「博多から東へ東へ」である。弟ニニギは高天原から日向に天降りした。供奉(ぐぶ)した五部神の筆頭は天児屋命(あまのこやねのみこと、祭事・神祇司の中臣氏の祖)である(神代紀第七段本文)。ニニギは祭事王と考えることができる。祭事王が託されたのは聖地小戸(彦島)であろう。そこを抑えるには軍事力よりも、スサノヲ系も受け容れられる祭事系が争いを緩和したのではないか。天孫ニニギが(幼児ながら)祭事王として日向(門司)に天降った目的の一つだろう。兄が呼び寄せたのかもしれない。

 

3305 物部目(め)大連  物部布都久留(ふつくる)連 とは逆か? 目大連は紀に出てくるから河内支族かもしれない。布都久留連はでてこない。同書の入れ替わり誤記か、意図的な入れ替えかも知れない。

と考える。

 

3104 小野妹子と上宮王  「小野妹子の妹月益(つきます)聖徳太子の乳母」との伝承(月益らが開いた太子町南向山西方院縁起)があり、小野妹子と聖徳太子の父上宮王の近い関係が伺える。推古天皇に小野妹子を推挙したのは上宮王である可能性がある。しかし上宮王も聖徳太子も「遣隋使」では表に出て来ない。彼らは倭国を離脱した手前、「倭国遣隋使」に直接関わるのを避けたのかも知れない。

 

 

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