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三著 「千年の誤読」 第六章  ________________

 

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日本書紀が正す「千年の誤読」

 

はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷

 

 

第六章 「法隆寺」の変遷

 

日本書紀は「法隆寺不記載」である。これこそが筆者の発見した「法隆寺の謎を解く鍵」である。

日本書紀はいくつかの重要事績について「不記載」の方針を貫いている。「倭国不記載」「九州物部氏不記載」「上宮王家不記載」などである(初著・次著)。それに今回「法隆寺不記載」を加える。同じ鍵を使って「法隆寺の謎」を検証する。

 

法隆寺中門と五重塔(筆者)

● 法隆寺不記載

日本書紀は「法隆寺」の記述はたった一か所「法隆寺火災、一屋も余す無し」とあるのみである。しかし近年の研究により「全焼したのは法隆寺でなく、その前身の斑鳩寺(いかるがのてら、若草伽藍)であり、法隆寺は斑鳩寺焼失後に隣接地に再建された」が定説となってきた。そうであれば、この一か所の記述も法隆寺ではない。日本書紀は法隆寺については「創建」も「移築」も「聖徳太子との関係」も実質何も記載していないことになる。隣の「斑鳩宮・斑鳩寺」についてはこの焼失記事を含め10回以上の記述があるのに、である。この「日本書紀は法隆寺について何も語らない」、これこそが筆者の発見した「法隆寺の謎を解く鍵」である。

 

● 法隆寺の謎

「法隆寺の謎」は大きく二つある。「法隆寺の創建者とされる聖徳太子の謎」と「法隆寺の再建説・移築説の謎」である。前者は平安時代から論議があるが、信仰とからんで謎に尾ひれがついて作り話が発展した経緯もあり、謎解きは容易でなかった。他方、後者は近年科学的な手法で解明が進んでいる。以下では、この「最近の後者の成果、創建と移築の解明」を基にして歴史を再検証し、その結果を基に「前者の謎、聖徳太子と法隆寺の関係」解明へと進める手順を選ぶ。その基本的な立場は「真実をあばく」ではなく「真実を理解する」である。「千年の信仰には納得できる始まりがあるはず」という謎解きである。

 

結論を先に述べよう。法隆寺は創建以来三度の変質を遂げ、四期に分けられる。

 

● 第一期 「布教寺」  

法隆寺は「仏盛する」として「上宮大王」により「布教寺」として創建された(600年頃、心柱年輪測定法)。上宮大王は創建した後は「上宮法王大王」と呼ばれ(伊予風土記逸文)、自他共に「(北朝)仏法隆盛の推進役」と認められたのであろう。場所は恐らく上宮大王の飛鳥岡本宮近くか(肥前、推古紀)。

まだ倭国の上宮王であった頃は南朝仏教を学んでいた(正倉院御物「委国上宮王の写本法華義疏」は南朝系)。その後、百済王の勧める北朝仏教に帰依したが、倭国がこれを認めなかったことも一因となり倭国から独立して上宮大王を称し、晴れて北朝仏教の布教を始める為に法隆寺を建立したのである。

 

創建時の法隆寺は肥前飛鳥(第二章参照)

 

● 第二期  「菩提寺」 

上宮大王が崩御すると、「上宮法皇」と諡(おくりな)されて、法皇等身大の釈迦三尊像を主仏とする「上宮法皇菩提寺」とされた(623年、法隆寺主仏光背銘)。聖徳太子が薨去したのはその前年であるから太子菩提寺(斑鳩寺)ではない。

法隆寺は上宮王権の官寺であったが、その役割は聖徳太子の熊凝(くまごり)寺(第二代大王時代)を経て百済大寺(第三代・第四代大王時代)が担った。斉明時代に大和斑鳩北に移築されて大安寺となったとされる。

 

● 第三期 大和移築と誤解  

聖徳太子の大和斑鳩寺が全焼した(670年)。その斑鳩に、元明天皇が法隆寺を九州から移築した(708年)。天皇は法隆寺の創建者(上宮大王)についても、聖徳太子との関係(父子)についても黙して語らなかった。その理由は日本書紀の「上宮王家不記載」「倭国不記載」と同じであろう(他王権・他王統不記載)。

その結果民間では「法隆寺は聖徳太子の寺」(誤解、光背銘誤読)が広まった。天皇家はこのような誤解と誤読を肯定しないが否定もしなかった。その理由は、肯定すれば不実になる(「上宮法皇=聖徳太子」)。否定すれば「倭国不記載」「他王権不記載」の紀方針に反するからだ(「上宮法皇≠聖徳太子」)。。

 

● 第四期 「合祀寺」

そこで天皇家(光明皇后)は法隆寺に聖徳太子を祀る「夢殿」を追贈した。「法隆寺は上宮法皇と聖徳太子の合祀寺」に改めることによって、民間の誤解・誤読「上宮法皇=聖徳太子=用明天皇皇子」を黙認したのだろう。その結果、「法隆寺は聖徳太子の寺」・「天皇家の法隆寺」が平安時代には既に定説となり、天皇家の保護によって、法隆寺は世界最古の木造建築伽藍として守られたのである。

 

以下、これらを検証をする。

 

● 法隆寺の「第一期 創建」は600年頃 (検証)

法隆寺関連の「年代を示す最古の確証」は五重塔心柱である。近年の研究でその心柱の伐採年は「年輪年代法」から西暦594年とされ、異論の無いところである。

(1)  法隆寺の創建を塔伽藍の完成時とすれば、心柱伐採(594年)から6年程後、600年頃であろう。参考にしたのは「法興寺の発願587年から完成596年まで10年」(推古紀)である。

(2)  五重塔より金堂の方がより古いとするがある(雲形肘木(くもがたひじき)()の歴史変化)。筆者は初著でこれを支持した。しかし、「金堂の雲形肘木の形は五重塔より古形であるが、両者の着工は同時である」という可能性があり、今回筆者はこれを取る。なぜなら、両者はそれぞれ別の尺度で作られている(建築学の研究成果)。即ちそれぞれ別の工人集団が造った可能性があり、その集団の手慣れた工法・尺度、好みのデザインが採用された可能性がある。寺塔伽藍として「同時着工」の方が自然である。

(3) 「創建607年説」があるが(金堂薬師如来光背銘、奈良時代か)、日本書紀607年の「元興寺完成」記事の誤認であろう(奈良時代)。元興寺は大和飛鳥、創建法隆寺は肥前飛鳥、別の寺である(第一章)。

 以上「法隆寺の創建は600年頃」と検証される(心柱伐採年+6年)。

 

● 法隆寺の「第一期 創建者」は「上宮大王」(検証)

「創建時期は600年頃」と検証したが、「創建者」は誰であろうか。この時代に仏塔伽藍を建立できる人物を内外史書に探す。この頃は列島の仏教黎明期であり、仏教の知識を持ち、国際レベルの建築技工集団を駆使でき、それだけの財力をもっていた人物は多くない。候補者を検証する。

 

(1)  「倭国王」は候補の一人である。600年の王は阿毎多利思北孤である(隋書)。倭国は南朝仏教が盛んだった宋に朝貢していた(宋書「倭の五王」)。倭国年号と考えられている九州年号に「僧聴」(536〜)がある。倭国には仏教が既に伝わっていたことになり、600年頃に仏塔を建てる可能性はある。しかし、倭国の仏教は恐らく南朝仏教で、百済経由の仏教(北魏北朝仏教)の導入には慎重だった(仏教論争538570年、元興寺縁起)。倭国王(天毎多利思北孤)は600年・607年に北朝系の隋に遣隋使を送ったが、北朝系新興国「隋」に対等心むき出しである。法隆寺の主仏は北魏様式(北朝仏教)だから「南朝仏教派の倭国王(阿毎多利思北孤)が創建者ではない」が結論である。

 

(2)  「物部氏」は筆頭大連として記紀に登場するが候補ではない。物部氏の宗家だった物部守屋は蘇我稲目の仏教(北朝仏教)導入に反対し、稲目が歿すると稲目の仏堂・仏像を破壊・破棄し(570年、排仏事件)、それが遠因で「物部守屋(尾輿の子)討伐事件」が蘇我馬子(稲目の子)・聖徳太子らによって起こされ、守屋は討伐されて死亡している(587年)。600年頃の排仏派の物部氏は候補ではない

 

(3) 「蘇我馬子」は候補の一人である。馬子は守屋討伐勝利祈願に「法興寺」の建立を誓願し、勝利した。法興寺は「発願587年、着工588年、刹柱建立593年、完成596年」である(崇峻紀・推古紀)。「法興寺の刹柱建立(593年)」の後に「法隆寺五重塔の心柱伐採(594年)」の順であるから、「法隆寺≠法興寺」はもちろんであるが「法興寺が先行しつつ法隆寺が時期を重ねながら追った」と考えられる。列島最大の豪族となった蘇我馬子といえども、このような壮大な寺院建立を二寺も並行して行ったとは考えられない。法隆寺の創建者が馬子だったら法興寺と同様日本書紀に書かれないはずはない。結論として「法隆寺の創建者は馬子ではない」

 

(4)  「敏達・用明・崇峻」は法隆寺五重塔心柱伐採年(594年)以前に崩御しているからこれら天皇は創建者ではない

 

(5) 「聖徳太子」は候補の一人である。法隆寺の創建者とされている(定説、法隆寺薬師如来光背銘、奈良時代作)。しかし、聖徳太子は守屋討伐戦勝祈願に四天王寺建立を誓願し(587年)、願が叶って摂津難波に四天王寺を作り始めた時期である(推古紀593年)。この時代、寺塔伽藍の創建は大事業であった。太子の身で二寺を並行建立する余裕があるとは考えられない。聖徳太子は創建者ではない

 

(6) では「推古天皇」か? 推古は593年即位である。即位記念に法隆寺建立を発願すれば翌年(594年)心柱を伐採することは不可能ではない。しかし、推古は605年に別の寺の建立を誓願している(元興寺、のちの大和飛鳥寺、推古紀)。この寺は「守屋によって破壊された蘇我稲目の仏堂の再興」という重要な意味が込められている。なぜなら、稲目は推古の祖父であり、その稲目の仏堂は皇女時代の推古の宮を改装したものである(元興寺縁起)。推古は祖父稲目の意志を継ぐ重要な寺院(元興寺=元の仏堂を再興する意味)建立に集中している。それに先立って推古が法隆寺を建立したとは考えられない

 

(7)  前項までに「600年頃創建された法隆寺の創建者」として「記紀と海外史書に現れる主要人物」はすべて検証したが、すべて否定的である。「崇仏派の主要人物(馬子・聖徳太子・推古)」は当時すべて別の寺塔伽藍を創建しているが、法隆寺ではない。

 

(8)  しかし、「記紀にも海外史書にも現れないが重要な候補者」が一人居る。法隆寺金堂主仏釈迦三尊像の光背銘(金石文、次節)に記された「上宮法皇」である。「上宮法皇」は「この時代の崇仏派で独自年号を持つ大王である」(次節)。そうであれば「上宮法皇だけは寺塔伽藍を建立していない」と考える方が不自然である。即ち「600年頃創建された法隆寺の創建者は上宮法皇」の可能性が最も高い(仮説)。そしてそれは奈良斑鳩の地ではない。上宮大王の子聖徳太子ですら斑鳩に移ったのは斑鳩宮造営(推古紀601年)、移り住み(推古紀605年)以降である。

 

(9) 「上宮法皇」は後述するように「上宮王」「上宮大王」「上宮法王大王」「上宮法皇」と呼称が変わった(次節)。法隆寺を発願した時点では「上宮大王」であったと考えられる。

 

以上、「法隆寺の創建者は上宮大王である」と考えられる(検証)。これを次節で論証する。

 

● 法隆寺の「第一期創建者」は「上宮大王」(論証)

前節の光背銘にある「上宮法皇」とは何者か? 安易に「上宮法皇=聖徳太子」という誤説に惑わされずに、きちんと検証する必要がある。

 

(1) 倭国に「上宮王」という王族が居たことが知られている。「正倉院法華義疏写本」に所有者名として「大委国上宮王」の文字がある。「大委国」は「大倭国」の佳字と考えられ(志賀島金印「漢委奴国王」の「委」字)、「大倭国」は九州倭国の自称国号である(第二章)。従って「上宮王は倭国の王族」と考えられる。ちなみに「法華義疏は南朝仏教系」と考えられ、「上宮王は倭国の王族で南朝仏教派だった」と考えられる。前節でのべた「倭国王は南朝仏教派」と整合する。

 

(2) 倭国に北朝仏教が初伝したのは538年である(元興寺縁起)。北朝仏教とする理由は北魏に朝貢していた百済王の勧めだからである。倭国王は南朝仏教だから北朝仏教導入には慎重である。「物部尾輿(大連、倭国の主流派である、第四章)が天皇(倭国王のこと)の許しを得て大臣蘇我稲目の仏堂・仏像を破壊し、難波江(博多)に破棄」している(570年、排仏事件譚、同縁起)。蘇我稲目(大臣、倭国内の非主流派、第三章)は敗退した、と考えられる。

 

(3)  倭国にも「北朝仏教導入」に関わった王族「大別王」がいたという。前項の排仏事件の7年後「百済国王は使の大別王等に経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工六人を付けて還す、遂に難波大別王寺に安置す」(敏達紀577年)とある。この「難波」は前項「(博多)難波江」であり、倭国の支配地である。「倭国内の王族にも非主流派(大別王、北朝仏教導入派)がいた」と示唆している。

 

(4)  倭国内で「物部守屋討伐事件」が起こった(崇峻紀587年)。主流派物部守屋(尾輿の子)の専横が続き、非主流派蘇我馬子(稲目の子)・厩戸皇子・竹田皇子らが立ち上がったのである。物部守屋は倭国大連であるが、大和王権(当時九州遷都時代)からも大連に任じられた(第四章)。倭国内では主流派である。蘇我馬子は大和王権大臣であるが、倭国朝廷にも参画して大臣と呼ばれていた(第三章)。倭国内では非主流派である。排仏事件は倭国内の事件である。「厩戸皇子」は上宮皇子とも呼ばれ(用明紀)、上宮王の皇子である(次項)。上宮皇子がなぜ非主流派(北朝仏教派)に加わったか、それは父上宮王が(北朝仏教派に転じた)非主流派だからである(次項)。大和王権敏達天皇の子竹田皇子が参加した理由は「親蘇我」からであろう(倭国内では非主流派)。

 

(5)  「上宮王」は596年には上宮皇子から「我が法王大王」と呼ばれている。根拠は、伊予風土記逸文に「伊予温泉には天皇の行幸が五度あった、、、上宮聖徳皇子が碑を建てた、、、碑文の詞書に、法興六年(596年)、、、我が法王大王、、、夷與(いよ)の村に逍遙(しょうよう)し、、、」とある。ここで「我が法王大王」は誰か。二人は「法興年号」を使っている。この時代、三つの年号が並存>しているから、三人の大王が居た。倭国王(天王)・大和天皇、それにこの上宮大王である。法興六年(596)には用明天皇は崩御(587年、用明紀)しているから用明天皇ではない。また、この文によれば推古は伊予温泉に行っていないから、推古天皇でもない。風土記(元明風土記)は「倭国不記載」に従っているから倭国王ではない。残るは法興年号を使った「上宮皇子(太子)の大王」である。上宮皇子が「我が大王」というのであるから「上宮大王は上宮皇子(聖徳太子)の父」と考えられる。

 

(7)  上宮王(1)は「大王」になったのである。倭国には当時「倭国王阿毎多利思北孤」が居る(600年、隋書)。同じ国に大王は二人いるはずはないから、倭国王族「上宮王」は倭国から分かれて独立し、大王を自称し、年号を建てたのである。この様に「王族が国を割って大王になる」ということは大事件、万余の兵が動くような大事件である。591年「(蘇我馬子が)二万余の軍を領(ゐ)て筑紫に出で居る」(崇峻紀591年)とある。この前後に該当する記事は他に無い。上宮王は蘇我馬子に推戴されて筑紫に出兵して倭国に圧力をかけ、倭国からの独立を果たし、「大王」となったと考えられる。上宮大王は「法興年号」を建て(591年〜、伊予風土記逸文)、蘇我馬子は「法興寺」を建てている(〜596年、推古紀)。聖徳太子は法興寺の高僧(高麗僧、北朝仏教)を師とし(推古紀602年)、法興年号を使っている(伊予風土記逸文)。上宮王は「北朝仏教派」に転じて南朝仏教の倭国を割った「倭国内非主流派」だったのである。

 

(5)  この時代背景から、倭国王や倭国系の豪族が北魏様式の法隆寺を建てるはずはなく(南朝仏教派)、他方大和王権推古天皇は元興寺建立に拘っている。聖徳太子(上宮皇子)は四天王寺建立に注力している。蘇我馬子は法興寺を建てている。法隆寺を建て得る崇仏派の主要人物は「上宮大王」しか居ない(前節)。法興寺も法隆寺も北魏様式とされる。倭国時代の上宮王は南朝仏教派であったが、上宮大王は蘇我馬子と同じ北朝仏教派に変わっている。南朝仏教派の倭国を見限って独立した一因であろう。

 

(6)  上宮王は独立して「上宮大王」となった(591年)。その時発願して法隆寺を創建した(前項)。創建者は「上宮大王」である。法隆寺が完成した以降「法王大王」と呼ばれた、と考えられる(596年、伊予風土記)。

 

以上、「上宮王」は591年に独立して「上宮大王」となり、法興年号を建て、法隆寺(仏法隆盛を実現する寺)の創建を発願し、594年に五重塔心柱を伐採し(年輪年代法)、596年には既に「上宮法王大王」と呼ばれたのであろう。600年頃に法隆寺を完成した(法隆寺薬師如来光背銘)と考えられる。寺の創建者は発願時の称号は「上宮大王」であろう。法隆寺の第一期は「仏法隆盛の寺」である。

 

● 法隆寺の「第一期創建地」は肥前飛鳥

法隆寺を創建した上宮大王の宮は「(肥前)飛鳥岡本宮」にある。推古紀606年に「皇太子、法華経を岡本宮に於いて講ず、天皇これを大いに喜び、播磨国水田百町を皇太子に施す、因って斑鳩寺に納める」とある。ここで「皇太子」とはもちろん「聖徳太子」である。「岡本宮」とは「(肥前)飛鳥岡本宮」である(舒明紀630年、第一章)。「天皇」とは「推古紀だから推古天皇」と読まれてきた。しかし、この年(606年)の推古天皇の宮は「大和小墾田宮」である(推古紀603年)。

ここの「天皇」とは大和小墾田宮に居る推古ではない。肥前飛鳥岡本宮の「天皇」は「聖徳太子の父、上宮大王」である。紀は「大和天皇以外の大王」は不記載方針があるから記せない。「天皇・大王が複数いたので、天皇に統一した。天皇とあれば推古天皇と誤読するのは読者の勝手」との言い訳を用意して「上宮大王」を「天皇」と記している。推古紀には複数個所でこの手法の「天皇(上宮大王)」の記述がある(前著171頁「上宮王が『天皇』と記されている例 」参照)。

「肥前飛鳥は蘇我馬子の本拠」である(第三章)。それは「物部守屋討伐」に成功し、守屋領を奪ったからと考えられる。馬子はこの飛鳥に討伐戦勝を願って誓願した「法興寺」を建立している。

この討伐には聖徳太子が参加している。紀には書かれていないが、倭国王族上宮王も参加している可能性は高い(倭国不記載)。上宮王も「肥前飛鳥」に新王家領を得たであろう。飛鳥岡本宮の近くに法隆寺を建立したと考える(豊前説もあるが第二期としたい、後述)。

 

● 法隆寺の第二期は「上宮法皇菩提寺」 

「上宮大王」の創建した法隆寺は、上宮大王が崩御した後「上宮法皇の菩提寺」に改められた。それは法隆寺金堂主仏釈迦三尊像の光背銘から解る。光背銘を検証する。

 

法隆寺金堂主仏釈迦三尊像光背銘(要旨)

「法興丗一年(621年)鬼前太后(母皇太后)崩ず、明年(622年)上宮法皇が病、王后(皇后)労疾で並びに床に着く、、、王后王子等共に発願して、、、王等身大の釈迦像を造る、、、二月王后が亡くなり、翌日法皇が崩御した、翌年(623年)三尊像を、現世では安穏、死しては三主(法皇・太后・王后)に従い彼岸の菩提に至る様、止利仏師に造らせた」

 

即ち「上宮法皇の病気治癒を願って等身大の仏像を造らせたが、甲斐なく崩御した。そこで、三主(法皇・太后・王后)の菩提を願って三尊像を造らせた」という。ここの「上宮法皇」が前節の「上宮大王」であることは論を待たない。

光背銘からは「三尊像を主仏に据えた時期」は読めないが上宮法皇の崩御後、それまでの主仏と置き換えたのである。「創建者が連想される仏像を主仏に据える」ということは、後世の「顕彰寺」「菩提寺」の概念に近いであろう。その変化の時期を探るうえで、法隆寺の建築上の研究が非常に参考になる。「法隆寺再建論」とも絡む研究である。

なお、「上宮法皇菩提寺」か「上宮王家菩提寺」かは重要な観点である。三主が祀られているから「上宮王家菩提寺」のように見えるが、法皇の前年に薨去した聖徳太子が祀られていない。あくまで法皇が中心であるから「上宮法皇菩提寺」と考えるのが妥当である。

 

  法隆寺の変遷 (建築学上の研究)

建築学上の研究から「法隆寺の変遷」を探る [1][2]。法隆寺史を長年追い、法隆寺棟梁西岡常一氏(1995年没)の講演会にも参加してきた筆者がようやく納得した学説である。

 

[1] 法隆寺 「建築から古代を解く」 米田良三 新泉社 1993

[2] 「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004

 

(1) 法隆寺金堂の釈迦三尊像(623年造)は尺度Aで造られている(筆者仮称、[3]。この像を安置する法隆寺の金堂・五重塔(600年頃)の「基壇(組み石に囲まれた土台)」も像と同じ尺度Aで造られている。

 

 [3] 尺度A=27.1p 尺度B=27.0cm 尺度C=26.85p AとBの違いはわずかだが、建築学上別系統と言えるという。 平井進『法隆寺の建築尺度』「古代文化を考える」40

 

(2) 金堂(600年頃、もしくはそれより以前)は尺度Bで造られている。その基壇は上物(金堂)より20年も後の尺度で造られている。年代が逆転している。基壇は後年の修復か移築であろう。木造の上物が健在なのに石の基壇をたった20年後に作り直すことは通常「修復」では考えられない。「移築」の証拠であろう。しかし、この移築は後述する708年の斑鳩移築ではない。尺度A(623年の造仏止利仏師の尺度)が85年後の斑鳩移築に使われたとは考え難い。

 

(3) 五重塔は別の尺度Cで造られている。心柱は594年伐採である(心柱の年輪年代測定から)。主仏三尊像(623年)と基壇は尺度Aで造られている、と述べた((1))。基壇の方が後年である可能性が高い(前項と同じ)。恐らく上宮大王の崩御後、三尊像が造られ(光背銘、前節)、菩提寺とするための移築があり、金堂とともに新しい基壇の上に建てられたのであろう。心柱(尺度C)の一部は尺度Aで追加工されている。移築の際に加工されたものであろう。 

 

(4) 金堂・五重塔の裳階(もこし)も尺度Aで造られている。移築の際に追加されたものであろう。

 

(5) 法隆寺が九州から現在の奈良斑鳩に移築されたのは708年と考えられる。七大寺年表に「708年、(元明天皇の)詔に依り太宰府観世音寺を造る、又法隆寺を作る」とある。移築の理由は斑鳩の若草伽藍の焼失(670年)であろう(若草伽藍発掘調査)。

 

以上、法隆寺には「移築の痕跡(基壇が新しい)、その時の追加工跡」が多いが、ほとんどすべて623年(第二期)関連である。708年の斑鳩への移築に際し、何らの変更も追加工も施していないようだ。「上宮法皇菩提寺」をそっくり残すことを目的として「何ら変更しないこと」が元明天皇の意志だったからであろう。

  

● 法隆寺の「第二期 移築地」は豊前京(みやこ)(筆者推定)

上宮法皇が崩御すると法隆寺は上宮法皇菩提寺に改められた。基壇を新しくしてまでするなら移築であろうし、飛鳥内ではあるまい。上宮法皇が崩御すれば、その菩提寺は上宮王家の本拠、父祖の墓域である可能性が高くなる。それは豊前であろう。なぜなら上宮王家」は独立するまで倭国内ニニギ系中枢王族だから、関門海峡(イザナギ禊(みそぎ)の小戸祭場(彦島小戸))を任されていたと想像するが、独立後は豊国北部の何処かを本拠にしたであろう。それは「豊前、京(みやこ、福岡県京都郡)」ではないか。「乙巳の変」(642年)の後10年間記紀から「飛鳥板蓋宮」が消え「京(みやこ)」が出てくる。上宮法皇の子孫である皇極上皇・中大兄皇子が蘇我支族の反撃を避けて蘇我領近くの「飛鳥板蓋宮」から避難した場所ではないかと考えられ「上宮王家の本拠」の可能性があるからだ(孝徳紀645年)この頃の大王は自領本拠に生前から寿墓をつくる風習があり、それは父祖の墓域の可能性も高い。崩御後にここに埋葬されれば、その近くに菩提寺を移築することは十分考えられる。

これ以上の根拠はないから、あくまで筆者の推測である。「法隆寺は第二期として、豊前に移築され上宮王家の菩提寺となった」と推測する。

 

● 法隆寺の後継寺は別

法隆寺は上宮王権の官寺で始まった。それを一代目大王の菩提寺にしたから、二代目大王は別の寺を官寺にした。それは恐らく聖徳太子の遺寺熊凝(くまごり)寺であろう(大安寺伽藍縁起)。三代目田村大王(退位して舒明天皇)・四代目宝大王(のちに皇極天皇)はこれを移して肥前百済寺として大造営している(舒明紀)。後にこれは平城京に移され官寺に近い扱いを受けている。

 

● 第三期 「移築と誤解」の解釈

 斑鳩寺が全焼した(天智紀670年)。その斑鳩に、元明天皇が法隆寺を移築した(豊前から708年(元明在位)、「造る」でなく「作る」と七大寺年表にある)。

 

(1)「斑鳩寺に火災」(天智紀669年)・「法隆寺に火災、一屋も余す無し」(天智紀670年)とある。670年の火事は法隆寺ではなく、これも斑鳩寺であろう。斑鳩寺は669年に小火災をおこし、670年に全焼したのであろう。

 

(2) 斑鳩寺が焼失したので、その焼失跡(実際は少し離れている)に法隆寺が移築されたと考えられる。その理由は二つの寺は隣合わせながら方角が20度ずれていて、並存したとは考えられない。方角を南北正して法隆寺が移築された後、斑鳩寺の記憶は法隆寺の前史として記憶され、670年の記事のように「法隆寺の焼失」と記録されたが焼失したのは斑鳩寺であろう。呼称が違うのは出典が違うからであろう。従って現存の法隆寺には火事の跡も無いし、594年伐採の五重塔心柱も現存している。

 

(3) 斑鳩寺は聖徳太子の寺だが、その焼失跡に移築する寺として「聖徳太子の父である上宮法皇菩提寺、法隆寺」は適切である。当時、九州の法隆寺は寂れていたと考えられる。その根拠は法隆寺伽藍縁起并流記資財帳に「食封三百戸、、、己卯年(679年)停止」とある。唐軍撤退・傀儡倭国消滅の混乱期である。建物の移築の前に本尊(尊釈迦三蔵像)だけが九州から大和に(予想された戦乱から避難して)移された可能性はあると思うが定かでない。

 

(4) 708年に「法隆寺移築の詔書」を出した元明天皇と上宮法皇は次のようにつながっている。

上宮大王(上宮王家初代)―聖徳太子の弟(上宮王家二代目大王、大安寺伽藍縁起)―

―皇極/斉明天皇(上宮王家四代目大王でもある、三代目は舒明)、「聖徳太子の姪」(大安寺伽藍縁起))―天智天皇(敏達天皇四世孫でもある)―元明天皇

上宮法皇は元明天皇の先祖である。元明天皇が先祖の菩提寺である豊前の法隆寺を大和斑鳩へ移築させた理由は十分ある。元明天皇は「古事記」撰録、「風土記」の編纂を命じている。歴史に関心が強い。

 

(5) しかし、大和朝廷には上宮王を公式に顕彰できない理由があったようだ。それを推定する。

@ 上宮王は倭国中枢の王族だったと考えられ、倭国不記載の原則から記述を避けた。

A 上宮王(591〜623)は推古天皇(592〜628)と治世が重なるので両方は出せない。

B 大和王権(肥前)から大和王権(大和)へ遷都した天皇として推古天皇は欠かせない。

C 記紀は「聖徳太子の父は用明天皇」として蘇我系大和王権と上宮王家をつないでいる。「父は上宮法皇」とはできない。

C 天子を自称した上宮法皇は唐の手前はばかられる。秦始皇帝は従来の天皇・人皇・地皇の上に「皇帝(=天子)」を創設したから、「天皇」は唐皇帝の下で許される。

 

(6) 日本書紀(720)は法隆寺についても上宮王家についても上宮法皇についても沈黙を守っている。理由は「倭国不記載」と同じであろう(前項)。その結果民間では「上宮法皇=聖徳太子」(誤読、推古紀の誤読誘導)と「法隆寺は聖徳太子の寺」(誤解、通説)が通説となった。

 

● 第四期 「合祀寺」の解釈

天皇家は「法隆寺=上宮大王菩提寺」を知っていたが、黙していた。その結果、民間は日本書紀の「上宮聖徳太子」と法隆寺の主仏光背銘の「上宮法皇」を同一と誤解した。

天皇家は定説(誤解と誤読)を肯定しないが否定もしなかった。その理由は、肯定すれば不実になる(「上宮法皇=聖徳太子」)。否定すれば「倭国不記載」「他王権不記載」の紀方針に反するからだ(「上宮法皇≠聖徳太子」)。そこで「法隆寺は上宮法皇と聖徳太子の合祀寺」に改めることによって、民間の誤読・誤解「上宮法皇=聖徳太子=用明天皇皇子」を黙認したのだろう。

 

以上、「上宮法皇と聖徳太子の合祀寺」に改めることによって、世の誤解(「上宮法皇=聖徳太子」)に対して天皇家は沈黙を守ることができ、その沈黙によって誤解は定説となった。そして、その定説によって「法隆寺」が「天皇家の法隆寺」として広く認められ、天皇家によって保護されることによって、法隆寺は世界最古の木造建築伽藍として守られたのである。

 

 第六章     了

 

 

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はじめに

第一章 誤読の根源「大倭(やまと)」

第二章 目から鱗「千年の誤読、飛鳥」

第三章 「蘇我氏」は「九州(!)豪族」

第四章 「物部氏」のすべて

第五章 倭国「遣隋使」に大和「随行使」

第六章 「法隆寺」の変遷