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14 話  一図で解る 「神武東征」

 

 

 

「一図」シリーズ(2) です。この図(下図)に登場するほとんどの名を関係づける関係式が、「神武東征」のある一挿話(高倉下(たかくらじ)戦記)から芋づる式に得られましたのでご紹介します。「一図全体」もこちらに掲示しました

芋づるの先「ヒミコ」から始めます。 詳細は注にゆずります。

 

 

「一図」(2)  「ニニギ南征」と「神武東征」  (赤丸は本文赤丸に対応)

 

●  大乱終息と国譲り

@ 図の左端に「倭国大乱」と「ヒミコ」があります。「倭諸国に共立された卑弥呼の倭国大乱終息(180年頃)」です(後漢書・魏志倭人伝)。

 

A 記紀の「アマテラス・スサノヲ国譲り譚」がその一部を成す(倭国大乱終息の一部)、として矛盾が無いこと、国譲り戦の中核にホアカリがいた、と先代旧事本紀が記していること、従ってアマテラス国の中核をなすホアカリ国(遠賀川周辺、先代旧事本紀)は「卑弥呼を共立する一倭諸国」と解釈できます。

 

● 卑弥呼の狗奴国戦とニニギ南征

その後「卑弥呼の狗奴国戦」(180240年頃)がありました(魏志倭人伝)。卑弥呼を共立した倭諸国は皆参戦させられ、ホアカリ倭国も主力軍として筑後へ出兵したでしょう。

  

B アマテラス国の一部をなすニニギ(葦原中つ国、小倉足原中津口か)にも参戦要請があったと考えられます(200年頃?)。ニニギは祭事王で軍を持っていません。そこで兄のホアカリは(後述するように)子のカグヤマB’と物部支軍B”をニニギに与えて、狗奴国(熊本)の背後を突く作戦を任せたようです。 図中の「>、<」字は「主>従」の関係を示します。  

 

それは、幼いながら海路筑紫の日向(関門門司)に天降りした十数年成人後でしょう、ニニギは陸路宮崎日向まで遠征しました(記紀)。それは狗奴国戦の為、と考えられます。

 

神代紀九段本文には 「(日向天降りの後、)既にして(その後)遊行の状は、二上峰(関門戸上山・足立山か)、、、荒れた痩せ地(阿蘇?)、、、丘続きの(九重山?)、、、国探しを経て、吾田(あた、宮崎日南吾田か)の笠狭之碕(かささのみさき)で、、、コノハナサクヤヒメに会う」 とあります。

ニニギはこの宮崎で落ち着き、この地に「日向」「笠狭之碕」などを地名移植しています

 

これを筆者は「ニニギの南征」と呼んでいます。定説は「天降り+南征」を総称して「天降り」としていますが、「南征」のこの新解釈からは意味・目的が異なり妥当ではありません。

 

南征譚には戦記が幾つもあったはずですが記されていません。神武東征譚に移されたからでしょう(次節)。下図南征ルート参照、 「南征譚」補足はこちら

 

_ニニギ南征ルート

 

●  ニニギ南征にカグヤマが従軍_

C 神武東征譚に「カグヤマ子孫のタカクラジC'なる者が、夢で見た『天孫戦勝譚』を披露して鼓舞している」という一挿話があります(高倉下(たかくらじ)戦記とする)_

 

「天孫」は記紀ではホアカリとニニギだけですが、記紀はホアカリ不記載ですからここはニニギです。ニニギの戦勝譚とは南征の戦勝譚しかあり得ません。カグヤマ子孫のタカクラジが南征戦勝譚を知っているのはカグヤマが「南征」に参加してニニギ戦勝譚を子孫に聞かせていたからでしょう。子孫のタカクラジは神武東征に従って、その戦勝譚を披露したのです(神武紀高倉下戦記はこちら注3)。

 

D タカクラジは神武東征後さらに東征して「尾張物部氏の祖はカグヤマ」、とされています(紀・先代)。「ホアカリがカグヤマに物部支族を与えた」とした根拠です。

 

南征譚には幾つも「戦記」があったようですが、いずれも「神武紀東征譚」に移されています。「国譲り譚」のあとに「戦記」が出るのは矛盾だからでしょう。だから南征と言わずに「その後の遊行の状」と軽く記しています。

 

狗奴国戦は勝敗着かず休戦したようで(魏志倭人伝)、ニニギは宮崎に定着しました。いつ狗奴国戦が再開するかわからないからです。 

 

以上「神武東征譚の一挿話」から、「卑弥呼の狗奴国戦、ホアカリの参戦、子のカグヤマと物部支軍をニニギへ、ニニギ南征と神武東征のつながり、カグヤマは尾張物部氏の祖(先代旧事本紀)」がすべて関連していたことが納得されるのです。

 

ホアカリとニニギの堅い絆、カグヤマはその象徴です。それが神武東征にも、その後の倭国と大和の長い絆へと続くのです。

 

● 神武東征時に残した一族

「ニニギ南征・神武東征と倭国の関係」について事例を挙げました。更なる注目すべき点は「神武が東征したあとの関門域がどうなったか?」です。

 

なぜなら、関門域はイザナギの聖地で、アマテラスの誕生の地です。政事王ホアカリ/軍事司アマツマラ(物部氏祖)がスサノヲから奪って(国譲り)、祭事王ニニギ/祭事司アマノコヤネが天降りした地です(前話)。

神武が何も残さず東征し、ホアカリ倭国がイザナギ聖地を放置するはずもありません。その観点で検証すると、なんと「倭国不記載」の記紀に倭国との関係の示唆がありました。

 

 

「一図」(2)  「ニニギ南征」と「神武東征」(再掲)

 

 

E 神武東征譚に「神武(ニニギの曽孫)とアマノタネコ(祭事司アマノコヤネの孫)」が東征に向かった、とあります(神武紀、一図の「大和中臣」がそれ)。

F しかしその子ウサツオミ(子孫が賜姓中臣)は菟狭(宇佐)に残りました(神武紀、図の「九州中臣」がそれ)。残った理由は主筋が残ったからでしょう。

 

なぜならこの時代、主筋が二手に分かれれば、家臣一族も二手に分かれて供奉することが多いです。例えばホアカリにはアマツマラ(物部氏の祖)が供奉しましたが、同じアマテラス系のニギハヤヒにも物部氏(支族か)が供奉しています(図の「大和物部氏」がそれ)。

 

G 九州に残ったウサツオミは祭事司系ですからその主筋とは「ニニギ系祭事王族」のはずです(図の「九州ニニギ系王族」)。それはニニギ直系神武の一族でしょう。神武の皇子は皆東征していますが(神武紀)、孫とか甥とか直系に近い皇子を残した可能性はあります。はっきり「神武系」と言い切れないので「ニニギ系」としました。

 

ホアカリ倭国には政事王と軍事司(物部氏)しか居ませんので、関門域の祭場(小戸)にはニニギ系祭事王族/祭事司に残って祀ってもらう必要はあったのでしょう。

 

ニニギ南征〜神武東征までの間、関門域はニニギ支族が守っていたようで、吉備(下関彦島古吉備)が神武東征準備に協力しています。軍事的にはホアカリ/物部支族が守っていたに違いありません。

 

後年、この九州ニニギ系王族と思われるのが応神系・継体系です(応神系に九州中臣が居る)。その検証は第 16 話で。

更に後年、倭国王族に上宮王が居ます(第4話)。その筆頭重臣は中臣御食子(みけこ、鎌足の父)ですから、その主筋の上宮王も九州ニニギ系王族と考えられます。

これらはこれまでにない私説ですが、それなりの検証と論証を初著次著で示しました。

 

まとめると、「倭国不記載」の記紀に海外史書の「倭国」を加えて検証すると、得られた新解釈「ニニギと倭国の関係」「神武東征と倭国の関係」を記紀は否定しないばかりか、それを肯定する記述を所々に残しているのです。

 

 

 

 

  第 14        了   

 

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以下、第 14 話     注    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●注1 「一図」 全体  (ページトップへ戻る

 

 

 

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一図で解る日本古代史 全体 

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●注2 ニニギ南征譚  補足  (戻る

「ニニギ南征にホアカリの子カグヤマと物部軍の一部が加わった」との論証はかなり複雑です。しかし、論証できてみると、「ホアカリ倭国とニニギ南征の協力関係」から「後世の倭国(卑弥呼台与を継承したホアカリ系倭国)と神武大和王権の関係」が兄弟国であったことが明確に納得されます。

(1) 卑弥呼は倭国と狗奴国の戦いを決めた(魏志倭人伝)。狗奴国とは熊本方面の倭種と考えられているが、戦場は筑後方面であろう。

(2) 対する倭国軍の中核は国譲りを受けた筑紫遠賀川(のちに博多)のホアカリ軍であろう(先代旧事本紀)。ニニギも葦原中つ国(小倉足原・中津口か)の支配をさて置き、狗奴国への参戦を強いられたようだ。祭事王から(倭国軍/ホアカリ軍の一翼を担う)一政事王に変質せざるを得なかったのだろう。

(3) ニニギ軍は狗奴国軍の背後を突く別働隊として、日向(門司)を出発し豊国など東九州を南下したと思われる。その途中の豊国香山(かぐやま、現香春岳)は、かつてホアカリがスサノヲ系から奪い、その記念にホアカリが子にカグヤマと命名したと考えられる。そうであれば、香山はアマテラス系が既に抑えて居た地域、そこを経由して背後に向かうには祭事系ニニギでも進める比較的安全なルートだ。     (戻る

 

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●注3   高倉下(タカクラジ)戦記      戻る

ニニギ軍にホアカリの子カグヤマが参加した、と示唆する挿話が神武東征譚にある

神武紀 神武東征

「天皇が軍を率いて進み、、、時に神、毒氣を吐きて、、、皇軍復振(またおこ)ること能はず、、、人あり号して高倉下(たかくらじ)と曰ふ、忽ち夜夢みらく、、、武甕雷(たけみかづちの)神、、、高倉に謂(かた)りて曰く、予が剣、、、汝が庫の裏に置かむ、取りて天孫に献(たてまつ) れと、のたまふ。高倉、唯唯(をを)と曰(まう)すとみて醒めぬ、、、、夢の中の教に依りて、、、即ち取りて進(たてまつ)る、、、」

要すれば「神武東征軍の高倉下という人が、夢で『剣(国譲り戦の名剣)を見つけて天孫に献(たてまつ)れ』と教えられ、その通りしたら戦いに勝った」という戦記である。先代旧事本紀にも同一内容で記され、同書では更に「高倉下は天(あま)香山(かごやま)命(のみこと)(以下カグヤマ)の後(子孫)の名であり、即ちホアカリの子、尾張物部氏の祖である」としている。これを検証しよう。

 

(1) ここの「天孫」は誰か? 神武紀だけなら「天孫=神武」と読める。そう読ませようとしているのは解るが、神武は天孫ではない。紀では天孫はホアカリとニニギしかいない。

 

(2) では、ここは「国譲り」絡みだから「天孫=ホアカリ」か? 先代旧事本紀はそれを示唆しようとしているが、神武紀は「倭国不記載方針」「ホアカリ不記載方針」があるから、もしそうならこの戦記そのものを不記載にするはずだ。

 

(3) 従ってここは「天孫=ニニギ」ということになる。では、「なぜ高倉下がニニギの夢を見るのか」。それは「高倉下はカグヤマの後(子孫)の名」(先代旧事本紀)だからだ。だから「高倉下は『カグヤマの夢譚』を伝え聴いているのだ。

 

(4) では、なぜ神武東征にその高倉下が参加しているのか? 「神武はニニギの子孫、高倉下はカグヤマの子孫」だから、父祖代々の同族仲間、即ち「カグヤマがニニギ南征に参加したから」と考えられる。

 

(5) 参加の経緯は、ニニギが南征に出るにあたって、祭事系の弱体ニニギ軍に兄のホアカリは子のカグヤマにホアカリの主力物部軍の一部を付けてニニギ軍に参加させたと考えられる。弱体ニニギ軍に安全な東九州ルートを取らせるなら、カグヤマにその名前の由来となった豊国香山(かぐやま、現香春岳)を見せたかったのかもしれない。

 

(6)ニニギ南征に参加したカグヤマは南征戦記(夢譚)を子孫に伝え、その子孫高倉下は神武軍に参加して東征に出、カグヤマの夢譚を披露して神武軍を鼓舞した、と考えられる。

 

(7) 後に高倉下の子孫は尾張物部氏の祖となり、一族は遡(さかのぼ)ればカグヤマ、即ちホアカリの子、と称えられるようになる(先代旧事本紀)。ホアカリがカグヤマに与えた物部支軍が神武/高倉下に従い、尾張物部氏になったのであろう。

 

以上、「夢譚に出てくる天孫はニニギ」として良い。

他の例もある。神武東征譚に「菟田(うだ)縣の兄猾(えうかし)が、天孫が到ると聞いて兵を起こす」とある。この天孫も本来天孫ニニギ南征譚であろう。

これら戦記が元来「ニニギ南征譚」の一部であるなら、なぜニニギ南征譚に出て来ないのか、なぜ神武紀に出て来るのか。

紀にはニニギ〜フキアエズの一族記事(コノハナサクヤヒメ・海彦・山彦)はあるのに、戦記がない。戦記は神武東征譚に移して神武東征を称揚しようとした、と解釈できる。応神・仁徳の外征成果を神功紀にまとめたと同じ手法であろう。

以上まとめると、記紀と先代旧事本紀は次の関連を示唆しているのである。「卑弥呼狗奴国戦 → ホアカリの参戦 → ニニギの参戦(南征) → ホアカリの協力(子のカグヤマと物部軍の分与) → ニニギ南征戦譚の子孫への伝承 → カグヤマ子孫(タカクラジ)の神武東征への参加→タカクラジの伝承譚披歴による戦意鼓舞 → タカクラジの更なる東征(尾張へ) →タカクラジは尾張物部氏の祖とされる → ホアカリは尾張物部氏の祖とされる(最終項は先代旧事本紀のみ)」 

 

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    第 14 話  注   了

 

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