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第 13 話 一図で解る「高天原」
「一図にまとめた(筆者理解の)日本古代史」の紹介、初回です。今回のテーマ、「一図」の「高天原」部分です。
「一図全体」もこちらに掲示しましたから、クリックしてざっと見てください(毎回掲示します)。
今回の部分拡大図(下図)の赤丸は本文の赤丸と対応しています。
「一図で解ける日本古代史」(1) 高天原
● 上図の説明_
今回の大部分は記紀の神話部分で、おなじみですから「定説解釈」はここで繰り返しません。以下の検証では「海外史書の知見を加えると、神話にも史的解釈がかなり可能になる部分がある」、それを中心に検証します。
● イザナギ・イザナミ
記紀の高天原神話は、イザナギ@ ・イザナミ@‘ の「オノゴロシマ」での島生み神話から始まります。ここでの注目点は
「イザナギ・イザナミの出発点『高天原』はどこか? です。もちろん神話はそれを「天」としますが、海外史書を加えた検証から得た史的解釈を示します。
イザナギの曽孫ニニギは高天原から天降りしました。途中「笠沙の岬」でサルタヒコの出迎えを受けて日向に天降りました(古事記)。この「笠沙の岬」は「天(あま、海)の八衢(やちまた、八叉路)」と表現される海上交通の要衝、「笠の形をした対馬南端神崎(こうざき)岬」です(筆者説)。 (第 8 話、ここに戻るには開いたサイトを閉じて下さい)
サルタヒコの本拠地、笠沙岬(現対馬南端神崎(こうざき))
「対馬」について魏志倭人伝は「対馬国に至る、、、良田無く、海物を食して自活す、船に乗りて南北に市糴(してき、交易)す」とあります。
サルタヒコはこの対馬の交易海族でしょう。「ニニギに仕え奉(まつ)らむ」(古事記)とあるからニニギ一族はサルタヒコの主筋です。主従関係は何代も続きますから、ニニギの曽祖父イザナギもサルタヒコ一族の主筋、即ち「イザナギは対馬の王族」、「イザナギの高天原は対馬」が導かれます。
この解釈が次の解釈を導きます。「イザナギは良田の無い対馬を出て、列島での弥生稲作に転業を図った」と。その根拠は子のアマテラス・スサノヲは「良田開拓」で競い合っているからです。詳しくはこちら。
● イザナギの島生み
そうであれば、イザナギ・イザナミの「島生み」とは稲作転業の為の「良田領地獲得、国生み」(本居宣長説)と考えられます。
イザナギはその拠点として「関門海峡の交易中継拠点(船舶修理・食料貯庫)」を選んだと思われます。
● アマテラス・スサノヲ・ツクヨミ_
島生みののちの神生みで、イザナミは火の神を生んだ時の火傷で亡くなり、黄泉の国まで送ったイザナギは小戸で禊(みそぎ)をして、洗った目鼻から三貴子アマテラスA ・スサノヲA‘・ツクヨミA“ が生まれた、とされています。
禊の場所を記紀は「筑紫の日向の小戸(下関市彦島小戸)」としています。
「アマテラスは下関で生まれた」とは少し白けますよね。神話ならもっとぼかしても良さそうなものを。
アマテラスは(イザナギの)高天原(対馬)に帰されましたが、その後「良田」を得ます。対馬には「良田」がありませんから、対馬から対岸の朝鮮半島南端に再移住して良田を得て繁栄します(アマテラスの高天原、補足こちら)。
スサノヲは葦原中つ国(現小倉市足原・中津口か)で良田を得、繁栄します。
その頃、朝鮮半島は楽浪郡・帯方郡など後漢の膨張が続き、韓人らを圧迫し、さらに半島南端の倭国(後漢書韓伝)を圧迫しました。これが半島倭人の列島移住を促し、倭国大乱の一因と考えられえます。
アマテラスも半島高天原から葦原中つ国に一族諸将を送り、スサノヲに国譲りを求めました。 (補足はこちら)
「一図で解ける日本古代史」(1) 高天原 (再掲)
● オシホミミ・ホアカリ・アマツマラ
オシホミミBはアマテラスの太子です。高天原に陣取って一族諸将を葦原中つ国に送り、国譲りを成功させたアマテラス軍の総帥でしょう。天孫ホアカリB‘ はその嫡男。軍事司アマツマラ(物部の祖)B“ を率いて先んじて天降りして遠賀川流域に拠点を築いた、とあります(先代旧事本紀)。スサノヲ一族軍と戦い国譲りを実現した中核部隊でしょう。
これらは記紀には記載されていません。なぜならホアカリはのちの倭国の祖だから、記紀の「倭国不記載」の対象となったのでしょう(対唐外交配慮)。記紀には、ニニギの天降りだけが記されています。 補足はこちら。
● ニニギ・アマノコヤネ・サルタヒコ
C 生まれたばかりのニニギが葦原中つ国の支配者として天降ります。その出発地はアマテラスの高天原(半島南端)です。供奉したのは五部神、その筆頭は祭事司アマノコヤネC‘ (のちの中臣氏)です。笠沙岬(対馬南端)でサルタヒコC“ の出迎えを受け、筑紫の日向(関門域)に天降りました。 補足はこちら。
ニニギの天降り経路 アマテラスの高天原・笠沙の岬・筑紫の日向
「一図で解ける日本古代史」(1) 高天原 (再掲)
● ニギハヤヒ
D ニギハヤヒはアマテラス系の一族「天神」で河内に天降ったとされます。他方、記紀は物部氏の祖としています。それはニギハヤヒが物部氏(アマツマラ)の支族D‘を率いて河内に天降り、のちに神武に下って大和物部氏となったからです(先代旧事本紀)。
● 祭事司・軍事司・海事司
アマテラス一族には高天原の時代から、軍事を司(つかさど)る物部氏・祭事を司るのちの中臣氏・海事を司る国神(サルタヒコ)が居て、何波に亘った列島天降り(ホアカリ・ニギハヤヒ・ニニギ)にそれぞれの司の支族が供奉天降りしたようです。
ホアカリには物部氏宗家が、ニギハヤヒには物部氏支族が、ニニギには祭事司宗家が供奉したと考えられます。
すべての海上移動に海事司サルタヒコ船団が使われたと考えます。このサルタヒコ船団を配下にもつことで、アマテラス一族が半島倭諸国をまとめ、列島移動・侵略・大乱を有利に推し進めた原動力となった、と考えます。
● 「倭国統一」E、「倭国大乱」E’
卑弥呼は倭国大乱を収めたとあります(魏志倭人伝)。大乱を起こした一因は南韓倭国(アマテラス軍)の南下でしょう。大乱収束の一因はホアカリによる国譲り獲得でしょう。ホアカリ倭国は卑弥呼を共立した「倭諸国の一国、次第にその主要国」となったと考えられます。卑弥呼・台与倭国を継承してホアカリ系倭国となったのは100年後、景行・仲哀の協力を得た時代と考えられます(360年頃)。
以上、高天原を史的側面を中心に見て参りました。すべて筆者なりの論証済みの解釈です。
「すこし整理ができた」とお感じいただけたら幸いです。
次回は「ニニギ南征と神武東征」を予定します。
第 13 話 了
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「一図で解る日本古代史」
●注1 前著 (戻る)
「高天原と日本の源流」高橋通 原書房2020年 紹介サイトはこちら。戻る時はサイトを消してください。
●注2 イザナギ・イザナミ 補足 (本文に戻る)
史的解釈のつづきですが、「対馬海族」は周りが弥生稲作で豊かになるのを目の当たりにして「良田無い対馬」(魏志倭人伝)から転居・転業を決意して農地獲得に動き、イザナギ・イザナミとして語られる天皇家の祖が派遣されたと考えます(洲生み=国生み、本居宣長解釈)。なぜなら、その子孫のアマテラス・スサノヲは「良田開拓」を競った、と記紀は伝えています(神代紀七段一書三・紀神代五段一書十一)。
イザナギ・イザナミは対馬を出て、まずオノゴロシマで島生み(国生み)祈願をしたでしょう。第8話で述べた様に「オノゴロシマは沖ノ島」と古事記は明かしています(仁徳記)。
「彦島から六島の先に見えるオノゴロジマ」(仁徳記)は「沖ノ島」
そして、大八島生みが終わって「(オノゴロシマに)帰る時に生んだ小六島は「関門海峡彦島」の北西の小六島」とこれも古事記がつぶやいています(島生み譚第三段)。イザナギは彦島(下関市)を拠点としたのです。
「古事記島生み第三譚の六島」は
「関門海峡北西の小六島」と比定される
これによって、イザナギとして語られる天皇家の祖は「良田獲得の拠点として関門域を選んだ」と解釈できます。ここには既に交易中継拠点を持っていたのでしょう。なぜなら、イザナギは関門域(ひむか)の東(ひもと)に「浦安(瀬戸内海)があり、細戈(くはしほこ、銅矛か)の千もある国(鉄剣交易顧客が居る)」と知っていました(神武紀末尾、)。イザナギ一族が交易海族だったことを示す記事です。
(本文に戻る)_
●注3 アマテラス・スサノヲ・ツクヨミ 補足 (戻る)
これら三貴子の生まれたイザナギの禊(みそぎ)の場所を古事記は「竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の小門(おど)」、日本書紀は少しぼかして諸説を並記していますが「筑紫の日向の小戸(おど)」(神代紀五段一書六、現下関市彦島小戸)と追認しています。
アマテラスは高天原を任され帰されます。その後「良田」を得ます。対馬には「良田」がありませんから、対馬から更に移住したようです。
スサノヲはイザナギに「天の下を治めよ」と命じられた。小戸を治めつつ、葦原中つ国(現・小倉市足原・中津口か)へ支配地を広げようとした。初めは痩せ地しか得られずアマテラスの良田を羨んでいる、神代紀八段一書四)。
「スサノヲは天の下で良田を得られず、アマテラスの良田を羨んで侵入乱暴狼藉を働きます。その乱暴で諸神に追放され、(アマテラスの)高天原 → 天降り(海流下り) → 新羅 → 船を作って出雲へ」神代紀七段一書三・八段一書四)とあります。
この記事から「アマテラスの高天原」の位置がわかります。海流下りして新羅に行ける場所は新羅の西、朝鮮半島南端です(例えば良田のある全羅南道高興(コフン)半島か)。
「アマテラスの高天原」は対馬対岸の朝鮮半島南端です。
スサノヲも次第に良田を得ました。アマテラスに「葦原中つ国は豊かである」(神代紀五段一書十一)」と認めさせる程に良田を得た。それがアマテラスの対抗心に火をつけた。「葦原中つ国は太子オシホミミ(アマテラスの嫡子)の治めるべき国である」として一族諸将を送り込み「倭国大乱」になり、ついにスサノヲに「国譲り」を認めさせた。
半島の倭人諸族はより豊かな北九州を獲得して大挙移住し、半島倭国(後漢書韓伝)はその中心を半島から北九州に移したようだ(半島倭国の消滅、「魏志倭人伝」には半島倭国は出て来ない)。
この「高天原=朝鮮半島南部」説は「天皇家は朝鮮半島から来た韓人系か」とする一説と混同されて嫌悪・忌避される傾向があるが、ここの倭人は南方渡来系の海族(対馬海族ら)である。
そもそもの「アマテラス神話」は九州諸島の海人(倭人諸族)に伝わった古来の共有伝承であろうが、記紀では「天皇家はアマテラスの直系」とひとり占めして「天皇が天の下を支配する権利はアマテラス以来神代で決まっていて、人代では変えることができない」としている。 (戻る)
●注4 ニニギ・アマノコヤネ・サルタヒコ 補足 (戻る)
オシホミミはアマテラスの太子です。高天原に陣取って一族諸将を送り、国譲りを成功させた勝者の総帥です。譲られた国の支配者と指名され、天降る直前に天孫ニニギが生まれたので、ニニギが支配者として天降りした、とされます。アマノコヤネはニニギの天降りに従った五部神の筆頭で、のちの中臣氏の祖とされます。祭事司です。「ニニギは祭事王」を意味します。
ニニギの天降ったのはイザナギの「竺紫の日向(の小戸)」(古事記)と同じ「竺紫の日向(の高千穂)」(古事記)です。この日向は関門域で、特に門司域です。ここは「対馬交易船団の中継拠点」であると同時に「イザナギ一族の転業祈願の聖地」ですから、ニニギはここを守る祭事王となったのです。それを支えるのが祭事司アマノコヤネ(のちの中臣氏)でした。
定説は「日向は宮崎」としていますが、ニニギは日向(門司)天降りの十数年成人後に「その後の遊行の状は、、、」で始まる陸路南征(国探し)に出て宮崎に落ち着き、その地に日向・高千穂・笠狭碕を地名移植しました(紀神代九段本文・一書二・四・六)。
定説は「天降り+南征」を「天降り」としていますが、_「南征」は次話で説明するように、目的も意味も天降りとは異なる事績です。 (戻る)
●注5 オシホミミ・ホアカリ・アマツマラ 補足 (戻る)
オシホミミはアマテラスの太子です。諸将を「国譲り戦」に送り出した高天原の後方司令官でしょう。
送り出された「天孫ホアカリと物部氏の祖アマツマラ」は遠賀川流域に天降りし国譲りを勝ち取ったと考えられます(先代旧事本紀)。ホアカリの建国です。
記紀にはホアカリも建国も記されていません。倭国不記載の方針だからでしょう。そのことが「ホアカリ建国が後の倭国」を示唆しています。
次のように推測できます。「オシホミミは国譲りで得た遠賀川流域をホアカリに与え、軍事司物部氏を付けて政事王とし、卑弥呼共立に参加させた。小倉領域(葦原中つ国)と関門領域(日向・彦島小戸)をニニギに与え、祭事司アマノコヤネ(のちの中臣氏)を付けてイザナギらを祀る祭事王としてホアカリ倭国の兄弟国とした」と。
ホアカリとニニギ、どちらが上かといえば、「卑弥呼/共立倭諸国王=祭/政二重構造」に従って形式上は「祭事王ニニギ/政事王ホアカリ」であったかもしれません。勿論現世実力では「政/祭二重構造」ではありますが、ホアカリ系九州倭国とニニギ系大和王権は後世まで「分野によって主導権を分担する兄弟国」の関係を維持したと筆者は考えています。 (戻る)
第 13 話 注 了
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