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16 話  一図で解る 「神武〜応神」

更新 2023.08 03 三系は同系

 

今回は「一図」の「神武から応神まで」を「一目瞭然(りょうぜん)」にしてみましょう。(一図全体はこちら

 

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この時代の記紀は「神武崩年127歳・神功崩年100歳・神功紀に海外記録と120年(干支二巡)のずれ」などがあり、そのままでは海外史書との整合も悪く、時代考証と修正が必要です。

 

● 時代考証と修正

神武に始まる歴代天皇を記紀は次の様にしています。

 

神武に始まる歴代天皇      

 

記紀はこのように(万世)一系としています。しかし、天皇の在位を、定評ある記紀の年代修正「古事記崩年重視(下図青数字)・在位崩御年令の二倍年歴修正(赤数字)・神功紀の干支二巡繰り上げ・一世代平均23年差」で修正すると、神武の在位270300年頃、崇神の在位は288318年、景行の在位は300332年となって重なるから「神武〜欠史八代(三兄弟三世代)」と「崇神・垂仁」・「景行〜仲哀」の三系は並立、別の国です(下図参照)。

 

年代修正後の歴代天皇 三系は並立

 

神武は関門域の残留ニニギ一族の協力を得て(古)吉備・(古)安芸で船の調達など東征の準備をし、東征に当たっては、一族の一部を九州に残しました。ニニギの主臣アマノコヤネの孫アマノタネコは神武に従い東征しましたが、その子ウサツオミは九州宇佐に残りました(神武紀)。その子孫は後世の賜姓中臣で記されていますが、豊前直入中臣(景行紀)・中臣鎌子(倭国神祇司、敏達紀)・中臣彌氣(みけ)・中臣鎌足(肥前飛鳥)を輩出しています。これらから、中臣氏の主筋ニニギ系即ち神武系の一部も九州に残った、と考えられます。

 

その修正法に基づき「一図」を修正したものが次図です(数値は西暦)。修正点はこちら

 

年代修正した「神武〜応神〜仁徳時代」

 

記紀によれば、神武王統は「神武→ 欠史八代 → 崇神系 → 景行系 → 応神 → 仁徳、、、」となっています。しかし、上述の修正を加えた上図にこの王統を青太線でたどったものが次図です。記紀が「真っ直ぐの一系につなげた欠史八代・崇神系・景行系」が「二回も時代をさかのぼる不合理な系図」になってしまいます。

 

「記紀の一系」を重ね合わせ

 

それなら、「修正」は間違いだったのでしょうか? それとも修正によって「三系の万世一系」は否定され、「三系並立」が正しいのでしょうか。以下で筆者解釈とその根拠を示します。

 

● 開化を継いだのは応神

筆者は「神武 → 欠史八代 → 応神、が史実」と提案します。「三系並立」説です。その根拠は、

 

(1) 年代修正を否定する根拠が見つからない。

(2) 「欠史八代は史実」と見做します。誇らしいとは言えない「欠史」を記紀が敢えて認めているからです。

 

(3) それに比べて崇神系・景行系は「ヤマトタケル物語」など挿話が豊かで面白く、借りてでも入れたくなる貴重な材料です。

 

(4) 欠史八代最後の開化天皇(380年頃まで)と応神の修正活動時期(380頃から〜)が一致します(根拠はこちら

 

(5) 応神は九州中臣氏の主筋に当たる「神武が東征前に豊前関門域に残したニニギ系王族」の可能性があり、「ニニギ系大和王権の皇位継承権」を持っていた可能性がありました(論証はこちら

 

以上まとめると、年代修正図から「欠史八代の最後開化を継いだのは応神」とするのが妥当です。

 

修正を基とした王統(私説)

 

● 並立の場合、三系は同系?、異系?

崇神系・仲哀系には渡来系の兆候があります。また、陵墓の形(前方後円墳か否か)と、その盛衰から、三系は異系とも考えられましたが、記紀が万世一系とする程に拘っていますから、渡来系王を天皇とすることはあり得ません。その頃渡来した漢人系渡来人(280年頃渡来した阿知一族、応神紀二十年条記載)を多く引き連れていたとしても「崇神天皇=アマテラス/ニニギ系天皇」は正しい、と考えられます。です。

 

崇神は危機(人口半減、疫病か)に瀕して天照神・大国主神を祀っているから天孫ニニギ(祭事王)系でしょう。ニニギは関門域(彦島)の祭事王でした(第13)。ここはスサノヲ(大国主の祖)の聖地でもありましたから、大国主神系とも交流がありました。

崇神は神武と同系同族と考えられ、三輪の大物主神系・三輪纒向祭事系とも通じています。

 

● 崇神は神武に続く「アマテラス系倭国の東征第二陣」 

当時、「天孫ホアカリ/天孫ニニギ倭国」は「卑弥呼を共立する倭諸国の主要一国」でしたが、九州内での争いはご法度(台与の共立)でしたから、東に目を向けてまず神武が東征しました(下図東征第一陣、上図@)。

 

神武と崇神は同族・略同時代とすれば「神武東征と建国の成功」を聞いた豊前関門域のニニギ一族が、すぐ同族の崇神を東征第二陣(上図A)として送った、と考えられます。

そうであれば、景行は同じく東征第三陣Bと考えられます。

景行系内部での争い(仲哀皇子間の争い)、神功皇子の崇神系侵食など、大和三系の混乱を収めるべく、応神・仁徳が東征第四陣Cとして神武系開化天皇を継ぐ形で三王権を統合した、と解釈しますが、これは第 36 に委ねます。

 

● 神武〜応神   まとめ

本話の当初記事では、「神武・崇神・景行は同時代で、崇神・景行は渡来系か少なくも神武とは異系」と解釈しましたが、その後の検証から、特に第343536話の検証から、「崇神・景行は神武が豊前関門域に残した同族・少なくもニニギ系の王族」との解釈を採りました。この解釈は「一図にまとめた日本古代史」のどことも不整合を起こさない解釈」と考えます(第 36 話)。

 

記紀の目的は「唐に新列島宗主国」と認めてもらう為に「倭国不記載」「神武建国」「万世一系」「崇神系も景行系も応神系も神武系」と強調したと考えられます。

 

この解釈は従来説に無く筆者説で、論証として十分でない点もありますが、のちの「上宮王権も同系」(第36)とも日本書紀・海外諸史(宋書・三国史記)とも整合する新視点の有力説と自負するものですが、如何でしょうか。

 

 

 

 

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●注1 一図全体    (戻る

 

 

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●注2  年代修正法  (戻る

(1) 「二倍年歴修正」

「神武崩年127歳・神功崩年100歳」など天皇の崩年年令を半分に修正する二倍年歴修正法がある。「魏志倭人伝」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることが根拠とされる。

 

(2) 「記崩年重視」

 古事記に出てくる天皇崩年は海外史書との整合性が比較的高いとされ、信用できないとする根拠が少ないので記載あれば重視します。今回使った記崩年は崇神318年・成務355年・仲哀362年・応神394年・仁徳427年です。

 

(3) 「神功干支二巡修正」

 神功紀には干支を基にした定説と海外史書では120年(干支二巡)の違いがある例がある。例えば、神功紀干支二五五年(定説)の「百済肖古王薨」とあるのは正しくは375年と百済史書から判っている。

神功皇后の崩年二六九年を「干支二巡修正」で修正すると389年だ。この時の紀崩年年齢百歳を「二倍年暦修正」で50歳崩御となる。

 

(4) 年齢差不明の父子相続の場合に「平均年齢差23年」を使う例が多い。

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●注3 修正点 まとめ    (戻る

(1) 神武〜欠史八代(最後開化天皇)を270年〜380年とした。

神武紀に「東征開始は48歳、崩年年齢は127歳」とあるのを「@二倍年暦説」で24歳、64歳と修正する。東征の開始を「台与の共立で再度平和となり、神武一族の領土獲得の機会が遠ざかった頃(260年頃)」とする(私見)。東征の期間が「紀では6年、記では16年強」とあるのを中を採って10年とする。その結果、東征の完了と即位が34歳、崩年64歳と合わせて在位は34歳−64歳、270-300年となる。

開化崩年は不明だが、「神武+三皇子系四世代(23年×490年)≒ 380年」とした。

欠史八代には諸説あるが、佃説(下図)などを参考に、した。

 

大和の諸王権 「神武・崇神と初期やまと王権」 佃収 星雲社 1999年 より

 

(2) 崇神・垂仁系(〜340年、崇神記崩年318年、垂仁+23年などで)。 崇神天皇は、崇神紀の即位年齢60歳、崩年年齢120歳を「@二倍年暦説」で30歳、60歳と修正し、崇神の記崩年は318年で、在位は288-318年となる。

 

(3) 景行〜仲哀(〜362年、仲哀記崩年362年などで)

 

(4) 神功(362389年、修正崩年年令50才(次注●注4 、この時応神5060才、皇子でなく同世代、)

 

(5) 応神(活動時期380年頃〜394年、次注●注4 )

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●注4  応神の活動時期   (戻る)  

15代応神天皇の応神紀は神功皇后崩年に始まり、41年間を記録している。しかし、応神紀は疑問が多いといわれる。私見を含めて修正解釈を示す。修正の根拠の一つは「古事記崩年」であり、これは信用できないとする根拠が少ない。もう一つは「二倍年歴修正法」で、こちらは根拠が弱いがこの頃の「天皇崩年年齢」に限って言えば参考になる(第三章で述べた)。それに従って例えば「120歳で崩御」は「60歳で崩御」とする。

 

(1)  記紀によれば、応神天皇は仲哀天皇の記崩年362年に生まれた、とある。しかし、記崩年で修正すると、応神天皇の記崩年394年、その時の記崩年年齢百三十歳を「2倍年暦」で修正すると、65歳である。従って、生年は329年となる。

新羅征戦は海外史書も含めて解釈すると神功・応神・仁徳の三代40年の大事業であった。それを記紀は仲哀崩年362年にすべてをまとめている。記紀には神功を称揚する為の特別な配慮があるようだ。例えば「征戦協力の見返り半島利権」、それを与える為の根拠づくり(見做し同族化)など。

 

(2) 同じく修正法に従えば、神功皇后の崩年二六九年を「干支2巡修正」で修正すると389年だ。この時の紀崩年年齢百歳を「2倍年暦修正」で50歳崩御となる。この年の応神天皇は前項から60歳である 。二人は親子でなく同世代である。従って「応神天皇は神功皇后の皇子ではない」。

 

(3)  神功紀によれば「神功皇后と皇子は大和へ帰還(372382年)した」。その後の応神紀(〜394年)の殆どは貴国記事など九州である。応神天皇は神功皇后と共に東征したのでなく、残って貴国天皇になっている、とするのが妥当な解釈だ。その解釈に従えば「応神天皇は神功皇后の皇子ではない」という可能性がある。

 

(4) 記紀は「新羅征戦(362年神功〜380年応神〜405年仁徳)」を神功紀(362年)にまとめて記している。記紀は神功の皇子と応神天皇を同一人視している。その為か年次の不整合が多い。

 

以上から、応神の活動時期は380394年、とする。    (戻る

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●注5  応神天皇はニニギ系   論証   (戻る

応神は九州で生まれ、新羅征戦で活躍し、九州で崩御しています(応神紀末尾、九州豊国難波大隅宮)。

「応神は仲哀・神功の皇子」(記紀)は疑問が多く否定されます。修正検証から「神功と応神は同世代」です(検証はこちら

 

応神の孫允恭(いんぎょう)天皇の家臣に中臣が居ます。宇佐のウサツオミを祖とする九州中臣氏の可能性があります。

 

陵墓考古学からも、神武系と崇神系は三輪系を巡って競合しているふしがあり、景行系の北大和進出に伴って崇神系が衰退したふしがあり、三系は並列した別系統としてもうなづけるふしがあります。

 

 

「応神は倭国王族であるが、ホアカリ系の倭国王皇子ではなく、倭国内ニニギ系王族である」を検討する。

 

(1) 応神は神功皇后の皇子ではない、九州で生まれ、難波(関門海峡近く)の大隅宮で崩じた。即ち、応神は九州に定住している。次代の仁徳も難波に住んでいる(関門海峡付近を歌に詠んでいる、第一章)。これは、景行・仲哀・神功ら遠征軍の一時的滞在と明らかに違う(神功は約10年の滞在)。「応神は元々九州氏族の出」の可能性がある。

応神は武内宿禰を殺そうとし、九州から追い出している(前節)。武内宿禰は大和王権と固く結びついた中心的人物である。応神は大和王権皇子ではないことを示している。

 

(2) 允恭(いんぎょう)紀に中臣(ニニギ系)の名が現れる。允恭天皇は応神天皇の孫とされるが、その大臣の多くは応神の次の仁徳が九州から河内に引き連れて行った者達の子孫で、大和系中臣氏とは異なると考えられる。

即ち、応神系譜の中臣氏は「九州中臣氏(一図)」である。従ってその主筋の父祖である応神は「九州ニニギ系王族(一図)」の可能性がある。

 

(3) 応神は応神紀三年条の百済関連記事で「貴国天皇」と表記されている。神功・応神の「貴国」「天皇(大王)」はいずれも百済関係記事にのみに現れる。海外向けの格上げ称号だったかもしれない。「貴国」は東方軍の兵站基地と考えられ、「大王」でなく「王」がふさわしいからだ。しかしここで指摘したいのは、「王」という称号すら大豪族でも容易に使えない、使える条件、家格があっただろう点である。物部氏や蘇我氏もいかに専横しても王のふるまいをすると総反発で滅ぼされている(物部守屋討伐・乙巳の変など)。代々臣下の家柄だからだ。それに対し、応神がたとえ末裔・傍流・支族といえども王族、例えばニニギ系王族に連なっていたからこそ貴国王、海外では貴国天皇(大王)を称することも許容されたのではないか(国内で大王にふさわしいのは東征後の仁徳から)。

 

(4)「倭国王家がホアカリ系」と前述した(第15話)。 ホアカリとニニギは兄弟とされるから、倭国内ニニギ系王族は何代たっても倭国内諸氏族の中でも倭国王家に次ぐ格の高い王族であった可能性がある。例えば後年、応神系が断絶した際、継体が応神五世孫として大和天皇に即位した例がある。応神の推定生年329年(上述)とニニギ(生年180240年頃、中を採って210年頃)とは120年差(差が五世代=五世孫=六代目)である。「応神はニニギ五世孫」であれば倭国内でも王族扱いであっておかしくない。「大和王権の敏達天皇が倭国朝廷で王族扱いされた」という例もある(竹田皇子の父敏達は倭国朝廷で王族扱い、崇峻紀578年)。これもニニギ系大和天皇が格ではホアカリ系倭国王と比肩できるからであろう。後年、ニニギ系と思われる上宮王は倭国から独立する前から「王」である(正倉院御物法華義疏写本に「大委国上宮王」とある)。

 

(5) 関門海峡を支配していたのは大和王権ではない。倭国だ。根拠の一つは「仲哀天皇が筑紫香椎宮にいる時、神(倭国王)の言葉を伝達したのは沙波(山口)の県主の祖だった」と神功紀にある。倭国王は沙波(山口)に配下を置いて支配していた。筑紫との中間の関門海峡も支配していたと考えるのが自然である。

一方、応神は日本貴国王(東国軍司令将軍)として豊国難波(企救半島東)に宮を置き、関門海峡域を自領としている。この重複支配は「倭国王は応神天皇の関門海峡支配を許可しうる立場にあった」と考えることで整合する。遡及推論すれば、「ニニギ以来その子孫はアマテラス〜ホアカリ系倭国から関門海峡域を託されていた」という可能性がある。

 

(6) 一方、仲哀崩御後、神功皇后が貴国を去り後任として応神が立った。応神は日本貴国を北肥前から関門海峡域に移し(難波宮での作歌譚、応神紀)、そこを東方軍の中継基地として、東方の兵力・兵糧と西国の兵器・情報を合体するなど倭国・大和連合の要(かなめ)を果たしたと考えられる。これには「倭国内ニニギ系王族」が最適である。

「応神は倭国のニニギ系王族として、倭国・大和双方の信頼を得て大和・東方軍の基地(日本貴国)の王として迎えられた」と考えられる。それが391年の大戦果(広開土王碑)となったと解釈できる。

 

(7) 関門海峡は聖地(イザナギの禊(みそぎ)の地、第一章)であると共に、倭国にとっては東方支配の要衝、東方にとっては瀬戸内海から海外へ出る要衝だ。双方から信頼され、支配を託すことができる最大の候補は出自面からはニニギ系の子孫であろう。その理由は、アマテラスからこの地(日向、門司、第一章)を治めるよう派遣されたのがニニギであり、ニニギ系と倭国系(ホアカリ系)は狗奴国戦で共同して戦った戦友であり(「高倉下戦記」を共有)、その子孫神武が大和王権の祖となった。

以上から、応神は「倭国王家一族(ホアカリ系)」ではなく「倭国内ニニギ系王族出身の日本貴国天皇から大和王権天皇に即位した」と考えるのが妥当である。

 

この結論から「なぜ応神は突然現れながら、倭国・大和諸国の軍を纏め上げ、前にも増して大戦果(広開土王碑文)を挙げることができたのか」「なぜ、仁徳は大和でなく河内に王朝を開いたのか」「なぜ、河内からの間接支配ながら、大和や近畿の豪族たちを帰服させえたのか」などの疑問が自ずと解けて来る。

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 6 三系は異系か   (戻る

陵墓から考えてみます。

 

(1) 神武〜欠史八代は「纒向で前方後円墳が盛行する中」で、九州風の円墳を継続しています(南大和(葛城))。これは解ります。欠史八代最後の開化だけは前方後円墳(奈良中部)ですが、築造主は応神かもしれません。

 

(2) 崇神系(大和中部柳本陵墓)は渡来系とも云われ、外来感染病を持ち込んだか人口半減したとあり、民心掌握のためか神武系に代わって三輪氏に近づき前方後円墳を取り入れています(欠史八代と同時代)。しかし、渡来系を多く引き連れていたとしても、墳墓が神武系(円墳)と異なるとしても、それなりの背景があり、その王統が(万世一系は置くとしても)記紀がこだわるニニギ系ないし神武系を否定する程ではありません。

 

(3) 景行〜神功系も渡来系とも云われ、本拠は淀川域ですが、本国をほとんど留守にしている傭兵軍団のようでもあります。これも「渡来系を多く引き連れたニニギ系」を否定する根拠はありません。

 

(4) (3)の神功系の佐紀盾列(たたなみ)陵墓(前方後円墳、大和北部)が造られ始まると崇神系の大和中部の柳本陵墓は終わります。つまり「崇神系と景行系は同系(ニニギ系)ながら競合した別王権」の解釈はあり得ます。

 

以上、考古学的知見からは「三系は異系の要素を含みながらも王統は同系(ニニギ系/神武系)」とするのが妥当です。    (戻る

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●注7  万世一系の取引  補足 (戻る

倭の五王の最後、倭王武の上表文には倭国が列島を統一したことを誇って「東は毛人を征すること55国」と、「神武東征」も「崇神四道将軍」(崇神系譚)も「ヤマトタケルの東征」(景行系譚)も全部自分の成果、と誇っているようです。これには、神武系はともかく、崇神系豪族・景行系豪族が別王統であれば、倭国を宗主国と認めるには抵抗があったでしょう。

 

「渡りて海北を平ぐる事95国」と半島征戦も誇っています。しかし、仲哀紀には「神(倭国王)と天皇(仲哀)の間で新羅征戦の提案と拒否、協力要請(軍船提供)と利権提供(新羅の日本国への朝貢)の取引があったこと」が示唆されています(仲哀紀362年)。仲哀(景行系)が別王統であれば、主従関係でないから当然でしょう。倭国を宗主国と認めるには更になんらかの取引があったでしょう。

 

なぜなら、「宗主国と認めた東国は55国」(倭王武上表文)とあり、ただ認めるだけではその他大勢の55国並みだから、崇神系・仲哀系豪族は納得しない。何らかの特別待遇がふさわしい大国・大王である。

 

それが、崇神系豪族・景行系豪族を「アマテラス系王族(神武系と同列、倭国王族)と認めること」で、「倭国を列島宗主国と認める」という取引だった、と私は推測します。それ相応の血縁関係も持った可能性もあります。

 

倭国は国内統一(東方諸国の宗主国支持)を背に宋から半島軍事権まで認めてもらい、それを背景に活躍した東方諸国も半島利権にあずかり、雄略など応神系大和王権は東方支配を推し進めた、諸方がそれぞれ得るものを得た関係だったと思われます。その始まりが「並立三王権の(見做し)一系化」だった、と考えます。

 

「応神は仲哀・神功の皇子」(神功紀)という(史実と異なる)記述は「景行系は神武系」という建前合意が成立したあとの「辻褄合わせ」と考えます。

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15話  注  了

 

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