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第 17 話 一図で解る 「蘇我氏の系譜」
「一図」シリーズ(5) です。今回は「蘇我氏の系譜」です。誤訓「大倭(やまと)」の犠牲となって、蘇我氏は誤解だらけです。 (「一図全体」はこちら)
記紀の中で蘇我氏は重臣を務めていますが、実は記紀に出ていない重要な事実「当時並立した三王権のすべての重臣を務めた(兼務)」があります。しかも、そのほとんどが「九州(図では黄色)を本拠としての活動」でした。
一図(5) 蘇我氏の系譜 (赤丸は本文赤丸と対応)
定説は「蘇我氏は大和(葛城)を本拠とする大和王権随一の豪族」となっています。本拠が大和なら、「一図」では一面緑(大和)のはずです。
しかし、これから検証するように、蘇我氏の活躍の場は九州肥前です。そして、滅ぼされた「乙巳の変」があったのも「肥前飛鳥板葺宮(吉野ヶ里の近く、佐賀県みやき町川原(こうばる)か)」だったのです(上図M、黄色)。
● 蘇我氏の出自は大和だが、九州に定着した
@ 蘇我氏の祖は武内宿禰の三男蘇我石川宿禰(新撰姓氏録)、本拠は大和(葛城?)とされています。
A 二代目満致(まち)・ B 三代目蘇我韓子(からこ)・C 四代目蘇我高麗(こま)はいずれもその時代の「半島征戦」に参加したと考えられます。その後、征戦縮小時期に九州に定着したようです。(詳しくはこちら)
● 蘇我稲目は九州の政商
D 五代目蘇我稲目の頃は半島征戦は殆ど無くなり、蘇我一族も半島従軍から半島交易に転向したようです。
この頃の倭国王は内外の多事から内政重視に転じ、「(倭国は)兵有りと雖も征戦なし、、、五弦の楽有り、、、仏法を敬い、、、新羅・百済は皆?(たい、イ妥、=倭国)を以って大国となし、珍物多く、(新羅・百済)並(みな)敬仰し、、、」(隋書)とあります。
倭国王は軍事に興味を失い、半島任那回復など「外交宗主権」を大和王権に任せ、百済王に勧められた文化財などの仲介や調達で蘇我稲目を重用したようです。稲目は政商だったのでしょう。
● 大和王権の九州遷都と稲目大臣
E 外交宗主権を任された継体は物部麁鹿火(あらかい)に任那回復軍を任せ、次代安閑天皇はそれを指揮する為に「九州豊国に遷都」しました(安閑紀534年、第1話)。その仲介や調達で倭国・大和双方の信用を得た稲目は大和大臣に任じられました(宣化紀)。この大臣職は次代馬子・蝦夷に引き継がれています。倭国王からも「蘇我大臣」と呼ばれたようですE’(元興寺縁起)。
F 稲目は百済王の「北朝仏教勧奨」を倭国王に仲介しました(538年)。百済と北朝(北魏)との関係は「百済王余慶、初めて遣使す」(北魏書472年)から解ります。
倭国王は宋以来の南朝仏教派だから(九州年号「僧聴536〜」から)、仏教は許容しても「北朝仏教は稲目に限って」と制限しました(仏教初伝、元興寺伽藍縁起538年)。稲目は自ら信じて仏寺を広めましたが、北朝仏教導入に反対した物部尾輿・神祇司中臣某は、稲目が歿すると倭国王の許しを得て排仏を徹底しました(仏教論争)。
大和王権は欽明まで仏教に関心を寄せていません(欽明紀552年)
● 蘇我稲目の本拠はどこか?
「蘇我稲目の本拠は九州」と検証しましたが、具体的にはどこか?
「稲目の小墾田の家は向原(むくはら)の近く」(欽明紀552年)とあります。
「安閑天皇は大倭(たい=九州)に遷都したのち、妃に小墾田(おはりだ)屯倉を与えた」(安閑紀元年534年)とあります。「小墾田」は九州です。この地がのちに蘇我稲目大臣に与えられたのでしょう。
「九州の向原」は「現鳥栖市向原(むこうばる)」でしょう。なぜなら、後述するように、蘇我氏は代々この近くを本拠にしています。
詳しくはこちら。
蘇我氏歴代の本拠
● 蘇我馬子の本拠
稲目の継嗣蘇我馬子の本拠は「飛鳥」です。「蘇我馬子の家は飛鳥河の傍」(推古紀626年)とあります。馬子が法興寺を建てた地です(用明紀587・588年)。
「飛鳥」については第2話で検証しました。「飛鳥板蓋(いたぶき)宮災(ひつけ)り、飛鳥川原宮に遷居す」(斉明紀655年)とある「川原宮」の地でしょう。宮名に使うのだから「川原」は河川敷ではない、れっきとした地名です。現佐賀県三養基(みやき)郡みやき町川原(こうばる)地区があります(上図「飛鳥」)。現在も「川原(こうばる)橋」が近くにあります(筆者確認)。吉野ヶ里の近く、稲目の本拠「小墾田」の西10q程です。
結論として「馬子の本拠は飛鳥(現佐賀県みやき町川原か)」です。
のちに斉明天皇が「飛鳥」地名を大和に地名移植しました(現明日香村、斉明紀656年、第2話参照)。
● 蘇我蝦夷(えみし)の本拠
その「飛鳥」の更に西10q程に 「舒明の宮」の地「宮処」がありました。「百済川を以て宮処と為す」(舒明天皇639年)とあり、宮処は地名として残っています。「肥前国神崎郡 蒲田、三根、神崎、宮所」(和名抄)、「神崎郡宮処郷、郡の西南にあり」(風土記)とあります(上図「宮処」)。「神崎郡の西南にある百済川」とは現佐賀県神崎郡諸冨町城原川(じょうばるがわ)でしょう。舒明の大臣蘇我蝦夷の本拠もこの一帯と考えられます。
要すれば、この筑後川北側一帯は蘇我氏本拠でした。その一角に蘇我氏は「諸天皇の宮」を提供しつづけたのです。送り込んだ妃が身ごもって実家に帰り、生まれた皇子がそこで育って即位すると近くに宮を提供する「外戚戦略」の繰り返しです。
一図(5) 蘇我氏の系譜 (再掲)
● 物部守屋討伐
G 馬子(北朝仏教派)は物部守屋(排仏派)と対立し、守屋の専横を嫌う倭国王/倭国王族(上宮王・聖徳太子G’)・大和王族(敏達の竹田皇子)を味方につけて「物部守屋討伐事件」を成功させました。物部宗家の滅亡です。
● 上宮王家の独立と蘇我氏
H 物部宗家は滅亡したが、蘇我氏(北朝仏教派)が覇権を得た訳ではありません。倭国王が全権を掌握したからです。倭国王は北朝仏教を許さなかったようです。
「北朝仏教禁止の倭国」を見限った上宮王は、「倭国内覇権」を諦めた蘇我馬子を従え倭国から独立し、新王権(上宮王家)と新年号(法興年号)を建て、上宮大王を自称しました(釋日本紀伊予風土記逸文592年、法隆寺釈迦三尊像光背銘)。
H’ 馬子は「推古天皇大臣」はそのままに、兼務の「倭国王大臣」を辞し、「上宮大王大臣」を兼務しました。三王権に仕えた蘇我氏、これが実態です。「他王権不記載」の記紀だけでは得られない真実を理解すべきです。
603年に馬子の主筋推古天皇が肥前から大和小墾田宮に帰還遷都しましたが、馬子は肥前から動きませんでした。兼務の上宮大王家大臣を優先したのでしょう。
● 大和王統と上宮王統の接近
I 馬子を継いだ蝦夷は「上宮王家と大和王権の合体」に動きました。なぜなら、それは「応神・継体を輩出した倭国ニニギ系王族(上宮王)の悲願」であり、即ち馬子の使命であったからです。
J 推古が崩ずると、蝦夷大臣は田村皇子を擁立しました。田村皇子は敏達の曽孫、順当な皇位継承権者です。即位して舒明天皇となりました。
当時田村皇子は「上宮王家第三代大王」でした(大安寺伽藍縁起)。その大王位を宝皇后に譲らせての蝦夷の推挙です。舒明紀に「舒明と山背(やましろ)大兄皇子が皇位継承を争った」とあるのは誤譚です。なぜなら、山背は聖徳太子の継嗣であって、大和王権皇位継承権は無いに等しいからです。山背が争ったのは大和天皇位でなく、上宮王家大王位で、これは上宮王孫ですから継承権がありました。しかし、宝皇后(こちらも上宮王孫で第三代の后)が第四代大王となったと考えられます。
舒明天皇・宝皇后(宝上宮大王兼務)は事実上の「大和王権と上宮王権の合体」に近い、と言えます。そうであれば、遡って上宮王家の継嗣であった宝皇女に田村皇子を娶わせたのは蝦夷でしょう。そして、蝦夷の狙いは実現したのです。
舒明・皇極は本拠を肥前としました。第二次九州遷都です(第3話)。蝦夷がそれを勧めたからでしょう。なぜなら、蝦夷の本拠が肥前だからです。
一方、蝦夷は大王の居ない大和にしばしば行き、葛城に祖廟を立てて大王の振る舞いをしました。故郷に錦を飾って大王気取りができることが気に入っていたようです。
K 舒明が崩ずると、宝皇后が「中大兄皇子までの中継ぎ」として皇位を継ぎました。皇極天皇です。蝦夷の狙いは「上宮王統が牛耳る大和王権」でした。なぜなら、蘇我氏は既に上宮王統を牛耳っていたからです。それが実現したのです。
● 蘇我氏の自滅
L 蘇我氏が二王統を合体し、その大和王権を牛耳った以上、上宮王統はもはや不要だ、と入鹿が聖徳太子の継嗣山背(やましろ)大兄皇子一族を滅亡させました。入鹿の思惑は「大和王権皇極の宮は肥前、山背が斑鳩に居なくなれば東国に王族は居なくなる、自分が東国で唯一『王族の振る舞い』ができる」と。それが蘇我氏の命取りになりました。
M 蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣の鎌足によって、肥前飛鳥板葺宮で討たれました(乙巳の変)。蝦夷も自害し、こうして蘇我宗家が滅んだのです。
● 石舞台 Another Story
石舞台古墳 国営飛鳥歴史公園HPより
奈良明日香村の「石舞台」は「馬子の暴かれた墓」とされています。「入鹿の首塚」と共に、明日香村の観光名所です。それを否定はしません。「千年、そう信じられてきた」、それも歴史的事実ですから。
以下で記すのは 「Another Story」 です。
「大和の石舞台は馬子の墓ではありません」。馬子の本拠は肥前飛鳥です。
推古天皇が大和(大和小墾田宮)に遷っても、馬子は本拠を動かしませんでした。兼務の上宮王家(肥前飛鳥岡本宮)大臣を優先したからでしょう。大和には大和王権大臣として代官を送り、年に数回推古にお伺いを立てる程度だったと思われます(推古紀612年)。推古天皇と上宮大王の共同誓願寺「元興寺」(現飛鳥寺)の建立を大臣として陣頭指揮したはずです。のちに大和で墓を暴かれる程の「悪行」をしていません。
「大和小山田古墳は蝦夷の寿墓」と考えます。
大和甘檮岡(あまかしのおか)の南隣にある小山田古墳跡(一辺70mの大王並の方墳、7世紀前半)の発掘調査がこの数年続いています。完成後にすぐ一部破壊された痕跡がある、とされています。
筆者はこれを「蝦夷の寿墓(じゅぼ、生前造築墓、蘇我墓は方墳)」と考えます。
蝦夷は豊浦(とゆら、豊国の港か)からしばしば大和に行き、推古崩御後は舒明・皇極が再度九州遷都しましたから、大和で独り「大王気取り」が出来て気に入ったのでしょう。本拠を大和に移す気で「生前寿墓」を造ったようです。
乙巳の変で(肥前で)自害したので、(大和で)完成していた墓に埋葬されずに墓は(一部)破壊されたのでしょう。
「石舞台は入鹿の未完成寿墓」と筆者は考えます。入鹿は大和に骨を埋める覚悟と権力誇示で生前墓を造り始め、斑鳩の山背(やましろ)大兄皇子一家殺害を決行したが、恨みを買い「乙巳の変」(肥前飛鳥板蓋宮)で暗殺されました。この墓は未完成で放置された、暴かれたものではない、と筆者は考えます。
● まとめ Another Story
蘇我氏が定着した九州に、あとから大和王権が遷都しました。それを助けた稲目は大臣になり、馬子は倭国大連尾輿を向こうに回して大活躍、子の蝦夷は帰還した大和の推古領/蘇我領を拡大しました。そして、入鹿はやり過ぎて自滅しました。
しかし、この時代は三王権が助け合い、交流し、競い合った稀に見る複雑で華やかな時代でした。蘇我氏はその三王権で大臣として活躍したのです。
記紀はその「三王権物語」を「一王権物語」に再編しました。その目的は「大和王権が列島宗主国」と唐に認めて貰う為の国史作成です。
その為に、ある部分では「倭国王」「上宮大王」を「天皇」と記しています。それがバレても、「天王・天皇・大王が混在しては混乱するから天皇に統一した、例えば推古紀に「天皇」とあれば「推古天皇」と誤読するのは読者の勝手、そんなことは記していない、と言い訳が用意されていたようです。
そうと解って記紀を定説とは別の Another Story として再読すると、記紀は「三王権」を明記していませんが、否定もしていないことが解ります。「目から鱗」でばっちり見通せます。お楽しみください、Another Story として。
第18話 了
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第18話 注
●注1 「一図」 全体 (ページトップへ戻る)
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●注2 蘇我氏の出自は大和だが、九州に定着した 検証 (戻る)
@ 蘇我氏の祖は武内宿禰の三男蘇我石川宿禰(新撰姓氏録)、本拠は大和(葛城?)とされています。
この初代は「仲哀/神功/武内宿禰(父)の熊襲征伐〜新羅征戦」に従ったと推測されます。なぜなら、子に百済系の名をつけていますから。
A 二代目満致(まち)は時代的に「三韓征戦後の応神・仁徳の大和帰還/東征」に従い河内に移った、と考えられます。 満致は木満致(百済官人、紀)から百済系の名と考えられています。幼名からそうなら、初代が百済に行ったのでしょう。
B 三代目蘇我韓子(からこ)は「倭国(倭王興)・日本(雄略)連合軍の百済・新羅の経略」に従った、と考えられます。なぜなら、雄略紀465年の「新羅経略譚」に韓子の名がみえるからです。二代目が新羅に関わったのでしょう。
C 石川の曾孫蘇我高麗(こま)は時代的には「継体の筑紫君磐井(いわい)の乱討伐」(物部麁鹿火(あらかひ)が主導)に従い、「麁鹿火を大将軍とする任那遠征」にも加わった可能性があり、この時代に蘇我高麗は九州に定着したと考えられます。
蘇我氏は歴代の名から渡来系とも考えられて来ましたが、いがみあう三国の名を名乗るから、それらの国から来たのではなく、征戦の記念でしょう。
●注3 稲目の本拠は肥前 詳論 (戻る)
(1) 「稲目は大臣に任ぜられた」(宣化紀元年条536年)とある。「稲目」の紀初出・初任である。
任じた宣化天皇の本拠は九州である。なぜなら、「陵は大倭国にある」(宣化紀四年)とあり、「大倭(たい)国」が九州倭国を指すことは第1話で検証したから本拠は九州である。稲目の本拠は宣化天皇の近くであろう。従って、蘇我稲目の本拠は九州である(論拠1)。
(2) 「稲目の小墾田の家は向原(むくはら)の近く」(欽明紀552年)とある。「小墾田屯倉」は安閑妃に与えられていた(安閑紀元年条534年)。安閑の本拠は九州だから、その妃も九州であろう。だから小墾田は九州、従って「稲目の小墾田の家」は九州であろう(論拠2)。
(3) 小墾田が九州であるから、「小墾田の向原」は「現佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川」の近くであろう。従って「稲目の本拠は九州肥前向原」であろう(論拠3)。
以上、蘇我稲目の本拠は肥前である。
(4) 「物部尾輿大連を大連と為す、故(もと)の如し」(欽明紀元年条539年)とある。「初任」記事なのに「故(もと)の如し」とは疑問、とされてきた。実はこれよ5年も前の安閑紀に「物部尾輿大連」が初出している。「物部尾輿大連(初出)が、ある盗難事件に関連して安閑皇后に筑紫国の土地などを献ずる事件」(安閑紀534年)がある。安閑天皇・皇后が九州に遷都した時期である。任命記事が無いのに大連として初出しているから、これは「尾輿大連は他国の大連」を示唆している。大連を持つような九州の他国とは「筑紫の倭国」しかない。別の史料からも「物部尾輿は九州物部氏」が示唆されている(先代旧事本紀)。即ち、「物部尾輿は九州倭国の大連」であった。
安閑(二年)・宣化(二年)の次、欽明天皇はしばしば九州の「難波祝津宮(はふりつのみや)」に来て任那回復軍を指揮した(欽明紀元年条)。
「物部尾輿大連を大連と為す、故(もと)の如し」(欽明紀元年条554年?)とある。「初任」記事なのに「故の如し」とは「初任の前から大連であった」、即ち「尾輿は既に大連であったが、初めて大和大連と為す」を意味する。上述の「初任記事がないのに大連として初出」(安閑紀)と整合する。
「難波祝津宮(はふりつのみや)は九州」の根拠は
欽明がここに来て「新羅を伐つにはどれ程の軍が必要か」と聞いている。「新羅征戦に詳しい土地柄」は九州である。「そう簡単ではない」と率先して答えているのは物部尾輿である。尾輿は倭国大連である。これらから「難波祝津宮」は九州難波である。難波は三か所あったようだ(摂津難波、豊国難波(周防灘)、博多難波(玄界灘))である。
(5) 欽明天皇はしばしば九州に来た((4)) 。稲目は更に九州に留まるよう欽明天皇に娘(堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ))を妃として送り込んでいる。堅塩媛の皇子・皇女は用明天皇・推古天皇となっているから蘇我氏は大和王権の外戚となったのであるが、それはのちの話。
即ち、「物部尾輿は九州倭国の大連として、九州に遷都した大和王権(安閑・宣化・欽明)と接点を持ち、大和王権大連にもなっている。一方、蘇我稲目は宣化の大臣となっている。尾輿大連と稲目大臣は倭国の北朝仏教導入で論争している(後述)。また、大和王権の次代天皇(用明)氏名で争っている(詳論)。稲目の本拠は九州である(論拠4)。
以上、「蘇我稲目の本拠は九州肥前三根郡向原(現佐賀県鳥栖市向原(むかいばる)川)近く」が確認できた。
(戻る)
●注4 仏教初伝 (戻る)
稲目の最も注目される業績は「仏教初伝」である。これを示す重要文献は二つある。一つは戦前に定説の基とされた欽明紀552年の「仏教公伝」である(以下「欽明紀」)。もう一つは戦後に定説とされた「元興寺伽藍縁起」(以下「縁起」)がある。
元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳 (要旨、番号は筆者)
「@大倭国仏法、創(はじ)めて、百済から度(わた)り(戊午538年)、A天皇が群臣に諮ったところ神道派が反対し、独り蘇我稲目が勧めたので、天皇は試みとして稲目にだけ崇仏を許した。Bその後、排仏派と崇仏派蘇我稲目の論争が続く。C稻目大臣が死去(已丑年、569年)すると、D神道派等は天皇の許しを得て堂舎を燒き、仏像・経教を難波江に流した」
注目部分は@である。「大倭国仏法、創(はじ)めて、度(わた)り来る(538年)」とある。この縁起は「仏教初伝は538年」とする教科書の根拠とされる文献である。信頼性に欠ける部分も指摘されるが、ここに挙げた部分は次の欽明紀と一致する内容があり、検証の価値がある。
戦前は記紀を至上とする時代背景から欽明紀の「仏教初伝は552年」が定説とされていた。
欽明紀552年 (要旨、番号は縁起の番号と類似内容に対応)
「@百済王から仏像・経典などの贈り物に天皇がこれほどの妙法は聞いたことが無い、と歓喜踊躍した、、、Aしかれども朕自ら決めず、、、群臣に歴問す、、、蘇我稲目が受け入れを奏し、物部尾輿・中臣鎌子が反対した、、、天皇、稲目に試みに拝ましむべし、、、B後に、国に疫気おこりて、、、D物部尾輿ら奏す、、、天皇曰く奏すままに、、、仏像を以て難波の堀江に流し棄つ、、、」
これらの文献から、「仏教初伝」「仏教論争」が次のように読み解ける。
(1) 縁起@に「大倭国」とある。従来「大倭(やまと)国」と読まれてきた。しかし、縁起が「戊午538年」と明記するこの年には大和には仏教が伝わっていない(「欽明紀」)。従って、従来の読み方は問題がある。この読み方は第一章で検証した「大倭国(たいのくに)」または「大倭国(つくしのくに)」と読むべきだったのではないか。即ちここの「大倭国」は「九州倭国」の意味である。実は、この時代に九州倭国では既に仏教が伝わっていた。九州倭国の年号とされる「九州年号」に「僧聴」(536年-549年)があるから仏教初伝は536年以前である。倭国の前身は「宋書倭の五王の倭国」であることは既に検証している。宋は南朝であるから、その仏教は南朝仏教である。従って「倭国に南朝仏教が初伝したのは536年以前」と考える。
(2) 縁起@の次に「仏法創(はじ)めて百済から度(わた)り来る」とある。「仏教初伝」とされる所以(ゆえん)である。しかし前項からこれは正しくない。では、これをどう解釈すべきか。百済は471年以来、北朝系の北魏に朝貢しているから、その仏教は北朝仏教である。従って、ここの意味は「倭国に創(はじ)めて本当の仏教(北朝仏教)が度(わた)り来た」と元興寺が主張している、と解釈すれば整合する。
(3) 百済王が新興の北朝仏教を勧めた相手は倭国王である。百済自身、南朝仏教から北朝仏教に移った経緯があったと考えられる。まだ南朝仏教に留まる隣国(倭国)に勧めたかったのだろう。それを仲介したのは大和王権の物部麁鹿火や蘇我稲目であった。「磐井の乱」以後倭国に代わって百済との外交を担ったのは麁鹿火の日本軍だったからだ。縁起Aでは「天皇」と記されているが、元の記述は「大倭国の天王」だったと考えられる(雄略紀5年条の「大倭国の天王」と同じ)。
以上、「倭国に北朝仏教が初伝したのは538年」である。
(4) 欽明紀@に「天皇がこの妙法に歓喜踊躍した」とある。「大和へ仏教初伝」の表現としてふさわしく、この天皇は欽明天皇としてよい。 (2)項 と同じく「百済から」だから「北朝仏教」である。倭国の北朝仏教初伝より14年遅いが、「大和へ」の限定付きならば「大和への仏教初伝(公伝)は552年」が正しいと考える。
以上、仏教初伝は「倭国の(南朝)仏教初伝は536年より前」「倭国の北朝仏教初伝は538年」「大和の(北朝)仏教初伝は552年」の順で、「大和と倭国」「南朝仏教と北朝仏教」の違いを認識すれば、どれも「初伝」として正しい。
では、稲目の寄与はどこにあったのか、仏教論争からそれが解る。 (戻る)
●注5 仏教論争 (戻る)
前節で「仏教初伝譚」を検証したので、「蘇我氏と仏教論争譚」も以下の様に解釈される。蘇我稲目は倭国王に百済の北朝仏教を仲介した。その経緯を想像する。
(1) 「磐井の乱討伐」の為、北九州には大和軍が大挙した。数少ない九州在住大和系として、蘇我氏は大和朝廷(九州遷都)の大臣に任じられ、倭国との仲介や交渉で大活躍したと考えられる。
(2) 大和は任那回復戦略を任され、大規模な日本軍が九州に駐在した。代々半島経略に携わった蘇我家は、百済王家との交渉力もあったと考えられる。「百済王からの仏教仲介」を機に蘇我家は仏教のみならず先進文化の先導役として両朝廷で欠かせない存在となったであろう。倭国朝廷でも「大臣」と呼ばれた様だ(縁起)。大和王権大臣だからそう呼ばれただけか、倭国大臣にも任じられ兼務したか不明だが、その扱いを受けていたことが「仏教論争」から伺える。
(3) 蘇我稲目は自ら仏教に帰依することで「倭国と百済の懸け橋」となり、対抗する倭国物部尾輿大連、大和物部麁鹿火大連に競り勝とうとしたと考えられる。
(4) 倭国朝廷内では「南朝仏教派(倭国王)」「仏教排斥神道派(九州物部尾輿ら)」「北朝仏教派(蘇我稲目)」の三つ巴の論争となった、と解釈すると全て整合する。
以上、稲目の仏教導入は「倭国・大和への先進的北朝仏教導入を目指し、その先に北朝(北魏)の先進的律令制度を導入して国を富ませよう、その先導役で権力を握ろう」としたと考えられる。しかし、稲目が没すると「南朝仏教派(倭国王)」と「排仏派(物部尾輿)」の反撃によって、稲目の寺と仏像は破棄された(仏像の博多難波江投棄譚)。「稲目は仏教論争に敗退した」と考えられている。しかしそれは「倭国朝廷では」の条件が付く。蘇我氏としては「崇仏」を続けている。
(戻る)
第 17 話 注 了
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