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18 話  一図で解る 「九州遷都」

 

今回は「一図」シリーズ(6) 、「大和王権の九州遷都」です。細かくは「第一次(推古)、534603年」、「第二次(舒明・皇極)、629645年)」に分かれます(「一図全体」はこちら

 

このテーマは第1話で検証しましたが、ここでは「一図で直感把握」をお楽しみください。日本古代史(700年以前)の後半を彩る波乱と絢爛(けんらん)、宝の山です。

 

 

大和王権は534年〜603年まで、九州豊国に遷都しました(第一次)。

日本書紀にはこの遷都を「大倭(たい)勾金橋(まがりのかねはし、現福岡県香春町勾金)に遷都」(安閑紀元年534年)と書いてあります。

 

四世紀頃から「九州倭国」は美称を好んで「大倭(たいゐ、漢語)」と自称し、「大倭(たい)」と和読みしていました。のちに佳字を選んで「?(イ妥)(たい)」とも書きました(隋書)。

 

しかし、奈良時代以降すべて「大倭(やまと)」と振り仮名され続けました。原文(漢文)には振り仮名がありませんから、後世の誤訓(ごくん)です。その為千年、「大和王権の九州遷都」の発想は封印され続けてきました。しかし、その誤訓から解放されると、「目から鱗」で次々と日本書紀の謎が読み解けます。

 

さて、「一図」から抽出した「九州遷都」E そのものは下図でも下の方ですが、その原因は100年前@から始まっていたのです

 

「一図」(6)   九州遷都  (図中の赤数字は本文赤数字と対応)

 

● 九州遷都の前史  遠因は「宋への朝貢」と「宋の滅亡」  (詳くはこちら注1) 

@ 半島征戦  倭国と共に戦った「大和+東国軍=日本」の活躍が始まりです。

A  遣宋使  倭国は列島宗主国へ 「任那軍事権」など獲得しました。

B 宋承認の「六国諸軍事権」 日本軍の活躍で「倭国」「大和」が対等に。

C 宋の滅亡で倭国は宗主権の根拠失う 「磐井の乱」でガタガタに。

D 倭国は内政立て直しへ、外交宗主権を大和に移譲

半島戦略の倭諸国軍司令将軍となったのは継体軍の物部麁鹿火D●、総司令は「倭国から継体/物部麁鹿火(あらかい)に」代わったと見るべきです

「磐井の乱」の後、倭国は「内政立て直し」の必要から半島派遣軍を主導する余力は無く、「半島外交権の日本(大和+東国軍)への移譲」があったようです(詳くは注2

 

● 大和王権は外征主導の為、九州遷都 (詳しくは注3)

E 継体の長子安閑は「大倭(九州)勾金橋宮に遷都」しました(534年)E●右端

安閑は「蘇我稲目(大和系九州豪族)」を大臣にとりたてて遷都を手配させたようです。遷都の目的は「移譲された半島外交宗主権の実行」です。

 

大和王権にとって「磐井遺領の収奪拡大」が大きかったですが、「九州の高い文化的生活を楽しむ」も思わぬ収穫だったでしょう。なにしろ、軍事力で倭国を超え、任され、国力・政治力で「倭国」と並んだ空前の「大和が高揚した時代」でした

 

次の宣化・欽明は倭国大連の物部尾輿E●を大和大連(兼務)に任命して半島戦略を物部麁鹿火(大和大連)に引き継がせ、欽明は「任那回復活動」に専念します。しかし、結果論ですが「任那回復活動」はほとんど成果を収めることができませんでした。(欽明紀539571年)

 

●  倭国復活、大和不発で、九州遷都(第一次)の終了  (詳しくは注4)

F  倭国復活  物部氏滅亡、蘇我氏辞任で倭国は王政復古

倭国は半島外交(任那回復活動)を大和に任せ(押し付け)、内政重視に転じて相当の成果を挙げました。

その結果、それら内政整備を推進した物部氏を持ち、更に専横し始めました。これを嫌った倭国王・王族(上宮王・聖徳太子)、大和王権王族(敏達・竹田皇子)らが蘇我氏を煽って「物部守屋討伐F●に立ち上がらせ、「物部氏宗家が滅亡」しました。

 

しかし、代わって蘇我氏が覇権を握ったのではなく、倭国王が全権を握ったようです。「蘇我覇権で北朝仏教容認」を期待した上宮王と蘇我氏は失望し、倭国離脱を選びました。即ち「上宮王の倭国からの独立591年)」「蘇我氏の倭国大臣辞任592年)」です。

 

結果的に倭国王は物部氏・蘇我氏を追い払うことができ、独裁体制を確立しました。

倭国と蘇我氏が疎遠になった為、蘇我氏を大臣とする大和王権も倭国と疎遠になったようです。

 

G  倭国復活の証(あかし)が「倭国の遣隋使」(隋書600年)

倭国が「列島宗主権」を隋に認めさせようとしたのです。朝貢ではなく「対等外交」を求めました。それが「日出ずる処の天子云々」の対等外交です。紆余曲折はありましたが、倭国は隋から宗主権を認められ、大和王権に外交宗主権を返上させました。

 

「外交宗主権」を失ったので、「大和王権の九州遷都」は大義名分を失いました。

しかたなく、推古は「大和小墾田宮(肥前小墾田の名が由来、現大和明日香村)」に帰還遷都しましたG●右端(推古紀603年)。

 

第二次倭国遣隋使(607年)には推古は随行使小野妹子を送りましたG●左端。随行使を出したことは、「倭国の外交宗主権を大和も受け入れた」ことを意味します。

 

こうして「大和王権の九州遷都(第一次)」は終わったのです。大和王権の「表舞台の70年」は「うたかたの夢」と消えたのでした。

 

● 「九州遷都」(第二次)

推古天皇が大和小墾田宮で崩御すると、次の舒明天皇・皇極天皇が再び九州に遷都しましたH●左端。これを 「 第二次九州遷都 」 として、第3で確認しました。

 

舒明・皇極は九州飛鳥で育ったので、推古から天皇位を継承した時には「肥前飛鳥岡本宮」を宮としました。これは推古の大和からの「再九州遷都(第二次)」を意味します。

 

舒明は「上宮王権第三代田村大王」としてこの宮を使っていましたから、これをそのまま大和王権の宮としたのです。王位は后(宝皇女)に譲りました(第四代宝大王)。これは、「舒明大和天皇と后の宝上宮大王が同じ宮で二つの王権を治めた」を意味します。事実上の「大和王権と上宮王権の合体」です。それは、上宮大王/蘇我馬子以来の密かな構想でもあり、代わった蘇我蝦夷(二王権大臣を兼務)の構想実現だったのです(第3)。

 

●  皇極の本拠 

舒明を継いだのは皇后で、皇極天皇となりました。皇極紀元年条に「小墾田宮に遷る」とあります。これが「皇極は推古と同じ大和の天皇」という定説(誤説)に結びつきました。しかし、これは 「 推古の大和小墾田宮 」 ではなく、肥前小墾田の地に仮宮したのでしょう。翌年に「権宮(かりみや)より飛鳥板蓋の新宮に移る」(皇極紀二年条)とあります。

この「飛鳥板蓋宮」で蘇我入鹿が暗殺された「乙巳の変」が起こり、「蘇我氏が滅亡」、「皇極は退位」、「孝徳の摂津難波遷都」、即ち「第二次九州遷都の終了」と続く訳です。

 

「大倭(やまと)に遷都」と振り仮名する紀の誤訓(ごくん)に始まる誤解から解き放されると「大和王権の九州遷都とは?」がここまで解かるのです。

 

まだまだ日本古代史は面白いですね。

 

 

18話    了

 

 

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●注0   一図全体    (戻る

 

 

 

 (戻る

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●注1  九州遷都の前史  詳細  (本文に戻る

 

「一図」(6)   九州遷都  (再掲) 

 

 @ 半島征戦  倭国の初めての外征 大和も東国軍を引き連れて

 

四世紀後半に倭国は「列島統一」を成し遂げ、東国軍(日本軍)も引き連れて「半島征戦」に乗り出しました。この「半島征戦」は神功・応神 @●(上図)・仁徳の三代40年の大事業でした。完了は402年、仁徳は凱旋して河内に本拠を遷しました410年頃)。

 

A  遣宋使  倭国の列島統一へお墨付き

 

新羅を征したので、倭王讃は宋に遣宋使をだしました。その結果、時間はかかりましたが、倭王珍の時「列島宗主国(倭国王称号)」・「任那軍事権など」A●(宋書451年)を認められました。

 

B  百済人質  宋承認の「百済など六国諸軍事権」の効果

 

「百済軍事権」を背景に、高句麗に攻められた百済王は倭国/日本軍に支援を要請し、代わりに弟二人を人質に出しました。弟は大倭国王(興)B●に仕え、その弟は末弟を日本の天皇(雄略)に仕えるよう送りました(雄略紀五年条461年)。この五年条は大倭・日本、天王・天皇を並記しているので、「大倭≠日本」、「倭国天王≠大和天皇」が明確です。更に、倭国と大和王権の関係も示しています。「倭国≧大和王権」(兄弟関係)です。「倭国>大和王権」(主従関係)ではありません。

 

 

●  大和王権の九州遷都  初めての表舞台

 

 

C  宋の滅亡で倭国はガタガタ

遣宋使も60年続いたのち、宋が滅亡し(479年)、倭国は宋に認められていた「任那軍事権など」を失いC●、「列島宗主権」の根拠を失いました。その結果、半島では「任那が百済・新羅に分け取りされて消滅」(継体紀529年)、

九州では「筑紫君磐井の乱」参照527年)が起こり、倭国は滅亡の危機に陥りました。

 

その時、(倭国の救援要請で?)継体/物部麁鹿火(あらかひ)が磐井討伐に当たり、勝利しました。

 

継体には倭国を援ける理由がありました。「倭国内ニニギ系王族であった応神の五世孫」として武烈を継げたのは倭国の支援があったからでしょう。また、物部麁鹿火は先祖が九州物部氏で、仁徳東征時に河内に移った河内支族ですから、本家(九州物部氏)の主筋(倭国)の危機に駆け付けるのは誇りでもありました。(戻る

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●注2 外交宗主権の移譲   (戻る

 

D  倭国は内政立て直しへ、外交宗主権は大和に移譲

 

「磐井の乱」の後、倭国は「内政立て直し」の必要から半島派遣軍を主導する余力は無く、「半島外交権の日本(大和+東国軍)への移譲」があったようです。その後の欽明紀までの流れをみると、さかのぼって半島戦略の倭諸国軍司令将軍となったのは物部麁鹿火D●、総司令は「倭国から継体/麁鹿火に」代わったと見るべきです。

なぜなら、安閑の次の次欽明天皇は倭国の物部尾輿大連を大和大連に任命し、半島戦略について諮問しています。

半島戦略担当の倭国からの移譲と考えられます。     戻る

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●注3  九州遷都      戻る

 

E  大和王権は外征主導の為、九州遷都s

継体の長子安閑は「大倭(九州)勾金橋宮に遷都」しました(534年)E●右端

安閑は「蘇我稲目(大和系九州豪族)」を大臣にとりたてて遷都を手配させたようです。遷都の目的は名目「移譲された半島外交宗主権の実行」です。

 

このころの倭国王家(ホアカリ系)と大和王権(ニニギ系)は共にアマテラス系ということもあり、共に助け合い(継体朝支援、磐井の乱を継体が征伐)、倭国朝廷で同席して任那回復活動を議するなど、非常に近い関係でした。

 

それもあって大和王権にとって「磐井遺領の収奪拡大」や「九州の高い文化的生活を楽しむ」も隠れた目的だったでしょう。なにしろ、軍事力で倭国を超え、任され、国力・政治力で「倭国」と並んだ空前絶後の「大和が高揚した時代」でした。

 

次の宣化・欽明は倭国大連の物部尾輿E●を大和大連(兼務)に任命して半島戦略を物部麁鹿火(大和大連)に引き継がせ、欽明は「任那回復活動」に専念します。しかし、結果論ですが「任那回復活動」はほとんど成果を収めることができませんでした。(欽明紀539571年)  (戻る)戻る)

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●注4  九州遷都(第一次)の終了 倭国復活、大和不発で、 (戻る

F  倭国復活  物部氏滅亡、蘇我氏辞任で倭国王政復古

 

倭国は半島外交(任那回復活動)を大和に任せ(押し付け)、内政重視に転じて相当の成果を挙げました。隋書に

「(倭国は)兵有りと雖も征戦なし、、、五弦の楽有り、、、仏法を敬い、、、珍物多く、(百済・新羅)並(みな)敬仰し、、、」とあります。

その結果、それら内政整備を推進した物部氏が力を持ち、更に専横し始めました。これを嫌った倭国王・王族(上宮王・聖徳太子)、大和王権王族(敏達竹田皇子)らが蘇我氏を煽って「物部守屋討伐」F●に立ち上がらせ、「物部氏宗家が滅亡」しました。

 

しかし、代わって蘇我氏が覇権を握ったのではなく、倭国王が全権を握ったようです。「蘇我覇権で北朝仏教容認」を期待した上宮王と蘇我氏は失望し、倭国を離れる選択を選びました。即ち「上宮王の倭国からの独立591年)」「蘇我氏の倭国大臣辞任592年)」です。

 

結果的に倭国王は物部氏・蘇我氏を追い払うことができ、独裁体制を確立しました。

倭国と蘇我氏が疎遠になった為、蘇我氏を大臣とする大和王権も倭国と疎遠になったようです。

 

G  倭国復活の証(あかし)が「倭国の遣隋使」(隋書600年)

 

倭国が「列島宗主権」を主張し、隋に認めさせようとしたのです。朝貢ではなく「対等外交」を求めました。それが「日出ずる処の天子云々」の対等外交です。推古紀はこの遣隋使(第一次)は記していません。当事者でないからです。

 

大和王権推古がどのような経緯で「外交宗主権」を失ったか、倭国に返上したかわかりませんが、倭国の有無を言わせぬ奪還、であってもおかしくありません。なにしろ「大和の任那回復活動はほとんど成果が無く(欽明紀)、他方倭国の内政は充実した(隋書600年)」のですから。

 

「外交宗主権」を失ったので、「大和王権の九州遷都」は大義名分を失いました。

推古は「大和小墾田宮(肥前小墾田の名を採って、現大和明日香村)」に帰還遷都しましたG●右端(推古紀603年)。

 

第二次倭国遣隋使(607年)には推古は随行使小野妹子を送りましたG●左端。随行使を出したことは、「倭国の外交宗主権を大和も受け入れた」ことを意味します。

 

こうして「外交宗主権の移譲」とともに、「大和王権の九州遷都(第一次)」は始まり、そして終わったのです。大和王権の「表舞台」70年は「うたかたの夢」と消えたのでした。

戻る

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●注5  遣隋使    (戻る

隋書600年に次のようにある。

「開皇20年(600年)、?(イ妥)王、姓は阿毎(あま、あめ?)、字は多利思北孤(たりしほこ、たらしひこ?)、阿我輩?弥(おおきみ?)と号し、使いを遣わして(朝貢となっていない)、、、」

 

「城郭無し、内官12等あり、、、軍尼(くに)120有り、中国の牧宰のごとし、、、冠制を始む、、、兵有りと雖も征戦なし、、、五弦の楽有り、、、仏法を敬い、、、阿蘇山あり、、、新羅・百済は皆?(イ妥)を以って大国となし、珍物多く、並(みな)敬仰し、、、」

 

「大業3年(607年)、其王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す、、、その国書に曰く、日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々、帝は覧て悦ばず、、、蛮夷の書、無礼有るは、復(また)以って聞(ぶん)するなかれ、と」

 

この隋書607年条に相当する遣隋使譚が推古紀607年にある。二つは一見矛盾するところがあるが、二書の詳細な検証から、以下の様に論証できる。詳しくは筆者公開中の別サイト参照ください。

別サイトは https://wakoku701.jp/S6.html 

 

 

(1)  倭国は「?(たい、イ妥)」と自称して第一次遣隋使を送った(隋書600年)。このことは推古紀には記されていない。大和推古天皇は当事者でなかったからだ。遣主だったら記さない訳がない。

 

(2)   ?(たい、イ妥)国は第二次遣隋使を送った(隋書607年)。この時?(たい、イ妥)国王は国書「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや云々」という対等外交の国書を送ったので、隋の文帝が怒った、と隋書にある。隋書は第一次と第二次の送り主を同一と見做している。従って、第二次の遣主も推古ではない。

 

(3) しかし、第二次と同年の推古紀607年に「小野妹子を大唐に遣わす」とある。遣わしたのは推古天皇である。では、この派遣は(1)(2) ?(イ妥)国遣隋使とは別の遣隋使だったのだろうか。次項からわかるように、別の遣隋使ではない。小野妹子は推古の命で?(イ妥)国遣隋使に加わった一員「随行使」である。

 

(4)  怒った隋の文帝は?(イ妥)国に調査使「裴清」を派遣する(隋書608年)。小野妹子は裴清(裴世清)と共に隋(大唐)より帰る(推古紀608年)。即ち、隋書の遣隋使と推古紀の遣隋使は同一である。即ち、遣隋使の遣主は倭国王である。小野妹子は「?(イ妥)国王(遣主)の遣隋使に随行使として参加」するよう推古に命じられたのである。

 

(5) 裴清は6084月に筑紫に着いて二か月筑紫に滞在し(推古紀)、その間に?(イ妥)国王に会った(隋書)。?(イ妥)国王は一転して「対等外交と?(イ妥)国自称を撤回し、朝貢を約束した」(隋書)。

 

(6)九州に二か月滞在した後、 6月(摂津)難波に着いた裴清は推古と会う前に更に二か月かけて(推古紀)東端の海(難波の東=東海)まで調査した(隋書)。後に「海岸(東海)に達す、竹斯(つくし)より東、(大和も東海も)皆イ妥に附庸す」と報告した(隋書)。

 

(7) 二か月の東海調査を完了して8月、推古は(東海より戻った)裴清を京(大和小墾田宮)に迎えて隋帝の書を受け取った。そこには「倭皇(推古)の朝貢を喜ぶ」とあった(推古紀)。倭国は?(イ妥)国を自称して朝貢を拒んで天子を自称したので、唐帝煬帝は推古を「?(イ妥)国(つくし国)を除いた倭国の王」と認め、朝貢権を推古に与えたのである。これが「倭皇の朝貢を喜ぶ」の意味である。倭国王に「列島代表権を取り上げて大和に渡すぞ」と圧力をかける為の「予め用意した裏外交」であろう。

 

(8) それを示唆された倭国王は、裴清が推古に会う前に折れて「?(イ妥)国改号・天子自称・平等外交を撤回し、朝貢を約束した」(隋書)。その結果、隋帝の国書「推古に対する倭国代表権・朝貢権」は推古に渡される前に反故にすることが予め決まっていたのであるが、形式上推古に渡された。隋書は公式史書として倭国だけを記して、裏外交である推古紀の内容はカットしている。隋帝の二股外交の完勝である。

 

(9) 聖徳太子は二書の遣隋使譚に登場しない。しないでも、上項のように整合する解釈が可能である。これは定説「多利思北孤は聖徳太子」の不成立を示す(九州王朝説(盗用説)不成立)。

 

以上、隋書と推古紀はすべて合理的に整合していると、解釈できた。隋書は「裏外交は公式史書に載せない」の原則を貫き、推古紀は「倭国不記載」の原則は貫いているが、隋が滅んだ紀編纂時点で「隋との裏外交を隠す必要」は無い。むしろ「大唐(隋)との友好外交」を強調している 。   (戻る)

 

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●注6    随行使(ずいこうし)  (戻る

本文で「推古派遣の小野妹子は倭国遣隋使の随行使であった」と述べたが、隋から唐へ代わった後も「倭国の遣唐使への随行使」を舒明・孝徳・斉明が送っている。

実は「倭国の女王台与にも倭国外(邪馬台国?やまと?)の随行使が居た」と晋書から読み取れる。この様に倭国は建国(西暦80年頃)から滅亡(701年)まで、倭国遣中国使に分国・周辺国の随行使を許し続けてきたようだ。このこと、「日本書紀の遣中国使記事は倭国遣使への大和王権随行使の記事である」ということを歴史の先達の誰も指摘してこなかった。

 

ここではそれら五例を検証して、そこから導かれる「倭国とやまとの関係」を明らかにする。

  

(1) 推古紀の遣隋使 (前述) 

 

(2)  舒明紀の遣唐使 

舒明紀630年「八月、犬上君三田耜(みたすき)、、、を大唐(唐)に遣わす」

孝徳紀653年「大唐に二船を遣わす」

孝徳紀654年「大唐に高向史玄理(たかむこのふひとげんり)、二船、、、遂に京奉に到り、天子に会う、、、日本国の地里及国の初めの神の名を問うた、皆問に答えた」

唐会要倭国伝「永徽五年(654年)、遣使して琥珀瑪瑙、琥珀大如斗、瑪瑙大如五升器を献ず、高宗書を下し、、、新羅素(もと)より高麗百濟を侵す、若し危急有らば、王宜しく兵を遣わしこれを救う(王宜遣兵救之)」

新唐書東夷伝 日本条「孝コ即位し、白雉と改元す 、虎魄大如斗、碼碯若五升器を献ず、時に新羅は高麗・百濟の暴す所、高宗璽書を賜り、出兵して新羅を援け令(し)む、孝徳死に、、、」

 

(3)  斉明紀の遣唐使 

 斉明紀659年「唐国に(石布某と吉祥某を)遣使す、(唐の)天子に陸道奥蝦夷男女二人を示す、〈(以下注)伊吉連博徳(いきのむらじはかとこの)書に曰く、(遣唐使、摂津)難波、、、より発す、、、(唐)天子相見て問訊し『日本国の天皇、平安なりや(天子相見問訊之日本国天皇平安以不)』と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あらむ(戦争となるだろう)、汝ら倭の客東に帰ること得ざる(抑留)、と、、、〉」

 

斉明紀661年「〈伊吉連博徳書に曰く、(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな〉」 

 

(4)  台与の遣晋使と随行使 

 

神功紀 「晋の起居注(皇帝日誌)に曰く、『武帝の泰始2年(266年)、、、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむ』と」

晋書武帝紀 「泰始2年(266年)、、、倭人来たりて方物を献ず」

 

ここで、266年は台与の遣晋使(朝貢使)である(晋書)。この遣晋使に(「倭」でない倭人が随行したと考えられる。

 

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    第 18 話  注   了

 

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