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第 39 話 仁徳の「民のかまど」
仁徳紀の美談「皇位譲り合い譚」と「民のかまど」の Another Story (裏話)をお楽しみいただければ、と思います。
● 「譲り合い」の美談
応神天皇の崩御後、皇太子の兔道稚郎子(うじのわきいらつこ)は「自分はその器にあらず」と天皇即位を辞退しました。
兄の仁徳皇子も「父の遺志に反する」と辞退したので「譲り合い」を繰り返し、空位が三年も続いた、とあります。漁師の献上した鮮魚すら譲り合って宮を三往復する間に腐ってしまって漁師を嘆かせた、などの逸話のあと、「遂に弟皇太子が自害して、仁徳がやむなく即位した」とされています(仁徳即位前紀)。
これは「皇位の奪い合い」でなく「譲り合い」の美談として有名です。
● 仁徳の仁政
この弟の遺志に応えるべく即位後の仁徳天皇は善政を布いたと、これも美談として仁徳紀は続けています。
仁徳天皇は国見で「民のかまどに煙がたっていない、困窮しているらしいから、三年税を免ずる」として宮殿修復も延期した、とあります(仁徳紀)。
この善政美談から仁徳天皇は「仁・徳の天皇」と諡(おくりな)されています。
● ただの美談にしては美しすぎる、なぜ?
これら美談の解釈には研究者間でも「仁徳の弟皇太子謀殺説」・「それを隠すため、美談を捏造?」・「いや、美談を捏造しなければならない程の暴君ではない、それなりの史実だろう」など諸説ふんぷんあります。
しかし、いずれも「ただの推測」を脱する根拠は示せず、「ただの美談にしては美しすぎる、なぜ?」という疑問が解決していません。
そこに挑戦するのが今回のテーマです。
● 応神天皇の皇太子
記紀によれば、皇太子は兔道稚郎子(うじのわきいらつこ)とされ、母は妃の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、大和和珥(わに)氏系)とされます(仁徳即位前紀)。古事記も同じです。これによれば、応神天皇は皇后の皇子を差し置いて、妃の皇子を皇太子に指名して崩じたことになります。
兔道稚郎の系譜 記紀による_
そうであれば「皇后側の巻き返しがあり、皇位係争で皇后の皇子が勝って仁徳天皇になった」という、ありふれた歴史ということで美談を用意する必要もないはずです。
● 別伝
ところが、この系譜には記紀とは異なる別伝があって「兔道稚郎の母は物部氏だ」という「先代旧事本紀」 * (以下「旧事紀」)の系譜があります。
* 先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ) 9世紀、物部氏系を称揚する偽書とも言われるが、物部宗家の独自史料を基にしたと思われる。
旧事紀による皇太子の系譜 記紀とは母が違う_
物部氏に関する限り、同書はそれなりの信用度がありますから、同書の系譜記事を見てみましょう。
それによれば、「物部印葉(いにば)の姉物部山無媛(やまなしひめ)は応神天皇が妃とし、太子の兔道稚郎子皇子(うじのわきいらつのみこ)を生む」とあって、皇太子の母は物部系としています(旧事紀の該当部はこちら)。
筆者がこれをそれなりに信用する理由は、「太子兔道稚郎が天皇になれなかった」という自慢にならない記紀の話を「それは物部系だった」と同書が敢えて追認して載せているからです。
そこで、物部印葉とは誰かを検証しましよう。
● 物部氏の系譜(定説+同書+筆者修正)
物部氏系譜については、安本美典・他による「記紀の他に旧事紀を加味した系譜」(ほぼ定説)がありますが(前々話)、これに更に筆者の修正*を加味して検証したのが下図系譜です(前々話(第37話)で検証済み)。
* 筆者修正根拠、「ホアカリ系倭国(第15話)」・「九州物部氏(第37話)」・「豊前ニニギ系王族(第36話)」・「神功紀の年代修正(第16話注2)」・「応神は倭国内ニニギ系王族(第16話注4)
物部氏系譜 筆者修正
ここで注目頂きたい点は、「河内物部氏Bの祖先を大和物部氏@(定説)でなく、九州物部氏◎(筆者修正)」としている点です(根拠・論証は前々話)。
● 応神天皇と大和物部氏
この修正系譜によれば、大和物部氏にとって応神・仁徳期は激変の時期でした。
前々話で検証したように、応神は仲哀・神功の皇子ではなく、同世代の豊前ニニギ系王族(貴国天皇(応神紀三年条))と考えられます。
また、海外史料(広開土王碑・三国史記など)の検証も加えると「新羅征戦から人質を得て凱旋するまでの過程」は「1年」(神功紀)ではなく「神功・応神・仁徳の三代40年(362〜402年)に亘る大事業」だったと検証できます。
この海外征戦の大事業に大和王権はじめ東国諸国にも倭国から大動員がかけられ、倭国とも近く、ニニギ系大和王権とも近い豊前ニニギ王族の応神が東国軍(日本軍)を統括する日本貴国王(海外では天皇(大王、自尊称?))となったと考えられます。
この様な「40年」を「1年」にまとめ、応神を仲哀・神功皇子と記す様な大規模な「記紀の歴史改変」の理由は「改変の最大理由、『倭国不記載』に関わるから」としか考えられません。その改変の中心が「応神の出自」であるならば、「応神の出自は倭国王族だった、それを不記載とする為の改変」、という解釈が考えられます。
更に、「豊前ニニギ系王として倭国軍/東国軍を率いて新羅征戦後、凱旋東国軍団・捕虜・渡来人を引き連れて河内に留まり、開拓・開墾で新領地を拓き、欠史八代の最後開化天皇を継ぐ形でニニギ系三王権(神武系・崇神系・景行系)を統合して新大和王権とした」と検証しました(第36話)。
その配下には倭国から分与された物部支族・大伴支族を抱えていました。これにより、大和物部氏@Aはいずれも主流からはずれ、九州物部宗家◎の支流河内物部氏Bが大和物部氏の主流となったと考えられます。
その背景には、「大和ニニギ系三王権の乱れ」* があり、それを正そうとする豊前ニニギ国(崇神・景行の出自)があり、そこを出自とする応神・仁徳の「三王権の統合」があったからです。
* 三王権の乱れ 神功皇后・皇子の正妃皇子との争い 、その皇子の崇神系侵食、神武系の衰退など
● 応神が大和物部氏に接近した理由
応神は大和三王権を継承するに当たり、神武系の物部氏を味方につけようと、大和物部氏の直系物部印葉の姉を妃にし、妃の皇子を皇太子に指名して崩じたことになります。
皇后の皇子(のちの仁徳天皇)を差し置いて、です。これが皇位譲り合いに発展した、と考えると理解でき、筆者が旧事紀の系譜の方を採用する理由です。
応神が崩じた以上、応神に従ってきた物部河内支族(九州系)が大和物部山無媛妃の皇太子の天皇即位を受け入れるはずはなく、皇子もそれを統率する自信が無かった可能性はあります。
なぜなら、半島から凱旋軍団を引き連れて帰国した応神天皇が、物部諸流のみならず、東国諸国軍を掌握していたと思われ、大和物部諸系と言えども、大和王権の主流から外れることは既定路線と覚悟したでしょうから(まして大和物部の傍流となった神武直系の物部氏としては)。物部印葉系の出る幕は既に無かった様です。
しかし、応神は(いまや傍流とはいえ)大和物部直系とゆかりの皇太子を立て、大和ニニギ系三国を穏やかに取りまとめようとした丁寧な施策を選んだと考えられ、仁徳もこれを継承したようです。
なぜなら、仁徳は皇位が自分に流れることに自らは動かず、皇太子が自害したあと、その妹(八田媛)を妃に迎え、更に末妹(雌鳥皇女)をも妃に迎えようとし(失敗)、皇后(磐之媛(いわのひめ))の嫉妬を買っています。皇后が亡くなると、八田妃を後皇后に立てていますから、印葉系を大切にしたのは筋金入です。
この様に、「応神・仁徳は大和物部氏@、特に物部印葉系(欠史八代系?)の取り込みに相当の気をつかった」と解釈するのが妥当です。
ただし、それは「仁徳の女たらし」「いや磐之媛皇后の嫉妬深さ」とされて書紀の有名な逸話となった側面もありました。
● 応神紀・仁徳紀に物部氏はでてこない
冒頭の二つの記紀美談には「物部氏」は直接出て来ません。応神紀・仁徳紀にも「物部」字は出て来ません。その前後(仲哀紀以前・履中紀以降)には何度も出てくるのに、です。
それは、この時期が「大和物部氏@と河内物部氏Bの交代時期」に当たるからです。その裏には応神・仁徳がどうあれ、両物部陣営の間で権謀術数・血生臭い攻防があった可能性が否定できません。それに伴う「物部支族間の盛衰ときしみ」があったはずです。記紀はそれを不記載とし、その前後の応神・仁徳を美化しなければならなかったと思われます。
「 皇太子兔道稚郎子(うじのわきいらつこ)の自害」とは、そんな「時代のきしみ」の象徴ととらえることができます。
今回の挿話を「一図」の中に位置づけて示しました(注3の図、こちら)。
しかし、その「(大和王権再生の)生みの苦しみ」によって、それに続く「百年の大和王権安定期、その頂点としての雄略朝」があったのです。
そんな背景の中の、「極めて政事的大改革」ながら「極めて丁寧な『主流を外れつつある大和物部氏』に対する配慮」としての「仁徳の美談」と捉えること、筆者はそれを「定説が見過ごしてきた Another Story 」として、皆様と共有して楽しみたいと思います。
第39話 了
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以下、 第39話 注
●注1 先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ) (戻る)
天地開闢から推古天皇までを記述 9世紀の成立 記紀や古語拾遺を切り張りした偽書ともいわれるが、古い独自資料を多く含み、物部氏の家伝的史書を基にしているとみなされている。
●注2 旧事紀の「兔道稚郎皇子の母」 (戻る)
先代旧事本紀 巻五 天孫本紀
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりのくしたまにぎはやひのみこと)の子ウマシマジに始まる系譜
(中略)
十世孫の物部印葉(いにば)連公
この連公は、軽島豊明宮で統治された天皇(応神天皇)の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
姉の物部山無(やまなし)媛連公
この連公は、軽島豊明宮で統治された天皇(応神天皇)が立てて妃とし太子の兔道稚郎(うじのわきいらつこ)皇子を生む。次に矢田皇女(やたのひめみこ)*、、、その矢田皇女は難波高津宮(なにわのたかつのみや)統治された天皇(仁徳天皇)が立てて皇后とされた。
* 書紀では八田皇女(やたのひめみこ))
(戻る)
●注3 「一図全体+物部氏系譜」 (戻る)
前々話で検証した物部氏系譜です。その時の本文説明を下方に再掲します。
今話の「応神の物部印葉への接近、妃が生んだ皇太子、皇太子の自害、大和物部氏の衰退など」は図中実線赤丸のB’の x 印が大和物部氏の衰退を示します。
● 物部氏の四流 (前々話の説明を再掲します) (戻る)
物部氏は四流に区分できます。
(1) ニギハヤヒ系大和物部氏@
ホアカリの「国譲り」が成功したので、第二陣としてアマテラス高天原からニギハヤヒ(天神=アマテラス一族)が一旦北九州に天降りし、物部支族の分与を受けて河内に再天降りし、河内で神武に従った一団です。
ニギハヤヒは「物部氏の祖」とはされますが、物部氏ではなく、天神(アマテラス一族)です。ニギハヤヒの子ウマシマジが臣籍降下して大和物部氏の主となり、活躍しました。
応神・仁徳以降は主流から消えています。その理由は、応神・仁徳に従って河内に東征した九州系物部河内支族が主流となったためです(筆者推測)。
(2) カグヤマ系尾張物部氏A
ニニギ南征(筑紫日向(門司域)から宮崎日向へ)に際してホアカリから分与された子のカグヤマと物部支族の子孫が神武東征に従って、更に尾張に落ち着いたのがカグヤマ*を祖とする尾張物部氏Aです。
* カグヤマ 記紀は「ホアカリの子」とし(神代紀九段一書六)、旧事紀は「ホアカリニギハヤヒの子」としていますが、修正すれば「ホアカリの子」で、ニニギに従って南征し、子孫は神武東征に従い、更に東征して尾張氏/尾張物部氏となりました。
?
(3) 九州系河内物部氏B
応神・仁徳の東征に従って河内に進出した九州物部氏の支族で、その子孫物部麁鹿火(あらかひ)が有名です。筑紫君磐井の乱討伐を任され、死力を尽くして任務を果たし、後の大和王権九州遷都を支え、倭国大連物部尾輿と協力するなど、どこからみても「九州物部氏の支族」と考えられる。
(4) 宗家九州物部氏◎〜C
ホアカリに供奉して遠賀川域に天降った天津麻良(あまつまら)を祖とする物部氏宗家で、ホアカリ倭国大連として支え、倭国王家の外戚として隆盛しました(先代旧事本紀からの推測)。記紀からは不記載扱いされて、旧事紀元本は禁書・焚書されたようです。
九州遷都時代の大和王権に近づいて大和大連も兼務した物部尾輿(おこし)が倭国内物部氏主流となり、子の守屋(もりや)の代で大和王権大臣蘇我馬子と対立して物部氏宗家は滅亡しました。この部分が記紀に言及されているので(C)、大和物部氏と誤読されています。
倭国王家は物部氏(守屋討伐で)・蘇我氏(上宮王家に従って倭国を離れた)がいなくなり、大王親政となりました(多利思北孤につながる)。これが白村江敗戦・倭国滅亡まで続きます。
( 筆者別サイト:https://wakoku701.jp/S7.html#九州物部氏 もご参照ください)
(戻る)
第39 話 注 了
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