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ここまで「後世の振り仮名によって日本書紀は千年誤読されてきた」と指摘した。その誤読を正すのは「日本書紀の原文」である。そしてこの「正された誤読」は「整合性高い一図」にまとめることができる。本話はこの一図とその解説、更に「一図に注目ポイントを付加した七図」を提供する。
一図に加えた赤ボタン(01〜69)をクリックすると解説文が開きます。「図による直感的理解」と「解説文による論証確認」の両方が得られ、この一図で日本古代史全体が整合性よく把握できると信じます。
どこからでも、興味あるところ疑問あるところをクリックして自分なりの理解図にしていただければ幸甚です。ただ、はじめに「01」を開いて使い方をご理解ください。
一図に注目ポイントを付加した下記(七図)もご利用ください(クリック)。
――「倭国不記載」「
――「応神天皇(筆者理解)」
――「応神天皇(日本書紀)」_
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[1] 一図にまとめた日本の古代史(元図)
定説や教科書に無い新解釈を多く含み「珍奇な素人説」に見えるでしょうが、すべて記紀を基本として論理の筋道だけをたどった論証を解説文で確かめてください。赤ボタン(01〜69)をクリックすると解説文が開きます。
[2] 一図のまとめ
以上の解読によって、日本書紀は「千年の誤読」から大いに解放されると考える。
「一図の赤ボタンの解説70項は多すぎて解りにくい」という方は以下のまとめを参考にされたい。それでも長いが「古代史の総括」であるのでご容赦いただきたい。
(1) ニニギの天降りまで
イザナギは高天原(対馬)から筑紫日向小戸(関門海峡小戸)に天降りした(海流下り)。子のスサノヲは葦原(あしはら)中つ国(小倉市足原(あしはら)中津口(なかつくち)か)の支配を命じられ、子のアマテラスは帰った高天原(良田無い対馬、魏志倭人伝)から良田あるべつの高天原(朝鮮半島南端高興(コフン)付近か)へ再移住。スサノヲが良田を得ると、うらやんだアマテラスは一族を繰り返し天の下(遠賀川域、先代旧事本紀)へ派遣し、天孫ホアカリと物部の祖はスサノヲ系と戦い「国譲り」を受けた(政事王)。天孫ニニギ(弟)と中臣の祖は高天原(半島南端)から笠沙の岬(対馬南端神崎(こうざき))を経て筑紫日向(ひむか、門司、海から日が昇る)へ天降りした(祭事王)。
今回海外史書などで記紀の「倭国不記載」を補い、誤読を正したから初めて「高天原」「天降り」「天孫ホアカリの天降り不記載の謎」などの「神代と人代のはざま」が解明されたと考える。伝承と夢と史実をないまぜて新たな伝承として公定した神代紀は、かなりの曖昧を許容し異種説を紹介する公平さを示している。しかし、古事記の「天皇家の祖は対馬・半島の海族」と読み取れる示唆を日本書紀も暗に支持している。公定時の読者は「ここまでの伝承記述なら伝承を共有した倭国王家子孫(ホアカリ系)も許容できるだろう。倭国不記載もホアカリ不記載も外交上い致し方ない。」と受け取っただろう。我々も今当時の読者と同じ理解、「振り仮名誤読の無い時代、忘却のまだない時代の理解」が共有できる立場に立てたと考える。
(2) ニニギの南征と神武東征まで
高天原(半島南)から笠沙岬(対馬)を経て日向(門司・小倉)に天降りしたニニギはそこの支配に留まれず、予定に反して南征に出た。卑弥呼の狗奴国戦(魏志倭人伝)の一環か、ホアカリは子のカグヤマ/物部支族をニニギに与えてニニギ南征(陸路、阿蘇・高千穂峡・宮崎)が始まった。ニニギは成果なく宮崎日向(門司日向の地名移植)で没した。曽孫の神武は東征に出る。その際、ニニギ系王族と中臣の一部を九州(ホアカリ倭国)に残した。ホアカリ倭国はその後100年かけて卑弥呼倭国を再統一して倭国王となった(倭の五王、宋書)。
(3) 応神〜継体まで
神武の大和東征後、欠史八代は四世代約九十年である。紀は「その後崇神〜景行が続いた」とするが、時代検証から神武系とそれら二系の三系は並立したと解釈される。そうであれば、「欠史八代の開化を継いだのは応神」の可能性が高い。なぜ継げたのか。応神は「神武が九州に残したニニギ系王族(ニニギ五世孫?)」だったからだと考えられる(倭国が後ろ盾か)。ニニギ系王統が絶えかけた大和王権を継いだ応神・仁徳は河内に大和王権を遷した。数代後応神系が武烈で絶えると、継体(応神五世孫、ニニギ十世孫?)が継いだ(倭国が後ろ盾か)。
(4) 九州遷都〜大和帰還遷都
継体は倭国の内乱「磐井の乱」を救援征伐し、九州に磐井遺領(豊国)を得た。任那回復軍を託された欽明(継体の子)は九州に宮を設けて倭国と戦略を議し、その子の安閑は九州の宮(勾金橋宮、福岡県香春町勾金か)に一時遷都した。継体子孫にとって九州は祖父の故地、文化文明の先進地で九州遷都は長引き、敏達・崇峻・推古と続いた(約70年間)。その間、大和王権は肥前に宮を置いたが、倭国内筆頭王族のような形で倭国王家と交流した(仏教論争・蘇我氏の台頭・蘇我物部覇権争いなど)。
(5) 上宮王家独立と大和王権との融合まで
倭国王の裁定で北朝仏教導入論争に敗した倭国内上宮王(応神・継体を輩出した王族の子孫、ニニギ十五世孫?か)と蘇我氏は九州物部宗家の守屋を倒し、倭国を飛び出し上宮王権創立・大王自称・年号創建を強行した。それもあって蘇我馬子を大臣とする大和王権と上宮王権は大和帰還遷都を指向した。上宮大王継嗣聖徳太子の斑鳩・推古の大和帰還遷都(推古紀603年)・蘇我氏の故地大和葛城回復の試みなどが続く。
推古を継いだのは田村皇子(敏達孫)だが、その頃田村は上宮大王孫の宝皇女の夫で三代上宮大王に就いていた。田村は大和王権舒明天皇として即位し、恐らく宝皇女が第四代上宮大王についたと推測される。舒明が歿すると宝大王が継ぎ皇極天皇となった。これらは蘇我蝦夷が二王権で専横して強行したもので、舒明・皇極の宮を大和(推古小墾田宮)から九州に戻し、蝦夷は空白の大和で斑鳩の聖徳太子継嗣山背(やましろ)大兄皇子一家を滅ぼし大王の振る舞いをした。これが「乙巳の変」を引き起こし、蘇我入鹿は肥前飛鳥板蓋宮で暗殺され蘇我宗家は滅亡した。
(6) 大和王権の主導権推移と倭国(つくし)主導からの離脱
田村(舒明)・宝(皇極/斉明)夫妻は「大和王権に上宮王権を統合」を「上宮王統主導」で完成させた(日本書紀は上宮王権不記載)。対立する倭国と唐の間で、大和王権は舒明(反倭国・親唐)・皇極(親倭国・親唐)・孝徳(反倭国・親唐)・斉明(親倭国・親唐)・天智(反倭国・親唐)と揺れつつも親唐派が続いた。唐は親唐派の大和以東諸国(日本)が団結して倭国から離脱するよう裏外交を重ねた。天武(親倭国・反唐)の時代に白村江敗戦と倭国滅亡があり、次の持統(親唐)以降は「倭国色を消した日本国として親唐朝貢外交を目指した。それが文武の「日本国建国と日本書紀(倭国不記載)」としてまとめられた。
以上を一図に表わしたのが上図である。
[3] 一図で見る「倭国不記載」
「振り仮名誤読」がまかり通ってしまう一因は日本書紀の「倭国不記載」方針である。日本書紀の検証と海外史書でそれを補完したのが元図(一図)であった。では何が不記載とされ、何が補完されたのか。次図で点線左側の半白部分がそれである。右の赤枠が「不記載事項の説明」である。
歴史書は通例隣国までは書くものだ。切り分け書き分けられない中間領域・関連事績が多いからだ。だが、日本書紀の場合は主として外交的配慮から敢えて「倭国不記載」としている。問題は境界領域をどう表現したか、である。後示する「物部氏」「蘇我氏」で順次明らかにするが、その前に「誤読」の直接的な原因「大和朝廷の一時的な九州遷都」を誤読誘導した「倭(やまと)」の読みを検証する。
[4]
一図で見る「『倭』の読み方の変遷」
「倭国」は元来漢語で「ゐこく」と読む。しかし、和読では600年頃までに自称・他称・尊称・和読など様々な変化が生まれ、使われたことが幾つかの史料から伺える。それらを経て、「倭国滅亡」後680年頃に天武が「やまと」に「倭」字を当てた(新当て字)。これが「倭(やまと)」の始まりである。決して、昔から「倭」を「やまと」と読んでいたわけではない。
内容が「九州倭国」の「倭」字も日本書紀には8例ある。しかし後世の日本書紀写本はすべて「倭国(やまと)」と振り仮名している。これが誤読の源である。日本書紀原文の責任ではない。誤読を平然と続ける後世の怠慢である(詳細は第二章参照)。
ここで結論されることは、「たかが振り仮名、されど振り仮名」である。「大倭(やまと)」と振り仮名されることにより、八例ではあるが原文が意味した「大倭(たいわ、つくし)」が覆い隠され誤読されたことで、古代のほとんど唯一で貴重な史料「日本書紀」が示す「大和王権の一時的な九州遷都」の史実理解が失われ、整合性のない解釈で信頼性を棄損し、史実への距離を遠ざけてきた「後世の安易で意図的な、通り一遍の振り仮名」の責任は計り知れない。
[5] 一図で見る「九州物部氏」
物部氏には四系統あり、下図の赤@ニギハヤヒ系、赤点線のCが九州物部氏系である。A尾張物部氏、B河内物部氏はC九州物部氏から分かれた支族である。解説は図の下につづく。
物部氏は大和王権の主要豪族とされている(紀)。しかし、紀で最も活き活きと活躍する物部尾輿(おこし)らは実は「九州物部氏、物部氏の宗家」である。元来、九州物部氏は「ホアカリに供奉して遠賀川域に天降りした」(先代旧事本紀)。その後「ホアカリ系倭国/九州物部氏」は卑弥呼・台与系に代わって九州倭国を再統一した(360年頃)。九州物部氏はホアカリ系倭国王家の外戚となって倭国を支え続けたと考えられる。その大半は「倭国不記載・九州物部氏不記載」の方針で紀には載っていない。ではなぜ「不記載のはずの物部尾輿」が紀に「記載」されているのか。それは「大和王権の方が九州に一時遷都したから」である。
物部尾輿は「磐井の乱征伐」で九州に派遣された河内物部麁鹿火(あらかひ、元は九州物部支族)に近づき、大和王権の九州・半島活動(任那日本府)を援け、倭国の主流(大連)へとのし上がった(先代旧事本紀)。その縁で「九州に一時遷都した大和王権」が倭国朝廷に参画する仲介を果たし、大和王権からも大連と呼ばれ(任じられ)日本書紀に登場している。それが例外的に紀に登場する理由である。その主筋の倭国王(天王、雄略紀にある表記)は「天皇」と表記されて数か所に現れる(欽明紀552年)。倭国不記載の形を取る為だが、誤読誘導となっている。
詳細は第四章を参照されたい。
[6] 一図で見る「蘇我氏」
蘇我氏は大和を故地とするが紀に出てくる時代は「九州豪族蘇我稲目」からの四代である。倭国と大和王権の仲介で双方に通じ大和王権の大臣に任じられ、倭国からもそう呼ばれた(任じられたか)。この時代の本拠は肥前で「故郷大和での再拡大」にも注力したが、乙巳の変で宗家は滅んだ。蘇我四代の墓は全て九州と考える(第三章で検証済み)。詳細は第三章 を参照されたい。
[7] 一図で見る「飛鳥」
「飛鳥」は3世紀に渡来した漢人が九州に入植して「飛鳥(ひちょう、漢語)」と命名したのが源と考えられ、4世紀に一部が大和に移住し日本書紀に出てくる(初期大和飛鳥)。五世紀に「漢人工人」が九州飛鳥に招聘され、一部が大和に分与された(ここまでが初期大和飛鳥)。
6〜7世紀に九州飛鳥は蘇我氏の領地となり、大和王権の宮が造られたことから紀に頻出する(中期肥前飛鳥)。その後斉明が肥前飛鳥から大和に宮を遷し「後(あと)飛鳥」と地名移植した後が今日まで続く大和飛鳥である(後期大和飛鳥)。
詳細は第一章 を参照されたい。
[8] 一図で見る「応神天皇(筆者理解)」
応神天皇は河内に新王朝を建てたと言われるが、不詳とされる。筆者はこの図で整合性の高い解釈が得られた。次節図で定説を示すので比較されたい。
倭国は「倭国内ニニギ系王族の応神」を立てて東方軍(日本軍)を任せ(日本貴国王)新羅征戦を大成功させたので、帰還軍を河内に送り込み衰退していた欠史八代の開化(ニニギ系)を継ぐ形で大和王権とした(仁徳・河内王権、下図青太線)。その際、海外征戦に協力した崇神系・景行系(欠史八代と並列説を採る)を王族と認めて河内王権に従わせて東方をまとめた。その結果、倭国は宋に遣宋使を送って「列島統一」を承認された(宋書「倭の五王」。
日本書紀は「倭国不記載」の観点から「倭国王族だった応神」と記載できないので「大和王統(仲哀・神功皇后)の応神」と「記載」している。
詳細は前著の応神天皇を参照されたい。
[9] 一図で見る「応神天皇(日本書紀)」
前項の応神天皇を紀はこの図の様に記している。前図と比較されたい。
日本書紀は「倭国不記載」の方針から「九州ニニギ系不記載」としている(下図青点線)。その代わりを並立した三系「欠史八代・崇神系(渡来系か)・景行系(渡来系か)」を縦に繋いで一系とし(下図青太線)、「応神は仲哀の子」とすることで「大和王統の万世一系」に「応神」を記載する言い訳としている。その背景は不詳だが応神仁徳系が崇神系・景行系・神功系を征服する際の政治的取引として大和王権の王統に組み入れて王族扱いとした妥協であったのではないか(詳論はこちら)。
第二章 誤読の根源「大倭」の振り仮名
第三章 誤読されている「蘇我氏」
第四章 誤解されている「物部氏」
第五章 誤読されている「遣隋使」
第六章 解かれた法隆寺の謎
第七章 一図で解る「日本古代史」
「日本書紀が正す『千年の誤読』」 了
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著者 橋通 工学博士 東京在住