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37 話  一図で解る 「物部氏の系譜」

 

本話は「一図」シリーズ(8) 追加編、一図で解る「物部氏の系譜」です。


一図に表わした日本古代史(下図)の中で、物部(もののべ)氏は時代的にも(縦)地域的にも(左右)全面に現れ、活躍の程がしのばれます。

 

 一図(8) 物部氏の系譜(拡大図は後出)

今回は@ABCが対象です

 

●  定説の系譜  物部氏は大和の豪族 大和王権の重臣

記紀による定説では「物部氏は神武以来、大和王権随一の重臣・豪族であったが、宗家は物部守屋の代で蘇我馬子によって滅ぼされた」とされています。

記紀の他、物部氏に関する限り、9世紀に出た「先代旧事本紀」* が非常に詳しく、これを加味した研究によってほぼ定説化された系譜があるので、これから始めます。

 

* 先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ、旧事紀(くじき)と略される 「偽書と疑われる部分もあるが、独自史料を基にしたと思われる神代から記紀の範囲をカバーする物部氏家伝、と考えられている。

 

● 安本美典他による系譜図

記紀に旧事紀を加えた物部氏系譜* は下図の様にまとめられ、ほぼ定説化されています。

 

*  「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」安本美典 2009年 勉誠出版 の系図6」を参考にした。

  

物部氏系譜  記紀+旧事紀による定説 BCは筆者仮称

 

ここでは、二点に注目してください。

(1) ニギハヤヒをすべての物部氏の祖としていること(旧事紀の主張)

(2)  物部氏は各地に広がっていますが、その主筋はすべて大和天皇であること

です(もちろん記紀の主張)

 

● 物部氏の系譜(筆者修正) 

しかし、これら定説は「倭国不記載」に基づくか(記紀)、それに合わせこんでいますから(旧事紀)、当然「半面史」です。

 

そこで上図に加え、「ホアカリ系倭国第15」「九州物部氏」「豊前ニニギ系王族(前話)」を加味して筆者なりに修正したのが下図です。

 

物部氏系譜 筆者修正 

 

修正の主要点は二点だけです。

(1) 修正点一  前系図の「ホアカリ=ニギハヤヒ」* を切り離しました。これは旧事紀のみの偽説* なので、「カグヤマはホアカリの子」(神代紀九段一書六)に戻しました。

また、「河内に天降ったニギハヤヒ(神武紀)と「遠賀川域に天降ったホアカリ」とは別神」、と考えられるからです(詳細論証は筆者別サイトhttps://wakoku701.jp/S4.html

 

* 偽説  「ホアカリ=ニギハヤヒ」は「記紀で不記載とされたホアカリ系九州物部氏」を復権させる為に、記紀公認のニギハヤヒ大和系につなげようとした偽説 

 

(2) 修正点二 「天津麻良=九州物部氏の祖」と修正した。

河内物部氏Bと九州物部氏Cが、定説では大和物部氏@物部胆咋(いぐい)につながっていましたが、これを天津麻良(あまつまら)につなげ変えしました。

 

その根拠は、旧事紀の天神本紀冒頭天降り譚に「天津麻良は物部造(みやつこ)の祖、その物部造は天孫を守る中核、その多くが九州物部氏」と詳細に記しているのに、系譜系図に天津麻良が出てこないのは不審だからです。

これは「記紀の九州倭国不記載」に合わせるために、「天津麻良を消して記紀にでてくる九州物部氏系譜を大和系物部胆咋(いぐい)につなげた」**(定説系譜)という偽説 ***と考えて前図の様に修正しました。

 

** 胆咋(いぐい)  胆咋(いぐい)自身は物部十千根(とちね)との共通点も多いので大和系に残しました

 

*** 偽説 そのU 「九州物部氏を大和物部氏につないだ。この偽説が無いと、アマツマラ(物部氏の祖)と九州物部氏の主筋が九州に天降ったホアカリ、と主張することになり、記紀の倭国不記載方針とぶつかるので、偽説でしのいだと考えます。しかし、偽説があっても多くの九州物部氏史料を含んでいるので、古代史検証には大いに役立ちました。 詳細論証は筆者別サイト、こちらhttps://wakoku701.jp/S4.html 

 

● 物部氏の四流

以上の修正によれば、物部氏は四流に区分できます。

(1) ニギハヤヒ系大和物部氏@

ホアカリの「国譲り」が成功したので、第二陣としてアマテラス高天原からニギハヤヒ(天神=アマテラス一族)が一旦北九州に天降りし、物部支族の分与を受けて河内に再天降りし、河内で神武に従った一団です。

 

ニギハヤヒは「物部氏の祖」とはされますが、自身は物部氏ではなく天神(アマテラス一族)です。ニギハヤヒの子ウマシマジが臣籍降下して大和物部氏として活躍しました。

 

応神・仁徳以降は主流から消えています。その理由は、応神・仁徳に従って河内に東征した九州系物部河内支族Bが主流となったためです(筆者推論)

 

(2)  カグヤマ系尾張物部氏A

ニニギ南征(筑紫日向(門司域)から宮崎日向へ)に際してホアカリから分与された子のカグヤマ*と物部支族の子孫が神武東征に従って、更に尾張に落ち着いたのがカグヤマを祖とする尾張物部氏Aです。

 

* カグヤマ 記紀は「ホアカリの子」とし(神代紀九段一書六)、旧事紀は「ホアカリニギハヤヒの子」としています。
?

(3)  九州系河内物部氏B

応神・仁徳の東征に従って河内に進出した九州物部氏の支族で、その子孫物部麁鹿火(あらかひ)が有名です。筑紫君磐井の乱討伐を任され、死力を尽くして任務を果たし、後の大和王権九州遷都を支え、倭国大連物部尾輿と協力するなど、どこからみても「九州物部氏の支族」と考えられます。

 

(4)  宗家九州物部氏◎〜C

ホアカリに供奉して遠賀川域に天降った天津麻良(あまつまら)を祖とする物部氏宗家で、ホアカリ倭国大連として支え、倭国王家の外戚として隆盛しました(先代旧事本紀・物部尾輿・守屋の活躍)。

九州遷都時代の大和王権に近づいて大和大連も兼務した物部尾輿(おこし)が倭国内物部氏主流となり、子の守屋(もりや)の代で大和王権大臣蘇我馬子と対立して物部氏宗家は滅亡しました。この部分が記紀に言及されているので(C)、大和物部氏と誤読されています。

倭国王家には物部氏(守屋討伐で)・蘇我氏(上宮王家に従って倭国を離れた)がいなくなり、大王親政となりました(多利思北孤につながる)。これが白村江敗戦・倭国滅亡まで続きます。

  (注一図全体+物部系譜」も参照、こちらも同番号です)

  ( 筆者別サイト:https://wakoku701.jp/S7.html#九州物部氏 もご参照ください)

 

● 応神天皇と大和物部氏

物部氏系譜で最大の変化は「応神の東征によって、大和物部氏@は応神・仁徳の引き連れた九州物部氏の支族河内物部氏Bに主流を奪われた」です。

 

応神は記紀では仲哀・神功の皇子とされますが、定評ある記紀の年代修正「古事記崩年重視・在位崩御年令の二倍年歴修正・神功紀の干支二巡繰り上げ・一世代平均23年差」で修正すると、応神・神功は同世代で親子関係ではない、となります(論証は第16話)

 

その出自は豊前(関門域)のニニギ系王族と考えます(前話参照)

応神は豊前ニニギ系王族として倭国軍/東国軍を率いて新羅征戦に活躍しました。日本貴国天皇(=豊前ニニギ王国大王)として出て来ます(応神紀三年条など)

 

倭国軍・日本軍(東方諸国軍)は新羅に勝利した後、応神は凱旋日本軍・捕虜・渡来人を引き連れ、東征して河内に留まり、開化天皇(欠史八代の最後)を継ぐ形でニニギ系三王権(神武系・崇神系・景行系)を統合して新大和王権としたと考えます(前話)

 

応神・仁徳は、その配下には倭国から分与された物部支族・大伴氏族を抱えていました。これにより、ニギハヤヒ系大和物部氏@はいずれも主流からはずれ、九州物部宗家の支流河内物部氏Bが大和物部氏の主流となったと考えられます。

 

 

● 一図の中の物部氏

以上、検証した系譜解釈は「一図」に取り込まれていますから、すべて整合します。

倭国・倭国物部氏(九州物部氏)◎〜Cは、記紀では不記載ですが、最も歴史も長く、他のすべての支族(@AB)を送り出した元締め(宗家)と考えられます(記紀+旧事紀+海外史書)。

 

特に注目いただきたいのは実戦赤丸のB’です。これは「河内物部氏Bによる排除の為、大和物部氏@の衰退(図中x印)」です。これが、「応神皇太子 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と仁徳の皇位譲り合い美談」(次々話、第39話)の背景です。

 

下図の説明は重複になるのでここでは繰り返しませんこちらの注でどうぞ)。

 

 

 

 

本話の詳細論証は、筆者別サイト「千年の誤読、第四章」https://wakoku701.jp/S4.htmlをご参照下さい。

 

 

 

37話   了

 

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以下、 第37話   注

 

 

 

 

 

 

●注1   先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ) 戻る

 天地開闢から推古天皇までを記述  9世紀の成立 記紀や古語拾遺を切り張りした偽書ともいわれるが、古い独自資料を多く含み、物部氏の家伝的史書を基にしているとみなされている。 

 

 

 

 

 

 

●注3  「一図全体+物部氏系譜」    戻る

今回の「日本古代史全体図」です。 説明には該当本文を再掲しました。

 

 

● 物部氏の四流  (上図の為に本文再掲)   (戻る

物部氏は四流に区分できます。

(1) ニギハヤヒ系大和物部氏@

ホアカリの「国譲り」が成功したので、第二陣としてアマテラス高天原からニギハヤヒ(天神=アマテラス一族)が一旦北九州に天降りし、物部支族の分与を受けて河内に再天降りし、河内で神武に従った一団です。

 

ニギハヤヒは「物部氏の祖」とはされますが、物部氏ではなく、天神(アマテラス一族)です。ニギハヤヒの子ウマシマジが臣籍降下して大和物部氏の主となり、活躍しました。

 

応神・仁徳以降は主流から消えています。その理由は、応神・仁徳に従って河内に東征した九州系物部河内支族が主流となったためです(筆者推測)。

 

(2)  カグヤマ系尾張物部氏A

ニニギ南征(筑紫日向(門司域)から宮崎日向へ)に際してホアカリから分与された子のカグヤマと物部支族の子孫が神武東征に従って、更に尾張に落ち着いたのがカグヤマ*を祖とする尾張物部氏Aです。

 

* カグヤマ 記紀は「ホアカリの子」とし(神代紀九段一書六)、旧事紀は「ホアカリニギハヤヒの子」としていますが、修正すれば「ホアカリの子」で、ニニギに従って南征し、子孫は神武東征に従い、更に東征して尾張氏/尾張物部氏となりました。
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(3)  九州系河内物部氏B

応神・仁徳の東征に従って河内に進出した九州物部氏の支族です。応神は大和物部氏からの妃が生んだ皇子を皇太子に指名して崩じます。しかし、皇太子は即位を辞退して三年の譲り合いの末自害し、やむなく皇后の皇子仁徳が即位します。譲り合いの美談、とされています。

結果的には、大和物部氏@は河内物部氏Bによって排除され衰退したのです(B’)。

河内物部氏Bの子孫では物部麁鹿火(あらかひ)が有名です。筑紫君磐井の乱討伐を任され、死力を尽くして任務を果たし、後の大和王権九州遷都を支え、倭国大連物部尾輿と協力するなど、どこからみても「九州物部氏の支族」と考えられます。

 

(4)  宗家九州物部氏◎〜C

ホアカリに供奉して遠賀川域に天降った天津麻良(あまつまら)を祖とする物部氏宗家で、ホアカリ倭国大連として支え、倭国王家の外戚として隆盛しました(先代旧事本紀からの推測)。記紀からは不記載扱いされて、旧事紀元本は禁書・焚書されたようです。

九州遷都時代の大和王権に近づいて大和大連も兼務した物部尾輿(おこし)が倭国内物部氏主流となり、子の守屋(もりや)の代で大和王権大臣蘇我馬子と対立して物部氏宗家は滅亡しました。この部分が記紀に言及されているので(C)、大和物部氏と誤読されています。

倭国王家は物部氏(守屋討伐で)・蘇我氏(上宮王家に従って倭国を離れた)がいなくなり、大王親政となりました(多利思北孤につながる)。これが白村江敗戦・倭国滅亡まで続きます。

  

  ( 筆者別サイト:https://wakoku701.jp/S7.html#九州物部氏 もご参照ください)

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37 話  注   了

 

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