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38 話   人麻呂の歌「雷山(いかづちのやま)」

 

今回は物語風に始めます。

 

ある春の夕、ところは奈良飛鳥藤原京の宮、持統天皇が侍女達と寛いでいました。そこへ宮廷歌人柿本人麻呂が伺候しました。歌を持参したのです。

 

先程、女帝は輿で宮から南へ往復小一時間程の散策をしてきました。「甘樫(あまかし)の丘」とその近く(北へ200m)の「雷丘(いかづちのおか)」を通った際に、供をしていた人麻呂は、女帝からそれぞれの由来の説明を求められました。

 

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明日香村 甘樫の丘 Wikipediaより

 

「甘樫の丘」はそれより50年も前のことですが、当時肥前飛鳥を本拠とする蘇我入鹿(そがのいるか)が蘇我氏の故地大和にも勢力を再拡大すべく、大和斑鳩(いかるが)の山背(やましろ)大兄皇子一族を滅亡させ、その翌年に蘇我蝦夷(えみし)・入鹿父子がここ甘樫の丘に宮殿風の別邸を建て「宮門(みかど)」と称した場所として知られていました。専横を極めた絶頂期で、その年の「乙巳(いっし)の変」で蘇我氏滅亡の一因となったいわく付きの丘です。

 

持統は20才代の人麻呂より一世代上で、父天智の起こした「乙巳の変・入鹿暗殺」も、その一因となった「甘樫の丘」についてもよく承知していたのですが、それがどの様に若者に伝わっているか確かめたかったのです。

 

一方、「雷丘(いかづちのおか)」は持統にも「なんでここにそんな地名がついているのかしら?」と思うような小さな丘でした。

 

明日香村 雷丘(いかづちのおか)

地表10m余りの小丘  明日香村HPより

 

なぜなら子供の頃、まだ九州肥前飛鳥(あすか)板蓋(いたぶきの)宮に居た頃*に遠くに見えた雷山**(いかづちのやま)と比べると雲泥の差でしたから。

 

* 持統は九州飛鳥で生まれ、8歳位まで肥前〜豊前に居た 第6話「はるすぎて」参照

**「雷山(らいざん、現在呼称)」は筑前と肥前の間の連山(背振山地)の高峰(956M

 

福岡県糸島市 雷山(らいざん)北側から 糸島市HPより

その向こう、佐賀県側に(古)飛鳥板葺宮があった

 

人麻呂は答えました。「蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)は、推古崩御ののちは、舒明・皇極天皇の皇居が再び九州であることをいいことに大和では独り天下を味わおう、と甘樫の丘から見下ろせる隣の小丘に九州の偉大な山の名『雷山(いかづちのやま)』を付けたのでしょう。

 

何しろ、九州の雷山にはニニギの尊を祀る雷(いかづち)神社上宮があります。陛下のご先祖様を祀る霊山です。それを見下ろす、という(主筋を超える、という)快感を甘樫の丘の自邸で味わおうとしたのでしょう。

 

また上宮大王は御父上(天智天皇)の母方の大王様で、蘇我のもう一方の主筋でもありましたから(第23話「二人のおほきみ」参照)、二重の意味でも蘇我氏の不敬でした」

と答えました。

 

九州雷山の雷(いかづち)神社上宮 

中央がニニギの尊を祀る祠   by YAMAKEI pman0214 

 

きっかけは大和雷丘での話でしたが、人麻呂は求められていた九州の雷山を詠った歌を奉りました。

 

万葉集 巻三 235

  題詞   天皇(持統天皇)雷岳(いかづちのおか、大和雷丘のこと)に

     御遊(いでま)しし時柿本朝臣人麻呂の作る歌一首

皇(すめろき)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも

 

人麻呂が説明しました。「陛下のご記憶の肥前飛鳥の雷山(いかづちのやま)には、向こう側、筑紫側から登るのですが、高い山ですから、雲の中、雷も多いです。その中腹にある雷(いかづち)の社の上宮には、大和王家のご先祖様、皇祖(すめろき)のニニギの尊が祀られています。それを詠わせていただきました。

父君(天智天皇)の母方のご先祖であられた上宮大王様が、上宮大王家を創立されるまえ、まだ大倭国の王族であられた時は、大倭国の祭事上宮王として、イザナギ・アマテラス・ホアカリ・ニニギの神々をお祀りする元締めでしたし、特にニニギ神は上宮王家の始祖でもあり、まさに皇祖(すめろき)でいらっしゃいます」、と。

 

説明で、持統にもこの「皇(すめろき)」がニニギ神を指し、天皇(おほきみ=自分)を指していないことは、分りました。

「雷山の名をもてあそんだ入鹿に雷山ニニギ神のばちがあたった、ということね。

そうだわ、入鹿を斬ったのは父でなく、きっと『ニニギ神の雷光(いなびかり)』だったと思うわ。確かその日は大雨が降ったと聞いたし、、、」と持統はつぶやきましたが、人麻呂には聞こえませんでした。

 

人麻呂にとっても九州の雷山は幼い頃から聞かされた山でした。というのも、柿本人麻呂は山前王(やまさきおう)のペンネームですが(第 9 で検証済み)、山前王は「飛鳥板蓋宮(肥前)で雷山を遠くに見ながら育った天武」の孫であり、「父天武と共に雷山に登ったと語った忍壁(おさかべ)皇子」の子でした。だからニニギ神は山前王にとっても皇祖(すめろぎ)だったので、しばしば昔話で九州雷山を聞いてきました。

 

だから、今日見たちっぽけな雷丘に心動かされた訳ではありません。人麻呂は聞き及んでいた「九州の雷山」に思いを致す良いきっかけだったと、それに応えて名歌をものしたのでした。 この歌はのちに万葉集に収録されました。

 

物語はここで終わり、以下解説です。

 

この歌は千年もの間、平安時代頃の振り仮名読法によって「皇(おほきみ=持統天皇)は神にしませば」と読まれ、原意から離れて戦前の「天皇=現人神(あらひとがみ)」思想の根拠の一つとされた歌でした。

 

しかし、「神懸りの話には不釣り合いのちっぽけな山」から「この歌の『雷岳』は、実は九州の『雷山』だ」と喝破したのは古田武彦の新解釈でした(「古代史の十字路」古田武彦 東洋書林 2001年)。その点は古田の慧眼で、功大なり、とするところです。

 

その新解釈を補完するのが「皇(すめろき)」の読みです。これも古田。

「万葉集の表記は万葉仮名」の原則がありながら、「皇」字は「おほきみ」とも振り仮名される漢語です(万葉集では数例)。しかし、「皇」字の原義は「自(はじめ)+王=始祖王」(大字典)で「皇・皇祖・皇祖神・皇神祖」などが「すめろき・すめらぎ」と訓読されますから、ここでは「すめろき」と訓読する古田説を、筆者も支持します。

 

しかし功ある一方、古田はこの歌に関して3つの過ちを犯した、と思われます。

 

(1) 古田が主導した九州王朝は「記紀は、唐と戦って滅んだ九州倭国王朝を隠蔽し、抹殺し、その歴史を盗用した」としています。

しかし、この誤解は「記紀の『倭国不記載』は、唐に国交再開を認めてもらう外交配慮」・「記紀や万葉書紀に九州賛歌と思われる記述が多いのは、大和王家の九州遷都が一次・二次合わせて百年近くあったから」を理解しなかったことからくる誤解です。

 

(2)  古田は「(雷山の)ニニギ神は倭国王家の祖神」と信じていましたから、「記紀が『ニニギは大和王家の祖神』とするのは倭国史書の盗用」とし、この歌も「倭国の賛歌、人麻呂は実は滅亡した倭国から大和へ亡命した元倭国歌人」と思い込んでいた節があります。

しかし、「倭国王家の祖はニニギの兄ホアカリ」との解釈が整合性が高く(先代旧事本紀から、第15 で検)、この解釈「倭国と大和国は兄弟国」の解釈で「全古代史の解釈」が整合します(「一図で解る日本古代史」シリーズ)。

 

人麻呂はこの歌を「ニニギ賛歌」、従って「大和天皇家の祖への賛歌」として、そして「自分自身の祖でもあるニニギへの崇敬賛歌」として素直に詠っているのです。

持統もそう理解したはずです。

 

(3)  古田は「倭国再発見」の功労者ではありますが、記紀を「倭国隠蔽・倭国史盗用」と非難し、(いささか口汚く)罵倒し、蔑み、「そんな完璧に隠蔽されてきた九州倭国を再発見した九州王朝論はすごいだろう」と(いささか過剰に)自慢し自画自賛する余り、その立場に自縄自縛となり、自説にこだわり、今や派は四分五裂の自説固執派だらけ、と見るのは門外漢の偏見でしょうか。

 

「千年信じられてきた神話を『嘘だ、盗用だ』とそこまで貶(けな)さないで、、、嘘なら嘘でもいいから、今まで通り(の嘘)を信じるわ、、、」と離れていった「九州王朝説離反派」を増やした逆効果の責任もあるのではないでしょうか。

 

九州王朝説の一部には「大和朝廷は神武から天智まで一貫して九州だった。天武が大和に遷るまで、大和に大和朝廷など無かった」とする「大和朝廷九州説」* がありますが、逆の行き過ぎ、と筆者は考えます**

 

* 「大和朝廷の前進 豊前王朝」大芝英雄 同時代社 2004年 など

** 大和王権の九州遷都は、一次は543(安閑)~603年(推古)(第1)、二次は628(舒明)〜654年(皇極)(第3第36)、計100年弱だけです。

 

 

いろいろありますが、それでも「日本古代史の解明」は、静かに、着実に細かな整合ある解明の積み上げで、年々進展しています。

その静かな解釈進化の中から、この歌が九州と大和を結ぶ広域の歌、「静かな広がりのある名歌」と解釈され直されてくるものと信じています。

 

もう一度味わいましょう。

 

皇(=すめろき=ニニギの尊)は神にしませば天雲の雷(いかづち、雷山)の上(宮)に廬(いほ)りせるかも

 

 九州雷山の雷(いかづち)神社上宮 中央がニニギの廬(再掲)

 

 

    第 38 話   了

 

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