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第 36 話 舞い上がれ 日本古代史! もう一山を飛び越えて
朝ドラを見ています。「夢を持って好きな道を」「あきらめないで、前に進もう」「皆に支えられて、皆の為に」、、、この歳になっても好きな言葉です。大黒柱を失いながらもリーマンショックを乗り超えて、次の山を越えようと挑戦するこれからの展開に期待しています。
日本古代史が越えなければならない「もう一山」は「上宮王家の解明」です。
なぜなら、西暦600年頃、列島には「三人の大王(おほきみ)」が居たことを検証しました(第 23 話 三人の大王(おほきみ)参照)。いわば「三山(みやま)」とでも呼びましょうか。
(古)天香山(あまのかぐやま、大正時代の香春岳、福岡県香春町HP)
三山のイメージ例 (本文内容と関係ありません)
一の山「ニニギ系大和王権」は記紀で詳細に語られています。でも「他王権不記載」です。
三の山「ホアカリ系九州倭国」について。記紀に「不記載」とされましたが、幸いにも中国史書からおよその輪郭がつかめます。
一の山と三の山に挟まれた二の山「上宮王家」は不詳です。なぜなら、記紀には「他王権不記載」にされ、中国史書は「公式外交国の内部分国までは不記載」にされたからです。
これが不詳では「画竜点睛を欠く」です。
しかし、少しずつ霧が晴れてきました。
前話で「崇神・景行を東征に送り出したニニギ系豊前王は景行の西征で九州東半(日向国など)を奪還し、豊前大王となった」と検証しました(前期 豊前大王、豊前の京(景行紀十二年条))。西暦320年頃に既に「三人の大王(おほきみ)」がいたのです(ホアカリ系倭国大王・ニニギ系豊前大王・ニニギ系大和天皇)。
更に、「その豊前大王は海外征戦で大活躍した応神・仁徳を大和大王として河内に送り出した」と検証しました(中期 豊前大王、豊前の京、仁徳紀十四年条)。
西暦400年頃にも、倭国大王(広開土王碑)・豊前大王・河内大王の「三人の大王」が居た、と考えられます。
それならば、第 23 話で検証した600年頃の「三人の大王(おほきみ)」の「上宮大王」も豊前の大王だったのではないでしょうか(後期豊前大王、豊前の京、皇極紀) 。
今回のテーマはそれ、「上宮大王は豊前大王か?」の検証です。
●1 大和王権と上宮王家の関係
記紀では上宮王家は「他王家不記載」の対象ですが、例外は聖徳太子です。用明天皇の子として系譜記事に出て来ます。
しかし、「聖徳太子の父は用明天皇ではなく上宮大王」とする文献があります。この文献と法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とよく一致することから、こちらが正しいと論証されます(伊予風土記逸文注1)。なぜ聖徳太子は不記載の例外なのでしょう(第 33 話で「上宮大王称揚の為」と検証しました)。
次に、上宮王家内を記述した文献があり(次節)、これに田村皇子(のちの舒明天皇)が登場します。この文献から、記紀とも矛盾しない上宮王家と大和王家の関係がよく解ります。
この二つの文献を手掛かりに時代を合わせると、二王家の系譜が以下の様に並記できます。
上宮王家の系譜 大和王家の系譜
この二つの系譜を大和王家側からの解釈と、上宮王家側からの解釈を並記すると、瞠目の新解釈「上宮大王は豊前大王」が引き出されます。検証します。。
●2 34代 舒明天皇
推古天皇が崩じると(628年)、継嗣竹田皇子が既に薨じていたので(593年)、後継者で揉めましたが最終的に敏達天皇孫の田村皇子でまとまり、舒明天皇として即位しました(舒明紀529年)。問題ない継承です 。
ところが、田村皇子に関して興味深い伝承史料があって(大安寺伽藍縁起 注2)、「舒明となる前、田村皇子は聖徳太子に可愛がられ、姪男(姪の夫)とよばれたこと、前代大王から極位(大王位)と聖徳太子の熊凝(くまごり)寺(のちの百済寺、更にのちの大安寺)を遺譲された」とあります(詳しくはこちら注3)。
「舒明天皇が即位する前、上宮大王であった」とは日本書紀にもちろん書かれていませんが、書紀の「他王家不記載」から不思議ではありませんし、書紀と不整合でもありません。大和王権側からすれば、「即位前に(友好関係の)他王権の大王であった」で系譜に傷がつく訳でもありませんし、どうでも良いことです。
舒明天皇は即位前、第三代上宮大王だった
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しかし 、上宮王家側からみると「第三代田村大王が大和舒明天皇に即位した」には重大な、歴史的一歩の意味があります。のちの「上宮王家と大和王家の融合」の第一歩だからです(注4) 。
●3 35代 皇極天皇
舒明天皇が崩御すると宝皇后が皇極天皇となりました(皇極紀元年条)。
記紀の「(上宮王家を不記載としながら聖徳太子を記紀に残す為の)系譜改変」を修正すると、「大和王族でない聖徳太子の姪、皇極は大和王族ではない」となりますが、皇極の皇太子は中大兄皇子だから「(舒明の継嗣である)中大兄皇太子が継ぐまでの中継ぎ」と解釈できるので大和王権にとって許容範囲です。
「大和天皇に即位する前に宝皇后は(田村大王の譲位を受けて)宝大王に就いていた」としても、それは大和王権にとってはどうでもよいことで、不実記載ではありません。ただの不記載です。
皇極天皇は即位前(そして即位後も)、第四代上宮大王だった
しかし、上宮王家側からみると「第四代宝大王が、大和皇極天皇に即位した」(下図)は「上宮大王の目標達成」とも言える大成功です。
「上宮大王が二代続けて大和天皇に即位」ですから、「上宮王家は大和王家を吸収した」とも解釈できる大事件です。
皇極は即位しても上宮大王兼務のままだったようです。どちらも蘇我大臣が実権を握り、お飾り大王ではありましたが。「第四代宝上宮大王」の根拠についてはこちら注5参照。
●4 36代 孝徳天皇
「乙巳の変」で蘇我宗家が倒されると皇極は弟の孝徳に譲位して皇極上皇となり、皇太子は中大兄皇子のままとなりました。
孝徳の系譜について、孝徳紀には「皇極の同母弟」とあるのみで、父名が記されていません(他に例が無い)。「皇極紀には皇極の父母の名があるから略した」と言い訳できますが、皇極紀の父母名は「用明紀に聖徳太子を挿入する為の改変」に合わせたものです。それを記せば、改変の上塗りになるので、繰り返したくなかったのでしょう。修正系図では皇極が上宮王家系であるように、孝徳は(ただの)上宮王家皇子です。
これには当時、王統の継続性から大問題になっておかしくありませんが、「本来なら中大兄皇太子だが、乙巳の変の首謀者(暗殺者)だからしばらく遠慮して、、、」「乙巳の変後のドサクサ人事」「(中継ぎの)皇極の(中大兄皇子までの続きの)中継ぎだから、、、」などで大和王権は押し通したのでしょう。
孝徳天皇は上宮王家皇子で、
大和王権継承権はなかった(中継ぎ)
しかし、これは上宮王家側からみると大成功です。「ただの上宮王家皇子が大和天皇に即位した」という「上宮王家主導の二王権融合」の前例とできるからです。
●5 37代 斉明天皇(重祚)
孝徳が崩御すると「皇極上皇が大和斉明天皇に重祚即位」(上図N)、となりました。皇太子は又も中大兄皇子のままでしたから、「またか」と問題視されなかったようです。
斉明天皇(重祚)は崩御まで第四代上宮大王を兼務した
しかし、上宮王家側からみると、「上宮王家主導の二王権融合」の完成、通例化です。
●6 異常なのか誤解なのか
以上をまとめますと、
舒明は敏達孫で大和王族ですから、正常な継承です。
皇極は「舒明の皇后が中継ぎとして一時的に即位」という言い訳はあるにしても、大和王族ではないので、正常ではありません。
まして、孝徳は上宮王族だとしても、また皇太子が中大兄皇子という舒明の正統な継承者だとしても、大和天皇継承権を持っていない、と言わざるを得ない異常な継承です。
しかし、問題は「大和王権がこの異常な継承を受け入れ、更に協力しているふしがあること」です。特に、皇極・孝徳・斉明の治世の間の実力者は中大兄皇太子です。二王統の正統な継承者です。その中大兄皇太子が意図的に即位を辞退して皇太子として留まり、むしろ二王統の統合を進めているように見えるのです。
上宮大王家が上宮大王に始まったばかりの新参王家なら、これほどの異常を押してまで中大兄がこだわる理由がみつかりません。
これらの問題を前例から眺めてみます。
●7 前例
これまでの「上宮王家と大和王家の対応系譜」はすべて単純に二王家系譜を比較の為に並べただけですが、前々話・前話の「豊前・関門域のニニギ王家と大和王家の対応系譜」と重ね合わせてみましょう。
豊前ニニギ系王家(上半、前話)と上宮王家(下半、上述)の並記
なんと、「舒明〜斉明」は「非大和系が大和王権に天皇を送り込んだ」という点で、「東征第二陣〜第四陣応神・第五陣継体」と同様同列の例であることが解ります。
そうであれば「舒明〜斉明」を「神武(東征第一陣)〜継体(第五陣)」に続く「舒明(第六陣)〜斉明(第九陣)」と解釈できること、
「送り込んだ上宮王家」は「第五陣までと同様、豊前・関門域のニニギ王家」の解釈が可能であることを示唆しています。
●8 豊前ニニギ系王族の変遷
その解釈に沿って、豊前関門域のニニギ王族の変遷を見直します(より詳細にはこちら注6)。
(1) 神武東征に際して神武が関門域に残したニニギ王族は「崇神」を送り(前々話)、「景行」を送り、景行の西征を成功させて「豊前大王」になったことを検証しました(前話)。
(2) 景行の西征により日向国を奪還した豊前ニニギ王は九州東半を領とする大王となり、西半を統一したホアカリ王と共に台与系倭国を再統一して新倭国王となったと考えられます(ホアカリ系倭国・ニニギ系豊国・ニニギ系大和国の三大王の連合倭国)。
(3) ヤマトタケルの子(景行の孫)とされる仲哀/神功の協力で熊襲掃討を完了した倭国は半島征戦に乗り出し、これに大和主導の東国軍(日本軍)が参戦しました。この日本軍を主導したのが最終的には豊前ニニギ系の応神・仁徳です。仁徳は豊国から河内に遷都して大和を支配しました。
(4) しかし、残った豊国ニニギ国は半島征戦の終了で次第に影響力を失い(海運・兵站・軍事指導力)、数十年で大王位を失い、倭国に吸収されて「倭国内ニニギ系王族、豊前国王家」として存続したようです。
(5) 応神から100年余、武烈で(豊国ニニギ系)王統が絶えた時は、「倭国内ニニギ王族の応神五世孫、継体」が大和天皇(大王)として送り込まれました。主導したのは倭国でしょう。継体の推戴を主導した物部麁鹿火・大伴金村は仁徳に臣従して河内入りした九州系ですから。
(6) 継体から100年弱、この「倭国内ニニギ系王族」の上宮王が独立に立ち上がった、と解釈できます。
上宮王は591年に倭国から独立して上宮大王を称し、法興年号を建てました。
(7) 上宮大王は積極的に大和王権と近づき、推古と共同誓願寺(元興寺)を建てたり、大和皇子(田村皇子)を上宮王孫(宝皇女)の夫に迎え入れたりしました。推古の後継に聖徳太子を送り込むこと、上宮王家と大和王家の合体も視野に入れたのでしょう。
(8) ところが、推古天皇が長寿を保ったこと、 聖徳太子・上宮大王が続けて歿したため、上宮王家から大和に天皇を送り込む機会が先送りになりました。
(9) しかし、上宮大王の子孫は大王の遺志を継ぎ、豊前ニニギ王家の役割、即ち大和王権のへの関与を模索し続けたのです。豊前ニニギ系(大王家)と大和ニニギ系(大王家)が協力して「蘇我氏の打倒」「ホアカリ系倭国に対抗できる勢力となる」という共通目標もあったからでしょう。
そうであれば、二王権は「蘇我氏排除と大和王権の立て直し」で合意と協力をした、と考えられます。
●9 上宮王家は関門域のニニギ系王族の後裔
以上四天皇は「上宮王家から送り込まれた大和天皇」という見方が成り立ちます。舒明から斉明まで、この数十年、数代の繰り返された継承には、執念にも似た意思を感じます。
この様な執念にも似た意思の例は「崇神・景行・応神・継体を大和天皇に送り続けた豊前ニニギ王族」にも感じ取れます。これらとの類似性・同一性から、「これら四天皇を送り込んだ上宮王家とは関門域のニニギ系大王の後裔」以外の可能性を考えることができません。
更なる傍証についてはこちら注7。
●10 二王権合体後
斉明崩御の後、二王統の血脈を受け継ぐ天智によって、大和王権は豊国王権を吸収しました。
どちらが主導権か、は時々によって変わったようですが、二王権は「蘇我氏排除と大和王権の立て直し」で合意と協力をした、そしてそれは成功した、と考えられます。
その間、ホアカリ王権は「ニニギ二王権のことはお前たちに任せる、唐といずれ戦うから、強固な一体的体制を造り、東国(日本)をまとめ切って協力しろ」という立場であったと考えます。一方、唐はその協力を断ち切るべく「遠交近攻策」を連発したことは第 19 話「一図で解る日本建国 前史」で検証しました。
次図で倭国(左端黄色)を加えた全体俯瞰をお楽しみください。
三王権から二王権へ(ニニギ系合体)、それが成ったとたんに一王権へ(倭国滅亡)
斉明で事実上の二王権合体が成功しましたが、天智は更にその先に「ホアカリ倭国との融合合体、即ち三大王家の合体」を構想したと思われます。その構想とは「近江京に遷り、空けた飛鳥浄御原宮(きよみがはら)に倭国王家を誘致し、天武倭国王を実現する」という構想だったと考えます(筆者初著「倭国通史」第九章308〜309ページで指摘)。
この構想は「唐軍進駐と倭国傀儡化、その先の倭国滅亡」で実現しませんでしたが、天智構想の雄大さ、元をただせば上宮大王の夢のスケールを示すものです。上宮大王の倭国に並ぼう(大王となること)、超えよう(北朝仏教へのこだわり、律令制導入への信念)とする遺志は、子孫(中大兄皇子・持統・文武・元明ら)が受け継ぎ、実現しようとした気迫(中国の遠交近攻策への呼応に苦慮)に表われています。
●11 これからの日本
三山(みやま)と仮に名付けた三大王家の「中の山、豊前ニニギ王家」は、
ある時は大和ニニギ王家の分家として(神武紀)、
ある時はニニギ宗家として大王となり(豊前大王、景行紀)、
ある時は乱れた大和王家に当主(応神・継体)を送り出し、
ある時は倭国内ニニギ王族として倭国の知を支え(ニニギ祭事王/中臣神祇司)、
ある時は知を主張して独立大王となり(591年)、大和王権の(倭国干渉からの)独立を促し(大和帰還遷都603年、第 1 話)、
武に走って滅亡したホアカリ倭国に代わった「和と知の日本国」の理念を司ったのです。
形にこだわらない、しかし理念にこだわる「中の山、豊前大王」だったのです。
その「中の山」の理念が「武/知の倭国(ホアカリ/ニニギ)」でなく、「知/武の日本(ニニギ主導(しかしホアカリを包含したアマテラスの)」、だから「ホアカリもニニギも特記しない」、これを「これからの日本の規範」としたい、とする日本書紀編集方針(他王家不記載)だったと考えます。
現代日本が「自ら考え(知)/自らを守る(力)日本の理念の源流」として見直す価値があるのではないでしょうか。
第36話 了
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●注1 伊予風土記逸文 (本文に戻る)
釋日本紀 卷十四・萬葉集註釋 卷第三 伊予風土記逸文
「伊予國風土記に曰はく、湯の郡、、、天皇等の湯に幸行降りまししこと、五度なり、(景行)天皇、、、(仲哀天皇と神功皇后)天皇、、、上宮聖コ皇子を以ちて(皇子なので天皇でないが)一度と為す、(聖徳太子に)侍するは高麗(こま)の惠慈(ゑじ)の僧・葛城(かつらぎ)臣等なり。時に、湯の岡の側に(聖徳太子は)碑文(いしぶみ)を立つ、、、記して云へらく、(以下、碑文詞書)法興六年、、、我が法王大王と惠慈法師及び葛城臣と、夷與(いよ)の村に逍遙し、正(まさ)しく~の井を觀て、世の妙(くす)しき驗を歎(たた)ふ、意(おもひ)を敍(の)べ欲(ま)くして、(法王大王は)聊(いささ)か碑文一首を作る、(改行、法王大王の一首主文)惟(おも)ふに、夫れ、日月(ひつき)は上に照りて私せず。~の井は下に出でて給へずといふことなし。萬機(まつりごと)はこの所以(ゆゑ)に妙に應(あた)り、、、(以下、何人に偏ること無い湯浴・薬効を称賛する一首文)、、、(舒明)天皇、、、(斉明)天皇、、、此れを行幸五度と謂ふなり」とある。
この文は「伊予温泉には天皇の行幸が五度あった」とする風土記の引用文であるが、この中で上宮聖徳皇子(聖徳太子)が碑を建てたことが記されている。その碑文の詞書に「法興六年、、、我が法王大王、、、夷與(いよ)の村に逍遙(しょうよう)し、、、~の井(温泉)を觀て、、、歎(たた)ふ、、、碑文一首を作る、、、(以下法王大王の温泉称揚の碑主文)」とある。この法王大王の伊予温泉訪問(碑文作成)と聖徳太子の訪問(碑の建立)は別年であることが読み取れる。
この中の聖徳太子が書く「我が法王大王」は誰か、が問題である。法王大王が逍遥した法興六年(596年)には用明天皇は崩御(587年、用明紀)しているから用明天皇ではない。推古紀に従えば「元年(593年)に厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた」とあるから、伊予碑の「法興六年(596年、3年後)に伊予温泉を逍遥した(聖徳太子の)我が法王大王」は「推古」以外にあり得ない。しかし、この解釈はこの風土記と整合しない。なぜなら、風土記が数える「五度の行幸天皇」の中に推古も用明も出てこないから「推古は伊予温泉に行幸していない」と読める。「推古紀と風土記のどちらが正しいか」、以下で検証する。
まず指摘したいのは、伊予風土記もこの逸文しか残っていないし、文中の「碑」は現存していない。しかし、この「碑文」が歴史学の証拠で最上級の「金石文」に近いことが解る。碑文は上宮大王自身の文、詞書は聖徳太子自身の文であり、「両人の温泉訪問と碑文作成の両方に立ち会った証人が二人いる」ことが記され、余人の手が入り難い状況であること、碑そのものが法興六年(596年)〜聖徳太子薨去(622年)の間に建てられ、その碑は伊予温泉の地震被害(天武紀684年)まで少なくも数十年間は伊予温泉現地に存在したはずであり、地元民・訪問者が証人になり得る史実であることである。文人・好事家・史家の作文でない「金石文」といってよい。また、万葉集編纂の立場から引用された注釈であることは、政治的偏りの少ない文としてよい。
では「用明でも推古でもない法王大王」とは誰か。この時代の王権は三つあり、大王クラスは三人、大和推古天皇(大王)・倭国王(天王、雄略紀四年条)・上宮王家上宮大王が居た( 根拠は「三年号の並存」) 。推古天皇が伊予温泉に行幸していれば、引用の風土記が無視するはずは無いが記していないから「我が法王大王」は推古ではないだろう。「倭国王」が行幸した可能性は十分あるが、風土記は日本書紀の「倭国不記載」に合わせて修正されているから、それで消された可能性はある。しかしもし「我が法王大王」が倭国王であり、それが理由で消されたなら「碑文譚」自体も消されたはずである。だからその解釈は取れない。では、法興年号と共に記される法王大王とは誰か。「法隆寺釈迦三尊像光背銘」に「法興三一年、、、上宮法皇、、、法皇登遐(とうか、崩御)す、、、止利(とり)仏師、造る」と記された「上宮法皇」であろう。上宮法皇とは崩御時(法興三一年)の称号だが(光背銘)、法興六年には「上宮法王大王」と呼ばれたのであろう(伊予碑)。更に六年以上前の倭国から独立する前は「上宮王」と呼ばれたようだ(正倉院御物「法華義疏(ほっけぎそ)」写本に「大委国上宮王」の筆者名がある)。 称号は変化するが同一人物であろう、本書では概ね「上宮王」と記す。ちなみに文中では「法王大王」となっているが、史料的に最も確かな光背銘の「上宮法皇」を使うのが正しい、との見方もあろう。上宮法皇には后がいる(光背銘)。だから上宮法皇は推古天皇(女帝)ではない。上宮法皇の崩御は法興三一年(623年)であるから用明天皇ではない(光背銘)。その上宮法皇を上宮聖徳皇子が「我が法王大王」と呼んでいる。「皇子(または太子)」が「我が大王」と言えばそれは父王の可能性が最も高い。ここの「上宮聖徳皇子」(聖徳太子)は上宮法皇の太子・皇太子・継嗣ということになる。
注目すべきは、「伊予温泉に天皇が行幸した回数」を数えているこの文献で、編者は「聖徳太子を天皇並みに数えて一度」とする一方「我が大王」の滞在を行幸に数えていない。これは変だ。「大王」は「行幸」に相応しい一方「太子」に「行幸」は使わない。原風土記では「大王の行幸は五度」とあったものを、「大王→天皇」と書き換えた時点で「上宮王は天皇でない」として「上宮王」をはずし、代わりに不自然だが「聖徳太子を天皇並みに数えて数合わせをした」という可能性がある。その時まで、「大和大王(天皇)と同等の別王権の大王の存在」が公知であったこと、それを聖徳太子が公然と「我が大王」として碑を建立していた時代があったこと、原風土記が「大和大王と別王権大王を同等に数えて居た時代」があったことを示している。倭国滅亡後に倭国王の行幸記事は削られたが、上宮王/聖徳太子行幸記事が残った理由は、上宮王家が推古と同じニニギ系であり(前章)、大臣は共に蘇我馬子であり、非常に近い関係で区別が曖昧だったのであろう。その後、大和天皇行幸だけを数える元明風土記の時代となり、上宮王の代わりに聖徳太子に行幸を使う時代となり(天皇扱い)、そして上宮王とは誰か解らなくなる時代を経て、「上宮王=聖徳太子」の誤解が定着した時代になったと考えられる。
結論として、「聖徳太子は上宮大王の皇太子である」とすることができる。
(本文に戻る)
●注2 大安寺伽藍縁起 (戻る)
上宮王家は上宮大王が在位32年の後崩御したが、太子(上宮聖徳太子)は既に薨去して次の大王が立った。その大王が登場する恐らく現存唯一の文献がある。その大王から田村大王への継承指名のいきさつを示している。下文は「大王」・「天皇」を「天皇」に統一して他王家不記載に合わせている。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳
「飛鳥岡基宮宇天皇(舒明天皇)の未だ極位に登らざる時号して田村皇子という、、、皇子、私に飽波に参りご病状を問う、ここに於いて上宮皇子命(聖徳太子)、田村皇子に謂いて曰く、愛わしきかな、善きかな、汝姪男、自ら来りて我が病を問うや、(中略)、、天皇(第二代上宮大王)、臨崩の日に田村皇子を召して遺詔す、朕病篤し、今汝極位に登れ、宝位を授け上宮皇子と朕の羆凝(くまごり)寺(のちの百済大寺)を譲る、仍りて天皇位に即く(第三代上宮大王)、、、百済川の側に、、、九重塔を建つ、号して百済大寺(のちの大安寺)という」
この前半には「上宮皇子(聖徳太子)が田村皇子(のちの舒明天皇)を姪男と呼んだ」とある。田村皇子を夫とするのは宝皇女(のちの皇極天皇)である。後半に登場する天皇(大王)「朕」は上宮皇子と寺を共有する天皇(大王)、文脈から「上宮皇子の薨去(622年)、上宮大王の崩御(623年)の後を継いだ上宮王家天皇(第二代大王)」である(聖徳太子の弟、恐らく殖栗(えぐり)皇子、用明紀)。推古天皇ではない。その天皇(大王)が臨崩に際し田村皇子を次代天皇(第三代大王)に指名した、とある。参照「物部氏と蘇我氏と上宮王家」佃収 星雲社 2004年
(戻る)
●注3 舒明天皇 (戻る)
前注「大安寺伽藍縁起」には「田村皇子(のちの舒明天皇)が病気の上宮皇子命(聖徳太子)を見舞っている」とある。聖徳太子薨去(622年)の数年前のことであろう。太子の薨去を受けて即位した第二代上宮大王(殖栗(えぐり)大王、聖徳太子の弟、用明紀)の臨崩の日に田村皇子は譲位されている(第三代上宮大王)。恐らく、推古崩御(628年)の数年前であろう。
田村皇子を夫とするのは宝皇女(のちの舒明皇后・皇極天皇)だ。記紀から「舒明の皇后は聖徳太子の姪」とは読み取れないが、この史料は仔細な状況描写から捏造とは思われず、年代修正系図(下図)に綺麗に整合する。「修正系図の正しさ」・「記紀の改変」を傍証する価値がある。
@上宮大王はA聖徳太子の父、記紀は用明天皇としますが(B)、正しくはCです。
Dは間人皇后は正しい ■は大娘姫王 ■は山背(やましろ)大兄皇子 です。
(戻る)
●注4 田村大王 (戻る)
D穴穂部間人皇后 ■上宮大娘姫王 ■山背(やましろ)大兄皇子
上宮王家と大和王家の融合
(戻る)
●注5 宝大王 (戻る)
推古崩御の後、舒明即位前に田村皇子と山背(やましろ)大兄皇子の次代天皇候補者争いが延々と語られている(舒明即位前紀)。
しかし、聖徳太子に関する系譜改変を正すと、山背皇子(下図で■)には大和王権継承権がないから、田村皇子と大和天皇位継承を争うはずが無い。推古の継承者が田村皇子に決まると、田村大王は譲位し、その大王位継承を山背皇子と宝皇后が争ったのだ。この争いに山背は敗れたとありますから(舒明紀)、宝皇后が田村大王の譲位を受けて宝大王に即位した、と解釈するのが妥当だ。
この時、「山背大兄皇子は、叔父(蘇我蝦夷)の病気見舞いに京の豊浦寺に居た」(舒明即位前紀)とある。この「京」は山背の属する上宮王家の「京」のはずであり、蝦夷がいた豊浦寺はこの頃は豊前豊浦である。要するに、上宮王家は豊前に「京」を持っていたのである。豊前の京を持っていた景行(豊前ニニギ系)と同系の可能性がある。
豊浦は馬子が推古から交換で得た豊前豊浦港付近、推古は大和葛城の一部を得た)である。(仁徳紀十二年に仁徳は河内で治水事業をしているが、十四年に「豊浦」・「京」がでて、くる。豊前の「京」であろう)。
応神天皇が豊前難波大隅宮で崩じ、その直後の仁徳即位元年条の難波高津宮は摂津難波でなく、豊国難波である。仁徳記の歌に「なにはのさきよ、いでたちて、わがくにみれば」とある。難波の岬が自領を国見するに適していることは、企救半島の東西に自領があったからであろう。西側に(古)吉備の国や諸島があり、東側(周防灘側)に難波の宮があった、とするのが妥当な解釈であろう。
上宮王家の系譜
この大王位を宝大王は皇極天皇即位後も手離していません。その根拠は、皇極紀に「百済寺の大増築した」とあります(皇極紀元年)。百済寺は聖徳太子ゆかりの上宮王権官寺(大寺)ですから、宝大王としての増築記事です。この造営に大和王権諸国の人夫を使ったらしく、二王権を混同しています。事実上の二王権合体です。
(戻る)
●注6 豊前ニニギ系王族の変遷 より詳細に (戻る)
豊前関門域のニニギ王族の変遷を見直します。
(1) 神武東征に際して神武が関門域に残したニニギ王族は「崇神」を送り「景行」を送り、景行の西征を成功させて「豊前大王」になったことを検証しました。
(2) 景行の西征により日向国を奪還した豊前ニニギ王は九州東半を領とする大王となり、西半を統一したホアカリ王と共に台与系倭国を再統一して新倭国王となったと考えられます(ホアカリ系倭国・ニニギ系豊国・ニニギ系大和国の三大王による連合倭国)。
ただし、統一完成は次項(3) です。
(3) 仲哀/神功の協力で熊襲掃討を完了した倭国は半島征戦に乗り出し、これに大和主導の東国軍(日本軍)が参戦し、この日本軍を主導したのが「神功/武内宿禰」・「応神(豊国ニニギ王族)/武内宿禰」・「応神(豊国大王兼大和天皇)/仁徳(大和天皇)」と続く三代40年の大事業でした(記紀は神功記紀一年に凝縮して記していますが)。
この(日本軍の)主導者は大和系から豊国系に(徐々に)変化しています。この変化の背景に「征戦の成功と共に大和渡来系の台頭(神功系・国内新羅系)と内輪もめ(仲哀系内・仲哀系vs崇神系)、これを嫌う豊国ニニギ系の牽制・主導権争い(応神の武内宿禰追放)があり、これをホアカリ系倭国が支援した(半島権益の配分調整)」と筆者は推測しました(筆者初著114〜131ページで指摘)。
(4) 半島征戦は新羅から王族人質とそれなりの権益を得て完了し、仁徳天皇は豊国から河内に遷都して大和を支配しました(大和王権における豊国ニニギ系の主導権回復)。
一方、残った豊国ニニギ国は半島征戦の終了で影響力を失い(海運・兵站・軍事指導力)、数十年で大王位を失い、倭国に吸収され、「倭国内ニニギ系王族、豊前国王家」として存続したようです(倭国内仏教論争に中臣氏が関与)。
ただし、倭国内では倭国王家(ホアカリ系)に続く高い家格(大王位を出せる家格)の王族(ニニギ系豊国王、関門域を管理する祭事王)として存続したと考えられます。
(5) 応神から100年余、武烈で血脈が絶えた時は、「倭国内ニニギ王族」の「応神五世孫、継体」が大和天皇(大王)として送り込まれた、と考えられます。主導したのは倭国でしょう(継体推戴を主導した物部麁鹿火・大伴金村は仁徳に臣従した九州系)。
(6) 継体から100年弱、この「倭国内ニニギ系王族」の上宮王が独立に立ち上がったのです。
上宮王が蘇我馬子の支持を得たことで、名目上の大王(諸国王)となれる可能性が出たこと
上宮王は大王を称せる家格であったこと、即ちニニギ系豊前王であったこと、
物部守屋・蘇我馬子の争いで大和王統が乱れたこと(崇峻の弑・用明の短命)、
推古の継嗣竹田皇子が夭折して(593年)、後継大和天皇に(他王家ながら上宮王の継嗣)聖徳太子を送り込める可能性があったこと、
など条件がそろったから、と考えられます。
上宮王は591年に倭国から独立して上宮大王を称し、法興年号を建てました。
(7) 上宮大王は積極的に大和王権と近づき、推古と共同誓願寺(元興寺)を建てたり、大和皇子(田村皇子)を上宮王孫(宝皇女)の夫に迎え入れたりしました。推古の後継に聖徳太子を送り込むこと、上宮王家と大和王家の合体も視野に入れたようです。
(8) ところが、推古天皇が長寿を保ったこと、 聖徳太子・上宮大王が続けて歿したため、上宮王家から大和に天皇を送り込む機会が先送りになりました。
しかし、上宮大王の子孫は大王の遺志を継ぎ、豊前ニニギ王家の役割、即ち大和王権の再興を模索し続けたのです。豊前ニニギ系(大王家)と大和ニニギ系が協力して「蘇我氏の打倒」「ホアカリ系倭国に対抗できる勢力となる」という共通目標もあったからでしょう。
その為に、中大兄皇子が皇太子の立場(表立たない裏戦略)を利用して「理念(上宮王由来)と力(鎌足謀略)」で体制を着々構築した、と評価できます。
神武の遺志をついだ豊前ニニギ王家は応神(四陣)を、継体(第五陣)を大和天皇に送り込みました。
舒明はその様にして大和王権に送り込まれた大和天皇第六陣、と解釈することが可能です。
皇極は第七陣・孝徳は第八陣・斉明は第九陣と解釈してみると、極めて落ち着きの良い解釈です。
そうであれば、二王権は「蘇我氏排除と大和王権の立て直し」で合意と協力をした、と考えられます。
その間、ホアカリ王権は「ニニギ二王権のことはお前たちに任せる、唐といずれ戦うから、強固な一体的体制を造り、東国(日本)をまとめ切って協力しろ」という立場であったと考える(唐はその協力を断ち切るべく「遠交近攻策」を連発した、第 19 話参照 )。
三王権から二王権へ(ニニギ系合体)、そして一王権へ(倭国滅亡)
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●注7 上宮大王は豊前大王 幾つかの傍証 (戻る)
(1) 注5で検証したように、「山背(やましろ)大兄皇子が蘇我蝦夷に会うために京の豊浦(とゆら)寺に滞在した」(舒明即位前紀)とある。聖徳太子の継嗣山背は上宮王家である。また、蝦夷は「豊浦大臣」とも呼ばれ、馬子が推古から交換で得た豊浦港を使って、盛んに大和で勢力拡大に努めた。豊浦港は豊前の可能性が高い。従って、「京の豊浦」とは「豊前の京」を意味する可能性がある。
「上宮王家は豊前に京をもっていた」ということは、「豊前に京をもっていた景行時代の豊前ニニギ系王族と同族」の可能性がある。
「豊浦と京」は仁徳紀にもある(豊浦の近くの京で大道を造成していた(仁徳紀十四年)。従って「上宮王家は仁徳(豊国ニニギ系王族)と同族」の可能性がある。
(2) 皇極紀の「京」
皇極紀四年(645年)注<旧本に云ふ、是の歳、京を難波に移す、而して板蓋宮が墟と為る兆(きざし)也。 〉
この年「乙巳の変」があり、孝徳新天皇は都を難波に移しました。それまでの宮である肥前飛鳥板葺宮(または自領豊前)を「京」と称していたことが解ります。この「京」は建前上は「大和王権の京」ですが、皇極は二王権を兼ねていたので、「上宮王家の京が豊前にあった可能性もある」と言えます。
(3) 白雉四年653年「太子奏請して曰く、倭京(やまとのみやこ)に遷らんと欲すと、天皇許さず、皇太子皇太子祖母尊を奉じて間人皇后、ならびに皇太子弟等を率いて倭(やまと)飛鳥河辺仮宮に行きて居す、公卿大夫百官人ら皆従い遷る」とある。
孝徳紀には「大化の改新」がらみで既に十回程「京」が出ている。この「京」が「難波の宮」を指すことは明らかだ。それに対して、皇太子が「京を(難波から)やまとに遷そう」ではなく、「やまとの京に遷ろう」と提案した、とある。既にやまとに(難波とは別の)「京」があった、と解釈できる。二つの「京」は「二つの王権」を意味する。二つ目は「大和王権の京」で、推古の「大和の京」(推古紀二一年条)の復活だろう。「仮宮」だから皇太子は直前に「大王の専権事項である京」を勝手に豊前(現香春町勾金)か現みやこ町か不明、どちらの可能性もある)から大和に遷したのです。難波の京を遷したのではない。
この項は複雑な背景を含み又の機会にしますが、この頃の「二つの王権」が融合から離反へ揺れ戻した時期と思われ、「孝徳と中大兄の離反(上述)」「孝徳の継嗣有馬皇子の謀反(反中大兄)と誅殺」(孝徳崩御後)につながる。皇極上皇は中大兄皇太子側についた。
(4) 皇極四年645年正月「注<旧本に云う、この歳、京を難波に移す、而して板蓋宮(肥前)の宮の(廃)墟と為る兆しなり>」とある。 「遷す」でなく「移す」とあるのは「大和王権の京でなく、別王権の(上宮王権の)京(現福岡県みやこ町か)だから」とも解釈できる。
前項(後半)とも絡むが、「孝徳の難波京」に対して「皇極上皇・中大兄が残った豊前の副都京」が(廃)墟にならずに保たれたことで(中大兄/鎌足の謀略で蘇我支族鎮圧成功)、対立が始まったようだ。のちに皇極上皇が難波京にのりこみ、あげくに難波京をすてて、倭(やまと)の京に遷っている。孝徳崩御ののちに、豊前京に遷る気があったようだ。
(5) 伊予風土記逸文(上述注1)によれば、伊予温泉(古伊予二名島=豊前彦島)を訪れている天皇は「景行・仲哀・聖徳太子(上宮大王と共に)・舒明・斉明」という。いずれも豊前(古)伊予二名島に強い愛着を持っている。筑紫日向(豊前門司・彦島域)がニニギの天降り聖地だからであろう。「豊前ニニギの後裔」の自認からであろう。
これも「上宮王家(上宮大王・聖徳太子・舒明(田村大王)・斉明(宝大王)が豊前ニニギの後裔」の傍証である。
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第36話 注 了
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