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第 41 話 小説 摂政聖徳太子の誕生
ある日、元明天皇 注1、は右大臣の藤原不比等を呼んだ。
「不比等よ、聞くところによると日本書紀の草稿に我が祖 上宮大王 の事が記されていないというが本当か?」
「陛下、申し訳ありませんがその通りでございます。
ご承知の通り、初回日本国遣唐使(702年、粟田真人)は唐から『倭国と日本国は同じ国か別の国か、同じ国なら倭国と同じく敵だ(白村江戦のこと)。別の国と言うならその国史を提出せよ』と厳しく査問されました(旧唐書)。
それに答える為、そして『滅んだ倭国に代わって新たな日本国を列島宗主と認めてもらう為の国史』ですから、今や滅んだ倭国は記しません。また、今や合体した上宮王権も明記する訳にはいかないのです。『現在、日本の王権は神武以来の大和王権唯一つ』で草稿しております。ですから、上宮大王様も明記する訳にはいかないのです。
「外交上の問題ならいたしかたない、上宮大王の名を日本国史に記すことは諦めよう。なれど、今の日本の仏教・律令(大宝律令)は大王の政(まつりごと)が基(もとい)ぞ(北朝仏教・北朝律令の導入のこと)。それは必ず記すように、よいな。」と元明天皇。
不比等は「しかと承りました。そのようにいたします。」と平伏した、それによって生ずる諸矛盾・関わる諸難事を瞬時に思い巡らしながらも、、、。
日を措かず舎人(とねり)親王・太安万侶(おおのやすまろ)・稗田阿礼(ひえだのあれい)らを招集した不比等は、元明の「上宮大王の名を出さずとも良いから、大王の政(まつりごと、仏教・律令の導入)を称揚せよ」という要求にどう応えるか、次節以下のように簡潔に指示した。 舎人・安万侶はまだ二十代、阿礼は年長であったがいずれも天武以来の古事記編纂にも携わり、それを再編して日本書紀にまとめつつあったから、素早く理解して作業に散っていった。
● 元明天皇と藤原不比等
不比等指示の要点第一は「言うまでも無いが、陛下は安万侶から古事記の献上を受け、歴史に関心が強く(風土記編纂令など)、特に法隆寺(上宮大王の創建寺、のち大王菩提寺)を九州から斑鳩の地に移築した程に上宮大王を敬愛しているのであるから、今回の要求にはかなり答なければ満足すまい。思い切って掛かれ。」
不比等は触れなかったが、元明天皇は先代文武天皇が夭折した為に「幼い太子首(おびと)皇子(のちの聖武(しょうむ)天皇)が成人するまでの中継ぎ」として不比等が中心となって擁立した文武の母、即ち首皇子の父方の祖母であった。
なぜ擁立に万難を排したかと言えば、首の母は不比等が文武に送り込んだ妃、娘の藤原宮子だからである。即ち不比等は首皇子の母方の祖父である。二人は首の成人・即位で利害を共にする祖父母なのである。藤原家にとっても「天皇家の外戚家」を確実にする道なかばにあった。元明の心に沿うことは大臣としての任務以上の意味があた。そのことは出席者すべてにとって「言わずもがな」の認識であった。
● 記して記さぬ手法
「大王の事績を記しながら大王の名は記さぬ、とするなら誰の事績とするかだが、時代的には推古紀になる。大王を『天皇』と記するあの手を使おうか、、、」と不比等。
舎人は答えて「それは『仏教論争譚』(敏達紀585年)で使ったあの手ですね。『倭国大王が蘇我稲目の仏教導入に反対した』を、『天皇が反対した』、と敏達紀に記しました。読む人は敏達紀ですから敏達天皇と誤読してくれます。識者に『事実は違う、反対したのは倭国大王だ』と指摘されても 『当時二人の大王(おほきみ)が居ましたが、そうは書けないし(倭国不記載方針)、混乱しますので両方『天皇(おほきみ)』に統一しました』 と言い訳できますので嘘(不実記載)ではありません 。その手を今回も推古紀に使ってみます」。
不比等は「それで良い。しかしそれだけでは、『初の女帝である推古天皇が律令の導入を進めた?、それは無いだろう、実際の立役者は大臣蘇我馬子だろう』となって、『乙巳の変』(645年)で滅ぼした蘇我氏の称揚になってしまう。それはできない。推古の身内王族にそれを進めた補佐役がいた、としたいが、、、」
「推古の竹田皇子は夭折していますが、大王の皇太子に厩戸皇子がいます。王家は異なる二人ですが『倭国大連の物部守屋討伐』(崇峻紀587年)で協力していますから、竹田亡き後、厩戸が推古に協力した、とするのは可能です。しかし、厩戸皇子を出すと出自が問われ、父大王を出すことにつながりかねません。」
● 厩戸皇子の系譜改変
「そこだ。その厩戸皇子を竹田皇子の後釜の推古皇太子にすればよい。天皇・大王の系図を変えるのはそれなりに憚(はばか)られるが、厩戸皇子は太子のまま薨去し、その子孫(山背(やましろ)皇子一族)は絶えてしまっているから、誰も文句は言うまい。お前たち、そのあたりの系図の書き換えには慣れているだろう。このところ諸豪族に墓誌を提出させているのは、自画自賛の系図を正してやる為だ、その一環としてやるのだ。」と不比等。
そこで会はお開きとなり、編者達は宿題を抱えて散っていった。
後日編者達の出した案は「厩戸皇子を母后と兄弟皇子を含めて用明天皇の皇后・皇子としてはめ込む」とするものであった 。
下の「上宮大王」系図(大安寺伽藍縁起より)の「上宮大王」を「用明天皇」に変えて用明紀にそっくり入れる案だ(詳しくは注6)。
用明は治世二年で崩御したので立后する間もなく嬪(ひん、庶妃)の石寸名(いしきな)妃しか居らず、皇后位、皇太子位は空位のままであった。そこで「皇后がいた」と改変されても遺族に異論はなかろう。他方、上宮王族としても、上宮大王の名を書紀に出せないならば「上宮大王は用明という別名を持っていた」とされて顕彰されるなら本人も子孫も異存はないだろう、としたのだ。
舎人は更に推古紀の冒頭に「厩戸皇子を皇太子と為す、仍(よ)りて摂政を録(ふさね)、万機を悉(ことごと)く委ねる、用明の皇子なり」を加えることを提案し、認められた。「摂政」を加えることで、「陛下の第一の補佐役は大臣蘇我馬子ではなく、摂政皇太子だ」、として「蘇我称揚」を封じ、「天皇(大王)/厩戸皇太子」の解釈の余地を残しつつ「天皇(推古)/厩戸皇太子」の誤読誘導の舞台を整えたのだ。
● 摂政
「摂政」は漢代からの漢語で、舎人は知っていたが、列島では使われたことがなかった(「摂政神功皇后」については注7)。古事記にも出てこない、このなんとなく律令風の役名を厩戸皇子につけることで、「十七条憲法」など、元来「上宮大王/蘇我馬子が上宮王権領で施行した事績」だったが、蘇我の貢献を消した上で「天皇(推古)/摂政皇太子の事績」へ誤読誘導することが説得性を持つのだ。
● 元明天皇の思い入れ
元明天皇の父である天智天皇は父方は大和王統だが(舒明天皇)、母方は上宮王統だ(宝皇女=上宮大王孫=のちに皇極天皇)。上宮王統はさかのぼれば、ホアカリ(天孫兄)の倭国王家と並んでニニギ(天孫弟)が豊国関門域に立てた「豊国ニニギ王家」が始まりだ。神武が東征した後も関門域に残った一部は倭国王家と対等の王家、その後は長らく倭国内で倭国王家に次ぐ家格として続いた。このニニギ系王族の上宮王が蘇我氏に担がれて倭国から独立し、上宮大王を称したのだ(591年、応神東征以来のニニギ王権の再興)。
上宮大王は最新の北朝仏教を広めようと法隆寺を創建し(594年)、隋から北朝仏教や北朝律令を学ぶべく、一族の小野妹子を推古天皇に推薦して第二回倭国遣隋使(607年)の大和随行使として送り出した。その成果の一部が「十七条憲法」となったのだ。
元明天皇はこのような秀でた祖の上宮大王の事績を日本書紀で称揚するよう求めたのだ。
● 不比等にとっての上宮大王
不比等の父は中臣鎌足(藤原鎌足)、その父中臣弥気(みけ)は上宮大王が倭国から独立した時(591年)に供奉した筆頭大連である(舒明紀)。その主従関係は「ニニギに供奉天降りした五部神筆頭のアマノコヤネ(子孫が賜姓中臣)」にさかのぼる。ニニギの子孫神武が九州に残した一族の子孫王族は崇神系・景行系を送り出して一時は東九州で大王を称したが(第36話)、その後九州を統一したホアカリ系倭国内王族(上宮王家、祭事系)として格式高い王族として存続した。歴史に再登場したのが上述した「倭国から独立した上宮大王(591年)と、それに供奉した中臣弥気」である(第36話)。その意味で、上宮大王は不比等にとっても「主筋の中興の祖」である。「元明天皇と共に上宮大王の業績を称揚すべき立場」のはずであった。
● 書紀の「倭国不記載」「上宮大王家不記載」は不比等の決断
しかし、日本書紀編纂を主導した不比等は既述した通り「日本国初の遣唐使(702年)」の持ち帰った唐の反応に苦慮していた。
唐は倭国を白村江で破り、九州進駐を果たし、撤退時には倭国王族を根こそぎ拉致し、宝物・史書などを収奪して倭国を滅亡させた。 大和は遠方故に蹂躙を免れた。
戦前の唐は「倭国の対等外交方針固執」に怒り、日本(東方諸国)の孝徳・斉明・天智に裏外交・密使・密書を送り倭国から離反するよう分断を図った(遠交近攻策、第19話)。しかし、日本は結局白村江戦に及び腰ながらも参戦し、しかも倭国滅亡後の天武が「倭国を継承した」としたので、唐は天武天皇も「唐の罰を逃れて近畿に隠れている」と敵視していた(祢軍(でいぐん)墓誌)。
そこで持統・文武は夫天武の反唐路線から父天智の親唐路線に転換し、倭国と別の国「日本国」を建国し(701年)、遣唐使(702年)を派遣して朝貢外交を申請した。しかし、文武は天武の孫だから、唐は容易に信用せず、遣唐使に対して「日本国は倭国とは別の国」を厳しく査問したのだった(旧唐書)。
そこで持統/不比等らは日本書紀を「倭国不記載」「倭国王族であった上宮大王家不記載」とすることで朝貢外交を実現しようとしていたのである。
● 不比等にとっての「上宮王家不記載」
不比等にとって「主筋である上宮大王の不記載」は「その主臣である中臣家の不記載」を意味し、自己否定を意味する。しかし、不比等にとって「国史編纂」は「自家の系譜・称揚に優先する大事」であり「対唐戦回避・朝貢外交達成・国内統一引き締めの一手段」に過ぎなかった。
ただ、不比等にはもう一つ隠された問題意識があったと筆者は推測する。それは、不比等の主筋は長年倭国内(ニニギ系)王族であり、中臣家もその下で神祇司として続いた家だった。倭国滅亡前に倭国を見限って紆余曲折あって大和王権と合体したにせよ、大和王権の中では新参者であり、国史の中でどう位置付けするかは難しい問題であったが、それは別問題。
● 日本書紀は「法隆寺不記載」
以上の案を元明天皇に説明し、了承を受けた不比等は最後に確認した。「陛下、元興寺(明日香村、のち飛鳥寺)は推古天皇と大王様の共同誓願寺(推古紀605年)ですから、これも『天皇と皇太子の寺』として、「大王或いは推古の寺」と両様に読めるように記しましたが、法隆寺についてはいかがでしょうか」
「不比等よ、法隆寺については一切記さなくてよい。」と意外な元明の言葉。
「なぜなら、法隆寺は大王の創建になり、大王崩御ののちは大王菩提寺となったのじゃ。推古も馬子も厩戸も直接は関わっていない。大王の名を国史に出さないなら、法隆寺そのものを国史に記すな。記せば他の誰かの称揚となってしまう。厩戸の称揚としたくない。なぜなら、余は上宮大王の子孫であるが、厩戸の子孫ではない(厩戸の弟の子孫)。
厩戸の子孫が焼失した斑鳩寺を再建しないから、代りにその父大王の菩提寺を移築するのはふさわしいだろう、と消失の跡地を譲って貰って法隆寺を九州から斑鳩に移築したのだ。あんなに相応しい大王の顕彰寺は他に無い。国史より効果があろう。主仏の光背銘に『上宮法皇』と書いてある、あれを消すなよ。」
さすが歴史に造詣深い天皇である、理に適っている、と不比等は感じ入った。そんな訳で、日本紀には法隆寺が創建も菩提寺化も移築もなにも記さないことになった(詳しくはこちら注8。
● 後日談
日本書紀は720年に公定された。もちろん「天皇と聖徳太子の十七条憲法」も「天皇と皇太子の元興寺」も記述されている。しかし「法隆寺」については一切記述されていない。
● その後の法隆寺 「第三期 合祀寺」
法隆寺の第一期は「上宮大王の仏法興隆の寺」、第二期は「上宮大王の菩提寺」と上述した。その菩提寺を元明が大和に移築したが、 日本書紀も皇室も法隆寺に関して口を閉ざし続けた結果、「斑鳩にあるのだから法隆寺は厩戸皇子の斑鳩寺」という庶民の誤解は否定されないまま、次第に定説化された。
これに影響されたか、これを定着させる変化があった。奈良時代に入ると法隆寺に「救世観音像(聖徳太子等身)を祀る夢殿」が献納され、法隆寺は「釈迦三尊像(上宮法皇等身、光背銘)を主仏とする金堂」に加え、聖徳太子も祀る「合祀寺」となったのだ。
献納したのは光明皇后だ(上宮大王五世孫でもある聖武天皇の皇后、上宮王と共に倭国から独立した中臣彌氣(みけ)の曽孫)。この頃聖武天皇は「上宮王権官寺の百済大寺(聖徳太子創建の熊凝(くまごり)寺に由来する)」を肥前から平城京に移して上宮王権称揚に気を使っている(のちの「大安寺」)。二人は法隆寺と斑鳩寺の由来と違いをを知っていてそうしているのだから、意識的な「法隆寺の合祀寺への変化」なのである。これを第三期としよう。
● 法隆寺は聖徳太子の寺(第四期) 定説の由縁
平安時代に入ると、「法隆寺は聖徳太子の建てた寺」、「斑鳩寺の別名」とされ、「主仏等身の上宮法皇=聖徳太子」とされて今日に至っている。「合祀寺」などの認識も無くなくなった。
なぜか、それは日本書紀の和読が普及し、倭国も「やまと)と振り仮名され、上宮王権も不記載のまま忘却の中に消えて行ったからだ。それに法隆寺の僧達による「聖徳太子称揚の情報戦術」があったことは否定できない。
しかし、筆者は「第三期・第四期の解釈は間違いだ」と主張するものではない。なぜなら、書紀・皇室の沈黙にはそれなりの背景があり、合祀寺となったからには、もはや「聖徳太子の寺」もあながち間違いでもないからだ。そしてそれが千年信じられてきたのも大切な史実だからだ。
「上宮大王父子が融合して尊崇されるなら、それも上宮大王称揚の一つの形」、、、と、地下の元明天皇も苦笑いしていることだろう。
第41話 了
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以下、 第40話 注
●注0 日本書紀以前の「聖徳太子情報」 (本文に戻る)
(1) 伊予風土記逸文 ここに「上宮聖徳太子が法興年間に推古天皇でないある大王を『我が大王法王』と呼んでいる」とある。だから「聖徳太子は次項(2)の『上宮法皇』の皇太子」であって、「推古の皇太子ではない」と解る。
(2) 法隆寺金堂主仏釈迦三尊像光背銘 この碑文に「上宮法皇」「法興年号」がでて来るが、「聖徳太子の情報が無い」、これが情報である。
(3) 大安寺伽藍縁起 大安寺の元は聖徳太子創建の熊凝(くまごり)寺である。聖徳太子が太子のまま薨去したのと、その翌年上宮大王が崩御したので、熊凝寺と法隆寺を受け継いだ第二代上宮大王は王権官寺を法隆寺から熊凝寺で代え、法隆寺を官寺から上宮大王菩提寺に衣替えした。第三代大王位と熊凝寺を受け継いだ田村皇子(宝皇女(聖徳太子の姪(弟の娘))の婿)は官寺熊凝寺を肥前に移築して百済大寺(官寺)とした。それらがこの文献から読み取れる。
(本文に戻る)
●注1 元明天皇 (本文に戻る)
第 43代天皇、707年〜、女帝、天智皇女にして前代の文武天皇の母。文武崩御に伴って、孫の首皇子(のちの聖武天皇)の成人・即位までの中継ぎとして即位(不比等の推挙)。
父天智の母(皇極)の祖父が元倭国王族「上宮王」(正倉院御物に「大委国上宮王」の記載あり)だったが独立して上宮王権を再興して上宮大王を称し、法興年号を建てた。従って、元明にとって「上宮大王は父(天智)の母(皇極)方の祖」である。
(本文に戻る)
●注2 我が祖上宮大王 (戻る)
正しくは父(天智)の母(皇極)方の祖(祖父)
元明天皇(下図下端みどり)の父(天智薄青)、その母(皇極ピンク)、その祖父(上宮大王 左上@
(戻る)
●注3 北朝仏教・北朝律令の導入 (戻る)
北朝仏教・北朝律令は北魏・隋・唐のそれを指し、その先進性から隋・唐の隆盛を支えてきた。これらを導入した百済を介して列島では倭国の非主流派が導入に熱心であった。主流派(倭国王・倭国物部氏)は宋に朝貢してきたから南朝系に拘ったからだ。
その意味で、倭国王族系では非主流のニニギ系上宮王、豪族系では非主流の蘇我氏が導入によって主流派を凌駕しようとした。
(戻る)
●注4 法隆寺の移築 (戻る)
法隆寺は「第一期、仏法興隆の寺」として上宮大王により肥前飛鳥に創建され(594年)、大王が崩御すると「第二期、大王菩提寺」として豊前京付近(大王家本拠)に移築され(620年代、筆者推定)、元明天皇がこれを斑鳩に移築したのが708年(後述)。「第三期は法隆寺が大王と子の聖徳太子の合祀寺とされた以降」である。聖武天皇の光明皇后が法隆寺に「救世観音像(聖徳太子等身)を祀る夢殿」を献納したことで、法隆寺は二人を祀る「合祀寺」となったのである。詳しくは第33話。
(1) 法隆寺が肥前から現在の奈良斑鳩に移築されたのは708年と考えられる(七大寺年表に「708年、詔に依り太宰府観世音寺を造る、又法隆寺を作る」とある)。移築の理由は斑鳩の若草伽藍の焼失であろう(若草伽藍発掘調査)。「斑鳩寺に火災」(天智紀669年)・「法隆寺に火災、一屋も余す無し」(天智紀670年)とある。670年の火事は法隆寺ではなく、これも斑鳩寺であろう。斑鳩寺は669年に小火災をおこし、670年に全焼したのであろう。斑鳩寺が焼失したので、その焼失跡(実際は少し離れている)に法隆寺が移築されたと考えられる(708年、「造る」でなく「作る」と七大寺年表にある)。その理由は二つの寺は隣合わせながら方角が20度ずれていて、並存したとは考えられない。方角を南北正して法隆寺が移築された後、斑鳩寺の記憶は法隆寺の前史として記憶され、670年の記事のように「法隆寺の焼失」と記録されたが焼失したのは斑鳩寺であろう。呼称が違うのは出典が違うからであろう。従って現存の法隆寺には火事の跡も無いし、594年伐採の五重塔心柱も現存している。
(2) 斑鳩寺は聖徳太子の寺だが、その焼失跡に移築する寺としては聖徳太子の父である上宮法皇ゆかりの法隆寺が最適である。当時、九州肥前の法隆寺は寂れていたと考えられる。その根拠は法隆寺伽藍縁起并流記資財帳に「食封三百戸、、、己卯年(679年)停止」とある。唐軍撤退・傀儡倭国消滅の混乱期である。
(3) 708年に「法隆寺移築の詔書」を出した元明天皇と上宮王は次のようにつながっている。
上宮王―聖徳太子の弟(上宮王家天皇)―斉明天皇(上宮王孫)―天智天皇―元明天皇
上宮王は元明天皇の先祖である。元明天皇が先祖の顕彰寺である肥前の法隆寺を大和斑鳩へ移築させた理由は十分ある。元明天皇は「古事記」撰録、「風土記」の編纂を命じている。歴史に関心が強い。
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●注5 二人の大王(おほきみ) (戻る)
倭国大王を記す時は、天王(おおきみ、公式自称)・大王(おおきみ、海外向け)・大君(おおきみ、常用)が使われ、一方大和天皇は大王(おおきみ、公式自称)・大君(おおきみ、常用)、まれに海外では天皇(おおきみ)が使われていた。
日本紀/日本書紀は「倭国不記載・倭国大王不記載」の方針だが、まれに倭国大王と大和天皇が両方登場する場面などで、記すことが避けられない場合に、両方を「天皇」と記している箇所が数か所ある。奈良時代以降の読者には「二天皇並立」の観念は全く失われていたから、「敏達紀に『天皇』とあれば敏達天皇、推古紀に『天皇』とあれば推古天皇」と誤読してくれる。まれに識者に「間違いでは?」と指摘されても、本文のように言い逃れができる工夫がされている。 第23話「三人のおほきみ」参照。
(戻る)
●注6 用明紀の改変 (戻る)
下の「上宮大王」系図(大安寺伽藍縁起より)の「上宮大王」を「用明天皇」に変えて用明紀にそっくり入れられた。
上宮大王と聖徳太子の関係は伊予風土記逸文の中に「上宮聖徳皇子(聖徳太子)が碑を建てた、その碑文の詞書に「法興六年、、、我が法王大王、、、夷與(いよ)の村に逍遙(し、、、~の井(温泉)を觀て、、、歎(たた)ふ、、、碑文一首を作る、、、(以下法王大王の温泉称揚の碑主文)」とある。この文献の検証から「法興年号を使う法王大王とは法隆寺主仏光背銘にある上宮法皇と同一人物、それが聖徳太子の大王、即ち聖徳太子の父王」と検証できる。
その聖徳太子が田村皇子(のちの舒明天皇)を「我が姪男(姪の夫)」と呼んでいるから「舒明の皇后(宝皇女)は聖徳太子の姪」と解る(大安寺伽藍縁起)。
その田村皇子が臨崩の大王から「聖徳太子から受け継いだ熊凝(くまごり)寺と共に宝位(大王位)を譲位された」(同)とあるから、下図が導出される。
この数年後、田村大王は大王位を宝皇女(后)に譲位して「推古から天皇位を継承して舒明天皇に即位した」(舒明紀)となる。その根拠は「山背(やましろ)大兄皇子の王位争奪譚」(舒明紀)である。山背(やましろ)大兄皇子は聖徳太子の子、上宮大王のの孫で大和天皇継承権は無いが、上宮大王位の継承権はある。その王位継承争奪譚で勝っていないから、田村大王から上宮大王位を継承したのは宝皇女」が導出されるのである。
日本書紀では上図「上宮大王」を「用明天皇」と改変して用明紀に入れられている。
(戻る)
●注7 摂政神功皇后 (戻る)
書紀で「摂政」初出は神功紀である。しかし、この役職は大宝律令ですら定められておらず、正式には無かったであろう。古事記に神功記は無い。
書紀では神功皇后紀が立てられ摂政となっているが、これは書紀編纂過程でも「摂政厩戸皇子」設定(前話)の後であろう。なぜなら、前話の用明紀の「摂政」ではなく、また用字が定まらず(写本によって違う)など、初使用の感があるが、神功紀本文では「群臣皇后を尊びて皇太后と曰ふ、、、則ち摂政元年と為す」と一行でて来るだけであるが、後世の使い慣れ感がある。
これは「摂政厩戸皇子」で初めて「摂政」を使った元明天皇と不比等が共に「神功皇后紀を立てたい」と思ったと考えられる。次話で提案したい。
(戻る)
●注8 記紀の法隆寺不記載 (戻る)
日本書紀に「法隆寺に火災、一屋も余す無し」(天智紀670年)とあるが、全焼したのは法隆寺ではなく若草伽藍(=聖徳太子の斑鳩寺)であることが発掘調査から判明している。この記事は「日本書紀の唯一の法隆寺関連記事」だが、これが斑鳩寺全焼の記事だとすると、日本書紀は法隆寺について創建も菩提寺化も移築も何の記述も無いことになる。
その理由は、法隆寺が「上宮王権官寺」であり、その後は「上宮法皇菩提寺」だったから「他王権不記載方針」の日本書紀は不記載としたのだ。この「書紀の法隆寺不記載」の事実こそ、「法隆寺は他王権の寺、他王権大王の菩提寺」という筆者解釈を立証するものと考える。
(戻る)
第41話 注 了
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